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わたしが濃姫の魅力に取り付かれたのは、ある日突然でした
小説とかゲームとかではなく、本当に突然です
まるでひらめいたかのように、ある日突然濃姫に魅了されました
信長の妻でありながら歴史の表舞台に一切登場しない濃姫・帰蝶とはどんな女性なのか色々模索した日もありました
創作ものとして今や有名となってしまった『武功夜話』が未だ一級史料として扱われている捏造世界の現代、昔発行された本なんかを見ていると、「生駒後家が信長最愛の女性だった」なんて書かれていると、意味もなく腹が立つのも現実で、じゃぁ、どうして最愛だった女が一度も信長と同居できず、死ぬ間際まで放置され、しかも一生を実家である生駒屋敷で過ごさなくてはならなかったのかと、「生駒後家最愛女性説」を唱える全員に問いたいです
信長配下の名立たる武将の殆どが生駒屋敷に出入りしたとも書かれているそうですが、疑問なのはその頃前田利家は信長から絶縁状を叩きつけられている時期であり、羽柴秀吉も歴史の表舞台に名前を出し始めたのは美濃攻略の後です
信長が美濃を落とした時、後家はとっくに土の中で骨になってます
桶狭間(後家が存命の真っ只中)では、まだ信長の側近にもなっていない時期、どうして一介の足軽が生駒屋敷に出入りできるのか不思議です
その後家の名前も『類』とされるものもあり、諸説紛々
生駒家、その親類である前野家が捏造したとしか考えられません
また、最愛であるはずの生駒後家が生んだとされる信長嫡男の信忠も、後家が生んだかどうかも怪しい限り
と言うのも、後家が生んだ子ならば、何故後家の葬儀の喪主にならなかったのか
何故幼い信雄が喪主になったのか
信忠の生母が不明であることをいいことに、生駒家かあるいは前野家が捏造したのだとしたら納得できます
増してや、愛した女性の実家の扱いがあまりにも報われない結果に終わっています
だって、母親の実家(土田家)に乗っ取られてますもん
最愛の女性が生んだ子に養家(伊勢の北畠)皆殺しと言う残酷なことをさせる理由もわからないです
正直信長にとって生駒は邪魔なだけの存在だったのではないでしょうか
何故邪魔なのかはわかりませんが、少なくとも『後家』と言う女性が邪魔だったのは間違いないと思います
その理由は、その頃の信長の寵愛は他の女性に移っていたのではないだろうかと思えるからです
「信長最愛女性説」は娘を邪険にされた生駒の執念と言うか、恨みつらみのようなものがあり、せめて時の英雄信長に最も近い存在だったことを宣伝したかっただけなのでしょう
そのため利用したのが、斎藤道三娘・帰蝶
ところがその帰蝶についても濃姫についても、確実な史料が何もない
何もないから何とでも書ける
これが真実だと思います
そもそも道三の娘は本当に信長に嫁いだのか
西美濃の名家の娘なのだから、その花嫁道中も派手だったはず
なのに何も残されていません
増してやその頃の信長(父・信秀はまだ存命中)は周囲をぐるりと敵に囲まれた状態
清洲も敵である本家織田が所有している中、帰蝶一行はどうやって清洲を抜け那古野に到着したのか
『信長公記』では「さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟(むこ)に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき」と書かれてありますが、その際周囲は大人しくしていたと取り繕った書き方をしています
周囲を押え付けてまで道三の娘を嫁にもらったのに、その後は全く触れていません
ここでわたしの自論ですが、実際嫁に行ったのは道三の娘ではなく、信秀の娘ではないでしょうか
現代語訳に直せば、概ね「平手政秀の手腕により道三の娘を娶ることになったので尾張に呼び寄せた」となりますが、素直に読めば「平手政秀の働きにより道三を婿とすることができ、(道三が信秀の)娘を尾張から呼び寄せた」と読めます
「織田三郎信長」は、後から付け加えたのではないでしょうか
『信長公記』では信長の傅役(教育係)の平手政秀が信長と濃姫の間を取り持ったと書かれてあるのですが、『武功夜話』では堀田道空が二人の仲人になってます
しかも信長は道空に感謝し、道空の屋敷で能を催すお祭りをしています
それほど喜んだのに(能は当時上流階級の間での大金の掛かるイベントだった)、どうやって濃姫を迎え入れたのかとか、その時の引き出物とか結納の品とか、何も記されていないのも変な話です
そして、道三が娘をバカ男の許に輿入れさせる決断をしたのが、平手政秀が手紙と一緒に送った和歌で、平手の教養の深さに感動して嫁入りさせることにしたと書かれたものもありますが、それでもその後の濃姫の記載がどこにもないのが筋の通らない話なのです
出典がわからないのですが、わたしの覚えに因れば「濃姫との結婚に感謝した信長は自分の異腹妹を道三の側室に送った」らしいので、それが逆だったらどうでしょうか
信秀は道三との婚姻による和睦を模索したが断られ、ならば自分の娘を側室に送って和睦を結んだとすれば?
それなら納得できます
と言うのも、格下である、まだ尾張の一豪族に過ぎない織田に、どうして正妻生まれの娘を嫁に出さなくてはならないのか
増してや信長は「尾張のバカ」で有名な男です
信長の才知を見込むにしてもその材料は全くなく(信長は初陣で村を放火して回った男なんですから)、寧ろ「筋違い」と断られて然るべき立場の織田です
信長はうつけではないと庇う場面も武功夜話でしかなく、この時斉藤家と織田家は信秀娘の婚儀でしか結ばれてない希薄な関係ではなかったのか?
斎藤家と織田家が直接接触するのは平手が切腹した後で、この時信長は父の死去により棚ボタで織田を相続しましたので織田家当主となってます
道三はお気に入りの側室である信長妹の実家の騒動や、単に家臣を切腹にまで追い込む信長が気になって会見を申し出ただけではないでしょうか
こんな家と和睦してる意味があるのか?と疑問に思ったのならともかくとして
この頃には織田の公式記録にも信長の妹が側室に入っている頃でしょうから、その側室から実家のことや兄信長のことも色々聞いているでしょう
で、実際見た信長は思ってたより自分に近い人間であることを知り、道三個人が気に入ったとならばあの遺言書も納得できます
気に入らない義龍に西美濃をくれてやるよりも、気に入った信長にくれてやる方がマシみたいな感じだったのでしょうが、ここで肝心なのがその内容
道三は「西美濃をやる」とは書いておらず、あくまで「西美濃の一部をくれてやる」と書いていあるので、言ってしまえば普通の財産分与に過ぎません
ただの形見分けのつもりだったのが、時を得て後世の人間の勝手な解釈で「自分の跡を信長に継がせたかった」と形が変わってしまっただけではないでしょうか
現に信長に渡したとされる道三の遺言書はありません
「信長にこんな内容の遺言を残したよ」と言うものしか現存していない現実の中、「娘婿である信長に西美濃を託した」と言うのは全くの絵空事でしかないのです
濃姫と言う存在が希薄なのは、1549年ごろにはそのような人物は該当しなかったのではないのか?と言う、わたしの自論です
安土時代まで信長に正妻が居たことを示す記述がないのも、実際信長には愛人は居ても正妻は居なかったのでは?
だから、濃姫「早世説」や濃姫「離縁説」が飛び交ったのではないだろうか
早期の濃姫(帰蝶)そのものが全くの空想の産物だと思います
しかし、濃姫=帰蝶なる女性は確かに居たと思います
ですがそれはずっと後の話
桶狭間前、信長には生駒家の女性が愛人(妾)であり、正妻ではなくそのほかにも側室に該当する女性は何人かいた
生駒家の娘はその中の一人に過ぎなかった
信長に子供ができるのはかなり年を取ってから
この頃の男子は15くらいで子供を作ってないと間に合わない時代なので、信長最初の子の信忠が生まれるのは20を過ぎてからと言うのもおかしな話です
それ以前に原田直政の妹との間に子供ができたという通説もありますが、これも恐らくは原田家の捏造でしょう
原田家のその後も散々ですから
その子が信長の兄の家に婿養子として入ったため「織田姓」を名乗ったのに便乗しただけの与太話だと思います
(主家の名前の名乗りは三宅家の明智左馬介みたいなものでしょう)
言うなれば、舅の信広の『庶長子』と被っただけなのかも知れません
信長に子供ができるのが遅すぎるため、いつの間にか舅の信広の出生と擦違ったか、あるいは故意にだぶらせただけでしょう
もしも舅と同じくして庶長子だったならば、きちんと織田の公式記録にも残っているはずです
信広のことがちゃんと残されているのに、織田を戦国大名家に押し上げた実績のある信長の記念すべき第一子(例え庶子でも)のことが憶測止まりの話である以上、信正が信長の血を引いた子供であるとは考えにくいものです
まぁ、若気の至りで公式には認められていない(信長がまだ正妻をもらっていなかったので)子供は他に大勢居るでしょうが、そんな環境の中で庶子が一人だけとはこじつけにしてもかなり強硬な態度で臨んだものだなぁとある意味感心します
通説にある「奥方(濃姫)の目を盗んでまで通じた原田直政(塙九郎左衛門)の妹に産ませたが、奥方の嫉妬を買い村木家に養子にやった」と言われるくらい、つまり、信長が怒られるのを恐れるくらい、そして生まれた子を他家の養子にできるくらい権限を持っていたほどの妻だったのなら今後も濃姫の記載は到るところで見られるはずですが、それもない
要するに、この頃の信長には妻などいなくて、原田直政の妹に子供を生ませた事実もないということになります
その後、その信正自身が信長に気に入られ、また、信長の兄の娘婿にもなったので織田の姓を名乗ることを許され、織田家所縁の『信』の字も与えられたというのなら、素直に頷けます
しかし、別の文献では『織田』姓ではなく『津田』姓であると言うのも書かれてます
きちんとした記録がないので、これもどうにでも書ける(書いた当人の都合に左右される)ことなのでしょう
信長に嫁いだ頃の濃姫の逸話はどれも他の家でもあるような話ばかりですし
例えば結婚間もない信長が夜な夜な寝所を抜け出してという話も、元を質せば真田信之・小松姫夫妻の逸話と酷似してます(この場合は信之が浮気してた)
そもそも当時は「別居婚」が普通ですので、夫婦が同じ部屋で寝起きするのは江戸時代の下級武士の家だけだと思います
平安貴族がそうであったように、夫は妻の家(実家ではない)、あるいは部屋(寝室)に訪問するのが主流だったと思います
確か江戸時代の将軍家がそんな感じだったと記憶してるのですが、曖昧な記憶なので真剣に受け取らないで下さい(苦笑
一夫一妻で夫婦同居が当然なのはキリスト教伝来以来のことですから、今に伝わる戦国武将夫婦の床事情なんかも全て現代風に勝手に解釈されたものばかりですから、今の価値観と当時の価値観は全く違うものであり、現代に生きるわたし達に理解できるものではないのです(これは事実)
濃姫の逸話が江戸時代に入ってから見受けられるのも、その影響でしょう
そして、道三が嫁ぐ娘に懐剣を渡した話も、史料として価値の乏しいものが出所です
「道三だからこんな話があったに違いない」と言う、これも空想から生まれた産物でしょう
早世説や離縁説が生まれたのは、そもそもが「当時の信長に濃姫なる妻は居なかった」から生まれたものではないでしょうか
ここから先はわたしの自論だけの話しになりますが、信長が美濃を落とした後、多くの美濃所縁の武家の娘が信長の側室になってます
例えば稲葉一徹の娘も信長の側室になり、子供を産んでます
その中にようやく「帰蝶=濃姫」に該当する子女が現れるのではないだろうかと考えました
「帰蝶」に関する事柄といえば、「美濃の姫君」であり、「道三の一族」となれば、考えられるのは『斉藤義龍の娘』です
そもそも義龍に関しては息子の龍興しか残されてませんが、それ以外にも息子や娘が居てもおかしくありません
道三にどれだけの子供が居たのか記録がないので確認するのも難しいですが、道三が作った子供の中で信長に仕えたのは正妻生まれではないかとされている斉藤新五郎だけです
新五郎は通説では濃姫の弟で、濃姫の養子で信長の嫡男信忠の与力になっており、二条城で戦死しています
道三の死後、姉の濃姫を頼って信長に仕えたというのが通説の主流ですが、それ以外にも濃姫を頼って信長に仕えたらしい元道三側近が大勢居るのに、それでも濃姫の記載そのものがないのがどうしても理解できません
濃姫が居たからこそ、信長は有能な美濃武将の多くを抱えることができたと考えるのが自然だからです
ですので、わたしは道三が長良川で息子と戦った当時、信長には斎藤家所縁の妻などいなくて、道三に付いた(そして存命した)美濃武将が信長に下ったのは信長の妹で道三の側室だった女性の縁を頼ったのではないだろうかと言う考えに到りました
側室だったなら織田の公式記録にも残されていないだろうし(正妻だったらお市の方のように記録されてたでしょう)、織田とは全く縁がないというわけでもなく、増してや信長によって滅ぼされたのが斎藤ですから、稲葉山城落城の際、斎藤家の記録の全てを抹殺されていたとしたら何も残されていないと考えてもおかしくはないと思います
今のように側室が正式に認められるようになったのは江戸時代、『大奥』のシステムを作り上げた春日局以降の話です
側室に上げられるのは名誉なことでと言うのもそれ以降の話で、所詮側室は「家を守るために子供を産むためだけの貸し腹」でしかないのです
それ自体、好きでもない男の子供を産むだけのために召抱えられるのですから「これは名誉なことですよ」と口車に乗せるしか納得させる方法はなかったのでしょう
人間と言うのは今も昔も単純な思考構造ですから、上手い話に乗せられただけで、実際は気持ち的に惨めな存在だったのでしょう
兎角女は見栄を張りたがるものなので、自分の立場も考えず虚勢を張ったのが今に伝わり「側室でも主に愛されたらこんな豪華な生活ができる」と思われているだけで、現実としては所詮日陰者の身であることに変わりはなかったと思います
正妻に子供が生まれなかった、あるいは生まれても早世して家を継げなかった場合にだけ側室が生んだ子供が跡取りに採用されたのですから、どう取り繕ったところで『補充要員』でしかないのです
信長の父の記載があまりないので、憶測を聞きかじった程度のことですが、信長の父信秀は好色家でバカほどの側室を持っており、公式記録にも書き残せないほど子供が大勢いたのに、生まれた娘の記録が殆どなく、今に伝わるのが浅井家に嫁いだお市の方と、絶世の美女だったらしい犬姫の二人だけです
それ以外にも娘が居たという記録が一般に広まっていないのは、生まれた男子以外重要視されていなかったのではないでしょうか
そもそも織田家は代々女性に関しての記載が淡白なことで有名ですから、女性軽視も強ち嘘とも言い切れません
稲葉山城に入った信長は義龍の未亡人・近江の方(浅井家の娘)に「壷をよこせ」と強要したそうですが、それが「壷」ではなく「娘」だったのではないでしょうか
織田も「信長が義龍の娘を欲しがった」と残すのはあまりにも恥だったので、「娘」を「壷」と書き換えたのなら、その後生まれたであろう子供へと話が繋がります
この時、出典はわたしにはわかりませんが、「濃姫」なる人物が「壷は兄の形見も同然。それをどうしても欲しいと言うのなら腹を切ります」と兄弟16人、美濃三人衆と共に信長に直訴し、その騒動を「姑」なる人物が治めてくれたのを信長が感謝し礼をしたそうですが、「濃姫」の生母である「小見の方」は「濃姫」が嫁いだ2年後、信秀と同じ年に亡くなっているのです
つまり「濃姫」にはこの当時母親はいません
死んだ母親がどうやってこの騒動を治めたのか
また、信長が美濃を攻めた際、濃姫がそれを賛同した織田家臣にたくさんの鮑をお礼として配ったそうですが、家臣にそこまでできるくらいの立場なら、当然織田の家臣達からも慕われていただろうにその家臣の誰からも濃姫の話は聞きません
そして問題は、早い時期に信長に下っていた道三側近の二人、堀田道空と武田夕庵からも「濃姫」の話しが出ていないことです
増して武田夕庵は信長の右筆です
右筆とは
1 筆をとって文を書くこと。
2 武家の職名。文書・記録の作成をつかさどった。江戸幕府の奥右筆・表右筆など。
3 文筆に長じている者。また一般に、文官。
(by大辞泉)
とあるので、誰よりも(ぶっちゃけ太田牛一より)信長の側に居た人物です
その夕庵から濃姫の足跡を辿ることができていない現実、やはり美濃攻め以前に「濃姫(帰蝶)」なる女性が信長に嫁いだという事実はなかったのではないかと言うことになります
一級史料とある「信長公記」も、平たく言えば「織田の宣伝本」でしかないことを、どれだけの人が自覚しているでしょうか
ただ、他の「宣伝本」に比べ尾ひれが付いている個所が少ないので史料として見られていますが、牛一自身、信長の側近だったわけではありません
桶狭間の戦いに置いては、牛一は帰って来た者に聞いたことを書き残しただけで、牛一自身桶狭間には同行していません
最も天下に近かった今川義元を討ち取ったと言う興奮のあまり、大袈裟に書かれたことが多く、現に信長の他の戦に関する記述が意外と淡白に書かれているのです
例えば初陣の時は「吉良浜では村々を放火して回った」としか書かれていません
祝うべき初陣なのに、随分あっさりしてます
そして、後ろ盾であるはずの道三が戦った長良川の戦いでも牛一は、既に道三を見放した書き方をしています
そして、さも自分が信長の気持ちを代弁しているかのように書いていますが、ここで信長が道三と言う後ろ盾を失ったがばかりに数々の苦難に見舞われています
例えば道三救出に出陣したけど到着前に義龍軍に取り囲まれにっちもさっちも行かなくなったこと、留守の間清洲を岩倉織田に攻め込まれたこと(この時信長に妻が居たら当然清洲の中に残っていたので、どんな騒動が起きたのか克明に書けるはずであるなのに記載が全くない)、その後直ぐ、家臣達が謀叛を起したこと、兄弟である信広・信勝に別々で謀叛を起されたことなど
牛一は「道三を助けても見返りはなく、深入りしてもこちらが損をするだけ。清洲を(岩倉に)取られても、兵はまるまる手元にあるでの命さえあればいつでも取り返すことができる」と書いてますが、城を失った武将の末路が哀れなのは斎藤龍興が身を持って証明しています
味方のない信長が城を失えば、間違いなくもう二度と歴史の表舞台には出て来れないでしょう
牛一の精一杯の強がりを凝縮した「信長公記」に濃姫の記載がないのは、牛一そのものがそれほど信長には近い存在ではなかったことと、濃姫など初めから居なかったことを証明しているに過ぎません
人から聞いた話を書いただけの「信長公記」が何故一級史料なのか、それも謎です
内容はともかく、書かれていること自体「武功夜話」となんら変わりがないことを、そろそろ気付く人が居てもおかしくないと思うのですが、信長のことを本にしたりドラマにしたらお金になるのは事実で、それが元で正しいことが伝わらないのが話が膨張した原因ではないでしょうか
「アンチ信長」が出て来たら、その時になって初めて事実が明らかになるのかなと思ってます
今はまだ信長は「戦国の英雄」でしょうから
牛一の記した『信長公記』は、云わば事が起きた後で興奮冷めやらぬ正常ではない精神状態の中で書かれたものなので、正直、信憑性に欠けると思います
詳しく綴ったのも数少なく、その殆どが聞いただけの話しであって、どこまでが実際目にしたものなのかわからないのが『信長公記』なのです
当然、ちょっとした脚色もあったでしょう
今も人を魅了する『信長公記』の著者なので特別視されるでしょうが、所詮牛一も織田の家臣の一人に過ぎないのですから、側近と言うわけではありません
実際その側近であろう丹羽長秀からも、濃姫の話は聞きません
身内、あるいは家臣の誰からも濃姫の話を聞かないのは、普通におかしいですし、蒲生家の覚書に『信長本妻』の話題が出るのは本能寺の変の頃ですし、それ以前にも他の史料で見受けるのはやはりどれも信長が斎藤家を滅ぼした後です
信長本妻の記述が出て来るのは、信長が美濃を落とした後、安土に城を建てた頃くらいからだと思うのですが、今に伝わる濃姫伝説の全てが義龍の娘・帰蝶ではないかと言うのがわたしの立てた想像です
信長は帰蝶を大変愛していたと思います
それと言うのも、数少ない史料では「濃姫は美濃一の美女だった」と言うのがあるらしく、帰蝶=義龍の娘なら納得できる血筋だからです
帰蝶が義龍の娘なら、祖母は道三を虜にした絶世の美女・深吉野であり、母は美男美女の家系として有名な浅井の出身です
近江の方の父・久政も若い頃は大変な美男子だったらしく、母・阿古(井ノ口の方)も美人だったそうです
二人の間に生まれた子供達の何れも美男美女ばかりなので、隔世遺伝としても帰蝶(あるいは義龍の娘)もたいへんな美人だったことは簡単に想像できます
龍興が平凡な顔に描かれているのは、母親が近江の方ではないからです(苦笑
しかし、それも信長の終焉に近付いていたりするので、やはり記述そのものが少ない頃でしょう
信長と謁見した伝道師ルイス・フロイスが信長本妻のことを「日本史」に残さなかったのは、その頃の信長にはまだ本妻なる存在がいなかったから
つまり、信長は義龍娘を妻にするまではまだ結婚してなかったんじゃないだろうか
「信長本妻」を示すものはなく、それぞれが捏造した物の中にしか登場しないのが現実で、それをしたのが前野家だけなのでやはり「武功~」は単なる捏造物としか認識できません
そもそも「信長公記」にも美濃攻略前に記載がないのですから
これを思い付いたのが「明智軍記」でした
明智軍記の冒頭に「道三は義龍の娘を自分の養女にして信長に嫁がせた」と書かれてあったのがきっかけです
しかし、明智軍記もどこまで本当のことを書いているのか明らかではなく、扱いとしては「武功~」と同じランクか、あるいはそれより下と言うのが相場です
濃姫が信長に嫁いだ年が、古い本だと15歳
新しい物だと13歳になってます
この年齢の開きも謎です
当時は数え年だと言うのは知れていますが、それだと最低でも1歳しか開きはないはずです
そこで思い付いたのが、信長が美濃を落とした時、義龍娘・帰蝶は13歳
その二年後に信長に嫁いだとなれば年齢は15歳、西暦は1569年になってます
つまり、全ての誤りは西暦の間違いではなかろうかと勝手に想像しています

纏めれば
1549年当時、信長には妻はなく、信長の妹が道三の許へ側室として嫁いだ
それが縁で斉藤と和睦を結んだ
その後も信長には本妻はなく、愛人や妾、側室を作り自由奔放な生活をしていた
本妻が居なければ好き勝手にやれるからである
その後、妹を介して同盟を組んでいたはずの道三が引退に追い込まれ、信長も切羽詰っていた
遂に道三が戦死してしまい、後ろ盾がなくなった信長はピンチに追い込まれる
道三の娘が妻だったなら、まだ実家斎藤との結びつきは強いはずであるので、その後も変わらず斎藤家は織田家の後ろ盾となっているはずなのに、斎藤家は織田本家(岩倉)と手を組んだり、信長の庶兄と手を組んでいる
妻の居ない信長は、とりあえず生まれた子・信忠を嫡男にして織田を纏めようとした
(丁度弟が謀叛を起した頃)
義龍の没後、数年経ってからようやく西美濃を手に入れた
その際、義龍の娘・帰蝶を見初め、欲しがったが周囲から反対され、斎藤家からも拒否された
信長に嫁ぐのを嫌がった帰蝶を説得した母(近江の方)に対し、信長は「姑殿に感謝した」
帰蝶は一旦、道三が残した館である鷺山に移った
それは、まだ結婚していない男女が同じところで住むのを当時の風習で憚られたからである
(この時の信長は稲葉山城に移っている)
なので、生駒後家が一生を生駒屋敷で過ごしたのは、信長の側室でもなく単なる愛人に過ぎなかったため清洲では暮らせなかったことも証明している
(側室だったら呼び寄せることぐらいはしているが、信雄は生駒屋敷で生まれている)
信長はせっせと帰蝶の許に通い、一生懸命口説いてようやく合体できた
子供が生まれたのは信長が帰蝶を見初めた翌年の1568年
これが信長が唯一可愛がったと言う信房(一般には勝長の名前で有名)
当時、出産は命懸けの大仕事だったので、帰蝶を京都の名医に診せようと信長は上洛の際同行させた(増してや帰蝶にとっては初産になる)が、初めての長旅に帰蝶は予定より早く破水してしまい、寄宿していた京都の寺で出産してしまった
これが寺の覚書として残される「信長御台、思わぬ出産」と繋がる
寺の人間には「何れ自分の妻になる女」と言ってあるので、誰もが帰蝶を信長の正妻だと思っていた
この時、帰蝶はまだ信長の正妻ではなかったので、生母不明として織田の公式記録には記載されなかった
一般のところの、これが「濃姫の高齢出産」だったなら、臨月の濃姫を安土(あるいは岐阜城)から京都に連れて行くのは体力的に無理だろうが、帰蝶がまだ10代の若さだったなら移動そのものは可能
既に子供はできてしまったが、15歳になった1569年になりようやく、信長の許に輿入れした(産褥明けとも言う)
実家から実家に輿入れしたようなものなので、護衛は必要ないし花嫁道中も存在しない平和な輿入れだった
その際、多くの斎藤家元家臣の娘も連れて来て、その内の何人かを信長の側室にさせた
要するに、信長の周囲を自分の味方で固めるためである
現に美濃公略後の信長の側近には美濃出身者が多く、嫡男信忠も家臣・側近を美濃出身者で固めている
『濃姫』、あるいは『信長本妻』が安土城で暮らしていなかった(または滞在期間が短い)のは、帰蝶自身が信長をそこそこ嫌っていたので実家のある美濃から離れたがらなかった、または夫である信長が留守勝ちだったので実家の(母親が居たであろう)美濃をメインの居住としており、安土へは信長に呼ばれた時にしか行かなかったので記載が少ない
信忠が帰蝶の養子になったのは、信忠が成長してから慌てて養子にした節がある
信忠を美濃出身者である帰蝶の養子にしたのは、美濃攻めを有利にするためとの見方もあるが、ぶっちゃけ美濃の国人衆を黙らせるためであるので、帰蝶が信長に嫁いだ後に養子にしたのではないだろうか
(道三が土岐家を追い出した後で国人衆から不満が漏れた時、「義龍(当時は利尚)は実は土岐の落胤なんだよ」と言って宥めさせた手法に似ている)
その際、信忠の身の周りを美濃出身者で固めることにより、美濃国人衆に対し親近感を感じさせることに成功した
信忠を岐阜城の城主にしたのは、美濃に引き篭もってる帰蝶に逢いに行くための口実
また、尾張を信忠に譲ることで帰蝶に入れ込んでいる自分から目を逸らさせた(家臣から非難されるのを避けるためとも言う)
中々安土に来てくれない帰蝶にラブレター攻撃を繰り返している内、信長は手紙を書くのが好きになり、意味もなくあっちこっちに手紙を送った(信長の手紙好きは強ち想像とは思えない事実あり)
あまりにも帰蝶ラブだったため、呆れた家臣達が謀叛を起したり職場放棄を起したりが続いた
そんな中、被害妄想を膨らませた光秀が身の危険を感じ謀叛を起した
「殺(や)られる前に殺(や)れ」の心境で起きたのが本能寺の変
実は光秀はケンカ上等の元ヤンキーだった
なので信長に仕える前の恥しい過去を隠蔽したため、人生の前半が不明瞭
信長が浮気ばかりを繰り返す秀吉に心を痛めていたおねに対し、夫婦愛を説くような甘ったるい手紙を送ったのは、信長自身が帰蝶との新婚ほやほやの甘ったるい生活をしていた時期ではないだろうか
信長はあっちのプレイがしつこかったので(中年男性特有のくどさ)、帰蝶は信長とするのが嫌だったので、同居しなかった
毛利攻めの援軍に向かう前、どうしても帰蝶とやりたかった信長はしつこく迫って帰蝶を安土に呼び寄せ、バコバコやってから本能寺に向かったので気が緩んでいた
やられ疲れた帰蝶はそのまま安土に宿泊、ウザい信長が居ないので、のんびりしてから岐阜に帰ろうとしていた
その数日後、本能寺で信長がやられて慌てて岐阜に帰ろうとしたところを蒲生に保護され日野に非難した
森可成と妻の縁は単なる偶然に過ぎなく、妻の実家が残した「林家覚書」は当時では当たり前の捏造話し
可成は元々は道三の家臣であった事実もあり(道三の後は道三の出身である長井家の家臣であった時期もある)、妻との結婚は斎藤家家臣時代のものであり、「濃姫」が関与した事実はない
信長が年甲斐もなく若い娘(帰蝶)に入れ込んだため、織田ではそれが恥しいと感じていた
なので、帰蝶に関する記述がない
斉藤から織田に下った家臣達も帰蝶に対し後ろめたい気持ちがあったのでできるだけ接触を避けた
斉藤を裏切った者達と言う、蔑んだ目で見られていたのだろう
織田家家臣についても、自分達が落とした城のお姫様が、自分達の上に立ったので、それが面白くないと言う感もあっただろう
当然、来日したばかりのルイス・フロイスも信長本妻帰蝶との対面はないので、書くことがない
信長は帰蝶との間に生まれた信房(幼名坊丸、後の勝長)を後継者にしたかったため、信忠を廃嫡しようと考えていた
そんな考えがあったので、本能寺の変の際、「城介の謀反か?」と本音が出た
本能寺への寄宿は毛利との戦前なので、身の周りの世話をする侍女しか連れてない
帰蝶は本能寺にはいなかったので信長の死後も生きていた
帰蝶は義龍の娘であるため明智との縁戚関係はなく、光秀が謀叛を起そうが帰蝶には罪はないので織田の誰からも責められることはなかった
帰蝶は嫌々信長に嫁いだので、信長が死んで清々したため信雄から手切れ金の600貫をもらって余生は悠々自適に暮らしていた
それ以外にも、信長の本妻なので当然財産分与はあり、一生遊んで暮らせるだけの財産は持っていた
鷺山から稲葉山城に嫁に入ったので「鷺山の方」と呼ばれ、安土に移ってからは「安土の方」と呼ばれていた
こじつけとしては、道三はギリギリまで稲葉山城に住んでおり、引退してから鷺山に引込んだから、通説での『濃姫』が信長の許に輿入れした当時、道三は稲葉山城に住んでいた(Wikiに書かれてることは、恐らく捏造の史料を参考にしたものと思われる)
「輿入れ前の天文17年に父・斎藤道三が鷺山城を隠居所として移り住んでおり」(Wiki出典)は根拠がない
わたしが書いてるのも根拠のない自論だが
濃姫輿入れの当時、道三はまだ引退していないのが事実ですので、「隠居所として移り住んだ」のは義龍によって引退に追い込まれる1556年か、あるいはその前年と思われる
(道三が長良川での戦を決意したのは隠居した2ヵ月後のことらしい)
正妻の生んだ長男次男が相次いで殺害された翌日辺り、身の危険を感じて鷺山に引込んだのが真相らしいので1549年当時はまだまだ現役バリバリ
道三が鷲山に引込んだのは孫四郎と喜三郎が義龍に殺された後なので、1549年に輿入れした『濃姫』が住んでたのは稲葉山城だから『鷺山の方』と呼ばれることは不自然
信長の一周忌の後、帰蝶は完全に織田と手を切った
なので秀吉も家康も、「信長の未亡人」を政治利用することができなかった
結果、帰蝶は最初から最後まで歴史の表舞台には出て来ない
「濃姫」と言う呼び名が後年の創作だとされるのは、帰蝶が美濃から外に出たのは安土だけなので那古野以降安土以前「濃姫」と呼ばれた事実がないためである
(美濃から美濃への嫁入りであり、美濃から尾張に嫁いだわけではなので「美濃から来た高貴な姫」とは呼べない)
ぶっちゃけ帰蝶は織田に対して協力的ではなかったので、あまり好かれておらず、織田家の公式記録に残っていなかった
信長があまりにも帰蝶にベタ惚れで、その姿が悲しいほど滑稽で誰も書き残したくなかったほど悲惨な姿を晒し続けていたので、堀秀政のように信長から心が離反した家臣が多く、世に言う「一人の女が国を傾けさせた」ので全ての詳細が残っていない(さっきも似たようなこと書いたけど)
信長の最後の言葉は「もっと帰蝶とやりたかったけど、こうなって(光秀の本能寺襲撃)しまっては是非に及ばず」だった
信長はあっちこっちから嫌われていたので、信長の妻であり未亡人となった帰蝶には再婚のチャンスがなかった
なので、歴史の史料にも残らなかった

とまぁ、一時的な感情で書き連ねましたが、ここでの濃姫帰蝶の扱いもこの時は「こんな感じじゃないか?」と言った曖昧なものですので、あまりお気になさらず
基本『信長の正妻は後にも先にも斎藤帰蝶だけ』と言うのが、やはり覆しようのない事実ですから
こんなもんでどうでしょう
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