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「新五!新五ッ!」
「殿!落ち着いてくださいませッ!」
帰蝶を羽交い絞めするなつに、本丸の男達、局処の女達も縋り付き、呼ばれた利治が唖然とする光景が広がる
「まさかこんな大騒ぎになるとは想わず、軽口を・・・。新五様、本当に申し訳ございません・・・」
騒動の後、気落ちした様子でなつは利治に頭を下げた
「いや。寧ろ大人気ない姉上には、驚かされたが・・・。何れお伝えしようと想っていたけど、もっと早くにお話しするべきだったか」
「私も、もうご存知かと想っていたもので。まさか、まだお聞きになっていなかったとは・・・」
「美濃帰りから今日まで、姉上もお忙しかったからな。まだ確信はないし、もう少し落ち着いてからと、時期を見誤った私に落ち度がある。おなつさんは、気にしないでくれ」
「そう言ってもらえると、気も楽になります」

月が過ぎ、秋も深い十一月に入り、さちの妊娠が正式に確認された
小牧から慌てて、母のやえが駆け付ける
帰蝶も、まだまだ子供だと想っていた弟が一端の男であったことを想い知らされ、多少なりとも動揺した
永禄三年の暮れは、結局、今川義元に勝った喜びよりも、斎藤義龍に負けた悔しさよりも、弟が父親になることの方が大きくて、大事なことをすっかり忘れてしまったように感じた
年が明け、帰蝶も新たな気分で新年を迎える
局処にお能が戻ったお陰で花が咲き、昨年よりも賑わいだ様子を見せた
長男を失った土田平左衛門、やえの夫妻も本格的に次男・弥三郎の世話になることと決まり、暮れの内に清洲への引越しも済ませた
時親の戦死は悲しいが、一人娘のさちの世話をすることで、悲しみを紛らわせることができるのだろう
さちの世話をするのに、一々他人の家にお伺いするのも面倒だと、やえの望みで利治、さち夫妻は弥三郎の屋敷に移る
利治としてはどちらにしても他人の家であるため、多少なりとも息苦しく、なつの言ったように「一日でも早く自分の家を持つ」ことが課題とされた
稲葉山城でも、新年の年頭挨拶が行なわれている
だが、表座敷には義龍の姿はなかった
代わりにと、嫡男・喜太郎が上座に座り、傅役が喜太郎の名代として挨拶を受けていた
この話が尾張に伝わることはなかったが、何れは人の口に昇るだろう
表座敷から離れた本丸の寝室で、義龍は横になっていた
「ああ・・・、今年は温かいな・・・」
途切れがちになる声で、義龍は側に控えている夕庵に呟く
「はい、そうですね。今年の春は穏やかになるでしょう」
薄っすらと開けた障子の向こうに広がる、稲葉山ならではの雪景色を見やりながら、夕庵は応えた
布団の中で横たえた義龍の、巨躯とは想えぬか細い声
それを掻き消すかのように、部屋の四隅に置かれた火鉢の中で、炭がパチンと弾ける音がする
ここのところ夕庵以外の誰も側に置きたがらない
それほど命は疲労しているのか
恐らくは、自分が父・道三の幼少の頃から知る数少ない腹心であり、無意識に死に追い遣った父への想いがそうさせているのだろうと、夕庵は想った
          何故、こうなってしまったのだろうな」
「お屋形様」
「ははは・・・。情けない、それでも男かと詰ってくれ」
「如何なさいましたか」
「このところ、いつもそう考えてしまう」
「何を」
「側に帰蝶が居てくれたなら、暴走する父を止め、長良川の戦も起きはしなかったのに、と・・・」
「お屋形様・・・」
          わかっていたんだ。父が反対派の粛清を強固なまでに行なっていたのは、帰蝶の夫、織田上総介信長を守るためだった、と言うことくらいは・・・」
「そうでしたか」
夕庵も、それは気付いていた
だが義龍には、気付かない振りで応えた
「何れも、上総介に対し、良くない感情を持ち、批判していた連中ばかりだ・・・。尾張のうつけに、何れ美濃を干渉されるのが我慢ならないと、子ができぬのなら、帰蝶を早々に連れ帰り、別の家に再稼させるか、出家させろと迫っていたのを、聞いたことがある」
「そんなことが」
夕庵自身、晩年の道三は近付き難い雰囲気にあり、そんな経緯があったことなど知る由もなかった
「それでも父は、上総介に己の夢を映していた。私ではなく、娘婿を」
「お屋形様」
「私は、上総介に嫉妬していたのかも知れない・・・」
                
そっと目蓋を閉じる義龍に、夕庵も心境が複雑に捩れる
「どうして私ではないのだ。どうして私ではなく、赤の他人を、と、何度も何度も心の中で父を責めた。どうして息子の私ではなく、他人の子を自分の後継者に選んだと、何度も何度も父に問い掛けた。だが、現実の私は父から距離を置き、聞きたいこと、言いたいこと何も言えず、ただ無駄に時が流れるのを待つだけだった。          私は何もせず、ただ、『父を追い出せ』と囁く叔父上の言葉に踊らされ、弟達を討ち、父を追い出した。その後をどうするのか、私は父に尋ねるのを忘れていた。何をしているのかと、自身に問うたこともあった。だが、答えは見付からない。私自身、何をどうすれば良いのか、わからなくなった。挙句、心の中にはいつも妹の姿が浮かび、縋った。助けてくれ、助けてくれ、帰蝶、と。夕庵、お前が居なければ、私はとうの昔に迷っていただろうな」
「お屋形様。あまり話し過ぎると、お体が疲れます」
止める夕庵の言葉も聞かず、義龍は離し続けた
「父が鶴山で挙兵したのは、私が尾張を攻める用意があることに気付いたからだ。私を止めるために、父は起った。他人を守るために。血の繋がらない男を守るために。何故だ、夕庵。何故父は、私ではなく上総介を選んだ」
「お屋形様」
そんなことはないと、夕庵は首を振った
「上総介が、愛娘の夫だからか。それとも、上総介の向うに居る帰蝶を、呼び戻したかったのか。父も、帰蝶を頼りたかったのか。私ではなく、帰蝶を。女の帰蝶を・・・ッ」
                
信長を責めているのか
死んだ父を責めているのか
「私も         
それとも、自分を責めているのか
「今も、縋っている。帰蝶に。妹に。追い詰めながらも、それでも妹に縋っている。助けてくれ、帰蝶、と。美濃を、守ってくれ、と・・・」
「お屋形様」
「何故お前は女に生まれた。何故、男に生まれて来なかったのだ、と」
                
義龍の声に涙が混じる
心に頼った相手が女の、妹の、帰蝶だったことが、自分でもわかったからだろうか
「お前が女でなければ、男であったなら、美濃を離れることなどなかったのに、と・・・」
「お屋形様・・・」
「私の我侭だ。聞き流してくれ」
苦笑いしながら、夕庵に目を向ける
          御意」
尽きようとしている人間に、諌めた言葉など掛けられるはずがない

          兄様

幼い少女の声が、記憶の片隅から蘇る

「兄様!」
小さな小さな姫君が義龍、当時の利尚を呼ぶ
「どうした、帰蝶」
「松ぼっくりで駒を作りたいと言っていたでしょう?だから、見付けて来たの」
互いに幼い兄妹の光景を、夕庵は偶然見掛けた
「はい、これ」
小袖の袂から取り出したのは、少女の手にも余るほどの大きく立派な松ぼっくりの実
「随分大きいな。それに、傷一つない。どうしたんだ、これ。帰蝶が探して来てくれたのか?」
「お清も手伝ってくれたけど」
「そうか、ありがとう」
兄の笑顔に、妹も満面の笑みを浮かべる
それはこの世に給う至福の光景のようで、離れた場所に居る夕庵も微笑めた

母は違えどあの兄妹は、誰よりも仲が良かった
その兄妹が、今は争う間柄になってしまった
何が原因か
互いの父がその要因か
それとも、別の誰かなのか

姫様
あなたは、知っておられますか

夕庵は、義龍の寝室の床の間に目を向けた
そこに誂えた小さな座布団を敷き、座布団の上に、松ぼっくりでできた大きな駒が二つ、並んでいた
私室には掛け軸にした妹の返事

兄上は、決してあなたを憎んでいるのではないと、言うことを・・・・・

雪を掃いた庭の片隅
射的の中心から若干ずれた位置に、矢が刺さる
「お見事」
やや後方の側に居る資房が手を叩いて言う
「まだまだだ。これくらいでは、遠く龍之介には及ばない」
桶狭間山で戦死した岩室龍之介の遺品である、通常の二倍以上はある大弓を下げ、帰蝶は応えた
「それは仕方ございません。龍之介の弓は特注品でございますから、直ぐには中心を射るなど。私もやってみましたが、五本中一本当れば良いところで」
弓を引くのに小袖の袖が邪魔で、帰蝶は信長の、袖のない小袖を羽織っていた
時季外れで肌寒いが、まさか胸元を開いて弦を引きやすくするわけには、いかない
晒しを巻いたとて、困るのは資房なのだから
「お前は弓の名手だ。一本当れば、相当。私は百本でも無理だろう」
「その内馴れます」
「そうあってくれれば、使えるのだがな」
「嵯峨野の竹は硬く丈夫なものですから、弓引くだけでも一苦労。なのに軽々と引かれるのですから、それだけでも大したものです」
「世辞は良い。こそばゆくなるだけだ」
「ご謙遜を」
資房はたおやかに微笑んで帰蝶を慰めた
その帰蝶の許に、菊子が駆け寄る
「殿!」
「どうした、菊子」
「只今、池田様からお知らせが入りまして、千郷様が無事、ご出産あそばされたと!」
「そうか」
矢が当らなかった気鬱も、千郷の出産の知らせで晴れる
「立派な男児だそうです!」
「そうか!」
これに帰蝶は大喜びする
永禄四年、一月
池田恒興、千郷夫妻に男の子が生まれた
名は、「幸多かれ」を祈って『幸(ゆき)丸』と名付けられた
夫婦共にお気に入りであるさちの名を、漢字に当て嵌めただけではあるが

「いやぁ、まさか俺までご相伴預かるとはねぇ!」
一益の経過報告として一時清洲に戻って来た慶次郎も、池田家の座敷で酒を煽っていた
「すみません、勝三郎殿。帰れって言ったんですが、付いて来てしまって・・・」
側では利治が恒興に平謝りであった
「いえいえ、どうかお気になさらず。一人でも祝ってくれる人が多いのは、とても嬉しいことですから」
今川戦を前に、生きて帰れるかどうか不安であった時期もあったが、それを乗り越え息子が生まれて来たことに感慨深いものがある
恒興はいつもの人の良い、ニコニコとした顔で応えた
「勝三郎さんとご令室様にゃぁ、紆余曲折があったんだろ?」
          犬千代かな?」
喋ったのは
と、ニコニコ笑顔のまま、恒興の左の眉が痙攣を起す
「それを乗り越え、愛を育み、子ができ、今に至る。はぁぁぁ、泣けるねぇ」
「そうか?」
慶次郎の言葉に、利治は頭から汗を浮かばせた
「いやぁ、目出度い!」
と、酒の入った盃を振り上げ、辺り一面に撒き散らす
最も慶次郎自身、そのつもりはないのだろうが
「おい、慶次郎!お前は祝いに来たのか、散らかしに来たのか、どっちだ!」
「天下の池田殿に、漸くご嫡子が生まれたんだ。天へ地への大騒ぎぐらいしたって、罰なんざぁ当りゃしねーって!」
足を広げた拍子に、膳が引っ繰り返る
帰蝶から祝いの品を預かり、それを渡しに来た自分にくっついて池田家に上がり込んだ慶次郎が一番はしゃいでいることに、利治は再び恒興に平謝りした
「本当に、申し訳ない」
「いえいえ、そう何度も頭を下げずとも・・・」
「そう言うお前だって、子供できたって?」
急に自分に振る慶次郎に、利治はやや遅れて返事した
          まぁな」
そのお陰で、姉がどれだけ取り乱したか・・・
あの光景だけは、慶次郎に知られたくない
心の底からそう想う利治であった
「全く、最近の若いヤツは、やることだけ先にやっちまって、後から既成事実作っちまうから敵わんな」
「あのな、慶次郎」
「あれだろ、さっちゃんの妊娠がわかる前に結婚して、後から「できちゃいました」て報告したんだろ」
「夫婦になってからの妊娠だッ!」
心外なことを言い出す慶次郎に、利治は立ち上がって怒鳴った
「まぁまぁ、新五様、慶次郎も酒が入っての無礼です。どうか目くじら立てず・・・」
「池田殿も幼い顔して一丁前に女孕ませて、いつの間にか子供産んじゃって・・・」
しくしく泣き出す慶次郎に恒興も立ち上がる
「夫婦で子供作るのが、そんなにいけないことですかッ?!」
「まぁまぁ、勝三郎殿、慶次郎も悪気があって言ってるわけでは・・・」
この日、池田家では、宴会なのか乱闘なのかわからない夜が過ぎたと言う

          松平?」
「今川戦で、丸根を落した三河の将です」
「ああ・・・。確か私が嫁いだ年に、織田から今川の人質になったのだったか」
「はい」
「その松平と?」
久方振りの、清洲の浮かれた気分を打ち消すかのように、秀貞は息を呑みながら帰蝶に進言した
「同盟を、組むべきかと」
「同盟?」
同席していた秀隆が聞き返す
「尾張に攻め込んで来た者と、同盟を?」
「松平の将は、戦巧者。若年ながら荒くれの三河武士を率い、今川に取られていた故郷・岡崎を取り返しました。それも、無血で」
「無血・・・」
                
秀貞の話を聞こうと、帰蝶は敢えて黙り込んだ
「三ヶ月、岡崎付近の寺に籠り、今川が撤退するのをひたすら待ち続けた。殿」
「何だ」
「戦は耐久力も必要です。力任せに攻めるものよろしいかとは存じますが、それだけで退く敵ばかりではございません。叱りを受ける覚悟で申し上げるならば、ごり押しで斎藤を攻め、逆に追い返されてしまうと言う失態を何度も繰り返したいのなら、わたくしも何も申しません。ですが、殿が少しでも進展したいと申されるのでしたら、三河・松平と同盟を組み、彼の方より多くを学ぶべきかと存じます」
「どうしてだ?」
素直に聞いて来る帰蝶に、秀貞も素直に応えた
「織田は、殿の好みの軍団。『攻めろ』と命じられれば、猪突猛進に突き進む。それは一方では勇敢かも知れませんが、一方では猪武者でしかありません。賢い戦い方だとは、私は到底想えないのです。時には機を熟させるのも肝要。しかし、今の織田ではそれを殿にお伝えする手段(すべ)がない。誰も彼もが前へ、前へと突き進むことを善しとする。それでは、何れ共倒れになります」
                
帰蝶は秀貞の言葉を、一つ一つ噛み締めるように聞いていた
確かに、自分は軍略に関しては夕庵から多くを学んでいる
だが、戦の始め方、進め方までは習っていない
夫・信長の戦い方を見よう見真似で今日までやって来ただけで、それが全ての戦で通じるかと聞かれれば、昨年の、兄に大敗したのが全てを物語るように、全く通じない相手も居るのだと言わざるを得なかった
秀貞も、帰蝶の気質を少しずつ読み取っていた
『戦の始め方』を知らないが故に、帰蝶はいつも一人で突っ走ってしまうのだと言うことを
「松平も、今は今川から離脱の時期と考えているでしょう。しかし、味方が居ない。治部大輔が亡くなったとは言え、今川はまだ大家のまま。今川が戦を起せば、松平もそれに従うしかない。そこで、織田が『味方だ』と申し出れば、松平は簡単に織田に転びます。松平殿の才能、生かすも殺すも殿次第。如何でしょうか」
                
『生かすも殺すも、自分次第』と、は、昔、夕庵にも言われた
可成を那古野に遣した時が、それだった
夕庵の言葉に従い、帰蝶は可成を生かすことには成功した
だがそれは、昔から馴染んだ相手だからできたことで、松平の元康と言う青年武将を知らない帰蝶には、即答は難しかった

千郷の出産、さちの懐妊と立て続けに祝い事がやって来る
美濃の調略を任されている夫は、ずっと清洲と大垣を行ったり来たりしており、否応なしに市は一人にさせられた
貧乏長屋に愛娘を一人にさせるのは忍びないと、局処の母から中古の家を宛がわれ、何人かの使用人も召抱えられるようにはなったが、それでも市は、浮かれた気分で毎日を過ごすことはできない
夫の出世は嬉しい
だが、それに比例して、一緒に居られる時間が短くなる
それが何より耐えられない苦痛となっていた
「佐治!」
城から佐治が戻った
だが、草鞋を脱ぐ暇もなく、手荷物を置くと新しい風呂敷を担いで玄関を出ようとする
「佐治ッ!」
市は堪らず、大声で呼んだ
          お市様」
「折角帰って来たんだもん。ねぇ、お願い。部屋に上がって?」
「ですが」
「大根の甘露煮!作ったの!          さちみたいに、上手にはできなかったけど、でも、一生懸命作ったの・・・。だから         
夫を引き止めようと、明るい顔をする
だが、笑顔がどうしても引き攣った
「申し訳ございません。直ぐに出ないと」
「佐治・・・」
「今夜は早く戻ります。ですから、帰ったらいただきます」
「佐治・・・・・・」
          もう少しなんです。もう少しで、大垣の国人達が、私の話に耳を傾けてくれるんです」
だから、今はこうして雑談をしている暇すら、惜しい
                
そう言いたげな顔をする夫に、市は顔を落して口唇を噛んだ
「行って来ます」
          うん・・・」
これ以上駄々を捏ねず、大人しく夫を見送ることにした
そうしなければ、佐治とは一緒に居られない
夫婦になった意味がない、と、市はそう想ったから・・・
          佐治・・・」
市は玄関の向うから佐治の背中を見送った
出世する度に、夫がどんどん遠く離れてしまうような、そんな気がして、市は途方もない不安に襲われた
ぼんやりと、見送る背中がぼやける

          松平家と?」
帰蝶から話を聞かされ、なつは一瞬ぽかんとし、それからパチンと手を叩いて喜んだ
「松平家と言えば、先々代様もが一目置いていた家柄。同盟を組むのにこれほど相応しい家はありません。林殿も、良いところに目を付けられたもので」
「お前もそう想うか」
喜ぶなつとは反対に、帰蝶の微笑みは翳りが差し、どこか苦悩の色が見える
「如何なさったのですか?なんだか納得できていないようなお顔を、なさっておいでですが」
「納得、か。          いや、納得はしている」
「無理に、ですか・・・?」
                
帰蝶はなつの言葉に苦笑いした
「恵那の遠山家とは、おつや殿を嫁がせて身内になった。知多の荒尾家とは、千郷殿に再稼していただき、身内も同然になった。同じく知多の佐治家も同様。だが、松平とは、何をどうして絆を深めれば良いのか、わからない」
「殿・・・」
「林の考えを読むなら、尚更、な」
「林殿の考え?」
「遠回しに、私は戦が下手だと言われた」
「え?」
まさかそんな命知らずなことを口にする筈がないと、なつの目が丸くなる
「いや、そう言ったわけじゃない。林は『学べ』と言った」
「学べ・・・と」
「私自身、うっかりしていた。昔、斎藤が織田と争っていた時、私は義父上様の戦い方を見て、『織田はごり押ししかできない』と分析したのに、私自身、義父上様と同じことをやっている」
          ごり押しの戦いを?」
「ああ」
帰蝶はなつから視線を外し、少し顔を上げた
「だから、斎藤には勝てない。今のままでは一生、斎藤には勝てない」
「どうして・・・。だって、殿はそれまで斎藤を追い返した実績があります。そりゃ・・・、去年の戦は負けてしまいましたが、次は絶対勝てますッ」
「だがな、なつ。私が勝った戦は、兄上の出ていない戦だ」
「それがなんですか」
弱気になる帰蝶など、見たくない
なつはそんな想いで帰蝶の言葉を否定する
「戦に出た兵も、馴染んだ者ばかりだ」
「だって、それは         
帰蝶はなつの言葉を遮った
「河尻(シゲ)、三左、久助、五郎左、弥三郎、右衛門、犬千代、市丸、そして、勝三郎、吉兵衛、又助」
「それは・・・・・・」
「わかるか?私が『織田信長』ではなく、『その妻』だと言うことを知っている者ばかりだ。私が嫁いで来たことを知っている者ばかりだ。だから、私達は上手くやれた。だけど今はもう、違う。『私』を知らない者が増え過ぎた。権や林のように、内情を詳しく話せる者ばかりでもない。多くが私を『織田信長』として見ている。『織田信長』だ。わかるか」
                
それは、つまり、今までのように意志の疎通が上手くできなくなるほどに、人材が増えたと言うことである
『帰蝶らしい』戦い方では勝てなくなっていると、帰蝶自身、なつにそう言っていた
『帰蝶』を知らない者が増えれば、『駒』は想うようには動けない
悪い連鎖に鈍り、今までどおりの戦い方は困難になって来た
「将棋盤の上に、五つの駒を並べよう。それを自分の想うとおりに動かすのは容易だ。だが、駒が十、二十に増えたらどうだろう。全ての駒に神経が届かない。届かない駒は迷ってしまう。どう動けば良いのかわからなくなり、それは周りの駒にも移る。林は、駒が増えても戦える方法を、松平から学ばせようとしているのだ」
          それは、わかります・・・。林殿のお考えも、わかります。だけど、どうしてそれが松平なのですか?軍師なら、他の誰かを選んだって」
「松平は、今川治部大輔の薫陶を受けている。直接、治部大輔から多くの物を学んでいる。林はそれを私にも学べと言っているのだ・・・」
                 ッ」
それは、自尊心の強い帰蝶にとって、どれだけ屈辱的なことだろう
軍略に関しては天才的な能力を発揮し、統率力も神懸り的なものを持っている
その帰蝶に、『敵から学べ』と言った秀貞の真意
つまり、秀貞は帰蝶に、『松平に屈しろ』と言ったのだ
それがわかった時、なつは、松平と同盟を組むことを喜んだ自分を恥じた
帰蝶の気持ちを考えていなかったから・・・
『松平から学べ』と言ったのは、そのことである
秀貞は、『今のままでは、織田は誰にも勝てない』と、断言したも同然なのだから
「春になったら、松平の大将と逢う約束を林が取り付けた」
          春・・・?」
「それまで外交は、孫三郎の叔父上が担ってくださっていた。だけど、その叔父上も、もう、いらっしゃらない。今度は私自身が行なわなくてはならない」
「そう・・・ですね・・・」
「できるかどうかわからない、なんて、気の抜けた言い訳はできない。だから、やるしかない」
「殿・・・」
「つくづく、茶や花の修行なんて無駄なことに労力を使わなくて良かったと、今頃になって安堵している。あんなもの、夫人同士の会合でなら役に立つが、武士には通じないからな」
「まぁ・・・」
帰蝶なりに自分を笑わせようとしてくれているのだと、説明を受けずともなつはわかっていた
自分の出方次第で三河が味方になるか敵になるか、はっきりするのだから
『敵』には、できない
織田の娘を嫁がせて、外交が上手く行かなかったのは犬山のみ
その犬山と松平が手を組めば、頭の上の美濃を含め、周辺が敵だらけに変貌してしまう
それだけは絶対に避けねばならない事態になるのだから、帰蝶の抱える緊張感も半端なものではないだろう
政略で嫁いだ娘は、何れも外交を担って嫁に入る
帰蝶もそれだった
争っていた家同士の政略なのだから、尚更その責任は重かっただろう
帰蝶は夫になる信長との良好な夫婦関係により、外交の役目は見事担えた
だが、それを続けるための実家がなくなった
代わりに帰蝶は、その細い手に刀を握らざるを得なくなった
それだけでも普通の女の生き方とは逸していると言うのに、それ以上のことまで成さねばならなくなった運命を、不幸と呼んでいいのかどうか、なつは悩んだ
「春までは、穏やかに過ごさねばならない」
「と、言うことは・・・」
「斎藤への報復も、控えねばならん。次も大敗を喫しては、松平に逢う顔がなくなってしまうからな。佐治も、調略で踏ん張ってくれている。佐治の努力を無駄にするわけにもいかん」
帰蝶自身、そう自分に言い聞かせているのだろう
「しばらく大人しくしておくか」
          できない約束を」
「酷いことを言うな」
ぽつりと呟いたなつに、帰蝶は苦笑いをして見せた
そうして安心感を与えようとしてくれているのか
一緒になって笑えば良かったと、なつは後から悔やんだ

大垣城の北にある市橋城
そこで佐治は市橋城城主であり美濃の豪族・市橋九郎右衛門長利、池尻城城主・飯沼勘平長継と謁見していた
斎藤に知られてはいけない、極秘の会談である
言い出した佐治自身、緊張を伴う
「私達は、確かに先代より斎藤には反感を持っていました。ですが、今の国主には特にこれと言った失敗もありませんし、できればこのまま見守って行きたいと言うのが心情です」
「確かに、市橋様の言うことも理解できます。しかし、織田は美濃を良くしようと考えております」
「美濃を良くするとは?」
長利の隣に並んだ長継が聞く
「市橋様には何度もお聞きいただいていることですが、これ以上、誰にも荒らされることのない、平穏な国造りです」
「ですが、荒らすも何も、美濃に攻め込んでいるのは織田ではございませんか」
どの口で物を言うか、とでも言いたげに、長継は口を歪ませて応えた
「私達織田は、ただ攻め込んでいるのではありません。美濃をもっと豊かな国にしたい、もっと実りのある国にしたい、もっと強い国にしたいと望んでおります。ですが、現国主様の姿勢は如何でしょう。確かに美濃の国内情勢は先代様に比べて格段に良くなったでしょう。しかし、それは美濃が本来持つ浄化作用が働いているだけ。これ以上の発展は望めない。だからこそ、我々織田が立ち上がったのです」
                
佐治の言うことは、半分は事実、半分は方便である
今の帰蝶の頭の中にあるのは、夫の仇、実家の奪還、そして、父が夫に譲った井ノ口を取り返すための戦いだ
美濃の発展など、そこまでは考えていないだろう
「戦のなき世にしたい、民が笑って過ごせる世にしたい。それは具にも付かぬ理想でしかないでしょう。ですが、考えてください。豊かな心なくして、理想は語れるものでしょうか。我ら織田の主君・織田上総介様は心豊かな御仁。そのお心で尾張・清洲を発展させた。この美濃国、井ノ口にも負けぬ豊かな国、豊かな民、笑顔の溢れる町にしました。もしも疑うのであれば、一度その目で実際に清洲をご覧になってください。力なき者に商業都市・一宮が味方してくれるでしょうか?何故、前年の戦に於いて、優勢であった斎藤が、一宮で引き返すことになったのか、お考え下さいませ。我ら織田が町を守っているのではない、町が織田を守ってくれていると言う有り得ないその光景を、それを現実のものにした清洲を、お二方のその目でご覧になってくださいませ。織田は、あらゆる民の味方です。その想いを武器に、我ら織田は戦っております。これほど強い武器を持った人間が、この世に存在するでしょうか。それを、市橋様、飯沼様の目で判断してくださいませ。お願い申し上げます」
一気に捲くし立て、床に手を置き、佐治は深々と頭を下げた
「織田に味方すれば、美味しい汁を吸える」と誘惑するのは簡単だ
だが、それでは一時的に心を掴んだに過ぎない
織田が衰退すれば、味方は敵に変わる
それを望むわけではない
佐治は永続的な『味方』を得たかった
所謂『相互関係』である
互いが互いを支え合い、共存する
これほど理想的な関係があるだろうか
成功させれば、織田はもっと磐石なものになる
佐治はそう信じていた
長利と長継は、其々の顔を見合わせながら、どうしたものかと心の中で考えた

「お帰りなさい!」
早くに帰ると言っておきながら、結局佐治が戻ったのはとっぷり日が暮れる夕刻も過ぎ、月が欠け始めた頃だった
それでも市は笑顔で夫を出迎える
「ただいま戻りました。まだ起きてらっしゃったんですか?」
「だって、帰ったら大根の甘露煮を食べるって言ってたじゃない。みんな寝ちゃったから、待ってたの」
まるで夜に昇る太陽のように、市の笑顔が眩しい
「申し訳ございません」
「何言ってるの?妻が夫の帰りを待つのは、当然でしょう?」
          そう、ですね」
市の言葉に、佐治は苦笑いした
『妻』と言われても、その自覚が持てない
どうしても、『織田の令嬢』としか見れなかった
だから、佐治は市を妻に娶っても、指一本触れることができなかった
          怖かったから
「用意して来るね。佐治は、自分で着替えれる?」
「はい、問題ありません」
「じゃぁ、直ぐ持って来る」
「はい」
だから、言葉遣いまで、城に居た頃のままであった

居間で待っていると、膳を抱えた市がやって来る
「ごめんなさい、待たせた?」
「いいえ、私も今着替えたばかりです」
「そう、良かった」
と、夫の前に膳を置く
上には湯気の上がる大根と、酒の入った小さな徳利、その盃、それから、香の物が並んでいた
「お腹空いてるでしょ?湯漬けも用意しようか」
「いえ、これだけで充分です。明日は朝一番で殿にお逢いしますから、余りぐっすり眠っては朝がつらいですので」
「そう・・・」
「いただきます」
箸を指で挟み、両手を合わせる
最初に突付く大根を口に運ぶ佐治を見詰めながら、市は聞いた
          美濃の攻略は、いつまで続くの?」
「そうですね、せめて墨俣城を落すまででしょうか。あそこを足懸かりにすれば、戦も楽に運べます。勿論、損害がないとは言い切れませんが。・・・うん、美味しいです」
少し遅れて、市の大根を誉める
「ほくほくしてて、適度な甘さもあって、とても美味しいですよ。上達なされましたね」
「佐治」
「はい」
「どうして、佐治は新五様のように、市を同じに扱ってはくれないの?」
「え?」
「どうして、妻にそんな丁寧な言葉を掛けるの?」
「お市様・・・」
「市は、佐治の妻ではないの?」
「そんなこと」
「じゃぁ、どうして市を『お市様』って呼ぶの?!」
「お市様・・・」
明るい顔をしていても、市の心は淋しがっていた
本当なら長屋に住んでいた時のように、片時も離れず側に居て欲しいのだろう
だが、昨年の美濃攻略に失敗して以来、夫には肩書きが付き、長屋を出てこの家に移り住み、佐治が美濃の豪族や国人衆らと会うごとに、夫は前より遠い場所に居るようになった
それが耐えられなかった
だから、せめて心だけは側に居て欲しいと願っているのに、佐治は相変わらず自分を『お市様』と呼び、丁寧な言葉で対応し、いつまでも使用人根性が抜け切れていない態度で居る
それが『距離』に感じていた
          千郷様がご出産なされた。さちも、妊娠した。みんな、夫婦、家族になって来てる。なのに、市だけまだ夫婦になってない、家族になってない・・・ッ」
「そんなことは」
俄に取り乱す市に、佐治は慌てた
「お市様は、私の妻です、家族です。安心なさってください」
「だったら、どうして・・・ッ」
どうして、急に、こんな気持ちになったのだろう
市は自分でも不思議に想いながら、気持ちを伝えた
「どうして、市を抱いてくれないの・・・?」
          お市様・・・」

毎日、美濃と尾張を往復している
佐治と共に美濃入りしている人間は何人か居るが、みな、美濃で寝泊りをしていた
佐治は家に市を残しているからと、毎日美濃へ通っている
そして、必ず帰蝶に前日の報告をするために城に向い、それから直接大垣へ向うこともあれば、一旦家に戻って来ることもある
なのに、佐治の顔をゆっくり見ることができない
自分は姉(帰蝶)に嫉妬しているのだろうか
そんな気がした
朝一番で殿に逢うと佐治が口にした途端、佐治を独占したくて仕方がない想いが溢れる
それを止められない

「兄様は姉様と夫婦になって、帰命様が生まれた。勝三郎殿は千郷様と夫婦になって、幸丸が生まれた。さちも新五様の妻になり、子供が生まれる。なのに、市だけ変わらない。どうして?」
「お市様・・・」
「お市様じゃない!市って呼んでッ!」
                
その綺麗な瞳からぼろぼろと涙が零れるのを、佐治は焦った顔で見詰めた
市の心にも、今日まで葛藤があったのだろうか
それでも、佐治と一緒に居たいがために、ずっと堪えて来たのだろうか
幼くとも『佐治の妻』
それを懸命に努めようとしている少女にも、限界があった
「どうして、市を遠ざけるの・・・?」
「そんなことは・・・」
泣き出す市に、佐治は力なく箸を膳に置いた
それから、ぽつりぽつりと語る
「昔、お市様に話したことがありますよね。人はどうして生きるのか、どうして死ぬのか。父が死んだ時、私はこの世の不条理を恨みました。どうして武士ではない父が死ななくてはならないのかと、天を恨みました。再婚もせず、女手一つで兄と私を育ててくれる母の小さな背中を眺めながら、私はこの世のあらゆるものを恨みました」
                
市は啜りながら、佐治の話を聞いた
「口減らしのために、私は弥三郎さんの父上、土田平左衛門様の仕事を手伝うことにしました。その方が、母の負担も軽くなると想ったからです。そんな折、お市様の兄上様、吉法師様に目を掛けていただき、何度か那古野城に赴く機会に恵まれました。きっかけを与えてくださったのは、殿ですが」
          姉様が・・・?」
「小牧の弥三郎さんのご実家に、諜報として殿がおいでになったのです」
「そうだったの・・・」
「当時は、織田は鳴海で今川方と争っている最中でした。今川だけじゃない、一門である旧大和守家、伊勢守家とも争っていました。緊迫した空気が流れていても不思議ではなかった。なのに、那古野の城は笑い声で溢れていました。その中心に居る吉法師様と、殿のお姿に、戦は悲惨なだけではないのだと気付きました。何かを得るためには、何かを失わなくてはならない。だけど、それは絶望ではなく、次の段階に進むための必要な地作りなのだと。だから、吉法師様の周りは明るい雰囲気に包まれていました」
                
市は再び、黙って佐治の話を聞いた
「それから、殿はばたばたと慌しい毎日を送るようになったのか、私もしばらくはお二人に会うことはありませんでした。再びお会いできたのは、吉法師様が亡くなられた後でした。私は、戦をせずとも民が暮らせる世を作りたいと、願うようになっていた頃のことです。弥三郎さんから織田の内情を聞き、我が耳を疑いました。まさか女の殿が、吉法師様に代わって戦場に立っているなど、信じられるものではありませんでした。だけど、その時想ったのです。殿は、何のために生き、何のために戦っているのだろうか、と。そして、私も考えました。人はどうして生きているのか、どうして死ぬのか。殿と再会できた時、私は自分なりの答えとして、弱き者のために生き、弱き者を守るために死にたいと。ですが、今は違います」
佐治はじっと市を見詰め、続けた
「あなたのために生き、あなたのために死にたい」
          佐治・・・」
「だけど、私が死ねばあなたは一人になってしまいます。子供が居れば、再稼の条件も良くなるでしょう。出産経験のある女性は、何処の家でも大事にされますから。それでも、やはり父が死に、苦労した母の背中が想い出されるのです。それは、私にはつらいことです」
          死ぬ・・・なんて、縁起でもないこと、想像しないでよ・・・」
「すみません」
佐治は苦笑いする
「ですが、戦場で生きることを決めた私には、生死は常に付き纏うものです。避けられることではありません」
「だから・・・?市が苦労しないために・・・?佐治は市を抱かないの・・・?」
「すみません・・・」
「馬鹿・・・みたい・・・」
「そうですね」
「そんなの、取り越し苦労って言うのよ・・・」
「かも知れません」
「兄様が死んで、それから子供を産んだ姉様が聞いたら、どう想うかしら・・・」
「多分、お市様と同じことを仰ったと想います」
「だったら、なんで・・・」
恨めしそうに自分を睨む市に、佐治は頭を掻きながら応えた
「臆病なのだと、想います。自分を」
「臆病・・・」
「あなたは織田家のご令嬢です。私は百姓の倅です。こうして共に暮らしているだけでも勿体無いのに、触れることなど恐れ多いのではないかと・・・」
佐治の言葉に、市は想わず立ち上がった
「莫迦ッ!」
「お市様         
「佐治と一緒に居るのは、市がそうしたかったからなの!佐治の妻になったのは、市がそうしたかったからなの!織田の娘とか百姓の息子とか、そんなの関係ないの!」
「すみません・・・」
「お願い・・・」
市は、はらはらと流れる涙を手で押えながら懇願した
「お願いします・・・。市を、一人の女として見て下さい・・・。お願いします・・・」
「お市さ・・・ま・・・」
「お願いします・・・」
                

淡雪のように仄かな想いは、やがて恋心に変わった
いつのことだろう
この世を儚く嘆いた少年の、その夢物語を聞き、その優しさに触れ、想いが流れて行った
佐治へと
親しんださちが利治の世話に明け暮れるようになり、遊び相手が居なくなった市の前に、いつも決まって佐治が居た
恋心は信頼へと変わり、それは強い愛情へと変化した

「お願い・・・します・・・」
泣き崩れる市の肩に、震える佐治の手が添えられた
いつもそうであるように、今も佐治は柔らかな心と気持ちで包み込んでくれる
優しく優しく、包み込んでくれる
真摯な市の想いに、佐治は恐る恐る声を掛けた
          い・・・、市・・・」
                
ぎこちない口調だったが、そのたった一言で、泣いていた市が笑顔になれた
幸せでなければ、浮かべられない笑顔だった

「殿、そろそろ床を敷きましょうか」
と、本丸の居間に居る帰蝶に声を掛けた
「あら」
部屋の真ん中で帰命と二人、転がるように寝ている帰蝶が居る
「誰か呼んで来なきゃ」
苦笑いしながら、菊子は部下の侍女に指示をした
肌寒い外の空気に身を裂かれ、それでも穏やかに春を待つ姿がそこにあった
守るべき存在と共に

          痛くなかったですか?」
二人で潜った布団の間、腕の中の市を、そっと伺う
「ううん・・・。全然・・・」
本当は悲鳴を上げたくなるほど痛かったのに、それ以上に佐治の本当の意味での妻になれた実感の方が勝ることで、市は微笑むことができた
佐治の肩口に額を押し付け、その体温を直に感じる
「嬉しい・・・の・・・」
「市・・・」
「そうやって、佐治が『市』って呼んでくれることが、凄く嬉しいの。だから、佐治、お願い」
少女から女になった妻は、それでも無垢な瞳を差し向けて呟いた
「ずっとずっと、『市』って呼んで・・・。それだけで、幸せだから・・・」
「市」
                
目に見えない、不確かな『愛』を感じ合うことで、男と女は幸せになれるのだと市は想った
だから姉様は、兄様が死んでも、『愛』を確かに感じているから、幸せそうなんだと想えた
どんなつらいことも、乗り越えることができるのだ、と
その時の市は、確かにそう想っていた

二月も過ぎ、秀貞から松平元康との謁見の日取りを知らされた
今更ながらに気を引き締める
「場所は清洲西の甚目寺」
「甚目寺?こちらの本拠地ではないか。それで松平は納得したのか?」
秀貞の言葉を、帰蝶はとてもではないが信じられない
同盟を組む予定と言えど、それに対し松平側はまだ承諾したわけではない
つまり、今はまだ敵同士と言うことだ
その、敵の本拠地の、しかも兵を忍ばせるにはもってこいの場所に足を踏み入れるとは考えられない
「納得させるのが、私の役目でございます」
「どうやって説き伏せた」
「こちらには攻撃の意思はないことを、お伝えしたまで。連れ添うのも女ばかりに限定すると申しましたら、不承ながらも承諾くださいました」
「女だけ?」
「油断しましょう?」
「できるものなのか」
「していただかないことには、私の首が飛びます」
「それは困ったな」
                
冗談か、本気か
どうにも判断の付かない帰蝶の言い方に、秀貞は軽くふっと笑った
「あちらも、連なる家臣を数人に留めると申し出てくださいました」
「何?よく承知したもんだな」
「女が怖ければ、兵士一万人をお連れ下さいと申し上げましたら」
「挑発に乗り過ぎだぞ、松平は」
「後ほど、お知らせくださるとのことで」
「根回しが良いな」
「当然です」
秀貞主体で話が進んでいる
どうにもこちらが有利になるように
遺恨があるとは言え、やはり秀貞を引き込んで正解だったかと、帰蝶は内心感じていた
松平が尾張に入ると言うことは、こちらが有利に話を進められる
逆にこちらが三河に入れば、松平主導で話が進んでしまう
秀貞は松平に学べとは言ったが、同時に自分の力量も試しているのだと想った
松平が下に来るか、織田が下に入るか、全ては自分に掛かっていると
無言の圧力に、心の内では汗を掻いているが
「殿もご自覚くださっているとは存じますが、織田が生きるも死ぬも、殿に掛かっております」
「わかってる」
「手強くなったからと、逃げるような真似だけはお止めください」
「林」
帰蝶の顔が歪む
「と、言っても無駄でしょうが」
                
秀貞はいつも、禅問答のような言い方から始める
「あなた様は、逃げる機会を決して得ようとはしない。窮地に陥ろうが。ですから、周囲の者がてんてこ舞いになるわけで」
「何が言いたい」
「時には引くのも大事な局面。そのきっかけを上手く掴めるようになれば、こちらも気が楽になるのですが」
「お前の言いたいことが、さっぱりわからない」
「覚えておいでですか」
「何を」
「あなた様が、尾張に嫁いで来た日のことを」
「忘れるわけがない。吉法師様が表座敷に居なくて、平手が顔面蒼白で慌てていた。あの光景は、今も滑稽で笑えるくらいだ」
「それだけではございません」
「他に何かあったか?          ああ、翌日のお披露目を、吉法師様と二人、すっぽかしたことか?」
「ははは。あれは豪快でございましたな。まさかお二人、共に消えるとは想像もしておりませんでした。ですが、そうではない。私が一番印象強かったのは、木曽大橋で初めてあなた様を拝見した時です」
「ああ、そう言えばお前も出迎え組みだったな」
「美濃の美姫(びき)とは伺っておりましたが、よもやこのように変貌するなどとは想っておりませんでした。いえ、その予兆はあったのかも知れません」
「そんなものが?」
「『友』と呼ばれた少年との、別れの場面」
                
帰蝶の表情が微かに翳った
「味方になるか、敵になるか。それすらわからぬあの時に、殿はこう仰いました。『いつか再び、相容(あいまみ)えようぞ』、と」
          そんなことがあったか。もう・・・、忘れた」
『忘れた』のではなく、『忘れたい』のだと、敢えて帰蝶は言わなかった
「その言葉どおり、殿はあの少年の居る斎藤と争っておられる。この頃、私はこう想うようになって来たのです」
「・・・・・・・・・・何だ」
「あなた様の言葉には、言霊が宿っている」
「言霊         
「それを現実のものにするには、確かにその努力も才能も必要でしょう。ですが、それをも凌駕するほどの見えざる力がある。松平との会見、楽しみにしております」
                
秀貞の言い分は、相変わらず不明瞭でわけがわからない
だが、今川戦の前に自分が言った、『天が私を試している』の仕返しだろうとは、なんとなくわかった
その後、秀貞の言うとおり三河の松平から馬鹿丁寧にも、連れ立つ家臣らの名簿が送られて来た

「律儀な方なんですね、松平の殿様は」
それを局処でのんびり眺めようとしたら、部屋になつと市弥が顔を揃えてやって来た
「先代様が、義仁に満ちた正義感の強いお方でしたから」
と、市弥が応える
「それで、連れて来る家臣の方々とは?」
「ああ、酒井、石川、小笠原だそうだ」
「たった三人?」
「勿論、其々守備兵くらいは連れて来るだろう。だが、会見に臨むのはこの三人だそうだ」
「酒井、石川は松平の譜代。小笠原は確か、遠江の豪族。松平に付いたのかしら」
「そりゃ、今川が不安定な状態ですから、この先のことを鑑みても、松平に付く方が得策と言うものでしょう」
「そうね」
「それに松平は譜代家臣も大勢居る。例えば本多や榊原」
なつの言葉を帰蝶が自ら補足する
「松平家臣を代表する家ですね」
「剛勇で名のある家を連れて来ないだけ、松平は織田との同盟に期待しているのかも知れんな」
「そうですよ。本来なら、松平は織田を憎んでも仕方がありません。桶狭間では松平家の何人かが犠牲になっておりますから。それでも、先を見て殿との会談を承諾なさったのです。失望させるわけには参りません」
「わかってる」
なつに苦笑いを向け、帰蝶は小さく溜息を零した
日々、肩に圧し掛かる荷物が重くなっているような気がする、と

今年は想いの外雪が深いので、雪解けを待ってからと言う松平の要望に、帰蝶は三月の終わりを指定した
それに伴い、秀貞も会見に使う寺に連絡を入れる
佐治からは、話し合いに応じてくれる美濃の豪族が徐々に増え始めていると報告を得た
それも少しは喜びに繋がる
会見に連れ立つ部下を選出し、相変わらず慌しい毎日を送っていた
「呆れて物が言えません。今日がその日なのを忘れていたなんて」
帰蝶の着替えを自ら手伝いながら、なつはぶつくさと文句を垂れた
「煩いっ。毎日忙しかったんだ。それこそ、床で寝るのも忘れるくらいっ」
「その度に、菊子が局処まで走って人を呼んでいたなんて、ご存じないでしょうっ?」
と、帰蝶の小袖の帯をぎゅっと締める
「うっ・・・!くっ、苦し・・・」
そこへ、肩衣と、それとお揃いの袴を抱えた市弥が駆け込んで来た
「あったわ。吉法師は満足に揃えていなかったけど、主人のが残ってました」
「義父上様の?」
深い虫襖(むしあお)色だが、落ち着いた色に染まっている
「これなら、あなたのその豊満な乳房も隠れるでしょう?」
                
市弥は無心な顔をして言うが、言われた帰蝶は余り気分の良いものではない
なつの手で、晒しでぐるぐる巻にはされたが、それでも目立たないとは言い切れず、急遽肩衣を羽織ることになった
最も、同盟を結ぶつもりで会うのだから、正装はしなくてはならないが
「お腹の辺りでふっくらと着れば、胸元も隠れるわ」
今度は市弥の手で肩衣を被せられる
着けた袴に挟み込み、裾を軽く引っ張ると、その通り帰蝶の胸元の膨らみが消えた
その分、中年のように腹が膨らんで見えるが
「これで良し」
          ありがとうございます」
心中穏やかではない帰蝶は、引き攣る笑顔で礼を言った
帰蝶が身支度を整えている間、選出された同伴者が集められる
召集されたのは秀隆、弥三郎、成政、そして利治
仲介役である秀貞が其々に一本ずつ剃刀を手渡した
受け取った秀隆は青い顔をし、脂汗を流しながら恐る恐る訊ねる
「あ・・・、あの・・・。髪剃りで腹を切れと・・・?」
「切れるもんなら切ってみろ、馬鹿者が。全員、それで髭を剃れ」
「髭?!」
「髭は武士の命でございます!そう簡単に剃れる物ではございませんッ」
先輩である秀貞には、秀隆とて粗雑な口調を使うわけにはいかない
「じゃぁ、腹なら切れるのか?」
と、問われ、
「剃りましょう」
あっさり承諾する秀隆に、弥三郎は滑り落ちそうな気になった
「新五様・・・は、まだ髭が薄うございますが、一応念のため」
「はぁ・・・」
「しかし、林様。髭を剃ってどうするのですか?」
と、成政が冷静に聞いた
「本日正午より、清洲付近の甚目寺にて、殿の謁見が行なわれる」
「知ってますよ。その護衛で同伴するんでしょ?」
「だから、髭を剃れ。そして、各々これに着替えろ」
傍らで待機している侍女達が、其々に女物の柄の小袖を持ち寄る
「これ・・・・・・・?」
嫌な予感がする秀隆であった

秀貞から支度が整ったと知らせが入り、帰蝶は居間を出た
「いってらっしゃい」
「ご武運を」
市弥となつが見送る
「行って参ります」
帰蝶は二人に軽く頭を下げ、小姓を先頭に廊下を行った
その背中を見詰めながら、なつは両手を握る
「大丈夫よ。上総介は意外と度胸がありますから、きっと上手く行きます」
「はい・・・」
市弥にそう励まされても、それでもやはり心配だった
できることなら、着いて行きたかった・・・
そう、心に呟く

背中の荷物は相変わらず重く、それでも背負うには相応しい物ばかりだった
どれ一つ、降ろすことなどできない
背負った物の重さに驚いて、昔の自分だったら逃げていただろう
だけど今は
その背中にあるものを守るためなら、何でもできるような気がした
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Secret
ちょっと言い訳を...
タイトルに使っている『群青色』ですが、実はこれ、「現代語」なのです
色の名前にも古代から伝わる物と、近代になってから付けられた物があり、『群青色』は現代になって作られた色の名前で、それを知った時修正するべきかと想ったのですが、文章中、その色に纏わるエピソードもありますし、色の名前を変えると雰囲気が壊れてしまうので、身勝手ながらこのままで進めさせていただきます
どうか、ご了承下さいませ

久し振りの更新ですね
この部分は実に話が進め難くて、市が母になることのエピソードも入れたいし、時期的に家康(当時はまだ元康)との同盟成立の話も入れなくてはならないし、他にも(ネタバレになりますので、差し控えます)入れたい話が山盛りでしたので、ちょいちょい挿入させながら作っていると、いつの間にか長くなってしまって、やっぱりいつものように一番入れたかった話が次回回しになってしまいました
やはり兄上は遠き山にてございます・・・
Haruhi 2010/01/22(Fri)00:49:11 編集
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます

先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い

文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます

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祝:お濃さま出演 But模擬専…     (戦国無双3)


おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙

(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見


転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。

(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない

岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です

今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい

清洲桜醸造株式会社公式サイト

濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます

清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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