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久方振りの友との再会に、心を過る想いは多かった
しばらく長山城を眺め、その南にある妻木の城までは無理だろうと想うが、何れは足を運ばせることになるかとも予想する
夫の実家は断絶してしまったが、熙子の実家の妻木は健在のままであった
遠山家の家臣の一つとして、今も存在している
その妻木の家を想い浮かべ、帰蝶は頭の中で考えた
景任との関係を良好のままで維持しなくては、と
土岐から派生した家は数多くあれど、その中でどれだけの家が自分に味方しているのか
明智に次いで力のある不破は、斎藤家家臣
どう考えてもこちらに寝返らせるのは不可能だろう
その出自は自称だが、今では一門扱いされている妻木は、今後の働き次第で織田に味方してくれるかも知れない
蜂屋家は義父の信秀時代から織田に味方し、今では家臣の一つとして働いてくれている
桶狭間山での今川戦でも協力してくれた
今日会合した金森家とも、可近の様子を見れば今後上手くやって行けるだろうと読める
明智、三宅は光秀とその小姓・弥平次の行方さえわかればなんとでもなる、そう気楽に考えていた
伊勢にまで伸びた土岐の末裔、坂家も自分に寄っている
夫が生きていた頃から、何かと世話をしてくれている資房の太田家も、古い時代の土岐一門であった
土岐の由縁はないが、先祖を同じくする美濃池田は、言わずもかな恒興の家系である
増してや、その母親であるなつが側に居てくれるのだから、心配する要素などどこにも存在しない
普段の馴れ合いで忘れがちだが、恒興にも自分と同じ源氏の血が流れているのだと今になって想い返す
巴の坂家と同じく別系統である土岐一門の石谷氏にも、何らかの手を打っておいた方が良いかとも考えた
そうなれば、美濃に残る大きな家となると、斎藤がどうしても目立つ存在だ
最も強敵である斎藤さえ落としてしまえば美濃は傷を付けることなく手に入れることができる
帰蝶はそう計算した
「妙椿時代の夢など、所詮、幻だ」
最も、全て上手く行くとは考えていないが
改めて見れば、土岐一門のなんと多くが自分の手の内にあるのかと、自分自身驚く
たったそれが今は心強い
「小牧に行くか。五郎左が頚を長くして待っているだろう」
「そうですね。とっぷり日も暮れて来ましたし、闇に乗じて犬山が動かないとも限らない。こんな少人数の時に押し寄せられても、守り切れませんし」
「その時は、お前を犠牲にしてでも私は生き残ってやる」
「言いますね」
凡そできそうにもないことを、大袈裟な表情をして言う
そんな帰蝶に秀隆は笑いながら応えた
「さて」
松風の綱を手繰り寄せ、ふわりと浮くように騎乗する
「明日は小手調べ。義龍亡き後の斎藤がどう出るか、それを確かめるための前哨戦だ。無理をしない程度に進めようか」
「はっ」
長山城を背中にする
後ろ髪を引かれる想いだが、先に進まなくてはならない
叔父と叔母の間には、子供は居なかった
だからその分、自分や甥に当たる光秀に目を掛けてくれたのか
叔母のしきは躾の厳しい女性だったが、無駄なことは教えはしなかった
今になって叔母も賢婦だったのだなと、幼さゆえとは言え自分の不孝さを、心ならずも僅かに詰る
途中、土岐郷に少しだけ立ち寄り、それから漸く小牧山の砦に入ったのは、この日の夜遅くだった
「殿!」
長く小牧山砦の留守居をしていた長秀が、心待ちしていたかのように態々出迎える
「遅くなった」
「いえ、それよりもご無事で良かった。犬山の動向が気になり、心が落ち着きませんでしたよ」
「それなら大丈夫だ」
「美濃の金森家と、上手く事が運んだようですね。伺いました」
その金森家の可近が信良に付き添ってやって来る
「三十郎の若様?!」
今まで争い事に顔を出さなかった信良の姿には、さすがに驚かされた
「ほおー。戦をするための砦とは、こう言う作りになっているのか」
当の信良は感心したかのように、目前に広がる小牧山砦を眺める
「三十郎」
「はい」
夢中になって砦を眺めていた信良は、慌てて姉の方へ顔を向けた
「五郎左は普請の天才だ」
「天才だなんて、そんな・・・」
滅多に帰蝶に誉められることのない長秀は、頬を真っ赤に染めて俯いた
「城の中では教わることの少ない物を、この機会に学べ」
「はい。 では、私は此度の戦には・・・」
「参戦しなくても良い。斎藤の手の出し方がわからない今、お前を守ることもままならない」
「姉・・・」
「お前だけは、生き残らなくてはならない戦なのだ」
「それは・・・」
「 」
義理の姉は、何も言わない
だが、目はこう語る
お前が、最後の希望だと
織田信秀、土田市弥の、最後の実子なのだから
だから、死なせるわけには、いかないと
「 賢く、お留守番をしております・・・」
「良い子だ」
信良の返事に、帰蝶は僅かに微笑んだ
「五郎左」
「はい」
「三十郎に、後詰の大事さをこってりと教えてやってくれ。背中を空けられるのも、後詰あっての油断だ。これがなくては、我々は常に四面楚歌の中で戦わなくてはならない」
「承知しました。若様、宜しくお願い致します」
「こちらこそ、ご教授宜しくお願い致します」
信勝の死後、母の愛情を一人受け育った信良は、さすが市弥の倅だと唸りたくなるほど折り目正しい
母の愛は、大きいと感じさせられた
恒興も、その素行は驚くほど清廉で、だからこそ、その対極に早く親から引き離された夫の常識外れな行動にも、ある意味納得させられた
自分も、その内の一人なのだなとも
清洲に残して来た帰命は、どう育つのだろうか
俄な不安を抱えながら、帰蝶は砦の屋敷に入った
「殿」
表座敷で、到着していた先発隊が自分を出迎える
「お持ちしました」
新調した兜の入った木箱を抱え上げ、恒興が直接手渡す
「すまんな」
「いいえ。それから、母上の伝言を」
「後で聞く。どうせ、碌でもないことだらけだろう?」
「ははは」
確かにその通りなだけあって、恒興は苦笑いをしたまま何も言わなかった
「一同、大儀である」
帰蝶の一言に、先発隊として集まった各将が頭を垂れる
「今回の戦、其々考えることはあるだろうが、先ず私は、兄上亡き後の斎藤が、どのような戦い方を選ぶのか、それを知りたい」
「治部大輔様亡き後の斎藤の出方ですか?」
長秀が確認するかのように訊ねた
「兄上は、認めがたいが軍略の天才だと私は見た。言い訳にしかならないだろうが、昨年の戦での敗北も、私が兄上を侮っていたがために起きた必然だと想っている。つまり私は、父上と全く同じ轍を踏んだわけだ。これは反省に尽きる」
「殿・・・」
自分を責め過ぎるなとでも言いたげに、恒興は眉を顰めて首を振る
「だからみな、斎藤との次の戦は、決して深追いをしないよう、心掛けて欲しい。こちらが優位に立とうとも、決して驕らず、着実に一歩一歩前進してくれ。先ずは、昨年取り損ねた墨俣砦を今度こそ奪取する。それから、織田に味方してくれる大垣周辺の豪族達の保護も兼ねて、加納砦も奪いたい」
「加納砦ですか?」
「ああ。妙椿時代の、斎藤の拠点の一つだった。父上の代になってから廃棄され、野晒しになっている。土岐、越前朝倉、それから、織田との三つ巴が続いていたからな、恐らくは織田と争っている最中に捨てたのだろう。あの頃は大垣を落されて、斎藤も大童だっからな」
帰蝶の言葉に、小さな笑いが起きた
「加納砦は長森に程近く、長く織田に与してくれているお能の実家の岐阜屋も、万が一の時は守ることができる」
「おまけに、羽島にも近い。入手も不可能と言うわけではありませんね」
「羽島は長良川合戦の折り、陣を張って以来、清洲との関係も良好だ」
「ですが、逆に井ノ口とも目と鼻の先。押し寄せられたら、一溜まりもありませんよ」
「そうだな。稲葉山城からも目視できる場所にある。その砦を再築するにしても、相当の腕を持つ人間を配置しておかなければ、折角奪ったものもあっさり奪い返されるだろう」
と、帰蝶は、ずっと黙って話を聞いている弥三郎を見た
「 はい?」
「いや、なんでもない」
ふいと笑い、顔を逸らす
そんな帰蝶を弥三郎は不思議そうな顔をして眺めた
「墨俣砦を落せば、美濃攻めも楽にはなると考えていたが、それも撤回する」
「殿?」
帰蝶の発言に疑問を感じた秀隆が尋ねた
「墨俣砦は、奪取するのですか?放棄するのですか?」
帰蝶を信用してはいても、理解できているわけではないのだろう
もしもここに龍之介が生きて側に居たなら、帰蝶の考えを理解してくれていたか
あるいは、さっき邂逅を果たした景任が付いていてくれれば、同様の結果が見えていたのか
最も近しい実弟の利治は清洲に残っており、まだこちらには到着していない
その利治が居てくれれば、あるいは面倒な説明も省けたかも知れない
どちらにしても、その何れもここに居ない以上、自分で説明する以外なかった
「墨俣砦を手に入れれば、確かに斎藤への警戒手段も得られるし、拠点として使えるかも知れない。そのために、佐治が大垣周辺への調略を進めてくれていたのだからな。だが、その佐治を以ってしても、関ヶ原の竹中を引き込むことができなかった。これは織田にとって痛手にもなる」
「 申し訳ございません・・・」
その上司である恒興が、頭を下げて謝罪した
「勝三郎、私は佐治を責めているのではない。後から新五と共に到着するのだろうが、顔を合わせたからと言って、このことを掘り返したりはするな。寧ろ早々に手を引いた佐治の判断は正しいと想う」
「ありがとうございます・・・」
「竹中は佐治と接触したことがあるのだから、その竹中から斎藤へ、織田の情報はいくつか流れているかも知れない。私はそれを警戒している。だが、墨俣から手を引けば、次は何処を狙うか簡単に読まれてしまうだろう」
斎藤には、まだ、『夕庵』が残っているのだから
信長が生きていた頃は、こちらの味方をしてくれたかも知れない
だがそれは、様々な条件が付いていた
父・道三が存命だったこと、何より、夫・信長が生きていたこと
今はそのどちらもこの世には居ない
夕庵が未だ弱小である織田の味方をして、益があるとは考えられなかった
「確か、その竹中家の当主は、斎藤方家臣・安藤と婚姻関係を結んだとか」
「ああ。先代(吉法師様)が生きていらした頃、織田の援軍で一度那古野を訪れている。覚えている者も居るかと想うが」
ここには可近も居るので、信長の名前を出すことは憚られる
言葉を換えて誤魔化すしかなかった
「その、安藤様は、土岐家の家臣」
「つまり、どこまで斎藤に加担するか、わからない。『美濃三人衆』は所詮、『美濃の豪族』でしかない。斎藤家に忠誠を誓う譜代じゃないのだからな」
「そうなると、寧ろ斎藤は、譜代が少ない分、いざと言う時の確実な味方も少ないと言うわけですね」
「だが、力がある限り、斎藤に歯向かうこともない。その斎藤から『力を奪う』こともままならないのだからな、空中分解をのんびり待っていられるほど、私も気の長い性格はしていない」
「確かに」
ついうっかりそう口走り、恒興は軽く帰蝶に睨まれた
まるで首根っこを掴まれたかのように、青い顔をする恒興にまた、軽い笑い声が生まれた
「回りくどい説明になったが、現在の斎藤方の家臣が集まる西に拠点を置いても、常に戦い続けなくてはならないと言う状況に陥る。そうなっては、こちらも戦力を維持し続けることは難しくなるだろう。大垣は竹腰に代わって長井が入り、その上に当たる曾根には土岐重臣でもあった稲葉が居る。この二つを相手にするのは骨が折れるだろう?」
「だから、墨俣を諦めて加納に?」
「誰が諦めると言った」
漸く口を開いた勝家に、帰蝶は呆れた顔をして言い返した
「当面の織田の目標は、墨俣砦を落すこと。そして、少なくとも一年は保持し続ける」
「一年?」
「どうして、一年と言う期限付きなんですか?」
「その間に、加納砦を奪い、こちらを再築させる」
「加納砦を?」
「加納は、美濃の商業都市に程近い。もしもここが戦の拠点になってしまったら、美濃の経済は大きく混乱するだろう。それを斎藤が望むか?」
「 」
誰もが難しい顔をして、軽く首を振る
「手出しができないからこそ、織田の砦を作る意味があるのだ」
「美濃の民が、織田を受け入れるでしょうか」
「それは後から考えれば良い。今はそこに根付くことだけを考えろ。加納砦を拠点にすれば、この小牧山と二ヶ所同時に出陣できる。更には、この二ヶ所を叩かねば、斎藤は清洲に入ることもできなくなる」
「防衛線になるわけですね、加納砦は」
「つまり、墨俣攻撃は、加納砦を奪うための囮と言うわけですか」
「そうだ。今川治部大輔が、鳴海を囮にしたのと同じことを、私達もやるのだ」
短く、感嘆の溜息が流れた
信良は義理の姉を見詰め、これが本当に女の考える作戦なのかと、内心驚かされた
母から付けられたどの軍略家も、これほどのことを教えてくれただろうかと想い巡らす
「では、犬山への警戒は」
と、恒興が聞く
「そのために、土田に転ばせた」
「ですが、万が一土田が再び斎藤に味方すれば?」
「その土田を監視するために、金森家の協力を願い出たのだ。金森家は現在の斎藤家とは争う間柄だ。敵の敵は、味方と言うだろう?織田と金森の利害が一致している以上、金森は織田を裏切ったりはしない。そうだな、五郎八」
「 はい」
少し遅れて、しかし自信に漲った表情をして、可近は力強く返事した
その返事に少なからずとも、勝家らは安堵する
「加納砦を手に入れるために、墨俣砦を攻撃し、犬山へ睨みを利かせるために土田家を味方に付け、その土田家に圧力を掛けるため、金森家と同盟を組む。鮮やかな心理戦ですね。殿、本当に深窓(姫)育ちなのですか?」
冷やかすわけではなく、心の底から唸る恒興に、帰蝶は淫らな目をして返した
「その証拠でも見たいのか?」
「 遠慮しておきます。地獄に落ちそうだ」
「どう言う意味だ」
『信長』が帰蝶であることを知らない可近はキョトンとするも、初めて軍議に出席した緊張からか、それを周りに聞ける状況ではなかった
「あははははは!」
最初に信良が大笑いし、それを合図に秀隆、勝家ら全員が笑い出す
「お前達、心底失礼なヤツらだな」
そう言いながらも、帰蝶も軽く笑う
ただ一人、可成だけは苦笑いに留まった
相変わらず、何を考えているのかわからない頭だが、それを言葉にすれば不思議と勝てるような気がする
そんな気にさせられる
本当に、不思議な人だ
斎藤帰蝶と言う人は
そう心に浮かばせるも、それでもやはり、この頃は『斎藤帰蝶』を忘れようとしている帰蝶が不憫でもあった
才ある女はみな、このような不器用な生き方しかできないのかと
重ねた肌と肌が離れぬよう、互いの手で繋ぎ止め、擦り合わせる
女の嬌声が明かりのない部屋に流れ、男の溜息がそれに覆い被さった
あっ、あっ、と、今際に近い短い悲鳴の感覚が少しずつ短くなり、布団の、衣擦れの音も激しくなってゆく
「殿・・・、殿・・・」
縋り付くような声に、男は応えるかのように女を抱き締めた
「ずっと、このままで居たい・・・」
涙の混じったような、哀願の声
「私もだ・・・」
想い遂げてしまえば、それは儚い夢であることを想い知る
それでも、その言葉を信じたい
「 十郎様・・・ッ」
背中に回した女の小さな手に力が籠った
細い爪が肉に食い込む
女の想いに応えるかのように、織田信清は小さな声で名を呼んだ
「伊予・・・」
「はい・・・」
「共に、参ろう・・・」
「はい・・・」
生まれ育った実家よりも、今はこの夫の方が大切に想えた
何物にも換えられない、大切な宝物だった
信長実父・信秀の病没により、犬山織田は勢力拡大のため、信長が相続するべきだった土地の多くを分配のどさくさに紛れて奪い取った
元々諍いには弱い信長であったため、口頭での注意は受けても、実力行使で奪い返すことはしなかった
だが、その信長も年齢を重ねるごとに性格が荒々しくなっている
奪った土地も、岩倉織田の排除により徐々にではあるが、清洲織田の物になっていた
『信長』の手が、もう、直ぐそこまで及んでいる
大きな、何か、例えば、そう、清洲と犬山の間で戦でも起きてしまえば、この問題は否応なしに強大化してしまい、清洲か、あるいは犬山のどちらかが倒れない限り、解決することはないだろう
妻の肌に身を擦り付け、絶頂も間近に迫る時、閨の外から家臣の声がした
「殿。夜分に申し訳ございません」
「 」
伊予は自分の口に手を押さえ、声が出るのを控えた
同時に信清の腰の動きが止まった
「どうした」
「清洲が、動きました」
「 そうか」
自分の下では、伊予が心配そうな顔をして自分を見上げていた
その伊予に優しく微笑むと、凡そその表情には似つかわしくない、禍々しい口調で命令する
「津川を、呼び寄せろ」
「承知」
しばらくして、その廊下を立ち去る足音だけが聞こえた
僅かな間を支配する静寂(しじま)
耐えられなくなった伊予が、小さな声で呟く
「津川、を・・・」
「表向き、織田に服従した姿勢を見せていても、所詮尾張の国主の家だ。いつまでも、飼い馴らされたままで満足するとは、想えない」
「上手く行くでしょうか・・・」
「行かせなければ、私達に明日は訪れない」
「 」
夫の首筋に、小さな指先を沿え、抱き包むようにそっと挟む
「私は・・・・・・・・・」
「実家に・・・、帰りたいか?」
「 」
伊予は激しく首を振り、遂に悲しみの涙を零した
「帰りたくない・・・。伊予は、十郎様と一緒に居たい・・・。ずっと、ずっと。この空が堕ちて来ても、伊予は十郎様から離れない・・・ッ」
「そう言ってくれるか、伊予」
信清は妻の首筋に口付けを落す
伊予は縋るように、夫の背中に手を回ししがみ付いた
儚く散るからこそ、桜は美しい
この時代の男達はみな、桜のように儚く、そして、美しく生きていた
「私は、一人ではないのだな?」
「ええ、そうです。十郎様には、伊予が着いております。伊予が・・・」
花には、蝶が似合う
移り気な蝶だとしても、その蝶を独り占めできるのは、花だけである
花だけが、蝶の羽を止めることができる
だからこそ、花は美しくあり、美しいままでありたいと願う
妻が蝶なら、自分は蝶に似合う花でありたいと願った
だから、このままではいけないと決意する
主従関係からの、離脱
信清の心に浮かぶのは、いつの間にか『主』になりつつある清洲から、『従』であることを拒絶する想い
男なればこそ、華やかで居たいと願う純粋な想い
それを『間違い』だとは、誰も想わない
男、なればこそ
軍議を済ませ、長秀が直接建築に携わった寝室に入る
清洲の本丸とは趣が違うが、帰蝶の清廉な性格をよく反映していた
簡素だが、粗末でもない
「眠れないのではないかと心配だからって、お菊から枕を渡されました」
そう言って苦笑いする弥三郎に、帰蝶も苦笑いで返した
「菊子もいつの間にか、なつ程の心配性になってしまったか。すまないな、弥三郎」
「いいえ。それから、清洲から第二部隊も出発したそうです。夜中過ぎの到着になるかと想いますが、本戦には間に合うでしょう」
「一度に移動すると、犬山を刺激させるだけだからな」
「確かにその通りですね。三左さんとここへ来る途中、犬山の斥候を何人か確認しました。特に仕掛けて来るわけでもないし、殿が金森との交渉を成功させたと聞いていたので、さっきは言いませんでしたけど」
「そうだったか。だから五郎左が心配していたのだな」
「向うも様子見のようです。斎藤と争うのですから、こちらにも多少の損害が出て、それを確認してから出るつもりじゃないでしょうかね。じゃないと、いくら何でも『身内』に証拠もなく仕掛けるのは無謀でしょう」
「そう想ってくれるとありがたいのだが」
「殿?」
心なしか、別のことを考えているような表情をする帰蝶に、先程のこともあってか弥三郎は屈み込むように顔を見た
「 弥三郎」
「はい、何ですか」
「吉法師様が生きてらっしゃった頃の話だ」
「はい」
改まる帰蝶に、多少面食らう
「私は、お前の父上様に大口を叩いてしまった」
「大口?」
「何れお前達に、可児の土田城を取り返してやると言う話だ」
「ああ、そのことなら親父から聞いたことがあります。だけどそれで、殿の負担にならなければ良いのだけどとも話してましたよ。それがどうかしましたか?」
「その約束を、反故にしてもらいたい」
「 え・・・?」
信じられない発言に、弥三郎は目を見開いた
「殿・・・?」
「土田城は、諦めてくれ」
「何仰って・・・・・」
「土田は、あのまま可児に居てもらう」
「殿・・・・・・・・・」
帰蝶の言いたいことが理解できない
やはり、家を追い出された者には、城は不釣合いなのか
帰蝶はそう言いたいのか
「親父の・・・生まれた城を・・・、諦める・・・?」
帰蝶に裏切られるのは、何度目だろうか
いや、裏切ったわけではない
裏切られたわけではない
だけど、心がそう嘯く
この人も、所詮は武家の人間なのだ、と
「弥三郎、聞いてくれ」
「 何をですか」
桶狭間山合戦の後の兄の死も、そうだった
何もなかったかのように、当たり前のように、冷静な顔をしていた
「土田城を土田家から奪い、お前達に返還するのは易い。だが、それでは可児の民がお前達を許さない。きっと、どこかで不満が生じる。今の斎藤を見ろ。表向きは何事もなかったかのように機能しているだろう。だが、その裏では様々な不穏分子が動き回っている。考えてくれ、弥三郎。吉法師様の死後、何故、清洲が私に上手く移行できたのか。誰も、『織田信長』が死んだことを知らされていないからだ。だが、今の土田家を追放してしまえば、嫌でもそれは人の目に付く。お前達が土田家を追い出し、主家を食らったと勘違いしてしまう。元々の嫡流がお前達だと知っていても、それでも良い感情は持たない。何故、金森家が斎藤に目を付けられながらも多治見に留まったか、何故、坂家が北畠に攻められながらも伊勢に留まっているか、考えてくれ。そこを離れてしまえば、全て無に帰すのだ。だから」
だから私は、明智の城を諦めた
そう言いたいのを飲み込む
ずっと黙って、帰蝶の話を聞いている弥三郎は、それでも感情的に「だからどうした」と言いたい想いで一杯だった
それがわからないわけではない
「弥三郎」
帰蝶は、普段は放っておくことでも、今は放っておくべきではないと感じたか、ゆっくりと話した
「約束も守れない愚か者と、私を詰ると良い」
「そんな・・・」
「だが、お前達に先達と同じ道を歩んで欲しくないのだ。父上が死に、兄上が死に、なれば今こそ、土岐家が返り咲いてもおかしくはないだろう?だが、それでも土岐家は美濃には戻って来ない。何故だかわかるか?『去った者』だからだ。お前達土田宗家も、可児の民にしてみれば『去った者』でしかない。そんな土地に織田の威光を借りて戻って、歓迎されるものなのか?あるいは、今の土田家の施政と比べられ、些細なことでも責められるだろう。私は、そうあって欲しくはないのだ。だから、弥三郎、火を飲む想いだろうが、堪えてくれ」
「殿・・・」
「頼む」
「 」
哀願する帰蝶の瞳に吸い込まれ、怒りの感情が消えていくのがわかった
「わかり・・・・・」
「だが、お前には別の任務を頼みたい」
「え?」
自分をじっと見詰める弥三郎に近付き、そっと耳打ちする
「 そっ・・・」
真相を聞かされ、目を見開いた
それから、叫ぶように聞き返す
「加納砦を、俺が」
「静かに」
帰蝶の手で口を塞がれ、それ以上何も発せない
「代わりと言っては何だがな、それで手を打ってくれないか」
「でも・・・、何で俺を・・・」
「長森にはお能の実家がある。知っているな」
「当然ですよ」
「お能にとってお前は、義弟だ。本来なら、お前の兄、平三郎にと考えていたのだが、悲しいことに今川との戦いで死別してしまった。だから、平三郎の代わりに誰を据え置こうかと考えていたのだ」
「てことは、加納砦の奪取、随分前から考慮なさっておいでで?」
「何故、あんな立地条件のいい場所を放っておくのかと、ずっと疑問だったんだ。あの場所は、私がまだ尾張に嫁いで居ない頃、織田との争いの場合でも有効活用できたのに、父上はずっと放っておかれた。最も、私が吉法師様に嫁いだことによって、所有していても意味のない物にはなったが」
「そうですね。あの頃の勝幡織田は、大和守織田とも争っていた。織田が斎藤と同盟を組んだことにより、大和守織田は勝幡織田に手出しができなくなったのだし」
「ああ。勝幡織田を攻めれば、背後から斎藤が乗り込んで来る。逆に斎藤を攻めても、背中に勝幡織田の剣先を付き付けられる形になる。だが、その何れも今では昔話の類に入るだろう。しかし、こうして再び争う間柄に戻ってしまった今、それでも兄上は加納を放置したままにしていた。私だったら、再起動させる」
「対織田戦に向けて」
「加納の息を吹き返さなかったこと、これは兄上が唯一残してくれた誤算だ。それに、あの砦は妙椿時代、織田との争いに於いても防衛線として機能していたのだ。それが岩倉織田との婚姻による同盟によって、存在の意味が薄れてしまった。だから父上も重視していなかったのだろうが、こうして斎藤と争うことになり、また有効活用できると言うものだ。それに、奪取した場合は、清洲の防波堤としても充分機能するだろう」
「そうですね・・・」
「しかし、そうなれば民にとって気分良く受け入れられる人間を置いておかないと、それこそ意味がない」
「だから、俺なんですか?」
「側の長森にある岐阜屋との関係がはっきりすれば、民もそう反発することはない。寧ろ、可児よりは歓迎してくれるだろう。勿論、斎藤との間柄を考えれば、手放しで喜ぶとは考えられんが、全くの無縁の人間ではないのだからな、お前の姿勢次第で民は強い味方になってくれるだろう。そうなれば、井ノ口の小春屋、菊子の実家だな、それとも提携できるかも知れん」
「はぁ・・・。話が壮大になって来ましたね・・・」
「それを受け入れる度量が必要だ。今から鍛えておけ」
「そんな無茶なぁ・・・」
夜もかなり過ぎた頃、帰蝶は漸く一人になり、床に就いた
横になっても中々眠れず、利治らの到着を待ってから眠ろうかと想った
金森家との提携は、可近が踏ん張ってくれたのだろう
初めて対面した時と、多治見まで見送った時の金森孫四郎長可の、自分を見る目が違っていた
それから、土岐郷に入った時のことを少し、そして、十数年ぶりに再会した景任のことを想い出す
「お前が尾張に嫁ぐまで、正しくは冬が来るまでか。僅かな間だったが、お前と共に獲物を追い、腕を競ったことがまるで昨日のことのようだ」
花嫁修業で滞在していたしばらくの間、長山で鷹狩りを楽しんだことを想い出話として口にする
「与一様には、本当に失礼なことをしました」
当時はそれが正しいと想っていたが、今になると男に拳で語ってしまったことに後悔した
「ははは。まさか十年経ってから謝罪されるとは、想っていなかったぞ」
「若気の至りだったのでしょうか。今想うと恥しくて、身を隠してしまいたい心境です」
「それこそ、想ってもみない言葉だな。だがあのお陰で、私は女を見る目が変わった」
「与一様」
「女は弱く、男に従うものだと想っていた。その価値観を、お前が見事引っ繰り返した。あれから私も考えるようになったよ。そして今、お前を目の前にして想うこともある」
「何でしょうか」
「女を舐めていると、痛い目に遭う、とな」
冷やかすような目付きで言ってのける景任に、帰蝶は頬を赤くして俯いた
「帰蝶」
「はい」
「女でありながら、よく逃げなかったな」
「与一様?」
「立派だ。信長の正体を口にすることは叶わないが、それでも私はお前を誇りに想う。お前の友としていられる自分を、誇りに想う」
「 」
ずっと逢っていなかった友の、たった一言に帰蝶は、それまでの日々が報われたような気がして、言葉を発することができなくなった
「信長として生きる決意をしたのなら、これから先もつらいことはあるだろう。だが、安心しろ。お前は 」
強い味方を得た気分になれた
ただ単純に嬉しかった
だけど、それを夫以外の男に言われた淋しさ
本当なら、夫に言ってもらいたかった一言
それでも、嬉しいことに変わりはない
眠れないのは、心が高揚しているからだろうか
夏の気配の近付く風の香りに、帰蝶は布団から起き、庭に出た
それと同じ頃、表の庭が俄に騒がしくなって来た
第二陣が到着したのか、人の喧騒も聞こえて来た
「ご無事のご到着、お待ちしておりました」
恒興が出迎える
「遅くなりました」
次発隊の先頭に立っていたのは、利治だった
「殿は、もうお休みですか」
「先ほど、ご寝室に入られたばかりです」
「では、到着の挨拶は明日でいいですね」
「今聞くぞ」
二人の先から、帰蝶の声がする
恒興が振り返ると、寝間着の上に小袖を羽織った帰蝶が立っていた
「殿」
姉が相手でも、公衆の前では『主君』に当たる
利治は帰蝶に軽く頭を下げた
「お前が先導したか」
「清洲までは佐治が部隊を率いて参りましたが、途中で犬山の兵とかち合いまして」
「小競り合いか?」
「いえ、回避しました」
「そうか、よく躱した。斎藤戦前に、兵力を削られるのは癪だからな」
「佐治がそれを指導しまして、ですから佐治の部隊が今殿(しんがり)をしています」
「そうですか!さすが佐治。使える男です!」
佐治の極端な贔屓である恒興は、元々丸い目を更に丸くして大袈裟に驚いて見せ、帰蝶と利治を苦笑いさせる
「清洲周辺の様子はどうだ」
「はい。やはりこちらの隙を突いて、犬山が動きを見せている様です。ですので、蜂須賀殿の部隊が城の周りに集まっております。少しは抑止力になるかと」
「そうだろうな。蜂須賀はお能に惚れているようだからな、大事なお能様に何かあっては一大事だ。桶狭間山とは勝手が違うだろう」
「ははは・・・。確かに、目が血走っておられました」
「では、清洲の方は安泰か」
「はい。林殿も留守居で守りに入られておられます。こちらよりも、清洲の方が余程兵力がありますよ」
「困ったもんだな、こちらに向かおうとは想わんのか」
「まぁ、殿がいらっしゃいますから、構えていられるのでしょう」
「お前も口が上手くなったもんだ」
「そうですか?」
「ははは」
他愛ない、まるで姉弟の戯言のような会話
今だけは戦を忘れ、恒興は無心で笑った
「新五」
「はい」
「 話がある。表座敷に来い」
「はい」
「殿?如何なさいましたか」
「勝三郎」
「はい」
「人払いを、頼む」
「 はい」
いつになく、追い詰められたような目をする帰蝶が気懸かりだった
表座敷を人払いに、恒興はその廊下に鎮座し、誰も近付かないよう見張る
中では姉と弟が対峙していた
「新五」
「はい」
「お前は、斬り込みである弥三郎の部隊に配属されている。だから、先陣を切らねばならない立場だ」
「はい、重々承知しております。ですから、必ず武功を挙げて見せます」
「そうじゃない」
「姉上?」
「 」
「帰蝶、お前は帰れ」
いつもそう、夫に言われていた
何故夫がそう言うのか、今になって理解した
大切な者を戦に連れて行くのは、怖い
「新五。お前は、清洲に 」
「姉上」
口唇が綻びそうになる姉を、制止した
「何故、姉上はここにおられるのですか」
「新五・・・」
「戦をするためでしょう?」
「・・・・・・・・そうだ」
「私は何故、ここに居ますか」
「それは 」
「戦のためです」
「新五・・・」
「私は、父上の仇が討ちたくて、姉上を頼りました。今もその想いに変わりはありません。ですが、別の想いも抱えております」
「別の想い・・・?」
「さちを、守りたいと言う想い」
「新五・・・」
「この世のあらゆる厄災から、さちを、そして、生まれて来る子を守りたいと言う想い。姉上なら、理解してくださると想っております」
「 」
「姉上は、私が死んでしまったらと考えておられるのではありませんか」
「そっ・・・・・・」
言葉が、上手く出て来ない
「美濃を落した後、斎藤に取って代わる存在が必要です。ですが、帰命丸様はまだ幼い。その時期ではない。だから、斎藤道三の息子である私を、と。その私が死んでしまえば、美濃を落しても掌中に収めるのは難しい。人の心情とは、そう言ったものですから。ですから姉上は、私がこの戦で死んでしまわないかと心配なのではありませんか」
「 」
そう、なのかも知れない
それだけじゃ、ないのかも知れない
この想いをどう告げれば良いのか、帰蝶自身わからなかった
「姉上。私はもう、一人じゃない」
「 」
その言葉を口にする弟に、帰蝶は目を大きく見開いた
「私には、さちが居ます。さちの腹には、私の子が居ます。私が死んでしまったら、さちの子を頼みます」
「新・・・五ッ」
「私が死んでしまっても、私の代わりになる子が、さちの腹には居る。『斎藤の跡取り』にできる子が」
「新・・・・・・・・・・・・・」
どうか、お願い
遠い目をしないで
男はみんな、現世を見ながら来世を夢見る
夫も、そんな人だった
いつもいつも時代の先へ、先へと心を急かせ、急ぎ足で駆け抜け、繋いだ手が離れがちになり、必死になって掴み、離れないようしがみ付いて来た
だけど、繋いだ手が離れ、今はここに居ない
「新五・・・・・・・・・・」
流さないと誓った涙が、流れそうになり、帰蝶を困らせた
夫と同じ目をし始めた弟に、胸が締め付けられる
そうさせたのは、自分なのか
この手で、弟に夫と同じ道を歩ませてしまったのか
「 武功は、いくらでも挙げろ。だが、・・・・・・・・死ぬな」
「あはははは」
苦笑する弟に、一緒になって笑う気にはなれなかった
「難しい注文ですね」
「だからこそ、生きる価値のある時代なのだ」
「そう・・・かも知れません。生きる価値のある、時代。そんな時代なのですね」
「そうだ」
そうだ
死んでしまえば、全て終わる
そんな時代に自分は今、居るのだ、と
弟への言葉は、自分への言葉でもあった
恒興からもらった、なつの伝言
他愛ない物ばかりだった
だか、その他愛ない物の中には、生きて帰って来て欲しいと言う想いばかりが詰められていた
清洲のなつも今、自分と同じ想いを抱えているのだろうか
尚更、生きて帰らねばならない
生きて帰って、安心させてやらねば、と
そう、想った
翌朝、なつは朝餉を済ませると、一人、局処の廊下を歩いていた
ある想いを抱えて
周囲にいつも付いている侍女の姿はなく、急ぎ足で廊下を渡る
そこへ、向うから歩いて来た市弥と出くわした
「なつ」
「大方様・・・」
急いでいる時だからか、なつは一瞬、嫌な顔をした
「どうしたの?一人?」
「あ、はい」
「急いでいる様子ね。本丸の帰命に、何かあったの?」
「いえ、そうではありません」
だが、内心では早く行きたい場所があった
早口で返事するなつに、市弥は顔を傾ける
「どうしたの。言葉も早いけれど、何かあったの?」
「大方様・・・」
些細なことに気付く市弥に、なつは自然と眉間が寄った
結局、市弥に捕まり、そのまま局処の廊下で立ち話を洒落込む羽目になった
「今年は雨が遠いわね」
「そうですね。去年でしたらもう、梅雨に入っててもおかしくないのですが」
「表座敷の方では、夏に備えて堀田殿が各村を回っておられるそうね」
「ええ。万が一飢饉でも訪れたら、民を救済せねばならないからと」
「一昨年だったかしら、雨が少なくて、木曽川沿いの村に疫病が流行ってしまって」
「それも、殿が前以て予想されておられましたので、被害も少なく済みました」
「堀田殿はまだお若いから、きびきびと動き回れるのでしょうね。それに、上総介とも旧知の仲、何も言わずとも意志の疎通ができるのかしら」
「元々は、殿のお父上様の側近でいらっしゃいましたので、殿とも近しい間柄だったのでしょう」
「その、上総介」
「はい」
呟くように名を告げる市弥を、なつは少しキョトンとした目で見た
「とうとう、清洲には戻って来なかったそうですね」
「 はい」
喉が詰まり、返事が遅れる
「多治見から、そのまま小牧山に入られたそうです。昨日、勝三郎ら先発隊が小牧山の砦に向かいました」
「そう。新五様も?」
「はい。二次部隊として、夜遅くに城を出られて」
「そうだったの。上総介は、本気なのかしら」
「え?」
「本気で、実家に挑むのかしら」
「大方様・・・」
「どこかで、情が生まれたりはしないかと、どうしてかしら、心配なの」
「 そう・・・ですね。ですが、殿なら大丈夫だと想います」
「大丈夫?」
「私情を挟むことを嫌われますから、殿は」
「そう。そこが、女らしくないところなのよね、上総介の場合」
「ふふふ・・・」
敢えて、言葉にはしなかった
帰蝶はもう既に、自分が女であることなど忘れている、と言うことを
「だけど、こちらが動くと並列して、犬山も動いてしまう」
「隙あらば、清洲織田を攻める準備はできているでしょうからね」
「考えることは、たくさんあるわね」
少し沈みがちになる市弥を、なつはどうしたのだろうかと伺うような顔で見詰めた
「上総介は、犬山をどうするのかしら」
「大方様?」
「あの子は今までに、犬山を説き伏せようとしてくれたのかしら。どうして、歯向かうことを許すのかしら。だから、犬山も、いつまでも逆らってしまうのよ。あの子は、どうして・・・」
「大方様・・・」
「まるで、犬山を潰す機会を伺っているかのよう」
「そんな」
なつは、眉を顰めて首を振った
「潰すおつもりなら、とっくの昔に仕掛けておられます」
「だけど、それでもね、あの子の真意がわからないの。黙って見過ごしているのか、それとも、大義名分を待っているのか・・・。そうよね、犬山を潰せば、尾張はあの子の物になる。誰も異は唱えられない。そうよ。あの子は賢い子だもの。世論の怖さを知ってる。お父上様が、それで潰れてしまったようなものだもの。だからあの子は、犬山の自滅を待っているのよ」
「大方様、それは違います、勘違いです」
帰蝶を想い、なつは慌てて否定した
「勘違い?」
「殿は多治見に向われる寸前、こう仰りました。犬山は、まだ、何もしていない。何もしていない犬山に仕掛けることは、できないと」
「犬山が、まだ、何も・・・?」
「殿は、前年、斎藤に仕掛けた時、一緒に動いた犬山の行動など、気にされておられません。私は、そう想います」
「だけど、現に犬山はこちらに対して、反発の姿勢を取っているわ」
「確かに犬山織田は清洲織田に対し、争う構えを見せました。それでも殿は、犬山を批難はしませんでした。まだ、押えられる段階だと踏んでおられるからです。それは、恐らく、きっと・・・」
伊予のことを気に掛けているのだろう
そんな、確証のないことを想い浮かべ、そして、言葉にすることを躊躇われた
「上総介は、斎藤を落した後、どうするのかしら」
「どうするとは・・・?」
「あの子は、やはり犬山も落すのでしょうか」
「犬山・・・」
今はそれはないとしても、何れの話ではその可能性も、無きにしも非ずである
ずっと清洲織田に歯向かっているのを、帰蝶の一言で収めている
家臣の中には、斎藤よりも先に犬山織田を落すべきだという声が、上がってもいなくない
「そう・・・だとしても・・・」
「犬山には、伊予が嫁いでいます」
「はい。ですが、その政略が上手く行かなかったのは事実です。大方様、何をご心配なされておいでなのですか?」
「伊予の、ことよ」
「伊予様のこと?」
「織田の政略で、嫁いだ伊予が不憫で・・・」
「それは・・・」
「このことで、犬山で周囲から責められてはいやしないかと、心配です」
「そう・・・ですね」
「伊予は私の娘ではないけれど、私がこの手で、ここから嫁に出した娘です。私は三人の娘を嫁に出しました。犬も市も幸せに暮らしているのに、伊予だけが不幸せだなんて可哀想過ぎる・・・」
「大方様・・・」
「上総介はどうして、伊予の様子を伺ってくれないのかしら・・・」
「 殿・・・も、美濃からお輿入れなされて以来、親御様に手紙の一枚も送っていないと聞き及びます・・・」
「上総介が?」
「勿論、軍略として武井様との間で何度か遣り取りはありました。ですが、それもお父上様の死後、途絶えてしまいました。殿は、伊予様の身を想い、敢えて手紙を送らないのではないかと想います」
「どうして?」
「伊予様が、清洲織田の間者だと想わせたくないのではないかと・・・」
「 」
「政略で嫁いだ女は、みな、実家に嫁ぎ先の情報を知らせるものです。ですが殿は、そうなさいませんでした。長良川での合戦が起きた時ですが、多くが殿をご実家に帰すよう若に進言されました。それでも、若は殿を手放しませんでした。大方様、どうしてかわかりますか?」
「 」
市弥は黙って首を振った
「若は、殿を信頼されていたのです。実家よりも、自分を取ってくれたと確信が持てたのです。だから、若は殿を庇われたのです。殿が、一度たりとて織田の情報を斎藤に流さなかったからです。その逆に、様々な手を使い斎藤の情報を織田に齎されました。だから、若は 」
最期まで、妻を信じた
信じたからこそ、自分の夢を託した
「大方様」
「 なあに?」
「先ほど、伊予様が不幸だと仰りましたね」
「・・・ええ」
「果たして、そうでしょうか」
「どう言うこと?」
「不幸な目に遭われておられるのなら、その噂話も流れて来る筈です。ですが、伊予様が不憫な目に遭っているとは聞きません」
「確かにそうだけど、だけど、逆に幸せに暮らしているとも聞かないわ」
「大方様。人の不幸話は伝わりやすいものですが、幸せ話は中々伝わらないものです。私は、そう想います」
「なつ・・・」
「伊予様は、大丈夫です。周囲から責められていないとも限りませんが、お一人じゃない。そんな気がいたします」
「一人じゃない?」
「ええ。ご主人様が、伊予様を守っておられるのではないでしょうか。だから、未だ清洲にはお戻りになられない。それが、幸せの証拠ではありませんか?」
「幸せの、証拠・・・」
「殿と、若のように」
「 」
なつの言葉は不思議なほど、市弥の胸を満たす
不安だった想いが、嘘のように晴れた
「 伊予・・・は、今まで一度も手紙を遣したりしなかったけれど、それが理由、だったのかしら・・・」
「伊予様も?」
なつの顔を見詰めながら、市弥は告白した
「犬山が、初めて清洲に盾突いた時、私は伊予に手紙を送ったのです」
「ええ?」
この言葉に、なつは目を丸めて驚いた
初耳だからだ
「どうして、実家に歯向かうのかと、あの時はそうね、伊予を責めるような内容だったかも知れない」
「大方様・・・。それで、伊予様からは?」
「返事は来なかったわ。私の文が悪いのかと想い、もう一度送ったの。今度は謝るつもりで。だけど、それでも伊予は何も言って来なかった。想えばあの時から伊予は、ここを捨てる覚悟だったのでしょうね・・・」
「そうだったんですか・・・」
「それから、もう一度だけ、送ったの。上総介が、美濃攻めに負けて帰って来た時。小牧山で犬山の反乱があったって聞いて、その真意が知りたくて。だけどやはり、伊予からは返事はなかった」
「そんなことが」
「上総介に、犬山と内通してるって想われたくなかったから、ずっと黙っていたの。それから、返事を遣さない伊予が責められると想って」
「そうだったんですか、大方様。大方様も、色々と動いてくださっていたのですね」
「伊予から犬山の情報を拾えなかった以上、何もしていないのと同じことだけれど・・・」
困ったように笑う市弥に、なつも苦笑する
「ですが、どのような想いで大方様のお手紙を受け取られたのか、私には想像できませんが、少なくとも伊予様は、大方様がご自分のことを忘れては居ないことを知られて、お心が救われたのではないかと存じます」
「心が救われた・・・?」
「大方様。殿・・・は、どうでしょうか」
「上総介?」
「兄上様がご存命中、たった一度だけでした。殿に、ご実家からのお手紙が届いたのは。しかも、殿の様子を伺うものではなく、宣戦布告。殿は、どのようなお気持ちで居られたのでしょうか」
「そう・・・ね。丁度、帰命がお腹に居た時のことだったかしら」
「はい」
「その話は、後からあなたに聞いたのだっけ」
「ええ、そうです」
「 あの子は何も言わないけれど、きっと、そうね」
言葉を選び、それから、それが正しいのかわからないような顔をして続けた
「私なら、悲観に暮れて泣いていたかも・・・」
「大方様」
やはりこの方は、若の母上様だと、なつは実感した
優しい性根だった信長の、その母親だと
愛息である信勝を殺され、自身も頭を垂れるか殺されるかを選ばされた時ですら、市弥は帰蝶の身上を理解し、そして、協力することを決めた
処世術ではなく、同じ女として帰蝶の立場を理解した
賢い女性だと、改めて想い知り、そして、優しい女性でもあるのだと、今更のように感じた
「どのような結果になるか、私達には想像も付かないでしょうが、どちらに転ぼうとも、伊予様ご夫婦が、最後まで共に夫婦として過ごせることを、今はただ祈りましょう、大方様」
「そうね・・・」
市弥と別れ、なつは目指していた場所へと急ぐ
市弥は市弥で人知れず、様々な悩みや心配事を抱えていたのだろう
それを他の誰でもなく、この自分に話してくれたことが嬉しかった
若い頃はいがみ合い、反発し合っていたのが嘘のようである
最も、市弥がなつを一方的に邪険にしていただけなのだが、それでもなつも市弥に対しては良い感情は持っていなかった
それが今では、本音を話し合える間柄になった
これも全て、帰蝶のお陰だと想った
だからこそ、戦場に赴いている帰蝶を、報礼できる何かを届けたかった
「 おなつ様・・・!」
この頃滅多なことでは台所に足を運ばなかったなつの姿に、女達は驚く
「あっ、あのっ!私達、別に米を誤魔化したりなどしておりません・・・ッ!」
「なんのこと?」
なつはキョトンとして、女達の顔を眺めた
新しくした兜を手に取り、眺める
持つ分には、確かにそれまで愛用していた天冠よりも重い
普段温厚な貞勝が血相を変えて怒鳴るだけのことは、あった
これを長く被っていると、確かに首の負担も大きいだろう
だが、被らなくてはならない理由があった
生きて、信長がそこに居るように見せなくては、美濃に付け入る隙を与え、尾張さえ混乱し、犬山にどう動かれるかわからない
その兜にあしらわれた『それ』を、そっと撫でる
懐かしい感触が伝わった
「共に、戦おう、 」
自分の耳にも届かないような、小さな声でその名を呟く
それから、自らの手で兜を被り、緒を締めた
ずっしりとした重みが、首に掛かる
どうして男の首は太く丈夫なのか
どうして女の首は細く華奢なのか
兜を被って、初めてわかったような気がした
「 なんでもない顔をして帰らないと、吉兵衛がそれ見たことかと笑うだろうな」
自分を嘲笑しながら立ち上がる
砦の私室の廊下で、小姓達が並んで帰蝶の登場を待っていた
「 参る」
「はっ!」
龍之介の代わりとして就任した小姓が先頭に立ち、その他の小姓達は帰蝶の後ろに付いて廊下を歩いた
腰には兼定、お能から託された時親の形見、長谷部が二連していた
後ろの腰には、夫の形見である種子島式火縄銃が下げられている
頭の上の兜
どれも、重い
今、自分が背負っている責任と同じくらい、重いかも知れない
それでも、帰蝶は前に進んだ
友が言ってくれた言葉
「信長として生きる決意をしたのなら、これから先もつらいことはあるだろう。だが、安心しろ」
その一言が、重みに耐えられず前のめりに倒れそうになる自分を、支えてくれた
「お前は、一人じゃない」
「 」
庭を眺められる回廊に出た時、一陣の風が吹いた
それはいつものように自分を包み込んではくれず、ただ、通り過ぎただけ
自分よりも先に行ってしまった信長が、通り過ぎたように感じた
「追い付いて来い」
そう言われたような気がして、帰蝶は目元を引き締めた
待っていて下さい
吉法師様
帰蝶は、必ずあなたに追い付いてみせます
『信長』を背負う女が、戦場(いくさば)に立つ
五月の空に立つ
何度打たれようとも、必ず這い上がり、そして、大切な場所を取り返してみせる
信長の名に賭けて
しばらく長山城を眺め、その南にある妻木の城までは無理だろうと想うが、何れは足を運ばせることになるかとも予想する
夫の実家は断絶してしまったが、熙子の実家の妻木は健在のままであった
遠山家の家臣の一つとして、今も存在している
その妻木の家を想い浮かべ、帰蝶は頭の中で考えた
景任との関係を良好のままで維持しなくては、と
土岐から派生した家は数多くあれど、その中でどれだけの家が自分に味方しているのか
明智に次いで力のある不破は、斎藤家家臣
どう考えてもこちらに寝返らせるのは不可能だろう
その出自は自称だが、今では一門扱いされている妻木は、今後の働き次第で織田に味方してくれるかも知れない
蜂屋家は義父の信秀時代から織田に味方し、今では家臣の一つとして働いてくれている
桶狭間山での今川戦でも協力してくれた
今日会合した金森家とも、可近の様子を見れば今後上手くやって行けるだろうと読める
明智、三宅は光秀とその小姓・弥平次の行方さえわかればなんとでもなる、そう気楽に考えていた
伊勢にまで伸びた土岐の末裔、坂家も自分に寄っている
夫が生きていた頃から、何かと世話をしてくれている資房の太田家も、古い時代の土岐一門であった
土岐の由縁はないが、先祖を同じくする美濃池田は、言わずもかな恒興の家系である
増してや、その母親であるなつが側に居てくれるのだから、心配する要素などどこにも存在しない
普段の馴れ合いで忘れがちだが、恒興にも自分と同じ源氏の血が流れているのだと今になって想い返す
巴の坂家と同じく別系統である土岐一門の石谷氏にも、何らかの手を打っておいた方が良いかとも考えた
そうなれば、美濃に残る大きな家となると、斎藤がどうしても目立つ存在だ
最も強敵である斎藤さえ落としてしまえば美濃は傷を付けることなく手に入れることができる
帰蝶はそう計算した
「妙椿時代の夢など、所詮、幻だ」
最も、全て上手く行くとは考えていないが
改めて見れば、土岐一門のなんと多くが自分の手の内にあるのかと、自分自身驚く
たったそれが今は心強い
「小牧に行くか。五郎左が頚を長くして待っているだろう」
「そうですね。とっぷり日も暮れて来ましたし、闇に乗じて犬山が動かないとも限らない。こんな少人数の時に押し寄せられても、守り切れませんし」
「その時は、お前を犠牲にしてでも私は生き残ってやる」
「言いますね」
凡そできそうにもないことを、大袈裟な表情をして言う
そんな帰蝶に秀隆は笑いながら応えた
「さて」
松風の綱を手繰り寄せ、ふわりと浮くように騎乗する
「明日は小手調べ。義龍亡き後の斎藤がどう出るか、それを確かめるための前哨戦だ。無理をしない程度に進めようか」
「はっ」
長山城を背中にする
後ろ髪を引かれる想いだが、先に進まなくてはならない
叔父と叔母の間には、子供は居なかった
だからその分、自分や甥に当たる光秀に目を掛けてくれたのか
叔母のしきは躾の厳しい女性だったが、無駄なことは教えはしなかった
今になって叔母も賢婦だったのだなと、幼さゆえとは言え自分の不孝さを、心ならずも僅かに詰る
途中、土岐郷に少しだけ立ち寄り、それから漸く小牧山の砦に入ったのは、この日の夜遅くだった
「殿!」
長く小牧山砦の留守居をしていた長秀が、心待ちしていたかのように態々出迎える
「遅くなった」
「いえ、それよりもご無事で良かった。犬山の動向が気になり、心が落ち着きませんでしたよ」
「それなら大丈夫だ」
「美濃の金森家と、上手く事が運んだようですね。伺いました」
その金森家の可近が信良に付き添ってやって来る
「三十郎の若様?!」
今まで争い事に顔を出さなかった信良の姿には、さすがに驚かされた
「ほおー。戦をするための砦とは、こう言う作りになっているのか」
当の信良は感心したかのように、目前に広がる小牧山砦を眺める
「三十郎」
「はい」
夢中になって砦を眺めていた信良は、慌てて姉の方へ顔を向けた
「五郎左は普請の天才だ」
「天才だなんて、そんな・・・」
滅多に帰蝶に誉められることのない長秀は、頬を真っ赤に染めて俯いた
「城の中では教わることの少ない物を、この機会に学べ」
「はい。
「参戦しなくても良い。斎藤の手の出し方がわからない今、お前を守ることもままならない」
「姉・・・」
「お前だけは、生き残らなくてはならない戦なのだ」
「それは・・・」
「
義理の姉は、何も言わない
だが、目はこう語る
お前が、最後の希望だと
織田信秀、土田市弥の、最後の実子なのだから
だから、死なせるわけには、いかないと
「
「良い子だ」
信良の返事に、帰蝶は僅かに微笑んだ
「五郎左」
「はい」
「三十郎に、後詰の大事さをこってりと教えてやってくれ。背中を空けられるのも、後詰あっての油断だ。これがなくては、我々は常に四面楚歌の中で戦わなくてはならない」
「承知しました。若様、宜しくお願い致します」
「こちらこそ、ご教授宜しくお願い致します」
信勝の死後、母の愛情を一人受け育った信良は、さすが市弥の倅だと唸りたくなるほど折り目正しい
母の愛は、大きいと感じさせられた
恒興も、その素行は驚くほど清廉で、だからこそ、その対極に早く親から引き離された夫の常識外れな行動にも、ある意味納得させられた
自分も、その内の一人なのだなとも
清洲に残して来た帰命は、どう育つのだろうか
俄な不安を抱えながら、帰蝶は砦の屋敷に入った
「殿」
表座敷で、到着していた先発隊が自分を出迎える
「お持ちしました」
新調した兜の入った木箱を抱え上げ、恒興が直接手渡す
「すまんな」
「いいえ。それから、母上の伝言を」
「後で聞く。どうせ、碌でもないことだらけだろう?」
「ははは」
確かにその通りなだけあって、恒興は苦笑いをしたまま何も言わなかった
「一同、大儀である」
帰蝶の一言に、先発隊として集まった各将が頭を垂れる
「今回の戦、其々考えることはあるだろうが、先ず私は、兄上亡き後の斎藤が、どのような戦い方を選ぶのか、それを知りたい」
「治部大輔様亡き後の斎藤の出方ですか?」
長秀が確認するかのように訊ねた
「兄上は、認めがたいが軍略の天才だと私は見た。言い訳にしかならないだろうが、昨年の戦での敗北も、私が兄上を侮っていたがために起きた必然だと想っている。つまり私は、父上と全く同じ轍を踏んだわけだ。これは反省に尽きる」
「殿・・・」
自分を責め過ぎるなとでも言いたげに、恒興は眉を顰めて首を振る
「だからみな、斎藤との次の戦は、決して深追いをしないよう、心掛けて欲しい。こちらが優位に立とうとも、決して驕らず、着実に一歩一歩前進してくれ。先ずは、昨年取り損ねた墨俣砦を今度こそ奪取する。それから、織田に味方してくれる大垣周辺の豪族達の保護も兼ねて、加納砦も奪いたい」
「加納砦ですか?」
「ああ。妙椿時代の、斎藤の拠点の一つだった。父上の代になってから廃棄され、野晒しになっている。土岐、越前朝倉、それから、織田との三つ巴が続いていたからな、恐らくは織田と争っている最中に捨てたのだろう。あの頃は大垣を落されて、斎藤も大童だっからな」
帰蝶の言葉に、小さな笑いが起きた
「加納砦は長森に程近く、長く織田に与してくれているお能の実家の岐阜屋も、万が一の時は守ることができる」
「おまけに、羽島にも近い。入手も不可能と言うわけではありませんね」
「羽島は長良川合戦の折り、陣を張って以来、清洲との関係も良好だ」
「ですが、逆に井ノ口とも目と鼻の先。押し寄せられたら、一溜まりもありませんよ」
「そうだな。稲葉山城からも目視できる場所にある。その砦を再築するにしても、相当の腕を持つ人間を配置しておかなければ、折角奪ったものもあっさり奪い返されるだろう」
と、帰蝶は、ずっと黙って話を聞いている弥三郎を見た
「
「いや、なんでもない」
ふいと笑い、顔を逸らす
そんな帰蝶を弥三郎は不思議そうな顔をして眺めた
「墨俣砦を落せば、美濃攻めも楽にはなると考えていたが、それも撤回する」
「殿?」
帰蝶の発言に疑問を感じた秀隆が尋ねた
「墨俣砦は、奪取するのですか?放棄するのですか?」
帰蝶を信用してはいても、理解できているわけではないのだろう
もしもここに龍之介が生きて側に居たなら、帰蝶の考えを理解してくれていたか
あるいは、さっき邂逅を果たした景任が付いていてくれれば、同様の結果が見えていたのか
最も近しい実弟の利治は清洲に残っており、まだこちらには到着していない
その利治が居てくれれば、あるいは面倒な説明も省けたかも知れない
どちらにしても、その何れもここに居ない以上、自分で説明する以外なかった
「墨俣砦を手に入れれば、確かに斎藤への警戒手段も得られるし、拠点として使えるかも知れない。そのために、佐治が大垣周辺への調略を進めてくれていたのだからな。だが、その佐治を以ってしても、関ヶ原の竹中を引き込むことができなかった。これは織田にとって痛手にもなる」
「
その上司である恒興が、頭を下げて謝罪した
「勝三郎、私は佐治を責めているのではない。後から新五と共に到着するのだろうが、顔を合わせたからと言って、このことを掘り返したりはするな。寧ろ早々に手を引いた佐治の判断は正しいと想う」
「ありがとうございます・・・」
「竹中は佐治と接触したことがあるのだから、その竹中から斎藤へ、織田の情報はいくつか流れているかも知れない。私はそれを警戒している。だが、墨俣から手を引けば、次は何処を狙うか簡単に読まれてしまうだろう」
斎藤には、まだ、『夕庵』が残っているのだから
信長が生きていた頃は、こちらの味方をしてくれたかも知れない
だがそれは、様々な条件が付いていた
父・道三が存命だったこと、何より、夫・信長が生きていたこと
今はそのどちらもこの世には居ない
夕庵が未だ弱小である織田の味方をして、益があるとは考えられなかった
「確か、その竹中家の当主は、斎藤方家臣・安藤と婚姻関係を結んだとか」
「ああ。先代(吉法師様)が生きていらした頃、織田の援軍で一度那古野を訪れている。覚えている者も居るかと想うが」
ここには可近も居るので、信長の名前を出すことは憚られる
言葉を換えて誤魔化すしかなかった
「その、安藤様は、土岐家の家臣」
「つまり、どこまで斎藤に加担するか、わからない。『美濃三人衆』は所詮、『美濃の豪族』でしかない。斎藤家に忠誠を誓う譜代じゃないのだからな」
「そうなると、寧ろ斎藤は、譜代が少ない分、いざと言う時の確実な味方も少ないと言うわけですね」
「だが、力がある限り、斎藤に歯向かうこともない。その斎藤から『力を奪う』こともままならないのだからな、空中分解をのんびり待っていられるほど、私も気の長い性格はしていない」
「確かに」
ついうっかりそう口走り、恒興は軽く帰蝶に睨まれた
まるで首根っこを掴まれたかのように、青い顔をする恒興にまた、軽い笑い声が生まれた
「回りくどい説明になったが、現在の斎藤方の家臣が集まる西に拠点を置いても、常に戦い続けなくてはならないと言う状況に陥る。そうなっては、こちらも戦力を維持し続けることは難しくなるだろう。大垣は竹腰に代わって長井が入り、その上に当たる曾根には土岐重臣でもあった稲葉が居る。この二つを相手にするのは骨が折れるだろう?」
「だから、墨俣を諦めて加納に?」
「誰が諦めると言った」
漸く口を開いた勝家に、帰蝶は呆れた顔をして言い返した
「当面の織田の目標は、墨俣砦を落すこと。そして、少なくとも一年は保持し続ける」
「一年?」
「どうして、一年と言う期限付きなんですか?」
「その間に、加納砦を奪い、こちらを再築させる」
「加納砦を?」
「加納は、美濃の商業都市に程近い。もしもここが戦の拠点になってしまったら、美濃の経済は大きく混乱するだろう。それを斎藤が望むか?」
「
誰もが難しい顔をして、軽く首を振る
「手出しができないからこそ、織田の砦を作る意味があるのだ」
「美濃の民が、織田を受け入れるでしょうか」
「それは後から考えれば良い。今はそこに根付くことだけを考えろ。加納砦を拠点にすれば、この小牧山と二ヶ所同時に出陣できる。更には、この二ヶ所を叩かねば、斎藤は清洲に入ることもできなくなる」
「防衛線になるわけですね、加納砦は」
「つまり、墨俣攻撃は、加納砦を奪うための囮と言うわけですか」
「そうだ。今川治部大輔が、鳴海を囮にしたのと同じことを、私達もやるのだ」
短く、感嘆の溜息が流れた
信良は義理の姉を見詰め、これが本当に女の考える作戦なのかと、内心驚かされた
母から付けられたどの軍略家も、これほどのことを教えてくれただろうかと想い巡らす
「では、犬山への警戒は」
と、恒興が聞く
「そのために、土田に転ばせた」
「ですが、万が一土田が再び斎藤に味方すれば?」
「その土田を監視するために、金森家の協力を願い出たのだ。金森家は現在の斎藤家とは争う間柄だ。敵の敵は、味方と言うだろう?織田と金森の利害が一致している以上、金森は織田を裏切ったりはしない。そうだな、五郎八」
「
少し遅れて、しかし自信に漲った表情をして、可近は力強く返事した
その返事に少なからずとも、勝家らは安堵する
「加納砦を手に入れるために、墨俣砦を攻撃し、犬山へ睨みを利かせるために土田家を味方に付け、その土田家に圧力を掛けるため、金森家と同盟を組む。鮮やかな心理戦ですね。殿、本当に深窓(姫)育ちなのですか?」
冷やかすわけではなく、心の底から唸る恒興に、帰蝶は淫らな目をして返した
「その証拠でも見たいのか?」
「
「どう言う意味だ」
『信長』が帰蝶であることを知らない可近はキョトンとするも、初めて軍議に出席した緊張からか、それを周りに聞ける状況ではなかった
「あははははは!」
最初に信良が大笑いし、それを合図に秀隆、勝家ら全員が笑い出す
「お前達、心底失礼なヤツらだな」
そう言いながらも、帰蝶も軽く笑う
ただ一人、可成だけは苦笑いに留まった
相変わらず、何を考えているのかわからない頭だが、それを言葉にすれば不思議と勝てるような気がする
そんな気にさせられる
本当に、不思議な人だ
斎藤帰蝶と言う人は
そう心に浮かばせるも、それでもやはり、この頃は『斎藤帰蝶』を忘れようとしている帰蝶が不憫でもあった
才ある女はみな、このような不器用な生き方しかできないのかと
重ねた肌と肌が離れぬよう、互いの手で繋ぎ止め、擦り合わせる
女の嬌声が明かりのない部屋に流れ、男の溜息がそれに覆い被さった
あっ、あっ、と、今際に近い短い悲鳴の感覚が少しずつ短くなり、布団の、衣擦れの音も激しくなってゆく
「殿・・・、殿・・・」
縋り付くような声に、男は応えるかのように女を抱き締めた
「ずっと、このままで居たい・・・」
涙の混じったような、哀願の声
「私もだ・・・」
想い遂げてしまえば、それは儚い夢であることを想い知る
それでも、その言葉を信じたい
「
背中に回した女の小さな手に力が籠った
細い爪が肉に食い込む
女の想いに応えるかのように、織田信清は小さな声で名を呼んだ
「伊予・・・」
「はい・・・」
「共に、参ろう・・・」
「はい・・・」
生まれ育った実家よりも、今はこの夫の方が大切に想えた
何物にも換えられない、大切な宝物だった
信長実父・信秀の病没により、犬山織田は勢力拡大のため、信長が相続するべきだった土地の多くを分配のどさくさに紛れて奪い取った
元々諍いには弱い信長であったため、口頭での注意は受けても、実力行使で奪い返すことはしなかった
だが、その信長も年齢を重ねるごとに性格が荒々しくなっている
奪った土地も、岩倉織田の排除により徐々にではあるが、清洲織田の物になっていた
『信長』の手が、もう、直ぐそこまで及んでいる
大きな、何か、例えば、そう、清洲と犬山の間で戦でも起きてしまえば、この問題は否応なしに強大化してしまい、清洲か、あるいは犬山のどちらかが倒れない限り、解決することはないだろう
妻の肌に身を擦り付け、絶頂も間近に迫る時、閨の外から家臣の声がした
「殿。夜分に申し訳ございません」
「
伊予は自分の口に手を押さえ、声が出るのを控えた
同時に信清の腰の動きが止まった
「どうした」
「清洲が、動きました」
「
自分の下では、伊予が心配そうな顔をして自分を見上げていた
その伊予に優しく微笑むと、凡そその表情には似つかわしくない、禍々しい口調で命令する
「津川を、呼び寄せろ」
「承知」
しばらくして、その廊下を立ち去る足音だけが聞こえた
僅かな間を支配する静寂(しじま)
耐えられなくなった伊予が、小さな声で呟く
「津川、を・・・」
「表向き、織田に服従した姿勢を見せていても、所詮尾張の国主の家だ。いつまでも、飼い馴らされたままで満足するとは、想えない」
「上手く行くでしょうか・・・」
「行かせなければ、私達に明日は訪れない」
「
夫の首筋に、小さな指先を沿え、抱き包むようにそっと挟む
「私は・・・・・・・・・」
「実家に・・・、帰りたいか?」
「
伊予は激しく首を振り、遂に悲しみの涙を零した
「帰りたくない・・・。伊予は、十郎様と一緒に居たい・・・。ずっと、ずっと。この空が堕ちて来ても、伊予は十郎様から離れない・・・ッ」
「そう言ってくれるか、伊予」
信清は妻の首筋に口付けを落す
伊予は縋るように、夫の背中に手を回ししがみ付いた
儚く散るからこそ、桜は美しい
この時代の男達はみな、桜のように儚く、そして、美しく生きていた
「私は、一人ではないのだな?」
「ええ、そうです。十郎様には、伊予が着いております。伊予が・・・」
花には、蝶が似合う
移り気な蝶だとしても、その蝶を独り占めできるのは、花だけである
花だけが、蝶の羽を止めることができる
だからこそ、花は美しくあり、美しいままでありたいと願う
妻が蝶なら、自分は蝶に似合う花でありたいと願った
だから、このままではいけないと決意する
主従関係からの、離脱
信清の心に浮かぶのは、いつの間にか『主』になりつつある清洲から、『従』であることを拒絶する想い
男なればこそ、華やかで居たいと願う純粋な想い
それを『間違い』だとは、誰も想わない
男、なればこそ
軍議を済ませ、長秀が直接建築に携わった寝室に入る
清洲の本丸とは趣が違うが、帰蝶の清廉な性格をよく反映していた
簡素だが、粗末でもない
「眠れないのではないかと心配だからって、お菊から枕を渡されました」
そう言って苦笑いする弥三郎に、帰蝶も苦笑いで返した
「菊子もいつの間にか、なつ程の心配性になってしまったか。すまないな、弥三郎」
「いいえ。それから、清洲から第二部隊も出発したそうです。夜中過ぎの到着になるかと想いますが、本戦には間に合うでしょう」
「一度に移動すると、犬山を刺激させるだけだからな」
「確かにその通りですね。三左さんとここへ来る途中、犬山の斥候を何人か確認しました。特に仕掛けて来るわけでもないし、殿が金森との交渉を成功させたと聞いていたので、さっきは言いませんでしたけど」
「そうだったか。だから五郎左が心配していたのだな」
「向うも様子見のようです。斎藤と争うのですから、こちらにも多少の損害が出て、それを確認してから出るつもりじゃないでしょうかね。じゃないと、いくら何でも『身内』に証拠もなく仕掛けるのは無謀でしょう」
「そう想ってくれるとありがたいのだが」
「殿?」
心なしか、別のことを考えているような表情をする帰蝶に、先程のこともあってか弥三郎は屈み込むように顔を見た
「
「はい、何ですか」
「吉法師様が生きてらっしゃった頃の話だ」
「はい」
改まる帰蝶に、多少面食らう
「私は、お前の父上様に大口を叩いてしまった」
「大口?」
「何れお前達に、可児の土田城を取り返してやると言う話だ」
「ああ、そのことなら親父から聞いたことがあります。だけどそれで、殿の負担にならなければ良いのだけどとも話してましたよ。それがどうかしましたか?」
「その約束を、反故にしてもらいたい」
「
信じられない発言に、弥三郎は目を見開いた
「殿・・・?」
「土田城は、諦めてくれ」
「何仰って・・・・・」
「土田は、あのまま可児に居てもらう」
「殿・・・・・・・・・」
帰蝶の言いたいことが理解できない
やはり、家を追い出された者には、城は不釣合いなのか
帰蝶はそう言いたいのか
「親父の・・・生まれた城を・・・、諦める・・・?」
帰蝶に裏切られるのは、何度目だろうか
いや、裏切ったわけではない
裏切られたわけではない
だけど、心がそう嘯く
この人も、所詮は武家の人間なのだ、と
「弥三郎、聞いてくれ」
「
桶狭間山合戦の後の兄の死も、そうだった
何もなかったかのように、当たり前のように、冷静な顔をしていた
「土田城を土田家から奪い、お前達に返還するのは易い。だが、それでは可児の民がお前達を許さない。きっと、どこかで不満が生じる。今の斎藤を見ろ。表向きは何事もなかったかのように機能しているだろう。だが、その裏では様々な不穏分子が動き回っている。考えてくれ、弥三郎。吉法師様の死後、何故、清洲が私に上手く移行できたのか。誰も、『織田信長』が死んだことを知らされていないからだ。だが、今の土田家を追放してしまえば、嫌でもそれは人の目に付く。お前達が土田家を追い出し、主家を食らったと勘違いしてしまう。元々の嫡流がお前達だと知っていても、それでも良い感情は持たない。何故、金森家が斎藤に目を付けられながらも多治見に留まったか、何故、坂家が北畠に攻められながらも伊勢に留まっているか、考えてくれ。そこを離れてしまえば、全て無に帰すのだ。だから」
だから私は、明智の城を諦めた
そう言いたいのを飲み込む
ずっと黙って、帰蝶の話を聞いている弥三郎は、それでも感情的に「だからどうした」と言いたい想いで一杯だった
それがわからないわけではない
「弥三郎」
帰蝶は、普段は放っておくことでも、今は放っておくべきではないと感じたか、ゆっくりと話した
「約束も守れない愚か者と、私を詰ると良い」
「そんな・・・」
「だが、お前達に先達と同じ道を歩んで欲しくないのだ。父上が死に、兄上が死に、なれば今こそ、土岐家が返り咲いてもおかしくはないだろう?だが、それでも土岐家は美濃には戻って来ない。何故だかわかるか?『去った者』だからだ。お前達土田宗家も、可児の民にしてみれば『去った者』でしかない。そんな土地に織田の威光を借りて戻って、歓迎されるものなのか?あるいは、今の土田家の施政と比べられ、些細なことでも責められるだろう。私は、そうあって欲しくはないのだ。だから、弥三郎、火を飲む想いだろうが、堪えてくれ」
「殿・・・」
「頼む」
「
哀願する帰蝶の瞳に吸い込まれ、怒りの感情が消えていくのがわかった
「わかり・・・・・」
「だが、お前には別の任務を頼みたい」
「え?」
自分をじっと見詰める弥三郎に近付き、そっと耳打ちする
「
真相を聞かされ、目を見開いた
それから、叫ぶように聞き返す
「加納砦を、俺が」
「静かに」
帰蝶の手で口を塞がれ、それ以上何も発せない
「代わりと言っては何だがな、それで手を打ってくれないか」
「でも・・・、何で俺を・・・」
「長森にはお能の実家がある。知っているな」
「当然ですよ」
「お能にとってお前は、義弟だ。本来なら、お前の兄、平三郎にと考えていたのだが、悲しいことに今川との戦いで死別してしまった。だから、平三郎の代わりに誰を据え置こうかと考えていたのだ」
「てことは、加納砦の奪取、随分前から考慮なさっておいでで?」
「何故、あんな立地条件のいい場所を放っておくのかと、ずっと疑問だったんだ。あの場所は、私がまだ尾張に嫁いで居ない頃、織田との争いの場合でも有効活用できたのに、父上はずっと放っておかれた。最も、私が吉法師様に嫁いだことによって、所有していても意味のない物にはなったが」
「そうですね。あの頃の勝幡織田は、大和守織田とも争っていた。織田が斎藤と同盟を組んだことにより、大和守織田は勝幡織田に手出しができなくなったのだし」
「ああ。勝幡織田を攻めれば、背後から斎藤が乗り込んで来る。逆に斎藤を攻めても、背中に勝幡織田の剣先を付き付けられる形になる。だが、その何れも今では昔話の類に入るだろう。しかし、こうして再び争う間柄に戻ってしまった今、それでも兄上は加納を放置したままにしていた。私だったら、再起動させる」
「対織田戦に向けて」
「加納の息を吹き返さなかったこと、これは兄上が唯一残してくれた誤算だ。それに、あの砦は妙椿時代、織田との争いに於いても防衛線として機能していたのだ。それが岩倉織田との婚姻による同盟によって、存在の意味が薄れてしまった。だから父上も重視していなかったのだろうが、こうして斎藤と争うことになり、また有効活用できると言うものだ。それに、奪取した場合は、清洲の防波堤としても充分機能するだろう」
「そうですね・・・」
「しかし、そうなれば民にとって気分良く受け入れられる人間を置いておかないと、それこそ意味がない」
「だから、俺なんですか?」
「側の長森にある岐阜屋との関係がはっきりすれば、民もそう反発することはない。寧ろ、可児よりは歓迎してくれるだろう。勿論、斎藤との間柄を考えれば、手放しで喜ぶとは考えられんが、全くの無縁の人間ではないのだからな、お前の姿勢次第で民は強い味方になってくれるだろう。そうなれば、井ノ口の小春屋、菊子の実家だな、それとも提携できるかも知れん」
「はぁ・・・。話が壮大になって来ましたね・・・」
「それを受け入れる度量が必要だ。今から鍛えておけ」
「そんな無茶なぁ・・・」
夜もかなり過ぎた頃、帰蝶は漸く一人になり、床に就いた
横になっても中々眠れず、利治らの到着を待ってから眠ろうかと想った
金森家との提携は、可近が踏ん張ってくれたのだろう
初めて対面した時と、多治見まで見送った時の金森孫四郎長可の、自分を見る目が違っていた
それから、土岐郷に入った時のことを少し、そして、十数年ぶりに再会した景任のことを想い出す
「お前が尾張に嫁ぐまで、正しくは冬が来るまでか。僅かな間だったが、お前と共に獲物を追い、腕を競ったことがまるで昨日のことのようだ」
花嫁修業で滞在していたしばらくの間、長山で鷹狩りを楽しんだことを想い出話として口にする
「与一様には、本当に失礼なことをしました」
当時はそれが正しいと想っていたが、今になると男に拳で語ってしまったことに後悔した
「ははは。まさか十年経ってから謝罪されるとは、想っていなかったぞ」
「若気の至りだったのでしょうか。今想うと恥しくて、身を隠してしまいたい心境です」
「それこそ、想ってもみない言葉だな。だがあのお陰で、私は女を見る目が変わった」
「与一様」
「女は弱く、男に従うものだと想っていた。その価値観を、お前が見事引っ繰り返した。あれから私も考えるようになったよ。そして今、お前を目の前にして想うこともある」
「何でしょうか」
「女を舐めていると、痛い目に遭う、とな」
冷やかすような目付きで言ってのける景任に、帰蝶は頬を赤くして俯いた
「帰蝶」
「はい」
「女でありながら、よく逃げなかったな」
「与一様?」
「立派だ。信長の正体を口にすることは叶わないが、それでも私はお前を誇りに想う。お前の友としていられる自分を、誇りに想う」
「
ずっと逢っていなかった友の、たった一言に帰蝶は、それまでの日々が報われたような気がして、言葉を発することができなくなった
「信長として生きる決意をしたのなら、これから先もつらいことはあるだろう。だが、安心しろ。お前は
強い味方を得た気分になれた
ただ単純に嬉しかった
だけど、それを夫以外の男に言われた淋しさ
本当なら、夫に言ってもらいたかった一言
それでも、嬉しいことに変わりはない
眠れないのは、心が高揚しているからだろうか
夏の気配の近付く風の香りに、帰蝶は布団から起き、庭に出た
それと同じ頃、表の庭が俄に騒がしくなって来た
第二陣が到着したのか、人の喧騒も聞こえて来た
「ご無事のご到着、お待ちしておりました」
恒興が出迎える
「遅くなりました」
次発隊の先頭に立っていたのは、利治だった
「殿は、もうお休みですか」
「先ほど、ご寝室に入られたばかりです」
「では、到着の挨拶は明日でいいですね」
「今聞くぞ」
二人の先から、帰蝶の声がする
恒興が振り返ると、寝間着の上に小袖を羽織った帰蝶が立っていた
「殿」
姉が相手でも、公衆の前では『主君』に当たる
利治は帰蝶に軽く頭を下げた
「お前が先導したか」
「清洲までは佐治が部隊を率いて参りましたが、途中で犬山の兵とかち合いまして」
「小競り合いか?」
「いえ、回避しました」
「そうか、よく躱した。斎藤戦前に、兵力を削られるのは癪だからな」
「佐治がそれを指導しまして、ですから佐治の部隊が今殿(しんがり)をしています」
「そうですか!さすが佐治。使える男です!」
佐治の極端な贔屓である恒興は、元々丸い目を更に丸くして大袈裟に驚いて見せ、帰蝶と利治を苦笑いさせる
「清洲周辺の様子はどうだ」
「はい。やはりこちらの隙を突いて、犬山が動きを見せている様です。ですので、蜂須賀殿の部隊が城の周りに集まっております。少しは抑止力になるかと」
「そうだろうな。蜂須賀はお能に惚れているようだからな、大事なお能様に何かあっては一大事だ。桶狭間山とは勝手が違うだろう」
「ははは・・・。確かに、目が血走っておられました」
「では、清洲の方は安泰か」
「はい。林殿も留守居で守りに入られておられます。こちらよりも、清洲の方が余程兵力がありますよ」
「困ったもんだな、こちらに向かおうとは想わんのか」
「まぁ、殿がいらっしゃいますから、構えていられるのでしょう」
「お前も口が上手くなったもんだ」
「そうですか?」
「ははは」
他愛ない、まるで姉弟の戯言のような会話
今だけは戦を忘れ、恒興は無心で笑った
「新五」
「はい」
「
「はい」
「殿?如何なさいましたか」
「勝三郎」
「はい」
「人払いを、頼む」
「
いつになく、追い詰められたような目をする帰蝶が気懸かりだった
表座敷を人払いに、恒興はその廊下に鎮座し、誰も近付かないよう見張る
中では姉と弟が対峙していた
「新五」
「はい」
「お前は、斬り込みである弥三郎の部隊に配属されている。だから、先陣を切らねばならない立場だ」
「はい、重々承知しております。ですから、必ず武功を挙げて見せます」
「そうじゃない」
「姉上?」
「
「帰蝶、お前は帰れ」
いつもそう、夫に言われていた
何故夫がそう言うのか、今になって理解した
大切な者を戦に連れて行くのは、怖い
「新五。お前は、清洲に
「姉上」
口唇が綻びそうになる姉を、制止した
「何故、姉上はここにおられるのですか」
「新五・・・」
「戦をするためでしょう?」
「・・・・・・・・そうだ」
「私は何故、ここに居ますか」
「それは
「戦のためです」
「新五・・・」
「私は、父上の仇が討ちたくて、姉上を頼りました。今もその想いに変わりはありません。ですが、別の想いも抱えております」
「別の想い・・・?」
「さちを、守りたいと言う想い」
「新五・・・」
「この世のあらゆる厄災から、さちを、そして、生まれて来る子を守りたいと言う想い。姉上なら、理解してくださると想っております」
「
「姉上は、私が死んでしまったらと考えておられるのではありませんか」
「そっ・・・・・・」
言葉が、上手く出て来ない
「美濃を落した後、斎藤に取って代わる存在が必要です。ですが、帰命丸様はまだ幼い。その時期ではない。だから、斎藤道三の息子である私を、と。その私が死んでしまえば、美濃を落しても掌中に収めるのは難しい。人の心情とは、そう言ったものですから。ですから姉上は、私がこの戦で死んでしまわないかと心配なのではありませんか」
「
そう、なのかも知れない
それだけじゃ、ないのかも知れない
この想いをどう告げれば良いのか、帰蝶自身わからなかった
「姉上。私はもう、一人じゃない」
「
その言葉を口にする弟に、帰蝶は目を大きく見開いた
「私には、さちが居ます。さちの腹には、私の子が居ます。私が死んでしまったら、さちの子を頼みます」
「新・・・五ッ」
「私が死んでしまっても、私の代わりになる子が、さちの腹には居る。『斎藤の跡取り』にできる子が」
「新・・・・・・・・・・・・・」
どうか、お願い
遠い目をしないで
男はみんな、現世を見ながら来世を夢見る
夫も、そんな人だった
いつもいつも時代の先へ、先へと心を急かせ、急ぎ足で駆け抜け、繋いだ手が離れがちになり、必死になって掴み、離れないようしがみ付いて来た
だけど、繋いだ手が離れ、今はここに居ない
「新五・・・・・・・・・・」
流さないと誓った涙が、流れそうになり、帰蝶を困らせた
夫と同じ目をし始めた弟に、胸が締め付けられる
そうさせたのは、自分なのか
この手で、弟に夫と同じ道を歩ませてしまったのか
「
「あはははは」
苦笑する弟に、一緒になって笑う気にはなれなかった
「難しい注文ですね」
「だからこそ、生きる価値のある時代なのだ」
「そう・・・かも知れません。生きる価値のある、時代。そんな時代なのですね」
「そうだ」
そうだ
死んでしまえば、全て終わる
そんな時代に自分は今、居るのだ、と
弟への言葉は、自分への言葉でもあった
恒興からもらった、なつの伝言
他愛ない物ばかりだった
だか、その他愛ない物の中には、生きて帰って来て欲しいと言う想いばかりが詰められていた
清洲のなつも今、自分と同じ想いを抱えているのだろうか
尚更、生きて帰らねばならない
生きて帰って、安心させてやらねば、と
そう、想った
翌朝、なつは朝餉を済ませると、一人、局処の廊下を歩いていた
ある想いを抱えて
周囲にいつも付いている侍女の姿はなく、急ぎ足で廊下を渡る
そこへ、向うから歩いて来た市弥と出くわした
「なつ」
「大方様・・・」
急いでいる時だからか、なつは一瞬、嫌な顔をした
「どうしたの?一人?」
「あ、はい」
「急いでいる様子ね。本丸の帰命に、何かあったの?」
「いえ、そうではありません」
だが、内心では早く行きたい場所があった
早口で返事するなつに、市弥は顔を傾ける
「どうしたの。言葉も早いけれど、何かあったの?」
「大方様・・・」
些細なことに気付く市弥に、なつは自然と眉間が寄った
結局、市弥に捕まり、そのまま局処の廊下で立ち話を洒落込む羽目になった
「今年は雨が遠いわね」
「そうですね。去年でしたらもう、梅雨に入っててもおかしくないのですが」
「表座敷の方では、夏に備えて堀田殿が各村を回っておられるそうね」
「ええ。万が一飢饉でも訪れたら、民を救済せねばならないからと」
「一昨年だったかしら、雨が少なくて、木曽川沿いの村に疫病が流行ってしまって」
「それも、殿が前以て予想されておられましたので、被害も少なく済みました」
「堀田殿はまだお若いから、きびきびと動き回れるのでしょうね。それに、上総介とも旧知の仲、何も言わずとも意志の疎通ができるのかしら」
「元々は、殿のお父上様の側近でいらっしゃいましたので、殿とも近しい間柄だったのでしょう」
「その、上総介」
「はい」
呟くように名を告げる市弥を、なつは少しキョトンとした目で見た
「とうとう、清洲には戻って来なかったそうですね」
「
喉が詰まり、返事が遅れる
「多治見から、そのまま小牧山に入られたそうです。昨日、勝三郎ら先発隊が小牧山の砦に向かいました」
「そう。新五様も?」
「はい。二次部隊として、夜遅くに城を出られて」
「そうだったの。上総介は、本気なのかしら」
「え?」
「本気で、実家に挑むのかしら」
「大方様・・・」
「どこかで、情が生まれたりはしないかと、どうしてかしら、心配なの」
「
「大丈夫?」
「私情を挟むことを嫌われますから、殿は」
「そう。そこが、女らしくないところなのよね、上総介の場合」
「ふふふ・・・」
敢えて、言葉にはしなかった
帰蝶はもう既に、自分が女であることなど忘れている、と言うことを
「だけど、こちらが動くと並列して、犬山も動いてしまう」
「隙あらば、清洲織田を攻める準備はできているでしょうからね」
「考えることは、たくさんあるわね」
少し沈みがちになる市弥を、なつはどうしたのだろうかと伺うような顔で見詰めた
「上総介は、犬山をどうするのかしら」
「大方様?」
「あの子は今までに、犬山を説き伏せようとしてくれたのかしら。どうして、歯向かうことを許すのかしら。だから、犬山も、いつまでも逆らってしまうのよ。あの子は、どうして・・・」
「大方様・・・」
「まるで、犬山を潰す機会を伺っているかのよう」
「そんな」
なつは、眉を顰めて首を振った
「潰すおつもりなら、とっくの昔に仕掛けておられます」
「だけど、それでもね、あの子の真意がわからないの。黙って見過ごしているのか、それとも、大義名分を待っているのか・・・。そうよね、犬山を潰せば、尾張はあの子の物になる。誰も異は唱えられない。そうよ。あの子は賢い子だもの。世論の怖さを知ってる。お父上様が、それで潰れてしまったようなものだもの。だからあの子は、犬山の自滅を待っているのよ」
「大方様、それは違います、勘違いです」
帰蝶を想い、なつは慌てて否定した
「勘違い?」
「殿は多治見に向われる寸前、こう仰りました。犬山は、まだ、何もしていない。何もしていない犬山に仕掛けることは、できないと」
「犬山が、まだ、何も・・・?」
「殿は、前年、斎藤に仕掛けた時、一緒に動いた犬山の行動など、気にされておられません。私は、そう想います」
「だけど、現に犬山はこちらに対して、反発の姿勢を取っているわ」
「確かに犬山織田は清洲織田に対し、争う構えを見せました。それでも殿は、犬山を批難はしませんでした。まだ、押えられる段階だと踏んでおられるからです。それは、恐らく、きっと・・・」
伊予のことを気に掛けているのだろう
そんな、確証のないことを想い浮かべ、そして、言葉にすることを躊躇われた
「上総介は、斎藤を落した後、どうするのかしら」
「どうするとは・・・?」
「あの子は、やはり犬山も落すのでしょうか」
「犬山・・・」
今はそれはないとしても、何れの話ではその可能性も、無きにしも非ずである
ずっと清洲織田に歯向かっているのを、帰蝶の一言で収めている
家臣の中には、斎藤よりも先に犬山織田を落すべきだという声が、上がってもいなくない
「そう・・・だとしても・・・」
「犬山には、伊予が嫁いでいます」
「はい。ですが、その政略が上手く行かなかったのは事実です。大方様、何をご心配なされておいでなのですか?」
「伊予の、ことよ」
「伊予様のこと?」
「織田の政略で、嫁いだ伊予が不憫で・・・」
「それは・・・」
「このことで、犬山で周囲から責められてはいやしないかと、心配です」
「そう・・・ですね」
「伊予は私の娘ではないけれど、私がこの手で、ここから嫁に出した娘です。私は三人の娘を嫁に出しました。犬も市も幸せに暮らしているのに、伊予だけが不幸せだなんて可哀想過ぎる・・・」
「大方様・・・」
「上総介はどうして、伊予の様子を伺ってくれないのかしら・・・」
「
「上総介が?」
「勿論、軍略として武井様との間で何度か遣り取りはありました。ですが、それもお父上様の死後、途絶えてしまいました。殿は、伊予様の身を想い、敢えて手紙を送らないのではないかと想います」
「どうして?」
「伊予様が、清洲織田の間者だと想わせたくないのではないかと・・・」
「
「政略で嫁いだ女は、みな、実家に嫁ぎ先の情報を知らせるものです。ですが殿は、そうなさいませんでした。長良川での合戦が起きた時ですが、多くが殿をご実家に帰すよう若に進言されました。それでも、若は殿を手放しませんでした。大方様、どうしてかわかりますか?」
「
市弥は黙って首を振った
「若は、殿を信頼されていたのです。実家よりも、自分を取ってくれたと確信が持てたのです。だから、若は殿を庇われたのです。殿が、一度たりとて織田の情報を斎藤に流さなかったからです。その逆に、様々な手を使い斎藤の情報を織田に齎されました。だから、若は
最期まで、妻を信じた
信じたからこそ、自分の夢を託した
「大方様」
「
「先ほど、伊予様が不幸だと仰りましたね」
「・・・ええ」
「果たして、そうでしょうか」
「どう言うこと?」
「不幸な目に遭われておられるのなら、その噂話も流れて来る筈です。ですが、伊予様が不憫な目に遭っているとは聞きません」
「確かにそうだけど、だけど、逆に幸せに暮らしているとも聞かないわ」
「大方様。人の不幸話は伝わりやすいものですが、幸せ話は中々伝わらないものです。私は、そう想います」
「なつ・・・」
「伊予様は、大丈夫です。周囲から責められていないとも限りませんが、お一人じゃない。そんな気がいたします」
「一人じゃない?」
「ええ。ご主人様が、伊予様を守っておられるのではないでしょうか。だから、未だ清洲にはお戻りになられない。それが、幸せの証拠ではありませんか?」
「幸せの、証拠・・・」
「殿と、若のように」
「
なつの言葉は不思議なほど、市弥の胸を満たす
不安だった想いが、嘘のように晴れた
「
「伊予様も?」
なつの顔を見詰めながら、市弥は告白した
「犬山が、初めて清洲に盾突いた時、私は伊予に手紙を送ったのです」
「ええ?」
この言葉に、なつは目を丸めて驚いた
初耳だからだ
「どうして、実家に歯向かうのかと、あの時はそうね、伊予を責めるような内容だったかも知れない」
「大方様・・・。それで、伊予様からは?」
「返事は来なかったわ。私の文が悪いのかと想い、もう一度送ったの。今度は謝るつもりで。だけど、それでも伊予は何も言って来なかった。想えばあの時から伊予は、ここを捨てる覚悟だったのでしょうね・・・」
「そうだったんですか・・・」
「それから、もう一度だけ、送ったの。上総介が、美濃攻めに負けて帰って来た時。小牧山で犬山の反乱があったって聞いて、その真意が知りたくて。だけどやはり、伊予からは返事はなかった」
「そんなことが」
「上総介に、犬山と内通してるって想われたくなかったから、ずっと黙っていたの。それから、返事を遣さない伊予が責められると想って」
「そうだったんですか、大方様。大方様も、色々と動いてくださっていたのですね」
「伊予から犬山の情報を拾えなかった以上、何もしていないのと同じことだけれど・・・」
困ったように笑う市弥に、なつも苦笑する
「ですが、どのような想いで大方様のお手紙を受け取られたのか、私には想像できませんが、少なくとも伊予様は、大方様がご自分のことを忘れては居ないことを知られて、お心が救われたのではないかと存じます」
「心が救われた・・・?」
「大方様。殿・・・は、どうでしょうか」
「上総介?」
「兄上様がご存命中、たった一度だけでした。殿に、ご実家からのお手紙が届いたのは。しかも、殿の様子を伺うものではなく、宣戦布告。殿は、どのようなお気持ちで居られたのでしょうか」
「そう・・・ね。丁度、帰命がお腹に居た時のことだったかしら」
「はい」
「その話は、後からあなたに聞いたのだっけ」
「ええ、そうです」
「
言葉を選び、それから、それが正しいのかわからないような顔をして続けた
「私なら、悲観に暮れて泣いていたかも・・・」
「大方様」
やはりこの方は、若の母上様だと、なつは実感した
優しい性根だった信長の、その母親だと
愛息である信勝を殺され、自身も頭を垂れるか殺されるかを選ばされた時ですら、市弥は帰蝶の身上を理解し、そして、協力することを決めた
処世術ではなく、同じ女として帰蝶の立場を理解した
賢い女性だと、改めて想い知り、そして、優しい女性でもあるのだと、今更のように感じた
「どのような結果になるか、私達には想像も付かないでしょうが、どちらに転ぼうとも、伊予様ご夫婦が、最後まで共に夫婦として過ごせることを、今はただ祈りましょう、大方様」
「そうね・・・」
市弥と別れ、なつは目指していた場所へと急ぐ
市弥は市弥で人知れず、様々な悩みや心配事を抱えていたのだろう
それを他の誰でもなく、この自分に話してくれたことが嬉しかった
若い頃はいがみ合い、反発し合っていたのが嘘のようである
最も、市弥がなつを一方的に邪険にしていただけなのだが、それでもなつも市弥に対しては良い感情は持っていなかった
それが今では、本音を話し合える間柄になった
これも全て、帰蝶のお陰だと想った
だからこそ、戦場に赴いている帰蝶を、報礼できる何かを届けたかった
「
この頃滅多なことでは台所に足を運ばなかったなつの姿に、女達は驚く
「あっ、あのっ!私達、別に米を誤魔化したりなどしておりません・・・ッ!」
「なんのこと?」
なつはキョトンとして、女達の顔を眺めた
新しくした兜を手に取り、眺める
持つ分には、確かにそれまで愛用していた天冠よりも重い
普段温厚な貞勝が血相を変えて怒鳴るだけのことは、あった
これを長く被っていると、確かに首の負担も大きいだろう
だが、被らなくてはならない理由があった
生きて、信長がそこに居るように見せなくては、美濃に付け入る隙を与え、尾張さえ混乱し、犬山にどう動かれるかわからない
その兜にあしらわれた『それ』を、そっと撫でる
懐かしい感触が伝わった
「共に、戦おう、
自分の耳にも届かないような、小さな声でその名を呟く
それから、自らの手で兜を被り、緒を締めた
ずっしりとした重みが、首に掛かる
どうして男の首は太く丈夫なのか
どうして女の首は細く華奢なのか
兜を被って、初めてわかったような気がした
「
自分を嘲笑しながら立ち上がる
砦の私室の廊下で、小姓達が並んで帰蝶の登場を待っていた
「
「はっ!」
龍之介の代わりとして就任した小姓が先頭に立ち、その他の小姓達は帰蝶の後ろに付いて廊下を歩いた
腰には兼定、お能から託された時親の形見、長谷部が二連していた
後ろの腰には、夫の形見である種子島式火縄銃が下げられている
頭の上の兜
どれも、重い
今、自分が背負っている責任と同じくらい、重いかも知れない
それでも、帰蝶は前に進んだ
友が言ってくれた言葉
「信長として生きる決意をしたのなら、これから先もつらいことはあるだろう。だが、安心しろ」
その一言が、重みに耐えられず前のめりに倒れそうになる自分を、支えてくれた
「お前は、一人じゃない」
「
庭を眺められる回廊に出た時、一陣の風が吹いた
それはいつものように自分を包み込んではくれず、ただ、通り過ぎただけ
自分よりも先に行ってしまった信長が、通り過ぎたように感じた
「追い付いて来い」
そう言われたような気がして、帰蝶は目元を引き締めた
待っていて下さい
吉法師様
帰蝶は、必ずあなたに追い付いてみせます
『信長』を背負う女が、戦場(いくさば)に立つ
五月の空に立つ
何度打たれようとも、必ず這い上がり、そして、大切な場所を取り返してみせる
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一人じゃない
一人じゃないって、あったかいですね。
帰蝶は、ずっと一人じゃなかったと思います。
彼女(彼)を包む、吉法師様がいたから。
とても大きな存在なのに、それなのに何気ない存在で時に忘れるくらい。
水のように、空気のように。
ふとした時に存在を強く感じるのは、きっと改めて「一人じゃないぞ」と示すかのようです。
あぁ…また行ってしまわれるんですね…。
帰蝶は、ずっと一人じゃなかったと思います。
彼女(彼)を包む、吉法師様がいたから。
とても大きな存在なのに、それなのに何気ない存在で時に忘れるくらい。
水のように、空気のように。
ふとした時に存在を強く感じるのは、きっと改めて「一人じゃないぞ」と示すかのようです。
あぁ…また行ってしまわれるんですね…。
こんばんは
>一人じゃないって、あったかいですね。
側に居て、体温を感じられると尚、心細さは解消されるでしょう
凭れたい、けど、その背中がない
心の中の思い出だけで、人は支えなしで生きてゆけるのか
否
人は弱い
だから、支えてくれる存在を探し求め、現世を旅する
悲劇の舞台に立たされると、どれだけ周囲にシテ(脇役)が控えていても、孤独感は癒されません
だけど帰蝶は、愛する夫を亡くしても、一人立ち上がりここまで来た
いいえ
本当は、支えてくれる人の存在はわかっていたけれど、それでも吉法師様にのみ、その心を許していた
帰蝶はやっとわかったのです
人は死んで想い出になる
生きる人間は凍えた肌を温めてくれる
そんな人が自分の周りに大勢居ることを
側に居て、体温を感じられると尚、心細さは解消されるでしょう
凭れたい、けど、その背中がない
心の中の思い出だけで、人は支えなしで生きてゆけるのか
否
人は弱い
だから、支えてくれる存在を探し求め、現世を旅する
悲劇の舞台に立たされると、どれだけ周囲にシテ(脇役)が控えていても、孤独感は癒されません
だけど帰蝶は、愛する夫を亡くしても、一人立ち上がりここまで来た
いいえ
本当は、支えてくれる人の存在はわかっていたけれど、それでも吉法師様にのみ、その心を許していた
帰蝶はやっとわかったのです
人は死んで想い出になる
生きる人間は凍えた肌を温めてくれる
そんな人が自分の周りに大勢居ることを
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『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
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何よりボトルがどれも美しい
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濃姫の里 隠し吟醸
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一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
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量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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