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とたとたとたと、局処への廊下を走る
入り口の前で転びそうになりながら立ち止まり、警備兵に声を掛けた
「殿の承諾はないんだが、入っても良いだろうか」
「ああ、池田様。おなつ様から、伺っております。池田様がお越しになられたら、お通しするようにと」
「母上が?」
どうして自分が来ることを母が知っているのかわからなかったが、恒興は兎に角中に入り、帰蝶の部屋を目指した
途中、庭の辺りで激しく木のぶつかる音がして、ひょいと顔を覗かせる
          殿・・・」
秀隆を相手に、木刀を振り回す帰蝶の姿がそこにあった
「河尻様も・・・。          母上」
帰蝶の部屋の前の縁側に、母・なつが座っているのが見え、恒興は裸足のまま庭を横切り駆け付けた
「母上」
          勝三郎」
「殿、剣術稽古だったんですね。急に居なくなるから心配してしまって・・・」
「お前には、そう見える?」
「え?」
「随分荒れておられるようだけど、何かあったの?また表座敷で一悶着でもあった?」
「あー・・・、いえ」
義龍の死去は、まだここには届いていなかったのか
          斎藤の・・・。殿のお兄上様が、お亡くなりに・・・」
恒興は、ぽそっと小さな声で話した
「兄上様・・・。斎藤治部大輔様が?」
息子の言葉に、なつは驚いて目を剥いた
「はい。さっき、大垣から佐治が戻って、その話を・・・」
「そう・・・だったの。それで・・・」
「母上?」
何もかも納得したかのような母の顔に、不思議に感じた恒興は覗き込むようにして見上げた
「そう・・・。それじゃ、そうなっても仕方ないわね」
「何が仕方ないんですか?」
まだわからない恒興に、なつは呆れた顔をして問うた
「お前は、殿にお仕えして何年になるの?」
「え、ええと・・・」
急に聞かれ、慌てて指を折る
「私は九年、殿にお仕えしてるわ」
「あ、じゃぁ私も同じですね」
「九年もお側に居て、お前は殿を理解していないのね」
          母上・・・」
何も言い返せないと、恒興は俯いた
実際、母が荒れていると言う帰蝶の気持ちが理解できないのだから
「悔しいのよ」
「悔しい・・・?」
意味がわからず、恒興は聞き返した
「勝てないまま、治部大輔様は他界されたのよ?手の届かないところへ、行ってしまわれたのよ?」
「あ・・・・・・・・・・・」
漸く、母の言葉が理解できた
「勝てると想って臨んだ戦で、真打登場。その結果、あっさり負けて無念の敗退。殿が、どんな想いで帰って来たと想う?」
          私も、墨俣砦で斎藤に待ち伏せを食らい、慌てて革手に引き返そうとしました。だけど、その革手も斎藤の手に落ちていて・・・。佐治が咄嗟に軌道を修正してくれなかったら、部隊は全滅していたかも知れません・・・」
「私は、あんな殿はもう、二度と見たくない」
なつは激しく首を振りながら言った
「はい・・・、私もです」
「殿は兄上様に、『勝ち逃げ』されたのよ・・・。相手が死んだからって、殿がそれを素直に喜ぶと想って?」
「いえ・・・・・・・・・・」
「勝ちたかったのよ、兄上様に。勝って、自分の手で美濃を取り返したかったの。そのための戦だったの。そのために、準備だってして来たの。なのに、それが全部水の泡になったのよ?殿が悔しくないと想う?死んだ相手に戦で勝てる?もう二度と、戦えないのよ?戦いたくても、相手が居ないの。殿が平気で居られると想う?」
                
恒興は、力なく首を振った
様々な想いが今、帰蝶を苛み、苦しめている
兄に勝てなかったこと、兄に勝ちたかったこと、もう二度と、戦えないこと
がこん!がこん!と、帰蝶の持つ木刀と、秀隆の持つ木刀が激しくぶつかり合う
その音に顔を向け、恒興は帰蝶の胸の内を感じ取ろうとした

いつも誰よりも先頭に立ち、織田のために働いて来た
信長が生きていた頃も、当主である信長よりも真剣に、織田のことを考えていた
側に居て、その危うさに何度も肝を潰されたこともあったが、常に織田が発展すること、織田が大きくなることを望み戦っていた帰蝶を、間近で見ていたことを想い返した
信長が死に、生きる支えを失い、それでも立ち上がった彼女の前に立ちはだかる、夫の仇である兄に勝つことが、彼女の道標になっていた
そう考えれば、自分では到底耐えられることではないと知る
          もしも・・・千郷が死んでしまったら・・・、私はきっと、腑抜けてしまう。それでも殿は立ち上がり、今日まで来られた・・・」
殿は、兄上様が亡くなられて、淋しいのかな・・・
そう、心の中で呟く
「勝三郎・・・」
なつは、ぽつりぽつりと話す息子に顔を向けた
「私は、殿を守るのが私の役目だと想っておりました。だけど、殿を守り切れていない・・・。傷付いた殿を、励ます言葉さえ浮かびません・・・」
子供のようなあどけないその瞳から、ぽろりぽろりと涙が零れる
「馬鹿ね。殿はもう、そんなことを望まれるお立場にはいらっしゃらないわ」
なつは懐から懐紙を取り出し、息子の涙を拭ってやった
「前に進むしかないのよ。例え、兄上様が亡くなられても、美濃を取り返すと言う目標まで消えたわけじゃない」
「母上・・・」
「お前は、殿の手足となり、戦いなさい。斎藤から美濃を奪い返しなさい。殿の、生まれ故郷なのよ、美濃は・・・・・・」
          はい」

打ち合った木刀と木刀が軋みを上げ、重ねた場所が抉られ、へこむ
それでも帰蝶は一心不乱に木刀を振り上げた
相手は織田でも一番の遣り手
秀隆に敵う筈がなくとも、それでも木刀を振り上げ、振り下ろす
がすん、と音が鳴る度に、帰蝶の首筋から汗が散る
それは初夏の日の光を受け、きらきらと輝いた
          姉上・・・」
兄の死を聞き、姉に逢おうと利治が局処を訪れた
「新五様」
気付いたなつが小走りで駆け寄る
「筆頭が相手か。分が悪そうだな」
「いいえ、そうでもありませんよ」
想いの外、利治の方はしっかりしていた
それが安心できる
秀隆を押し切ることはできないが、手数では帰蝶の方が上だ
「防戦一方のシゲなど、滅多に見れるものではありませんわ。ゆっくり御覧(ごろう)あれ」
なつの言葉に、利治は正面から姉を見据えた
突き出す手は悉く打ち払われ、それでも決して諦めない
当らずとも次から次へと打って出る
秀隆も反撃の機会を伺い、帰蝶が左に反れた隙を縫って右に木刀を出す
帰蝶はそれを避け、左から木刀を刺した
今度は秀隆が身を捩り躱す
しゃがみこんだ帰蝶は秀隆の足を払おうと、低い位置で木刀を振った
咄嗟に身を倒し片手を着いて避け、帰蝶の足を払おうと自分の脚を伸ばし、薙ぐ
女ながら帰蝶もそれを瞬時に避け、双方一手も当らず先に息が切れた
「中々のお手前」
「お前こそ、さすがだな」
「いやいや。殿が男でなくて良かったと、心底想いました。もしも殿が男だったら、とっくの昔に勝敗は決まっていたでしょう」
「髭がなくなった分、口が軽くなったのか?」
「そんなつもりじゃ」
困惑した顔をする秀隆に、帰蝶は額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら微笑んだ
まるで、何かが吹っ切れたかのような表情で

遠い、遠い記憶の世界
四十年はとうに過ぎ、五十年にはまだ及ばない遠い昔
初め砦であったその城は、いつ頃からか斎藤家の居城へと変貌した
まだ小さな砦だけだった当時、山の中腹に小さな神社が一つ、地元の民は豊饒の神として社を厚く信仰していた
「百姓の民が居るから、この国は緑に潤い、私達は生きてゆけるのよ」
そう、母が教えてくれた
「私達は、その民を守るのが役目。良い?決して、民を悲しませてはいけないのよ」
そう言っていた母は、戦に巻き込まれ、殺された
目の前で
                
立ち止まり、手の中の壷箱に目を落す
この中に眠る壷は、何を意味しているのか
夕庵はその真意を知らなかった
ただ、遠い昔、自分を救ってくれたあの人が、母親からもらった大事なものであることしか知らなかった
死んだ義龍の依頼で、尾張の帰蝶に届けようとそれを十数年振りに手にしていた
それだけのことである
その夕庵の前に、義龍の正室・近江の方が立ちはだかった
「奥方様・・・」
「それを、どうするつもり?」
夫が亡くなったばかりだからか、多少憔悴した顔色をしている
「これは、お屋形様のご命令で、尾張に嫁がれた帰蝶姫にお届けする途中でございます」
「それは、義父上様の形見の壷ですね」
「はい、その通りでございます」
「謂わば、斎藤家の家宝。それを斎藤を出て、尾張に嫁いだ娘に手渡す理由は、何ですか」
「それは、お屋形様のご遺志で」
「斎藤を、美濃を尾張に渡すと言う暗示かッ?!」
夕庵の言葉を遮って、近江の方は怒鳴り声を上げた
「違います。私はただ、お屋形様の」
「やはりお前は、尾張と繋がっていたのかッ!」
「奥方様・・・ッ」
「それは、本来なら喜太郎が相続すべき品。あの人が、血の涙を流して手に入れたもの。斎藤を出た娘に手渡せるほどの、軽い物ではないッ!」
近江の方は夕庵から箱を取り上げると、それを抱えて走り出してしまった
「奥方様ッ!」
慌てて後を追う夕庵だったが、まだ若い近江の方の脚に追い付くわけもなく、局処の手前で振り切られてしまった
「奥方様!お返し下さいませ!それは、・・・それは、姫様に・・・、若が、姫様に・・・、兄上様が、妹君に・・・」
義龍もまた、帰蝶に自分の夢を託したのかも知れない
それがなんとなく伝わっていた夕庵は、壷を取り返せなかったことに無念さを込み上げる
「それは・・・、夢の続きで・・・」
老体に息が切れ、夕庵は局処の手前で崩れるように蹲ってしまった
「峰丸様・・・ッ」
悔しさに、ぼろぼろと涙が零れた
無意識に道三の幼名を呟きながら

それは明応の頃
美濃に土岐、斎藤の両雄が並び、互いに凌ぎを削っていた
古くより美濃の守護を務めていた土岐に、突出した能力を持つ斎藤家が家臣に着いており、その当主・妙椿は土岐に忠誠を誓う、忠実な部下であった
争いごとを嫌った妙椿は、隣接する尾張の織田氏の許へ養女を嫁がせ、美濃との和睦を結んだ
しかし、妙椿の死後、守護土岐家・守護代斎藤家と、続いて家内喧騒が起き、国はそれに巻き込まれた
少年の母も、斎藤の争いに巻き込まれ、命を落した
泣きながら山を降りた少年を保護した寺が、皮肉なことに斎藤家の菩提寺である常在寺なのだから、笑うに笑えない
「日安、門前を掃っておいてくれ」
「はい、住職様」
この常在寺は、斎藤家先代・妙椿が、京の妙覚寺から世尊院日範を呼び寄せ、開基した寺である
伝統と呼べるものは何もないが、住職・日範の人柄に、少年は少しずつでも心を癒されていた
そんなある日、寺に一組の親子が現れた
遠くで声がする
「日範師兄」
「おお、日頌(にっしょう)か!久しいな」
「今は、松波庄五郎と名乗っております」
「そうか」
          ご住職の弟弟子かな
住職から『日安』と呼ばれていた少年は、竹箒を手に門の前までやって来た
本堂の前からその声が聞こえ、振り返る
見ればみすぼらしい恰好をした中年の男と、自分と同じ年くらいだろうか、色の白い美少年が二人、日範住職に頭を下げていた
都会育ちなのか、その少年の肌の白さは遠目からも際立つ
山育ちの自分とは、全く違う毛色だと一目でわかった
気にしないでおこうと、日課の門前の塵払いをする
「峰丸、父は師兄とお話がある。邪魔にならないよう、隅っこで待っていなさい」
「はい、父上」
『峰丸』と呼ばれた少年は、父と住職の其々に頭を下げ、その場を離れた
          日頌。あの子が、玲子様の・・・」
「はい」
日頌と言う男は、苦笑いで応えた
「あれから何年だ。妙覚寺を追い出されて」
「かれこれ九年になります。あの子が生まれて、直ぐ発覚しましたから」
「あの子は、本来なら縊られていたのだろう?」
「寸でのところで取り返し、逃げるように京を出ました。しばらくは山科でうろうろしていましたが、近江の商人が私に職の口を与えてくださって、そのお陰でなんとか食べることはできました」
「それでも、生まれたばかりの赤子を抱えての生活は、大変だっただろう」
「いいえ。玲子様だと想えば、なんら不憫に感じることはありません。ただ、あの子に母親の顔を見せてやれないのが申し訳なくて」
「仕方がない。相手が相手だ。逢いたくとも、幽閉状態であるのなら、尚更無理だ」
そんな、父達の会話など露知らず、峰丸は両手で焦げ茶色の小さな壷を抱え、日安の許にやって来た
「こんにちは」
鈴のように弾ける、少し高い声だった
一見すれば少女にも見えるほど愛らしい顔立ちで、話さえしなければ女に見えても仕方がない
やはり都会育ちなのか
都会育ちはみんな、女のような綺麗な顔をしているのだろうかと想った
丸く盛り上がった可愛い頬、綺麗な線を描く目蓋はくっきりと二重で、小さな鼻がちょこんと顔の真ん中に収まり、少し小さめな口唇の荒れ方が唯一、この子は少年だと言うことを証明していた
                
日安は何も言わず、黙って会釈する
「お掃除ですか?」
何も応えない小坊主に、峰丸は少しも怯むことなく話し掛けた
「私も手伝いましょうか」
          結構です。これが私の仕事ですから」
日安は突き放すような口調で応えた
「でも、一人でするより、二人でやった方が早く片付くと想いますよ。私が塵取りを持ちます。ですから、あなたはそれを目掛けて箒を掃いて下さい」
そう言うと、峰丸は遠慮を知らないのか勝手に塵取りを掴み、構えるように地面に置いた
「どうぞ」
                
よれよれの薄汚い小袖に身を纏い、それでもどこか気品と言うものを感じさせる不思議な少年
丸い頬が、笑顔に尚高く盛り上げられ、何が嬉しくてそんなに笑っていられるのかと日安は、力いっぱい竹箒を振り払った
「ぶほっ!げほっ、げほっ!」
砂埃が舞い上がり、峰丸はそれを想い切り吸い込んでしまい、激しく咳き込む
「塵取りを目掛けて箒を掃けと仰った。だから、その通りにしたまでです」
「げほっ、げほっ、げほっ!          なるほど、私も言葉を誤りました。とんだ失態です」
咽込み、薄っすらと涙を浮かばせながら、峰丸はまた、微笑んだ

「どうしてあなたは、意地悪をされたのに微笑んでいられるのですか?」
掃除を終え、庭の片隅で峰丸と並び座り、日安はそう尋ねた
「意地悪ですか?誰がされたんですか?」
「あなたです。私があなたに意地悪をしました」
自覚がなかったのかと、日安は頭から汗を浮かばせて言った
「ええ、そうだったんですか、知りませんでした」
「あのね・・・」
呆れた顔をする日安に、峰丸はこう応えた
「だってあなたは、私の言葉どおりの行動をなさっただけでしょう?それを意地悪と言うのですか?」
                
悟りの境地にでも居るかのような峰丸に、日安は最早何も言えなくなった
「確かに意地悪をされたら、人間は笑ってはいられません。怒るのが当然でしょう。ですが、怒って拳を振り上げても、相手が何故そうしたのか理由を知って、それでも振り上げていられるでしょうか。恐らくは気まずい想いをするだけで、振り上げた拳を下ろせず、自分が困ってしまうだけだと想うんですよね」
「峰丸殿・・・」
「人の行動の裏には、必ず理由がある。それを知ってから、怒るか許すかを決めれば良いと、父上から教わりました」
「父上様・・・」
「私の自慢です」
「そうですか」
「私は美濃が気に入りました。できればここで根を下ろし、母上を呼び寄せることができれば良いなぁ」
「母上様とは、別居か何かで?」
「さあ、わかりません」
「わからない?」
笑顔で応える峰丸に、日安はキョトンとした
「私が生まれて直ぐ、母上とは理由あって離れ離れになってしまいました」
「なんと・・・」
「未だお顔を拝見したことがありません」
「一度も?」
「はい。ですが父上が仰るには、とても美しくて、とても優しい方なのだそうです。今は身分が違うため、逢うことは叶わないけれど、この世に身分と言う壁がなくなれば、それも夢ではないと」
「身分、ですか」
「母上が私を愛してくださった証拠が、これです」
と、峰丸は、それまで大事に抱えていた壷を見せた
「何の変哲もない小さな壷ですが、母上が自らの手で焼いてくださったものなのだそうです」
「お母上様が?」
「はい。私がまだお腹の中に居た頃のことだそうです。『私は、あなたを愛している』。そう、想いを込めながら手懸けられたのだと、父上から伺いました。だから私は、この壷を励みに、一日でも早く母上様をお迎えに行けるよう、立派な男になりたいのです」
「峰丸様なら・・・、大丈夫のような気がいたします。もう充分、立派かと・・・」
「あはは、そんなわけがないでしょう?私はまだ九つです。元服だって、まだですよ」
「九つ?」
自分と二つしか変わらないのかと、日安は驚いて目を剥く
「日安殿は?お父上とお母上はご健在ですか」
寺に預けられているだけだろうと、峰丸はそう、軽い気持ちで尋ねた
「私の・・・父上と母上は・・・」
聞かれ、素直に応える
「父上は、私が生まれて直ぐ、病で死にました」
「そうでしたか。無礼なことを伺い、失礼しました」
「母上は、先の斎藤家の戦で」
両手を結び、きつく固めて、震える声で言った
          殺されました」
「え・・・?」
さすがの峰丸も平気な顔ができない
驚きに目を丸め、まじまじと日安を見詰めた
「殺された・・・?」
「二ヶ月前のことです」
「二ヶ月・・・」
「私の母は、稲葉山の中腹にある伊奈波神社の巫女でした」
「伊奈波神社?」
「一般では、『物部神社』と呼ばれることの方が、多いです」
「物部・・・。もしや?」
「はい。私は物部の血を引く者です」
                
峰丸は日安の言葉に息を呑んだ
「最も、武家を捨てて長くなります。私の先祖がこの地で安住し、伝えによると稲葉山の中腹に神社を建てました。それが物部神社、通称・伊那波神社です。ですが、この地も何度かの戦乱に遭い、途中で人に管理を委ねることになったのですが、祖父の代から伊奈波神社の宮司を返還されました。天運を占う力があったので」
「天運」
「天候などを占うことです。ただ、人間が持つ天運も、時には占うこともあり、母上は特にその力を強く持っていました。だから、民もみんな、母を慕ってくれていて、それで、守護家にも意見が出せて・・・。母上は、斎藤家に家督争いをやめるよう、何度も説得しました。民が惑う、悲しむ、心を痛めている、だから争いをやめるように、と。それでも聞いてくれないのであれば、土岐家を介して朝廷に訴えると。五穀豊穣を願う伊奈波神社は、規模こそ小さいですがそれなりに信仰も集めておりました。加えて、母上の天運占いの的中率も高く、信頼もありました。それを良く想わなかった斎藤家は、争いに見せ掛けて神社に押し入り、母上を・・・」
心のつっかえを話したことで、日安は糸が切れたのか、肩をぐったりと落とした
「それだけのために斎藤と言う家は、神に仕える神聖な市子(巫女)を殺したのか・・・」
怒りに、峰丸の声が震えた
「それだけのために、日安殿は母上を殺されたと言うのか」
「峰丸殿・・・」
「乱世の世とは言え、そのような不条理が罷り通るのか、美濃と言う地は・・・ッ」
                
この、見るからに都会育ちかと想われる少年が一人、怒りに打ち震えたところで、世の中が変わるわけがない
それでも、自分の代わりに怒りを感じてくれたことが、嬉しかった
今日初めて顔を合わせた相手の、僅かな間だけ話しをしただけの相手の、自分の母が殺されたという事実に対し、肩を震わすほど怒ってくれたと言うことが、ただ、嬉しかった

それから別れ際、峰丸は日安の許に駆け寄り、こう言った
「いつになるか、わかりません。だけど、いつか必ずあなたを迎えに参ります」
          峰丸殿・・・?」
峰丸の言いたいことが、よくわからない
「斎藤に取られた、あなたのご実家。母上様の無念。全て、晴らしましょう」
「峰・・・丸・・・殿・・・」
余りの大きな話に、日安の目は大きく見開かれた
「だから、今は辛抱して待っていて下さい。いつか必ず、必ずあなたの悲しみを、全て打ち払いましょう。だから、それまで待っていて下さい」
                
ぽろり、と、日安の目から涙が零れた
他人のために、そこまで一生懸命になってくれる人が居ると知り、それだけで嬉しくなった
          ありがとうございます・・・」
例え実現することのない約束だとしても、きっと、この人を恨んだりはしない
いつか互いの存在も忘れ、其々の道を歩むことになろうとも、心が救われたのだから
だから、恨むことはないと、日安はそう想った

あれから何年が過ぎただろうか
人の噂に斎藤家の家臣の、そのまた家臣の西村家が再興したと聞いた
跡取りがなく断絶してしまったが、その家の働き振りを重視していた斎藤家が、西村家の再興に力を注ぎ、優れた人材である武将が西村を継いで家を建て直したと教わった
西村を再興した人物の名前までは知らないが、余程斎藤から信頼を得ているのだろうと、すっかり寺の暮らしにも馴れた日安は気軽に感じていた
斎藤家に奪われた実家、伊奈波神社がその後どうなったのか、今の身分では調べることもできない
ただ、土岐家の家内争い、斎藤家の家内争いだったのがいつの間にか土岐家と斎藤家の争いに発展し、国のあちこちで戦が繰り広げられるようになってしまっていた
これに嘆かない民は居ない
寺にも近隣の民が、どうにかして斎藤家と土岐家の争いをやめさせられないかと相談に遣って来る
ここは斎藤家の中でも抜きん出た能力を持っていた、斎藤妙椿を祀る寺だからだ
斎藤家の菩提寺であるのだから、争いをやめるよう説得してくれと毎日毎日、色んな人間が寺を訪れる
その度に住職は深い溜息を吐いていた
「日頌は何を考えておるのか・・・。還俗したかと想えば油売りに身を窶し、それで真面目に暮らすと信じ岐阜屋を紹介したのに、いつの間にか斎藤家に取り入って武家にまでなって・・・」
「お師匠様・・・」
少しやつれた感もする日範を心配して、日安は白湯と香の物を持って寝室を訪問した
「ああ、日安か。まだ休んでなかったのかい?」
「お師匠様のご心労が心配で」
「ははは。お前に心配を掛けさせるとは、私もまだまだ未熟だな」
「いえ・・・。それよりも、毎日民が遣って来て、お師匠様を責めているのが気になります。私に、何かできることはございませんか」
「日安」
「斎藤は私の仇です。ですが、それに捉われてしまえば、私の人生が駄目になると教えを説いて下さったお師匠様のお力になりたいのです」
「お前・・・」
まだ幼いながらも、一端に大人を気遣い、過去の恨みを忘れ、健気に生きようとしている日安の穢れのない瞳に、日範は病んでいた心が少し癒されたかのような気分になった
「そうか、そうか、私の手助けをしてくれるか。なら、明日も変わらずこうして私の側に居て、死者の魂を救い、夜には香の物の差し入れでもしてもらおう」
「お師匠様・・・」
「なあに、それも大事な仕事だ。無駄などと想うな。お前がそうして努力して、私を支えてくれることが、何よりの励みになるのだよ。無駄な努力など、どこにもない。いつか必ず実になる。そう教えたのは、私だな?」
          はい、お師匠様・・・」
「なら、もう休みなさい。起きていても朝は来る。朝が来ればまた、忙しい一日の始まりだ。門前を掃い、お客様や檀家さんにお茶を出し、白菜を塩に漬け、米を磨ぎ、味噌汁を作り、畑を耕し実を育てる。なあ?日安。お前のやることはたくさんある。それを一つ一つ、確実にこなして行きなさい。いつか必ず、お前のためになる」
                
日範に諭され、日安は頷き、頭を下げて寝室を出た
子供の自分には、できることなどそれだけなのかと、少し落ち込みながら
それから何日か後

「迎えに来ました」
颯爽と馬に跨った彼が、再び自分の前に現れた
          峰丸・・・殿・・・?」
まだ子供だろう、それでも初めて逢った時とは別人のように、すっかり若武者らしい様相へと変貌している峰丸に、日安は目をパチクリとさせた
「すっかり見違えて・・・」
頭は綺麗に月代に剃られ、だけどまだ長い髪の残りを一本に結び、まるで小姓のような出で立ちだった
馬に跨る姿も様になっており、本当にあの時の少年なのかと疑ってしまう
「約束を果たす時が来た。いや、約束を果たすことの出発地点に立ったと言うか」
峰丸はひらりと馬から飛び降り、日安の許へ歩き寄った
「峰丸殿・・・?」
「西村」
峰丸は、現在の自分の名を告げた
「西村勘九郎。私の、今の名前だ」
          西村・・・」
では、斎藤に取り入り、廃絶した西村を受け継いだのは、峰丸、いや、勘九郎の父なのか
「縁あって、父上が斎藤家に気に入られ、西村の名を受け継ぐことになったんだ。だから今、父上も家臣を集めている最中だ。私も、有能な人材を集めている最中なんだ」
「有能な・・・?」
「日安。お前を迎えに来た」
「え・・・?」
勘九郎は、右手を日安に差し出しながら、笑顔で言った
「お前の実家を、取り返そう」
                
「いや、私が」
勘九郎は手を広げて言い直した
「お前の家は、私が取り返してやる」
「峰・・・、か、勘九郎・・・殿?」
差し出された右の掌が、まるで夢の始まりのように想えた
この人なら本当に、家を取り返してくれるかも知れない
そんな気にさせられた

「峰丸様・・・、峰丸様・・・ッ」
局処の入り口付近の廊下で蹲り、動けなくなった夕庵を利三が見付け、駆け付けた
「夕庵様!」
耳のどこかで、その足音を聞いていたような気がする
「夕庵様、如何なさいましたかッ?!」
利三は慌てて夕庵を抱き起こした
「お・・・、お清殿・・・ッ」
普段、気丈で冷静な夕庵の、その泣き顔を目の当たりにし、寧ろ利三の方が狼狽してしまう
「夕庵様・・・・・・・」
「壷を・・・」
「壷?」
「壷を・・・、壷を・・・」
「お屋形様が仰ってた、あの壷のことですか?どうかしたのですか?」
「あの壷は、峰丸様の、お母上様の・・・。大事な、大事な・・・」
「峰丸・・・。母上様」
夕庵の言った意味がわからず、利三はただ泣き崩れる夕庵を抱き締めることしかできなかった

日範住職は、勘九郎の後ろに跨り、寺を離れて行く日安の背中を心配げに見詰めた
「できればお前を、次期住職に育てたかった・・・」
そう、小さく呟きながら
この寺は、斎藤を大きくした妙椿が開基したもので、その妙椿が京都の妙覚寺から住職にと自分を呼び、その自分を頼って日頌、還俗して『松波庄五郎』を名乗る弟弟子が訪れて
それから少しずつ、運命の歯車が回り始めたのかも知れない
母を殺された少年に、再び血塗られた道を歩ませたくはなかった
          『教え』とは・・・。時には、人を止めることさえできぬ、弱いものであったのか・・・」
願わくば、日安
お前の手を、血で汚させたくはなかった・・・
美濃一番の大店である岐阜屋で働くことになった庄五郎は、斎藤家に出入りする内に気に入られ、士分に取り上げられ、西村家の家督を与えられた
まさか愛弟子を連れて行かれるとは、想像もしていなかった

「身分の壁を壊し、母上様を迎えに行きたいと言ったこと、覚えているか?」
          はい」
「父上は、人の身分を隔てる壁がなくなれば、いつでも母上と暮らせると仰った。私はそれを信じている」
「勘九郎様・・・」
「父上が武家の人間になり、私も政治と言うものを学ぶようになって、驚くことばかりだ。綺麗事だけで片が付くものではないと言うことも、知った。人を蹴落としてでも頂点を目指さなくては、自分の願いを叶えることすらできないと言うことも」
「人を蹴落として・・・」
勘九郎の腰に腕を回し、馬から落ちないよう踏ん張っている日安は、言った言葉を心の中で噛み締めた
「だけど、お前が居たら」
勘九郎は少しだけ顔を振り向かせ、笑顔で言った
「もしも私が間違えた道を歩もうとしたら、諌めてくれるのではないかと感じたんだ」
「勘九郎様・・・」
「どうしてだろう、何年も逢ってないのに、お前のことを忘れた日はなかった」
                
そう言われ、胸が満たされていくような気がした
「家臣にするなら、お前を一番最初にって想ったんだ」
「私を・・・」
「日安。私の助けになってくれ。これから、これから先も、ずっとずっと」
これで二度目の筈が、自分に全幅の信頼を寄せてくれる勘九郎に、日安は自分の真実の名を告げた
          八千代」
「え?」
「私の名は、武井八千代と申します。未だ、童名のままですが」
「八千代・・・?」
意味を聞くかのように、勘九郎は聞き返した
「『永遠』、と言う意味です」
「永遠・・・」
「はい」
          そうか」
ほんの少し、口唇を釣り上げ、勘九郎は微笑んだ
「私は、永遠の友を得たのだな、八千代」
「勘九郎様・・・」
夕日が二人を茜色に染める
言葉を交わした約束ではなく、魂が呼び合い、語り合った
共に、時代を生きて行こう、と
友として
永遠に

『峰丸』と共に目まぐるしく変わる毎日を、ただ夢中で駆け抜け、気が付けば峰丸の父・新左衛門が死に、時代を受け継いだ峰丸も戦に敗れ、その子の義龍の死も看取った
自分だけが取り残されたような気分になった
「大丈夫ですか?夕庵様」
夕庵の私室に運び、そっと腰を下ろさせながら利三は気遣う言葉を掛けた
「見苦しいところを、お見せしました」
「いえ・・・。それより、壷とは、お屋形様が姫様にと仰っていた壷のことですよね?どうかなさったのですか?」
                
利三の顔を見詰め、少し躊躇うような目付きをしながら呟く
「あの壷は、道三様がご生母様に頂いた、大切な物なのです」
「ご生母様・・・」
そう言えば、道三の母親が誰なのか、今まで気にしたこともない
誰も聞かなかったし、聞こうともしなかった
「二人が親子である証なのだと、道三様は仰ってました」
「そのご生母様は、今、どちらに」
                
利三の質問に、夕庵は黙って首を振った
「誰も知らないのですよ。道三様のご生母様のお名前はおろか、何処の誰なのかも」
「知らない・・・」
「道三様ご自身、ご存知ありませんでした」
「え?」
そんなことがあるのかと、利三は目を丸くして驚いた
「ただ、京に居ると言うことだけは・・・。それ以外のことは、何も」
「何も?」
「ええ。何も」
それでも
夕庵は利三から目を逸らし、障子の向うから見える稲葉山の光景をぼんやりと見やりながら、心の中で呟いた
それでも、いつか生きて逢えることを信じておられた
親子の名乗りを挙げることを信じて、戦って来られた
『身分』と言う、分厚い壁と戦いながら
だけど         
顔を落す夕庵を、利三は黙って見守った

          夢はもう、潰えていたのか
とっくの昔に・・・・・・・・

目の前に広がる、一面の桜園
空も地面も、桜の色に染まっていた
帰蝶は雪のように降り頻る花弁の舞う中を、両手を広げて走った
その腕には見覚えのある、昔着ていた女物の小袖が巻き付いていた
視界の先にも桜の色だけ、見上げても桜色の空しか見えない
「凄い!凄い!」
心が浮かれて、夢中になって走った
走り続けた
「どこまでも桜ばかり!」
走りながら、彼女は愛しい人の名を呼んだ
「吉法師様!ほら!限りがない!どこまでも咲き誇ってる!」
まるで、これからのあなたの人生のように
「吉法師様!」
満面の笑顔で、帰蝶は振り返った
だが、背後に夫の姿はなかった
「吉法師様・・・?」
広い広い桜の園の中で、一人ぼっちで居ることに気付いた
「吉法師様!」
初めて感じる、『心細さ』
「吉法師様ッ!」
帰蝶は必死になって、夫の名を叫んだ
その刹那、一陣の強い風が吹き荒び、帰蝶の視界を遮った
咄嗟に腕で目を覆い、風が当るのを避ける
柔らかな空気
それに混じって、懐かしい香り
潮に混ざった、お日様の香り
嗅ぎ慣れた、夫の香りが微かに漂う
そして、風が止んだのを感じ、そっと腕を外した
                
さっきまで、小袖を着ていた筈のその腕に巻かれていたのは、女物の着物の袖ではなく、籠手だった
いつの間にか自分は、小袖姿から鎧姿へと変わっていた
          吉法師様」
夫が居ないのを、なんとなく納得した
納得したかったわけじゃない
納得をしなくては、先には進めなかった
静かに目蓋が開く
今夜は珍しく、魘されない代わりに、夫も姿を見せなかった
淋しい、けれど、布団に張り付いた背中になんとなく、夫の温もりを感じたような、そんな気にさせられた

「美濃攻めを再開する」
帰蝶の頼もしい言葉に、表座敷が活気付いた
「佐治」
「はい」
「織田に寝返る美濃国人を、これ以上増やさなくても良い」
「え?」
帰蝶の言葉に、佐治は驚いて目を丸くさせた
「触手を増やせば、こちらも油断ができなくなる。それでは息が詰まってしまうからな」
「ですが、殿」
「嫌でも、織田に着けば安泰だと想わせるような、そんな戦をすれば良い。無理に引き込む必要はない」
「殿・・・」
「彼らには、彼らの立場がある。美濃の真ん中で、尾張の味方ができるか?孤立した状態で、それでも織田の味方をするだけの理由があるか?」
「それは、何れ」
「何れ、自然と湧き上がるものではない。大儀も名分も、自分の手で作らなくてはならないものだ。じっと待っていても、舞い込むものではない」
                
静かな口調で話す帰蝶に、佐治は黙り込んだ
「次の戦は、様子見の姿勢で行く」
「様子見?」
秀隆が聞き返した
「小牧の砦を陣営に移す」
「小牧を」
今度は恒興が声を出した
「兵糧の準備のため、小牧山に詰めている五郎左が帰還している。小牧を拠点にするつもりだ。理由は、清洲よりも若干ではあるが、美濃に近い。それに、土田や金森の居城にも近い。清洲から兵糧を送り、小牧山を戦の拠点にする。私は予定通り、金森に会いに行く。みな、そのつもりで居てくれ」
                
全員が、黙って頭を下げた

「無事安定期に入ってくれて、ほっとしたわ」
弥三郎の屋敷では、やえがさちの世話に明け暮れていた
細身だからか、さちの腹が普通より目立つ
昼間に弥三郎が居るわけでもなく、妻の菊子も城で働いている
娘の瑞希も城に連れていており、屋敷の中はやえとさちだけだった
「私なら一人でも大丈夫なのに」
人の世話をして来たからか、母親であろうと人に世話をされることに慣れていないさちは、随分と居心地が悪そうだが
「何言ってるの、大事な時期なのよ?ここは昼間誰も居ないのだから、万が一のことでもあったらどうするの」
「心配し過ぎよ」
さちは母親に苦笑いする
「それにしてもお父さん、遅いわね」
「馬屋はもうとっくにやめたけど、日長一日ぼうっとしてるのはつらいのよ。孫の世話をしようにも、誰一人居ないんだもの。することもなくて、その辺うろうろして、町の様子とか見てるんじゃないの?」
「うん・・・」
長兄の時親の息子一人は、既に妻の実家に引き取られた
次男も養子入りが決まっており、母親と共に毎日城に上がって教育を受けている
娘二人も同じく城に出向き、長女は徐々にではあるが局処の仕事をするようになり、次女は弥三郎の娘と同じく織田家嫡男・帰命の遊び相手をしていた
昼間、屋敷に誰も居ないのは馴れたことだが、普通の家庭なら賑やかな昼下がりも、武家となると留守勝ちになるのは当たり前なのか、それでもさちは何となく、武家の家庭とは淋しいものなのだなと感じた
ふと、浮かぶ、夫の顔
          そう言えば」
「何?」
「前から疑問に感じてたんだけど」
「うん、どうしたの?」
「あのね、お兄ちゃん二人の名前なんだけど」
「平三郎と、弥三郎?」
「うん。どうして二人とも、『三郎』なの?」
「え?」
さちの質問に、やえはキョトンとした
「何?」
「だから、なんで二人とも『三郎』なの?」
「何言ってるの?平三郎と弥三郎でしょ」
「そうじゃなくて、武家じゃ男子は数を生まれた順に付けるのよ」
「ああ」
やえはさちの言っている意味を漸く理解したのか、大きく頷いた
「そうそう、平三郎の時は、お父さんの平左衛門の『平』を付けたのね。平三郎の名前は、お父さんが考えたから」
「じゃあ、弥三郎兄ちゃんは?」
「私よ」
「てことは、数とか全然考えず?」
「う~ん、それ、お父さんにも言われたのよね。次男だったら『四郎』だって。想い出したわ」
「なんで『四郎』じゃなかったの?」
「だって」
やえはにっこり笑って応えた
「あなたはもう武家じゃないんだから、子供には好きな名前を付けられるのよって言ったのよ」
          うわぁ・・・。聞きようによっては、きつい一言ね」
「そうかしら。でもお父さん、納得したわよ」
「それで、お兄ちゃんの弥三郎って、通ったのね。でも、それって誰かの名前だったりするの?」
「ええ、当時の村の土豪の息子さんの名前。あなたが生まれる前に、他所の村の土豪の婿養子に入られて村を出て行ったけど」
「え?」
「とっても素敵な人でね、兎に角男前だったのよ。だから、あの子も男前になるようにって祈りを込めて」
「不純なのか純粋なのかわかんない動機ね・・・」
「だけど祈りは通じなかったのね。随分がさつな子に育ってしまって」
                
がっかりする母の表情に、さちは頭から汗を浮かばせた
一応、祈りは通じて弥三郎も、織田一番の美丈夫と称されるほどなのだが、生憎母はそれを知らなかった
そうしていると、玄関から声がする
「ただいまー」
                 ッ」
新五さんの声だ、と、さちは急に立ち上がり、玄関に小走りで向ってしまった
「これ!さち!走っちゃ駄目でしょ!」
やえは慌ててさちの後を追う
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関に立っている夫、利治の姿に、さちは幸せそうな笑顔を浮かべる
「どうしたの?今日は早いのね」
「ああ」
踏み石に乗り、腰を下ろす
「準備に入るから」
「え?」
さちの代わりに、やえが草履を脱ぐのを手伝った
夫の言葉に、さちは想わず聞き返す
「なんの準備・・・?」
利治はゆっくり振り返り、それを告げる
          戦だ」
                

「あら、殿。ご休憩ですか?」
局処を訪れた帰蝶を見付け、なつは頬を綻ばせて駆け寄った
「いや、吉兵衛に用事があってな」
          兵糧の、準備・・・ですか」
帰蝶の後ろに、長秀が控えていた
なつに軽く会釈する
「金森の出方を見て、仕掛ける」
「そう・・・ですか」
「五郎左、先に行ってろ」
「はい。おなつ様、失礼します」
帰蝶の後ろからそっと抜け、長秀は貞勝の居る執務室へと小姓らに案内されて行ってしまった
残されたのはなつと、その侍女だけである
「また、説教か?」
皮肉るかのように、帰蝶は苦笑いを浮かべながらなつの顔を覗き込む
なつはほんのり頬を染めて俯いた
          兄上様の、喪も明けない内に・・・」
「明けていないからこそ、好機だと想う。私だったら、確かに兄上の死を悼む暇は欲しいだろう。だがな、攻めるのは『信長』だ。私じゃない」
                
言葉にできず、なつはただこくりと頷いた
「だから、行かせてくれ」
「わかって、ます。駄々を捏ねるつもりはありません。だけど」
帰蝶を見上げるなつの瞳が、薄っすらと涙で湿っていた
「そんなにも、急がなくてはならないのですか?」
「なつ」
「犬山を先にするか、斎藤を先にするか、殿も迷っておられるのではないのですか?」
「確かに、そうだな」
「だったら」
「考えて、それで結論は出るものなのか?」
                 ッ」
なつは、言葉に詰まった
「犬山を落せば、尾張は私の手の中に入る。美濃攻めも易かろう。だがな、こちらから親戚関係を持ち掛けたのだ。目障りだからと言う理由で、一方的に攻撃してしまって、良いものなのか?」
「それは・・・」
「美濃攻めには、大義名分がある。父の仇、弟に美濃を取り返してやる、道三の遺言の執行。そして、これまで争って来たことへの雌雄を決するのもまた、理由にはなる。犬山には、それがない。表立って私に歯向かうことは、まだしていない。その犬山に仕掛け、勝ったところで清洲織田は賞賛されるわけではない。わかっているのだろう?」
          はい・・・」
「戦は、何れ死ぬ。遅いか早いかだけだ。私も、何れ死ぬ。戦とは、そう言うものだ」
          はい・・・」

帰蝶が戦に出るのは、仕方がないことだと、頭では理解している
心が納得しないだけだ
女だから戦に出るのがおかしいと言う気持ちから、この感情が出て来るわけではない
どうして、帰蝶が戦に出るのを嫌がっているのか、なつは自分の心に問い掛けた
何が原因なのか、帰蝶の背中を見詰めながら考える

          なつ」
「はい」
自分の前をゆく帰蝶に声を掛けられ、なつは一瞬ビクンと震え、それから返事した
「留守を、頼む。さちも、城に呼び寄せる。ご両親も一緒だからな、その面倒も頼んで良いか」
          勿論です」
帰蝶は一度も振り返ることなく、応えた
「助かる」
「とんでもありません・・・」
背中を向けていても、今、帰蝶がどんな表情をしているのか、なつには手に取るようにわかる
どうしてなのか、その答えは見付からないが、それでもわかった
「何か土産でも買って来てやろうか」
「そんな」
「美濃の縮緬でもどうだ」
「そんなもの」
「じゃあ、美濃焼きはどうだ?」
「私は」

          あなた様のお側に居られるだけで・・・・・・

「なつは、欲がないな」
「そんなこと・・・」
小さな声で応えた
それから、胸の中で付け足す

「あなた様がご無事でお戻りになられるのが、何よりの手土産です。だから、必ず帰って来てください。生きて、帰って来てください」

なつは、ふと、自分の疑問に対する答えを見付けた
そして、誰に知られることもなく顔を赤く染め、俯く

私は、この人に恋してるんだ・・・
同性なのに、それでも私はこの人に、恋してる
娘ほどの若いこの人に、私は         
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生きて帰ってきて下さいね。

私も、それを望んでいます!

Haruhiさんお久しぶりです。
花粉症でしばしばする目でかみ締めながら読みました。
また行ってしまうんですね…。
「見果てぬ地に向かう目は何を映し出しているの?
どうか、どうかわたくしをその手で掴んでいて…」

って『1582』の歌詞、なつの気持ちみたいに思えてきました。
mi URL 2010/03/05(Fri)10:58:58 編集
こんばんは
>花粉症でしばしばする目でかみ締めながら読みました。

花粉症、大丈夫ですか?
私は一度も掛かったことがないので、そのつらさがわからないのですが、掛かった人の話に因ればもう、大変だとか

>また行ってしまうんですね…。

これから先も、なつは何度もその想いを抱えて帰蝶を見送ることになります
史実ではないのでどうとでも言えることですが、この物語の中だけで考慮するなら、きっと、つらいでしょうね
自分で言うのもなんですが、徐々にではありますけど味のあるキャラクターが増えて来ました
その分、影の薄くなった人も居ますが
まだ序盤の頃、なつがここまで特化するとは思っていませんでした
今もなつが一番の『一人歩き』なキャラクターです
その次が、信長の母親(ここでは『市弥』と名付けております)
実際の土田御前がどんな人だったのか、全く伝わっていないので想像するしかないのですが、中途半端に伝わっているよりも、全然残っていない方が寧ろ扱いやすいです
そう言った意味で、なつ(史実は養徳院)も自由にできます
自由にした結果、こんな締め方になってしまいましたが・・・

>「見果てぬ地に向かう目は何を映し出しているの?
>どうか、どうかわたくしをその手で掴んでいて…」
>
>って『1582』の歌詞、なつの気持ちみたいに思えてきました。

改めて歌詞を拝見しましたら、元々はmiさんが仰っていたように信長を思う誰かの想いを代弁したであろうものを、私はすっかり別の人物と摩り替えてしまっているんですね
確かに1582のあの歌は、帰蝶を想うなつの心にも感じました
同性だけど、それでもなつは帰蝶を愛し、恋してます
性別を超越しちゃったんですね、帰蝶は・・・
Haruhi 【2010/03/05 21:07】
どうもお久しぶりです。
我が家のパソコンの機嫌が悪く、しばらく起動できなかったのですが、やっと直ってこちらをお訪ねしたら・・・。やっぱりこちらの小説は当時の生きる人達の心理描写を巧みに、かつ感情移入しやすく描かれていて、とても癒される思いです。
私自身も日々の生活の中で考えさせられる事も多く気力が湧かない事もあります。
ましてや小説を書くと言う事の難しさは、並大抵の事ではないと思います。
こちらのサイトに訪れることで日々の活力を頂いていると思っていますが、かといってHaruhiさんの体調や気持ちが何よりも重要だとも思っています。
まだ肌寒い日が続きますので、どうか体調を崩されませんように(^^)
胡蝶の夢 2010/04/20(Tue)21:50:13 編集
ご訪問ありがとうございます
ご心配頂いている最中、既に(苦笑)体調不良のため、現在寝たきりの生活を送っております
病院に行って参りましたので、もうしばらくすれば普段通りの生活に戻れるかと思いますので、更新にまたしばらくお待ちいただかねばならないかと思います
どうかご了承くださいませ

>やっぱりこちらの小説は当時の生きる人達の心理描写を巧みに、かつ感情移入しやすく描かれていて、とても癒される思いです。

ありがとうございます
基本、日本人に悪いヤツは居ないと思っている目出度い思考の持ち主ですので、地元でも嫌われているだろう道三でさえ、悪く書き残すことはできませんでした
義龍もいい評判ではなさそうですが、生きた彼らに触れたら、きっと、その考えは変わるのではないかと思います
良しにしろ悪しきにしろ、名が残っていると言うことは、少なくとも彼らを愛した人間が居ると言うことであり、そんな人間の存在を無視して徹底的に悪党に仕立て上げるのには抵抗がありました
私は日本人でありながら、勧善懲悪に嫌悪感を持っております
善は間違いなく善のままなのか、悪は最後まで悪なのか
突き詰めれば、善には悪を隠した形跡や痕跡があり、悪は善を敷くがため悪を選ばざるを得なかった理由があります
悪く書かれているから悪人、持ち上げられているから善人と分けることは私の主義ではないので、今までにない展開にしてみました
こうしてみたら道三も、愛すべき人間であっただろうと思わざるを得ません
夕庵との馴れ初めは随分前から構想しておりまして、道三が移設した伊那波(いなば)神社の縁者として夕庵を使ってみました
そうしたら、今までの設定が面白いほど辻褄が合ってしまって、私自身驚いております
勿論、実際の夕庵と伊奈波神社に由縁があるなんて事は見付かっておりませんが(苦笑
ですが、かの高名な陰陽師・安倍晴明が物部の出身でしたので、できればその筋で『武井』を見付けたかったのですが、見付からないままで・・・(涙
でもまぁ、これは創作ですから細かいことを気にして読まれる方もいらっしゃらないだろうと高を括っております

>まだ肌寒い日が続きますので、どうか体調を崩されませんように(^^)

ありがとうございます
現在薬用療法にて回復を願っている最中でございます
更新までまた時間が掛かるかと思いますが、気長にお待ち下さいませ
宜しくお願い申し上げます
Haruhi 【2010/04/22 13:22】
69. 堕つ魂   *HOME*   71. 慕情
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます

先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い

文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます

了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
管理人の独り言も混じっております
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よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙

(画像元:コーエー公式サイト)
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キャラクター紹介文
絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。

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清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
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