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返事をする約束であった夕刻がやって来た
元康は生きて尾張を脱するため、秀貞の提案を飲んだ
「これからどうするので?」
秀隆の敷いた今川包囲を無血で通過するため、尾張国境まで秀貞が付き添う
「駿府には、戻れません・・・。治部大輔様に、申し訳が立ちませんから」
そう、精一杯の苦笑いを浮かべることしかできない
「駿府には、ご夫人と若子様方がいらっしゃるのでは?」
「妻は誇り高い今川の一族の姫君です。呼んだところで、素直に来てくれるかどうか・・・」
「それでも、黙ってるわけには行かないでしょう?」
「そうですね。行き着く先が決まったら、知らせてみようかな」
夕焼けを眺める元康の瞳は、今川から解放されるかも知れないと言う希望で輝いていた
これから自身に訪れる転機を知りもしないで
同じ頃、表座敷では祝勝会が始まっていた
負傷した帰蝶は参加せず、龍之介の居る局処で帰命と共に夜を過ごす
末席の利治と佐治に祝勝会に参加する資格はなく、言葉少なに並び、長屋への家路についた
利治が武功を挙げたことで、その上司に当る弥三郎には祝勝会ではしゃぐ資格はあったが、兄を失い酒を飲んで騒ぐ気分にはなれない
側には親友とも呼ぶべき年上の友、可成が着いていた
「 私は、お前の兄上との関りこそ少なかったが、優れた人物だったと言うことは、知っている」
「三左さん・・・」
「若き頃より斯波を支え、斯波が解体した後には見事に、その旧臣らを集めた。余程、人望厚いのだろう。あの蜂須賀殿ですら、お前の兄上の頼みとあれば、断れずに居た。だから、軍議には欠かさず顔を出されていたのだろうな。お前の兄上は、中々できたお方だとわしは想う」
「 うん・・・。自慢の兄貴だよ。庶民に落ちたのに、それでも武士に返り咲いた。まぁ、それは大方様のご尽力に因るんだろうが」
カラカラに乾いた喉で、言葉が詰まり気味になるのを必死で押し出す
「いや。素質がなければ、武士になったとしても生かし切れない」
「うん、そうかもな・・・」
「そう言えば、官位が付いたのだってな」
「あ・・・、うん。感状に書いてあったっけ・・・」
懐から、帰蝶にもらった感状を取り出す
「 陸奥守・・・だってさ」
「陸奥、か」
「随分寒いとこの名前だな」
弥三郎は引き攣りながら、笑おうとした
だが、上手く笑えない
「陸奥は、広大な土地が広がる国だと聞いたことがある。恐らく奥方様は、広い陸奥に兄上のお心を写されたのではないか?」
「まさか・・・。兄貴はそんな玉じゃないって。いっつも気が小さいことばっかり言ってたのに」
「まぁ、直接奥方様に伺うしかないだろうがな」
と、可成は苦笑いする
「そう言えば・・・」
中島砦での遣り取りを想い出す
「三左さんて、奥方様が子供の頃から斎藤家に仕えてたんだよね?」
「ああ」
「じゃぁ、武井夕庵さんて人が、奥方様を長良川に突き落としたっての、ほんと?」
「夕庵様が、奥方様を長良川に?」
キョトンとする可成に、弥三郎は続けて言った
「七つになったばかりの頃、長良川に突き落とされたって」
「ああ・・・」
あの時のことを想い出す
「でも、いくらなんでも、七つの姫君、川に突き落とすヤツなんて居ないよなぁ、やっぱ」
「いや、確かに奥方様は夕庵様によって、長良川に突き落とされた。と言うか、叩き落された、と言うか」
「 え?」
可成の返事に、弥三郎は目を丸くさせた
「事の経緯まではわからないのだが、奥方様と夕庵様が口論なさって、城を出て長良川に連れて行かれ」
「ドボン、て・・・?」
「うむ」
「 」
「いやぁ、あれは驚いたなぁ。夕庵様に川に船を浮かばせろと言われて、何をするのかと想いきや、まだ姫君だった奥方様を抱え上げ、川に放り投げられてなぁ。未だ胸に残る名場面だ」
「名場面なの・・・?」
「しかも奥方様は筋金入りの負けず嫌いだろう?許しを乞えば良いものを、小袖姿のまま泳ぎ出されて」
「無謀だな・・・」
弥三郎の頭から汗が流れる
「不恰好だが、それでも泳がれて」
「泳いだんだ・・・」
さすが負けず嫌い、と、いろいろな意味で感心する
「でもまぁ、川の中腹で溺れられたが」
「そりゃ力尽きるわな・・・」
「が、あれは奥方様の真っ直ぐさを証明した。あの出来事があるから、奥方様は今日の成果を出されたんだと想う」
「かもね」
少しだけでも、苦笑いでも、それでも『笑顔』になれた弥三郎の首に腕を回し、引き寄せる
「三左さん・・・?」
「表座敷に行くか?それとも、わしの家で酒でも飲むか?」
「 そう・・・だな。のんびり、三左さんとこで飲むかな。どうせ今夜は菊子も当直だろうし、瑞希も局処に居るし」
「よし。そうと決まれば話は早い。先日、恵那が白菜の香の物を漬けたばかりなんだ。早速頂こう」
「いいね」
二人は立ち上がり、自分の足で歩き出した
一歩、前進と言ったところだろうか
兄の死は確かにつらい
だが、いつまでも悲観していられるほど、時代はのんびりとは流れていない
次の戦はもう始まっていると風が知らせる
いつの間にか弥三郎にも、先祖伝来の武家の血が呼び覚まされたのだろうか
それは、誰にもわからなかった
「佐治!」
やっと帰って来たと、市が喜び勇んで夫を出迎える
走り出すままに腰にしがみ付き、佐治は少しだけ腹に衝撃を感じた
「おかえり!」
「た、只今戻りました」
内縁でも、『夫婦』となって半年は過ぎているのに、未だに『主従』の抜け切れていない二人に、さちは吹き出した
そんなさちを見ている利治の目は複雑だった
「どうしたんですか?その両手」
晒しを巻いた市の手を見て、佐治が驚く
「うん、あのね」
市と佐治の会話が遠く聞こえる
「あのな、さち」
振り返るさちの顔は、笑顔に溢れていた
「 お兄ちゃんが・・・」
時親の戦死を、利治は伝えた
さちは動揺して腰を抜かし、その場でへたり込んでしまった
「今川の殿、無事に務め果たしたって」
「でも、死んだら何もないじゃない・・・」
「そうかも知れない。でも、手柄を立ててこそ、武士の本懐だと想う」
「手柄を立てたら何?それで死んでも、幸せだって言うの?!」
「そうは言ってないッ」
「新五さんは男だからわかんないんだよッ!残される女の気持ち、考えたことある・・・?」
さちの目から、ぽろぽろと涙が零れた
「つらいんだよ?悲しいんだよ・・・?」
「わかってる。俺も戦で親を亡くした。家も失くした。武士だから、死んでも平気ってわけじゃない。悲しい時は悲しいさ、誰だって。でもな、俺達侍は、戦に出て、生きるか死ぬかに分かれるんだ。これだけは、どうにもできない不如意なんだよ」
「だったら!侍なんてやめれば良いじゃない!」
「侍で生きて行くって決めたんだよッ!なんかのために捨てれるほど、軽いもんじゃないんだよッ!」
「それで死んだらお仕舞いじゃない!」
「俺は死なないッ!」
「 え・・・?」
話がなんだか食い違っている
そう感じ、さちは泣くのをやめた
「だから・・・、俺がお前を守るから・・・」
「新五さん?」
さちは、顔をキョトンとさせる
「だから・・・」
言おうかどうしようか悩んで、利治は告げた
「 俺の、女房になってくれ・・・」
「 」
兄が死んだ夜に、求婚されるとは想っていなかった
空気を読めと怒鳴れば良いのか、嬉しく恥しがれば良いのか、わからない
其々が其々の夜を過ごし、其々が其々に語らう
ぐっすり眠っている帰命の頭を撫でる帰蝶の表情は、漸く柔らかくなっていた
「いい夢を見てらっしゃるのでしょうか。穏やかな寝顔」
「そうだな。私も今夜くらいは、いい夢を見れそうだ」
「お茶、召し上がります?」
部屋の隅ではなつが座って控えていた
「頂く」
「熱目が良いですか?温め直しますけど」
「いや、温い湯で出してくれるか」
「はい」
茶葉を急須に入れ、湯気の少ない湯を注ぐ
低温抽出は高温の湯よりも茶が出るのが遅い
その分、渋みがなく甘い味わいを楽しめた
帰蝶はこの飲み方を好んでいた
当然、付き合いの長いなつも、小姓だった龍之介も、帰蝶の好みを把握していた
「少しお待ちくださいね」
「ああ」
「大方様の吉備の団子、召し上がります?」
「うん」
「本当は、ご自分の手でお渡ししたかったそうなんですが・・・」
「どうかなされたのか?挨拶もそこそこに引き上げられたが」
「 想い出されたのだそうです」
「え?」
「奥方様が戦場に立つ理由を」
「 」
なつの言葉に、帰蝶は黙り込んだ
「大方様、明るい顔をなさっておいでですが、その実今も、胸を痛めてらっしゃいます。こうなってしまったのは、自分の所為だと」
「そんな・・・。義母上様の所為ではないのに」
「でも、そうやってご自分を責めてらっしゃるんです。奥方様に、そっくりですね。この世の悪いこと全部、背負ってしまいそうなところとか」
両手に巻かれた細晒しに、帰蝶は応えられず苦笑いした
「 今川治部大輔・・・と言うお方は、どのような方だったのでしょうか」
ゆっくりと急須を回しながら、なつは聞いた
「シゲから聞いた話では、鬼のような顔をした首だったとか。飛び掛った服部のご子息は豪胆なのですね」
「鬼、か」
「奥方様は、ご覧になられました?」
「いや。帰る途中の寺で首実検をしたと聞いているが、私は眠っていたからな。お顔は拝見していない」
「そうですか。でも鉄漿に白粉を塗り、髪には香の香りがしていたと。やはり公家被れだったのでしょうね」
「いいや」
帰蝶はなつの言葉を即座に否定した
「武士が化粧をして戦に臨むのは、いつ死んでも恥を掻かぬための覚悟だ」
「恥を掻かぬための覚悟・・・」
「それをしている者も、今は少ないだろう。私も今川を相手にするのだから、治部大輔と同様に、化粧をして臨むべきだった」
「そうなんですか・・・・?」
「なつ。治部大輔と私とでは、あらゆる物に対しての覚悟が違うのだと今、想い知らされた」
「 」
少し微笑んではいる
だが、眼差しの厳しさになつは一瞬、言葉を失った
「そうか。死に化粧をなさっておいでだったのか・・・」
「どうかなさいました?」
言葉の詰まる帰蝶に、なつは首を傾げて聞いた
「私がお逢いした治部大輔殿は、化粧などされていなかった。あれが普段のお姿だったのだろうな」
「お逢いなされたのですか?でも、化粧をなさってないって、一体・・・」
「 白昼夢だったのか、生きている頃の治部大輔殿と逢った」
「え?」
「威風堂々とされた方で、人の世の王に相応しい風格の持ち主だった。とても凛々しい顔立ちをなさっておられた」
「まあ・・・」
現実か夢かわからぬ話であるのに、なつは疑うわけでもなく、冷やかすわけでもなく、素直に帰蝶の言葉に驚く
敵であっても、自分とは格が違うことを知っているのか、帰蝶の言葉遣いは明らかに目上に対しての言葉だった
そう使わざるを得ないほどの大人物だったのだな、と、帰蝶の言葉で知る
「そんな人に、敦盛と言われた。私が敦盛を好んで舞っているのを、ご存知だったのかな」
「まさか、そんな小ネタのような話が、駿府まで届くはずがございません。でも、言われてみればそうかも知れませんね」
「話が伝わったのか?」
「そうじゃありませんよ。平敦盛本人のことです」
「え?」
なつの言いたいことがわからず、帰蝶はキョトンとした
「大変な美少年だったそうですよ」
「美少年・・・。もしかして、私のことか?」
「誰もまさか女が男の恰好をして戦場に立っているなんて、想いませんでしょう?まあ、東北の方では、未だ女武士と言うのが残っているそうですが、こちらの方ではそう言う仕来りは廃れてしまっていますし」
「そうだな・・・」
女武士は、其々の家に因って使い方は様々だが、多くは主君の夜の相手として戦場に赴いた女性達のことである
「できれば女武士と見てもらいたかったな・・・」
「それは無理でしょう?男物の鉄砲振り回す女武士など、聞いたことがありません」
「 」
はっきり否定するなつに、帰蝶の頭には汗が浮かぶ
「でも、敦盛って笛を忘れて討ち取られた間抜けな武将ですよね」
「・・・ああ」
言いにくいことを言い切るなつに、二つ目の汗が浮いた
「判官贔屓では美談になってますが、平が勝っていれば笑い話ですよ」
「そうだな・・・」
「奥方様は、そんな間抜けな死に方だけは、なさらないでくださいね」
「 努力しよう・・・」
「それにしても、よくあの今川を落とせたもので」
「私も想う。よく桶狭間山に今川本隊が居たことを想い付いたもんだと、自分でも感心してしまう」
「それも、梁田殿の情報があったお陰でしょう?」
「ああ。太子ヶ根に今川軍が張っているのを右衛門に知らせてくれたそうで、それがあったから囮だと言うことにも気付けた。これからは鉄砲だけではなく、情報も戦を有利に運んで行く上で重要な部分を占めそうだ」
「今川も、尾張を選んだことを後悔しているでしょうね」
「今川が通ったのが尾張ではなく美濃、だったら」
「だったら?」
磁碗に茶を注ぎながら聞き返す
「今川は今頃、近江を渡っていただろう」
「まぁ。美濃が通してくれるとでも?」
「今川の侵入に便乗して、斎藤を潰してやれたのに。残念だ」
「今川と一緒に、斎藤を潰すおつもりですか?」
「楽だろう?」
「ほほほ。今川を落して、気が大きくなられてる」
なつは笑いながら帰蝶に、磁碗を受け皿に載せ差し出す
「気も大きくなる。今頃になって、今川を落した自覚が湧いて来た」
皿から磁碗を持ち上げ、そっと口に運ぶ
丁度いい温度と、喉を潤す茶の味、それから、ほんのりと差す甘みに心が和んだ
「 織田はこれから忙しくなる」
「そうですね」
赤の他人であるのに、帰蝶を見詰めるなつの微笑みはまるで、我が子を誇らしげに想う母のような表情だった
翌日、時親の葬儀が屋敷で執り行われていた
昨日の今日だと言うのに清洲には、各地の豪族の使いが押し寄せる
城の中は慌しい忙しさで、帰蝶も通常の業務ができないほど追い回され、また、肩の痛みも一日経つと尚酷くなっていた
それでも痛いから休むと言える身ではない
人には知られぬよう装っているが、内心痛みに悲鳴を上げている
今まで帰蝶の世話は龍之介が一人でやっていたもので、手馴れていないのか粗相も多く出る
その度に怒鳴るか、頭に来過ぎて黙り込むかしかできない
遂には小姓らを退け、なつが局処から出張せねばならない事態に陥り、岩室家から龍之介とあやを引き取りに来た使者との面談も、城を出る二人を見送ることもできなかった
龍之介の欠けた痛手は、大きかった
可成の言うように、桶狭間山での戦の後の騒雑さに晒される清洲であるのに、時親の葬儀の参列には大勢の人間が詰め掛けた
お能の縁でも清洲商店街の大店の主が弔問に駆け付け、後を絶たない
そこに、彼女は現れた
戦に出たことすら知らされてなかった
それだけで自分は、彼にとってどの程度のものなのか痛いほどわかった
それでも、最後に一目、顔を見たかった
お七はヨチヨチ歩きの平次を連れ、時親の屋敷に乗り込んだ
自分を知っている者は少なく、それが返って屋敷に上がりやすくしてくれた
武士の葬儀なのだから、訪れる客も武士が多く、その供も含めて壮大な人数になっている
自分が愛した男は、こんなにも慕われていたのかと今更のように驚かされた
その弔問客に逆行して大広間へと出る
そこに、見知った顔があった
愛した男の正妻である
挨拶する客に一人一人、頭を下げていた
もしかしたら、そこに座っているのは自分だったかも知れないのに、と言う想いが浮かぶ
側には子供だろう、四人の子が行儀良く並んでいた
少し、尻込みする
だけど、どうしても欲しかった
何でも良かった
あの人がこの世に居た証
儚くとも、愛してもらえていた証拠を
何でも良い
その想いが、お七の足を動かした
「 」
お七の姿を目にし、お能は目を見開く
「 どうも」
「何しに・・・・・」
今更湧き上がる怒りを、どう押し殺せば良いのかお能はわからなかった
声が震えて仕方がない
頭に血が昇って仕方がない
「財産分与」
そう言うと、お七は他の弔問客の好奇な眼差しにもびくつかず、お能の正面に座り込んだ
「財産分与・・・?」
「だって、戦死したんでしょ?だったらこの屋敷にある財産のいくらかは、私とこの、平次がもらってもおかしくないじゃない」
「あなた、正気・・・?こんな時に、お金の話・・・?」
「じゃぁ、いつだったら良いのさ。あんたは良いわよ。今までの知行、それから、この屋敷、自分のもんだもんね。これから先充分暮らしていけるんでしょ?なんたって馬周り衆の筆頭だもの。遊んで暮らせるだけも御の字じゃない。でもね、こっちは無一文でこの子育てなきゃなんないのよ。わかる?」
「一体何を・・・」
周囲のざわめきもいつの間にか遠く感じる
今は自分の目の前に居るこの、泥棒猫への憎悪しか感じなかった
「乗り逃げして子供残して、御宅の亭主、ちょっとおかしいんじゃないかって話よ」
「 ッ」
お能は、想わずお七の頬を引っ叩いた
「 いくら欲しいの・・・」
金を持った家での葬式には、大抵こう言った類の女が子供を連れて現れる
そうならないよう、主人は前以て遺言状を作り、その財産の分け方を決めておくものだが、時親は手紙は書いても遺言状は残していなかった
増してや、お七との子のことを相談したいとまで書き残しているのだから、相手が要求すればそれを飲むしかなかった
「いくらでも」
張られた頬を押さえながら、それでもお七は気丈な顔で言い返した
その目に負けたのか
それとも、我慢の限界が過ぎたのか
お能はさっと立ち上がると、大広間を出てしまった
残されたお七はお能の隣に座っていた子供達の顔を、一人一人眺めた
年長の男の子は、いくつくらいだろう
もう十は近い年齢だろうか
自分が最初に産んだ子と年が近いと想えた
真ん中に座った子は、いくつくらいだろう
まだ幼いように見える
時親によく似た顔立ちの男の子だった
最後の子は女の子で、母親似なのだろう
とても愛らしい顔立ちだった
そのどの子もみんなポカンとした顔で自分を見ている
「坊や、名前は?」
お七は最初の子に話し掛けた
「 坊・・・、坊丸です・・・」
「そう、坊て言うの。可愛らしい名前ね」
きっと、両親にその誕生を待ち望まれていたのだろう
そう想える名前だった
自分の子とは、全く逆の
「君は?」
「勝丸!」
まだ幼い二番目の男の子は、元気良く応えてくれた
「お勝丸?とても勇ましい名前。良いわね」
「うん!」
「お嬢ちゃんは?」
年恰好を見れば、坊丸の次の子だろうか
「那生・・・です・・・」
それなりにしっかりして来る年齢なのだろう、おじおじしながらも応えてくれた
「那生ちゃん。凛々しい名前。お姉ちゃんって感じがして、良いわね」
「 」
那生はぎこちなく頭を下げた
最後の子は、いくつくらいだろう
見た感じでは三歳くらいのようにも想えるし、もしかしたらそれより二つ三つ上かも知れない
そんな雰囲気のある子に声を掛けた
「あなたは?」
「 」
「お名前、なんて言うの?」
女の子だから、敏感なのだろう
自分に対して警戒心を持った目をしていた
「・・・花、です」
それでも、恐る恐る応えてくれた
「そう、お花ちゃんて言うの。可愛らしい名前ね。あなたにぴったり」
嬉しくて、お七は微笑めた
その微笑みは社交辞令や子供を騙すような下心からではなく、本心から微笑めた優しい色をしていた
そこへ、両手に荷物をいっぱい抱えたお能が戻って来る
そして、戻るなり否や、お七に目掛けて荷物を投げ付けた
一歩間違えれば自分の子にも当っていただろうに、今のお能にそれを考えられるだけの余裕はない
「欲しいもの、何でも持って行けば良いでしょッ!」
投げ付けたのは、高価そうな壷、金の入った携帯用の麻袋が複数、掛け軸数本、どれも金目に成るには充分な品物ばかりだった
なのにその中で一つだけ、着古した小袖が何故か紛れている
側にあったもの手当たり次第に掻き集めたのか
「 」
お七は金でもなく、高価な物でもなく、時親の、その小袖を手繰り寄せ、愛しそうに抱き締めた
その姿は慈愛に満ちた光景であった
あの人の、小袖・・・
家を訪れた際、時々この小袖を着ていたのを覚えている
お七は時親の小袖を抱き締めたまま立ち上がり、黙って大広間を出て行った
平次はわからず、母の着物の裾を掴んで一緒に歩く
その後姿にお能は、酷い敗北感を味わった
鷲津を突破した今川軍は、太子ヶ根と桶狭間山に別れた
今川軍を追っていた勝家の部隊も、其々に分かれる
桶狭間山に到着した者の中で、龍之介と顔馴染みだった兵士が居たため、龍之介の遺体は遺品である弓と共に回収され、無事清洲に戻った
あやからは是非にと、龍之介が愛用していた嵯峨野の弓を譲り受けた
美しい朱と黒の弓だった
「随分大きいですなぁ」
弓の名手でもある資房ですら、驚いている
「私に使いこなせるか」
「まぁ、努力なさいませ」
「他人事だな」
「他人事ですから」
腰に差していた種子島式も、松風から落ちた拍子に泥を被ってしまい、接続部分で目詰まりを起していた
「ある程度は拭ったのですが、細かい部分までは届かず。かと言って、無断で分解してぶっ殺されるのも怖いですからね、後はお任せします」
と、秀隆から種子島式を受け取る
目詰まりしている泥を落すため解体し、鹿革で丁寧に拭う
泥は落ちても信長が残した血痕は、黒い模様となって今も残っている
帰蝶にとってはそれも、愛しい傷痕だった
「清めておきましたよ」
血脂を纏ったままの兼定は、なつに依頼された恒興が磨いてくれた
なつから手渡されたそれは相変わらず、美しい輝きを放つ刀に戻っていた
「是非とも織田家の為に働きたい所存と」
今まで見向きもしなかったのが、天下の今川を倒したと言う事実にいくつもの豪族が傘下に入りたいと申し出て、帰蝶に嫌でもその『重み』を感じさせる
「凄いですね。午前だけでもどれだけの訪問客があったのやら。そのどれも、織田家に加わりたいと言うのでしょう?さすがですね」
「味方が増えるのは結構だが、それらを取り纏められなければ戦にはならない」
「もう、次の戦のことをお考えで」
帰蝶の、すっかり馴れた『じっとしていられない性格』に、なつはクスクスと笑った
「仕方がありませんよ。これが奥方ですから」
報告に入った秀隆も苦笑いで言う
「ところで」
「なんだ?」
「奥方への呼び方なんですが」
「どうした」
「これまでは先代殿の死亡を知っている者だけでやってましたけど、今回のことで奥方を女だと知らない者も増えました。いつまでも『奥方様』とお呼びするわけには参りません。まだそう呼ばれたくないと言うお気持ちはあるでしょうが、そろそろ『殿』と呼ばせてもらえませんかね?みんなも一々呼び方を切り替えるの、しずらくなって来てるんですよ」
「そうね。若のことを忘れたわけではないけれど、やはり名前を襲名した以上、私達も呼び方を改めなくてはならないわね」
なつの賛同に、帰蝶は淋しい気持ちが溢れる
「 」
いつかこんな日が来ることはわかっていたが、いざそうなってしまうとやはり、淋しいものは淋しい
帰蝶の中ではまだ信長は生きており、『殿』と呼ばれる存在もまた、信長だけである
信長を差し置いて、自分がそう呼ばれることを嬉しいとは素直に想えなかった
「良いですよね?殿、とお呼びしても」
「 うん・・・」
呼び方一つでみなが混乱してしまうのは、起きてはならないことだろうか
自分の我侭がいつまでも通じるわけではないのだと、改めて想い知らされた
鳴海城は相変わらず今川方が占拠し、退こうとはしない
これの退城要請も容易なものではなかった
「今川への保証?」
秀隆の報告に、帰蝶は眉を顰めた
「戦は互いに平等だ。その上で勝敗が決した。なのに、何を望む」
「さぁ。それは先方も何も提示して来なかったそうですが、どうします?あのまま居座られ続けたら、折角今川を倒したって評判も下がってしまいますよ」
「別に評判などは気にしていない」
「 」
少しは気にしろよ、と言いたいが、実際に言うことができないのがもどかしい
「どっちにしても、治部大輔の首をどうなさるのか、早く決めてしまわないと。もう湿気に覆われる時期に差し掛かってます。土に埋めるか今川に突き返すかしないと、清洲中腐敗臭で覆われてしまいますよ」
「 」
今度は帰蝶が黙り込む
それから何日が過ぎた
肩の傷はまだ癒えず、それでも帰蝶に安息の日は訪れない
「殿ぉぉぉぉーッ!」
貞勝と違って、滅多なことでは走らない資房が、帰蝶の執務室に駆け込んで来た
「どうした、又助。腰が痛むぞ」
「そんなこと言ってる場合ですか!」
冷やかしたわけではなく、素直に心配してやっている帰蝶に食って掛かる勢いで、資房は一気に捲くし立てた
「ちっ、知多の佐治家が」
「佐治・・・。ああ、佐治の士分名も考えねばならんな」
「そっちの佐治ではなくて、知多・大野城の佐治家から、織田家に婚姻の申し込みが!」
「 何?」
俄に帰蝶の顔が明るくなった
「まぁ!佐治家から?」
この報告を、帰蝶は市弥に最初に通す
佐治家は恒興の妻、千郷の父・荒尾善次の実家である
知多半島並び、それに隣接する伊勢湾を制する一族だった
婚姻となれば信秀の子をやらねばならないであろうし、その権限の一切は今のところ市弥が持っているのだから
「織田家の娘を頂きたいと?」
「はい」
「佐治と言えば、勝三郎の妻、千郷殿のご実家の荒尾家と並ぶ、伊勢湾の制海権を握る一族。それに、確か」
「はい。応仁の時代より現在まで知多・大野を統括する名門一族で、古の土岐家臣です」
「ないと言えば、ない。それくらいの希薄な縁でしょうが、それでも無縁でもない。信長正妻が土岐と所縁のある明智の外孫に当るのだから、こちらも相応の娘を出しましょう」
「ありがとうございます。では、どなたを」
「犬です」
「お犬殿を?」
織田家一の美女と称される犬の出番が、漸くやって来た
「伊勢湾の制海権を完全に掌握するには、荒尾家だけでは心許ないもの。ですが名門・佐治家が加わるとなれば、織田の強化には大事な一局となります。なのに、側室生まれの娘で茶を濁すわけにもいかないでしょう?」
「ですが、そうなれば犬山が黙っているわけが・・・」
「そこを黙らせるのがあなたの手腕でしょう?」
「 」
市弥の言葉に、帰蝶は我が耳を疑った
「今川を倒したと言うことは、織田は今川以上の目で見られるのです。それを自覚するにも、よい時期だと想います。世の中をとっくり眺めてご覧なさい。力に靡く者はこれからもどんどん出て来ます。それは、あなたの力量を試してもいるのですよ。抗うか、使いこなすか、私もこれからのあなたを楽しみにしています。見事、使いこなしてご覧なさい」
「 はい」
期待されているな、と、帰蝶は少し苦笑う
今川を落して何日が経つか
「鳴海城の始末は」
鳴海城には弥三郎、可成、長秀、秀貞の部隊で囲ませている
「そろそろ限界かと」
兵糧攻めも何日経つか
充分な備えのない鳴海城からは、降伏の声は上がらなかった
このまま日干しにさせては、秀隆の言うように今川を落してもその後の始末が悪いと織田の評判が落ちるのも止むを得ない状態だった
これを返せば楽になれるのだろうか
少し匂いの漏れる義元の首桶を前に、帰蝶は静かに語り掛けた
「 治部大輔殿。私はあなたの首を手元に置くことで、何か安心と言う物を得たかったのかも知れない」
手放せば、それは無理矢理親から独立させられる子のような気分を味わうような、そんな気がしていた
これから織田に圧し掛かる重圧は、とてもではないが想像できる物でもなく、その恐怖心に駆られていたのだろうか
市弥の言葉に帰蝶は心を決めた
「返す?」
「根気比べでは、負けない自信はあったのだがな」
そう苦笑いしながら話す
「生まれ故郷で眠るのが、一番の供養だろう?」
帰蝶の、長引いた割にはあっさりとした答えに、秀隆は聊かキョトンとする
「吉法師様も、生まれ育った那古野で眠っておられる。だから、心安らかでいられるのだろう」
「殿・・・」
「私は、あの方の首に縋り付いていた。まるで親を頼る幼子のように」
「じゃぁ、親から独立するってことで?」
「義父上様の代から争っていた今川と雌雄を決したことで、お前の言うようにその先のことに目を向けなくてはならないのに、私は確かに現実逃避をしていた。首を返さぬことで、まだ先には進みたくないと言う気持ちがあったのだろうな。だから、中々決められなかった。だけど」
大野城と犬との婚姻の話が本格的に始動し始めたことで、帰蝶は嫌でも先に進まなくてはならなかった
「まるで壊れた宝物を、いつまでも大切にしているようで、自分でも未練がましいと想った」
「だから、返すと?」
「 」
帰蝶は黙って頷き返事した
「ただ首だけを返しては、今まで返事を待たせていた岡部五郎兵衛、命取られることを覚悟で治部大輔殿の遺品を要求した同朋衆の権阿弥と言う者にも、申し開きが立たない」
「どうなされるので?」
「岡部には駿府に戻るまでの充分な兵糧と、さっき、吉兵衛に政秀寺に走ってもらった」
「え?先代の墓参りですか?」
「いや。治部大輔殿と同伴する僧侶の手配を、頼んでもらった」
「どうしてまた?頼むのなら、織田家の菩提寺にでも 」
帰蝶は秀隆の言葉を遮った
「織田家菩提寺萬松寺は、曹洞宗だ。桃源寺も同じ曹洞宗。今川は臨済宗妙心寺派だから、宗派が違う。宗派の違う坊主に見送られても、嬉しくはないだろう?」
「そう・・・ですね」
言われてみれば一理ある
「吉法師様はまぁ、一応便宜上とは言え臨済宗妙心寺派だからな、平手殿の寺もそれに合わせた」
「それで、政秀寺に同伴を」
「吉法師様の葬儀の際には世話になったのでな、何とかお願いできないかと頼んでみた。二つ返事で承諾してくださったそうだ。吉兵衛の頼み方が良かったのだろう」
「それは一安心ですね」
「岡部には伝えてくれ。準備が整い次第、即時に送るので、心置きなく夕餉を楽しめと」
「承知しました」
『織田信長』が桶狭間にて今川義元を討ち落としたことは、瞬く間に周辺有力者に伝わった
義元存命中、一度として駿府には攻め込まず、また、一貫して懐柔した姿勢を守って来た武田が、今川を下した織田に対し好奇心を抱き、攻撃目標を駿府に定めた
上杉は素早く監視の目を光らせる
親子鷹とも称される、小田原の北条氏康は迂闊に動くことを嫌い、上杉同様様子見の構えを見せた
つまり、三者三様に『織田信長』に対し戦々恐々としていると言うことだろうか
その実力も未だ朧気な相手では、どのように打って出れば良いのか、どんな賢者とて明確な答えは出せるものではなかった
『今川義元』を倒したと言うことは、そう言うことである
単純な問題ではないのだと言うことを
「では、これにて」
門前まで見送ってくれた先方の家臣に頭を下げ、背中を向ける
美濃の豪族の城を出て、夕庵は稲葉山城に戻った
「夕庵様。お屋形様がお呼びです」
戻った途端、主の招集が掛かる
「わかりました、今直ぐ参ります」
恐らくは桶狭間山での一件であろうと感じる
義龍でなくとも、警戒心は持って然るべき
『今川を倒した織田』が近くに居るのだから、尚更だった
「武井殿」
義龍への部屋に到着するまでの廊下で、夕庵は後ろから声を掛けられた
振り返れば、安藤守就が立っている
「安藤様。いかがなさいましたか。あなた様も、お屋形様に呼ばれておられるので?」
「いいえ、そうではありません。あなたにお伺いしたことがございまして」
「私に?」
「今まで、どこで何をしてらっしゃいましたか?」
「はて、疑われるようなことをしましたでしょうか」
と、夕庵は惚けた
「金森家を訪問なされていたのでは?」
「ああ、そのことでしたか。うっかりしておりました」
「何か密談でも?」
「まさか」
自分を疑った目をする守就に、夕庵は豪快に笑って見せた
「私の娘が金森家に嫁いでおりますので、その様子を伺いに」
「娘御が?」
「先日、孫が生まれましてな、その祝いにと。なんせ私にとっては初めての外孫になりますので、祖父として充分なことをしたいと。それで、先方には失礼かと存じたのですが、娘と孫への祝いの品を金森家に仲介して渡していただこうかと。いえ、如何せん私は小言が多い性質ですので、お産も明けていない娘の顔を見て、あれやこれやと口を挟んでは、肥立ちも悪かろうと遠慮したわけですが、まさかそのような疑いを掛けられるとは軽はずみなことをしてしまいました」
「 」
饒舌な夕庵の言葉を、どこまで信じれば良いのかわからなかった
娘が子を産んだなど、調べれば直ぐにわかるだろう、それを言い逃れに使うのは夕庵らしくない
「そうでしたか。そうとは知らず、無礼なことを申し上げました」
思案しながら夕庵の顔を伺う
「いえいえ。安藤様が斎藤のことを想うが故の行動と、承知しております故、どうかお心煩わされませぬように」
夕庵も、決して本音を見せぬ顔で応える
「ところで」
次の一手が差し掛かった
「帰蝶姫が嫁がれた織田家が、先日尾張桶狭間山にて、あの今川を撃退したとか」
「ええ、その話も金森家で持ち切りでした。私も姫様の傅役として、鼻が高い想いをさせて頂きました」
「日頃の上総介殿の素行を考えると、余りにも緻密な作戦」
「と、申されますと?」
「伝え聞きますに、帰蝶姫が嫁がれて日も浅い頃に起きた、争い。亡織田大和守家に襲撃され、奪われた尾張松葉城と深田城を奪還できなかった者が、行き成り今川をと言うのもおかしな話」
「そうですね」
実際、あの城は態と取らせたと聞いている
それにしても随分古い話を持ち出すな、と、夕庵は心の中で呆れた
一体何に対して警戒をしているのだろう、とも
「ところが、今回は今川が駿府に帰るのも、尾張に攻め込むのもままならぬ状態だったとか?どのような仕掛けが張り巡らされたのでしょうか」
「さあ?私も機会あらば、伺いたい心境でございます」
「何方に?」
守就が上目遣いになった
「勿論、先程の戦を指揮成されたお方に」
「 」
信長、とも、帰蝶、とも応えない
「そうですね」
これ以上は無駄かと、守就は感じた
この男に腹芸が通じるとは想わない
「足を止めさせてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいえ。ですが安藤様の疑問は然るべき」
「と、申しますと?」
「今川を倒した織田の矛がこちらに向いては、一大事。それを考慮するにも、安藤様の疑問は私に目を覚まさせてくださいました」
「どう言った?」
「以前にも申し上げましたが、私達は誰を相手に戦っているのか、それを熟考するに桶狭間山は良い材料になります。もし仰っていただかなければ、私もうっかりとするところでした」
「 一つお伺いしますが」
一呼吸置いて、守就は言った
「武井様の目にあるのは、何でしょう」
「美濃の繁栄と栄光。これ以外ございません」
「そうでしたか」
案外あっさりとした物言いに、守就は漸く諦めた
「今までの非礼、どうかお許しくださると幸いに存じます」
「非礼?受けた覚えはございません。ですので、安藤様もどうかお心安く」
「 」
穏やかな微笑みを浮かべる夕庵に、守就は軽く一礼して立ち去った
「そうか、安藤がまた難癖を」
遅れた理由を話すと、義龍は苦笑いをして呟いた
「下らんな」
「致し方ございません。六年前の遺恨、未だ残っておられるのでしょう。援軍に差し出されたのに出番なしでは、武士として歯痒うございますから」
「わしなら、のんびり来賓気分を味わうがな。その間、清洲・・・、ああ、当時は那古野だったか」
夕庵が軽く頷き、返す
「城内や町の様子を隅々まで伺うがな」
「お屋形様。向うには姫様が着いておられるのです。安藤様を自由にさせるなど、考えられません」
「そうだな。ところで、今川の件だが」
「はい」
「あの戦、上総介の物だと想うか。それとも、帰蝶の物だと想うか」
「私は」
この聡明な主君に、守就のような誤魔化しは効かない
そう率直に感じた
「姫様の戦と見受けました」
「やはりな」
「お心当たりでもあるので?」
「数年前だ。帰蝶が清四郎と二人掛りで、父上に将棋で挑んだ時の手に似ている」
「将棋の、手?」
「いや、帰蝶はそう言うのが得意なのだ。相手の駒の動きを先読みして、油断させて不意を突く。相手に自分の手を決して読ませない。うっかり読んでしまうと」
「一日荒れましたな」
「嵐のようだった」
義龍は楽しそうに笑った
「計算していないように見せて、その実細かい計算が成されている。今川の本陣を見抜いた力、斎藤が動けぬよう相変わらず根回しだけは怠らない。いやぁ、実に可愛げのない妹だ」
その割には、嬉しそうな微笑みを浮かべる
真に仲の良い兄妹であったのだなと、夕庵は今更のようにしみじみする
その二人が争うなど、運命の悪戯とは時に残酷な現実を見せ付けた
「そこで、お前を呼び出したのは他でもない」
「はい。何でございましょう」
本題に入る義龍の目は、さっきまでとは別人のように鋭くなった
「帰蝶は、動くか。動かないか」
「 姫様は」
今川を倒した勢いは、継続させたいはずだ
なんとしてでも生かし切りたいだろう
「動きます」
夕庵はそう、はっきり応えた
「そうか」
夕庵の返事に、義龍は再び満足げな笑みを浮かばせた
龍之介の居ない生活が何日も続く
後任の小姓らは健気に働いてくれるが、痒いところに手が届く状態でもなかった
傷の手当ては局処でやっている
本丸で裸になるわけにはいかないからだ
その度に大勢の小姓らが慌しく走り回り、帰蝶をうんざりさせたり苦笑いさせたりする
これがこれから先も続くのかと想うと、それはそれで憂鬱でもあった
「やはり若いと回復も早いですね」
毎日執務に追われながらも、傷はほぼ塞がっている
それでも綺麗な肌に残すようなものではなかった
茹で上がった白玉のような肌に、歪な形で傷痕が広がっている
背後から貫通しているため、傷痕は二つあった
その両方を治療し、晒しを巻きながらなつはそう呟いた
「羨ましいか?」
「どうでしょうね。私には戦場に立つ趣味はありませんから」
嫌味を言ってやったら、皮肉で返された
なつにはここのところ、言い合いで勝った記憶がない
それはそれで、安心して局処を任せられると言う証拠にも繋がるので、強ち悪いことでもなかった
「そう言えば明日、大野城から使者が来られるそうで?」
「ああ。嫁にもらう前に、挨拶をと言われてな。断る理由もなかったので承諾した」
「今川公の首も国許に届いたそうですし、肩の荷が一つ降りましたね」
「そうだな」
信長の小袖を羽織ながら言葉短に返事する
約束通り、知多の大野から佐治家の使いがやって来た
織田家の娘を貰い受ける謝礼として、米や塩、数々の美術品が並べられる
それら一つ一つに興味はないが、使者の中に一人、明らかに育ちの違う雰囲気を放つ少年が紛れていた
帰蝶はそれに目を向ける
名門・佐治家の使いなのだから、使者の代表も嫡男・八郎為興の傅役だろうか、その男も立派な身形をしている
それでも、その少年は嫌でも目立った
生まれ持った気品、と言うのか、それが他の者と異なる
それが気になった
「高価な品の数々、心尽くし謝す。表座敷にで歓迎の宴を用意しているので、旅の疲れを落すが良い」
信長の真似も、ここのところ板に付いて来た
なんてことはない
嫁ぐ前の自分に戻れば気が楽だった
あの頃は色気のない男言葉を平気で使っていたのだから
女のような優顔だが、今川を下したと言う事実は帰蝶に貫禄を備え付けた
こうして対面しようとも、誰も自分を女だとは想わない
精々、『女顔の優男』としか見ないだろう
夫の世評を傷付けるようで忍びなかったが、今の自分にできることは少しでも信長の名を世に轟かせることくらいである
力無き者に世を動かす権限などない
多少のことは目を瞑ってもらうしかないと想っていた
「時に、そこの童」
「 はい」
帰蝶は少年に声を掛けた
「そなた、酒は飲めるか」
「嗜む程度でございます」
自分に向って指を突いて平伏する
その、きっちりと揃えられた指先がまた、綺麗なものだった
下々の仕事をしている指ではなかった
例えば、織田の令嬢である市と、局処のみならず台所でも働いているさちの指先は、全く違う
佐治の許に嫁ぎ、台所仕事をしている今では多少なりとも荒れてはいるだろうが、それでも嫁ぐ前の市の指先は正に『白魚のような指』をしていた
つまり、働き者の指と、そうでない者の指は別の物だった
それが悪いとは言わないが、使者なら使者らしく、爪は短く切り揃えているのが礼儀であり、この少年のように少し長くなっているのは『普段から働くことがない身分である』ことの証拠だった
「まだ童で酒を飲ませるのも、こちらとしては心拙い。そうだ、局処にはお前と年の近い子供らが大勢居る。宴会が終わるまで、そちらで暇を潰してはどうか」
「よろしいのでしょうか。恐れ多くも織田家の局処に足を踏み入れるのは、仏をも恐れぬ所業にはなりませんでしょうか」
「っふ。普(あまね)くも、織田の局処を取り仕切っているのは仏を恐れぬ鬼女であるからな、機嫌さえ損なわねば何をしても構わない」
その途端、局処でなつが派手なくしゃみをした
「そなたに幸運が齎されるか、知多から態々足を運んだ足労に万が一にも織田一の美女、犬の顔でも拝めば常世の土産話にもなろう」
「心遣い、有り難き幸せに存じます」
「 」
頭の下げ方、背筋の張り方
やはり、一流の教育を受けて来た者と見た
「では、案内させよう」
「はい」
小姓らが先回りし、『佐治家の使いの少年が局処を訪問する』と伝える
受けたなつはぽかんとしたが、帰蝶のやることに一々驚いていては心が持たない
帰蝶を迎えるよりかは楽だと想い、そのまま通す
なつも、自分に会釈する少年の腰の曲げ方に目を見張った
きっちりと、武家らしい腰の曲げ方だからだ
帰蝶は佐治家から受け取った贈答品のいくつかを持って、市弥の許を訪ねている
京織物も入っており、市弥ら女達に譲ると言う
どうせ自分はこれからも男物しか身に着けないのだから、と言っているようで、なつは少し淋しい気分になった
「嫁入り仕度はこれで二度目だから、気が楽だわ」
「宜しくお願いします」
市弥の後ろでは、侍女達が帰蝶の持ち込んだ反物を眺めて、楽しそうな声を上げていた
「本当に、良いの?全部局処(うち)でもらって」
「構いません。私は当分吉法師様の小袖を羽織りたいので、あっても邪魔なだけです。少し本丸の菊子らにも分けていただければ、幸いに存じます」
「それは構わないけど。あなたって子は、お洒落をする気にもならないの?」
「え?」
「化粧だって、そりゃ、眉を落とすことは今のあなたには無理だろうけど、せめて男物だろうが小袖ぐらい新調すれば良いのに、いつまでも吉法師のお下がりばかり」
「気に入ってますから」
「じゃぁ、せめて髪くらいは、城の中に居る間だけでも、細帯で結ぶとか。それもいつも吉法師の遺した細紐ばかり。まあ、色の組み合わせは、あなたの方がずっと上手だけど」
市弥の言葉に、帰蝶は軽く笑った
「ところで」
「はい」
「三十郎のことですが」
「三十郎殿が、如何なさいましたか」
信長、信勝の弟の信良とは、馴染みはない
正月には顔を合わせているが、個人的に会話を持ったこともなかった
信長の弟妹は大勢居ても、これまで織田のことの全てを背負って来た帰蝶には、こんにちまで誼を通わせている暇などなかったのが正直なところだった
「あの子も今年で十七になります」
「もう、そんなになりますか。守山城の後任で言い争っていたのが、まるで昨日のことのようです」
「そうですね」
その原因を作った本人である市弥は、少し眉を寄せて笑った
「あなたはこれまで、できる限り吉法師の兄弟を大切にしたいと、戦には参加させないように受け取れるのだけど、もうそろそろ限界じゃないのかしら」
「義母上様・・・」
「私達は武家なのです。武家は戦に出て、初めて価値が着きます。なのに、死なせたくないと言う理由で、いつまでも城の中に閉じ込めておくのも、どうかと想うのよ」
「ですが・・・」
「帰命が居るから、必要ない、わけではないのでしょう?」
「勿論です、そんな滅相もない」
心外なことを言われ、帰蝶らしくもなく焦りの表情をして否定した
「あなたの本心はわかってます。私は五人の男児を産みました。だけど吉法師、勘十郎、喜六郎は既に他界。あとの一人も幼少の頃に病死し、今では私の実子は三十郎だけ。つまり、こうでしょう?三十郎は織田家正妻の最後の子だから、戦には使いたくない、できれば文官のような暮らしをさせたい、と」
「義母上様・・・」
「外交なら、文官は適任でしょう。でもね、上総介、聞いて頂戴」
帰蝶を呼ぶ時、市弥は信光に倣って『上総介』と呼ぶようにしていた
それは局処にも、『信長正妻帰蝶』を知らない人間が増えたと言うことの表れである
「戦場であなたを助ける手が少なければ、あなたを守ることはできない。あなたを守れなければ、織田を守ることすらできないのよ?あなたは言ったわね?織田を守りたいと。その言葉に偽りがないのなら、自分を守る盾を選んでは駄目。誰であろうとも命の盾に使えるような心構えで居なければ、生き残れないのよ?」
「 」
市弥の言うことは最もだと、帰蝶は反論できず黙り込んで俯いた
「吉法師と同じ血が流れる三十郎を大事に想ってくれるのは、私も嬉しい。でも、今の織田にあなた以上に大切な者も居ないの。それも自覚して頂戴。お願いだから・・・」
「義母上様」
哀願する市弥に、帰蝶は辞儀で返す
その帰蝶の姿を見て、自分の意見を聞いてくれたのかと、市弥は明るい顔をした
「三十郎を、呼んで来ますね。あの子も良い年だから、どこをほっつき歩いているのやら」
「なら、その間庭でも散歩しておきます」
「そうね、たまには休むのも良いわね。だって今川を倒してからずっと、毎日忙しかったものね。直ぐに連れて来るわ」
「はい」
まるではしゃぐ少女のように、軽い足取りで部屋を出る市弥と、それに付き添う侍女らが出て行く
残った帰蝶は勝手に市弥の部屋を出た
帰蝶には別の侍女が付き従う
市弥の部屋の縁側から庭に出て、久し振りに味わう外の空気に深呼吸する
もう昼も過ぎているのだから新鮮と言うわけではないが、それでも市弥の言うようにここのところ忙しく、城の外に出ていない帰蝶には、ささやかな休息にはなった
「少し歩く」
「はい」
後ろの侍女が素早く返事した
何年か前、巴が見付けた桔梗の草が、随分と増えていた
まだ花は咲いていないが、もう夏が近付くのだなと感じる
ふと目の先に、犬の姿があった
一緒に居るのはさっき、局処に通してやった佐治家の使いの少年である
武家の男女は、夫婦、兄弟以外二人きりで居ることは憚られる
それを知っているかのように、少年は犬とは少し離れた場所に立っていた
やはり、武家の仕来りをきちんと把握する立場に居る者だと見た
帰蝶はそっと近付き、少年の背後に立つ
犬は少年との談笑に夢中になっているらしく、帰蝶には気付かなかった
その犬と向かい合わせで居る少年に声を掛けた
「 佐治八郎殿」
「はい」
返事し、振り返った『佐治為興』は帰蝶を目に、しまったと言う顔を明ら様にした
「やはり、佐治家ご嫡男様であられたか」
「あ・・・、あの・・・」
為興の顔が、見る見る青くなって行った
「佐治八郎様?」
犬もキョトンとした顔をする
名乗りはしただろうが、恐らく偽名でも使ったか
犬の表情はそんな風だった
「何故使者に紛れて清洲に潜り込んだのかは問わぬが、花嫁殿との会見は無事済まされたようだな」
「 申し訳ございません・・・」
「人が悪い。今後、そのような手段は使わぬよう」
「心得ました」
「が、感心した」
「え?」
もっと叱られるかと想いきや、そうでもないことに肩透かしを食らう
「織田家の娘とは言え、どんな相手かわからぬのでは受け入れる側としても、心許なかろう。どうだ?織田の自慢の娘、犬は」
「 はい。とても美しい方です。聞きしに勝る美貌の持ち主だと想います」
素直に誉められ、犬は頬を赤らめた
「私如きにはもったいないくらいで。海辺に咲く花、正に四方から光が差すような美しさで・・・」
「世辞はそれくらいで良い。女は誉め過ぎると図に乗る」
「まぁ」
犬は帰蝶の言葉に頬を膨らませた
「犬はそこまでお調子者ではありません」
そんな犬に、帰蝶は笑う
「犬は、どうだ」
「はい。騙されていたことも忘れるほど、お話のお上手な方だと想います。とても楽しいひとときを過ごさせて頂きました」
犬の言葉に、為興は苦笑いした
「では、二人の前途に不安はないな」
「はい」
犬は眩しい笑顔で返事した
そこへ、庭に出た市弥が帰蝶を呼ぶ
「上総介、連れて来ましたよ」
振り返れば、母に連れられた信良がそこに立っていた
年はまだ誕生月が来ていないので十六
死んだ龍之介と同じ年
両親が信長と一緒になる信良は、よく似ていた
信長に
「 吉法師様・・・・・」
生きていた頃の信長がそこに立っているかのような想いをした
よく似ているとは言え、そっくりと言うわけではない
それでも同じ血を引く兄弟だからか、異腹の他の弟達より信良の方が似ている
懐かしい
そう、感じた
「あの・・・。私も織田のために働きたいと、日頃より感じておりました。どうか、宜しくお願い致します・・・」
ぎこちない挨拶に、帰蝶は微笑んだ
「宜しく頼む」
その微笑みに、信良は魅了された
ほんの少し、胸を鷲掴みにされるような、そんな激しさを伴いながら
元康は生きて尾張を脱するため、秀貞の提案を飲んだ
「これからどうするので?」
秀隆の敷いた今川包囲を無血で通過するため、尾張国境まで秀貞が付き添う
「駿府には、戻れません・・・。治部大輔様に、申し訳が立ちませんから」
そう、精一杯の苦笑いを浮かべることしかできない
「駿府には、ご夫人と若子様方がいらっしゃるのでは?」
「妻は誇り高い今川の一族の姫君です。呼んだところで、素直に来てくれるかどうか・・・」
「それでも、黙ってるわけには行かないでしょう?」
「そうですね。行き着く先が決まったら、知らせてみようかな」
夕焼けを眺める元康の瞳は、今川から解放されるかも知れないと言う希望で輝いていた
これから自身に訪れる転機を知りもしないで
同じ頃、表座敷では祝勝会が始まっていた
負傷した帰蝶は参加せず、龍之介の居る局処で帰命と共に夜を過ごす
末席の利治と佐治に祝勝会に参加する資格はなく、言葉少なに並び、長屋への家路についた
利治が武功を挙げたことで、その上司に当る弥三郎には祝勝会ではしゃぐ資格はあったが、兄を失い酒を飲んで騒ぐ気分にはなれない
側には親友とも呼ぶべき年上の友、可成が着いていた
「
「三左さん・・・」
「若き頃より斯波を支え、斯波が解体した後には見事に、その旧臣らを集めた。余程、人望厚いのだろう。あの蜂須賀殿ですら、お前の兄上の頼みとあれば、断れずに居た。だから、軍議には欠かさず顔を出されていたのだろうな。お前の兄上は、中々できたお方だとわしは想う」
「
カラカラに乾いた喉で、言葉が詰まり気味になるのを必死で押し出す
「いや。素質がなければ、武士になったとしても生かし切れない」
「うん、そうかもな・・・」
「そう言えば、官位が付いたのだってな」
「あ・・・、うん。感状に書いてあったっけ・・・」
懐から、帰蝶にもらった感状を取り出す
「
「陸奥、か」
「随分寒いとこの名前だな」
弥三郎は引き攣りながら、笑おうとした
だが、上手く笑えない
「陸奥は、広大な土地が広がる国だと聞いたことがある。恐らく奥方様は、広い陸奥に兄上のお心を写されたのではないか?」
「まさか・・・。兄貴はそんな玉じゃないって。いっつも気が小さいことばっかり言ってたのに」
「まぁ、直接奥方様に伺うしかないだろうがな」
と、可成は苦笑いする
「そう言えば・・・」
中島砦での遣り取りを想い出す
「三左さんて、奥方様が子供の頃から斎藤家に仕えてたんだよね?」
「ああ」
「じゃぁ、武井夕庵さんて人が、奥方様を長良川に突き落としたっての、ほんと?」
「夕庵様が、奥方様を長良川に?」
キョトンとする可成に、弥三郎は続けて言った
「七つになったばかりの頃、長良川に突き落とされたって」
「ああ・・・」
あの時のことを想い出す
「でも、いくらなんでも、七つの姫君、川に突き落とすヤツなんて居ないよなぁ、やっぱ」
「いや、確かに奥方様は夕庵様によって、長良川に突き落とされた。と言うか、叩き落された、と言うか」
「
可成の返事に、弥三郎は目を丸くさせた
「事の経緯まではわからないのだが、奥方様と夕庵様が口論なさって、城を出て長良川に連れて行かれ」
「ドボン、て・・・?」
「うむ」
「
「いやぁ、あれは驚いたなぁ。夕庵様に川に船を浮かばせろと言われて、何をするのかと想いきや、まだ姫君だった奥方様を抱え上げ、川に放り投げられてなぁ。未だ胸に残る名場面だ」
「名場面なの・・・?」
「しかも奥方様は筋金入りの負けず嫌いだろう?許しを乞えば良いものを、小袖姿のまま泳ぎ出されて」
「無謀だな・・・」
弥三郎の頭から汗が流れる
「不恰好だが、それでも泳がれて」
「泳いだんだ・・・」
さすが負けず嫌い、と、いろいろな意味で感心する
「でもまぁ、川の中腹で溺れられたが」
「そりゃ力尽きるわな・・・」
「が、あれは奥方様の真っ直ぐさを証明した。あの出来事があるから、奥方様は今日の成果を出されたんだと想う」
「かもね」
少しだけでも、苦笑いでも、それでも『笑顔』になれた弥三郎の首に腕を回し、引き寄せる
「三左さん・・・?」
「表座敷に行くか?それとも、わしの家で酒でも飲むか?」
「
「よし。そうと決まれば話は早い。先日、恵那が白菜の香の物を漬けたばかりなんだ。早速頂こう」
「いいね」
二人は立ち上がり、自分の足で歩き出した
一歩、前進と言ったところだろうか
兄の死は確かにつらい
だが、いつまでも悲観していられるほど、時代はのんびりとは流れていない
次の戦はもう始まっていると風が知らせる
いつの間にか弥三郎にも、先祖伝来の武家の血が呼び覚まされたのだろうか
それは、誰にもわからなかった
「佐治!」
やっと帰って来たと、市が喜び勇んで夫を出迎える
走り出すままに腰にしがみ付き、佐治は少しだけ腹に衝撃を感じた
「おかえり!」
「た、只今戻りました」
内縁でも、『夫婦』となって半年は過ぎているのに、未だに『主従』の抜け切れていない二人に、さちは吹き出した
そんなさちを見ている利治の目は複雑だった
「どうしたんですか?その両手」
晒しを巻いた市の手を見て、佐治が驚く
「うん、あのね」
市と佐治の会話が遠く聞こえる
「あのな、さち」
振り返るさちの顔は、笑顔に溢れていた
「
時親の戦死を、利治は伝えた
さちは動揺して腰を抜かし、その場でへたり込んでしまった
「今川の殿、無事に務め果たしたって」
「でも、死んだら何もないじゃない・・・」
「そうかも知れない。でも、手柄を立ててこそ、武士の本懐だと想う」
「手柄を立てたら何?それで死んでも、幸せだって言うの?!」
「そうは言ってないッ」
「新五さんは男だからわかんないんだよッ!残される女の気持ち、考えたことある・・・?」
さちの目から、ぽろぽろと涙が零れた
「つらいんだよ?悲しいんだよ・・・?」
「わかってる。俺も戦で親を亡くした。家も失くした。武士だから、死んでも平気ってわけじゃない。悲しい時は悲しいさ、誰だって。でもな、俺達侍は、戦に出て、生きるか死ぬかに分かれるんだ。これだけは、どうにもできない不如意なんだよ」
「だったら!侍なんてやめれば良いじゃない!」
「侍で生きて行くって決めたんだよッ!なんかのために捨てれるほど、軽いもんじゃないんだよッ!」
「それで死んだらお仕舞いじゃない!」
「俺は死なないッ!」
「
話がなんだか食い違っている
そう感じ、さちは泣くのをやめた
「だから・・・、俺がお前を守るから・・・」
「新五さん?」
さちは、顔をキョトンとさせる
「だから・・・」
言おうかどうしようか悩んで、利治は告げた
「
「
兄が死んだ夜に、求婚されるとは想っていなかった
空気を読めと怒鳴れば良いのか、嬉しく恥しがれば良いのか、わからない
其々が其々の夜を過ごし、其々が其々に語らう
ぐっすり眠っている帰命の頭を撫でる帰蝶の表情は、漸く柔らかくなっていた
「いい夢を見てらっしゃるのでしょうか。穏やかな寝顔」
「そうだな。私も今夜くらいは、いい夢を見れそうだ」
「お茶、召し上がります?」
部屋の隅ではなつが座って控えていた
「頂く」
「熱目が良いですか?温め直しますけど」
「いや、温い湯で出してくれるか」
「はい」
茶葉を急須に入れ、湯気の少ない湯を注ぐ
低温抽出は高温の湯よりも茶が出るのが遅い
その分、渋みがなく甘い味わいを楽しめた
帰蝶はこの飲み方を好んでいた
当然、付き合いの長いなつも、小姓だった龍之介も、帰蝶の好みを把握していた
「少しお待ちくださいね」
「ああ」
「大方様の吉備の団子、召し上がります?」
「うん」
「本当は、ご自分の手でお渡ししたかったそうなんですが・・・」
「どうかなされたのか?挨拶もそこそこに引き上げられたが」
「
「え?」
「奥方様が戦場に立つ理由を」
「
なつの言葉に、帰蝶は黙り込んだ
「大方様、明るい顔をなさっておいでですが、その実今も、胸を痛めてらっしゃいます。こうなってしまったのは、自分の所為だと」
「そんな・・・。義母上様の所為ではないのに」
「でも、そうやってご自分を責めてらっしゃるんです。奥方様に、そっくりですね。この世の悪いこと全部、背負ってしまいそうなところとか」
両手に巻かれた細晒しに、帰蝶は応えられず苦笑いした
「
ゆっくりと急須を回しながら、なつは聞いた
「シゲから聞いた話では、鬼のような顔をした首だったとか。飛び掛った服部のご子息は豪胆なのですね」
「鬼、か」
「奥方様は、ご覧になられました?」
「いや。帰る途中の寺で首実検をしたと聞いているが、私は眠っていたからな。お顔は拝見していない」
「そうですか。でも鉄漿に白粉を塗り、髪には香の香りがしていたと。やはり公家被れだったのでしょうね」
「いいや」
帰蝶はなつの言葉を即座に否定した
「武士が化粧をして戦に臨むのは、いつ死んでも恥を掻かぬための覚悟だ」
「恥を掻かぬための覚悟・・・」
「それをしている者も、今は少ないだろう。私も今川を相手にするのだから、治部大輔と同様に、化粧をして臨むべきだった」
「そうなんですか・・・・?」
「なつ。治部大輔と私とでは、あらゆる物に対しての覚悟が違うのだと今、想い知らされた」
「
少し微笑んではいる
だが、眼差しの厳しさになつは一瞬、言葉を失った
「そうか。死に化粧をなさっておいでだったのか・・・」
「どうかなさいました?」
言葉の詰まる帰蝶に、なつは首を傾げて聞いた
「私がお逢いした治部大輔殿は、化粧などされていなかった。あれが普段のお姿だったのだろうな」
「お逢いなされたのですか?でも、化粧をなさってないって、一体・・・」
「
「え?」
「威風堂々とされた方で、人の世の王に相応しい風格の持ち主だった。とても凛々しい顔立ちをなさっておられた」
「まあ・・・」
現実か夢かわからぬ話であるのに、なつは疑うわけでもなく、冷やかすわけでもなく、素直に帰蝶の言葉に驚く
敵であっても、自分とは格が違うことを知っているのか、帰蝶の言葉遣いは明らかに目上に対しての言葉だった
そう使わざるを得ないほどの大人物だったのだな、と、帰蝶の言葉で知る
「そんな人に、敦盛と言われた。私が敦盛を好んで舞っているのを、ご存知だったのかな」
「まさか、そんな小ネタのような話が、駿府まで届くはずがございません。でも、言われてみればそうかも知れませんね」
「話が伝わったのか?」
「そうじゃありませんよ。平敦盛本人のことです」
「え?」
なつの言いたいことがわからず、帰蝶はキョトンとした
「大変な美少年だったそうですよ」
「美少年・・・。もしかして、私のことか?」
「誰もまさか女が男の恰好をして戦場に立っているなんて、想いませんでしょう?まあ、東北の方では、未だ女武士と言うのが残っているそうですが、こちらの方ではそう言う仕来りは廃れてしまっていますし」
「そうだな・・・」
女武士は、其々の家に因って使い方は様々だが、多くは主君の夜の相手として戦場に赴いた女性達のことである
「できれば女武士と見てもらいたかったな・・・」
「それは無理でしょう?男物の鉄砲振り回す女武士など、聞いたことがありません」
「
はっきり否定するなつに、帰蝶の頭には汗が浮かぶ
「でも、敦盛って笛を忘れて討ち取られた間抜けな武将ですよね」
「・・・ああ」
言いにくいことを言い切るなつに、二つ目の汗が浮いた
「判官贔屓では美談になってますが、平が勝っていれば笑い話ですよ」
「そうだな・・・」
「奥方様は、そんな間抜けな死に方だけは、なさらないでくださいね」
「
「それにしても、よくあの今川を落とせたもので」
「私も想う。よく桶狭間山に今川本隊が居たことを想い付いたもんだと、自分でも感心してしまう」
「それも、梁田殿の情報があったお陰でしょう?」
「ああ。太子ヶ根に今川軍が張っているのを右衛門に知らせてくれたそうで、それがあったから囮だと言うことにも気付けた。これからは鉄砲だけではなく、情報も戦を有利に運んで行く上で重要な部分を占めそうだ」
「今川も、尾張を選んだことを後悔しているでしょうね」
「今川が通ったのが尾張ではなく美濃、だったら」
「だったら?」
磁碗に茶を注ぎながら聞き返す
「今川は今頃、近江を渡っていただろう」
「まぁ。美濃が通してくれるとでも?」
「今川の侵入に便乗して、斎藤を潰してやれたのに。残念だ」
「今川と一緒に、斎藤を潰すおつもりですか?」
「楽だろう?」
「ほほほ。今川を落して、気が大きくなられてる」
なつは笑いながら帰蝶に、磁碗を受け皿に載せ差し出す
「気も大きくなる。今頃になって、今川を落した自覚が湧いて来た」
皿から磁碗を持ち上げ、そっと口に運ぶ
丁度いい温度と、喉を潤す茶の味、それから、ほんのりと差す甘みに心が和んだ
「
「そうですね」
赤の他人であるのに、帰蝶を見詰めるなつの微笑みはまるで、我が子を誇らしげに想う母のような表情だった
翌日、時親の葬儀が屋敷で執り行われていた
昨日の今日だと言うのに清洲には、各地の豪族の使いが押し寄せる
城の中は慌しい忙しさで、帰蝶も通常の業務ができないほど追い回され、また、肩の痛みも一日経つと尚酷くなっていた
それでも痛いから休むと言える身ではない
人には知られぬよう装っているが、内心痛みに悲鳴を上げている
今まで帰蝶の世話は龍之介が一人でやっていたもので、手馴れていないのか粗相も多く出る
その度に怒鳴るか、頭に来過ぎて黙り込むかしかできない
遂には小姓らを退け、なつが局処から出張せねばならない事態に陥り、岩室家から龍之介とあやを引き取りに来た使者との面談も、城を出る二人を見送ることもできなかった
龍之介の欠けた痛手は、大きかった
可成の言うように、桶狭間山での戦の後の騒雑さに晒される清洲であるのに、時親の葬儀の参列には大勢の人間が詰め掛けた
お能の縁でも清洲商店街の大店の主が弔問に駆け付け、後を絶たない
そこに、彼女は現れた
戦に出たことすら知らされてなかった
それだけで自分は、彼にとってどの程度のものなのか痛いほどわかった
それでも、最後に一目、顔を見たかった
お七はヨチヨチ歩きの平次を連れ、時親の屋敷に乗り込んだ
自分を知っている者は少なく、それが返って屋敷に上がりやすくしてくれた
武士の葬儀なのだから、訪れる客も武士が多く、その供も含めて壮大な人数になっている
自分が愛した男は、こんなにも慕われていたのかと今更のように驚かされた
その弔問客に逆行して大広間へと出る
そこに、見知った顔があった
愛した男の正妻である
挨拶する客に一人一人、頭を下げていた
もしかしたら、そこに座っているのは自分だったかも知れないのに、と言う想いが浮かぶ
側には子供だろう、四人の子が行儀良く並んでいた
少し、尻込みする
だけど、どうしても欲しかった
何でも良かった
あの人がこの世に居た証
儚くとも、愛してもらえていた証拠を
何でも良い
その想いが、お七の足を動かした
「
お七の姿を目にし、お能は目を見開く
「
「何しに・・・・・」
今更湧き上がる怒りを、どう押し殺せば良いのかお能はわからなかった
声が震えて仕方がない
頭に血が昇って仕方がない
「財産分与」
そう言うと、お七は他の弔問客の好奇な眼差しにもびくつかず、お能の正面に座り込んだ
「財産分与・・・?」
「だって、戦死したんでしょ?だったらこの屋敷にある財産のいくらかは、私とこの、平次がもらってもおかしくないじゃない」
「あなた、正気・・・?こんな時に、お金の話・・・?」
「じゃぁ、いつだったら良いのさ。あんたは良いわよ。今までの知行、それから、この屋敷、自分のもんだもんね。これから先充分暮らしていけるんでしょ?なんたって馬周り衆の筆頭だもの。遊んで暮らせるだけも御の字じゃない。でもね、こっちは無一文でこの子育てなきゃなんないのよ。わかる?」
「一体何を・・・」
周囲のざわめきもいつの間にか遠く感じる
今は自分の目の前に居るこの、泥棒猫への憎悪しか感じなかった
「乗り逃げして子供残して、御宅の亭主、ちょっとおかしいんじゃないかって話よ」
「
お能は、想わずお七の頬を引っ叩いた
「
金を持った家での葬式には、大抵こう言った類の女が子供を連れて現れる
そうならないよう、主人は前以て遺言状を作り、その財産の分け方を決めておくものだが、時親は手紙は書いても遺言状は残していなかった
増してや、お七との子のことを相談したいとまで書き残しているのだから、相手が要求すればそれを飲むしかなかった
「いくらでも」
張られた頬を押さえながら、それでもお七は気丈な顔で言い返した
その目に負けたのか
それとも、我慢の限界が過ぎたのか
お能はさっと立ち上がると、大広間を出てしまった
残されたお七はお能の隣に座っていた子供達の顔を、一人一人眺めた
年長の男の子は、いくつくらいだろう
もう十は近い年齢だろうか
自分が最初に産んだ子と年が近いと想えた
真ん中に座った子は、いくつくらいだろう
まだ幼いように見える
時親によく似た顔立ちの男の子だった
最後の子は女の子で、母親似なのだろう
とても愛らしい顔立ちだった
そのどの子もみんなポカンとした顔で自分を見ている
「坊や、名前は?」
お七は最初の子に話し掛けた
「
「そう、坊て言うの。可愛らしい名前ね」
きっと、両親にその誕生を待ち望まれていたのだろう
そう想える名前だった
自分の子とは、全く逆の
「君は?」
「勝丸!」
まだ幼い二番目の男の子は、元気良く応えてくれた
「お勝丸?とても勇ましい名前。良いわね」
「うん!」
「お嬢ちゃんは?」
年恰好を見れば、坊丸の次の子だろうか
「那生・・・です・・・」
それなりにしっかりして来る年齢なのだろう、おじおじしながらも応えてくれた
「那生ちゃん。凛々しい名前。お姉ちゃんって感じがして、良いわね」
「
那生はぎこちなく頭を下げた
最後の子は、いくつくらいだろう
見た感じでは三歳くらいのようにも想えるし、もしかしたらそれより二つ三つ上かも知れない
そんな雰囲気のある子に声を掛けた
「あなたは?」
「
「お名前、なんて言うの?」
女の子だから、敏感なのだろう
自分に対して警戒心を持った目をしていた
「・・・花、です」
それでも、恐る恐る応えてくれた
「そう、お花ちゃんて言うの。可愛らしい名前ね。あなたにぴったり」
嬉しくて、お七は微笑めた
その微笑みは社交辞令や子供を騙すような下心からではなく、本心から微笑めた優しい色をしていた
そこへ、両手に荷物をいっぱい抱えたお能が戻って来る
そして、戻るなり否や、お七に目掛けて荷物を投げ付けた
一歩間違えれば自分の子にも当っていただろうに、今のお能にそれを考えられるだけの余裕はない
「欲しいもの、何でも持って行けば良いでしょッ!」
投げ付けたのは、高価そうな壷、金の入った携帯用の麻袋が複数、掛け軸数本、どれも金目に成るには充分な品物ばかりだった
なのにその中で一つだけ、着古した小袖が何故か紛れている
側にあったもの手当たり次第に掻き集めたのか
「
お七は金でもなく、高価な物でもなく、時親の、その小袖を手繰り寄せ、愛しそうに抱き締めた
その姿は慈愛に満ちた光景であった
家を訪れた際、時々この小袖を着ていたのを覚えている
お七は時親の小袖を抱き締めたまま立ち上がり、黙って大広間を出て行った
平次はわからず、母の着物の裾を掴んで一緒に歩く
その後姿にお能は、酷い敗北感を味わった
鷲津を突破した今川軍は、太子ヶ根と桶狭間山に別れた
今川軍を追っていた勝家の部隊も、其々に分かれる
桶狭間山に到着した者の中で、龍之介と顔馴染みだった兵士が居たため、龍之介の遺体は遺品である弓と共に回収され、無事清洲に戻った
あやからは是非にと、龍之介が愛用していた嵯峨野の弓を譲り受けた
美しい朱と黒の弓だった
「随分大きいですなぁ」
弓の名手でもある資房ですら、驚いている
「私に使いこなせるか」
「まぁ、努力なさいませ」
「他人事だな」
「他人事ですから」
腰に差していた種子島式も、松風から落ちた拍子に泥を被ってしまい、接続部分で目詰まりを起していた
「ある程度は拭ったのですが、細かい部分までは届かず。かと言って、無断で分解してぶっ殺されるのも怖いですからね、後はお任せします」
と、秀隆から種子島式を受け取る
目詰まりしている泥を落すため解体し、鹿革で丁寧に拭う
泥は落ちても信長が残した血痕は、黒い模様となって今も残っている
帰蝶にとってはそれも、愛しい傷痕だった
「清めておきましたよ」
血脂を纏ったままの兼定は、なつに依頼された恒興が磨いてくれた
なつから手渡されたそれは相変わらず、美しい輝きを放つ刀に戻っていた
「是非とも織田家の為に働きたい所存と」
今まで見向きもしなかったのが、天下の今川を倒したと言う事実にいくつもの豪族が傘下に入りたいと申し出て、帰蝶に嫌でもその『重み』を感じさせる
「凄いですね。午前だけでもどれだけの訪問客があったのやら。そのどれも、織田家に加わりたいと言うのでしょう?さすがですね」
「味方が増えるのは結構だが、それらを取り纏められなければ戦にはならない」
「もう、次の戦のことをお考えで」
帰蝶の、すっかり馴れた『じっとしていられない性格』に、なつはクスクスと笑った
「仕方がありませんよ。これが奥方ですから」
報告に入った秀隆も苦笑いで言う
「ところで」
「なんだ?」
「奥方への呼び方なんですが」
「どうした」
「これまでは先代殿の死亡を知っている者だけでやってましたけど、今回のことで奥方を女だと知らない者も増えました。いつまでも『奥方様』とお呼びするわけには参りません。まだそう呼ばれたくないと言うお気持ちはあるでしょうが、そろそろ『殿』と呼ばせてもらえませんかね?みんなも一々呼び方を切り替えるの、しずらくなって来てるんですよ」
「そうね。若のことを忘れたわけではないけれど、やはり名前を襲名した以上、私達も呼び方を改めなくてはならないわね」
なつの賛同に、帰蝶は淋しい気持ちが溢れる
「
いつかこんな日が来ることはわかっていたが、いざそうなってしまうとやはり、淋しいものは淋しい
帰蝶の中ではまだ信長は生きており、『殿』と呼ばれる存在もまた、信長だけである
信長を差し置いて、自分がそう呼ばれることを嬉しいとは素直に想えなかった
「良いですよね?殿、とお呼びしても」
「
呼び方一つでみなが混乱してしまうのは、起きてはならないことだろうか
自分の我侭がいつまでも通じるわけではないのだと、改めて想い知らされた
鳴海城は相変わらず今川方が占拠し、退こうとはしない
これの退城要請も容易なものではなかった
「今川への保証?」
秀隆の報告に、帰蝶は眉を顰めた
「戦は互いに平等だ。その上で勝敗が決した。なのに、何を望む」
「さぁ。それは先方も何も提示して来なかったそうですが、どうします?あのまま居座られ続けたら、折角今川を倒したって評判も下がってしまいますよ」
「別に評判などは気にしていない」
「
少しは気にしろよ、と言いたいが、実際に言うことができないのがもどかしい
「どっちにしても、治部大輔の首をどうなさるのか、早く決めてしまわないと。もう湿気に覆われる時期に差し掛かってます。土に埋めるか今川に突き返すかしないと、清洲中腐敗臭で覆われてしまいますよ」
「
今度は帰蝶が黙り込む
それから何日が過ぎた
肩の傷はまだ癒えず、それでも帰蝶に安息の日は訪れない
「殿ぉぉぉぉーッ!」
貞勝と違って、滅多なことでは走らない資房が、帰蝶の執務室に駆け込んで来た
「どうした、又助。腰が痛むぞ」
「そんなこと言ってる場合ですか!」
冷やかしたわけではなく、素直に心配してやっている帰蝶に食って掛かる勢いで、資房は一気に捲くし立てた
「ちっ、知多の佐治家が」
「佐治・・・。ああ、佐治の士分名も考えねばならんな」
「そっちの佐治ではなくて、知多・大野城の佐治家から、織田家に婚姻の申し込みが!」
「
俄に帰蝶の顔が明るくなった
「まぁ!佐治家から?」
この報告を、帰蝶は市弥に最初に通す
佐治家は恒興の妻、千郷の父・荒尾善次の実家である
知多半島並び、それに隣接する伊勢湾を制する一族だった
婚姻となれば信秀の子をやらねばならないであろうし、その権限の一切は今のところ市弥が持っているのだから
「織田家の娘を頂きたいと?」
「はい」
「佐治と言えば、勝三郎の妻、千郷殿のご実家の荒尾家と並ぶ、伊勢湾の制海権を握る一族。それに、確か」
「はい。応仁の時代より現在まで知多・大野を統括する名門一族で、古の土岐家臣です」
「ないと言えば、ない。それくらいの希薄な縁でしょうが、それでも無縁でもない。信長正妻が土岐と所縁のある明智の外孫に当るのだから、こちらも相応の娘を出しましょう」
「ありがとうございます。では、どなたを」
「犬です」
「お犬殿を?」
織田家一の美女と称される犬の出番が、漸くやって来た
「伊勢湾の制海権を完全に掌握するには、荒尾家だけでは心許ないもの。ですが名門・佐治家が加わるとなれば、織田の強化には大事な一局となります。なのに、側室生まれの娘で茶を濁すわけにもいかないでしょう?」
「ですが、そうなれば犬山が黙っているわけが・・・」
「そこを黙らせるのがあなたの手腕でしょう?」
「
市弥の言葉に、帰蝶は我が耳を疑った
「今川を倒したと言うことは、織田は今川以上の目で見られるのです。それを自覚するにも、よい時期だと想います。世の中をとっくり眺めてご覧なさい。力に靡く者はこれからもどんどん出て来ます。それは、あなたの力量を試してもいるのですよ。抗うか、使いこなすか、私もこれからのあなたを楽しみにしています。見事、使いこなしてご覧なさい」
「
期待されているな、と、帰蝶は少し苦笑う
今川を落して何日が経つか
「鳴海城の始末は」
鳴海城には弥三郎、可成、長秀、秀貞の部隊で囲ませている
「そろそろ限界かと」
兵糧攻めも何日経つか
充分な備えのない鳴海城からは、降伏の声は上がらなかった
このまま日干しにさせては、秀隆の言うように今川を落してもその後の始末が悪いと織田の評判が落ちるのも止むを得ない状態だった
これを返せば楽になれるのだろうか
少し匂いの漏れる義元の首桶を前に、帰蝶は静かに語り掛けた
「
手放せば、それは無理矢理親から独立させられる子のような気分を味わうような、そんな気がしていた
これから織田に圧し掛かる重圧は、とてもではないが想像できる物でもなく、その恐怖心に駆られていたのだろうか
市弥の言葉に帰蝶は心を決めた
「返す?」
「根気比べでは、負けない自信はあったのだがな」
そう苦笑いしながら話す
「生まれ故郷で眠るのが、一番の供養だろう?」
帰蝶の、長引いた割にはあっさりとした答えに、秀隆は聊かキョトンとする
「吉法師様も、生まれ育った那古野で眠っておられる。だから、心安らかでいられるのだろう」
「殿・・・」
「私は、あの方の首に縋り付いていた。まるで親を頼る幼子のように」
「じゃぁ、親から独立するってことで?」
「義父上様の代から争っていた今川と雌雄を決したことで、お前の言うようにその先のことに目を向けなくてはならないのに、私は確かに現実逃避をしていた。首を返さぬことで、まだ先には進みたくないと言う気持ちがあったのだろうな。だから、中々決められなかった。だけど」
大野城と犬との婚姻の話が本格的に始動し始めたことで、帰蝶は嫌でも先に進まなくてはならなかった
「まるで壊れた宝物を、いつまでも大切にしているようで、自分でも未練がましいと想った」
「だから、返すと?」
「
帰蝶は黙って頷き返事した
「ただ首だけを返しては、今まで返事を待たせていた岡部五郎兵衛、命取られることを覚悟で治部大輔殿の遺品を要求した同朋衆の権阿弥と言う者にも、申し開きが立たない」
「どうなされるので?」
「岡部には駿府に戻るまでの充分な兵糧と、さっき、吉兵衛に政秀寺に走ってもらった」
「え?先代の墓参りですか?」
「いや。治部大輔殿と同伴する僧侶の手配を、頼んでもらった」
「どうしてまた?頼むのなら、織田家の菩提寺にでも
帰蝶は秀隆の言葉を遮った
「織田家菩提寺萬松寺は、曹洞宗だ。桃源寺も同じ曹洞宗。今川は臨済宗妙心寺派だから、宗派が違う。宗派の違う坊主に見送られても、嬉しくはないだろう?」
「そう・・・ですね」
言われてみれば一理ある
「吉法師様はまぁ、一応便宜上とは言え臨済宗妙心寺派だからな、平手殿の寺もそれに合わせた」
「それで、政秀寺に同伴を」
「吉法師様の葬儀の際には世話になったのでな、何とかお願いできないかと頼んでみた。二つ返事で承諾してくださったそうだ。吉兵衛の頼み方が良かったのだろう」
「それは一安心ですね」
「岡部には伝えてくれ。準備が整い次第、即時に送るので、心置きなく夕餉を楽しめと」
「承知しました」
『織田信長』が桶狭間にて今川義元を討ち落としたことは、瞬く間に周辺有力者に伝わった
義元存命中、一度として駿府には攻め込まず、また、一貫して懐柔した姿勢を守って来た武田が、今川を下した織田に対し好奇心を抱き、攻撃目標を駿府に定めた
上杉は素早く監視の目を光らせる
親子鷹とも称される、小田原の北条氏康は迂闊に動くことを嫌い、上杉同様様子見の構えを見せた
つまり、三者三様に『織田信長』に対し戦々恐々としていると言うことだろうか
その実力も未だ朧気な相手では、どのように打って出れば良いのか、どんな賢者とて明確な答えは出せるものではなかった
『今川義元』を倒したと言うことは、そう言うことである
単純な問題ではないのだと言うことを
「では、これにて」
門前まで見送ってくれた先方の家臣に頭を下げ、背中を向ける
美濃の豪族の城を出て、夕庵は稲葉山城に戻った
「夕庵様。お屋形様がお呼びです」
戻った途端、主の招集が掛かる
「わかりました、今直ぐ参ります」
恐らくは桶狭間山での一件であろうと感じる
義龍でなくとも、警戒心は持って然るべき
『今川を倒した織田』が近くに居るのだから、尚更だった
「武井殿」
義龍への部屋に到着するまでの廊下で、夕庵は後ろから声を掛けられた
振り返れば、安藤守就が立っている
「安藤様。いかがなさいましたか。あなた様も、お屋形様に呼ばれておられるので?」
「いいえ、そうではありません。あなたにお伺いしたことがございまして」
「私に?」
「今まで、どこで何をしてらっしゃいましたか?」
「はて、疑われるようなことをしましたでしょうか」
と、夕庵は惚けた
「金森家を訪問なされていたのでは?」
「ああ、そのことでしたか。うっかりしておりました」
「何か密談でも?」
「まさか」
自分を疑った目をする守就に、夕庵は豪快に笑って見せた
「私の娘が金森家に嫁いでおりますので、その様子を伺いに」
「娘御が?」
「先日、孫が生まれましてな、その祝いにと。なんせ私にとっては初めての外孫になりますので、祖父として充分なことをしたいと。それで、先方には失礼かと存じたのですが、娘と孫への祝いの品を金森家に仲介して渡していただこうかと。いえ、如何せん私は小言が多い性質ですので、お産も明けていない娘の顔を見て、あれやこれやと口を挟んでは、肥立ちも悪かろうと遠慮したわけですが、まさかそのような疑いを掛けられるとは軽はずみなことをしてしまいました」
「
饒舌な夕庵の言葉を、どこまで信じれば良いのかわからなかった
娘が子を産んだなど、調べれば直ぐにわかるだろう、それを言い逃れに使うのは夕庵らしくない
「そうでしたか。そうとは知らず、無礼なことを申し上げました」
思案しながら夕庵の顔を伺う
「いえいえ。安藤様が斎藤のことを想うが故の行動と、承知しております故、どうかお心煩わされませぬように」
夕庵も、決して本音を見せぬ顔で応える
「ところで」
次の一手が差し掛かった
「帰蝶姫が嫁がれた織田家が、先日尾張桶狭間山にて、あの今川を撃退したとか」
「ええ、その話も金森家で持ち切りでした。私も姫様の傅役として、鼻が高い想いをさせて頂きました」
「日頃の上総介殿の素行を考えると、余りにも緻密な作戦」
「と、申されますと?」
「伝え聞きますに、帰蝶姫が嫁がれて日も浅い頃に起きた、争い。亡織田大和守家に襲撃され、奪われた尾張松葉城と深田城を奪還できなかった者が、行き成り今川をと言うのもおかしな話」
「そうですね」
実際、あの城は態と取らせたと聞いている
それにしても随分古い話を持ち出すな、と、夕庵は心の中で呆れた
一体何に対して警戒をしているのだろう、とも
「ところが、今回は今川が駿府に帰るのも、尾張に攻め込むのもままならぬ状態だったとか?どのような仕掛けが張り巡らされたのでしょうか」
「さあ?私も機会あらば、伺いたい心境でございます」
「何方に?」
守就が上目遣いになった
「勿論、先程の戦を指揮成されたお方に」
「
信長、とも、帰蝶、とも応えない
「そうですね」
これ以上は無駄かと、守就は感じた
この男に腹芸が通じるとは想わない
「足を止めさせてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいえ。ですが安藤様の疑問は然るべき」
「と、申しますと?」
「今川を倒した織田の矛がこちらに向いては、一大事。それを考慮するにも、安藤様の疑問は私に目を覚まさせてくださいました」
「どう言った?」
「以前にも申し上げましたが、私達は誰を相手に戦っているのか、それを熟考するに桶狭間山は良い材料になります。もし仰っていただかなければ、私もうっかりとするところでした」
「
一呼吸置いて、守就は言った
「武井様の目にあるのは、何でしょう」
「美濃の繁栄と栄光。これ以外ございません」
「そうでしたか」
案外あっさりとした物言いに、守就は漸く諦めた
「今までの非礼、どうかお許しくださると幸いに存じます」
「非礼?受けた覚えはございません。ですので、安藤様もどうかお心安く」
「
穏やかな微笑みを浮かべる夕庵に、守就は軽く一礼して立ち去った
「そうか、安藤がまた難癖を」
遅れた理由を話すと、義龍は苦笑いをして呟いた
「下らんな」
「致し方ございません。六年前の遺恨、未だ残っておられるのでしょう。援軍に差し出されたのに出番なしでは、武士として歯痒うございますから」
「わしなら、のんびり来賓気分を味わうがな。その間、清洲・・・、ああ、当時は那古野だったか」
夕庵が軽く頷き、返す
「城内や町の様子を隅々まで伺うがな」
「お屋形様。向うには姫様が着いておられるのです。安藤様を自由にさせるなど、考えられません」
「そうだな。ところで、今川の件だが」
「はい」
「あの戦、上総介の物だと想うか。それとも、帰蝶の物だと想うか」
「私は」
この聡明な主君に、守就のような誤魔化しは効かない
そう率直に感じた
「姫様の戦と見受けました」
「やはりな」
「お心当たりでもあるので?」
「数年前だ。帰蝶が清四郎と二人掛りで、父上に将棋で挑んだ時の手に似ている」
「将棋の、手?」
「いや、帰蝶はそう言うのが得意なのだ。相手の駒の動きを先読みして、油断させて不意を突く。相手に自分の手を決して読ませない。うっかり読んでしまうと」
「一日荒れましたな」
「嵐のようだった」
義龍は楽しそうに笑った
「計算していないように見せて、その実細かい計算が成されている。今川の本陣を見抜いた力、斎藤が動けぬよう相変わらず根回しだけは怠らない。いやぁ、実に可愛げのない妹だ」
その割には、嬉しそうな微笑みを浮かべる
真に仲の良い兄妹であったのだなと、夕庵は今更のようにしみじみする
その二人が争うなど、運命の悪戯とは時に残酷な現実を見せ付けた
「そこで、お前を呼び出したのは他でもない」
「はい。何でございましょう」
本題に入る義龍の目は、さっきまでとは別人のように鋭くなった
「帰蝶は、動くか。動かないか」
「
今川を倒した勢いは、継続させたいはずだ
なんとしてでも生かし切りたいだろう
「動きます」
夕庵はそう、はっきり応えた
「そうか」
夕庵の返事に、義龍は再び満足げな笑みを浮かばせた
龍之介の居ない生活が何日も続く
後任の小姓らは健気に働いてくれるが、痒いところに手が届く状態でもなかった
傷の手当ては局処でやっている
本丸で裸になるわけにはいかないからだ
その度に大勢の小姓らが慌しく走り回り、帰蝶をうんざりさせたり苦笑いさせたりする
これがこれから先も続くのかと想うと、それはそれで憂鬱でもあった
「やはり若いと回復も早いですね」
毎日執務に追われながらも、傷はほぼ塞がっている
それでも綺麗な肌に残すようなものではなかった
茹で上がった白玉のような肌に、歪な形で傷痕が広がっている
背後から貫通しているため、傷痕は二つあった
その両方を治療し、晒しを巻きながらなつはそう呟いた
「羨ましいか?」
「どうでしょうね。私には戦場に立つ趣味はありませんから」
嫌味を言ってやったら、皮肉で返された
なつにはここのところ、言い合いで勝った記憶がない
それはそれで、安心して局処を任せられると言う証拠にも繋がるので、強ち悪いことでもなかった
「そう言えば明日、大野城から使者が来られるそうで?」
「ああ。嫁にもらう前に、挨拶をと言われてな。断る理由もなかったので承諾した」
「今川公の首も国許に届いたそうですし、肩の荷が一つ降りましたね」
「そうだな」
信長の小袖を羽織ながら言葉短に返事する
約束通り、知多の大野から佐治家の使いがやって来た
織田家の娘を貰い受ける謝礼として、米や塩、数々の美術品が並べられる
それら一つ一つに興味はないが、使者の中に一人、明らかに育ちの違う雰囲気を放つ少年が紛れていた
帰蝶はそれに目を向ける
名門・佐治家の使いなのだから、使者の代表も嫡男・八郎為興の傅役だろうか、その男も立派な身形をしている
それでも、その少年は嫌でも目立った
生まれ持った気品、と言うのか、それが他の者と異なる
それが気になった
「高価な品の数々、心尽くし謝す。表座敷にで歓迎の宴を用意しているので、旅の疲れを落すが良い」
信長の真似も、ここのところ板に付いて来た
なんてことはない
嫁ぐ前の自分に戻れば気が楽だった
あの頃は色気のない男言葉を平気で使っていたのだから
女のような優顔だが、今川を下したと言う事実は帰蝶に貫禄を備え付けた
こうして対面しようとも、誰も自分を女だとは想わない
精々、『女顔の優男』としか見ないだろう
夫の世評を傷付けるようで忍びなかったが、今の自分にできることは少しでも信長の名を世に轟かせることくらいである
力無き者に世を動かす権限などない
多少のことは目を瞑ってもらうしかないと想っていた
「時に、そこの童」
「
帰蝶は少年に声を掛けた
「そなた、酒は飲めるか」
「嗜む程度でございます」
自分に向って指を突いて平伏する
その、きっちりと揃えられた指先がまた、綺麗なものだった
下々の仕事をしている指ではなかった
例えば、織田の令嬢である市と、局処のみならず台所でも働いているさちの指先は、全く違う
佐治の許に嫁ぎ、台所仕事をしている今では多少なりとも荒れてはいるだろうが、それでも嫁ぐ前の市の指先は正に『白魚のような指』をしていた
つまり、働き者の指と、そうでない者の指は別の物だった
それが悪いとは言わないが、使者なら使者らしく、爪は短く切り揃えているのが礼儀であり、この少年のように少し長くなっているのは『普段から働くことがない身分である』ことの証拠だった
「まだ童で酒を飲ませるのも、こちらとしては心拙い。そうだ、局処にはお前と年の近い子供らが大勢居る。宴会が終わるまで、そちらで暇を潰してはどうか」
「よろしいのでしょうか。恐れ多くも織田家の局処に足を踏み入れるのは、仏をも恐れぬ所業にはなりませんでしょうか」
「っふ。普(あまね)くも、織田の局処を取り仕切っているのは仏を恐れぬ鬼女であるからな、機嫌さえ損なわねば何をしても構わない」
その途端、局処でなつが派手なくしゃみをした
「そなたに幸運が齎されるか、知多から態々足を運んだ足労に万が一にも織田一の美女、犬の顔でも拝めば常世の土産話にもなろう」
「心遣い、有り難き幸せに存じます」
「
頭の下げ方、背筋の張り方
やはり、一流の教育を受けて来た者と見た
「では、案内させよう」
「はい」
小姓らが先回りし、『佐治家の使いの少年が局処を訪問する』と伝える
受けたなつはぽかんとしたが、帰蝶のやることに一々驚いていては心が持たない
帰蝶を迎えるよりかは楽だと想い、そのまま通す
なつも、自分に会釈する少年の腰の曲げ方に目を見張った
きっちりと、武家らしい腰の曲げ方だからだ
帰蝶は佐治家から受け取った贈答品のいくつかを持って、市弥の許を訪ねている
京織物も入っており、市弥ら女達に譲ると言う
どうせ自分はこれからも男物しか身に着けないのだから、と言っているようで、なつは少し淋しい気分になった
「嫁入り仕度はこれで二度目だから、気が楽だわ」
「宜しくお願いします」
市弥の後ろでは、侍女達が帰蝶の持ち込んだ反物を眺めて、楽しそうな声を上げていた
「本当に、良いの?全部局処(うち)でもらって」
「構いません。私は当分吉法師様の小袖を羽織りたいので、あっても邪魔なだけです。少し本丸の菊子らにも分けていただければ、幸いに存じます」
「それは構わないけど。あなたって子は、お洒落をする気にもならないの?」
「え?」
「化粧だって、そりゃ、眉を落とすことは今のあなたには無理だろうけど、せめて男物だろうが小袖ぐらい新調すれば良いのに、いつまでも吉法師のお下がりばかり」
「気に入ってますから」
「じゃぁ、せめて髪くらいは、城の中に居る間だけでも、細帯で結ぶとか。それもいつも吉法師の遺した細紐ばかり。まあ、色の組み合わせは、あなたの方がずっと上手だけど」
市弥の言葉に、帰蝶は軽く笑った
「ところで」
「はい」
「三十郎のことですが」
「三十郎殿が、如何なさいましたか」
信長、信勝の弟の信良とは、馴染みはない
正月には顔を合わせているが、個人的に会話を持ったこともなかった
信長の弟妹は大勢居ても、これまで織田のことの全てを背負って来た帰蝶には、こんにちまで誼を通わせている暇などなかったのが正直なところだった
「あの子も今年で十七になります」
「もう、そんなになりますか。守山城の後任で言い争っていたのが、まるで昨日のことのようです」
「そうですね」
その原因を作った本人である市弥は、少し眉を寄せて笑った
「あなたはこれまで、できる限り吉法師の兄弟を大切にしたいと、戦には参加させないように受け取れるのだけど、もうそろそろ限界じゃないのかしら」
「義母上様・・・」
「私達は武家なのです。武家は戦に出て、初めて価値が着きます。なのに、死なせたくないと言う理由で、いつまでも城の中に閉じ込めておくのも、どうかと想うのよ」
「ですが・・・」
「帰命が居るから、必要ない、わけではないのでしょう?」
「勿論です、そんな滅相もない」
心外なことを言われ、帰蝶らしくもなく焦りの表情をして否定した
「あなたの本心はわかってます。私は五人の男児を産みました。だけど吉法師、勘十郎、喜六郎は既に他界。あとの一人も幼少の頃に病死し、今では私の実子は三十郎だけ。つまり、こうでしょう?三十郎は織田家正妻の最後の子だから、戦には使いたくない、できれば文官のような暮らしをさせたい、と」
「義母上様・・・」
「外交なら、文官は適任でしょう。でもね、上総介、聞いて頂戴」
帰蝶を呼ぶ時、市弥は信光に倣って『上総介』と呼ぶようにしていた
それは局処にも、『信長正妻帰蝶』を知らない人間が増えたと言うことの表れである
「戦場であなたを助ける手が少なければ、あなたを守ることはできない。あなたを守れなければ、織田を守ることすらできないのよ?あなたは言ったわね?織田を守りたいと。その言葉に偽りがないのなら、自分を守る盾を選んでは駄目。誰であろうとも命の盾に使えるような心構えで居なければ、生き残れないのよ?」
「
市弥の言うことは最もだと、帰蝶は反論できず黙り込んで俯いた
「吉法師と同じ血が流れる三十郎を大事に想ってくれるのは、私も嬉しい。でも、今の織田にあなた以上に大切な者も居ないの。それも自覚して頂戴。お願いだから・・・」
「義母上様」
哀願する市弥に、帰蝶は辞儀で返す
その帰蝶の姿を見て、自分の意見を聞いてくれたのかと、市弥は明るい顔をした
「三十郎を、呼んで来ますね。あの子も良い年だから、どこをほっつき歩いているのやら」
「なら、その間庭でも散歩しておきます」
「そうね、たまには休むのも良いわね。だって今川を倒してからずっと、毎日忙しかったものね。直ぐに連れて来るわ」
「はい」
まるではしゃぐ少女のように、軽い足取りで部屋を出る市弥と、それに付き添う侍女らが出て行く
残った帰蝶は勝手に市弥の部屋を出た
帰蝶には別の侍女が付き従う
市弥の部屋の縁側から庭に出て、久し振りに味わう外の空気に深呼吸する
もう昼も過ぎているのだから新鮮と言うわけではないが、それでも市弥の言うようにここのところ忙しく、城の外に出ていない帰蝶には、ささやかな休息にはなった
「少し歩く」
「はい」
後ろの侍女が素早く返事した
何年か前、巴が見付けた桔梗の草が、随分と増えていた
まだ花は咲いていないが、もう夏が近付くのだなと感じる
ふと目の先に、犬の姿があった
一緒に居るのはさっき、局処に通してやった佐治家の使いの少年である
武家の男女は、夫婦、兄弟以外二人きりで居ることは憚られる
それを知っているかのように、少年は犬とは少し離れた場所に立っていた
やはり、武家の仕来りをきちんと把握する立場に居る者だと見た
帰蝶はそっと近付き、少年の背後に立つ
犬は少年との談笑に夢中になっているらしく、帰蝶には気付かなかった
その犬と向かい合わせで居る少年に声を掛けた
「
「はい」
返事し、振り返った『佐治為興』は帰蝶を目に、しまったと言う顔を明ら様にした
「やはり、佐治家ご嫡男様であられたか」
「あ・・・、あの・・・」
為興の顔が、見る見る青くなって行った
「佐治八郎様?」
犬もキョトンとした顔をする
名乗りはしただろうが、恐らく偽名でも使ったか
犬の表情はそんな風だった
「何故使者に紛れて清洲に潜り込んだのかは問わぬが、花嫁殿との会見は無事済まされたようだな」
「
「人が悪い。今後、そのような手段は使わぬよう」
「心得ました」
「が、感心した」
「え?」
もっと叱られるかと想いきや、そうでもないことに肩透かしを食らう
「織田家の娘とは言え、どんな相手かわからぬのでは受け入れる側としても、心許なかろう。どうだ?織田の自慢の娘、犬は」
「
素直に誉められ、犬は頬を赤らめた
「私如きにはもったいないくらいで。海辺に咲く花、正に四方から光が差すような美しさで・・・」
「世辞はそれくらいで良い。女は誉め過ぎると図に乗る」
「まぁ」
犬は帰蝶の言葉に頬を膨らませた
「犬はそこまでお調子者ではありません」
そんな犬に、帰蝶は笑う
「犬は、どうだ」
「はい。騙されていたことも忘れるほど、お話のお上手な方だと想います。とても楽しいひとときを過ごさせて頂きました」
犬の言葉に、為興は苦笑いした
「では、二人の前途に不安はないな」
「はい」
犬は眩しい笑顔で返事した
そこへ、庭に出た市弥が帰蝶を呼ぶ
「上総介、連れて来ましたよ」
振り返れば、母に連れられた信良がそこに立っていた
年はまだ誕生月が来ていないので十六
死んだ龍之介と同じ年
両親が信長と一緒になる信良は、よく似ていた
信長に
「
生きていた頃の信長がそこに立っているかのような想いをした
よく似ているとは言え、そっくりと言うわけではない
それでも同じ血を引く兄弟だからか、異腹の他の弟達より信良の方が似ている
懐かしい
そう、感じた
「あの・・・。私も織田のために働きたいと、日頃より感じておりました。どうか、宜しくお願い致します・・・」
ぎこちない挨拶に、帰蝶は微笑んだ
「宜しく頼む」
その微笑みに、信良は魅了された
ほんの少し、胸を鷲掴みにされるような、そんな激しさを伴いながら
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1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
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管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
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また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
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