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足利幕府の信頼が失墜して、どれくらいが経つだろうか
今や将軍職はただのお飾りでしかなかった
時勢に敏感な公家は、新しい天下人を探し求めていた
その新しい天下の主を、駿府に見出した
『海道一の弓取り』、今川義元である
巧みな戦略で次々と領土を増やし、版図を広げ、あっと言う間に駿府を統一、更に遠江、三河をも手に入れた
公家は挙って義元の許を訪れ、上洛を勧めた
その時のためにと覚え目出度く目論み、様々な物を貢いで来た
義元の機嫌を伺う公家の数も半端ではなく、いつしか人々は義元を『公家被れの東海人』と噂するようになった
だが、本人は決して公家に心傾いたわけではなく、公家趣味に走ったこともない
それが目晦ましとなり、周辺大名は義元の真の実力を侮り戦に挑み、悉く敗れて行った
織田が三河を手にしていたのは信秀存命中が精々、信長に代が替わってからは少しずつ削り取られていた
信長の死後、帰蝶は三河と尾張の境界を守ることで精一杯
そのツケが今頃になって、まとめてやって来た
帰蝶もまた、義元の目晦ましに騙された口である

「太子ヶ根の今川軍は、本隊が鳴海に向っていると見せ掛けるための囮だ。本隊は大高から真っ直ぐ見上げる場所の、桶狭間山に居る」
帰蝶はそう睨んだ
「岩倉を町から追い出した実績のある清洲を通り、織田に味方する春日井を翳め通れるほど、今の今川には充分な兵力は残っていない。今川は、鳴海ではなく大高から尾張に入り、伊勢湾より那古野を落してから伊勢に入る」
そう、読んだ
「山からなら太子ヶ根、大高、鳴海、全ての動きが目視できる。総大将は、そこに居る!」

善照寺の砦を襲撃した先鋒隊から知らせが入る
「織田軍、善照寺を放棄!現在、扇川、手越川中洲に集結中!また、丸根、鷲津方面も包囲されつつあります!」
「ふふっ」
端正な口唇の端を釣り上がらせ、義元は薄笑いを浮かべた
「織田の惣領、ただのうつけではないか」
「お屋形様」
「落ちる寸前の砦を死守しても、無駄な足掻きであることを知っている。死ならば諸共、玉砕の覚悟はないと見た」
「織田軍を蹴散らしつつ、このまま大高に向かいますか」
「その前に、兵士に休息を。駿府から休みなしで動いておるでの」
「しかし」
「大高の様子も、まだ完全ではなかろう?増してや、砦二つに織田が援軍を送っているのなら尚更。のこのこ乗り込んで、織田の襲撃を受けるのは不本意だ。松平には丸根の警戒を怠らぬよう、重々釘を刺しておけ。隙を見せれば、どこぞの鴉が匂いを嗅ぎ付けるとも限らん、とな」
「はっ!」
近習が立ち去るのを、義元は手にした軍配を口元に運び、ぽつりと呟く
「ここからなら周辺も見渡せる。織田が近付けば、直ぐにでもわかる。どおれ、ゆうるりと謡(うた)でも馳せるか」

 祇園精舎の鐘の音(こえ)
  諸行無常の響き有

「目指すは、桶狭間山!」

 沙羅双樹の花の色
  盛者必衰の理を表す

扇川の中島砦で弥三郎らの部隊と合流した織田軍は、総勢三千余りの数に膨れた
数で勝負なら、勝家、秀貞の部隊を大高方面に送ったことは手痛い誤算だっただろう
だが、帰蝶は睨んでいた
互角の数でぶつかっても、互いの力が均衡し、勝負にはならない
針を通すなら、細い方が良い
精鋭中の精鋭で今川軍に突入すれば、道は必ず開ける
実力は認めても、勝家も秀貞も、自分に勝った経験がないのだから
自分に負けた二人を連れて行くのは、この作戦を成功させる確率を下げる
そう、感じていた

 驕れる人も久しからず
  ただ春の夜の夢の如し

数だけが、全てを語るのではない
勝った者だけが、全てを語ることが許された

東海道沿いの谷間を抜ける
少しでも今川軍に発見されるのを遅らせるためであった
しかし、万が一にもここで見付かってしまえば、狙い撃ちは免れなかっただろう
ここを通ったのは、帰蝶にしては珍しい計算なしの、一か八かの賭けである
勝家、秀貞を丸根、鷲津に送ったことで、今川軍の注意がそちらに逸れることを祈った

風は雲を呼び、雲は雨を呼ぶ
          向うの方が、曇って来たみたい」
利治の小袖を洗っていたさちが、空を見上げ呟いた
「今日は土間で干した方が良いかな」
その時、台所で佐治の晩のおかずを作っていた市が悲鳴を上げた
「あーッ!」
「お市様?!」
さちは慌てて部屋に入った

雨雲か、黒に染まった雲が漂い辺りを暗くする
それに紛れたか、今川に発見されることもなく谷を抜け、桶狭間山の麓まで辿り着く
問題は、ここからどうやって今川軍に見付からず、側まで近付けるかと言うことだった
「やっぱり、こっちも囮を出しますか」
その囮を買って出る気満々な秀隆を、抑える
「待て」
「ですが・・・」
「大丈夫だ。私には天運が付いてる」
                

 武き者も遂には滅びぬ

静かに風が凪いだ
木々を揺らし、人の頬を撫でる
                 ?」
軍旗が揺れるのを、秀隆は見上げた
稲生、山名
どちらも『天』がこちらに味方した
やがて風が呼んだ雲が雨を散らす
「雨・・・?」
秀隆が掌を広げる側で、帰蝶は咄嗟に種子島式の火挟みと火皿の部分を手で握った
その部分が濡れれば、火縄銃としての意味を発揮しない
「この雨に紛れて、進軍するッ!」

 偏に
  風の前の塵に同じ

俄に降り出した雨は強風を孕み、今川本陣をも翻弄した
「お屋形様!こちらへ!」

砕けた黄の玉を掌に集め、夕庵は呟いた
「姫様・・・。あなたの背負う業が、そうさせているのですか」
それとも、業があなたを導いているのですか
真っ直ぐ
天下に
この戦い方は、噂に聞く『織田信長』の物ではない
この手で育てた『斎藤帰蝶』の物だ
そう、確信した
捨て身の作戦
七つになったばかりの帰蝶を、長良川に放り投げた
「女とて、己の身は己で守らねばならぬ時代がやって来ます!姫様!できると想うのなら、見事この川を渡って御覧なさいッ!」
川岸でバタバタしていた帰蝶は、夕庵の叱咤にカチンと来たのか、岸に上がろうとした躰を反転させ、向こう岸に向って泳ぎ出した
それは目も当てられない無様な姿で、だけど帰蝶は必死で泳いだ
川の途中に船を浮かべ、可成が漕いでいた
その船に清四郎も乗り込んでいる
「姫様!早く、船に!」
と、帰蝶に手を差し出した
「黙れ!お前の助けを借りれば、先生が腹を抱えて笑う!それ見たことか、女は何もできないと舐められる!そんなの、嫌だッ!」
「姫様・・・」
女が戦わなくてはならない時代など、来るはずがないのに
どうしてこの幼き姫君は、がむしゃらに水を掻いているのだろう
清四郎は呆然として帰蝶を見詰めていた
誰の助けも借りず、一泳ぎ、一泳ぎ対岸に向って泳ぐ
それはまるで、自分を試しているかのようにも見えた
何処までのことができるのか
何処まで泳げるのか
それを試しているかのようにも見えた
帰蝶の負けず嫌いは、もう既に深く根付いていたのかも知れない

後詰として丹下砦に長秀が残っている
万が一本隊が今川に突破された場合、慶次郎と共に清洲の最後の防波堤になるつもりだった
帰蝶が出た後、しばらくして善照寺からも薄っすらと煙が上がったのを確認した
「奥方様・・・」
ご無事なら良いのだがと、祈らずにはいられない気分だ
長秀はこれまで、後詰を務めることの方が多かった
それは長秀の才を愛した帰蝶らしい采配である
城を保つには、優れた頭脳を持つ人間が必ず必要だった
それまでは貞勝が一貫して請け負っていたが、清洲の運営にも携わるようになってからは、織田の『軍』の経営にもそれ相応の人間が必要になった
しかし、それまで貞勝に任せてしまっては、どちらかが疎かになりがちになる
帰蝶は『軍奉行』に長秀を抜擢した
長秀は帰蝶と年の変わらない、謂わば『若造』に類する年齢だった
それでも帰蝶は年齢、経験を問わず適材適所に人材を派遣する
困ったら年長者に相談すれば良い
そう言う考え方であったからか、織田では貞勝、資房のような年長者もきちんと敬われている
帰蝶の国運営は非の打ち所のないものだった
だが、帰蝶自身は、と言えば、短所だらけの無鉄砲な向こう見ずで極度の負けず嫌い、妄信的に前しか見れない一直線な性格をしているから手に負えない
それでなつとしょっちゅう衝突していても、一向に学ぼうとせず今もまた、真っ直ぐ今川に向って突進していた

風が西から東に抜ける
あの時と同じだった
凡そ二千に近い信勝と七百程度の数で戦った、稲生が再来する
風は織田軍を後押しし、雨は今川の目を塞ぐ
「雨風に構うな!このまま突っ走れ!」
種子島式の着火部を後ろ手に掴みながら、帰蝶は片手で松風を疾走させた
時折小枝が風に折られ飛んで来る
帰蝶はそれを上手く躱しながら前に進んだ
後続部隊も飛んで来る物を避け、たまに兜に当り驚く者も居たが、気を取り直して前進する

この風は、信長なのだろうか
秀隆はそんな気がした
妻を後ろから押しているのか
それとも、守っているのか
後ろで楠が倒れたのを、視界の隅で確認した
前を向けば障害物が、まるで帰蝶を避けるかのように飛んでいる
追い風に押され、馬も普段より早く感じた
頬に当る雨の痛さに片目を瞑り、ただ真っ直ぐ帰蝶を追う
あの時もこんな感じだったな、と、懐かしくさえ想えた

こんな暴風雨の中
「お屋形様!お下がりくださいませ!」
来るだなどと、誰も想像していなかった
「まさか・・・ッ」
義元自身、想っていなかった
今川は清洲を目標に、鳴海に向う
そう想わせるため、太子ヶ根にも配備した
織田は清洲を守ろうと、間違いなく太子ヶ根に向うと読んでいた
清洲から織田が扇川に集結したと報告を聞き、義元は信長が自分の狙い通りの動きをしたと北痩笑んだ
織田は太子ヶ根に居る囮を本隊と想い込み、鳴海から真っ直ぐの場所に位置するそこを目指すことを狙っていた
織田が太子ヶ根に到着したのを合図に、こちらは安全に大高に入り、丸根、鷲津の部隊が慌てて自分達を追い駆ける織田を迎撃
更には太子ヶ根の部隊と挟撃する
何もかも、自分の想い描くとおりに事が運んでいたはずだった

          どうして、自分の目の前に
この眼下に居る
織田軍が
織田木瓜の軍旗が、こんなにもはためいている
説明できる者は居るのか
誰が言えるのか
誰が口にできるのか

義元の作戦が読まれていたことを

「お能殿」
局処に、子供を連れたお能が姿を見せた
それを見付けたなつは、頬を緩ませて走り寄った
「よく来ました」
「おなつ様・・・」
「久し振りね、元気していた?」
「はい・・・」
少し、憔悴した様子でいる
「子供達も」
「お陰様で・・・」
「何よりよ」
それでもなつは極力気に掛けないようにした
お能の身の上は、嫌でも知っている
それに同情したところで、お能が喜ぶとも想えなかった
「風が強くなって来たので、子供達が怯えてしまって・・・」
「そう。でも、ここに来たのは賢明よ。廊下じゃなく、庭から入ったのも、ね。向うの入り口は、封鎖してしまっているから」
「そうでしたか・・・」
「良かったわ、もう少し遅かったら、呼びに行こうかと想っていたの。あなたの家は、男手が足りないから」
「ご心配お掛けしまして・・・」
「いいえ。奥方様に比べたら、あなたは然程心配など掛けさせないわ。優秀よ」
「おなつ様・・・」
「ささ、早く入りなさい。中で大方様が、吉備の団子を作ってくださってるの」
「吉備の団子?」
「見よう見まねだけど、てね」
苦笑するなつに、お能も少しだけ笑えた
「さっ、お坊もお勝もお花も、入りなさい」
「はーい」
「那生、大方様のお手伝いをしてくれる?」
「はい」
子供達が先に縁側に入る
お能は遅れて入った
          徳子に、逢う?」
なつにしては珍しく、恐る恐る聞く
「いえ・・・」
暗い目をして、お能は応えた
「私は、あの子を捨てた親です。今更、母親の顔などできません・・・」
「そう・・・」
捨てたくて、捨てたんじゃない
愛せなかった
徳子の顔の向うに、見たくない顔が浮かび、お能を苦しめた
今も苦しめられ、それから逃げようとするお能を責めることは、できなかった

雨が向こう側に向って降り頻るお陰で、こちらは視界を遮られることはない
ただ風に押されるまま進めば良かった
織田軍の進軍に、この大風と大雨に気を取られた今川軍は、それが自分達の尖兵だと想い込んでいた
強風に木の枝が降り散り、雨に目を潰されまともに開くことができない
気が付けば
後からそれが織田軍だと言う事を知った

「大丈夫ですか?お市様」
「うん・・・」
「火に掛けた鍋をそのまま掴むなんて、無謀です」
市は手に火傷を負い、さちに手当てしてもらっていた
「だって、焦げ付きそうだったから」
「それで離せば良いのに、どうして態々火に戻すんですか」
「だって、もったいないって想ったから・・・」
「これじゃ、当分台所仕事なんて無理ですよ?」
「どうしよう・・・。佐治にご飯、作ってあげられない・・・」
「仕方ないですね。お市様の手が治るまで、私がお二人の分も一緒に作ります」
「ごめんね、さち・・・」
申し訳なさそうに謝る市に、さちは頭を抱き寄せて笑顔で言った
「何言ってるんですか。困った時は、お互い様。私が困ったら、お市様に助けていただきますから、その時はお願いしますね」
「うん、任せて」
さちの言葉で明るくなるも
「でも、鍋を掴む時は『鍋掴み』を使って下さいよ?素手で掴んじゃ駄目ですよ?」
と釘を刺され、しょぼんとする
「いけると想ったんだけどなぁ・・・」
「いけるわけないでしょ」
外は俄に風が強くなって来た
枝がガサガサと音を立てる
新五さんは大丈夫かしらと、格子から外を眺め心配した

疎らに散らばった今川軍の雑兵を抜け、本陣が目の前に迫る
帰蝶がそれを確認した直後、それまでの雨風が嘘のようにぴたりと止まった
「見えたッ!」
腰の兼定を掴み抜き、帰蝶は空に向って突き刺す
「雑魚に構うな!生け捕りも無視しろッ!敵の金より、己の命を第一とせよッ!織田軍、突撃!薙ぎ倒せッ!」
「おぉ          ォッ!」

法螺貝など、聞こえぬ
陣太鼓はどこか
離れた場所での喧騒に、義元は自分の目を疑った
風が止み、雨が止まり、遠くで水飛沫が幕を張ったように霧を生む
急襲
まさか、と言う想い
織田を襲撃する筈の今川が、織田に急襲される由縁を知らない
誰がこの場所を知った
誰が我の居る場所を嗅ぎ付けた
鴉が知らせたか、それとも鷹がこの上を飛んだのか
小高い場所にある桶狭間のその山頂に陣取っていた自分が、何故
「織田軍、襲来ッ!」
自分よりも格下の、織田の攻撃を受けねばならない

常に戦では先発を仕切っていた弥三郎の部隊が、自分達に気付いた今川の兵を切り崩す
弥三郎の少し後ろには利治が着いていた
「左右、挟まれるな!前方突破!腕を落されても、口で敵の喉元に食い付いてやれッ!」
弥三郎の部隊を背後から守るのは、恒興の部隊
特攻であり斬り込みでもある弥三郎の部隊が崩されれば、帰蝶の通る道が塞がれる
恒興は晴れた空に眩しい目の前を必死で凝視しながら、部隊を動かした
「右、やや敵方多し!蹴散らせッ!」
恒興の部隊には、佐治が居た
戦への出馬は初めてではないが、武器を持つのは初めてだった
まだ手に馴染み切れない槍を掴み直しながら、必死に駆けた
この戦に勝たねば、市を守ることはできないと、そう浮かべながら

局処の奥座敷で、以前は庭でやっていたように床に板を敷き詰め、その上で団子作りに励む
巴も侍女も、子供もみんな入り混じり、楽しそうな声を上げながら団子を丸めていた
先頭に立ち指揮する市弥も、隣になつを置いて団子を捏ねる
「この頃大方様、団子作りがお上手になりましたね」
「そう?吉法師の法会の度に作っているから、徐々に手馴れて来たのかも」
「勘十郎様の時は、おはぎ」
「生前、甘い物は駄目だって、余り食べさせなかったから。死んでから供えるなんて、酷い母親よね」
「そんなこと・・・」
苦笑いする市弥に、なつも言葉を詰まらせながら苦笑した
しばらく自分の手の中の白玉を丸め、それが徐々に止まり、やがて市弥は堰を切ったかのように泣き出した
「大方様?如何なさいました?」
なつは慌てて手の白玉を板の上に置き、市弥の背中を撫でた
「私の所為だわ・・・」
「大方様?」
「本当なら、あの子もここで、夫の帰りを待ちながら談笑でもできたでしょうに、それなのに、あの子を戦場に追い遣ったのは、私だわ・・・」
「そんな・・・ッ」
「私が、あの子の人生を狂わせてしまった・・・ッ」
大泣きする市弥に、奥座敷の全員の目が集まる
「大方様・・・。済んでしまった事を嘆いても、詮無きこと。奥方様は、大方様のそのお優しさに救われたことも、多いと想います。どうかご自分を責めず、奥方様の無事を祈りましょう。そして帰って来たら、この団子を鱈腹食べてもらいましょう?ね?」
                
市弥は泣きながら、何度も頷いた
その市弥の許へ、花がやって来る
そして、そっと手拭いを手渡した
「花・・・」
「大方様は、清洲のお日様。泣いたら、お空が暗くなる」
                
「みんな、迷ってしまう。だから、泣かないで」
「ありがとう、花・・・」
市弥は花をぎゅっと抱き締めた

泥が跳ね飛ぶ
「ぐおぉぉぉぉッ!」
人の断末魔が、あちらこちらから上がる
弥三郎の部隊が文字通り道を開く
今川の兵士、織田の兵士、それらの骸が転がる中を、帰蝶は走り続けた
雨が止み、種子島式を掴む必要もなくなり、両手に握った松風の手綱を振り上げ、真っ直ぐ
ただ真っ直ぐ、義元の居る本陣を目指す
帰蝶の周りを小姓衆、小姓衆の周りを馬廻り衆、馬廻り衆の周りを黒母衣衆、赤母衣衆が併走する
それは風の塊となって今川の波を掻き分け、海原を泳ぐ針のように先へ、先へと進んだ
弥三郎と恒興の部隊の殿(しんがり)が見えた
その二部隊がさっと道を開ける
中央をまるで花道のように、帰蝶の本隊が突き進む
ちらりと、利治の姿が見えた
戦っている
何人もの敵を一度に回し、充分、互角に戦えている
寧ろ一人で敵兵を押していた
僅かな間に弟は、随分成長したものだと感心した
反対側の恒興の部隊の中で、佐治を見付けた
武器を持っての殺し合いは初めてだろう
その優しい性根に似合わず、敵の力を利用して上手く反撃している
知恵の回る佐治らしい戦い方だと想った
これならあと何年かしたら雑兵頭に抜擢できるだろうし、誰も文句は言わないだろうと確信した

突然の騒動に、今川軍本隊が混乱を起こした
初めはそれが何なのか確かめる術のなかったそれが、やがて形を現す
戦う者より、逃げ出す者の方が多かった
草叢を分け入る獣のように、それは本陣に突っ込んで来た
織田の軍団が
義元の手前は既に乱雑振りを発揮し、どれが味方か、どれが敵か判別できない
「お屋形様!一度退却を!」
義元の周囲を守る近習、馬廻り、小姓、旗本らが義元を撤退させようと後退する
「まさか・・・、まさか・・・」
自分のこの考えを、誰が読むと言うのか
情報が漏洩したのか
いいや
大高でこの作戦を知るのは、極一部
その大高も織田から毟り取った丸根と鷲津が守る形に逆転し、織田の増援は大高城には近付けない状態のはず
太子ヶ根の部隊には、ただ鳴海に向うようにとしか指示していない
自分が何処に居るのか、何処から何処へ向うのか、大筋でしか話していない
この、桶狭間山に居ることを読めるはずがない
なのに、どうして!と、義元の胸も混乱した

          見付けた」
帰蝶の鷹の目が獲物を捉える
風に靡く羽のように松風から舞い降り、手にした兼定を振り上げる
「敵、御大将、これにありッ!」
兼定の刃先が義元に向けられた
帰蝶の周りの部隊が一斉に、義元目掛けて突進した
帰蝶の本隊に先を譲った弥三郎、恒興の部隊も大方の今川軍を蹴散らし、追い着く
「新五様!」
「佐治か!」
そこで二人は顔を合わせた
「随分手馴れた武士のようだぞ、佐治」
「そう言う新五様こそ、様になっておられるご様子」
「世辞は帰ってからゆっくり聞く!俺は、帰ってさちの甘露煮を食うんだ。生き残るぞッ!」
掛け声と共に、押し寄せる今川の雑兵に槍を向けつつ駆け抜ける
「おぅ!」
佐治も負けじと槍を握り直し、少し出遅れて今川軍に突っ込んだ

          私は、あなたを守りたいと想いました

胸に浮かぶ、まだ幼い少女の市

          みすぼらしい私を、あなたは何の疑いもなく選んでくれた
その想いに応えるため、あなたの幸せを守りたいと願いました
あなたは私の胸に咲く一輪の花です
その花が散らないよう、私はあなたを守りたいと願っております

帰蝶らは義元に追い縋る
今川は義元を守ろうと押し返す
両者入り乱れての乱戦が始まった
「逃がすなッ!」
鷹の目が逃げる義元を追い駆けた
その帰蝶の行く手を遮るように、体格の良い武士が立ちはだかった
「殿ッ!」
それを目にした秀隆が帰蝶の許へ駆けようとするも、その秀隆も敵の手に捕まり抜けなくなってしまった
「クソッ!」
刺し突かれる敵の槍を避けながら、手にした槍を突き出す
「随分華奢な。何処の稚児か、お小姓か」
帰蝶を侮辱しながら槍を出す
「今川に来れば、可愛がってやろうぞ!」
「くっ・・・!」
突き出された槍を兼定で受け流しながら、好機を待つ
手が早い
次から次へと刃先が自分目掛けて飛んで来る
さすがは今川の兵と、内心感嘆の声を上げた
これでは秀隆と互角か、あるいは若干上か
初っ端から面倒な相手とぶつかってしまったと、帰蝶は後悔した
「ほうれ!防戦一方かッ!」
帰蝶を嬲るように縦横無尽に飛んで来る槍が兼定を弾く
「あ・・・ッ!」
一瞬兼定に目を奪われ、気が付いた時には柄の尻が自分の鳩尾に入る
                 ッ」
帰蝶はそのまま後に弾き飛ばされた
「ふむ、変わった鉢がねだな」
                
帰蝶の米神に冷や汗が流れる
後ろに身を支えた手がそっと動いた
玉は、既に仕込んである
だが、今使えば、後がなくなる
義元を足止めするのに使おうと想っていたのが無意味になる
だけど・・・・・
「ほう、よく見れば美形だ。桶狭間の肥やしにしてしまうのは惜しい。命あらば、これから先楽しいことも待っておろう。どうだ、今川に転ぶか」
敵兵、その身形から部隊長から上に位置するだろう
恐らくは今川の殿(しんがり)か
ならば、腕は相当のはず
使うのは、今か
帰蝶は素早く留め金を外し、信長の種子島式の柄を掴んだ
「どうした、立てぬか。手が欲しいか?」
          腰が・・・抜けました」
「ははは、変わった格好をしているが、初心者か」
「手を、貸してください」
「わしの許に来るか」
敵兵武将が舌舐め摺りする
「行けば、よいのですか」
「但し、毎夜足を広げてもらわねばならんがな」
「それくらいなら」
帰蝶の返事を好しと見たか、敵兵は帰蝶に手を差し出しながら前に歩み寄った
そして腰を屈めた瞬間、帰蝶は掴んでいた種子島式の銃口をその胸倉に当てた
「ん?随分と骨董な物を持っているな。今や時代は国友であると言うのに」
鉄砲を突き付けられているこの現実に、随分と豪胆な態度で居る
「そなた、鉄砲の扱いを知らんと見る。これほど距離が近いと、その華奢な腕も一緒に吹き飛んでしまうぞ?」
「確かに、経験は浅かろう。だが、逆にそなたこそ、鉄砲をよく知らぬと見た」
          何?」
武将の顔が、一瞬引き攣る
「この種子島式は、国友の物より鉄鋼部分が分厚くできている。つまり」
帰蝶は何の躊躇いもなく鉄砲を撃ち放った
瞬間、敵武将の躰が大きく跳ね上がり、後退して崩れ落ちた
「至近距離で撃っても、暴発はしない」

「殿ッ!」
敵を薙ぎ倒しながら、秀隆が帰蝶の許に辿り着く
「雑魚を相手に、鉄砲を使ってしまった」
どうでも良いことに後悔している帰蝶に、苦笑しながら拾った兼定を手渡す
「そんなことより、追っ駆けますよ!」
「わかってる」

小姓衆も帰蝶を守るため戦う
龍之介は得意の弓を構え、矢を放つ
弓は通常のものより長く、弦も太い
その分、飛距離もその威力も半端ではなかった
龍之介の矢を受けた兵士が後ろに飛ぶ
飛んだ兵士に別の兵士がぶつかり、その兵士も串刺しになった
一本の矢で同時に二人、三人と都合よく倒して行く龍之介の腕に、他の小姓衆達も目を丸くした
「ぼやっとするな!殿は先にゆかれた!追い駆けろッ!」
「はっ、はいッ!」
自分よりも年下の龍之介に怒鳴られ、共に着いて来た他の小姓らは慌てて返事する

命の遣り取り
そんなもの、鼻っから頭にない
生きて帰ること
今川を追い出すこと
再び襲来する時までには、尾張を統一してみせる
そう考えながら義元を追い駆ける
風が自分を追い越す
生温い空気が漂う
一瞬、周囲の景色が消えた
「え?」
はっとする帰蝶の目の前に、途轍もない雰囲気を漂わせた人物が立っていた
          まさか・・・」
それを口にしたのは帰蝶の方だった
「ほう。織田の雑魚に、敦盛が紛れていたか」
その声は、まるで天から降りてくるような気がした
「今川・・・治部大輔・・・殿」
「如何にも」
                
何故自分は、義元の前に居るのか
秀隆らはどうした
他の、今川の兵も
どうして突然、自分は義元の前に出たのか、帰蝶は覚えていなかった
「どうした。来んのか」
                
なんと言う威圧感か
躰こそそれほど大きいとも想えない
声も野太く響くものでもない
だが、その背中に背負う大きな何かが、義元を強大に見せた
これが王者の風格か
自分には真似できないと想った
「そなた、織田の総大将か」
          御意・・・」
「小さな躰に似合わぬものを、背負っておるの」
                
「大人しく帰るが良い。今なら、手出しはせん。織田如き、今川の相手ではない。だが、ここまで辿り着いたこと、誉めてつかわそう。我の策を読んだその知略にも、な」
「帰る・・・」
「そうだ。縦しんば我を倒したとて、その後ろにある武田、上杉、北条。全て相手にする自信はあるか」
                
まだ、あったのか、と、帰蝶の目が見開く
義元と言う男は、自分が想っている以上の大人物なのかも知れないと、想った
頭を垂れるしかないのか
秀隆の気配も、龍之介の気配もない
逆に、今川の他の兵の気配もない
なのに、動けない
足が動こうとしない
まるで金縛りに遭ったかのように、一歩も動かない
兼定を握った手が垂れ下がったまま、上に持ち上げられない
自分はどうなってしまったのか
義元の魂に絡め取られたのか
脱することは可能なのか
何も想い浮かばなかった
「退け。織田の小さき大将よ。そなたの世など、誰も望んではおらん。静かに道を開け、今川が過ぎるのを城で大人しく待つがよい。織田には、それが最も相応しい処世術。それしかできぬ虫けら共よ!それとも、妻方の実家に助けを呼ぶか。跪けば、斎藤も助けてくれようぞ」
                 ッ」
義元の放つ圧力が、帰蝶を押し潰した

どうした、帰蝶
また、誰かに叱られたか?

兄の声がする
まだ少年だった頃の、兄の声がする
どうしてだろう
どうして今頃、想い出すのだろう

「今日は山には行かないのか?清四郎が手持ち無沙汰で、うろうろしていたぞ?」
「帰蝶は悪い子だから。良い子になるには、大人しく城の中でじっとしていなくてはならないの」
「ははは。おかしなことを言うな。帰蝶は、良い子だぞ?」
「帰蝶は、良い子?」
兄の言葉を繰り返す
「昨日、私に松ぼっくりを拾って来てくれた」
兄は袖から二つの松ぼっくりを取り出し、その掌に広げた
立派な形の、素晴らしい物だった
「帰蝶は兄想いの良い子だ。気にせず遊んで来なさい。叱られたら、新九郎が許可したと言えば良い。帰蝶」
お前はその名の如く、自由な蝶のように好きなところを、元気に飛び回っているのが一番似合う
「世間など気にせず、想うがまま飛ぶと良い」
「兄様・・・」

          今川治部大輔」
心計らずとも
「お前は人の地の覇者だろう」
自分を現実に戻してくれたのは
「だが、我が兄には遠く及ばない」
憎いはずの兄だった
「敵をも認め、懐を広げられる我が兄の足元にも及ばないッ!」
「奥方ッ!」
左の耳から、秀隆の声が聞こえた
                 ッ」
自分は変わらず、義元を追い駆け走っている最中だった
「なんでもない」
                
義元の魂に引き摺られたか
それほどの相手なのか
人知を超えた存在なのか
それでも、倒さねばならぬ相手であることだけは理解している
目の前を、馬廻り衆が走っていた
時親の鎧がちらりと見える
馬廻り衆の先頭は、既に今川本陣を席巻していた
そこに義元の姿はない

「お屋形様を守れッ!」
負ければ、全て終わる
それが『戦』と言うものだった
今川の旗本らは一丸となって、義元に襲い掛かる織田の馬廻り衆、小姓衆らを斬り伏せた
勝たねば、意味がない
それは織田にも今川にも通じることだった
「おりゃぁぁぁぁ          ッ!」
帰蝶が斎藤迎撃のため赴いた犬山手前の山名で、父と共に戦った服部小平太が、見付けた義元に斬り掛かった
まるで小平太そのものが目印かのように、他の織田兵士らが殺到する
小平太の次に義元に掴み掛かったのは、斯波旧家臣の子、毛利良勝だった
義元の反撃を食らい、小平太が膝先を斬られた
勢い良く吹き出る血に驚き、一瞬引いた隙に良勝が躍り出た

狼は、普段は単独行動を好むが、狩の時だけは仲間と力を合わせて獲物を狩ると言う
まるで、そんな光景だった
帰蝶を守る黒母衣衆も、押し寄せる今川を食い止める赤母衣衆も
追走する龍之介らも
その先に何があるのか考えもせず、浮かびもせず、真っ直ぐ、がむしゃらに義元を目指す
それが始まりなのか、終わりなのか、わかりもせず
ただ
一人、二人と斬る度に、一つ、二つと命が消える
その重さを背負わねばならない事を自覚した
重みに負けて倒れてしまうかも知れない
それでも、耐えることが敵への敬意だと、誰に教わったわけでもなく己の魂が確信する
今川を倒せば、織田の未来が開けることを

狼が狙った獲物は、虎          だったのかも知れない

分に合わぬ獲物を狙ってしまったと後悔しても、引き返せない
狼はただ、無心で虎に掴み掛かり、己(お)が未来に差す光を集めることで、道を開こうとしていた
どれだけの敵を倒したのか、一々覚えていない
斬り損ねた相手は後ろから来る者が始末を付けてくれた
それだけは視界の片隅に映っている
その声は、突如として沸き上がった

「今川総大将、首印頂戴致したッ!」

揺る波に、一際大きな波が寄せるように、今川方が一斉に動揺した
更に、この辺りは水捌けの条件が悪いのか、先程までの大雨に今川の後方がぬかるんでいる
撤退する者、反撃する者、それが混じり合いぶつかり合い、帰蝶らも巻き込まれた
「引け!織田軍、撤収する!動ける者は怪我人を運べ!馬廻り衆は新介を援護しろ!」
呼ばれたわけでもなく、松風が走って来た
「松風!」
手綱を掴み、飛び乗る
「奥方!」
「このまま一目散に下山する!中島砦には寄らず、真っ直ぐ清洲に向え!弥三郎に丹下援護、勝三郎は鷲津、丸根の今川を足止めさせろ!太子ヶ根の今川がどちらに向って走るかわからん以上、警戒は解けない!」
「了解ッ!」
帰蝶の伝令を直接受け、秀隆も自分の馬に飛び乗った
その直後、背後で一発の鉄砲の音が響く
「奥方         

                
鉄砲の玉は、真っ直ぐ、帰蝶の肩を貫通した
瞳が大きく見開かれ、背中も激しく仰け反り、そして、帰蝶の躰が右に傾き、ゆっくりと落ちた

         

閉じられゆく瞳に、薄っすらと青い空が見える
さっきまでの雨が嘘のように、透き通った青の空だった

「奥方!」
「奥方様ッ!」
秀隆よりも近くに居た龍之介が駆け寄る
「奥方様!奥方様!」
松風から落ちた帰蝶の肩を掴み、慌てて起そうとする
その後を、再び鉄砲の音が鳴り響く

龍之介は咄嗟に帰蝶を手放し、両腕を広げて立ちはだかった

          吉法師様・・・

すげぇな

信長の声がした

「お前、やっぱすげぇや」
          吉法師様・・・」
開いた瞳に、信長が映った
躰が起せない帰蝶の側に腰を下ろし、生きていた頃のままの、あのお日様のような笑顔で言う
「俺ですらできなかったことやっちまうんだからよ、お前、やっぱすげぇよ」
「私・・・、やったんですか・・・?」
「ああ」
「本当に・・・?」
「ああ」
信長は、帰蝶の最後の記憶のままの笑顔だった
「どうだ?帰蝶。気分は」
          わからないです・・・。素直に喜んで良いのか、それとも、厳粛な気分で居た方が良いのか・・・」
「両方味わえ」
信長らしい返事に、帰蝶は少しだけ苦笑いした

いっときの強風と、通り雨の凄さに驚いた後、可成は再び蝉丸の様子を見ようと小屋に来た
「蝉丸、雨は大丈夫だったか?風も凄かったが         
目にした蝉丸は、以前のように大きく翼を広げ、小屋の中をバタバタと飛び回っている
「蝉丸?!お前、元気になったのかッ?!」
可成は頬を緩ませ、小屋の中に入った
その蝉丸が、表に出ようと戸を激しく突付く
「どうした?奥方様に、また何か・・・」
可成は興円寺を想い出し、恵那に倣って戸を開け広げた
その戸を蝉丸は威勢良く飛び出し、空を駆けた
だが・・・・・
「蝉丸!」
然程も飛べず、蝉丸は羽を広げたまま地に落ちた
「蝉丸!」
慌てて駆け寄り拾い上げた可成は、蝉丸が死んでいたことに気付く
「蝉丸・・・・・・・・・、お前         
何を想い、飛ぼうとしたのか
何のために命を散らしてまで、誰の許に飛ぼうとしたのか
蝉丸は、何がしたかったのか
何もわからず、可成は蝉丸を抱き締めた
「お前・・・も、とうとう、逝っちまったのか・・・」

「吉法師様」
「ん?」
「私、勝ったんですよね・・・?」
確かめるように、信長に聞く
「ああ、勝ったよ。お前は今川に勝った。今川の知略に勝った」
「今川は、どうなるのでしょう・・・」
「さぁな。それは俺にもわからん」
「織田は、どうなるのでしょう・・・」
「お前次第だ」
                
黙り込む帰蝶に、信長は諭すように言った
「帰蝶」

これが戦だ
負ければ逃げ場はねえ
勝てば退くことは許されねえ
それでも、先に進む決心が着いたんなら、俺がお前を守ってやる
これから先、ずっとずっと、お前を守ってやる

「吉法師様・・・」

微笑んだまま、信長の顔が降りて来る
帰蝶は待ち望むかのように、ほんのりと口唇を開いた
信長の口唇が、帰蝶の口唇に重なった
温かい、あの頃のままの口唇だった
深く、深く
長く、長く重ね合う
その口唇が離れ、信長がゆっくりと顔を上げる
少しずつ目蓋を開いた帰蝶の目が見たのは、信長ではなく、龍之介だった
          龍之介・・・?」
「先代様の夢、守ろうとしているあなた様を、守りとうございました」
「龍之介、何を言って・・・」
龍之介の肩の向うに、信長が立っていた
「龍之介・・・」
龍之介は微笑みのまま立ち上がり、ゆっくりと、そして雲が消えゆくかのようにそっと、信長の側に行く
「待て、龍之介・・・。そっちに行っては駄目だ・・・」
帰蝶の声が震えた
「戻れ、龍之介!」
やがて、龍之介は信長と肩を並べて背中を向けてしまった
「龍之介!」
自分の声に目が覚め、帰蝶は目蓋を開いた
青い空と、松風の鬣が見える
それから、躰を起そうとする
「うッ!」
右肩に激しい痛みを覚え、咄嗟に手で押え、それから
          龍之介・・・」
自分の目の前で、腕を左右に伸ばして立ち尽くす龍之介の、その微笑みが見えた
「龍之介・・・。無事だったか・・・。良かった・・・」
だが、龍之介の返事はなく、その躰がゆっくりと崩れ、膝から落ちた
          龍之介ッ!」
「奥方!」
秀隆は帰蝶を抱き上げ、急いで用意した荷駄に乗せる
「待て、龍之介が・・・ッ!」
「早く引き上げますよ!こっちまでもたもたしてたら、今川に気付かれちまう!」
「だけど、龍之介が!」
微笑んだ顔のまま、俯けに倒れている龍之介を運ぼうと、帰蝶は肩の痛みも忘れて荷駄車から降りようとした
その帰蝶を抑え込み、秀隆は降りようとするのを止める
「出せ!」
「待て、河尻!龍之介がまだ乗ってない!」
「もう手遅れです!」
それでも降りようとする帰蝶の、左の肩を掴む
「離せ!龍之介を置いて行くのかッ?!止めろ!龍之介も連れて帰るんだッ!止めろ!」
「無駄です!龍之介は死にました!」
「止ーめーろォーッ!」
走り出す荷駄車に併走し、秀隆は帰蝶を押える
「龍之介は死んだんだ!」
「龍之介!」
「死んだんだッ!」
「龍之介ぇ          ェッ!」

「あんたが死んだら、俺らの負けなんだッ!死に物狂いでも連れて帰るッ!」

あなた様の歩かれる道に、どんな壁が立ちはだかっているのだろうか
その壁を、どのようにして乗り越えられるのだろうか
それを自分のこの目で、確かめたくなりました

          龍之介・・・」

仕官したい相手が女であることに失望したであろう、それでも、健気に尽くしてくれた龍之介を想い出す
自分を庇って死んだ龍之介を、戦場に置いて来てしまった
悔やんでも、悔やみ切れない

「隊長!」
「今川は、絶対に清洲に近付けさせるなッ!」
帰蝶を乗せた荷駄車を帰還させるため、時親率いる馬廻り衆が殿軍を務める
時親には帰蝶だけではなく、守りたいものがあった
それらの顔を想い浮かべながら刀を振る
数こそ、たかが知れていた
追い着く者を斬り伏せれば、直ぐそこに尾張の地がある
そこに入れば、帰れるのだから
いつもの、見慣れた
伴侶の顔が

ガタガタと忙しない車輪の音が響く
帰蝶を守るため、黒母衣衆が固まりになって併走する
帰蝶の隣では、松風が走っていた
自分は何をやっているのだろう、と、荷駄の上で仰向けになり、流れる空を見上げる
空は何も応えない

          吉法師様

置き去りにした龍之介が、どんどんと遠くなる
荷駄を止める力など、残っていなかった
その現実を突き付けられ、義元に勝った喜びなど消え失せてしまった

          帰蝶は、清洲を守れたかも知れない
だけど、大切な者を失ってしまいました
何かを得るためには、何かを失わなくてはならないのでしょうか

そうだ
それが等価交換だ

等価交換・・・
それを成さねば得られぬ物とは、何でしょうか

それは、お前の目で確かめろ

流れる雲に乗って、信長の声が遠くなったような気がした

「吉法師様・・・」
今の帰蝶にこの空は
とても重いです・・・

目蓋がゆっくり閉じる
意識が少しずつ遠退いた

帰蝶の指示通り、弥三郎の部隊は丹下へ
恒興の部隊は大高方面へ
まだ今川が残っているため、秀隆の采配で赤母衣衆、成政の部隊は太子ヶ根に向わせた
追撃して来る今川の殿(しんがり)を、時親ら馬廻り衆と斯波衆が請け負った
帰陣する織田軍が熱田に入る
ここまで来れば一安心と、馬も車も、人の脚もゆっくりとしたものになった
織田軍が出撃したことを知っている熱田の民は、この乱れ切った軍隊の行進に目を見張り、何事かと遠巻きに眺めて囁き合った
それを見て、帰蝶の代わりに義元の首を持った秀隆が馬の上から叫んだ
「熱田の民よ!駿府の覇者、人の世の大王(おおきみ)、今川治部大輔の首を見よ!」
荷駄車の中で意識を失っている帰蝶には、秀隆の誇らしげな声は聞こえなかった
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どうか安らかに(---)
義元公・・・。
(とっても素敵に描かれていました。奇知に富、人の心の機微に通じ、かつ奢りも、依存もなく、凡人には理解できないであろう王者の気迫。元康君は幸せ者だよ。扱いはどうであれ、身近に凄い事を学べる人がいたんですよ)

信光叔父さん・・・。
(私が読んだ小説の中で一番人間味のある信光様でした。
他の小説では良く言えば知恵がまわり、現実的。悪く言えば利に聡いといった描写が目立っていました。
実はこの小説の中で登場すると、心で拍手喝采していました。人の世の理に通じ、帰蝶を導いてくれた素敵な方でした。もっと賞賛したいですけど、自分の語彙のなさが恨めしい。)


龍之介・・・。
(哀しいけれど、哀しいけれど、彼は満足していた。と、思いたいです。大切な帰蝶を守る事が出来たのですから。きっと亡くなったとしても帰蝶にとって、あなたは心に残る存在だと思います。)

そして蝉丸。
(実は一番その後が気になっていた存在。語られる事なく、大往生を遂げたのか、いやHaruhiさんが貴方の存在を放っておくはずがない、と思っていたら。
さすがです、最期まで帰蝶の戦友として、彼女を支えて逝った彼。読んでて落涙しました。)

あまりにも魅力的な存在の方々。
今となってはあなた方の魂が安らかである事を心から祈っております。

長くなって失礼しました。
(・0<)

胡蝶の夢 2009/12/02(Wed)20:26:33 編集
こんばんは
>義元公・・・。

なんだかまだ足りないな、と想いつつも、あのように扱ってしまいました
余りにも人物像が大き過ぎる方なので、下手に飾り立てては大袈裟に感じるし、かと言って現代に伝わる『偽の義元像』だけは、絶対に採用したくなかった
自分の(ちっちゃい)プライドに賭けて

>扱いはどうであれ、身近に凄い事を学べる人がいたんですよ

人質に教育を施すなど、義元は本当に大きな人物だと想います
義元が兄を弔うために建てた菩提寺で、家康は太原雪斎から教育を受けていたのだそうです

>信光叔父さん・・・。

小説家の書いたものにまで登場しているとは、知りませんでした
だったらもうちょっと出番増やした方が良かったかな(苦笑
信長が濃姫を娶る時、動いたのは林政秀だけのような印象がありますが、実は織田側では多くの人間が帰蝶姫をもらうために動いていたのだそうです
織田はどうしてもこの政略を成功させたかったのですね
政秀以外に動いた人物では、この信光と、作品内で共に戦死したことにしている秀敏の二人が上げられるそうです
信光は信秀がまだ道三と争っている最中に、既に斎藤と通じていたそうですし、帰蝶姫が嫁いだ後も信長の状況を道三に報告していたのは秀敏だそうです

>実はこの小説の中で登場すると、心で拍手喝采していました。

そうだったのですか、ありがとうございます
だから叔父上の言葉を、覚えててくださったんですね・・・
書いた私が「え?そんなセリフあったっけ」などと言う無様なことも(暴露してしまいました

>人の世の理に通じ、帰蝶を導いてくれた素敵な方でした。

本当に
世間知らずな帰蝶を、よく導いてくれたと思います
帰蝶はきっと、叔父上の残した言葉を忠実に守ってくれると思います

>もっと賞賛したいですけど

思い付いた時でも構いません
信光が語った言葉はこれからも、時々出て来るでしょうし・・・と期待させておいて、私が忘れていたら謝罪では済みませんが・・・
私は言葉の後付、付け足しが得意です(笑

>龍之介・・・。
>きっと亡くなったとしても帰蝶にとって、あなたは心に残る存在だと思います。

次のものを書いている最中ですが、信長同様、龍之介も叔父上も、残した言の葉が帰蝶の歩む人生に軌跡を残すでしょう
そして、良くも悪くも、龍之介の死が帰蝶を変えてしまう部分があります
それはまだ今の段階では形となって現れはしませんが、どう言ったことで龍之介の死が出て来るか、どうか楽しみに待っていてください
多分、龍之介は悲しむかも・・・知れません

>そして蝉丸。
>語られる事なく、大往生を遂げたのか

すみません
たまに存在を忘れてました(汗
更新した後で、「あー、今回も蝉丸の出番なしだなぁ・・・」と後悔したこと頻り
信長が死んだ後、帰蝶は休む間もなく織田の総括に取り掛からなくてはならなかったし、帰命の妊娠も発覚しましたし、毎日が忙しかった
周りにも人が増え、いつしか蝉丸の世話もできなくなるくらい・・・
そう言った描写を書けば良かったんですが、力量不足でした
反省中・・・

>あまりにも魅力的な存在の方々。

余り誉めないでくださいね(苦笑
図に乗りやすい性質なので、私・・・

>今となってはあなた方の魂が安らかである事を心から祈っております。

私も、悪戯に彼らの人生を歪ませております
願わくば、現在に伝わる彼らの間違えた人物像が、いつか正しい道に向う事を祈りながら、これからも精進していく所存です

>(・0<)

ご自分を殴ってらしゃるのかと、そう見えて、一瞬焦りました^^;
Haruhi 【2009/12/03 00:14】
小休止   *HOME*   62. 男たち
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます

先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い

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祝:お濃さま出演 But模擬専…     (戦国無双3)


おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙

(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見


転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。

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吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です

今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
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何よりボトルがどれも美しい

清洲桜醸造株式会社公式サイト

濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます

清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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