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死に別れた夫は何れも、自分への愛情の薄い男達ばかりだった
初めの夫の家は、実家とも取引のある米問屋でも、大店の家だった
どこで自分を見初めたかは知らないが、実家が借りた借金の形にお七を欲しがり、親は自分を差し出した
それでも、幸せにしてくれるのならと、お七は黙って従った
だが夫は、自分を貰い受ける前から縁のあった愛人の家で、その愛人の間男に縊り殺され、自分は未亡人になった
夫との間には男の子が一人生まれていた
その子は将来の跡取りとして、嫁いだ先の家が大事にしてくれた
代わりに自分は、嫁いだ店の得意先であった美濃の、土田の家臣の家にやられた
二番目の夫は小さい家を大きくすることに躍起になっており、主家に気に入られ『土田』の姓名をもらうまでになった
だが、忙しさに感けて、自分を愛してくれる暇などなかった
その夫も斎藤との争いで戦死し、生まれていた子供はやはり跡取りとして取り上げられそうになったのを、お七は慌てて子供を連れ、実家に逃げ帰った
二人の夫は自分を愛してはくれなかった
最初の夫は、初めの頃こそ大事にはしてくれた
だがいつの間にか、自分の立場が愛人のそれと取って代わっていた
二番目の夫は家庭を顧みない男だった
いつも背中だけを自分に向けていた
だから・・・
時親の、自分を撫でてくれる手の平の温もりに、愛情を見付けたかった
この人が喜んでくれるのなら、と、凡そ今まで出来もしなかった体位も取れた
死ぬほど恥しい様も、曝け出せた
口での奉仕すら、厭わなかった
この人が喜んでくれるのなら
微笑み掛けてくれるのなら
自分の詰まらない矜持など、溝にでも捨てれる
そう、想っていた
「また、お越し下さいませ」
油を一升買った時親を、店の外まで見送る
「すまない。今日は暇がなくて、ゆっくりもできず」
「いいえ」
お七の、時親を見詰める目は、愛しい男を労わる優しい目だった
「休暇が取れたら、どこか美味い物でも食いに行こう」
「はい、楽しみにしております」
この頃には、二人の関係も深いものになっていた
目配せだけで会話ができるほど
その時親を、配達先の小牧で見掛けた
胸が躍り、お七は慌てて後を追った
だが、男の脚には勝てず、とうとう小牧の村の入り口まで辿り着く
村人だろう、年配の男と楽しげに会話し、それがしばらく続いた後で時親は村の中に入り、会話の相手はこちらに向かって歩いて来る
お七は意を決して声を掛けた
「あ、あの・・・!」
「平三郎さんかい?ああ、あの人はこの村でも一番の出世頭さぁ。お嬢さん、知り合いかい?」
「いえ、声を掛けて人違いでしたら恥しいと想いまして。あの・・・、もしやあの方は長谷川様のご家臣か何かで?」
長谷川とは、この辺りの豪族の名前だった
お七は当たり障りのない名前を出した
「いいや。平三郎さんは、清洲織田の家臣だよ」
「 」
どうしてだろう
騙されたと言うのに、お七には時親を責める気にはなれなかった
時親が何かの目的あって自分に近付いたことは、聞かなくともわかった
それでも、自分を見詰める眼差しの優しさに、心が絆される
「最近、美濃でも変わった様子とかはないか?」
「 どうして・・・?」
茶屋の部屋で肌を寄せ合うその光景の中で、この会話は相応しくなかった
「いや、もし戦の風潮でもあれば、大変だと想ってな」
わかっているのに
この男が、自分から美濃の情報を欲しがっていることなど
美濃、ではなく、正しくは『斎藤』の情報を欲しがっている
争っている相手なのだから
わかっている
わかっているのに、お七は時親の役に立ちたい一心でこう告げた
「織田の家督騒動で、嫌な噂を流してる、って・・・聞いた」
「どんな噂だ?」
「 ご長男に、織田を継ぐ資格も資質もない、って・・・」
「そんな噂が。誰が流している?」
「・・・・・・わからない」
「誰だろうな」
「それと・・・」
「何だ?」
「斎藤が、織田の戦に茶々を入れたがってる、て・・・」
「茶々?織田の戦に?」
「それ以上は、わからない・・・」
「そうか」
「 」
難しいことを考えているだろう、その横顔の凛々しさ
口唇にそっと触れてみる
時親は自分の指を優しく、ぎゅっと握ってくれた
それだけで、騙されている罪など許してしまう
愛しているから
愛されたいから
時親が清洲織田の家臣だと言うことは知っている
名前も、知っている
ただ、時親の姓名が『土田』だと言うことだけは、知らなかった
それでもお七は『清洲織田の平三郎時親』を頼りに、清洲までやって来た
探してどうなるのか
その先はまだ、考えていない
向うから逢いに来るだけの一方的な関係から、互いに通い合う間柄になりたかった、ただそれだけのささやかな望みを胸に抱き、清洲にまでやって来た
身形から、武家長屋で暮らすような下級武士ではないことだけはわかる
かと言って、上級武士が態々密偵のような真似をする筈がない
お七は宛てのない広い清洲の町を、中流家庭の集まる場所に重点を置き、時親の姿を探した
もしも入れ違いで時親が店に来ていたら、どうしよう
今日は逢えない淋しさと不安に頭がぼんやりとし、それでもお七は時親の家を探し歩いた
ただ逢いたい一心で
「平三郎時親さんてお宅を探してるんですけど」
道ゆく町人にも聞いてみた
下の名前だけではわからないと言われ続け、それでもお七は時親の家を探し歩いた
日が傾き、夕暮れがそこまでやって来る頃
「ああ、もしかして土田の旦那様のことですか?織田の馬周り衆筆頭の」
「え・・・?」
時親の名字は、土田と言うのか
それも、馬廻り衆筆頭と言われ、そんな上級武士だったとは想いもしなかった
「あの・・・っ、お宅はどちらに・・・?」
「この先に大きなお屋敷が並んだ大通りがありましてね、そこを入って三軒目の曲がり角を右に折れ、しばらく歩いたら大きな桜の木が見えますよ。それが目印です」
「あ、ありがとうございます・・・!」
お七は教えてくれた町民に大きく頭を下げ、その道を急いだ
逢える
逢える
あの人に逢える
頬は喜びで緩み、目からは嬉し涙が滲みそうになった
小走りに駆ける脚が曲がり角を急ぎ、目印でもある桜の木を探した
そして
「おかえりなさい」
玄関の門に出た、綺麗な女の姿にお七の意識がぼやけた
どうしてだろう、お七は咄嗟に身を隠し、壁に背中を押し付けた
「今日は早かったんですね」
「犬山が動き出したと情 」
時親の声が遠ざかる
言葉の受け答えから考えて、相手は『妻』と見て間違いはなかった
つまり、時親は妻帯者だったと言うことである
この現実にお七の目は驚きに見開かれ、全身からは汗が小さく吹き出、頭が締め付けられるような軽い痛みと、耳に響く自身の鼓動の音が煩く、血管の中を流れる血が温かさを失って行くのを実感した
騙されていた
時親は織田の家臣で、斎藤の情報を得るため自分に近付き、妻が居る身でありながら自分を抱いた
騙されていたのに
それでも、時親が好きだと言う気持ちまでは止められなかった
「今日は何を食おうか」
何事もなかったかのように、自分に微笑んでくれる
「鴨鍋・・・」
値が張るのを承知で言ってみた
ほんの少しでも嫌ってくれたら
自分の気持ちも、少しは楽になれるだろうか
ただそれだけで言ってみた
「鴨か。そうだな」
だけど時親は、嫌な顔一つせず自分の願いを聞き届けてくれる
別に鴨が食べたいわけではないのに
別れ際の情交に、ただ身を焦がす
時親は自分の肌をいつものように愛してくれた
温かい掌を擦り付けるように肌を撫で、乳房を掴み、自分を喜ばせてくれる
何度も何度も口付けてくれる
どうして私は幸せになれないの
どうしてあなたには妻が居るの
どうしてもっと早く逢えなかったの
もっともっと早く逢えていたら、あなたの隣に居るのは私で、あなたの帰りを出迎えることができたのに
「実家が多額の借金を背負ってしまって・・・」
ある時お七は、そう言ってみた
試すのではなく、自分から切り出せない時親との別れを示唆するために
「油の仕入れが上手く行かなくて、馬貸しの商売も始めたのだけど、それも上手く行かなくて・・・」
「そうか」
「資金繰りに詰まったら、どうしよう・・・」
時親との別れ、その不安がお七の顔を曇らせる
それが時親には実家を心配している顔に見えた
「殿に相談してみよう。他からも借りれるかどうか、頼んでみる」
「平三郎様・・・・・・・・・・・・」
どうして
自分は情報を得るためだけの存在のはずなのに、どうして
その数日後、時親は織田から金を借りて来たと店に現れた
「主家だけじゃ間に合わなかったので、織田家の力も借りた」
「 」
嘘吐き
そう、心の中で小さく呟く
主家が織田じゃないの、と、言ってやりたかった
だけど、言えなかった
やっぱり、離れたくないから
その温かい掌を失いたくなかったから
自分に微笑み掛けてくれる仕草を失いたくなかったから
時親を繋ぎ止めるために、お七は女の武器を最大限に発揮させた
そのお陰で、時親は逢えばいつも肌を求めた
繋がっている間だけは、時親を独占している気分になれた
自分に逢うのは任務だろう
だけど、自分を抱くのは時親の意思だろうと想いたかった
気の迷いか
一度だけ、時親は果てる寸前に小さく呟いたことがあった
「愛してる」
二番目の夫の主家であった可児の土田家が、織田に転んだと噂に聞いた
それから時親が店に現れなくなった
月の物が来なくなったと告げる前に、時親は姿を消した
自分は捨てられたのだと、誰に聞かずともお七にはわかっていた
だから、怖くて時親の屋敷には行けなかった
時親の妻が玄関に立つ光景を想い浮かべるのが、怖かった
お前は必要ないと言われるのが怖かった
だから、知っている筈の時親の屋敷には、行けなかった
二人で過ごした日々が仮初のものだったことを想い知らされるのが、怖かった
お腹には時親の子だけが残った
「しばらく振りの里帰りは、どうだった」
局処で漸く脚を伸ばすことができたのは、清洲に戻り、慶次郎が祝言の準備で当分休むと言って来た三月のことだった
帰蝶に連れられ清洲に戻った巴が側に居る
「はい。慣れない外交に、毎日がバタバタと慌しく。でも、七左衛門殿が良く助けてくださったので、何とか」
「お前の手腕も大した物だ。首尾良く周辺の豪族を押えてくれたな」
「いいえ、それも七左衛門殿が、木造家と上手く連携を取ってくださったお陰です」
「そうか」
気の所為か
巴が義政を随分と誉める
特別な感情を持って誉めているようにも聞こえた
巴も側室に入って二年
そろそろ『女としての人生』を歩ませるべきか、とも考える
そんな折、帰って直ぐ包囲させている岩倉の陣頭指揮をしている時親が、局処を訪問した
「岩倉が動いたか?」
「相変わらずのだんまりです」
「兵糧の具合はどうだ」
「そろそろ尽きる頃かと想います。城から何人かの逃亡者が出ました」
「ではもうしばらく張ってもらえるか。できる限り戦は起したくない」
「奥方様が出られたら、その辺り中血の海になりそうですものね」
「なつ・・・!」
痛い皮肉を言うなつを、帰蝶は顔を赤らめて睨んだ
そんな二人の遣り取りに巴や他の侍女は笑う
「報告は以上か?」
「あ、はい。ええと、それから」
「どうした。ないのなら現場に戻って権の指示を仰げ」
「奥方様」
「何だ」
「いや・・・、その・・・」
いい年齢になっている時親の、落ち着かない様子に首を傾げる
「何かあったか?」
「あの、事後報告で大変申し訳ないのですが・・・」
時親が何に対して顔を赤くしているのか、話を聞いて漸く理解した
「産まれた?」
「と言いますか、産まれてました、と言うべきか・・・」
お能が今年の初めに第五子を生んでいたと、今頃になって報告する
「どうして言わなかった」
「鈴鹿遠征でバタバタしておりましたから、私情を持ち込むのは良くないとお能からも言われてまして、頃合を見計らってお伝えしようかと想っていたのですが・・・。ですがお能からいつまで黙っているつもりだ、と言われまして・・・」
「当然だろう?お能は私の大事な侍女だ。そのお能の出産を祝えないだなんて、こんな屈辱があって良い筈がない」
「申し訳ございません。いつ言おうか悩んだのですが、とうとう言い出す機会を見失い、お能からも好い加減にしろと言われまして」
「当たり前だ」
かかかと笑う帰蝶に釣られ、巴も侍女達も笑い出す
「それで、女か?男か?」
「女です」
「そうか、二男三女になったのだな。家もさぞかし賑やかだろう?」
「ええ、お陰様で」
「名前は?なんと付けた」
「はい。徳子(とくこ)と名付けました」
「徳子?」
その名を聞いて、帰蝶はキョトンとする
「徳子って」
「はい、お菊さんの、姉上様のお名前を拝借しました」
菊子の姉の徳子は、元々は斎藤家で働く侍女だった
その徳子が嫁に行くことになったので、代わりに菊子が稲葉山城に上がったのだ
「以前のお能の同僚だとかで」
「ああ、随分仲が良かったらしい。お能もその後直ぐ嫁に行き、別れ別れにはなったが、な」
「それで、お能も懐かしがっているようでしたので、私もその名で良いかと想いまして」
「そうか。ん?と言うことは、弥三郎や菊子にもまだ伝えてないのか?」
「あ・・・、そうでした、まだ言ってませんでした」
うっかりしたと言いたげに、時親は自分でも驚き目を丸めた
「菊子は兎も角、弟である弥三郎には先に伝えねばならんだろう?さちはどうした」
「さちにも、まだ・・・」
「本当にバタバタしていたのだな、平三郎は」
「なんせ初めての遠征だったものですから、準備に余念がなかったと言いましょうか、なんと言いましょうか・・・」
「実際行くのに一ヶ月はあったのに、お前は何をしていたんだ」
と、帰蝶は苦笑いした
そんな帰蝶に、時親は再びうっかりと
「徳子の襁褓を換えておりました」
と、莫迦正直に話す
一瞬、部屋がしーんと静まり返った
時親が弟達に報告に行くと言うので、帰蝶はさちが台所から戻ったら知らせてやると約束して見送った
「え?産まれてたの?」
聞かされた弥三郎はポカンとなった
「すまん」
「まぁ、兄貴のとこは五人目だから、態々報告ってこともないだろうし。てゆうか、俺もすっかり忘れてた」
「忘れてんなよ」
兄弟として二人きりになるのは、久し振りだろうか
「年明け?」
「いや、中旬だな」
「うわ、想いっ切り忙しい最中じゃねーか」
「そうだなぁ・・・」
「それじゃぁ報告が遅くなるのもわかるわ」
「わかってくれるか」
弟よ、と、時親は感涙に咽る
「お能さんが臨月だったら、家にも帰れないわな」
「お陰で、弥三郎の家族は毎年帰って来るのに、お前は音沙汰なしかと父さんから嫌味の手紙が届いたよ」
「ははは、そりゃしょうがねぇ。親父達も良い年になってるんだ。孫の顔も見たいのに、お能さんが動けないからって帰らなかったんだからさ。でも、臨月だったってのはこっちもうっかりしてたな。お能さん、早い目に産休取っちゃったからね、あの当時で妊娠何ヶ月だったのかなんて、お菊も知らなかったからさ」
「そうか」
穏やかな春の日差しが直ぐそこまで近付く、穏やかな昼下がりのことだった
武家屋敷の集まるその住宅街に、大工の槌の音が響く
可成がこの近くに屋敷を構えることになったためである
生活が安定し、また、老いた父を引き取っているため、節約のためにと借りていた武家長屋では手狭になったからだった
去年生まれた次男も伝え歩きを始めるようになり、土間が剥き出しになっている長屋では危険も付き物になる
「森さんのお宅も、もうそろそろ完成するかしら」
「桜が咲くまでには、なんとかしたいと仰ってましたね」
腕には生まれたばかりの徳子を抱き、お能は産休がまだ明けず、屋敷で使用人の老婆を相手に茶を楽しんでいた
夫も馬廻り衆として能力を発揮し、少しずつでも知行が上がって来た
斯波衆を束ねた手腕を、帰蝶が深く買ってくれていることにも感謝する
山名での働きも評価された
全てが順風満帆に進んでいる頃、屋敷に一人の女が訪れた
「どなた様で?」
玄関に出た使用人の老婆が尋ねる
「こちら、土田平三郎時親様のご自宅で、間違いありませんか」
「はい、左様でございますが。あの?」
「旦那様か、奥方様はご在宅でしょうか」
「あなた様は?」
「私は」
お七は大きな覚悟を持って告げた
「丹羽郷小折の油問屋、生駒屋の娘でお七、と申します」
「生駒屋の」
「ご主人様に御用があって、お伺いしました」
「奥様!奥様ぁー!」
「どうしたの、慌てて。まさか、旦那様に何かあったの?」
「おっ、お客様が・・・!」
「え?」
使用人の言葉に、お能は目を丸くした
授乳期、女の乳房は大きく膨らむ
病死した子を含めると、お能はこれで六人の子を産んでいた
武家出身ではないお能は、何れもその乳房で育てた
自分の乳首を含み、命を紡ぐため一生懸命母乳を吸っている徳子の頬を、つんと突付く
乳を吸うことに夢中な徳子は、母の悪戯など気にも留めず、相変わらず口唇を動かしていた
長男の坊丸は大きく育ち、次男の勝丸も物事がわかる年齢になっているため、授乳の時は別室に行かせている
那古野で生まれた那生も、母の手伝いができるくらいには大きくなっていた
それまで末娘だった花も、妹の誕生にすっかり姉らしくなった
その花が、母の空いている方の乳房から溢れる乳が零れないよう、小さな手に手拭いの晒しを持ち、押えていた
脳裏に浮かぶいつものその光景が、遠く感じる
「土田殿。清洲から呼び出しですぞ」
勝家の補佐に入っていた信盛にそう言われ、時親は慌てて城に戻った
戻ると龍之介から局処に行くようにと告げられた
滅多に行くことのなかった場所なので、呼び出されることもそうだが、俄に嫌な緊張感が時親を襲った
「土田殿」
帰蝶の部屋の前でなつと局処侍女が自分を出迎えた
「何かありましたか」
部屋の中から激しく泣く女の声が聞こえる
妻に似た声だな、と、この時の時親は悠長なことを考えていた
「兎に角、中へ」
なつの表情も、どこか強張っているのが気に掛かる
侍女が開けた襖の向こうに、泣き伏せている妻の姿が見えた
それと同時に、お七の姿もあった
腕に赤子を抱いたお七が、自分を見付けて微笑んだ
どうして、と言う想いが、頭を過った
「兎に角、これは当事者同士である三人で話し合ってはどうだ」
帰蝶にしても、時親に隠し子が居て、突然その母親が赤子を連れて乗り込んで来たとしても、対処できるものではなかった
自分が時親に生駒屋内偵を命令したのだから、時親だけを責めることはできず、かと言って容認してしまえばお能を傷付けることになる
帰蝶は自分の部屋を貸すから、そこで今後のことについて話し合うよう薦めたのだが、お能は興奮の余り泣き喚き落ち着きが取り戻せないで居た
こんな時には、と、市弥がお能の相手を買って出る
その間に時親とお七で話し合うよう、最終的には帰蝶が命令を下した
どうして
そう、頭の中で同じ言葉がぐるぐると駆け回るのに、それを口にすることができない
現実を認めるのが怖かった
「平三郎様。お逢いしたかったです」
お七は相変わらず優しい笑顔を向ける
それが寧ろ怖かった
「あなたの子供です。一度だけでも良いです。抱いてやってくれませんか?」
と、お七は腕の中の赤ん坊を差し出した
だが時親は、手を伸ばすことができない
「いつ・・・」
「去年です」
「一人で産んだのか・・・?」
「はい」
誉めてください、とでも言いたげに、お七は誇らしげに微笑んだ
「一人で育てているのか・・・?」
「はい」
前夫との間にできた子も、お七が引き取って育てている
その養育費を稼ぐために、自分の実家の店で働いているのだから、それを知らないわけではなかった
「どうして・・・」
どうして今頃、ここに来た
そう言いたくて仕方がない顔をする時親に、それでもお七は穏やかな微笑みで応えた
「一度だけで良いんです。どうしても、この子をあなたに抱いてもらいたくて」
淋しかったの、と、言葉を飲み込む
本当は淋しくて、あなたの掌が懐かしくて、ただ、逢いたくて
「平次、って言うんです」
「平次・・・」
「平三郎様の平に、次ぎと書いて平次。どうですか?おかしな名前ですか?」
「 」
時親には応えられなかった
武家の子なら、大抵は『丸』が付いてもおかしくないよう、名前に工夫がされている
お能が産んだ自分の子は『坊丸』、『勝丸』、帰蝶の子は『帰命丸』
だが、お七の産んだ子は自分が認知したわけではないため、『丸』の付く名前を与えられなかったのだろう
時親はとんだ落し物をしてしまったと、改めて後悔した
「すまない」
「謝ってくれなんて、私、言ってません。ただ、この子をあなたに」
「許してくれ・・・!」
「 ッ」
ガバッと土下座をする時親に、お七の目が悲しみの色に染まった
「 聞きました。平三郎様の奥様、ここの局長なんですってね」
「 」
「私、お城の局処なんて良く知らないけど、局長って偉いんですよね」
時親は何も応えず、土下座したまま黙って聞いていた
「私とは、全然違う 」
「肩書きで、妻を選んだわけじゃない」
「 」
今度はお七が黙り込んだ
わかっていた
自分のことは、ほんの気の迷いだったのだと言うことは
知っていた
だけど、否定したかった
だけど、時親が妻を愛していないわけではないことも、今、知った
だけど、自分の気持ちを抑えられるほど、軽い想いでもないことも、時親に知って欲しかった
「 私・・・」
ずっと頭を下げたまま、自分を見ようとしない時親に小さな声で呟く
「ごめんなさい・・・。あなたの家庭に、波風を立てたくて来たんじゃありません・・・。だけど・・・。叱られるってわかってても、嫌われるってわかってても、それでも私 」
お七の声が震えている
時親はそっと、頭を上げた
「あなたに、逢いたかったの・・・・・・・・・・」
ほろり、と、お七の優しい微笑みから、涙が滴っていた
「お七・・・・・・・・・・」
「少しだけ顔を見たら満足しよう、って。一目この子を見てもらったら、帰ろう、って、想ってたの。でも、あなたの奥様を見たら、どうしてかしら、自分だけこんな想いをしてるのが惨めになって、あなたに嫌われるってわかってた、けど ッ」
ぽろり、ぽろりと涙が零れ、ぽろり、ぽろりと想いが零れた
「それでも、逢いたかった・・・・・・・・・・」
「 ッ」
時親の腰が浮く
そのまま感情に流され、お七を抱き締めてしまいそうな自分の心に、必死で歯止めを利かせる
そんな二人の間で、平次が俄に泣き出した
「ああ、どうしたの。お腹空いたの?ごめんね、放っておいて」
お七は必死で笑顔を浮かべ、慌てて涙を掌で拭いながら、着ている小袖の胸を開いた
見慣れた、柔らかそうな肌が曝け出す
平次は与えられたお七の乳首を咥え、乳を吸う
家でもお能と徳子で見た光景だった
我が子に乳を与える母の姿ほど、美しく慈愛に満ちた光景はない
「美味しい?良かったね。いっぱいお飲み」
優しく平次に微笑み掛ける
「いつ・・・」
「え?」
「私のことを、いつ知った・・・」
お七の乳を咥えている平次をぼんやりと眺めながら、時親は聞いた
「私の屋敷を、いつ知った・・・」
「この子ができる、少し前・・・」
「ずっと、黙って・・・」
「知ってた。あなたが私に近付いたのは、美濃の、斎藤の情報を知りたいからだ、て・・・」
「それで、ずっと・・・」
「あなたに逢いたいから、黙ってた・・・」
「 」
騙されていることを知りながら、お七は自分と逢い、騙している自分に肌を許し、こんな自分に斎藤や美濃の情報を寄せてくれていたのか、と、時親の目頭も熱くなった
「すまない・・・。ずっと騙してて・・・」
「ううん」
やがて、平次が腹を満たしてお七の乳首を離した
「だってあなた、私のこと、愛してくれたもの」
いつも見せていた朗らかな笑顔がそこにあった
「それは」
「わかってる!あなたが愛してるのは奥様だけで、私はただの 」
その先が言えない
自分で認めるのが嫌だった
「それでも、嬉しかった・・・。私に逢いに、店に来てくれるあなたの姿を見てるだけで、私は幸せだった。それ以上を望んじゃいけないって、わかってる。だけど、あなたに逢いたい気持ちは殺せなかったッ!」
「 ッ」
「泣いていても、何も変わらない。泣き止んで、現実を見詰め、それから、自分がどうしたいのか考えなければ、何も変わらない」
そう、市弥に励まされ、お能も漸く落ち着き始めた
頃合を見計らって、帰蝶が入って来る
「どうだ?少しは気が済んだか?」
ここのところ、時々帰蝶は昔の、男言葉に戻ることが多かった
だが、帰蝶の男言葉を聞き慣れているお能には、特におかしな風にも想えない
「平三郎に隠し子が居たのは、本人ですら知らなかった様子だ。責めるのは易い。だが、子供は生まれてしまったんだ。あの子をどうするか話し合うのが、義務だろう?」
「奥方様・・・」
「すまない。平三郎に生駒屋内偵を命令したのは、私だ。二人が深い関係になるなど、私には想像できなかった。普段の平三郎の言動を考えても、尚更な」
「それは、私も・・・。だから余計信じられなくて・・・」
「だが、平三郎と生駒屋の娘の間に子が生まれたのは事実だ。身分を隠して内偵していた平三郎の身元を知っていると言うことは、それが平三郎の子であることの何よりの証拠になる。父親でもない男の自宅を調べるなど、普通はやらない」
「 」
そうだろうな、と、帰蝶らしい合理的な考えに、お能は反論しなかった
「つらいかも知れん。だが、夫の不始末を見届けるのもまた、妻の役目だ。男と女の間のことは、私はまだ勉強不足で良くわからん。だが、はっきりしていることは一つだけある」
「 なんですか・・・?」
お能は涙でボロボロになった顔を帰蝶に向けた
そのお能に、帰蝶は真面目な顔をして言い放つ
「もしもこれが吉法師様だったら、私は間違いなく、兼定を振り回して追い駆けるだろう」
「 」
帰蝶なら本当にそうやりかねんと、お能も市弥もなつも一瞬黙り込み、それから大笑いした
「なっ、何がおかしい!」
笑われて、帰蝶は怒りで顔を赤くする
「それだけ私は吉法師様を愛しているのだ!何を笑うかッ」
「はいはい、奥方様が若を深ぁーく愛しているのは、存じてます。ですが今は、ご自身の惚気話を聞かせる場合ではございませんでしょう?」
「う・・・、うむ・・・」
起きた笑いがやがて収まる
「平三郎が子をどうしたいのか決まれば、それに従うしかない。それはつらい現実かもわからんが、受け止めるのもまた、妻の役目だ。お能」
「・・・はい」
「お前は武家の妻だ。市井の感情で物事を計ってはならん。悔しいだろうが、平三郎の尻拭いを頼む」
「 はい」
潔癖症の夫が、外で愛人を作っていたなど気付きもしなかった
しかも内偵に入っていた店の娘で、しかも帰蝶が探るよう注意していた人物で・・・
『内偵』と言うものがどう言うものなのかわからないお能には、夫はそうでもしなければ情報を得ることができなかったのだろうかとも、想った
その行き着く先に、お七が居たのだろうか
自分の何が足りずに、夫はお七に走ったのか、お能にはわからなかった
「どうして私は、あなたと一緒になれないの・・・?」
それで現実が変わるとは想っていないが、それでもお七は自分の想いを打ち明けた
それは相当の勇気が要ることだった
「私には、妻が居る・・・。子供も居る・・・」
「どうしてあなたは、家庭がある身で私を抱いたの・・・?」
「申し訳ない・・・」
静かな声で自分を責めるお七に、時親は再び土下座をした
こんなことをして赦されるとは想っていない
生まれた子供が消えるわけでもない
それでも、頭を下げるしか想い付かなかった
「どうしてこの子を抱いてくれないの?認めるのが怖いの?認めたくないの?」
「それは・・・」
「私は、どうでも良かったの・・・?」
「違うッ!」
自分の存在を拒んだ言葉に、時親が即座に否定の声を上げた
それが、唯一の救いになった
「私は・・・。お前の言うように、斎藤の情報を得るため、お前に近付いた・・・。それは 」
「可児の土田の家臣の妻だったから」
「 」
時親は黙って頷いた
「あなたも、土田、って言うのね。親戚?」
「お前の夫が仕えていた土田は、元々は私の血脈だった。祖父の代の時、一門であった親族に家を乗っ取られた」
「そんな・・・」
「特に変わったことではない。力なき者は淘汰され、家臣に組み込まれるか、家を追い出されるのが習わしだ。家を追い出され、祖父はまだ若い父を連れ美濃を出て、尾張を彷徨った。だが、安住の地を得る前に祖父は行き倒れ、父は母に拾われた。私はこの尾張で生まれた。家の騒動など知らずに育った。だから、土田家に対してこれと言った感情は持ってなかった。ただ 」
「ただ・・・?」
「お前の境遇を聞き、同情したのは事実だ」
「同情で、私を抱いたの・・・・・?」
それが理由かと、お七の肩からがっくりと力が抜けた
「違う」
「どう違うの・・・!」
「お前と居ると、心が落ち着いた。安らげた」
「 」
時親の言葉に、お七は目を見開いた
「どうしてなのか、わからない。だが、いくらでも責めてくれて良い。私がお前を逃げ場にしていたのは事実だ。言い訳のしようがない」
「平三郎様・・・・・・・・・」
「愛しているか、どうか、それはわからない。好きなだけ詰ってくれて良い。だけど・・・」
土下座をしていた時親が、そっと顔を上げ呟く
「お前と居ると、肩肘を張らずに済んだ。気持ちが楽で居られた」
時親の瞳から、一滴、涙が零れた
その涙を嘘だとは、想いたくなかった
時親が、そっと手を伸ばす
お七もそっと、息子を抱いた腕を差し出した
「平次、か・・・」
「やっぱり、おかしい・・・?」
「いいや」
何も知らず
自分の出生も、今はまだ父親も知らぬ無垢な赤子は、時親の腕の中で、血の繋がった父を見上げ、穢れのない笑顔を見せた
「お前に似ている。愛らしい子だ」
「平三郎様・・・」
「奥方様」
廊下から龍之介が帰蝶を呼ぶ
「 そうか。向うは話が済んだか」
「奥方様・・・」
お能が不安げな顔を向けた
「お能。お前のその両の目で、現実を見詰めろ。私のように、逃げてはいけない」
「奥方様・・・」
「平三郎の出した結論を、しっかりと見届けろ」
「 」
時親は、お七と平次を引き取りたいと言った
勿論心情的にお能と同じ屋敷で暮らすことは選ばないが、この清洲にお七親子の住む家を建てたいと言い出した
お能は夫の申し出に再び泣き崩れた
「夫は武家、妻は庶民。身分の違いと言うのは、時にはこのような悲劇も招くのですね」
なつがぽつりと呟いた
「私達武家は、夫が黙って愛人を囲うことさえしなければ、何人側室を持とうが自由にさせられますが、お能は元々そう言った教育を受けれる家庭に育ったわけではないから、尚更心に堪えるでしょうね」
「そうだな。側室と言っても、その殆どが外交、つまりは政略の末の結果だ。正室が側室に対して嫉妬を覚えると言うのは稀だが、お能の場合はこれには当て嵌まらんからな、尚更つらいだろう」
「奥方様」
「何だ?」
「言葉遣い」
「ん?」
「男言葉になっております」
「そうか? あ」
意識すると、確かに男言葉になっていると気付く
「京で、何かございましたか?あるいは、鈴鹿で」
「 いや。私自身、考えねばならんことがたくさんあった」
「どう言った?」
「女のままでは、いけないと言うことを」
「女のままでは?」
「女を捨てる覚悟で居なければ、自分の想う夢も理想も語れない。そう、想った」
「何故。女のままでは、いけないのですか?」
「いけない、と言うか、無理だと言うことか」
「どうしてですか」
「女は弱い。女は脆い。しかし、女は男よりも強い部分もある。だが、その強い部分を男は決して認めないだろう。私が男を超越しない限り、今居る家臣らは従ってくれても、新しい、そうだな、例えば旧斯波家の家臣らはそっぽを向くだろう。そう、想った」
「何かあったのですか?」
「 」
妙覚寺の表座敷で、全員から休息を取るように迫られた
もしも自分が男なら、誰も強行に躰を休ませようとはしなかっただろう
そう想った
女の身だからこそ、あれほどまでに動くことを反対したのだろう、と、そう想った
「いや。少しだけ、吉法師様の真似をしたくなった。恋しいのだろうな」
苦笑いする帰蝶を、なつは心の中で嘆く
また、無理をしている、と
近過ぎてはお能の癪に障る
遠過ぎては平次の様子を見るのに不便が生じる
また、近所の手前もあるので、お七の家は清洲の商店街を挟んだ向こう側に建てることにした
お能は最後まで承知はしなかった
反対もしなかった
時親とは、口も利かなくなった
明るく朗らかだったお能が、自分の殻に閉じ籠ってしまった
それは自分の罪だと、時親は感じていた
いつも居るその部屋から、徳子の、火が付いたような悲鳴にも近い泣き声が聞こえる
時親は慌てて母子の居る部屋に走った
「どうした」
「あ・・・、旦那様・・・」
見れば、泣き止まぬ徳子を抱いて困憊している使用人の老婆と、徳子から顔を逸らして蹲り、耳を塞いで小さく丸まっているお能の姿があった
「どうした、お能。何があった」
応えそうにもない妻の代わりに、老婆に事情を聞く
「それが・・・。奥様、お嬢様に乳を与えてくださらないので・・・」
「何?」
「今日はずっと重湯で誤魔化していたのですが、それももう限界で・・・。お嬢様は母上様のおっぱいが飲みたいのです。ですのに、奥様は・・・」
「嫌よ!」
お能が突然叫ぶ
「お能」
「その子にあげる乳なんかないわ!」
「何を言ってる、お能!徳子はお前の娘だろう?娘が死んでしまっても良いのか?」
「だったら、あの女の乳をもらえば良いでしょうッ?!」
「お能・・・」
いつも優しく、朗らかで、凡そ怒るなど滅多になかったお能の、恨みに満ちたその目を、時親は凝視した
「あの女を抱いた手で、私を抱いたのでしょう・・・?それで、徳子ができたのでしょう・・・?私を莫迦にしているの?どこまで私に耐えろと言い出すの?その内、あの女をこの家に呼ぶの?それであの子も、自分の子として育てろと言い出すの?」
「お能・・・ッ」
「仕事だから?任務だから?赦せと?!」
「 」
母の声に、徳子の声が一層高くなる
言い訳の想い付かない時親は、使用人から徳子を受け取った
「 お前に詫びる言葉が、何もない。浮気は認める」
「 」
お能の口唇の端が、ぴくりと痙攣した
「私は、お前から逃げていたのかも知れない」
自分に非はある
それでも、聞いてくれそうにもない妻の態度にも、苛立ちを覚えた
「勝手だと罵ってくれて構わない」
「 ほんと、勝手よ・・・」
そう言い返されるのを承知で言った時親は、一度目を瞑り、それから目蓋を開いて自分の本心を語った
「つらかった。妻は局処局長で、自分はその妻の肩書きに後押しされて、馬廻り衆筆頭に任命されたと人から囁かれ、つらかった」
「 そんな・・・」
お能は、そんな噂が流れていたなど知らない
「お七と居る時だけだった。自分の立場も肩書きも、忘れられたのは」
「 」
任務で逢っていた、と言われた方が、どれだけ気が楽だったろう
自分の肩書きは、そんなにも夫につらい重責を負わせていたのか
「すまなかった・・・」
そう、一言だけ言い残し、時親は部屋を出、屋敷を後にした
部屋には残されたお能の泣き声だけが響いた
「そうか。お能が育児拒否をしたか」
「申し訳ございません」
お七の家はまだ完成していない
今は清洲の宿屋で平次と二人身を寄せている
その宿屋には徳子を連れて行く気にはなれず、時親は城に戻って帰蝶に許しを請うた
「お前も知っているだろう。お能は身持ちの固い女だ。お前に似て、な。そのお前が他の女と肌を通わせただけではなく、子まで作っていた事実は、お能にとって耐えられるものではなかったのだろうな」
「全て私の責任です」
「その任務を命じたのは、私だ。よく考えもせず、お前に生駒屋内偵を任せた私にも責任はある」
「そんな・・・、奥方様は・・・」
潔癖症だと想い、私情を挟むことはないと信じて命じたが、まさか妻のお能の肩書きが時親の心を狂わせただなど、帰蝶にも気付かない理由である
「許せ」
「 」
逆に帰蝶に謝らせてしまったと、時親は酷く後悔した
「徳子は、私が責任を持って育てる」
「それは・・・」
「私の娘として、ここで育てる。異論はないな?」
「 」
応えられなかった
お七なら、きっと育ててくれただろう
だけど、それでお能はどうするのか
更にお能を追い詰めることにはなりはしないかと、不安だった
自分ではどうしようもない
帰蝶に任せるしかなかった
「 よろしくお願い致します・・・」
結局、主君に尻拭いをしてもらうしか、方法がなかった
情けない、と、想った
徳子を帰蝶に委ね、帰る道、時親は自宅に向う足が重いことを知った
時々、どうしても立ち止まってしまう
背中を何かに引かれる感じを覚えてしまう
また、情けないことをしてしまう、と、自覚しながらも、時親はお七の居る宿屋に脚を向けた
「平三郎様・・・!」
驚きながらも、それでもお七は笑顔で自分を迎えてくれる
妻は、自分の罪を許してはくれなかった
お七は、自分の罪を許してくれた
男は単純な生き物なのかも知れない
だけど、安堵できる場所をいつも探さなくてはならないほど、常に精神を蝕まれる立場に居る
まだ、春には遠い季節
時親の屋敷の庭先の桜が、一晩で一斉に芽を吹き開花した
やがて、尾張にも本当の春が来た
桜が芽吹き、慶次郎の祝言も行なわれ、利治もそれに出席した
春、利三が後妻をもらったことなど、帰蝶は露も知らない
妹が産褥死したことすら知らないのだから
安藤守就の監視下に置かれた夕庵との密通は、夫が死んで以来一度もない
それでも、手探り状態だった土田家との提携により、この頃少しは情報が入るようになっていた
織田が美濃入りした暁にはそれ相応の待遇を処すと、約束しているからだろうか
前年まで土田平三郎時親が潜入していた油問屋の生駒屋からも、ある程度の情報は仕入れていた
その代わりに、多額の借金を請け負うことにはなったが、斎藤が活発に動ける状態ではないことを入手した分、見返りとしては充分だろうか
山名で龍之介が受けた夕庵の伝言が、それを証明した
兄が重大な病に身を冒されていると
次の一手をと考えていた矢先、その兄が幕府相伴衆に任命されたのは手痛かった
阻止するべく巴を伊勢に送ったが、結局、自分の失敗により兄の手元に朝廷からの任命書が渡されるのを黙って見ているしかなかったのは心底悔しかった
京から戻って直ぐ、帰蝶は今も反抗的な態度を示す岩倉を包囲させた
流通を遮断しての兵糧攻めである
平地の場所では山と違って抜け道は殆ど存在せず、城に運ばれる食料品の運搬を止めるのは容易かった
命を惜しんだ織田左兵衛信賢は城を明け渡し、帰蝶によって国外追放を科せられた
処刑するのは簡単だ
だが、それによって清洲織田に反目する者が出ないとも限らない
父も土岐頼芸を生かしたまま、逃がした
結果、美濃の国人衆は沈黙した
自分も父に倣って同じことをするだけである
先人の教えは有効だった
「残るは、犬山だけになりましたね」
なつがほっとしたようか顔をして言った
「このまま大人しくしてくれていれば、良いのだがな」
「犬千代・・・。いえ、庭の雀はどう言ってます?」
帰蝶の庭に現れる図体の大きい雀の正体など、もうとっくの昔に知っている
なつの言葉に、帰蝶は苦笑いをした
「大きな山が動き出しそうだと、言って来た」
「 今川、ですか?」
「さもありなん」
「 」
当面の目標を斎藤に宛てていた織田にとって、今川は片手間で相手できるほどの小ささではない
帰蝶はどう出るのだろうか、と、なつは不安になった
また、無茶をしなければ良いのだがとも、祈る想いでも居る
「奥方様」
信長の四回忌を済ませ、ほっとしている暇もないほど身の忙しい帰蝶に、なつはそっと言った
「今年の春は、暖かいですね」
「ん?」
「奥方様がお輿入れなされた春も、こんな風に穏やかでしたね」
「そうだったか」
「春は、全ての者の心を穏やかにしてくれます。奥方様も、どうか心穏やかに過ごしてくださいませ」
「 」
遠回しに、今川に対し先走った行動はするな、と言われたような気がして、帰蝶はまた、苦笑いした
利三と別れ、信長と夫婦になり、父に死なれ、夫に死なれた春が、暖かな風を纏って過ぎて行く
風に吹かれて桜の花びらが舞い上がるのを、帰蝶となつは空を仰って眺めていた
初めの夫の家は、実家とも取引のある米問屋でも、大店の家だった
どこで自分を見初めたかは知らないが、実家が借りた借金の形にお七を欲しがり、親は自分を差し出した
それでも、幸せにしてくれるのならと、お七は黙って従った
だが夫は、自分を貰い受ける前から縁のあった愛人の家で、その愛人の間男に縊り殺され、自分は未亡人になった
夫との間には男の子が一人生まれていた
その子は将来の跡取りとして、嫁いだ先の家が大事にしてくれた
代わりに自分は、嫁いだ店の得意先であった美濃の、土田の家臣の家にやられた
二番目の夫は小さい家を大きくすることに躍起になっており、主家に気に入られ『土田』の姓名をもらうまでになった
だが、忙しさに感けて、自分を愛してくれる暇などなかった
その夫も斎藤との争いで戦死し、生まれていた子供はやはり跡取りとして取り上げられそうになったのを、お七は慌てて子供を連れ、実家に逃げ帰った
二人の夫は自分を愛してはくれなかった
最初の夫は、初めの頃こそ大事にはしてくれた
だがいつの間にか、自分の立場が愛人のそれと取って代わっていた
二番目の夫は家庭を顧みない男だった
いつも背中だけを自分に向けていた
だから・・・
時親の、自分を撫でてくれる手の平の温もりに、愛情を見付けたかった
この人が喜んでくれるのなら、と、凡そ今まで出来もしなかった体位も取れた
死ぬほど恥しい様も、曝け出せた
口での奉仕すら、厭わなかった
この人が喜んでくれるのなら
微笑み掛けてくれるのなら
自分の詰まらない矜持など、溝にでも捨てれる
そう、想っていた
「また、お越し下さいませ」
油を一升買った時親を、店の外まで見送る
「すまない。今日は暇がなくて、ゆっくりもできず」
「いいえ」
お七の、時親を見詰める目は、愛しい男を労わる優しい目だった
「休暇が取れたら、どこか美味い物でも食いに行こう」
「はい、楽しみにしております」
この頃には、二人の関係も深いものになっていた
目配せだけで会話ができるほど
その時親を、配達先の小牧で見掛けた
胸が躍り、お七は慌てて後を追った
だが、男の脚には勝てず、とうとう小牧の村の入り口まで辿り着く
村人だろう、年配の男と楽しげに会話し、それがしばらく続いた後で時親は村の中に入り、会話の相手はこちらに向かって歩いて来る
お七は意を決して声を掛けた
「あ、あの・・・!」
「平三郎さんかい?ああ、あの人はこの村でも一番の出世頭さぁ。お嬢さん、知り合いかい?」
「いえ、声を掛けて人違いでしたら恥しいと想いまして。あの・・・、もしやあの方は長谷川様のご家臣か何かで?」
長谷川とは、この辺りの豪族の名前だった
お七は当たり障りのない名前を出した
「いいや。平三郎さんは、清洲織田の家臣だよ」
「
どうしてだろう
騙されたと言うのに、お七には時親を責める気にはなれなかった
時親が何かの目的あって自分に近付いたことは、聞かなくともわかった
それでも、自分を見詰める眼差しの優しさに、心が絆される
「最近、美濃でも変わった様子とかはないか?」
「
茶屋の部屋で肌を寄せ合うその光景の中で、この会話は相応しくなかった
「いや、もし戦の風潮でもあれば、大変だと想ってな」
わかっているのに
この男が、自分から美濃の情報を欲しがっていることなど
美濃、ではなく、正しくは『斎藤』の情報を欲しがっている
争っている相手なのだから
わかっている
わかっているのに、お七は時親の役に立ちたい一心でこう告げた
「織田の家督騒動で、嫌な噂を流してる、って・・・聞いた」
「どんな噂だ?」
「
「そんな噂が。誰が流している?」
「・・・・・・わからない」
「誰だろうな」
「それと・・・」
「何だ?」
「斎藤が、織田の戦に茶々を入れたがってる、て・・・」
「茶々?織田の戦に?」
「それ以上は、わからない・・・」
「そうか」
「
難しいことを考えているだろう、その横顔の凛々しさ
口唇にそっと触れてみる
時親は自分の指を優しく、ぎゅっと握ってくれた
それだけで、騙されている罪など許してしまう
愛しているから
愛されたいから
時親が清洲織田の家臣だと言うことは知っている
名前も、知っている
ただ、時親の姓名が『土田』だと言うことだけは、知らなかった
それでもお七は『清洲織田の平三郎時親』を頼りに、清洲までやって来た
探してどうなるのか
その先はまだ、考えていない
向うから逢いに来るだけの一方的な関係から、互いに通い合う間柄になりたかった、ただそれだけのささやかな望みを胸に抱き、清洲にまでやって来た
身形から、武家長屋で暮らすような下級武士ではないことだけはわかる
かと言って、上級武士が態々密偵のような真似をする筈がない
お七は宛てのない広い清洲の町を、中流家庭の集まる場所に重点を置き、時親の姿を探した
もしも入れ違いで時親が店に来ていたら、どうしよう
今日は逢えない淋しさと不安に頭がぼんやりとし、それでもお七は時親の家を探し歩いた
ただ逢いたい一心で
「平三郎時親さんてお宅を探してるんですけど」
道ゆく町人にも聞いてみた
下の名前だけではわからないと言われ続け、それでもお七は時親の家を探し歩いた
日が傾き、夕暮れがそこまでやって来る頃
「ああ、もしかして土田の旦那様のことですか?織田の馬周り衆筆頭の」
「え・・・?」
時親の名字は、土田と言うのか
それも、馬廻り衆筆頭と言われ、そんな上級武士だったとは想いもしなかった
「あの・・・っ、お宅はどちらに・・・?」
「この先に大きなお屋敷が並んだ大通りがありましてね、そこを入って三軒目の曲がり角を右に折れ、しばらく歩いたら大きな桜の木が見えますよ。それが目印です」
「あ、ありがとうございます・・・!」
お七は教えてくれた町民に大きく頭を下げ、その道を急いだ
逢える
逢える
あの人に逢える
頬は喜びで緩み、目からは嬉し涙が滲みそうになった
小走りに駆ける脚が曲がり角を急ぎ、目印でもある桜の木を探した
そして
「おかえりなさい」
玄関の門に出た、綺麗な女の姿にお七の意識がぼやけた
どうしてだろう、お七は咄嗟に身を隠し、壁に背中を押し付けた
「今日は早かったんですね」
「犬山が動き出したと情
時親の声が遠ざかる
言葉の受け答えから考えて、相手は『妻』と見て間違いはなかった
つまり、時親は妻帯者だったと言うことである
この現実にお七の目は驚きに見開かれ、全身からは汗が小さく吹き出、頭が締め付けられるような軽い痛みと、耳に響く自身の鼓動の音が煩く、血管の中を流れる血が温かさを失って行くのを実感した
騙されていた
時親は織田の家臣で、斎藤の情報を得るため自分に近付き、妻が居る身でありながら自分を抱いた
騙されていたのに
それでも、時親が好きだと言う気持ちまでは止められなかった
「今日は何を食おうか」
何事もなかったかのように、自分に微笑んでくれる
「鴨鍋・・・」
値が張るのを承知で言ってみた
ほんの少しでも嫌ってくれたら
自分の気持ちも、少しは楽になれるだろうか
ただそれだけで言ってみた
「鴨か。そうだな」
だけど時親は、嫌な顔一つせず自分の願いを聞き届けてくれる
別に鴨が食べたいわけではないのに
別れ際の情交に、ただ身を焦がす
時親は自分の肌をいつものように愛してくれた
温かい掌を擦り付けるように肌を撫で、乳房を掴み、自分を喜ばせてくれる
何度も何度も口付けてくれる
どうして私は幸せになれないの
どうしてあなたには妻が居るの
どうしてもっと早く逢えなかったの
もっともっと早く逢えていたら、あなたの隣に居るのは私で、あなたの帰りを出迎えることができたのに
「実家が多額の借金を背負ってしまって・・・」
ある時お七は、そう言ってみた
試すのではなく、自分から切り出せない時親との別れを示唆するために
「油の仕入れが上手く行かなくて、馬貸しの商売も始めたのだけど、それも上手く行かなくて・・・」
「そうか」
「資金繰りに詰まったら、どうしよう・・・」
時親との別れ、その不安がお七の顔を曇らせる
それが時親には実家を心配している顔に見えた
「殿に相談してみよう。他からも借りれるかどうか、頼んでみる」
「平三郎様・・・・・・・・・・・・」
どうして
自分は情報を得るためだけの存在のはずなのに、どうして
その数日後、時親は織田から金を借りて来たと店に現れた
「主家だけじゃ間に合わなかったので、織田家の力も借りた」
「
嘘吐き
そう、心の中で小さく呟く
主家が織田じゃないの、と、言ってやりたかった
だけど、言えなかった
やっぱり、離れたくないから
その温かい掌を失いたくなかったから
自分に微笑み掛けてくれる仕草を失いたくなかったから
時親を繋ぎ止めるために、お七は女の武器を最大限に発揮させた
そのお陰で、時親は逢えばいつも肌を求めた
繋がっている間だけは、時親を独占している気分になれた
自分に逢うのは任務だろう
だけど、自分を抱くのは時親の意思だろうと想いたかった
気の迷いか
一度だけ、時親は果てる寸前に小さく呟いたことがあった
「愛してる」
二番目の夫の主家であった可児の土田家が、織田に転んだと噂に聞いた
それから時親が店に現れなくなった
月の物が来なくなったと告げる前に、時親は姿を消した
自分は捨てられたのだと、誰に聞かずともお七にはわかっていた
だから、怖くて時親の屋敷には行けなかった
時親の妻が玄関に立つ光景を想い浮かべるのが、怖かった
お前は必要ないと言われるのが怖かった
だから、知っている筈の時親の屋敷には、行けなかった
二人で過ごした日々が仮初のものだったことを想い知らされるのが、怖かった
お腹には時親の子だけが残った
「しばらく振りの里帰りは、どうだった」
局処で漸く脚を伸ばすことができたのは、清洲に戻り、慶次郎が祝言の準備で当分休むと言って来た三月のことだった
帰蝶に連れられ清洲に戻った巴が側に居る
「はい。慣れない外交に、毎日がバタバタと慌しく。でも、七左衛門殿が良く助けてくださったので、何とか」
「お前の手腕も大した物だ。首尾良く周辺の豪族を押えてくれたな」
「いいえ、それも七左衛門殿が、木造家と上手く連携を取ってくださったお陰です」
「そうか」
気の所為か
巴が義政を随分と誉める
特別な感情を持って誉めているようにも聞こえた
巴も側室に入って二年
そろそろ『女としての人生』を歩ませるべきか、とも考える
そんな折、帰って直ぐ包囲させている岩倉の陣頭指揮をしている時親が、局処を訪問した
「岩倉が動いたか?」
「相変わらずのだんまりです」
「兵糧の具合はどうだ」
「そろそろ尽きる頃かと想います。城から何人かの逃亡者が出ました」
「ではもうしばらく張ってもらえるか。できる限り戦は起したくない」
「奥方様が出られたら、その辺り中血の海になりそうですものね」
「なつ・・・!」
痛い皮肉を言うなつを、帰蝶は顔を赤らめて睨んだ
そんな二人の遣り取りに巴や他の侍女は笑う
「報告は以上か?」
「あ、はい。ええと、それから」
「どうした。ないのなら現場に戻って権の指示を仰げ」
「奥方様」
「何だ」
「いや・・・、その・・・」
いい年齢になっている時親の、落ち着かない様子に首を傾げる
「何かあったか?」
「あの、事後報告で大変申し訳ないのですが・・・」
時親が何に対して顔を赤くしているのか、話を聞いて漸く理解した
「産まれた?」
「と言いますか、産まれてました、と言うべきか・・・」
お能が今年の初めに第五子を生んでいたと、今頃になって報告する
「どうして言わなかった」
「鈴鹿遠征でバタバタしておりましたから、私情を持ち込むのは良くないとお能からも言われてまして、頃合を見計らってお伝えしようかと想っていたのですが・・・。ですがお能からいつまで黙っているつもりだ、と言われまして・・・」
「当然だろう?お能は私の大事な侍女だ。そのお能の出産を祝えないだなんて、こんな屈辱があって良い筈がない」
「申し訳ございません。いつ言おうか悩んだのですが、とうとう言い出す機会を見失い、お能からも好い加減にしろと言われまして」
「当たり前だ」
かかかと笑う帰蝶に釣られ、巴も侍女達も笑い出す
「それで、女か?男か?」
「女です」
「そうか、二男三女になったのだな。家もさぞかし賑やかだろう?」
「ええ、お陰様で」
「名前は?なんと付けた」
「はい。徳子(とくこ)と名付けました」
「徳子?」
その名を聞いて、帰蝶はキョトンとする
「徳子って」
「はい、お菊さんの、姉上様のお名前を拝借しました」
菊子の姉の徳子は、元々は斎藤家で働く侍女だった
その徳子が嫁に行くことになったので、代わりに菊子が稲葉山城に上がったのだ
「以前のお能の同僚だとかで」
「ああ、随分仲が良かったらしい。お能もその後直ぐ嫁に行き、別れ別れにはなったが、な」
「それで、お能も懐かしがっているようでしたので、私もその名で良いかと想いまして」
「そうか。ん?と言うことは、弥三郎や菊子にもまだ伝えてないのか?」
「あ・・・、そうでした、まだ言ってませんでした」
うっかりしたと言いたげに、時親は自分でも驚き目を丸めた
「菊子は兎も角、弟である弥三郎には先に伝えねばならんだろう?さちはどうした」
「さちにも、まだ・・・」
「本当にバタバタしていたのだな、平三郎は」
「なんせ初めての遠征だったものですから、準備に余念がなかったと言いましょうか、なんと言いましょうか・・・」
「実際行くのに一ヶ月はあったのに、お前は何をしていたんだ」
と、帰蝶は苦笑いした
そんな帰蝶に、時親は再びうっかりと
「徳子の襁褓を換えておりました」
と、莫迦正直に話す
一瞬、部屋がしーんと静まり返った
時親が弟達に報告に行くと言うので、帰蝶はさちが台所から戻ったら知らせてやると約束して見送った
「え?産まれてたの?」
聞かされた弥三郎はポカンとなった
「すまん」
「まぁ、兄貴のとこは五人目だから、態々報告ってこともないだろうし。てゆうか、俺もすっかり忘れてた」
「忘れてんなよ」
兄弟として二人きりになるのは、久し振りだろうか
「年明け?」
「いや、中旬だな」
「うわ、想いっ切り忙しい最中じゃねーか」
「そうだなぁ・・・」
「それじゃぁ報告が遅くなるのもわかるわ」
「わかってくれるか」
弟よ、と、時親は感涙に咽る
「お能さんが臨月だったら、家にも帰れないわな」
「お陰で、弥三郎の家族は毎年帰って来るのに、お前は音沙汰なしかと父さんから嫌味の手紙が届いたよ」
「ははは、そりゃしょうがねぇ。親父達も良い年になってるんだ。孫の顔も見たいのに、お能さんが動けないからって帰らなかったんだからさ。でも、臨月だったってのはこっちもうっかりしてたな。お能さん、早い目に産休取っちゃったからね、あの当時で妊娠何ヶ月だったのかなんて、お菊も知らなかったからさ」
「そうか」
穏やかな春の日差しが直ぐそこまで近付く、穏やかな昼下がりのことだった
武家屋敷の集まるその住宅街に、大工の槌の音が響く
可成がこの近くに屋敷を構えることになったためである
生活が安定し、また、老いた父を引き取っているため、節約のためにと借りていた武家長屋では手狭になったからだった
去年生まれた次男も伝え歩きを始めるようになり、土間が剥き出しになっている長屋では危険も付き物になる
「森さんのお宅も、もうそろそろ完成するかしら」
「桜が咲くまでには、なんとかしたいと仰ってましたね」
腕には生まれたばかりの徳子を抱き、お能は産休がまだ明けず、屋敷で使用人の老婆を相手に茶を楽しんでいた
夫も馬廻り衆として能力を発揮し、少しずつでも知行が上がって来た
斯波衆を束ねた手腕を、帰蝶が深く買ってくれていることにも感謝する
山名での働きも評価された
全てが順風満帆に進んでいる頃、屋敷に一人の女が訪れた
「どなた様で?」
玄関に出た使用人の老婆が尋ねる
「こちら、土田平三郎時親様のご自宅で、間違いありませんか」
「はい、左様でございますが。あの?」
「旦那様か、奥方様はご在宅でしょうか」
「あなた様は?」
「私は」
お七は大きな覚悟を持って告げた
「丹羽郷小折の油問屋、生駒屋の娘でお七、と申します」
「生駒屋の」
「ご主人様に御用があって、お伺いしました」
「奥様!奥様ぁー!」
「どうしたの、慌てて。まさか、旦那様に何かあったの?」
「おっ、お客様が・・・!」
「え?」
使用人の言葉に、お能は目を丸くした
授乳期、女の乳房は大きく膨らむ
病死した子を含めると、お能はこれで六人の子を産んでいた
武家出身ではないお能は、何れもその乳房で育てた
自分の乳首を含み、命を紡ぐため一生懸命母乳を吸っている徳子の頬を、つんと突付く
乳を吸うことに夢中な徳子は、母の悪戯など気にも留めず、相変わらず口唇を動かしていた
長男の坊丸は大きく育ち、次男の勝丸も物事がわかる年齢になっているため、授乳の時は別室に行かせている
那古野で生まれた那生も、母の手伝いができるくらいには大きくなっていた
それまで末娘だった花も、妹の誕生にすっかり姉らしくなった
その花が、母の空いている方の乳房から溢れる乳が零れないよう、小さな手に手拭いの晒しを持ち、押えていた
脳裏に浮かぶいつものその光景が、遠く感じる
「土田殿。清洲から呼び出しですぞ」
勝家の補佐に入っていた信盛にそう言われ、時親は慌てて城に戻った
戻ると龍之介から局処に行くようにと告げられた
滅多に行くことのなかった場所なので、呼び出されることもそうだが、俄に嫌な緊張感が時親を襲った
「土田殿」
帰蝶の部屋の前でなつと局処侍女が自分を出迎えた
「何かありましたか」
部屋の中から激しく泣く女の声が聞こえる
妻に似た声だな、と、この時の時親は悠長なことを考えていた
「兎に角、中へ」
なつの表情も、どこか強張っているのが気に掛かる
侍女が開けた襖の向こうに、泣き伏せている妻の姿が見えた
それと同時に、お七の姿もあった
腕に赤子を抱いたお七が、自分を見付けて微笑んだ
「兎に角、これは当事者同士である三人で話し合ってはどうだ」
帰蝶にしても、時親に隠し子が居て、突然その母親が赤子を連れて乗り込んで来たとしても、対処できるものではなかった
自分が時親に生駒屋内偵を命令したのだから、時親だけを責めることはできず、かと言って容認してしまえばお能を傷付けることになる
帰蝶は自分の部屋を貸すから、そこで今後のことについて話し合うよう薦めたのだが、お能は興奮の余り泣き喚き落ち着きが取り戻せないで居た
こんな時には、と、市弥がお能の相手を買って出る
その間に時親とお七で話し合うよう、最終的には帰蝶が命令を下した
どうして
そう、頭の中で同じ言葉がぐるぐると駆け回るのに、それを口にすることができない
現実を認めるのが怖かった
「平三郎様。お逢いしたかったです」
お七は相変わらず優しい笑顔を向ける
それが寧ろ怖かった
「あなたの子供です。一度だけでも良いです。抱いてやってくれませんか?」
と、お七は腕の中の赤ん坊を差し出した
だが時親は、手を伸ばすことができない
「いつ・・・」
「去年です」
「一人で産んだのか・・・?」
「はい」
誉めてください、とでも言いたげに、お七は誇らしげに微笑んだ
「一人で育てているのか・・・?」
「はい」
前夫との間にできた子も、お七が引き取って育てている
その養育費を稼ぐために、自分の実家の店で働いているのだから、それを知らないわけではなかった
「どうして・・・」
どうして今頃、ここに来た
そう言いたくて仕方がない顔をする時親に、それでもお七は穏やかな微笑みで応えた
「一度だけで良いんです。どうしても、この子をあなたに抱いてもらいたくて」
淋しかったの、と、言葉を飲み込む
本当は淋しくて、あなたの掌が懐かしくて、ただ、逢いたくて
「平次、って言うんです」
「平次・・・」
「平三郎様の平に、次ぎと書いて平次。どうですか?おかしな名前ですか?」
「
時親には応えられなかった
武家の子なら、大抵は『丸』が付いてもおかしくないよう、名前に工夫がされている
お能が産んだ自分の子は『坊丸』、『勝丸』、帰蝶の子は『帰命丸』
だが、お七の産んだ子は自分が認知したわけではないため、『丸』の付く名前を与えられなかったのだろう
時親はとんだ落し物をしてしまったと、改めて後悔した
「すまない」
「謝ってくれなんて、私、言ってません。ただ、この子をあなたに」
「許してくれ・・・!」
「
ガバッと土下座をする時親に、お七の目が悲しみの色に染まった
「
「
「私、お城の局処なんて良く知らないけど、局長って偉いんですよね」
時親は何も応えず、土下座したまま黙って聞いていた
「私とは、全然違う
「肩書きで、妻を選んだわけじゃない」
「
今度はお七が黙り込んだ
わかっていた
自分のことは、ほんの気の迷いだったのだと言うことは
知っていた
だけど、否定したかった
だけど、時親が妻を愛していないわけではないことも、今、知った
だけど、自分の気持ちを抑えられるほど、軽い想いでもないことも、時親に知って欲しかった
「
ずっと頭を下げたまま、自分を見ようとしない時親に小さな声で呟く
「ごめんなさい・・・。あなたの家庭に、波風を立てたくて来たんじゃありません・・・。だけど・・・。叱られるってわかってても、嫌われるってわかってても、それでも私
お七の声が震えている
時親はそっと、頭を上げた
「あなたに、逢いたかったの・・・・・・・・・・」
ほろり、と、お七の優しい微笑みから、涙が滴っていた
「お七・・・・・・・・・・」
「少しだけ顔を見たら満足しよう、って。一目この子を見てもらったら、帰ろう、って、想ってたの。でも、あなたの奥様を見たら、どうしてかしら、自分だけこんな想いをしてるのが惨めになって、あなたに嫌われるってわかってた、けど
ぽろり、ぽろりと涙が零れ、ぽろり、ぽろりと想いが零れた
「それでも、逢いたかった・・・・・・・・・・」
「
時親の腰が浮く
そのまま感情に流され、お七を抱き締めてしまいそうな自分の心に、必死で歯止めを利かせる
そんな二人の間で、平次が俄に泣き出した
「ああ、どうしたの。お腹空いたの?ごめんね、放っておいて」
お七は必死で笑顔を浮かべ、慌てて涙を掌で拭いながら、着ている小袖の胸を開いた
見慣れた、柔らかそうな肌が曝け出す
平次は与えられたお七の乳首を咥え、乳を吸う
家でもお能と徳子で見た光景だった
我が子に乳を与える母の姿ほど、美しく慈愛に満ちた光景はない
「美味しい?良かったね。いっぱいお飲み」
優しく平次に微笑み掛ける
「いつ・・・」
「え?」
「私のことを、いつ知った・・・」
お七の乳を咥えている平次をぼんやりと眺めながら、時親は聞いた
「私の屋敷を、いつ知った・・・」
「この子ができる、少し前・・・」
「ずっと、黙って・・・」
「知ってた。あなたが私に近付いたのは、美濃の、斎藤の情報を知りたいからだ、て・・・」
「それで、ずっと・・・」
「あなたに逢いたいから、黙ってた・・・」
「
騙されていることを知りながら、お七は自分と逢い、騙している自分に肌を許し、こんな自分に斎藤や美濃の情報を寄せてくれていたのか、と、時親の目頭も熱くなった
「すまない・・・。ずっと騙してて・・・」
「ううん」
やがて、平次が腹を満たしてお七の乳首を離した
「だってあなた、私のこと、愛してくれたもの」
いつも見せていた朗らかな笑顔がそこにあった
「それは」
「わかってる!あなたが愛してるのは奥様だけで、私はただの
その先が言えない
自分で認めるのが嫌だった
「それでも、嬉しかった・・・。私に逢いに、店に来てくれるあなたの姿を見てるだけで、私は幸せだった。それ以上を望んじゃいけないって、わかってる。だけど、あなたに逢いたい気持ちは殺せなかったッ!」
「
「泣いていても、何も変わらない。泣き止んで、現実を見詰め、それから、自分がどうしたいのか考えなければ、何も変わらない」
そう、市弥に励まされ、お能も漸く落ち着き始めた
頃合を見計らって、帰蝶が入って来る
「どうだ?少しは気が済んだか?」
ここのところ、時々帰蝶は昔の、男言葉に戻ることが多かった
だが、帰蝶の男言葉を聞き慣れているお能には、特におかしな風にも想えない
「平三郎に隠し子が居たのは、本人ですら知らなかった様子だ。責めるのは易い。だが、子供は生まれてしまったんだ。あの子をどうするか話し合うのが、義務だろう?」
「奥方様・・・」
「すまない。平三郎に生駒屋内偵を命令したのは、私だ。二人が深い関係になるなど、私には想像できなかった。普段の平三郎の言動を考えても、尚更な」
「それは、私も・・・。だから余計信じられなくて・・・」
「だが、平三郎と生駒屋の娘の間に子が生まれたのは事実だ。身分を隠して内偵していた平三郎の身元を知っていると言うことは、それが平三郎の子であることの何よりの証拠になる。父親でもない男の自宅を調べるなど、普通はやらない」
「
そうだろうな、と、帰蝶らしい合理的な考えに、お能は反論しなかった
「つらいかも知れん。だが、夫の不始末を見届けるのもまた、妻の役目だ。男と女の間のことは、私はまだ勉強不足で良くわからん。だが、はっきりしていることは一つだけある」
「
お能は涙でボロボロになった顔を帰蝶に向けた
そのお能に、帰蝶は真面目な顔をして言い放つ
「もしもこれが吉法師様だったら、私は間違いなく、兼定を振り回して追い駆けるだろう」
「
帰蝶なら本当にそうやりかねんと、お能も市弥もなつも一瞬黙り込み、それから大笑いした
「なっ、何がおかしい!」
笑われて、帰蝶は怒りで顔を赤くする
「それだけ私は吉法師様を愛しているのだ!何を笑うかッ」
「はいはい、奥方様が若を深ぁーく愛しているのは、存じてます。ですが今は、ご自身の惚気話を聞かせる場合ではございませんでしょう?」
「う・・・、うむ・・・」
起きた笑いがやがて収まる
「平三郎が子をどうしたいのか決まれば、それに従うしかない。それはつらい現実かもわからんが、受け止めるのもまた、妻の役目だ。お能」
「・・・はい」
「お前は武家の妻だ。市井の感情で物事を計ってはならん。悔しいだろうが、平三郎の尻拭いを頼む」
「
潔癖症の夫が、外で愛人を作っていたなど気付きもしなかった
しかも内偵に入っていた店の娘で、しかも帰蝶が探るよう注意していた人物で・・・
『内偵』と言うものがどう言うものなのかわからないお能には、夫はそうでもしなければ情報を得ることができなかったのだろうかとも、想った
その行き着く先に、お七が居たのだろうか
自分の何が足りずに、夫はお七に走ったのか、お能にはわからなかった
「どうして私は、あなたと一緒になれないの・・・?」
それで現実が変わるとは想っていないが、それでもお七は自分の想いを打ち明けた
それは相当の勇気が要ることだった
「私には、妻が居る・・・。子供も居る・・・」
「どうしてあなたは、家庭がある身で私を抱いたの・・・?」
「申し訳ない・・・」
静かな声で自分を責めるお七に、時親は再び土下座をした
こんなことをして赦されるとは想っていない
生まれた子供が消えるわけでもない
それでも、頭を下げるしか想い付かなかった
「どうしてこの子を抱いてくれないの?認めるのが怖いの?認めたくないの?」
「それは・・・」
「私は、どうでも良かったの・・・?」
「違うッ!」
自分の存在を拒んだ言葉に、時親が即座に否定の声を上げた
それが、唯一の救いになった
「私は・・・。お前の言うように、斎藤の情報を得るため、お前に近付いた・・・。それは
「可児の土田の家臣の妻だったから」
「
時親は黙って頷いた
「あなたも、土田、って言うのね。親戚?」
「お前の夫が仕えていた土田は、元々は私の血脈だった。祖父の代の時、一門であった親族に家を乗っ取られた」
「そんな・・・」
「特に変わったことではない。力なき者は淘汰され、家臣に組み込まれるか、家を追い出されるのが習わしだ。家を追い出され、祖父はまだ若い父を連れ美濃を出て、尾張を彷徨った。だが、安住の地を得る前に祖父は行き倒れ、父は母に拾われた。私はこの尾張で生まれた。家の騒動など知らずに育った。だから、土田家に対してこれと言った感情は持ってなかった。ただ
「ただ・・・?」
「お前の境遇を聞き、同情したのは事実だ」
「同情で、私を抱いたの・・・・・?」
それが理由かと、お七の肩からがっくりと力が抜けた
「違う」
「どう違うの・・・!」
「お前と居ると、心が落ち着いた。安らげた」
「
時親の言葉に、お七は目を見開いた
「どうしてなのか、わからない。だが、いくらでも責めてくれて良い。私がお前を逃げ場にしていたのは事実だ。言い訳のしようがない」
「平三郎様・・・・・・・・・」
「愛しているか、どうか、それはわからない。好きなだけ詰ってくれて良い。だけど・・・」
土下座をしていた時親が、そっと顔を上げ呟く
「お前と居ると、肩肘を張らずに済んだ。気持ちが楽で居られた」
時親の瞳から、一滴、涙が零れた
その涙を嘘だとは、想いたくなかった
時親が、そっと手を伸ばす
お七もそっと、息子を抱いた腕を差し出した
「平次、か・・・」
「やっぱり、おかしい・・・?」
「いいや」
何も知らず
自分の出生も、今はまだ父親も知らぬ無垢な赤子は、時親の腕の中で、血の繋がった父を見上げ、穢れのない笑顔を見せた
「お前に似ている。愛らしい子だ」
「平三郎様・・・」
「奥方様」
廊下から龍之介が帰蝶を呼ぶ
「
「奥方様・・・」
お能が不安げな顔を向けた
「お能。お前のその両の目で、現実を見詰めろ。私のように、逃げてはいけない」
「奥方様・・・」
「平三郎の出した結論を、しっかりと見届けろ」
「
時親は、お七と平次を引き取りたいと言った
勿論心情的にお能と同じ屋敷で暮らすことは選ばないが、この清洲にお七親子の住む家を建てたいと言い出した
お能は夫の申し出に再び泣き崩れた
「夫は武家、妻は庶民。身分の違いと言うのは、時にはこのような悲劇も招くのですね」
なつがぽつりと呟いた
「私達武家は、夫が黙って愛人を囲うことさえしなければ、何人側室を持とうが自由にさせられますが、お能は元々そう言った教育を受けれる家庭に育ったわけではないから、尚更心に堪えるでしょうね」
「そうだな。側室と言っても、その殆どが外交、つまりは政略の末の結果だ。正室が側室に対して嫉妬を覚えると言うのは稀だが、お能の場合はこれには当て嵌まらんからな、尚更つらいだろう」
「奥方様」
「何だ?」
「言葉遣い」
「ん?」
「男言葉になっております」
「そうか?
意識すると、確かに男言葉になっていると気付く
「京で、何かございましたか?あるいは、鈴鹿で」
「
「どう言った?」
「女のままでは、いけないと言うことを」
「女のままでは?」
「女を捨てる覚悟で居なければ、自分の想う夢も理想も語れない。そう、想った」
「何故。女のままでは、いけないのですか?」
「いけない、と言うか、無理だと言うことか」
「どうしてですか」
「女は弱い。女は脆い。しかし、女は男よりも強い部分もある。だが、その強い部分を男は決して認めないだろう。私が男を超越しない限り、今居る家臣らは従ってくれても、新しい、そうだな、例えば旧斯波家の家臣らはそっぽを向くだろう。そう、想った」
「何かあったのですか?」
「
妙覚寺の表座敷で、全員から休息を取るように迫られた
もしも自分が男なら、誰も強行に躰を休ませようとはしなかっただろう
そう想った
女の身だからこそ、あれほどまでに動くことを反対したのだろう、と、そう想った
「いや。少しだけ、吉法師様の真似をしたくなった。恋しいのだろうな」
苦笑いする帰蝶を、なつは心の中で嘆く
また、無理をしている、と
近過ぎてはお能の癪に障る
遠過ぎては平次の様子を見るのに不便が生じる
また、近所の手前もあるので、お七の家は清洲の商店街を挟んだ向こう側に建てることにした
お能は最後まで承知はしなかった
反対もしなかった
時親とは、口も利かなくなった
明るく朗らかだったお能が、自分の殻に閉じ籠ってしまった
それは自分の罪だと、時親は感じていた
いつも居るその部屋から、徳子の、火が付いたような悲鳴にも近い泣き声が聞こえる
時親は慌てて母子の居る部屋に走った
「どうした」
「あ・・・、旦那様・・・」
見れば、泣き止まぬ徳子を抱いて困憊している使用人の老婆と、徳子から顔を逸らして蹲り、耳を塞いで小さく丸まっているお能の姿があった
「どうした、お能。何があった」
応えそうにもない妻の代わりに、老婆に事情を聞く
「それが・・・。奥様、お嬢様に乳を与えてくださらないので・・・」
「何?」
「今日はずっと重湯で誤魔化していたのですが、それももう限界で・・・。お嬢様は母上様のおっぱいが飲みたいのです。ですのに、奥様は・・・」
「嫌よ!」
お能が突然叫ぶ
「お能」
「その子にあげる乳なんかないわ!」
「何を言ってる、お能!徳子はお前の娘だろう?娘が死んでしまっても良いのか?」
「だったら、あの女の乳をもらえば良いでしょうッ?!」
「お能・・・」
いつも優しく、朗らかで、凡そ怒るなど滅多になかったお能の、恨みに満ちたその目を、時親は凝視した
「あの女を抱いた手で、私を抱いたのでしょう・・・?それで、徳子ができたのでしょう・・・?私を莫迦にしているの?どこまで私に耐えろと言い出すの?その内、あの女をこの家に呼ぶの?それであの子も、自分の子として育てろと言い出すの?」
「お能・・・ッ」
「仕事だから?任務だから?赦せと?!」
「
母の声に、徳子の声が一層高くなる
言い訳の想い付かない時親は、使用人から徳子を受け取った
「
「
お能の口唇の端が、ぴくりと痙攣した
「私は、お前から逃げていたのかも知れない」
自分に非はある
それでも、聞いてくれそうにもない妻の態度にも、苛立ちを覚えた
「勝手だと罵ってくれて構わない」
「
そう言い返されるのを承知で言った時親は、一度目を瞑り、それから目蓋を開いて自分の本心を語った
「つらかった。妻は局処局長で、自分はその妻の肩書きに後押しされて、馬廻り衆筆頭に任命されたと人から囁かれ、つらかった」
「
お能は、そんな噂が流れていたなど知らない
「お七と居る時だけだった。自分の立場も肩書きも、忘れられたのは」
「
任務で逢っていた、と言われた方が、どれだけ気が楽だったろう
自分の肩書きは、そんなにも夫につらい重責を負わせていたのか
「すまなかった・・・」
そう、一言だけ言い残し、時親は部屋を出、屋敷を後にした
部屋には残されたお能の泣き声だけが響いた
「そうか。お能が育児拒否をしたか」
「申し訳ございません」
お七の家はまだ完成していない
今は清洲の宿屋で平次と二人身を寄せている
その宿屋には徳子を連れて行く気にはなれず、時親は城に戻って帰蝶に許しを請うた
「お前も知っているだろう。お能は身持ちの固い女だ。お前に似て、な。そのお前が他の女と肌を通わせただけではなく、子まで作っていた事実は、お能にとって耐えられるものではなかったのだろうな」
「全て私の責任です」
「その任務を命じたのは、私だ。よく考えもせず、お前に生駒屋内偵を任せた私にも責任はある」
「そんな・・・、奥方様は・・・」
潔癖症だと想い、私情を挟むことはないと信じて命じたが、まさか妻のお能の肩書きが時親の心を狂わせただなど、帰蝶にも気付かない理由である
「許せ」
「
逆に帰蝶に謝らせてしまったと、時親は酷く後悔した
「徳子は、私が責任を持って育てる」
「それは・・・」
「私の娘として、ここで育てる。異論はないな?」
「
応えられなかった
お七なら、きっと育ててくれただろう
だけど、それでお能はどうするのか
更にお能を追い詰めることにはなりはしないかと、不安だった
自分ではどうしようもない
帰蝶に任せるしかなかった
「
結局、主君に尻拭いをしてもらうしか、方法がなかった
情けない、と、想った
徳子を帰蝶に委ね、帰る道、時親は自宅に向う足が重いことを知った
時々、どうしても立ち止まってしまう
背中を何かに引かれる感じを覚えてしまう
また、情けないことをしてしまう、と、自覚しながらも、時親はお七の居る宿屋に脚を向けた
「平三郎様・・・!」
驚きながらも、それでもお七は笑顔で自分を迎えてくれる
妻は、自分の罪を許してはくれなかった
お七は、自分の罪を許してくれた
男は単純な生き物なのかも知れない
だけど、安堵できる場所をいつも探さなくてはならないほど、常に精神を蝕まれる立場に居る
まだ、春には遠い季節
時親の屋敷の庭先の桜が、一晩で一斉に芽を吹き開花した
やがて、尾張にも本当の春が来た
桜が芽吹き、慶次郎の祝言も行なわれ、利治もそれに出席した
春、利三が後妻をもらったことなど、帰蝶は露も知らない
妹が産褥死したことすら知らないのだから
安藤守就の監視下に置かれた夕庵との密通は、夫が死んで以来一度もない
それでも、手探り状態だった土田家との提携により、この頃少しは情報が入るようになっていた
織田が美濃入りした暁にはそれ相応の待遇を処すと、約束しているからだろうか
前年まで土田平三郎時親が潜入していた油問屋の生駒屋からも、ある程度の情報は仕入れていた
その代わりに、多額の借金を請け負うことにはなったが、斎藤が活発に動ける状態ではないことを入手した分、見返りとしては充分だろうか
山名で龍之介が受けた夕庵の伝言が、それを証明した
兄が重大な病に身を冒されていると
次の一手をと考えていた矢先、その兄が幕府相伴衆に任命されたのは手痛かった
阻止するべく巴を伊勢に送ったが、結局、自分の失敗により兄の手元に朝廷からの任命書が渡されるのを黙って見ているしかなかったのは心底悔しかった
京から戻って直ぐ、帰蝶は今も反抗的な態度を示す岩倉を包囲させた
流通を遮断しての兵糧攻めである
平地の場所では山と違って抜け道は殆ど存在せず、城に運ばれる食料品の運搬を止めるのは容易かった
命を惜しんだ織田左兵衛信賢は城を明け渡し、帰蝶によって国外追放を科せられた
処刑するのは簡単だ
だが、それによって清洲織田に反目する者が出ないとも限らない
父も土岐頼芸を生かしたまま、逃がした
結果、美濃の国人衆は沈黙した
自分も父に倣って同じことをするだけである
先人の教えは有効だった
「残るは、犬山だけになりましたね」
なつがほっとしたようか顔をして言った
「このまま大人しくしてくれていれば、良いのだがな」
「犬千代・・・。いえ、庭の雀はどう言ってます?」
帰蝶の庭に現れる図体の大きい雀の正体など、もうとっくの昔に知っている
なつの言葉に、帰蝶は苦笑いをした
「大きな山が動き出しそうだと、言って来た」
「
「さもありなん」
「
当面の目標を斎藤に宛てていた織田にとって、今川は片手間で相手できるほどの小ささではない
帰蝶はどう出るのだろうか、と、なつは不安になった
また、無茶をしなければ良いのだがとも、祈る想いでも居る
「奥方様」
信長の四回忌を済ませ、ほっとしている暇もないほど身の忙しい帰蝶に、なつはそっと言った
「今年の春は、暖かいですね」
「ん?」
「奥方様がお輿入れなされた春も、こんな風に穏やかでしたね」
「そうだったか」
「春は、全ての者の心を穏やかにしてくれます。奥方様も、どうか心穏やかに過ごしてくださいませ」
「
遠回しに、今川に対し先走った行動はするな、と言われたような気がして、帰蝶はまた、苦笑いした
利三と別れ、信長と夫婦になり、父に死なれ、夫に死なれた春が、暖かな風を纏って過ぎて行く
風に吹かれて桜の花びらが舞い上がるのを、帰蝶となつは空を仰って眺めていた
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女、色々
信忠を産んだのが生駒氏であったなら、彼女の史料は正しく残されていたと思います
それが空想話でしか残ってないと言うことは、信忠の母親は別にいたという証にもなります
その母親が誰なのかまでは史料が残っていないので何とも言えませんが、時期を考えても生駒氏ではないことだけは確かだと思います
それでも捏造された文面だけだとしても、今も猛威を振るって生きているのが悲しいですね
これは私の創作なのでなんとでも書ける物語ですが、信雄と徳姫が兄妹であると多くの創作物に取り上げられていることの辻褄は合いました(徳姫の母親は生駒氏とは別の女性だと、私は想ってます)
母親は違うけれど、父親が同じならば兄弟(姉妹)に当る時代でしたので、こう言った結末もありかと
今もやはり生駒氏の(創作上の方の)名前を見るのも鳥肌が立つので、ここではかの女性のことは一切考えず、『生駒屋の娘のお七』だけを考えて行きます
ですので実際の織田信雄生母はなかったものとして書いて行った方が、精神的にも楽ですので、彼女に関しては『史料がどうたらこうたら』とは言って欲しくないです
出したくない人間を出さざるを得ないと言うのは本当に、精神的負担が大きいのです
ですが、それが別の女性のことと当て嵌めれば、随分と気が楽です
ここでの彼女は、とてもではないけれど女の幸せとは程遠い生活をしていました
だけど時親(平三郎)と巡り会ったことで、漸く女に生まれた意味、意義を知ります
それは彼女にとって束の間の幸せでした
正妻に罵られようとも、それでも愛する男に逢いたかった、それを実際行動するのはやはり、勇気の要ることだったと思います
自宅の場所は知っているのに、子供が生まれてもしばらくは逢いに行こうとしなかった
そんな彼女が動いたのは、「平三郎様に逢いたい」と言う純粋な思いでした
こんな純粋な彼女が今後どう言った行動を取るのか、私自身楽しみにしています
それにしても、この物語には色んな女性が登場しますが、みんな上手く書き分けられているかなと、とても不安です(苦笑
それが空想話でしか残ってないと言うことは、信忠の母親は別にいたという証にもなります
その母親が誰なのかまでは史料が残っていないので何とも言えませんが、時期を考えても生駒氏ではないことだけは確かだと思います
それでも捏造された文面だけだとしても、今も猛威を振るって生きているのが悲しいですね
これは私の創作なのでなんとでも書ける物語ですが、信雄と徳姫が兄妹であると多くの創作物に取り上げられていることの辻褄は合いました(徳姫の母親は生駒氏とは別の女性だと、私は想ってます)
母親は違うけれど、父親が同じならば兄弟(姉妹)に当る時代でしたので、こう言った結末もありかと
今もやはり生駒氏の(創作上の方の)名前を見るのも鳥肌が立つので、ここではかの女性のことは一切考えず、『生駒屋の娘のお七』だけを考えて行きます
ですので実際の織田信雄生母はなかったものとして書いて行った方が、精神的にも楽ですので、彼女に関しては『史料がどうたらこうたら』とは言って欲しくないです
出したくない人間を出さざるを得ないと言うのは本当に、精神的負担が大きいのです
ですが、それが別の女性のことと当て嵌めれば、随分と気が楽です
ここでの彼女は、とてもではないけれど女の幸せとは程遠い生活をしていました
だけど時親(平三郎)と巡り会ったことで、漸く女に生まれた意味、意義を知ります
それは彼女にとって束の間の幸せでした
正妻に罵られようとも、それでも愛する男に逢いたかった、それを実際行動するのはやはり、勇気の要ることだったと思います
自宅の場所は知っているのに、子供が生まれてもしばらくは逢いに行こうとしなかった
そんな彼女が動いたのは、「平三郎様に逢いたい」と言う純粋な思いでした
こんな純粋な彼女が今後どう言った行動を取るのか、私自身楽しみにしています
それにしても、この物語には色んな女性が登場しますが、みんな上手く書き分けられているかなと、とても不安です(苦笑
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
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(二本セットの画像)
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吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
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濃姫の里 隠し吟醸
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わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト
濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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あまり役には立ちませんが念のため
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