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「では、問題です」
今年漸く八つになった少女に、夕庵は質問した
娘結いの横髪に靡く緋色縮緬が、夏風に揺れる
「敵勢千の中に味方五百で割り込む場合、何処から攻めれば有効に勝利できるでしょうか」
「簡単です。五百で周りを囲んでしまえば良いの」
「え?」
夕庵は目を丸くした
「それから、火を放り投げれば敵は全滅するわ」
「そう、上手く行きますかな?」
「だって、軍勢は一つの固まりになって動くのが鉄則。それを守る以上、一人に火が付けば周囲八人にも火が回るもの。無理じゃないでしょう?」
「 」
唯一、正妻生まれの姫君は、大事大事に育てられていた
凡そ争いごとなど無縁の世界を生きていた
それでもこの幼き姫君は、歴戦の武士ですら想い付かないようなことをポンポンと簡単に、言葉にする
「どうですか?私の考え、至らぬものでしょうか」
「いいえ、中々奇抜な妙案でございますな。この夕庵、驚きに満ち溢れ、言葉がございません」
「そうですか?」
「ええ、中々の案でございますな。感服いたしましたぞ」
「えへへ。先生に誉めてもらえるのなんて、久し振りです」
幼き姫君は余りにも美しい微笑みで、頬をほんのり紅に染め、はにかんだ顔をした
その微笑みに夕庵も返す、しかし心の裏では唸りを上げる
もしも男に生まれていたら、きっと、いや、間違いなく
あなたが女に生まれたのは、必然、かも知れませんな
『小さな孟徳』よ
命あっての物種と言う言葉があるように、死んでしまえば元も子もなくなる
戦に負けたと判断が降りれば、即座に撤退の指示が出る
逃げる際は少しでも身軽にしておいた方が、逃げやすい
刀は腰にさせるので兎も角、槍や、特に鉄砲などの手を塞いでしまうような、つまり、手で持たなくてはならないようなものは即座に捨てられてしまうのが多かった
斎藤軍はその鉄砲の準備をしていなかったので、殆どの鉄砲は荷駄の車に載せられたままだったが、その車を抱えて走るわけにも行かず、また、狭い船口を抱えて登るのも無理な話であるため、帰蝶は斎藤の置き土産、『鉄砲』を無傷で手に入れることができた
「しめた。国友の鉄砲だわ。これなら軽くて扱いやすい。直ぐに久助の部隊に配分して」
「はっ」
「それじゃ、私は浮野に向うから、後の始末はお願いね」
「斎藤の兵士は、如何なさいますか?」
「放っておいて。私達だけじゃ、片付けるのは大変だもの。近隣の村人が始末してくれるだろうけど、手ぶらじゃ可哀想でしょ?鎧とか槍とかはそのままにして、鉄砲だけ回収してて」
「承知しました」
やがて雨も上がり、漂っていた雲の切れ間から光が差し込む
撤退を余儀なくされた一鉄は、敗戦の報告を上げようと義龍の部屋を訪れる
「殿、稲葉殿がご帰還なされました」
義龍は自室に居た
ここのところ体調の優れない日が続いている
「通せ」
義龍の側には夕庵が居た
軍事的なことは不信感から任せられないが、内政的なことは頼りにするしかない
襖を開けた向うには、兜を脇に抱えた一鉄が膝を落として項垂れていた
「どうした、稲葉。帰って来るのが、随分早いようだな」
「 申し訳ございません。斎藤軍、壊滅にございます」
「 」
一鉄の言葉に、義龍は黙り込んだ
「壊滅、とは?」
代わりに夕庵が問う
「着岸した山名にて、織田軍の攻撃を受けました」
「山名に・・・・・・」
「まるで、予め待ち伏せていたような」
「まるで、ではなく、間違いなく待ち伏せを食らったのでしょうな」
「武井様。此度の作戦、外に漏れたとしか想えませぬ」
「それはどうでしょう。例え漏洩しなかったとしても、斎藤軍は織田の待ち伏せを食らったのではないでしょうか?」
「それは一体・・・」
一鉄の目は、自分を疑っている
そうだろう
元々は土岐家の家臣
今も心は土岐にある一鉄の真の主は、『斎藤』ではない
斎藤の、いや、新左衛門、道三の頃より仕える夕庵は、斎藤の中でも古参の家臣
土岐にとっては仇敵の自分を、土岐家旧臣の一鉄が心から信頼などできようもない
増してや、一鉄の同僚で美濃衆筆頭の安藤守就は今も、自分を疑っているのだから
それをわかっていながら、夕庵は堂々と振舞った
「先の戦で岐阜屋が斎藤に加担しないことは、先刻承知のはず。また、可児の土田家も織田に寝返った。そうなると、斎藤は自前の船で尾張に渡るしかない。その船も小さなものではなく軍艦です。大きな軍艦を着岸できる場所と言えば、尾張でも数が知れている」
「 」
一鉄は黙って夕庵の話を聞いた
「一宮で岩倉と清洲がぶつかっているとなれば、そんな激戦地に態々船を着ける筈もない。犬山から向うは今川が張っている。おまけに川のこちら側は遠山家の領地。どの道、斎藤には近付けぬ場所。そうなると、残りは岩倉と犬山の間にある山名が着岸に最も適した土地。それさえ理解できれば、待ち伏せなど容易いことにございます」
「 また、帰蝶か」
後ろで義龍が呟く
「どうでしょう。これが姫様の策かどうかまでは、私にはわかりません。なんせ私は二年前、姫様に通じているとあらぬ疑いを掛けられ、今も監視下に置かれている身の上でございますので、こちらから姫様と内通することも、姫様からこちらに内通することも叶いませぬ」
そう、きっぱりと言い切る夕庵に、一鉄も目を反らす
「ただ、これだけは殿にも稲葉殿にも申し上げます」
「何だ、言ってみろ」
「姫様を推し量ること、なんぴとたりとも無理なことにございます。あの方は杓子定規で計れるほどの、単純なお方ではございません。わたくしも、姫様には今まで何度も驚かされて参りました。あの方の頭の中を一度、この目で見たいほどでございます」
「夕庵・・・」
「私も、時々忘れ勝ちなのですよ」
「何を、だ?」
苦笑いする夕庵に、義龍が訊ねた
「私達は、誰を相手に戦っているのか、を」
「 」
義龍も一鉄も、夕庵の言葉に黙り込む
夕庵自身、忘れてしまう時がある
あの『怪物』を育てたのが、自分だと言うことを
一鉄が報告を終え、出た後の部屋にはやはり、夕庵だけが残されていた
山名での敗戦に、また、織田に見透かされていたことも加え、病に冒された躰には充分過ぎるほど堪える
俄に鼓動も激しくなった胸を押え、義龍は身を屈めた
「殿!」
「 」
直ぐに返事ができぬほど、鋭い痛みが心の臓を突き刺す
「床の用意を・・・ッ!」
廊下で待機している小姓衆に、夕庵は震える声を張り上げた
あなたには、まだ死んで欲しくないのですよ
そんな想いが言葉になって溢れそうになる
晩年、美濃を自分の想い描く通りに変革させようと、道三は急ぎ過ぎた
自分の意見に反対する者を断罪し過ぎた
お陰で美濃の国人衆は斎藤から離れ、長良川での戦が起きた
その、離れて行った国人衆を再び呼び戻すことに成功したのは、他の誰でもない
この義龍なのだ
義龍の父親が土岐頼芸だと言うのは根拠のない話だとしても、それが保身に走った道三の虚言だとしても、義龍は己を矢面に立たせることで、己を犠牲にすることで、美濃を守ろうとして来た
その心意気だけは、評価したい
だが、美濃と斎藤を繋ぎ合せていた義龍が居なくなってしまえば、美濃は再び混乱に落ちる
それだけは避けねばならない事態であった
今はまだ、死んではならぬ身であることは、誰よりも夕庵が一番良くわかっていた
「 清四郎に、帰蝶を侮るなと言っておいた私自身が、帰蝶を侮っていたな・・・」
布団の中で、大きな躰をした義龍が、小さな声で呟く
「殿・・・・・・・・・」
「お前が局処で帰蝶を教育していた頃、私は既に本丸で暮らしていた。だから、局処での帰蝶の様子を知らん・・・。帰蝶は、どうであった。どんな教え子であった」
ただ知りたい、それだけの純粋な想いだったのだろう
夕庵には、可愛がっていた妹の、その姿が今は敵に変わってしまったことへの後悔のような想いが見えていた
妹を敵にしてしまったのは誰でもない、自分なのだから
「僅か二年ほどの短い間でございましたが、その二年は限りなく充実しておりました。私は、あれほど聡明なお方を、見たことがございません。一を聞いて十を知る。正に、その通りでございました。が、それ故、考えが先走ることも少なくなく、一言で言えば危なっかしい性格だった、と申しましょうか」
「ははは・・・、その通りだな。帰蝶はいつも先をゆき過ぎる。他の誰も追い付かんほど、先へ先へと急ぎよる。見ていて危なっかしいほどに。 だから父上は、帰蝶を尾張にやったのかも知れん」
「殿」
「父上の描く夢物語、知らぬわけではなかった。美濃を制した者は、天下を制する。それはもう何百年も昔に語り継がれた御伽草子としても、美濃に根を下ろす者なら誰もが想い描くであろう。土岐の通った路は、天下に向って続いていると」
「そう・・・ですな」
「尾張を制し、その次は、伊勢。嘗て土岐が治めていた国を取り戻せば、美濃は再び『王国』として息を吹き返す。父上もまた、急(せ)い過ぎたのかも知れん・・・」
「 」
まだ若き青年武将であった道三の、戦に出る姿はとても美しく、華やかだった
輝ける日々を具現化したような姿だった
いつからその輝きが色褪せてしまったのか、側で見ていた夕庵自身、わからない
心がいつしか次世代へと、移ってしまった所為かも知れない
いつも想う
嘗ての教え子、神の申し子、帰蝶が男に生まれていたら、自分は再び戦場に立ちたいと言う欲望を抑え切れないだろう、と
神懸り的な統率力、瞬時に全てを把握し、指示できるその人間離れした能力
もう、五十に手が届きそうな年寄り馬が併走し、連れ添えるほど帰蝶は大人しくはないと知っていた
いつからだろう
あの姫君の背中しか見れなくなったのは
年を重ね、自由に動ける脚の赴く距離が伸び始めた頃、夕庵は気付いた
自分の手に負える相手ではないと言うことを
手綱を縛って制することのできる名馬ではなく、荒れ狂う野生の馬であることを
それを知った時、夕庵は自分から帰蝶の許を離れた
戻れば直ぐに部屋に来いと言われていた利三は、義龍の部屋を訪れるため廊下を歩いていた
先に戦果報告に一鉄が行っていると聞き、自分は後からと遠慮したのだが、その一鉄と廊下で向かい合わせになった
「斎藤殿」
「稲葉様。報告は、お済になられたのですか」
「ああ」
鼻から大きな溜息を吐き、一鉄は応えた
「殿には申し訳ないことを。前年の安藤殿同様、織田にしてやられました。我が采配も鈍りましたかな」
若輩者である自分に対しても、一鉄は礼儀を欠くことをしない
好感の持てる男であった
「それに関しては、稲葉様だけの責任ではございません。わたくしも着いていながら、なんの助力にもなれず、悪戯に鼓舞した分、斎藤に大きな損失を出してしまいました」
「いやいや、そなたの采配は素晴らしかった。あれほど怖気付いた者が続出した中、良く立て直された。感服いたしました」
「そんな・・・」
小恥ずかしく、利三は少し照れ笑いをした
「斎藤殿は、戦前に奥方を亡くされたばかりの喪中であるにも関わらず、勇猛果敢な攻め振り。お心痛んでおられるでしょうに、気丈に振舞うその姿、感心頻りでございます」
「いえ・・・・・・・・・」
応えられなかった
椿を亡くしたことは悲しいことに変わりはない
だが、それ以上に心が軽くなったなど、誰に言えるはずもなかった
「殿にお逢いになられるので?」
「 はい。稲葉殿の補佐に着けていただきながら、何も成果を上げられず、油を絞られに参ります」
「油屋の孫に油を絞られるとは、皮肉な話でございますな」
「いえ・・・」
利三を同情しての言葉だとしても、その『油屋の孫娘』に想いを寄せている利三にとっては、笑える程度ではなかった
一鉄と別れ、再び廊下を歩き出す
義龍の容態は日に日に悪くなっている
それを誰も気に留めようとはしなかった
嫡男はまだ幼い
その嫡男を無理に元服させ、後継者として公認することも急がれている
流れが悪い方向に向っているようで、利三は不安で仕方がなかった
「斎藤様、お越しです」
廊下に控えた小姓が利三の到着を知らせる
「斎藤殿、こちらに」
襖を開けたのは夕庵で、利三は少し驚いた
一時期は帰蝶と通じていると安藤守就に疑いを掛けられてから、身辺がきな臭くなっている
四六時中誰かに監視された状態に置かれ、息苦しい毎日を送っているとも知っていた
その夕庵が、義龍の部屋に居ることが不思議に感じた
義龍は、妹・帰蝶を敵対視していないのではないかと、俄な安堵を持つ
帰蝶に通じている夕庵を、側に置いておくわけがないと想ったからだ
「失礼します」
利三は一礼し、部屋に入った
だが、居間であり私室でもある部屋に義龍の姿は見えない
「あの、殿はどちらに?」
キョトンとした利三に、振り返った夕庵が口唇に人差し指を当てる
「殿は、こちらです」
そのまま庭側縁側への障子を開け、夕庵は義龍の許へ案内した
少し離れた場所に、義龍の寝室がある
場所は知っていても、普段立ち入ることのない場所だった
「殿。清四郎殿がお見えになりました」
「ああ・・・」
障子の向うから義龍の声がして、夕庵が自らそれを開けた
部屋の中央に敷かれた布団の中に、義龍が居る
「殿・・・ッ!」
利三は慌てて部屋に駆け込んだ
「お具合は・・・」
「大事ない。少し気分が悪いだけだ」
「申し訳ございません、山名にて織田の襲撃を受け、おめおめと帰って参りました・・・」
利三は義龍の側で膝を落とし、頭を下げた
「いいや。読まれていたなど、わし自身考えが足りんかった。お前だけの責任ではない」
「殿・・・・・・・・」
「ふぅ・・・」
小さな溜息の後、義龍は呟くように言った
「わしは、己を責めている」
「殿?」
「どうしてあの時、力尽くでも帰蝶を止めなかったのか」
「 」
帰蝶を見送った木曽大橋の光景を想い出し、利三は黙り込んだ
「帰蝶を敵に回した途端、この様だ。この体たらく、女を相手にして一度も勝てぬ歯痒さ。自分でも情けない」
「そんなことは・・・」
「鉄砲を、持って行かれたそうだな」
「 申し訳ございません」
「仕方がない。あんなものを抱えて逃げても、船が落とされただろう。だが、痛い損失であることに変わりはない。斎藤はもう、木曽川を越えて尾張に攻め込むのは、無理なのかも知れんな」
「 」
ならば
こちらから尾張に攻め込むのが無理ならば、織田を美濃に誘い込めばいい
利三はそう、考えた
帰蝶が『信長』の参謀として側に居るのなら、『対信長』ではなく、『対帰蝶』で作戦を練ればいい
帰蝶の性格、気質は嫌と言うほど熟知している
胸が苦しくなるほど負けず嫌いなその性格を、利用すればいい
「殿」
利三は自分に賭けた
側に夕庵が居ることも構わず、利三は頭に描いた攻略を義龍に話した
夕庵は、今は斎藤を守ることに専念するはず
そう考えた自分に賭けた
一足先に、負傷した者だけが清洲に戻った
その中に佐治も含まれている
血は既に止まっていたが、帰蝶に帰れと命じられた
その帰蝶は黒母衣衆、斯波衆らと共に一宮に向っていた
松風は帰蝶が乗っているので、佐治は手ぶらで帰ることになった
物見遊山で出向いたわけではないが、帰りは小牧を通って行くとのことで、勝手知ったるなんとかに一人戦列を離れ小牧の平三郎、弥三郎の実家に駆ける
母と兄が居る自身の実家は、ここからもうひとつ山を超えなくてはならない犬山の近くなので、寄っている暇はなかった
できることならやえに、自分は元気でやっていることを伝えたい
文字の読めない母と兄に手紙を送っても、読んでもらえる筈がなかったからだ
「おかみさん!」
平左衛門の家は、農家と混ざった住宅地にある
見知った顔も居る中で、佐治はやえの居る家に入った
平左衛門は仕事に出ているのか、いつものようにやえ一人が家に居る
佐治が突然戻って来たことにも驚くが、佐治の恰好を見てもまた驚く
いつもは継ぎ接ぎだらけの襤褸を着ていた佐治が、新しい小袖のみならず、軽い鎧まで着けているのだから
「 佐治・・・?お前、どうしたの!なんだか立派な身形になってるけど、お侍様にでもなったのかい?」
「違うよ。戦に出てたんだ」
「戦に?!やっぱり、お侍様になったんじゃないか」
「だから、侍にはまだなってないよ」
わかってくれないやえに、佐治は苦笑いして説明した
相変わらず狭っ苦しく、だけど団欒の溢れた家で、弥三郎が正月には必ず帰省する理由が、離れていたからか佐治にもよくわかった
そこにやえが居るだけで、ほっとできる
「まぁ、お上がり。お茶でも淹れてやろうね」
「のんびりしてられないんだ。帰る途中に抜け出したから、早く追い付かなきゃ」
「そうかい」
「それでね、おかみさん。かあさんに、逢うことがあったら伝えてくれない?」
「何を?」
「俺は元気でやってるから、って。知行がもらえるようになったら、清洲に呼ぶから、って」
「ええ、ええ、おさえさんに伝えておくわ」
「頼んだね」
「それはそうと、お前の兄さんの結婚が決まったよ」
「ええ?!」
やえの言葉に、佐治は目を丸くして驚いた
「い、いつ?」
「来年の春にね。手紙とか、届かなかったのかい?」
「うちの家族で手紙書けるようなの居ないよ」
佐治は苦笑いして応えた<
「そう」
平三郎も弥三郎も手紙は書け、やえ自身も文字が読める教育を受けていた
それが当たり前だと想っていたやえは、佐治の家庭がそうではなかったことを想い出し、少し申し訳なさそうな顔をした
「そっかぁ、兄さんもお嫁さんをもらうのかぁ。相手は?」
「うん、隣村の子でね、おさえさんの話では、随分働き者だそうよ」
「それは何よりだ。でも、ぶっきら棒な兄さんに、よく嫁に来ようなんて想ったもんだ」
「何言ってんの。あの子は心根の優しい男だよ。お前の兄さんなんだから、当たり前じゃないか」
「へへ・・・」
兄を誉められ、佐治も満更ではない顔をする
やえにくれぐれもと頼み、佐治は早々に家を出た
帰り道、ふと道端に咲く山蛍袋を見付けた
「うん、これから咲くのかな」
少し花びらは開いているが、全開と言うわけでもない
それを手に取りじっくり眺めていた佐治は、何を想ったか根元の方を指で抓むと、できる限り根を残そうと引っこ抜く
「ごめんよ。ここで咲いていたかっただろうけど、一緒に清洲に来てくれないか?道中の道連れだ。きっと、お市様も喜ぶ」
これと言って見応えのある花ではない
だが、それに負けぬほどの愛らしい色をしていた
例えるならば、乙女の頬のような、淡い紅色である
少し紫が混じった色のものも同じ茎に着いているが、一番高い場所にある山蛍袋は紫よりも赤の方が強い
佐治は市を喜ばせようと、大事そうに抱えた
小牧から那古野まで、何度も往復した経験がある佐治は、抜け道を知っている
先に戻った織田の兵士達は普通に街道を進んでいるが、佐治はその抜け道を使って清洲に戻る
街道は大きな町や村を繋ぐための道であり、小さな村落には続いていない
村落の場所を把握している佐治には動作もないことだった
案の定、清洲の町の手前で負傷兵を連れた先発隊と合流できた
「どこ行ってたんだ?佐治」
「ちょっと寄り道です」
自分を見付けた黒母衣衆に声を掛けられ、佐治は笑いながら応えた
負傷はしていないが、利治も清洲に戻っていた
帰蝶の命令ではなく、慶次郎から戻った方が良いと進言されたからだ
戦いの最中、利治は覚えていないことがいくつかある
最初に突き倒した敵兵の後、それから慶次郎に抱えられた間の記憶がない
気が付けば慶次郎に抱えられていた
聞いても「中々の活躍だった」としか言わない慶次郎に、利治も深くは追求できなかった
竹を割ったような性格の慶次郎が口篭る
その先にある真実を聞くのが怖かった
「この後どうする。長屋に帰るか?」
「うん・・・。でも、一応、姉上が戻られるまでここに残ってるよ」
「そうか」
「うん」
どうしたのだろう
慶次郎の表情がいつもと少しだけ違うと想えるのは、自分の気の所為だろうか
一宮・浮野
雨が東から流れて来たのを合図に、勝家は作戦を決行した
こちらでも斎藤と同じく、雨の中では鉄砲は使えない
強風も同じで、弓も使えなくなるだろうと見越し、帰蝶は山名と同じ作戦に打って出た
但し、こちらは平地であるため山や丘をくり抜いての横穴は掘れない
代わりに勝家は天幕をそのまま地面に敷き、その下に鉄砲隊を潜り込ませた
鉄砲隊本隊を指揮する一益が居れば、少しは円滑にことが進むのだろうが、その一益が居ない今は『凌ぎ』程度の応戦しかできないのが腹正しかった
前夜、恒興の用意した天幕も引き千切られ、土に覆い被せられている
だが、この雨で鉄砲が使えなくなった岩倉に比べれば、戦力にはなっているだろう
可成、弥三郎、それに加え恒興の部隊も前進し、岩倉を追い詰めている
徐々にではあるが、岩倉軍が後退し始めた
利家の加わった赤母衣衆が自分の作戦伝令に走り回っている光景の中、勝家は新たに指示を出した
「岩倉を居城に追い詰めろ!」
ここからでは何とも判断できないが、犬山の動きが鈍足である
本気でこちらに加担する意志がないと言うことを物語っていた
ならば岩倉を城に戻して攻め込もうかと考えた
但し自分は、帰蝶と違って的確な采配が下せるかどうか、自信はない
自信はないが、やらねばならなかった
「森隊に南に下るよう伝えろ!」
「はっ!」
勝家の伝令はすぐさま可成に伝わり、指示通り南に下る
ところが、左右に挟まれ動けなくなったはずの岩倉が大幅に後退を始めた
後ろは犬山
逃げれるはずのない方向に大胆な動きを見せる
「まさか・・・?」
勝家は岩倉の動きに、よもやな考えが浮かんだ
だが、考えを整理している暇などない
「岩倉を下がらせるな!城に誘い込め!」
後ろに下がられては、鉄砲隊の玉も届かなくなってしまう
それどころか、味方を背後から撃つと言う最悪の結果にもなりかねない
「鉄砲隊、撃ち方やめいッ!」
折角の作戦が、岩倉軍の予想外の動きで無駄になってしまった
いっときのこととは言え、岩倉がこちらの作戦に動揺し士気が乱れた隙を突けるかと北痩笑んだのも、束の間のことだった
「森隊、岩倉の背後に回れ!」
赤母衣が伝える勝家の指示に、可成が怒号を上げる
「少人数でできるわけがない!死んで来いと言うのかッ!」
岩倉の指揮を乱すはずが、こちらの士気が乱れ始めた
「やばいことになって来たな・・・」
この雰囲気に、利家も聊か不安げな顔をし始めた
ここに、奥方様が居られたら・・・
そう想うのは、仕方のないことだった
清洲の士気が乱れたことを、岩倉が察知する
その途端、逃げの一手だった岩倉が反撃を開始した
うおおおー!と怒号を上げ、清洲に押し寄せる
「押し返せッ!」
勝家の指示に再び赤母衣衆が駆け抜けた
だが、最早巻き返しの効かないところにまで岩倉が押し詰める
勝家の居る本陣にまで岩倉の兵の姿が見えた
「くそッ!」
舌打ちしながら、勝家が槍を握る
「城に戻らんのであれば、ここで殲滅するッ!」
「柴田殿!」
この浮野での総大将は勝家であった
その勝家が出なくてはならないと言うことは、清洲が追い込められている印象を与えてしまう
それは所謂、『清洲の負け』を決定付けるものであった
絶対に避けねばならない事態に陥ったことに、勝家自身歯軋りした
引き止める信盛の手を振り払い、勝家は本陣を出ようとする
その勝家の耳に秀隆の声が聞こえた
「権さん!」
「 シゲ・・・?」
別の場所で戦っているはずの秀隆の、その背後にも伸びた織田の軍勢に、勝家は目を剥いた
「山名はどうした!」
「心配要りませんよ。ほら!」
「 」
秀隆の指差す方に顔を向けると、そこにあるのははためく無数の『織田木瓜』の軍旗
織田本隊がそこにあると言う表れであった
「まさか・・・、こんな早くに?」
「天運が我らの味方をしました」
誇らしげに応える秀隆に、勝家の頬も綻ぶ
「ははははは!」
『織田木瓜』がそこにあると言うことは
「雨が総大将を呼んだのか、総大将が雨を呼んだのか、どっちだ!」
「その両方!」
「この攻勢に良く耐えた。皆の者!岩倉を跪かせろッ!」
「おお ッ!」
帰蝶の号令に、清洲織田軍本隊が一斉に岩倉織田に襲い掛かった
その光景は、さながら『津波』
大きな波のうねりが大地を飲み込むかのような光景だった
「お市様」
佐治の声に、俯いていた市はハッと顔を上げた
「帰って来たの?!」
「はい、只今」
「お帰りなさい」
ほっとしたような、そんなたおやかな薄笑いを浮かべる市に、佐治は手にしていた山蛍袋を差し出した
「花・・・?」
「はい、咲いていましたので、持ち帰りました」
「 」
優しい色の山蛍袋を受け取り、市はそれをじっと見詰めた
「なんて言う花?」
「山蛍袋と言います」
「山、蛍袋?」
「この花の花弁に蛍が蜜に誘われ入る光景から、蛍袋と呼ばれています」
「鬼灯みたいなもの?」
「そうですね、似てますね」
「ありがとう」
顔を上げ、礼を言う市は、佐治が腕に傷を負っているのを知った
「佐治、怪我・・・!」
「あ・・・。大したことありませんよ、ただの掠り傷です」
「でも、化膿したら大変だわ。手当てしてあげる、こっちに来て」
と、市は佐治の手を取って小走りに駆け出した
「お市様・・・!」
引かれた佐治は、少し慌てる
局処に入るには、帰蝶の許可が要る
だが、その帰蝶が不在では、万が一市に咎が飛んだりはしないだろうかと案じた
そんな二人を、なつが見ていた
未だ帰らぬ帰蝶を心配しつつも、目の前の小さな戯れに微笑ましさをも感じる
尚更
この安穏とした世界で生きられぬ帰蝶が、哀れで仕方なかった・・・
「奥方様!」
本陣に乗り込んだ帰蝶を見て、勝家は破顔で出迎えた
「良く耐えたわね、権」
「いえ。押し返せず、寧ろ岩倉に反撃の機会を与えてしまったこと、腹を切る覚悟で詫びをせねばならないと痛感しております」
「腹を切るのは、戦に負けてからになさい」
「 は・・・ッ!」
苦笑いする帰蝶に、勝家も顔を顰めて笑った
「三左の部隊を引き戻せ!弥三郎には権が付け!斯波旧臣は犬山に貼り付け!側面から圧力を掛けろ!」
「はッ!」
この状況を一瞬にして把握するその能力
やはり常人ではないと唸らずにはいられなかった
「権!」
「はッ!」
「出なさい。本陣でじっとしていて、退屈だったでしょ?想いっ切り暴れて来いッ!」
「御意ッ!」
勝家の顔に生気が蘇った
「 」
帰蝶が『そこに居るだけ』で、周りの空気がびしっと張り付けられる
この光景をまざまざと見せ付けられ、勝家自身はおろか、離れた場所から見ていた利家まで壮観に目を見張った
「奥方・・・」
「犬千代!」
「はっ、はいッ!」
驚いた利家は慌てて馬を帰蝶に付けた
「走れ!赤母衣第一班、前田に着き岩倉前線に戦う土田弥三郎に伝令ッ!北より南下、犬山もろとも岩倉を殲滅ッ!魚鱗にて敵を分断、滝川隊が待ち受けているから、安心して突き進めと伝えろッ!」
「了解ッ!」
緩やかな流れはやがて人の形を成し、その中心に羽を広げる
塞き止められた想いの向うに、懐かしい暖かな香りと、心擽られる表情が浮かぶ
幾星霜を駆け抜けても追い着かぬ距離、届かぬ指先
得られぬ安堵
捩れて切れてしまいそうな吐息
人の夢と書いて儚いと読む、その想いのままに、未だこの手に戻らぬあの温もり
忘れたい
忘れられない
彼女もまた、自分の半身だから
「奥方様がお戻りに成られましたッ!」
本丸勤めの菊子が、駆け込むように局処にやって来た
膝を突いて座っていたなつは慌てて立ち上がろうとし、自分の小袖の裾を踏んで見事に引っ繰り返る
「 大丈夫?」
側に居た市弥が、唖然とした顔で覗き込んだ
「だ、大丈夫でございます・・・」
恥しさの前に、なつは膝の痛みも忘れて立ち上がった
大手門では先に戻っていた利治、慶次郎も帰蝶の帰還を出迎える
これは凱旋だろうか
長年の仇敵でもあった岩倉を敗退に追い込んだ
伊勢守家で起きた後継者問題の隙を突いたとは言え、一時期岩倉を離れていた当主・織田信安を尾張から追放することには成功したのだから、『凱旋』と言えば『凱旋』だろう
戦の後、岩倉織田の家内騒動の始末は、その息子である信賢に負わせる算段であった
兎にも角にもこの一戦で、帰蝶は尾張制覇の王手に近付いたのだ
姉を誇りに想わないわけがない
「 姉上・・・・・・・・・」
松風の上の帰蝶は、この上なく威風堂々と、そして比類できる存在でもなくなって行く淋しさと同時に、例えようもないほど光り輝いていた
表座敷では祝勝会が催され、帰蝶は裏で戦後処理に当っている
側にはすっかり腹心でもある秀隆が、付きっ切りで補佐をしていた
「左兵衛殿のご処分は」
「今はまだ泳がせておきましょう。失態を犯したのは、父親の方だもの。倅が何かしでかさない限り、こちらから下手に手を出せば、世論で勝幡織田がしっぺ返しを食らってしまう」
「はい」
「岩倉の領地の半分は、清洲が管理することで話は纏まったそうね」
「はい、堀田様がその交渉に当られて」
「道空のことだから、どうせ言いくるめたんでしょ」
からからと笑いながら告げる帰蝶に、秀隆も笑う
そんな二人になつが茶を差し出した
「大和から届いた新茶ですよ。どうぞ」
「大和 」
「これはありがたい。丁度喉が乾いていたところです。いただきます」
「与兵衛殿も表座敷の祝勝会に参加すればよろしいのに」
「いえ、疲れてますし、今酒を飲んだら直ぐに潰れてしまいますよ」
苦笑いする秀隆に、なつも微笑んだ
そんな二人の前で帰蝶が呟く
「大和と言えば、讃岐の三好家」
「はい?」
秀隆が聞き返す
「このところ、京の都で幅を利かせていると聞くけれど」
「そうですね。かと言って、今の我らにどうすることもできません。それに、京には将軍もおられるのです。どっちにしても、我らの出番などございませんよ」
「 」
黙って茶を飲む
そんな帰蝶を、なつもまた、黙って見守った
もう、次のことを考えているのか、と、悲しげな表情で
少しはのんびりしたら良いのに、と、言えないもどかしさを抱えながら
敗戦処理に追われ、屋敷に戻ったのはこの日の夕刻近い刻限だった
心身ともに疲労厳しい利三を待っていたのは、妻の葬儀の準備と、兄の斎藤孫九郎
「兄上・・・!」
「ああ、ご苦労だったな」
兄と顔を合わせるのは、正直何年振りだろうか、と、指折り数える
母の千代が実家の蜷川家の命令で父と無理矢理離婚させられ、嫡男である兄は斎藤家の大事な跡取りとして、稲葉山城にも上げられず、土岐の本拠地でもあった革手の屋敷に引き篭もって久しい
戦には決して出せぬ存在でもあるため、槍働きは専ら利三が担っていた
「椿様のこと、心中察するに余りある。気の毒なことをした」
「 」
気が楽になったとは言え、長年夫婦として連れ添った時期も確かにあり、内心穏やかではいられなかった
兄の言葉に利三は、頭を擡げる
「戦も、つらい結果になったようで」
「父上の怒り心頭なお顔が、脳裏に浮かんで私を苦しめます」
「ははは・・・。戦は生き物、水物だ。その時その時で変化する。それを制することは、生半可なことではない。汚名は何れ返上できる。しかし、失ったものを取り戻すには、それ以上の覚悟が要る」
「 」
孫九郎の言葉に、利三は黙り込んだ
失ったもの
帰蝶
共に過ごした季節
懐かしい想い出達
取り戻すことは、容易ではないのだと言われたような気がして・・・
「時に」
「はい」
兄の口調が変わったことに、利三は驚いて顔を上げた
「母上が再嫁なされた石谷家のことなのだが」
「はい・・・。如何なされましたか」
母の千代とは、まだ幼い頃に生き別れた
それは時勢が土岐から斎藤に移り行く頃のことで、この時既に道三に主導権を奪われていた利賢に妻を引き止める力はなく、精々、嫡男である孫九郎を手元に残しておくのが精一杯の抵抗だった
蜷川家は越中の大豪族
朝倉への護りとして、道三も蜷川家の意見は尊重したかったところだろう
一方的に蜷川家の申し出を飲み、利賢の妻を土岐の一門でもある石谷家に嫁がせた
「その石谷家のご当主様、つまり母上のご亭主様が、病に倒れられた」
「ええっ?」
「不幸なことに、母上との間には女子しかおらん。嫡男がおられないのだ」
「それは存じてますが、それが何か」
「石谷家は近江への防衛の要ともされている。その石谷家との縁を断ち切るのは困ると、蜷川家から申し出があって 」
「また、蜷川ですか・・・」
利三の声が低く震えた
「仕方あるまい。蜷川は長年に渡って越前・朝倉への防波堤として、美濃を守ってくれているのだ。無碍にはできんと、父上も仰られている」
「父上が?」
「そこで、だ」
「 はい」
「私が、石谷の養子として、入ることに決まった」
「え・・・?あ・・・、兄上が・・・ですか?」
利三の目が、いっぱいに開いた
「しかし、兄上は斎藤家の嫡男です!何故兄上が石谷家に・・・ッ!行くのなら、私がッ・・・!」
「越前への守り、近江への守りを考えれば、嫡男である私が向うのが道理だろう」
「ですが、そうなれば斎藤の跡継ぎは・・・!」
「お前が居るではないか」
「 」
兄のあっさりとした返事に、利三は言葉を失った
「少しお休みになられます?」
秀隆との打ち合わせが漸く済み、局処の自室に移った帰蝶に、なつが声を掛ける
「ゆっくりもしてられないわ。権の話だと、犬山は殆ど傍観を決め込んでいたようだし、そうなると何れは清洲にも牙を剥くかも知れない」
「そんな・・・。伊予様が嫁がれるというのに・・・!もう、出発の準備は整ってるんですよ?」
「それでも、もしも浮野の戦で清洲が負けていれば、犬山は岩倉と手を組んだでしょうね。状況があれ以上に悪かったら、きっと掌を返されていた。権がギリギリのところまで踏ん張ってくれてなかったら、私が到着した頃にはもう、勝敗は決まっていたかも知れない」
「 」
「それと、龍之介が斎藤、武井夕庵の伝言を受けたの」
「武井・・・夕庵様・・・」
嘗て帰蝶の傅役だったと言う、未だ見ぬ大人物を想い浮かべた
「斎藤も、そろそろ後継者問題が浮上しそうなの。攻めるのなら、早く来いと言われたわ」
「そんな・・・」
苦笑いする帰蝶に、なつは顔を顰めた
「何もかも奥方様一人で、だなんて、急かし過ぎです。もう少しゆとりを持ったっていいじゃありませんか。どうしてそう急がれるのです」
「時の流れは待ってはくれない。追い着けぬほど引き離されてしまえば、どれだけ必死の形相で追い縋っても、辿り着けはしない。そうやって時代から取り残された者を『敗者』と呼ぶのよ。私は、敗者であってはならないの。こうやって膝を伸ばしていられるだけでも、充分」
「奥方様」
「私は、吉法師様のように器用ではないのね。吉法師様なら、仕事の片手間で町に出たりしていたのに。不甲斐ないわ」
「そんなこと、ありませんよ。奥方様は女ですもの。私なら、奥方様のようにはできません」
「ありがとう」
そんな時、菊子が襖の向こうから声を掛ける
帰命の喚く声も混じって
「奥方様」
「どうしたの?」
襖を開けると、菊子の腕から無理矢理降りようとした帰命が、畳の上に落っこちる
「うわぁぁぁぁー!」
「若様!」
「帰命ッ!」
慌てて立ち上がる帰蝶と、なつ、驚いて抱き上げようとする菊子ら侍女の焦りを知ってか知らずか、帰命は一声喚くとすぐさま立ち上がり、「かかさぁー!」と帰蝶に縋り付いた
「大丈夫?帰命」
「かかさあ」
生まれて、まだ一年と数ヶ月
それでも局処の小さな弱肉強食の世界で生きる帰命は、ほんの少し頼もしい存在だった
自分の腕の中で、自分に甘える愛しい我が子に、その香りに、帰蝶の疲れた心が癒された
そんな帰蝶の表情を読み取り、なつが気を利かせる
「奥方様、しばらく若様をお願いできますか。今日は祝勝会をやっておりますので、みなにはもう少し料理を揮ってやりたいと想います」
「そうね。領地が増えたと言っても、目に見えるほどの成果でもない。左兵衛を追い出すまでは、岩倉の領地は半分しかこちらの手にはないのだもの。その分、みんなには美味い馳走でも食べさせてあげて」
「はい、承知しました。奥方様と若様の夕餉は、こちらにお持ちしますね。それまで、ほんのひととき、羽を休めてくださいませ」
「ありがとう」
なつが先導して菊子らを連れて部屋を出る
帰蝶は自分にべったりとくっつく帰命を抱き締めた
「いい子にしていた?」
「あい」
笑うと、小さな口から、何本か生えている小さな歯が覗く
歯の数だけ、この子は成長しているのだと実感できた
それが何より嬉しい
「帰命。遊ぼうか」
何となく、声を掛ける
ここのところ忙しさに感けて、帰命を抱く暇もなかったことを想い出す
母の言葉に、帰命は満面の笑みで応えた
「帰るのか?」
もうすっかり暗くなった
夕焼けも沈み、表座敷の宴会も酣の頃か
座敷の片隅に座を設けられていた黒母衣衆の若い連中に混じって、慶次郎と盃を酌み交わしていた利治が立ち上がった
「そろそろ帰らないと、明日の朝餉の準備があるからな」
「へへっ。朝餉ったって、どうせ知行の減棒食らっちまったんだろ?だったら今の内、想い存分食ってかなきゃ」
「慶次郎は朝餉抜きだからな、お前だけ存分に食ってろ。私は、いざとなったらここの昼餉を鱈腹食ってやるさ」
何とも頼もしい言葉だと、慶次郎は反論せず聞いていた
「それじゃ、また明日な」
「ああ、お休み」
利治は、気付いているだろうか
その口調が変わったことを
男らしい口調になっていることを
そう想い浮かべながら、慶次郎は手酌で酒を注いだ
すっかり日が暮れて、帰る機会を見失ってしまった
利治の部屋で、いつものように夕餉の支度をしていたさちは、未だ帰らぬ利治の顔を見てから帰ろうか、それともさっさと帰ってしまおうか悩んだ
鍋の中の大根の甘露煮は、すっかり冷めてしまっている
これを作るのに台所から味醂を借りたのだが、それを得るために朝からずっと台所を走り回っていた
人の分も仕事をすることで、欲しい調味料を分けてもらうのがここのところの習慣だった所為か、今日に限って眠気も早めにやって来た
誰も居ない静かな部屋だと、眠くて仕方がない
妻帯者の家ではかすかに賑やかな声が聞こえている
今日の戦は勝ち戦だったと可成の妻・恵那から聞かされ、安心していた
何処の家庭でも、ささやかな祝杯を挙げているのか
さっき、こっそりと利家がやって来て、今日は自分の部屋で寝ると言って来た
まつも久し振りに夫の顔を見ながら寝れるのだから、今夜ほど安心して布団を被れる日はないだろう
嬉しい気分にさせられる夜に、一人で居るのは淋しかった
だが、そろそろ城に帰らないと、さちにも都合の悪いことが起きている
今日、昼間、月の物がやって来たのだ
月の物は以前から訪れていたが、今月は今日がその日だと言うことをすっかり忘れていた
お陰で、挟んでいる桜紙も、そろそろ交換しなくてはならないほど、たっぷりと血を含んで重くなっている
「困ったな・・・。今の内、交換しておこうかな・・・」
この武家長屋は織田に仕える兵士達が暮らしているのだから、独身と言えば男ばかりで、知っているのは主婦だけなのだから、当然、主婦には旦那が付いている
家族を追い出してまで桜紙の交換をするのも気が引けるし、ここでやっている最中に利治が戻って来たら、それこそ死にたくなるほどの恥を掻くことにもなる
どっちも選べなかった
まつの部屋を拝借しようにも、頼もうかと想った矢先に利家が挨拶に来たのだから、頼める筈がない
「やっぱり帰ろうかな・・・。温めるだけなら、新五さんにもできるし・・・」
そう想い、立ち上がり掛けた
「あぅ・・・」
帰命が欠伸をする
「眠いの?」
聞いて来る母に、帰命はまだ遊びたいと眠い目を擦り、首を振る
「寝なさい」
「かかさと」
「かかさは、まだ寝れない。お仕事が残ってるの」
「あうー・・・」
「かかさが、寝かせてあげようね。おいで、帰命」
両手を広げ、帰命を出迎える
帰命は母の手に釣られて、おたおたと歩いた
辿り着くと、その膝の上に頬を乗せる
自分の膝を正面から枕にする帰命の背中を、帰蝶はそっと、そっと、撫でるように叩いた
「うー・・・」
寝ようとするが、母と一緒に居られる嬉しさから興奮しているのか、眠いのに寝れない苛立ちに、帰命が妙な声を上げ始めた
「眠れないの?」
「んー・・・」
だが、それでもやはり眠いのか、目は何度も擦り付ける
そんな帰命の様子を見ながら、ポン、ポンと背中を叩き、帰蝶は子守唄を歌った
「さーとのもーりでかくれんぼ、お山はどこじゃと、猿が聞く」
懐かしい子守唄だった
母が良く聞かせてくれた子守唄だった
利治にも、歌って聞かせていた
母は元気でやっているのかと、ふと想い出す
想い出したところで、今の自分に何ができるのかと問われれば、無事を祈るだけと応えることしかできない、そんな無力さに腹が立った
「 帰ろうかな・・・」
夕焼けが紫色に変わった頃、さちも諦めて帰ろうとした、その時、戸板がガタンと音を立て、酷く驚かされた
「し、新五さん?」
「あ?さち、居たのか」
戸板を開けながら、利治が入って来る
「おかえりなさい・・・ッ!」
無事の帰還に喜んだ
「ただいま」
戸板を締めると、部屋が暗くなる
さちは慌てて竃の火を熾そうとした
「こんな遅くまで居てくれたのか?」
「ん?うん。帰ろうかと想ったんだけどね、そうしたら新五さんが」
油が買えるくらいの知行をもらってない新五の部屋に、行灯などあるわけがなかった
「そうか、悪かったな。城で祝勝会やっててさ」
「うん、知ってる。お料理作るの、手伝ってたから」
「そうなんだ。すっかり遅くなってしまったな、送るよ」
「あ、待って」
丁度、藁に火が付いたところだった
ふー、ふー、と息を吹き掛け、藁束から薪に火が移る
「ん?その鍋」
竃の火で、部屋が薄っすらと明るくなった
その先にある鍋が目に飛び込み、利治はさちの居る竃へと近付いた
「大根の甘露煮」
「作ってくれてたのか?」
「だって、約束だったでしょ?」
「 」
穢れのない、無垢な微笑み
その微笑みを見たような気がした
いつだったか
どこでだったか
自分の日常の中にあるさちの笑顔が、日常にはない状況の中で見たような気がした
「さち。 お前」
「食べる?」
「あ・・・、うん、そうだな」
「あ、でもお城で祝勝会やったのよね。お腹一杯だったら、明日の朝餉に回しても」
「いや、食べるよ。できたてほやほやを食べてから、送ってく」
「うん、ありがとう」
先に利治が竃から離れ、板の間に近付く
その利治の後を追って、板の間に上がろうとさちが立ち上がった
その瞬間
「 ッ」
ぽとり・・・と、嫌な感覚がその場所から生まれ、離れた
さちは硬直し、自分の脚の間に目を落とす
「あ・・・・・・・」
声にならない微かな悲鳴が上がる
それを聞いたわけではないだろうが、利治が振り返った
「どうした?さち」
「 ッ」
さちはその声に咄嗟に動き、自分の股の間から落ちた、血塗れの桜紙を庇うように土間の上を四つん這いで屈み込んだ
「さち?どうした!」
「なんでもない!」
「でも・・・」
「来ないでッ!」
「 ッ」
側に近付き、俯けるさちの顔が耳まで赤いことに気付いた
「 どうしたんだ?さち」
「あっち・・・向いてて・・・」
「さち?」
「お願い・・・・・・・・」
「 」
泣き出しそうに震える声
「さち・・・・・・・」
こんな風に慌てるさちを見たことがない利治は、それだけで狼狽した
それから、さちの足首に僅かな血がこびり付いているのを見付ける
「さち、どこか怪我でもしてるのか?」
「え?」
「血が出てる」
「 だから・・・・・、怪我じゃない・・・・・」
「怪我じゃなきゃ、なんだって言うんだ」
それから、利治ははっとした
そうか、と
そして、後ろ向きのままそっと、後退する
懐に手を伸ばし、そこから懐紙を取り出し、板の間に置いた
「しばらく、外に出てる。懐紙だから、少し硬いかも知れないけど」
「うん・・・」
「用が済んだら、声を掛けてくれ」
「うん・・・」
さちは俯いたまま、顔を上げてくれなかった
上げたとしても、利治もきっと、さちの顔をまともに見ることはできなかっただろうと想う
そうか
さちは、『女』なんだ
と、自覚してしまうから
守るべき女なのだと、意識してしまうから
「奥方様、遅くなりました。夕餉、お持ちしましたよ」
襖の向こうからなつの声が聞こえる
「奥方様?」
返事がなく、しかし部屋からは明かりが漏れているのだから中には居るのだろうと、そっと開けた
その先の光景に、なつは吹き出した
「わ・・・、若様・・・」
帰蝶は疲れ切ったのか、すっかり眠ってしまっている様子で、ピクリとも動く気配がない
その帰蝶の胸元を大きく寛げ、帰命が母の乳房を含んでおり、空いた片方の乳首を一生懸命指で弄っていた
「吸っても、母様のおっぱいは出ませんよ。出そうなほど、大きいですけどね」
帰命は腹が減ったのか、それとも母の乳房が恋しくなったのか、子供ながらの行動であり、一見微笑ましささえ感じる
「それにしても、すっかり眠りこけてしまって」
帰命を抱き上げながら、広がった襟首を直してやる
すると、それまで動きもしなかった帰蝶が寝返りを打った
無意識に、寝返れば息子が痛い想いをするとわかっていたのだろうか
帰蝶の深い愛情に、なつは微笑んだ
浮野での争いに勝利した清洲織田は、岩倉の領地の半分を無条件で手に入れた
現当主・織田信賢に家督騒動の咎、加えて清洲織田に逆らったことへの咎を水に流すと言うことを念頭に置いての、無条件降伏であった
帰蝶の版図が少し、伸びる
それは同時に、帰蝶の負担がその分増えるのも同義だった
犬山へ信秀次女の伊予を嫁がせ、新しい年を祝おうかと言う頃、事変は起きた
「奥方様!」
血相を変えた秀隆が、本丸の執務部屋に飛び込んで来る
「奥方様!」
「どうしたの、騒々しい」
「さっ、斎藤が・・・ッ」
「斎藤がどうしたの。また攻め込んで来たの?」
「美濃斎藤家当主、斎藤新九郎様が、幕府相伴衆に任命されたと・・・・・・・ッ!」
「え?」
筆を執っていた手を止め、帰蝶は秀隆に顔を向けた
その顔色は、血の気の引いた青だった
今年漸く八つになった少女に、夕庵は質問した
娘結いの横髪に靡く緋色縮緬が、夏風に揺れる
「敵勢千の中に味方五百で割り込む場合、何処から攻めれば有効に勝利できるでしょうか」
「簡単です。五百で周りを囲んでしまえば良いの」
「え?」
夕庵は目を丸くした
「それから、火を放り投げれば敵は全滅するわ」
「そう、上手く行きますかな?」
「だって、軍勢は一つの固まりになって動くのが鉄則。それを守る以上、一人に火が付けば周囲八人にも火が回るもの。無理じゃないでしょう?」
「
唯一、正妻生まれの姫君は、大事大事に育てられていた
凡そ争いごとなど無縁の世界を生きていた
それでもこの幼き姫君は、歴戦の武士ですら想い付かないようなことをポンポンと簡単に、言葉にする
「どうですか?私の考え、至らぬものでしょうか」
「いいえ、中々奇抜な妙案でございますな。この夕庵、驚きに満ち溢れ、言葉がございません」
「そうですか?」
「ええ、中々の案でございますな。感服いたしましたぞ」
「えへへ。先生に誉めてもらえるのなんて、久し振りです」
幼き姫君は余りにも美しい微笑みで、頬をほんのり紅に染め、はにかんだ顔をした
その微笑みに夕庵も返す、しかし心の裏では唸りを上げる
もしも男に生まれていたら、きっと、いや、間違いなく
『小さな孟徳』よ
命あっての物種と言う言葉があるように、死んでしまえば元も子もなくなる
戦に負けたと判断が降りれば、即座に撤退の指示が出る
逃げる際は少しでも身軽にしておいた方が、逃げやすい
刀は腰にさせるので兎も角、槍や、特に鉄砲などの手を塞いでしまうような、つまり、手で持たなくてはならないようなものは即座に捨てられてしまうのが多かった
斎藤軍はその鉄砲の準備をしていなかったので、殆どの鉄砲は荷駄の車に載せられたままだったが、その車を抱えて走るわけにも行かず、また、狭い船口を抱えて登るのも無理な話であるため、帰蝶は斎藤の置き土産、『鉄砲』を無傷で手に入れることができた
「しめた。国友の鉄砲だわ。これなら軽くて扱いやすい。直ぐに久助の部隊に配分して」
「はっ」
「それじゃ、私は浮野に向うから、後の始末はお願いね」
「斎藤の兵士は、如何なさいますか?」
「放っておいて。私達だけじゃ、片付けるのは大変だもの。近隣の村人が始末してくれるだろうけど、手ぶらじゃ可哀想でしょ?鎧とか槍とかはそのままにして、鉄砲だけ回収してて」
「承知しました」
やがて雨も上がり、漂っていた雲の切れ間から光が差し込む
撤退を余儀なくされた一鉄は、敗戦の報告を上げようと義龍の部屋を訪れる
「殿、稲葉殿がご帰還なされました」
義龍は自室に居た
ここのところ体調の優れない日が続いている
「通せ」
義龍の側には夕庵が居た
軍事的なことは不信感から任せられないが、内政的なことは頼りにするしかない
襖を開けた向うには、兜を脇に抱えた一鉄が膝を落として項垂れていた
「どうした、稲葉。帰って来るのが、随分早いようだな」
「
「
一鉄の言葉に、義龍は黙り込んだ
「壊滅、とは?」
代わりに夕庵が問う
「着岸した山名にて、織田軍の攻撃を受けました」
「山名に・・・・・・」
「まるで、予め待ち伏せていたような」
「まるで、ではなく、間違いなく待ち伏せを食らったのでしょうな」
「武井様。此度の作戦、外に漏れたとしか想えませぬ」
「それはどうでしょう。例え漏洩しなかったとしても、斎藤軍は織田の待ち伏せを食らったのではないでしょうか?」
「それは一体・・・」
一鉄の目は、自分を疑っている
そうだろう
元々は土岐家の家臣
今も心は土岐にある一鉄の真の主は、『斎藤』ではない
斎藤の、いや、新左衛門、道三の頃より仕える夕庵は、斎藤の中でも古参の家臣
土岐にとっては仇敵の自分を、土岐家旧臣の一鉄が心から信頼などできようもない
増してや、一鉄の同僚で美濃衆筆頭の安藤守就は今も、自分を疑っているのだから
それをわかっていながら、夕庵は堂々と振舞った
「先の戦で岐阜屋が斎藤に加担しないことは、先刻承知のはず。また、可児の土田家も織田に寝返った。そうなると、斎藤は自前の船で尾張に渡るしかない。その船も小さなものではなく軍艦です。大きな軍艦を着岸できる場所と言えば、尾張でも数が知れている」
「
一鉄は黙って夕庵の話を聞いた
「一宮で岩倉と清洲がぶつかっているとなれば、そんな激戦地に態々船を着ける筈もない。犬山から向うは今川が張っている。おまけに川のこちら側は遠山家の領地。どの道、斎藤には近付けぬ場所。そうなると、残りは岩倉と犬山の間にある山名が着岸に最も適した土地。それさえ理解できれば、待ち伏せなど容易いことにございます」
「
後ろで義龍が呟く
「どうでしょう。これが姫様の策かどうかまでは、私にはわかりません。なんせ私は二年前、姫様に通じているとあらぬ疑いを掛けられ、今も監視下に置かれている身の上でございますので、こちらから姫様と内通することも、姫様からこちらに内通することも叶いませぬ」
そう、きっぱりと言い切る夕庵に、一鉄も目を反らす
「ただ、これだけは殿にも稲葉殿にも申し上げます」
「何だ、言ってみろ」
「姫様を推し量ること、なんぴとたりとも無理なことにございます。あの方は杓子定規で計れるほどの、単純なお方ではございません。わたくしも、姫様には今まで何度も驚かされて参りました。あの方の頭の中を一度、この目で見たいほどでございます」
「夕庵・・・」
「私も、時々忘れ勝ちなのですよ」
「何を、だ?」
苦笑いする夕庵に、義龍が訊ねた
「私達は、誰を相手に戦っているのか、を」
「
義龍も一鉄も、夕庵の言葉に黙り込む
夕庵自身、忘れてしまう時がある
あの『怪物』を育てたのが、自分だと言うことを
一鉄が報告を終え、出た後の部屋にはやはり、夕庵だけが残されていた
山名での敗戦に、また、織田に見透かされていたことも加え、病に冒された躰には充分過ぎるほど堪える
俄に鼓動も激しくなった胸を押え、義龍は身を屈めた
「殿!」
「
直ぐに返事ができぬほど、鋭い痛みが心の臓を突き刺す
「床の用意を・・・ッ!」
廊下で待機している小姓衆に、夕庵は震える声を張り上げた
あなたには、まだ死んで欲しくないのですよ
そんな想いが言葉になって溢れそうになる
晩年、美濃を自分の想い描く通りに変革させようと、道三は急ぎ過ぎた
自分の意見に反対する者を断罪し過ぎた
お陰で美濃の国人衆は斎藤から離れ、長良川での戦が起きた
その、離れて行った国人衆を再び呼び戻すことに成功したのは、他の誰でもない
この義龍なのだ
義龍の父親が土岐頼芸だと言うのは根拠のない話だとしても、それが保身に走った道三の虚言だとしても、義龍は己を矢面に立たせることで、己を犠牲にすることで、美濃を守ろうとして来た
その心意気だけは、評価したい
だが、美濃と斎藤を繋ぎ合せていた義龍が居なくなってしまえば、美濃は再び混乱に落ちる
それだけは避けねばならない事態であった
今はまだ、死んではならぬ身であることは、誰よりも夕庵が一番良くわかっていた
「
布団の中で、大きな躰をした義龍が、小さな声で呟く
「殿・・・・・・・・・」
「お前が局処で帰蝶を教育していた頃、私は既に本丸で暮らしていた。だから、局処での帰蝶の様子を知らん・・・。帰蝶は、どうであった。どんな教え子であった」
ただ知りたい、それだけの純粋な想いだったのだろう
夕庵には、可愛がっていた妹の、その姿が今は敵に変わってしまったことへの後悔のような想いが見えていた
妹を敵にしてしまったのは誰でもない、自分なのだから
「僅か二年ほどの短い間でございましたが、その二年は限りなく充実しておりました。私は、あれほど聡明なお方を、見たことがございません。一を聞いて十を知る。正に、その通りでございました。が、それ故、考えが先走ることも少なくなく、一言で言えば危なっかしい性格だった、と申しましょうか」
「ははは・・・、その通りだな。帰蝶はいつも先をゆき過ぎる。他の誰も追い付かんほど、先へ先へと急ぎよる。見ていて危なっかしいほどに。
「殿」
「父上の描く夢物語、知らぬわけではなかった。美濃を制した者は、天下を制する。それはもう何百年も昔に語り継がれた御伽草子としても、美濃に根を下ろす者なら誰もが想い描くであろう。土岐の通った路は、天下に向って続いていると」
「そう・・・ですな」
「尾張を制し、その次は、伊勢。嘗て土岐が治めていた国を取り戻せば、美濃は再び『王国』として息を吹き返す。父上もまた、急(せ)い過ぎたのかも知れん・・・」
「
まだ若き青年武将であった道三の、戦に出る姿はとても美しく、華やかだった
輝ける日々を具現化したような姿だった
いつからその輝きが色褪せてしまったのか、側で見ていた夕庵自身、わからない
心がいつしか次世代へと、移ってしまった所為かも知れない
いつも想う
嘗ての教え子、神の申し子、帰蝶が男に生まれていたら、自分は再び戦場に立ちたいと言う欲望を抑え切れないだろう、と
神懸り的な統率力、瞬時に全てを把握し、指示できるその人間離れした能力
もう、五十に手が届きそうな年寄り馬が併走し、連れ添えるほど帰蝶は大人しくはないと知っていた
いつからだろう
あの姫君の背中しか見れなくなったのは
年を重ね、自由に動ける脚の赴く距離が伸び始めた頃、夕庵は気付いた
自分の手に負える相手ではないと言うことを
手綱を縛って制することのできる名馬ではなく、荒れ狂う野生の馬であることを
それを知った時、夕庵は自分から帰蝶の許を離れた
戻れば直ぐに部屋に来いと言われていた利三は、義龍の部屋を訪れるため廊下を歩いていた
先に戦果報告に一鉄が行っていると聞き、自分は後からと遠慮したのだが、その一鉄と廊下で向かい合わせになった
「斎藤殿」
「稲葉様。報告は、お済になられたのですか」
「ああ」
鼻から大きな溜息を吐き、一鉄は応えた
「殿には申し訳ないことを。前年の安藤殿同様、織田にしてやられました。我が采配も鈍りましたかな」
若輩者である自分に対しても、一鉄は礼儀を欠くことをしない
好感の持てる男であった
「それに関しては、稲葉様だけの責任ではございません。わたくしも着いていながら、なんの助力にもなれず、悪戯に鼓舞した分、斎藤に大きな損失を出してしまいました」
「いやいや、そなたの采配は素晴らしかった。あれほど怖気付いた者が続出した中、良く立て直された。感服いたしました」
「そんな・・・」
小恥ずかしく、利三は少し照れ笑いをした
「斎藤殿は、戦前に奥方を亡くされたばかりの喪中であるにも関わらず、勇猛果敢な攻め振り。お心痛んでおられるでしょうに、気丈に振舞うその姿、感心頻りでございます」
「いえ・・・・・・・・・」
応えられなかった
椿を亡くしたことは悲しいことに変わりはない
だが、それ以上に心が軽くなったなど、誰に言えるはずもなかった
「殿にお逢いになられるので?」
「
「油屋の孫に油を絞られるとは、皮肉な話でございますな」
「いえ・・・」
利三を同情しての言葉だとしても、その『油屋の孫娘』に想いを寄せている利三にとっては、笑える程度ではなかった
一鉄と別れ、再び廊下を歩き出す
義龍の容態は日に日に悪くなっている
それを誰も気に留めようとはしなかった
嫡男はまだ幼い
その嫡男を無理に元服させ、後継者として公認することも急がれている
流れが悪い方向に向っているようで、利三は不安で仕方がなかった
「斎藤様、お越しです」
廊下に控えた小姓が利三の到着を知らせる
「斎藤殿、こちらに」
襖を開けたのは夕庵で、利三は少し驚いた
一時期は帰蝶と通じていると安藤守就に疑いを掛けられてから、身辺がきな臭くなっている
四六時中誰かに監視された状態に置かれ、息苦しい毎日を送っているとも知っていた
その夕庵が、義龍の部屋に居ることが不思議に感じた
義龍は、妹・帰蝶を敵対視していないのではないかと、俄な安堵を持つ
帰蝶に通じている夕庵を、側に置いておくわけがないと想ったからだ
「失礼します」
利三は一礼し、部屋に入った
だが、居間であり私室でもある部屋に義龍の姿は見えない
「あの、殿はどちらに?」
キョトンとした利三に、振り返った夕庵が口唇に人差し指を当てる
「殿は、こちらです」
そのまま庭側縁側への障子を開け、夕庵は義龍の許へ案内した
少し離れた場所に、義龍の寝室がある
場所は知っていても、普段立ち入ることのない場所だった
「殿。清四郎殿がお見えになりました」
「ああ・・・」
障子の向うから義龍の声がして、夕庵が自らそれを開けた
部屋の中央に敷かれた布団の中に、義龍が居る
「殿・・・ッ!」
利三は慌てて部屋に駆け込んだ
「お具合は・・・」
「大事ない。少し気分が悪いだけだ」
「申し訳ございません、山名にて織田の襲撃を受け、おめおめと帰って参りました・・・」
利三は義龍の側で膝を落とし、頭を下げた
「いいや。読まれていたなど、わし自身考えが足りんかった。お前だけの責任ではない」
「殿・・・・・・・・」
「ふぅ・・・」
小さな溜息の後、義龍は呟くように言った
「わしは、己を責めている」
「殿?」
「どうしてあの時、力尽くでも帰蝶を止めなかったのか」
「
帰蝶を見送った木曽大橋の光景を想い出し、利三は黙り込んだ
「帰蝶を敵に回した途端、この様だ。この体たらく、女を相手にして一度も勝てぬ歯痒さ。自分でも情けない」
「そんなことは・・・」
「鉄砲を、持って行かれたそうだな」
「
「仕方がない。あんなものを抱えて逃げても、船が落とされただろう。だが、痛い損失であることに変わりはない。斎藤はもう、木曽川を越えて尾張に攻め込むのは、無理なのかも知れんな」
「
ならば
こちらから尾張に攻め込むのが無理ならば、織田を美濃に誘い込めばいい
利三はそう、考えた
帰蝶が『信長』の参謀として側に居るのなら、『対信長』ではなく、『対帰蝶』で作戦を練ればいい
帰蝶の性格、気質は嫌と言うほど熟知している
胸が苦しくなるほど負けず嫌いなその性格を、利用すればいい
「殿」
利三は自分に賭けた
側に夕庵が居ることも構わず、利三は頭に描いた攻略を義龍に話した
夕庵は、今は斎藤を守ることに専念するはず
そう考えた自分に賭けた
一足先に、負傷した者だけが清洲に戻った
その中に佐治も含まれている
血は既に止まっていたが、帰蝶に帰れと命じられた
その帰蝶は黒母衣衆、斯波衆らと共に一宮に向っていた
松風は帰蝶が乗っているので、佐治は手ぶらで帰ることになった
物見遊山で出向いたわけではないが、帰りは小牧を通って行くとのことで、勝手知ったるなんとかに一人戦列を離れ小牧の平三郎、弥三郎の実家に駆ける
母と兄が居る自身の実家は、ここからもうひとつ山を超えなくてはならない犬山の近くなので、寄っている暇はなかった
できることならやえに、自分は元気でやっていることを伝えたい
文字の読めない母と兄に手紙を送っても、読んでもらえる筈がなかったからだ
「おかみさん!」
平左衛門の家は、農家と混ざった住宅地にある
見知った顔も居る中で、佐治はやえの居る家に入った
平左衛門は仕事に出ているのか、いつものようにやえ一人が家に居る
佐治が突然戻って来たことにも驚くが、佐治の恰好を見てもまた驚く
いつもは継ぎ接ぎだらけの襤褸を着ていた佐治が、新しい小袖のみならず、軽い鎧まで着けているのだから
「
「違うよ。戦に出てたんだ」
「戦に?!やっぱり、お侍様になったんじゃないか」
「だから、侍にはまだなってないよ」
わかってくれないやえに、佐治は苦笑いして説明した
相変わらず狭っ苦しく、だけど団欒の溢れた家で、弥三郎が正月には必ず帰省する理由が、離れていたからか佐治にもよくわかった
そこにやえが居るだけで、ほっとできる
「まぁ、お上がり。お茶でも淹れてやろうね」
「のんびりしてられないんだ。帰る途中に抜け出したから、早く追い付かなきゃ」
「そうかい」
「それでね、おかみさん。かあさんに、逢うことがあったら伝えてくれない?」
「何を?」
「俺は元気でやってるから、って。知行がもらえるようになったら、清洲に呼ぶから、って」
「ええ、ええ、おさえさんに伝えておくわ」
「頼んだね」
「それはそうと、お前の兄さんの結婚が決まったよ」
「ええ?!」
やえの言葉に、佐治は目を丸くして驚いた
「い、いつ?」
「来年の春にね。手紙とか、届かなかったのかい?」
「うちの家族で手紙書けるようなの居ないよ」
佐治は苦笑いして応えた<
「そう」
平三郎も弥三郎も手紙は書け、やえ自身も文字が読める教育を受けていた
それが当たり前だと想っていたやえは、佐治の家庭がそうではなかったことを想い出し、少し申し訳なさそうな顔をした
「そっかぁ、兄さんもお嫁さんをもらうのかぁ。相手は?」
「うん、隣村の子でね、おさえさんの話では、随分働き者だそうよ」
「それは何よりだ。でも、ぶっきら棒な兄さんに、よく嫁に来ようなんて想ったもんだ」
「何言ってんの。あの子は心根の優しい男だよ。お前の兄さんなんだから、当たり前じゃないか」
「へへ・・・」
兄を誉められ、佐治も満更ではない顔をする
やえにくれぐれもと頼み、佐治は早々に家を出た
帰り道、ふと道端に咲く山蛍袋を見付けた
「うん、これから咲くのかな」
少し花びらは開いているが、全開と言うわけでもない
それを手に取りじっくり眺めていた佐治は、何を想ったか根元の方を指で抓むと、できる限り根を残そうと引っこ抜く
「ごめんよ。ここで咲いていたかっただろうけど、一緒に清洲に来てくれないか?道中の道連れだ。きっと、お市様も喜ぶ」
これと言って見応えのある花ではない
だが、それに負けぬほどの愛らしい色をしていた
例えるならば、乙女の頬のような、淡い紅色である
少し紫が混じった色のものも同じ茎に着いているが、一番高い場所にある山蛍袋は紫よりも赤の方が強い
佐治は市を喜ばせようと、大事そうに抱えた
小牧から那古野まで、何度も往復した経験がある佐治は、抜け道を知っている
先に戻った織田の兵士達は普通に街道を進んでいるが、佐治はその抜け道を使って清洲に戻る
街道は大きな町や村を繋ぐための道であり、小さな村落には続いていない
村落の場所を把握している佐治には動作もないことだった
案の定、清洲の町の手前で負傷兵を連れた先発隊と合流できた
「どこ行ってたんだ?佐治」
「ちょっと寄り道です」
自分を見付けた黒母衣衆に声を掛けられ、佐治は笑いながら応えた
負傷はしていないが、利治も清洲に戻っていた
帰蝶の命令ではなく、慶次郎から戻った方が良いと進言されたからだ
戦いの最中、利治は覚えていないことがいくつかある
最初に突き倒した敵兵の後、それから慶次郎に抱えられた間の記憶がない
気が付けば慶次郎に抱えられていた
聞いても「中々の活躍だった」としか言わない慶次郎に、利治も深くは追求できなかった
竹を割ったような性格の慶次郎が口篭る
その先にある真実を聞くのが怖かった
「この後どうする。長屋に帰るか?」
「うん・・・。でも、一応、姉上が戻られるまでここに残ってるよ」
「そうか」
「うん」
どうしたのだろう
慶次郎の表情がいつもと少しだけ違うと想えるのは、自分の気の所為だろうか
一宮・浮野
雨が東から流れて来たのを合図に、勝家は作戦を決行した
こちらでも斎藤と同じく、雨の中では鉄砲は使えない
強風も同じで、弓も使えなくなるだろうと見越し、帰蝶は山名と同じ作戦に打って出た
但し、こちらは平地であるため山や丘をくり抜いての横穴は掘れない
代わりに勝家は天幕をそのまま地面に敷き、その下に鉄砲隊を潜り込ませた
鉄砲隊本隊を指揮する一益が居れば、少しは円滑にことが進むのだろうが、その一益が居ない今は『凌ぎ』程度の応戦しかできないのが腹正しかった
前夜、恒興の用意した天幕も引き千切られ、土に覆い被せられている
だが、この雨で鉄砲が使えなくなった岩倉に比べれば、戦力にはなっているだろう
可成、弥三郎、それに加え恒興の部隊も前進し、岩倉を追い詰めている
徐々にではあるが、岩倉軍が後退し始めた
利家の加わった赤母衣衆が自分の作戦伝令に走り回っている光景の中、勝家は新たに指示を出した
「岩倉を居城に追い詰めろ!」
ここからでは何とも判断できないが、犬山の動きが鈍足である
本気でこちらに加担する意志がないと言うことを物語っていた
ならば岩倉を城に戻して攻め込もうかと考えた
但し自分は、帰蝶と違って的確な采配が下せるかどうか、自信はない
自信はないが、やらねばならなかった
「森隊に南に下るよう伝えろ!」
「はっ!」
勝家の伝令はすぐさま可成に伝わり、指示通り南に下る
ところが、左右に挟まれ動けなくなったはずの岩倉が大幅に後退を始めた
後ろは犬山
逃げれるはずのない方向に大胆な動きを見せる
「まさか・・・?」
勝家は岩倉の動きに、よもやな考えが浮かんだ
だが、考えを整理している暇などない
「岩倉を下がらせるな!城に誘い込め!」
後ろに下がられては、鉄砲隊の玉も届かなくなってしまう
それどころか、味方を背後から撃つと言う最悪の結果にもなりかねない
「鉄砲隊、撃ち方やめいッ!」
折角の作戦が、岩倉軍の予想外の動きで無駄になってしまった
いっときのこととは言え、岩倉がこちらの作戦に動揺し士気が乱れた隙を突けるかと北痩笑んだのも、束の間のことだった
「森隊、岩倉の背後に回れ!」
赤母衣が伝える勝家の指示に、可成が怒号を上げる
「少人数でできるわけがない!死んで来いと言うのかッ!」
岩倉の指揮を乱すはずが、こちらの士気が乱れ始めた
「やばいことになって来たな・・・」
この雰囲気に、利家も聊か不安げな顔をし始めた
そう想うのは、仕方のないことだった
清洲の士気が乱れたことを、岩倉が察知する
その途端、逃げの一手だった岩倉が反撃を開始した
うおおおー!と怒号を上げ、清洲に押し寄せる
「押し返せッ!」
勝家の指示に再び赤母衣衆が駆け抜けた
だが、最早巻き返しの効かないところにまで岩倉が押し詰める
勝家の居る本陣にまで岩倉の兵の姿が見えた
「くそッ!」
舌打ちしながら、勝家が槍を握る
「城に戻らんのであれば、ここで殲滅するッ!」
「柴田殿!」
この浮野での総大将は勝家であった
その勝家が出なくてはならないと言うことは、清洲が追い込められている印象を与えてしまう
それは所謂、『清洲の負け』を決定付けるものであった
絶対に避けねばならない事態に陥ったことに、勝家自身歯軋りした
引き止める信盛の手を振り払い、勝家は本陣を出ようとする
その勝家の耳に秀隆の声が聞こえた
「権さん!」
「
別の場所で戦っているはずの秀隆の、その背後にも伸びた織田の軍勢に、勝家は目を剥いた
「山名はどうした!」
「心配要りませんよ。ほら!」
「
秀隆の指差す方に顔を向けると、そこにあるのははためく無数の『織田木瓜』の軍旗
織田本隊がそこにあると言う表れであった
「まさか・・・、こんな早くに?」
「天運が我らの味方をしました」
誇らしげに応える秀隆に、勝家の頬も綻ぶ
「ははははは!」
『織田木瓜』がそこにあると言うことは
「雨が総大将を呼んだのか、総大将が雨を呼んだのか、どっちだ!」
「その両方!」
「この攻勢に良く耐えた。皆の者!岩倉を跪かせろッ!」
「おお
帰蝶の号令に、清洲織田軍本隊が一斉に岩倉織田に襲い掛かった
その光景は、さながら『津波』
大きな波のうねりが大地を飲み込むかのような光景だった
「お市様」
佐治の声に、俯いていた市はハッと顔を上げた
「帰って来たの?!」
「はい、只今」
「お帰りなさい」
ほっとしたような、そんなたおやかな薄笑いを浮かべる市に、佐治は手にしていた山蛍袋を差し出した
「花・・・?」
「はい、咲いていましたので、持ち帰りました」
「
優しい色の山蛍袋を受け取り、市はそれをじっと見詰めた
「なんて言う花?」
「山蛍袋と言います」
「山、蛍袋?」
「この花の花弁に蛍が蜜に誘われ入る光景から、蛍袋と呼ばれています」
「鬼灯みたいなもの?」
「そうですね、似てますね」
「ありがとう」
顔を上げ、礼を言う市は、佐治が腕に傷を負っているのを知った
「佐治、怪我・・・!」
「あ・・・。大したことありませんよ、ただの掠り傷です」
「でも、化膿したら大変だわ。手当てしてあげる、こっちに来て」
と、市は佐治の手を取って小走りに駆け出した
「お市様・・・!」
引かれた佐治は、少し慌てる
局処に入るには、帰蝶の許可が要る
だが、その帰蝶が不在では、万が一市に咎が飛んだりはしないだろうかと案じた
そんな二人を、なつが見ていた
未だ帰らぬ帰蝶を心配しつつも、目の前の小さな戯れに微笑ましさをも感じる
尚更
この安穏とした世界で生きられぬ帰蝶が、哀れで仕方なかった・・・
「奥方様!」
本陣に乗り込んだ帰蝶を見て、勝家は破顔で出迎えた
「良く耐えたわね、権」
「いえ。押し返せず、寧ろ岩倉に反撃の機会を与えてしまったこと、腹を切る覚悟で詫びをせねばならないと痛感しております」
「腹を切るのは、戦に負けてからになさい」
「
苦笑いする帰蝶に、勝家も顔を顰めて笑った
「三左の部隊を引き戻せ!弥三郎には権が付け!斯波旧臣は犬山に貼り付け!側面から圧力を掛けろ!」
「はッ!」
この状況を一瞬にして把握するその能力
やはり常人ではないと唸らずにはいられなかった
「権!」
「はッ!」
「出なさい。本陣でじっとしていて、退屈だったでしょ?想いっ切り暴れて来いッ!」
「御意ッ!」
勝家の顔に生気が蘇った
「
帰蝶が『そこに居るだけ』で、周りの空気がびしっと張り付けられる
この光景をまざまざと見せ付けられ、勝家自身はおろか、離れた場所から見ていた利家まで壮観に目を見張った
「奥方・・・」
「犬千代!」
「はっ、はいッ!」
驚いた利家は慌てて馬を帰蝶に付けた
「走れ!赤母衣第一班、前田に着き岩倉前線に戦う土田弥三郎に伝令ッ!北より南下、犬山もろとも岩倉を殲滅ッ!魚鱗にて敵を分断、滝川隊が待ち受けているから、安心して突き進めと伝えろッ!」
「了解ッ!」
緩やかな流れはやがて人の形を成し、その中心に羽を広げる
塞き止められた想いの向うに、懐かしい暖かな香りと、心擽られる表情が浮かぶ
幾星霜を駆け抜けても追い着かぬ距離、届かぬ指先
得られぬ安堵
捩れて切れてしまいそうな吐息
人の夢と書いて儚いと読む、その想いのままに、未だこの手に戻らぬあの温もり
忘れたい
忘れられない
彼女もまた、自分の半身だから
「奥方様がお戻りに成られましたッ!」
本丸勤めの菊子が、駆け込むように局処にやって来た
膝を突いて座っていたなつは慌てて立ち上がろうとし、自分の小袖の裾を踏んで見事に引っ繰り返る
「
側に居た市弥が、唖然とした顔で覗き込んだ
「だ、大丈夫でございます・・・」
恥しさの前に、なつは膝の痛みも忘れて立ち上がった
大手門では先に戻っていた利治、慶次郎も帰蝶の帰還を出迎える
これは凱旋だろうか
長年の仇敵でもあった岩倉を敗退に追い込んだ
伊勢守家で起きた後継者問題の隙を突いたとは言え、一時期岩倉を離れていた当主・織田信安を尾張から追放することには成功したのだから、『凱旋』と言えば『凱旋』だろう
戦の後、岩倉織田の家内騒動の始末は、その息子である信賢に負わせる算段であった
兎にも角にもこの一戦で、帰蝶は尾張制覇の王手に近付いたのだ
姉を誇りに想わないわけがない
「
松風の上の帰蝶は、この上なく威風堂々と、そして比類できる存在でもなくなって行く淋しさと同時に、例えようもないほど光り輝いていた
表座敷では祝勝会が催され、帰蝶は裏で戦後処理に当っている
側にはすっかり腹心でもある秀隆が、付きっ切りで補佐をしていた
「左兵衛殿のご処分は」
「今はまだ泳がせておきましょう。失態を犯したのは、父親の方だもの。倅が何かしでかさない限り、こちらから下手に手を出せば、世論で勝幡織田がしっぺ返しを食らってしまう」
「はい」
「岩倉の領地の半分は、清洲が管理することで話は纏まったそうね」
「はい、堀田様がその交渉に当られて」
「道空のことだから、どうせ言いくるめたんでしょ」
からからと笑いながら告げる帰蝶に、秀隆も笑う
そんな二人になつが茶を差し出した
「大和から届いた新茶ですよ。どうぞ」
「大和
「これはありがたい。丁度喉が乾いていたところです。いただきます」
「与兵衛殿も表座敷の祝勝会に参加すればよろしいのに」
「いえ、疲れてますし、今酒を飲んだら直ぐに潰れてしまいますよ」
苦笑いする秀隆に、なつも微笑んだ
そんな二人の前で帰蝶が呟く
「大和と言えば、讃岐の三好家」
「はい?」
秀隆が聞き返す
「このところ、京の都で幅を利かせていると聞くけれど」
「そうですね。かと言って、今の我らにどうすることもできません。それに、京には将軍もおられるのです。どっちにしても、我らの出番などございませんよ」
「
黙って茶を飲む
そんな帰蝶を、なつもまた、黙って見守った
もう、次のことを考えているのか、と、悲しげな表情で
少しはのんびりしたら良いのに、と、言えないもどかしさを抱えながら
敗戦処理に追われ、屋敷に戻ったのはこの日の夕刻近い刻限だった
心身ともに疲労厳しい利三を待っていたのは、妻の葬儀の準備と、兄の斎藤孫九郎
「兄上・・・!」
「ああ、ご苦労だったな」
兄と顔を合わせるのは、正直何年振りだろうか、と、指折り数える
母の千代が実家の蜷川家の命令で父と無理矢理離婚させられ、嫡男である兄は斎藤家の大事な跡取りとして、稲葉山城にも上げられず、土岐の本拠地でもあった革手の屋敷に引き篭もって久しい
戦には決して出せぬ存在でもあるため、槍働きは専ら利三が担っていた
「椿様のこと、心中察するに余りある。気の毒なことをした」
「
気が楽になったとは言え、長年夫婦として連れ添った時期も確かにあり、内心穏やかではいられなかった
兄の言葉に利三は、頭を擡げる
「戦も、つらい結果になったようで」
「父上の怒り心頭なお顔が、脳裏に浮かんで私を苦しめます」
「ははは・・・。戦は生き物、水物だ。その時その時で変化する。それを制することは、生半可なことではない。汚名は何れ返上できる。しかし、失ったものを取り戻すには、それ以上の覚悟が要る」
「
孫九郎の言葉に、利三は黙り込んだ
失ったもの
帰蝶
共に過ごした季節
懐かしい想い出達
取り戻すことは、容易ではないのだと言われたような気がして・・・
「時に」
「はい」
兄の口調が変わったことに、利三は驚いて顔を上げた
「母上が再嫁なされた石谷家のことなのだが」
「はい・・・。如何なされましたか」
母の千代とは、まだ幼い頃に生き別れた
それは時勢が土岐から斎藤に移り行く頃のことで、この時既に道三に主導権を奪われていた利賢に妻を引き止める力はなく、精々、嫡男である孫九郎を手元に残しておくのが精一杯の抵抗だった
蜷川家は越中の大豪族
朝倉への護りとして、道三も蜷川家の意見は尊重したかったところだろう
一方的に蜷川家の申し出を飲み、利賢の妻を土岐の一門でもある石谷家に嫁がせた
「その石谷家のご当主様、つまり母上のご亭主様が、病に倒れられた」
「ええっ?」
「不幸なことに、母上との間には女子しかおらん。嫡男がおられないのだ」
「それは存じてますが、それが何か」
「石谷家は近江への防衛の要ともされている。その石谷家との縁を断ち切るのは困ると、蜷川家から申し出があって
「また、蜷川ですか・・・」
利三の声が低く震えた
「仕方あるまい。蜷川は長年に渡って越前・朝倉への防波堤として、美濃を守ってくれているのだ。無碍にはできんと、父上も仰られている」
「父上が?」
「そこで、だ」
「
「私が、石谷の養子として、入ることに決まった」
「え・・・?あ・・・、兄上が・・・ですか?」
利三の目が、いっぱいに開いた
「しかし、兄上は斎藤家の嫡男です!何故兄上が石谷家に・・・ッ!行くのなら、私がッ・・・!」
「越前への守り、近江への守りを考えれば、嫡男である私が向うのが道理だろう」
「ですが、そうなれば斎藤の跡継ぎは・・・!」
「お前が居るではないか」
「
兄のあっさりとした返事に、利三は言葉を失った
「少しお休みになられます?」
秀隆との打ち合わせが漸く済み、局処の自室に移った帰蝶に、なつが声を掛ける
「ゆっくりもしてられないわ。権の話だと、犬山は殆ど傍観を決め込んでいたようだし、そうなると何れは清洲にも牙を剥くかも知れない」
「そんな・・・。伊予様が嫁がれるというのに・・・!もう、出発の準備は整ってるんですよ?」
「それでも、もしも浮野の戦で清洲が負けていれば、犬山は岩倉と手を組んだでしょうね。状況があれ以上に悪かったら、きっと掌を返されていた。権がギリギリのところまで踏ん張ってくれてなかったら、私が到着した頃にはもう、勝敗は決まっていたかも知れない」
「
「それと、龍之介が斎藤、武井夕庵の伝言を受けたの」
「武井・・・夕庵様・・・」
嘗て帰蝶の傅役だったと言う、未だ見ぬ大人物を想い浮かべた
「斎藤も、そろそろ後継者問題が浮上しそうなの。攻めるのなら、早く来いと言われたわ」
「そんな・・・」
苦笑いする帰蝶に、なつは顔を顰めた
「何もかも奥方様一人で、だなんて、急かし過ぎです。もう少しゆとりを持ったっていいじゃありませんか。どうしてそう急がれるのです」
「時の流れは待ってはくれない。追い着けぬほど引き離されてしまえば、どれだけ必死の形相で追い縋っても、辿り着けはしない。そうやって時代から取り残された者を『敗者』と呼ぶのよ。私は、敗者であってはならないの。こうやって膝を伸ばしていられるだけでも、充分」
「奥方様」
「私は、吉法師様のように器用ではないのね。吉法師様なら、仕事の片手間で町に出たりしていたのに。不甲斐ないわ」
「そんなこと、ありませんよ。奥方様は女ですもの。私なら、奥方様のようにはできません」
「ありがとう」
そんな時、菊子が襖の向こうから声を掛ける
帰命の喚く声も混じって
「奥方様」
「どうしたの?」
襖を開けると、菊子の腕から無理矢理降りようとした帰命が、畳の上に落っこちる
「うわぁぁぁぁー!」
「若様!」
「帰命ッ!」
慌てて立ち上がる帰蝶と、なつ、驚いて抱き上げようとする菊子ら侍女の焦りを知ってか知らずか、帰命は一声喚くとすぐさま立ち上がり、「かかさぁー!」と帰蝶に縋り付いた
「大丈夫?帰命」
「かかさあ」
生まれて、まだ一年と数ヶ月
それでも局処の小さな弱肉強食の世界で生きる帰命は、ほんの少し頼もしい存在だった
自分の腕の中で、自分に甘える愛しい我が子に、その香りに、帰蝶の疲れた心が癒された
そんな帰蝶の表情を読み取り、なつが気を利かせる
「奥方様、しばらく若様をお願いできますか。今日は祝勝会をやっておりますので、みなにはもう少し料理を揮ってやりたいと想います」
「そうね。領地が増えたと言っても、目に見えるほどの成果でもない。左兵衛を追い出すまでは、岩倉の領地は半分しかこちらの手にはないのだもの。その分、みんなには美味い馳走でも食べさせてあげて」
「はい、承知しました。奥方様と若様の夕餉は、こちらにお持ちしますね。それまで、ほんのひととき、羽を休めてくださいませ」
「ありがとう」
なつが先導して菊子らを連れて部屋を出る
帰蝶は自分にべったりとくっつく帰命を抱き締めた
「いい子にしていた?」
「あい」
笑うと、小さな口から、何本か生えている小さな歯が覗く
歯の数だけ、この子は成長しているのだと実感できた
それが何より嬉しい
「帰命。遊ぼうか」
何となく、声を掛ける
ここのところ忙しさに感けて、帰命を抱く暇もなかったことを想い出す
母の言葉に、帰命は満面の笑みで応えた
「帰るのか?」
もうすっかり暗くなった
夕焼けも沈み、表座敷の宴会も酣の頃か
座敷の片隅に座を設けられていた黒母衣衆の若い連中に混じって、慶次郎と盃を酌み交わしていた利治が立ち上がった
「そろそろ帰らないと、明日の朝餉の準備があるからな」
「へへっ。朝餉ったって、どうせ知行の減棒食らっちまったんだろ?だったら今の内、想い存分食ってかなきゃ」
「慶次郎は朝餉抜きだからな、お前だけ存分に食ってろ。私は、いざとなったらここの昼餉を鱈腹食ってやるさ」
何とも頼もしい言葉だと、慶次郎は反論せず聞いていた
「それじゃ、また明日な」
「ああ、お休み」
利治は、気付いているだろうか
その口調が変わったことを
男らしい口調になっていることを
そう想い浮かべながら、慶次郎は手酌で酒を注いだ
すっかり日が暮れて、帰る機会を見失ってしまった
利治の部屋で、いつものように夕餉の支度をしていたさちは、未だ帰らぬ利治の顔を見てから帰ろうか、それともさっさと帰ってしまおうか悩んだ
鍋の中の大根の甘露煮は、すっかり冷めてしまっている
これを作るのに台所から味醂を借りたのだが、それを得るために朝からずっと台所を走り回っていた
人の分も仕事をすることで、欲しい調味料を分けてもらうのがここのところの習慣だった所為か、今日に限って眠気も早めにやって来た
誰も居ない静かな部屋だと、眠くて仕方がない
妻帯者の家ではかすかに賑やかな声が聞こえている
今日の戦は勝ち戦だったと可成の妻・恵那から聞かされ、安心していた
何処の家庭でも、ささやかな祝杯を挙げているのか
さっき、こっそりと利家がやって来て、今日は自分の部屋で寝ると言って来た
まつも久し振りに夫の顔を見ながら寝れるのだから、今夜ほど安心して布団を被れる日はないだろう
嬉しい気分にさせられる夜に、一人で居るのは淋しかった
だが、そろそろ城に帰らないと、さちにも都合の悪いことが起きている
今日、昼間、月の物がやって来たのだ
月の物は以前から訪れていたが、今月は今日がその日だと言うことをすっかり忘れていた
お陰で、挟んでいる桜紙も、そろそろ交換しなくてはならないほど、たっぷりと血を含んで重くなっている
「困ったな・・・。今の内、交換しておこうかな・・・」
この武家長屋は織田に仕える兵士達が暮らしているのだから、独身と言えば男ばかりで、知っているのは主婦だけなのだから、当然、主婦には旦那が付いている
家族を追い出してまで桜紙の交換をするのも気が引けるし、ここでやっている最中に利治が戻って来たら、それこそ死にたくなるほどの恥を掻くことにもなる
どっちも選べなかった
まつの部屋を拝借しようにも、頼もうかと想った矢先に利家が挨拶に来たのだから、頼める筈がない
「やっぱり帰ろうかな・・・。温めるだけなら、新五さんにもできるし・・・」
そう想い、立ち上がり掛けた
「あぅ・・・」
帰命が欠伸をする
「眠いの?」
聞いて来る母に、帰命はまだ遊びたいと眠い目を擦り、首を振る
「寝なさい」
「かかさと」
「かかさは、まだ寝れない。お仕事が残ってるの」
「あうー・・・」
「かかさが、寝かせてあげようね。おいで、帰命」
両手を広げ、帰命を出迎える
帰命は母の手に釣られて、おたおたと歩いた
辿り着くと、その膝の上に頬を乗せる
自分の膝を正面から枕にする帰命の背中を、帰蝶はそっと、そっと、撫でるように叩いた
「うー・・・」
寝ようとするが、母と一緒に居られる嬉しさから興奮しているのか、眠いのに寝れない苛立ちに、帰命が妙な声を上げ始めた
「眠れないの?」
「んー・・・」
だが、それでもやはり眠いのか、目は何度も擦り付ける
そんな帰命の様子を見ながら、ポン、ポンと背中を叩き、帰蝶は子守唄を歌った
「さーとのもーりでかくれんぼ、お山はどこじゃと、猿が聞く」
懐かしい子守唄だった
母が良く聞かせてくれた子守唄だった
利治にも、歌って聞かせていた
母は元気でやっているのかと、ふと想い出す
想い出したところで、今の自分に何ができるのかと問われれば、無事を祈るだけと応えることしかできない、そんな無力さに腹が立った
「
夕焼けが紫色に変わった頃、さちも諦めて帰ろうとした、その時、戸板がガタンと音を立て、酷く驚かされた
「し、新五さん?」
「あ?さち、居たのか」
戸板を開けながら、利治が入って来る
「おかえりなさい・・・ッ!」
無事の帰還に喜んだ
「ただいま」
戸板を締めると、部屋が暗くなる
さちは慌てて竃の火を熾そうとした
「こんな遅くまで居てくれたのか?」
「ん?うん。帰ろうかと想ったんだけどね、そうしたら新五さんが」
油が買えるくらいの知行をもらってない新五の部屋に、行灯などあるわけがなかった
「そうか、悪かったな。城で祝勝会やっててさ」
「うん、知ってる。お料理作るの、手伝ってたから」
「そうなんだ。すっかり遅くなってしまったな、送るよ」
「あ、待って」
丁度、藁に火が付いたところだった
ふー、ふー、と息を吹き掛け、藁束から薪に火が移る
「ん?その鍋」
竃の火で、部屋が薄っすらと明るくなった
その先にある鍋が目に飛び込み、利治はさちの居る竃へと近付いた
「大根の甘露煮」
「作ってくれてたのか?」
「だって、約束だったでしょ?」
「
穢れのない、無垢な微笑み
その微笑みを見たような気がした
いつだったか
どこでだったか
自分の日常の中にあるさちの笑顔が、日常にはない状況の中で見たような気がした
「さち。
「食べる?」
「あ・・・、うん、そうだな」
「あ、でもお城で祝勝会やったのよね。お腹一杯だったら、明日の朝餉に回しても」
「いや、食べるよ。できたてほやほやを食べてから、送ってく」
「うん、ありがとう」
先に利治が竃から離れ、板の間に近付く
その利治の後を追って、板の間に上がろうとさちが立ち上がった
その瞬間
「
ぽとり・・・と、嫌な感覚がその場所から生まれ、離れた
さちは硬直し、自分の脚の間に目を落とす
「あ・・・・・・・」
声にならない微かな悲鳴が上がる
それを聞いたわけではないだろうが、利治が振り返った
「どうした?さち」
「
さちはその声に咄嗟に動き、自分の股の間から落ちた、血塗れの桜紙を庇うように土間の上を四つん這いで屈み込んだ
「さち?どうした!」
「なんでもない!」
「でも・・・」
「来ないでッ!」
「
側に近付き、俯けるさちの顔が耳まで赤いことに気付いた
「
「あっち・・・向いてて・・・」
「さち?」
「お願い・・・・・・・・」
「
泣き出しそうに震える声
「さち・・・・・・・」
こんな風に慌てるさちを見たことがない利治は、それだけで狼狽した
それから、さちの足首に僅かな血がこびり付いているのを見付ける
「さち、どこか怪我でもしてるのか?」
「え?」
「血が出てる」
「
「怪我じゃなきゃ、なんだって言うんだ」
それから、利治ははっとした
そうか、と
そして、後ろ向きのままそっと、後退する
懐に手を伸ばし、そこから懐紙を取り出し、板の間に置いた
「しばらく、外に出てる。懐紙だから、少し硬いかも知れないけど」
「うん・・・」
「用が済んだら、声を掛けてくれ」
「うん・・・」
さちは俯いたまま、顔を上げてくれなかった
上げたとしても、利治もきっと、さちの顔をまともに見ることはできなかっただろうと想う
そうか
さちは、『女』なんだ
と、自覚してしまうから
守るべき女なのだと、意識してしまうから
「奥方様、遅くなりました。夕餉、お持ちしましたよ」
襖の向こうからなつの声が聞こえる
「奥方様?」
返事がなく、しかし部屋からは明かりが漏れているのだから中には居るのだろうと、そっと開けた
その先の光景に、なつは吹き出した
「わ・・・、若様・・・」
帰蝶は疲れ切ったのか、すっかり眠ってしまっている様子で、ピクリとも動く気配がない
その帰蝶の胸元を大きく寛げ、帰命が母の乳房を含んでおり、空いた片方の乳首を一生懸命指で弄っていた
「吸っても、母様のおっぱいは出ませんよ。出そうなほど、大きいですけどね」
帰命は腹が減ったのか、それとも母の乳房が恋しくなったのか、子供ながらの行動であり、一見微笑ましささえ感じる
「それにしても、すっかり眠りこけてしまって」
帰命を抱き上げながら、広がった襟首を直してやる
すると、それまで動きもしなかった帰蝶が寝返りを打った
無意識に、寝返れば息子が痛い想いをするとわかっていたのだろうか
帰蝶の深い愛情に、なつは微笑んだ
浮野での争いに勝利した清洲織田は、岩倉の領地の半分を無条件で手に入れた
現当主・織田信賢に家督騒動の咎、加えて清洲織田に逆らったことへの咎を水に流すと言うことを念頭に置いての、無条件降伏であった
帰蝶の版図が少し、伸びる
それは同時に、帰蝶の負担がその分増えるのも同義だった
犬山へ信秀次女の伊予を嫁がせ、新しい年を祝おうかと言う頃、事変は起きた
「奥方様!」
血相を変えた秀隆が、本丸の執務部屋に飛び込んで来る
「奥方様!」
「どうしたの、騒々しい」
「さっ、斎藤が・・・ッ」
「斎藤がどうしたの。また攻め込んで来たの?」
「美濃斎藤家当主、斎藤新九郎様が、幕府相伴衆に任命されたと・・・・・・・ッ!」
「え?」
筆を執っていた手を止め、帰蝶は秀隆に顔を向けた
その顔色は、血の気の引いた青だった
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おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
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転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
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