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総大将同士の席から離れた場所で、各部隊の部隊長同士が集まる
そこに皮肉なことに弥三郎を取り囲む形で数正、忠次が座っていた
無精髭の生えた青年ではあるが、背が高くすらりとした体付きで、綺麗な顔立ちをしていることが数正の心に引っ掛かり、忠次は愛しいお弥々殿にどことなく似ているのが引っ掛かる
「あの・・・、土田殿・・・」
恐縮したかのように、弥三郎の盃に酒を注ぐ数正が訊ねる
「なんですか?」
「その、土田殿は、衆道の嗜みは・・・」
「は?」
「土田殿、付かぬことをお聞きしますが・・・」
「はい」
今度は忠次が訊ねる
「妹君か、年の近い姉上様はいらっしゃいますので?」
「へ?」
弥三郎の左目だけが細くなった
「土田殿、もし差し支えなければ松平に鞍替えして、某と」
「土田殿、もしご姉妹がおられたら、その中に『お弥々』と言う名の」
「ちょ、ちょっと待って。俺、イチ抜け」
盃を放り投げ、弥三郎は立ち上がった
「土田殿!」
逃げ出す弥三郎を数正、忠次が揃って追い駆ける
「ほぉう、若いことは良いことだ。直ぐに打ち解け、友達になれる。いやあ、微笑ましい光景だ」
「違うと想います・・・」
小笠原氏清の暢気な言葉に、可成は頭から汗を浮かばせた
さっきまで争っていた間柄とは想えぬほどに、今、この場所は和やかな雰囲気に包まれている
まるで、春の花の咲く庭のような
そんな気にさせられた

「先ずは、一献」
そう言いながら、元康が帰蝶の手にある盃に酒を注いだ
「いける口ですか?」
「否応もなく、な。いつの間にか、呑めるようになった」
「それでも、嬉しいことではありますまい?」
「かも知れん。だが、眠れん時にはこれが効く」
苦笑いをしながら盃を眺める
夜、帰蝶が夢に魘されるのを知っているのは、利家と、死んだ龍之介だけだった
知らない兵助はそんな夜もあるのかと、特に気にも留めない
「そうでなくなる日が、いつか来ることを祈っております」
何気ない元康の一言に、帰蝶は顔を上げる
「以前、清洲に来た時、お前に話したな。吉法師様の夢を」
そこには元康と兵助しか居ない
だから帰蝶はその名を出せた
「戦をさせぬ、起さぬ、許さぬ。そんな世にしたいと」
「ええ。戦のない世など可能なことなのかと、私も俄には信じがたい想いをしました。ですが」
『吉法師』の名を出したのだから、側に控える兵助は全てを知っているのだろうと、元康は感じた
「あなた様を何とお呼びしようかと、初めてお逢いした時から考えておりました。織田、上総介様?いえ、違う。土田御前様と並んでおられるあなた様を目にした瞬間、いいえ、それよりも少し前から、私の心は決まっておりました、御母様」
「御母様?」
初めて耳にした兵助が目を丸くする
「この二郎三郎が、二人きりの時だけはそう、呼びたいのだそうだ」
と、帰蝶が説明する
「そうですか。松平様は、殿の正体をご存知で」
「不躾な方法ではございましたが」
「え?」
「それはもう良いから」
また、胸を掴んだことを説明させる気かと、帰蝶は嫌な顔をする
なんせあの後、市弥にその事情を説明し、呆れ果てられたのだから
「そう呼ぶことを許してくださったあなた様なら、できるような気になりました。ですが、考えれば考えるほど、難しい問題でございますね」
「祈るだけでは夢は叶わぬ」
「ええ、そうです」
帰蝶の言葉に、元康は微笑んだ
「御母様の仰るとおり。祈るだけでは、夢は叶わない」
優しい顔をしている元康に、帰蝶は妻のことを考えているのだろうと察した
そんな時に声を掛けるのは無粋だと、帰蝶は黙って酒の注がれた盃を傾ける
その元康の許に平八郎が料理を盛った皿を持って来た
「織田様、殿、お待たせしました」
「平八郎」
元康ではなく、帰蝶が声を掛けた
「はい」
「腕は、大事無いか?」
自分が割った籠手を巻いていた方の腕を心配する
「はい。先程、湿布を頂きました。痺れも直ぐ取れて、今は平気です。ご心配、ありがとうございます」
その帰蝶に、平八郎は今まで見せたことがないような、爽やかな笑顔を見せて応えた
「そうか、それは良かった」
平八郎の返事に、帰蝶も一先ずほっとする
遺恨を生むなと言っていた自分が遺恨を作ってしまっては、始末が悪い
平八郎を気遣う帰蝶を見て、元康はおじおじしながら話した
「実は、小平太が挟まれそうになった時、私も本陣を出ようかと、一瞬想ったのです」
「え?」
「負けたくない、理由があったので」
少し微笑み、それから俯く元康を、帰蝶は覗き込んだ
「何があった?二郎三郎」
帰蝶の問い掛けに、元康は搾り出すような声で応える
          甲斐の武田が、駿府に侵攻・・・」
「甲斐の、武田。駿府?それは、お前のご内儀の」
「はい・・・」
「武田め。治部大輔が生きていた頃は今川の影に怯えて大人しかったものが、治部大輔が死んだ途端にそれか」
武田の恥知らずな行動に、帰蝶は呆れた顔で言ってのけた
「佐久夜・・・の残っている屋敷まで、及ぶ勢いです。だから私は、この仕合に勝てば、あるいは引き分けに持ち込み、兎に角織田に負けさえしなければ、佐久夜を迎えに行けると         
「二郎三郎」
帰蝶は厳しい目付きで元康を見詰めた
その目に、元康は黙り込む
「織田を、口実に使うな」
「御母・・・」
側に平八郎が居ることを想い出し、元康は慌てて口を噤んだ
「松平の大将は、誰だ」
                
「誰だ」
          私・・・、です」
「松平を動かしているのは、誰だ」
「私です」
「お前は自分が何をすべきか、何ができるのか、どこまでやれば良いのか、その全てを他人に委ねるのか?」
          いいえ」
「だったら、自分のやりたいことくらいは、自分で選べ」
「上総介様・・・」
「平八郎」
「はい」
急に呼ばれ、平八郎は少し驚いた顔を見せる
「お前の主、二郎三郎は、自分の妻を迎えに駿府に行きたいと言っている」
「上総介様・・・ッ」
元康は慌てて顔を上げた
「お前なら、どうする。反対するか?」
                
帰蝶の聞いていることは、まだ若輩者である自分に返答は難しいと考えた
考えながら、より良い選択をする
「私は、殿の意向に従います。そう言う立場ですので」
「そうだな。二郎三郎」
「はい・・・」
「お前よりもっともっと若い平八郎でさえ、こう言っている。それでもお前は、時勢に流され、嵐が通り過ぎるのをただじっと待っているのか?」
「上総介様・・・」
「私なら、その嵐に飛び込む」
                 ッ」
「嵐の向こうに大事なものがあるのなら、尚更、な」
「上総・・・」
心なしか、帰蝶の顔が優しく微笑んでいるような気がした
ほうとする元康の前で、兵助が愚痴る
「殿は後先考えずに、その『嵐』に飛び込む所為で、我ら家臣がどれほど心労を重ねているか、少しはおわかりなのですか?」
「お前は黙れ」
                 ッ」
口を挟む兵助の顔面目掛けて、帰蝶の拳の裏が飛び、兵助は撃沈した
その光景に元康も平八郎も絶句する
「二郎三郎」
「はい・・・」
「あの時、私はお前に言ったな?己の想うまま、生きてみろと」
          はい」
「お前は、己の想うまま、生きているか?」
                
応えられない
「いつまで、家臣らの顔色を伺うつもりだ?それで今川から独立して、やって行けるのか?結局、最後に決めるのはお前ではないのか?」
「そう・・・ですが」
「何が違う、言ってみろ」
          家臣なくしては、戦はできません・・・」
「当たり前のことを言うな。誰が詭弁を弄せよと言った」
「上総介様・・・」
「家臣は、ご機嫌伺いのために側に居るのではない。共に戦うためにそこに居る。間違えるな、その家臣を使うのは、お前だろう?松平二郎三郎元康。主人はお前だろう?お前のそのいみじな想いのために、大事な妻や子を犠牲にしたいのか。ならば構わん、私はそのような輩とは手を組みたくはないッ!」
「と、殿ッ!」
帰蝶の言葉に、兵助は慌てて止めに入ろうとした
その兵助を、帰蝶は胸倉を掴んで制止する
「私が欲しているのは、強い意思と揺るぎない信念を持った者だ。お前のようなボウフラではないッ!」
「織田様」
余りの言葉に、平八郎も帰蝶を止めようと腰を浮かす
「どうか、殿のお気持ちも、お考え下さいませ。お願いいたします」
「平八郎・・・」
自分の代弁に平伏している平八郎を、元康は震える首を横に向けて見詰めた
その目は今にも涙が零れ落ちそうなほど、潤んでいた
「殿も、苦しんでおられるのです。奥方様をお迎えに行きたいけれど、古参の重臣方の反対も大きく、反感を買ってまで迎えに行けば松平は         
「平八郎、良く聞け」
兵助から手を離しながら、帰蝶は言った
「主とは、この世のあらゆる苦しみを一人で受けねばならん、それに甘えていられる立場ではないのだ」
                
帰蝶の言葉に兵助はおろか、元康もが目を見開く
そうだったと、改めて想う
「二郎三郎、胎を括れ。なんのために、どうありたいか。誰のために、どうしたいか」
なんのために生き、なんのために死ねるか
その答えが見付かった時、人は今より強くなれる
この人はそうやって、生きてきたのだ、と
「それを決めるのは、お前なのだぞ?」
迎え撃つか、籠城か
その決断を迫られた時、帰蝶は家臣が二分するのを懸念して、たった一人、清洲の城を飛び出した
兵助はあの夜を想い出す
空が泣いていたのを、想い出す
          わかりますか?
この子の、心の痛みを
理解できますか?
どれだけのた打ち回り、苦しんでいるのかを
市弥はそう言った
夫を殺した嫁ぎ先を味方に付け、夫を殺した実家を相手に戦っているこの女性にとって、自分の悩みなどどれほど詰まらなく下らないものか
元康は胸が苦しくなる想いをした
そんな元康の、月代の頭を、帰蝶はそっと撫でた
「二郎三郎。いや、竹千代」
                
優しい声で、自分の名を言い直す帰蝶を見上げた時、遂に瞳から涙が零れた
「もう、我慢する必要はない。共に戦おうと誓っただろう?共に、夢見て駆けようと誓っただろう?お前がご内儀を取り返したいのであれば、この上総介が味方する」
「上総介様・・・ッ」
「お前は、お前の歩きたい道をゆけ。その隣に伴侶を置きたいのであれば、誰に遠慮することもない。他人が決めた結婚相手かも知れぬ。だが、お前の心を支えてくれているのだろう?その人を、胸に止めておきたいのだろう?なら、その想いを現実にするが良い。お前の愛した伴侶は、お前を支えてくれる。これからも、ずっと」
                 ッ」
堪らず、元康は帰蝶にしがみ付き、その胸に顔を埋(うず)めた
意図したものではないだろう
多少顔をぐりぐりと擦り付けている感はあるが、鎧を着ているので弊害はなく、それは、幼子が母に甘える姿に似ていた
隣でこの光景を見ていた兵助は、何故元康が帰蝶を『御母様』と呼びたがっていたのか、なんとなくだがわかったような気がする
帰蝶は誰にとっても『母』のように見えるのだ、と、そう想った

庭ではたいた畳を取り入れ、其々の部屋に敷き詰め直す
「あら?上手く嵌らないわね。よいしょっと」
男達が運んだ畳が浮くと、市弥が小袖の裾を抓んでその上をぴょんと飛ぶ
ほがらかな光景に、笑い声があちらこちらから上がった
なつも市弥の姿におかしくて笑い出す
空は夕暮れ色に染まっていた
松平との仕合は終わったのだろうかと、気になった
「殿、まだお戻りにならないのかしら・・・」
縁側から表を覗いてみる
ここから帰蝶が戻って来ることなどないのに
そのなつの背中から、侍女の声がした
「殿のご帰還です!」
                 ッ」
慌てたなつは後ろに振り返る
その瞬間、足袋が縁側の板に取られ、そのまま足元から庭先に滑り落ちた
序でに板の縁で脛を強打する
          なつ、大丈夫・・・?」
さすがの市弥も冷やかす気にはなれず、真剣に心配して覗き込む
「だ、大丈夫でございます・・・」
この後しばらく、なつの両脛に痣が浮いていたのは言うまでもない

「なんとなく、私のするべきことがわかったような気がする」
戻った帰蝶からそれを聞かされ、なつは一安心付く
これで少しは、戦に出る帰蝶を見送る時の、心の負担が軽くなると想った
「そうですよ。殿が前に出ることは、ないんです。総大将なのですから、本陣でドンと構えていればよいのです」
大袈裟な口調で言うなつに、帰蝶は苦笑いしながら応えた
「それがわかるのに、随分遠回りしたがな」
「でも、理解なされたのでしょう?大事なのは、これからですよ」
          そうだな。大事なのは、これからだな」
「ええ、そうですよ」
蒸し暑い夕暮れに、なつは団扇を持ってそっと、帰蝶に扇いでやった
久し振りに見る、なつの穏やかな顔だった

本丸の仕事を終え、瑞希を連れ、自宅の屋敷に戻った菊子は自宅玄関の門を潜った
部下との分担とは言え数百人所帯になった土田隊の屋敷なのだから、敷地もそれなりに広い
今は義理の妹夫婦も世話して、小牧から夫の両親も呼んで、それでもまだまだ余るくらいの部屋も持っている
広い玄関で召使が数人、菊子と瑞希の出迎えをした
「お帰りなさいませ」
「はい、ただいま。変わったことはない?」
「ええ、今日も恙無く」
代表して年長者の初老の女が返事した
「お帰りなさいませ、お嬢様。湯殿の支度ができておりますよ。入られますか?」
今度は年若い侍女が瑞希に声を掛ける
「うん、入る」
瑞希はその若い侍女と手を繋いで行ってしまった
それを見送る菊子に、さっきの老女が声を掛ける
「奥様」
「なあに?」

「旦那様」
ずっと加納に行っていた夫が、居間で寛いでいた
加納から松平との仕合に参加するため一度は清洲の大手門を潜ったが、碌に言葉も交わせないまま、弥三郎は帰蝶の許へ馳せ参じたのだ
実に三ヶ月振りの再会だった
「おう、おかえり」
「ただいま戻りました。帰っておいでだったのですね?知っておりましたら、早退させてもらいましたのに」
「ははは」
疲れているのか、弥三郎の声に覇気はなかった
「殿がさ、ずっと加納に詰めてるから、たまには女房に顔、見せてやれって」
「そうですか。と言うことは、新五様も?」
菊子は夫の側に座りながら訊ねた
「ああ。さちが子供産んだばっかりだしな、実際のとこ、殿はさちに気遣ったんだろうよ」
「そうでしたか。          お夕食は?」
「さっき済ませた」
「そうですか。お世話できませんで」
「お前だって本丸で働いてんだ。そう無理すんな」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、それから顔を上げた菊子の目は、なんだか睨んでいるようにも見えた
          なんだ?」
「加納にいらした間、どなたが旦那様のお世話を?」
「え?」
「お能様の話に因れば、傾城屋から女が出向いていたとか?」
「・・・まあ、殿の配慮で」
弥三郎の頭から汗が浮かぶ
「それで、下(しも)のお世話も?」
「菊子・・・」
「大変申し訳ございませんでした。女房の分際で、至らぬことだらけで」
                
女の嫉妬は恐ろしいが、どうしてか弥三郎は菊子のやきもちが可愛く感じて仕方ない
怒った時、菊子は頬がぽこんと膨らみ、その中心がほんのり赤くなる
まるで赤子のようで、愛らしかった
弥三郎は少し鼻で息を吐くように鳴らし、菊子を抱き寄せる
「だっ、旦那様・・・ッ。まだ、床の支度も・・・ッ」
「なんかなぁ」
菊子の首筋に鼻先を当て、その匂いを嗅ぐ
「うん、家に帰って来たなぁって実感できる」
「旦那様・・・」
「悪いな、俺も男だ。性の捌け口は欲しい。側にお前が居ないんなら、尚更だ」
                
静かな口調でそう言われては、責めるこちらが悪いような気になる
菊子は黙って弥三郎の言い分を聞いた
「うん、何人かの商売女は抱いた」
「そう・・・ですか・・・」
「でもな、安心できる匂いの女は、一人も居なかった。だから、心が動かなかった。ただ精を出すだけ、ただ、それだけだった」
                
背中を撫でられ、腕の中で菊子は動かずじっとしていた
「その内、それもなんか空しくなって来てな。もう一ヶ月、女抱いてない」
「え・・・?」
菊子は少し驚いて、弥三郎の顔を見上げた
「俺も小姓、持とうかな・・・」
「旦那様・・・」
「女を見ると、どうしてもお前と比べてしまう。お前と並べてしまう。お前の代わりなんて、どこにも居ないのに」
                 ッ」
真摯な弥三郎の瞳に、菊子は感極まって首に抱き付いた
「きっ、菊子?」
今度は弥三郎が驚く
「私も・・・、あなたの代わりなんて、どこにも居ない・・・」
「菊子」
「淋しかった・・・。あなたが居ない間、淋しくて、淋しくて、気がおかしくなりそうで、だから、本丸の仕事に専念してました・・・。でも本当は、あなたに逢いたくて、加納に行きたくて、仕方なかった・・・ッ」
「菊子         
「あなた・・・」
潤んだ瞳で、菊子はそれを強請った
「菊子を、抱いてくれますか・・・?」
「当たり前だろ。でも」
菊子を抱き締め、弥三郎は現実的なことを口にする
「瑞希が寝てからな」
                
居間の外から、湯殿の支度に着替えの小袖を手にした瑞希が、じっとこちらを伺っていた

同じ屋敷の中、利治はまだ床から出られぬさちと、その隣で眠っている那由多を交互に見詰めている
「帰って来ても、また直ぐ、加納に行くんでしょ?のんびりしてて、大丈夫?」
姉の出産の時と比べても、さちが中々起きられないのが気に掛かった
「大丈夫さ。しばらくは林様が張るそうだ。姉上も、ゆっくりしろって仰ってくださったし」
「そう・・・。なら、良いんだけど・・・」
「どうした?何、心配してる?」
「私・・・」
今日は疲れたのか、さちの声がいつもに比べて小さい
「また、戦が起きるんだなって」
「え?」
「戦が起きる度に、新五さんのこと、心配で」
「ははは・・・」
「無理、してないかな、って」
「なんで?」
「だって、新五さんは殿の弟だもの。殿を見てたら、新五さんも無茶なことやるんじゃないかって・・・。それに、お兄ちゃんの部隊にも居るし・・・」
「そうだなぁ、姉上と同じ血を引いてるもんな。さちが心配なのはわかるよ。でもさ、俺、こう見えても部隊でも前に比べ結構、重宝され始めたんだぜ?」
「そうなの?」
利治の言葉に、さちは少し目を見開いた
「ああ。だから弥三郎さんも、俺をあまり無理しなくてもいいとこに配置してくれてる」
「そう・・・」
ほっとした顔をするさちに、利治は額をそっと撫でながら詫びる
「それでもさ、大きなもんになったら、どうしても前に出なきゃなんない」
          そう・・・、よね・・・」
「ごめんな」
                
さちは黙って首を振る
新妻の心労や、如何に
利治は申し訳ない気持ちを胸に溜めながら、それでも言った
「でもさ、戦を終わらせるための戦なんだ、これは」
「終わらせるための?」
「姉上は、いつかこの世から戦ってもんを失くしたいって、真剣に考えておられる。女が泣かなくて済む時代を、引き込もうとしてるんだ。俺も、戦で親を亡くした立場だ。だからさ、そんな時代を呼びたいんだ。さち」
          何?」
「俺は、死なない。絶対に。だから、心配すんな。お前と、那由多を守るために、俺は戦ってるんだ。だからお前も、覚悟してくれ。自分は、武家の女房なんだってことを」
無茶を言ってると、自分でも自覚した
庶民の娘に武家の妻の心構えを、無理矢理持たせようとしているのだから
それでも、自分が死んでも、さちには笑って過ごしてもらいたかった
いつまでも、笑って居て欲しかった
その笑顔が、戦に立つ自分を守ってくれているのだから
夫の真剣な眼差しに真意を見たのか、さちは床の中から小さく頷いた
心は少しも納得していないだろうが、それでも、夫のために頷いて見せた
「ありがとな、さち」
「ううん・・・」

八月が終りに近付いた頃、長く伊勢に居た巴が清洲に帰って来た
その護衛は告知通り慶次郎が買って出、妻の初(はつ)共々、しばらく弥三郎の屋敷で世話になることに決まった
弥三郎は酒飲み相手ができたと喜ぶが、利治は悪友の帰還に顔を顰める
それを微笑ましいと想えるのは、今、目の前にある現実に肝を潰されそうになるからだ
自分に黙って平伏し続ける巴は、以前に比べて少し肉付きが良くなっていた
郷の料理はやはり口に合うのか
いいや
「いつまでそうしているつもりだ」
                
「好い加減、頭を上げろ」
帰蝶に促され、巴は青くなった顔をそろそろと上げた
顔を上げれば全身も目視できる
巴の腹が、ぽこんと膨らんでいた
          申し訳ございません・・・」
「何故謝る」
「私は、上総介様を裏切りました・・・」
「懐妊(それ)が裏切りになるのか?お前に子種を仕込めぬ私への、当て付けか?」
「私は・・・ッ」
「巴」
帰蝶は、自分を責めようとする巴を、静かな口調で止めた
「お前が織田に入った夜、私は言ったな?私もこんな事情を抱えている。お前との間に子を成すことは不可能だ。だから、お前の目に止まった男が居たならば、子を作れと」
「ですが、上総介様に黙って、私は・・・ッ」
「巴。私の代わりに、子を産んでくれるのだろう?」
「上総・・・・・・・・」
言葉だけで巴を押さえ込む
それは静かだが、鋭い刃物にも似ていた
「お前が選んだ相手だ、間違いはないだろう。だが私は、腹の子の父親の名を訊ねるつもりはない」
「上総介様・・・」
突き放されたように聞こえ、巴の目から活力が失われ、力なく項垂れる
「良いか、巴」
帰蝶は涙で目を潤ませる巴に、それでも敢えて厳しい目付きを放って告げた
「父親のことは、口外するな」
「そん・・・」
目を見開いて、巴は帰蝶を見た
実子でなくとも、養子扱いにさえしてもらえば、あの人に堂々と逢える
それがどれだけ甘い戯言だと自覚していても、恋しい想いを消すことなどできない
それが不義であることも、知っている
だけど         
「お前が一人で、墓場まで持って行け。父親に当たる男にも、同様だ」
「上総介様・・・ッ」
どうしてそれすら許してくれないのかと、巴は帰蝶に縋り掛かった
それでも、振り払うかのように言う
「告げればお前と、お前の腹に居る子の命に関わる」
「何故ですか・・・ッ」
「人の口には、決して戸は立てられぬ。どこで漏れるかわからん。もしもお前の腹の子が織田信長の子ではないと知れれば、お前も、子も、塵に等しい存在になる。巴」
                
「お前の腹に居る子は、私の子だ。帰命の、『身代わり』になる宿命を受けた子だ。それを忘れるな」
この瞬間、お腹の中の子は帰命丸の代わりに死ぬ運命を、背負わされた
それを突き付けられた
「上総介様・・・」
冷たい、だが、この当時では至極当たり前のことを口にする
巴も武家に生まれた娘
生まれて来る子らの存在価値は、誰よりも理解している
だけど、納得したくなかった
自分の知っている上総介は、こんなにも冷たい目をして、冷たい言葉を平気で放つ人間だっただろうか、と
「巴」
          はい・・・」
「子は、清洲で産め。伊勢に戻る必要はない」
「はい・・・」
もう、逢えないのだろと、絶望感に打ち拉がれる
恋しい男の顔が朧に消え、巴は悲しみに目を伏せた
だが         
「腹の子の傅役は、お前が選べ」
          え・・・?」
その次には、好いた男を側に侍らせても構わないと言う
「お前の、その確かな目で選べ。お前の選んだ相手に、異論は出さん」
          はい・・・」
巴には、帰蝶の真意がわからなかった
もしもこの次に子が生まれても、その子もきっと、帰命の身代わりにされるのだろうと想うと、二度目を産む気にはなれなかった
これが、尾張制覇を狙う大名の心掛けなのだと感じる
誰の子であろうと、駒にしか見えない
それは、帰蝶を責めることではなかった
自分の父親も、織田との繋がりのために自分を寄越した
だからこそ、巴自身、それは当たり前のことなのだろうと想えた
だが
それでも、考える
自分の居ない間に、帰蝶に何があったのか、と
心を変えてしまわなければならないような、そんな大きなことがあったのだろうか、と
自分が好いた男と肌を重ねている間、この方の身に、一体何がと、巴は考えた
考えても、答えは浮かばぬ
人の心とは、そう言うものだった

          そうですか。殿はそのように」
巴への処遇を聞かされたなつは、少し顔を顰めるように息を吐いた
「非道だと言うか?」
「いいえ、そうは申しません。織田信長に子が少なければ、敵は直接城を狙います。城を落として若様の命を奪えば、織田は跡取りがなくなり家は断絶します。手っ取り早い、尾張の落し方です。私は、殿の判断は正しいと想います。織田信長以外の父親の存在が知れれば、殿への嫌疑も濃くなります。あなたが信長として生きるのであれば、女の感情を捨てねばならないこともありましょう。ですが」
「何だ?」
「つらくは、ありませんか?」
「何をだ?」
「巴の方様に冷たく当ったこと、後悔なさっておいでではありませんか?」
「後悔するくらいなら、初めから口にしたりはしない。帰命の代わりとなる子ができたのだ。喜びこそすれ、心翳ることは何もない」
「そうですね」
帰蝶は松平から、目に見えぬ多くのものを学んだのだろうと、なつは想った
そしてそれはこれからも続くのだろう
多くのものを吸収し、どんどんと膨れ上がり、しかしそれは果たして『帰蝶』なのかそうでないのか、なつにはわからなかった
わからない方が幸せなのかも知れないと、想った
『織田信長』はこれからもどんどんと大きくなる
それを止めることはできないのだと
そうすることで、夫の夢を現実にしようとしている彼女を止めてはならないのだと、そう想った
それを願ったのは、自分達、織田の人間なのかも知れないから
          曇って来ましたね」
ふと、庭の先に目をやると、薄暗い雲が差し掛かって来る
「雨、でしょうか」
「今年は多いな」
「梅雨も明けたと言うのに、まだこんなに」
と、なつが縁側に出た瞬間、けたたましい雷鳴が鳴り響いた
「ひぃ!          きゃぁ!」
雷の音に驚いて、なつはまたもや縁側の床で足を滑らせ尻餅を突き、その拍子に庭先に転げ落ちてしまった
「なつ!大丈夫か?」
          へ、へっちゃらでございます・・・」
縁側にへばり付きながら、なつは苦笑いして応える
「お前はよく庭に転げ落ちるな。もう縁側には近付くな」
「そうは参りません・・・」
腰が抜けたらしく、這い蹲るように上半身を乗り上げる
そのなつを、腕を伸ばして手助けした
「お・・・、恐れ入ります・・・」
顔を赤くして身を乗り上げた瞬間、またもや雷鳴が轟く
「ひやぁッ!」
耳を劈くその轟音に、なつは両耳を手で押さえて身を丸めた
「なつは、雷(いかずち)は苦手か?」
「得意な者など、居るのでしょうか?」
「私は割りと平気だが」
「そうですか、それはよろしゅうございましたね」
「何を怒ってる」
「怒ってなどおりません」
漸く立ち上がり、小袖に付いた土を払う
そうしていると侍女がやって来て、帰蝶に報告した
「殿、少しよろしいでしょうか?」
「どうした」
「巴の方様が」
「巴が?どうかしたのか」
帰蝶は少し慌てて巴の部屋に駆けた

襖を開けると、先程のなつと同じように、雷の音に身を震わせている巴の姿があった
「どうした?巴」
「殿・・・」
雷がドスンと鋭い音を立てる
「ひぃっ!」
驚いた巴は、帰蝶の腕に縋り付いた
「雷が怖いのか?」
「子供の頃、雷が本丸に落ちて、半焼したことがありました・・・。それ以来、怖くて・・・」
「そうか」
「雷は、人の躰にも通ると聞きます。あんなものが側に落ちたら・・・」
「わかった」
巴の背中を撫でながら、帰蝶は侍女に命令する
「蚊帳を張ってくれ」
「蚊帳ですか?ですけど、まだ早いのでは?」
「蚊帳は雷を通さない」
「上総介様・・・」
腕の中の巴が顔を上げた
「お前を守ってくれる」
「上総・・・・・・・・・」
「殿」
そっと声を掛けるなつに顔を向け、帰蝶は言った
「私は山育ちだからな、雷には慣れてる。こんなもの、屁でもない」
「まあ、屁だなんて」
「ははは」
帰蝶の命令で巴の部屋に蚊帳が張られた
それが楽しくてか、自然と子供も集まって巴の周りに囲いを作った
夏になれば当たり前に使っているものだが、昼間は取り外して部屋には張っていない
その蚊帳が昼間に張られているのだから、子供心には楽しいのだろう
帰命も瑞希と一緒にはしゃいでいた
「これで大丈夫だろう」
言った側からまたもや雷が鳴り響き、巴や他の女達を脅かす
「きゃぁぁぁぁぁッ!」
「ひぃッ!」
巴の鋭い悲鳴にも、驚かされる
その次には雨が降り始め、空の色が黒く塗り潰され不気味さが漂い始めた
そうなると巴だけではなくなつまで怯え始め、益々巴を臆病にしてしまった
雷が鳴る度に悲鳴を上げ、身を屈ませる
それを見ていた帰蝶が、縁側に立つと裸足のまま、雨の降り頻る庭に出た
「上総介様ッ」
驚いた巴は蚊帳から出て縁側に立つ
「お入りくださいませ!雨に当ると、お風邪を召します。早く、中に」
もしも近くに雷が落ちたら、帰蝶も無事では済まされない
それなのに、帰蝶は立ち続けた
まるで、巴の『避雷針』になるかのように
「殿、巴様の仰るとおりです。早くお入り下さいませッ」
堪らずなつも声を張り上げた
「巴」
雨に髪が濡れ、前髪が幾束か顔に張り付いている
それでも、帰蝶まで不気味には感じられなかった
「私が、お前の蚊帳になってやる」
「上総介様・・・」
「お前と、お前の腹に居る子は、私が守ってやる」
「上総・・・介・・・様・・・」
帰蝶の言葉に、巴は目を見開いた
「巴。心配するな」
帰蝶は両腕を広げてみせる
その後ろで稲妻が走り、青白い光が天と地を繋いだ
それでも帰蝶は少しも驚かず、少しも怯まず、堂々と腕を広げたまま立ち尽くす
「お前は健やかに子を産め。そして、育てろ。上総介の子だ。責任を持って、育てろ。一人前にしてみせろ」
「上総・・・」
稲妻の後を追うように、バリ!と雷が鳴り響く
腹にまで響くような大きさだった
それでも、どうしてか、巴は悲鳴を上げなかった
代わりに、綺麗な涙が頬を伝っていた
          はい」
女とて、戦ができぬわけはない
帰蝶は戦に立ち、戦っている
自分もこれまで、伊勢の覇権を巡る争いに加わり、織田の側室と言う立場を利用し、実家を道具に外交を行なって来た
女でも、戦える
女でも、抗える
そして、女はこの世で唯一、人の子を生める
生んだ子を家の役に立てるのが『母親』の役目であった
それが可能であることを、この、目の前に居る帰蝶が証明している
自分にもできるはずだ
母親の名乗りを捨て、子のために戦い続けている帰蝶に、父親を名乗らせられないことを嘆く必要が、あっただろうか
いいや
『織田信長』の子だからこそ、この子は生まれて来る意義を持つ
巴はそっと、膨らみつつある腹を両手で庇った
自分の産む子が織田の子になることは、側室として入った時から決められていた
それを反故にしてはいけないこともわかっている
わかっていた
それでも、心のどこかでは帰蝶に甘えていた
織田の側室ではなくなっても、恋しい男と一緒になれればそれで充分だと
自分が何をしに尾張まで来たのか、一瞬でも忘れていた
帰蝶のようには、なれなかった
巴はそんな自分を恥じた
「殿!」
中々戻ろうとしない帰蝶に業を煮やし、なつも裸足のまま庭に飛び出た
「早くお戻りください!」
そう言って、帰蝶の許に駆け寄ろうとして、ぬかるんだ土に足を取られ、派手に転ぶ
帰蝶は屈み込み、なつに訊ねた
「なつ。お前、庭で何か悪さでもしたのか?」
          いいえ・・・」
顔中泥塗れになったなつは、死にたくなるほど恥しい想いで、顔を上げることができなかった

戦場のような雷の後、嵐のような雨があり、それが過ぎれば夏らしい日差しが戻って来る
市は縁側に近い場所で佐治の古い小袖を縫っていた
佐治が小牧から清洲にやって来た時着ていたもので、市には何より想い出深いものでもある
成人になりつつある佐治では、既に着ることのできない小袖ではあるが、それでも市は時々こうして面倒を見ていた
解れたところがあれば縫い合わせ、湿気っていたら陰干しをする
そうして、この小袖の面倒を見ていた
今日は袖の部分が解れているのを見付け、縫い合わせる
佐治に嫁いで一年が過ぎていた
始めは武家長屋で暮らしていたが、佐治が池田隊の副隊長に昇進してから同時に、今の屋敷に引っ越した
周りに召使の家人は何人か居るが、佐治のことだけは自分でやっている
いつの間にか裁縫も、一人でできるようになっていた
元々手先が器用だったこともあり、後は馴れる一方だったのかも知れない
「よし・・・と」
縫い終わり、糸を歯で噛み切る
「うん、できた」
まだ幼さの残る笑顔で小袖を広げた
小袖が退けたことで、市の腹も見える
ぽっこりと浮かんでいた
「あ・・・」
胎動の時期を過ぎており、この頃は腹の子が活発に動くようになった
その腹をそっと擦りながら声を掛ける
「父様を待ってるの?加納が交代になったから、そろそろ墨俣も交代させるって姉様が言ってるそうよ。もう直ぐ父様が戻って来るからね、それまでもう少し、待ってましょうね」
それを聞いたか、理解したか、そんな筈はないだろうが、それでも腹の子が一層活発に動く
侍女のえいの話では、これほど動き回るのは珍しいと言う
間違いなく元気な子が生まれて来ると言われ、喜んだ
針を針山に戻し、佐治の小袖をピシッと引っ張る
この袖を何度、木の陰で見付けたか
子供だった頃の自分を想い出し、市はくすりと笑う
それから、嫌なことも想い出す
「あ         
自分が、半端ではない行動を、良く取ることを
古い小袖は生地が相当痛んでいる
ピシッと引っ張ったことで、縫い合わせていなかった別の袖が縫い目から裂けた
「また、縫わなくっちゃ・・・」
裁縫はできるようになっても、素早く縫えるわけではない
これもかなりの時間を掛けて縫ったものだから、肩が凝って仕方がなかった
それでも、腕をぐりんと一回転させ、市は前屈みになって針に新しい糸を通すことに苦戦する
「あれ・・・?」
糸通しを通らない糸に何度も唾を付け、先を細く捻ってはまた、糸通しに糸を通そうとした
「あれ・・・」
裁縫はできるようになっても、市は糸を通すのが苦手だった

「頼む、与七郎」
                
自分に向って平伏する元康を、数正は黙って見詰めた
畳に置いた指先が、小刻みに震えている
これを強行すれば、否応なしに反目する者も出て来るだろう
それを覚悟で元康は願い出た
元康の妻・関口愛鷹が今川の捕虜になったことは、記憶に新しい
今川と、織田の争いの後だった
岡崎に留まった元康を、織田に寝返ったと信じた今川は、駿府に残った妻子を人質に取った
それはこの時代、正しい行為である
敵になるかも知れぬ者に、ご丁寧に土産を手渡す愚か者は居ない
この時、元康妻子の解放の交渉に当ったのが、数正であった
今川は、愛鷹らを駿府に留めることを条件に、解放を承諾した
手元に置いておけば元康は、決して裏切ったりはしない、と
だが、元康の心は既に今川から織田、正しくは『織田上総介』に大きく傾いている
織田に着くのも、もう頃合だろう
そうなると、駿府に居る妻子の身の安全が保証されなくなる
妻子を犠牲にして織田に着いたとなれば元康だけではなく、松平そのものが世間から誹られ、信用まで失くしてしまう
そうなると、この岡崎にもいつまで居られるか、保証は全くない
一度は国を失った元康に、どこまでも忠誠を尽くすことで、自分達松平家臣は世間から評価を得ている
何もないところから始め、尾張国主に王手を掛けている『上総介』とは、根本から何もかもが違う
奪われたものを奪い返しただけで評価を出すほど、世間は甘くない
今川で辛酸を舐めさられ続けて来たからこそ、再び『何かを失う』怖さも知っている
松平軍を瓦解させるわけにはいかない
だが、元康に逆らうことも許されない
数正は苦い顔をしてそっと、元康の指先に手を置いた
「殿」
                
元康は縋るような目をして、自分を見上げた
まあるい、団栗のような目に涙が差している
「易くは、ございません」
「わかってる」
「殿に賛同する者でしか、行動できません」
「わかってる」
「少ない数かも、知れません」
「わかってる」
「それでも、取り返したいのですか?」
「ああ」
                
きっぱりと言い切る元康に、数正はその決心が本物であることを知った
「わかりました」
          与七郎・・・!」
俄に、元康の目に喜びの色が広がる
「ですが、甲斐の武田が駿府に侵攻しているのは、ご存知ですね?」
「ああ、知っている」
「下手をすれば、武田とぶつかるかも知れません。それは決して、無事では済まないと言うことになります」
「わかってる」
元康の声は、落ち着いていた
「なら、今直ぐは無理です」
「与七郎・・・ッ」
元康は眉間を寄せ、数正の腕を掴んだ
「何故だ、何故今ではいけないのだッ」
「武田と越後の上杉に不穏な空気あり!一食触発の状態で駿府に乗り込めば、松平ごと飲み込まれてしまいます!肝心なのは、無事、奥方様と若様と、姫様を取り返すことではございませぬか?!」
                 ッ」
数正の言葉に、元康は胸を抉られた

妻は果てしなく美しく、常に慈愛の目で自分を見守ってくれていた
愛するあまり、日の本の国を代表する美姫(びき)の名を字に使ったのは、単なる惚れた欲目に過ぎない
「佐久夜」と呼ぶ度に、恥しそうに頬を赤くしていた愛鷹の顔がちらつく
愛する愛鷹の生んだ息子だからこそ、元康は自分の幼名を子に与えた
これに反対する者も多かったが、子は何れ名を変えるからと言い訳をして押し通した
女は早く死ぬ時代
子を産むことも命懸けの時代
生まれた娘は長生きできるようにと願いを込めて、『亀』と言う縁起の良い名を与えた
まだ、幼い
よちよち歩きをしていた記憶しか残っていない
その娘と生き別れたままで居るのは、耐えられなかった

「それはいつになるかわかりません。明日かも知れない、来年かも知れない。ですが、殿。必ず取り戻してみせます」
自信に漲った、数正の目
          必ずか・・・」
押し絞るような声で、元康は訊ねた
「生きて、取り返すために」
そのために、上杉と武田の争いを誘わねばならない
数正の目は、そう言っていた
                
何かを振り切るかのように元康は力強く頷き、数正の手を握り返す
愛鷹と竹千代、亀を無事取り戻すため、元康の辛抱が始まった

元康からの手紙を読み、縁側近くの障子の骨に肩を凭れさせている帰蝶の顔が、微笑みに変わる
自分の言葉で誰かが心を動かしてくれるのは、嬉しいことだった
夫に愛された身だからこそ、他の妻達にも幸せで居て欲しい、そう願っていた
近く、越後の上杉と甲斐の武田がぶつかるかも知れないと言う噂だけは、耳に入っている
妻を取り戻すために少数で駿府に入り、今川と、今川を攻めている武田に挟まれてしまっては、元康の命の危険にまで発展する重大な問題だ
安易に動けるものではない
それは帰蝶も同意できる
元康の手紙に書かれている、数正の話に因れば、その武田が上杉とぶつかる隙を縫って、駿府に乗り込み、愛鷹らを奪還すると言うもの
その機会を伺っていると言う
弥三郎と激突しながら、作戦を決行するまで壊滅しなかっただけでも、あの数正も切れ者なのだろう
「ふふっ。石川が先鋒だと事前にわかっていたら、勝三郎を当てたものを」
本当に、惜しいことをしたと苦笑いしながら後悔する
「殿」
なつが部屋に入って来た
          あら?何か良いことでもありました?」
帰蝶の機嫌が良いことに、なつはそれを訊ねた
「いや、大したことではない。そろそろ勝三郎の部隊を、清洲に呼び戻そうかと想ってる」
「まあ、そうですか。では、代わりはどなたに?林殿は加納を担当なさっておられるのでしょう?」
帰蝶の近くまで寄り、腰を下ろす
「そうだな、この頃使い物になって来た蜂須賀に行かせるか」
「あら、大丈夫なんですか?蜂須賀殿、この間の仕合でもお能殿が居ないと騒いで、清洲に戻って来られましたが」
「ははは、あれは愚かだ。もう少し残っておれば、松平が用意した美味い酒を飲めたものを」
「恋は人を盲目にさせてしまうのです。この世の数多の美女よりも、たった一人の恋しい人の温もりが、何よりのご馳走なのですから」
          私も、盲目なのだろうか
そう、浮かべる
「それで恋が成就できなかったら、世話もない」
「それを言わないのが情けと言うものです」
「私は情け容赦ないと評判だからな、その評判を落とすような真似はしたくない」
「またほざかれて」
なつは帰蝶の頬を抓る真似をして指先で突付いた

永禄四年八月十四日
越後の上杉が信濃に向けて居城・春日山城を出発
八月十八日、甲州武田方高坂より上杉の進軍が伝えられ、武田も甲府を出発
途中、味方を加えながらの進軍は、帰蝶が桶狭間山で行った作戦に酷似していた
両者の動きは松平方石川の耳にも入り、すぐさま元康の許に届けられた
八月二十四日
武田、上杉、両者揃い踏み
信濃の北部で起きた、所謂『川中島の戦い』
それの四度目の対峙である
上杉一万三千の兵力に対し、武田は二万弱の兵を用意
この翌日、帰蝶の許に元康から火急の知らせが入った
「五郎八を呼べ!」
手紙を受け取った帰蝶は、緩急入れず密かに金森可近を三河に派遣した
八月二十九日、武田が川中島近くの信濃・海津城に移る
それから十日間の睨み合いが続いた後、最初に動いたのは武田であった
武田が海津城に入った時も、上杉は静観していたと言う
これを聞き、帰蝶は上杉に勝機あっての戦だろうと感じた
両者の動きは可近を通じて備に報告される
帰蝶からは金森隊を世話してもらっている礼として、松平に大量の米が送られた
最も、可近が潜入しているのは機密に当るので、今回の指揮をしている石川数正以外知ることはない
九月八日、武田の軍議が始まる
翌日、その夜半、武田が夕餉の支度をしている煙が複数目撃され、上杉もその準備に当たる
更に翌日の夜半から明け方に掛け、上杉、武田の両者が位置を換えるかのように徐々に移動
元康からは「まるで協議の上の戦のようで不気味だ」と言う、素直な感想を書かれた手紙が届いた
なるほど
まだわかりやすい動きをしていた今川義元の方が、利口だったかも知れない
兵を動かすことによって、これから今川が何をしようとしているのか無言で知らしめ、その抵抗を抑えて来た
しかし武田は、信濃の一部を保有しているとは言え、全てを掌握しているわけではない
西信濃にはまだ、武田の手の及ばない地域も数多く存在し、武田に味方する信濃武士も少ない
そんな中でただ黙って兵を動かすだけでは、なんの宣伝効果も持たなかった
元康が不気味だと感じたそれは、帰蝶には今川の裏を読める恰好の材料となる
「この戦、双方痛み分けで終わるだろう」
そう宣言したのを、なつは訝しげに見詰めた
「どうしてですか?」
「雌雄を決する心積もりがあるのであれば、問答無用で斬り掛かる。先手必勝が大事だからな」
「そうかも知れませんが、武田と上杉はこれまで三度、争っております。此度で四度目。その何れも勝敗決まらず。ですから、互いに慎重になり過ぎて、動かぬのではございませんでしょうか」
「確かに傍目から見ればそう想うだろうな。私もそれが正しい世間の評価だと想う」
本丸の執務室には資房と、帰蝶の右筆である道空も居る
二人は苦笑いをして顔を見合った
「また始まった」とでも言いたげに
「なら、殿は何が違うと仰るのですか?」
帰蝶用に急須を傾けながら訊ねる
「越後と甲斐が争っているのは、信濃だ」
「ええ」
「争いのごとに上杉は信濃の村を略奪している。しかし面目上では、武田は上杉を信濃から追い出したと言う世評を受ける。どうだ?双方、損失は出ているか?」
「信濃の村が略奪に遭っているのでしょう?武田に損失が出ているのでは?」
そう答えながら、茶を淹れた茶碗を帰蝶の膝に差し出す
続けて資房と道空の分も注いでやった
「確かに合戦の近くの海津は、武田が押えている。だがな」
一口茶を啜り、続けた
「信濃は正式に武田に屈しているわけではない。海津も、まだ武田を受け入れてはおらん。無理矢理治めているに過ぎないのだ」
「え?」
「つまり武田は、上杉からお前達を守っているのだぞ、と言う名目が欲しい。上杉は適度に稼ぎが欲しい。そうだろうな、上杉は援軍を専らとし、領地を増やす戦は数が少ない。何故だかわかるか?」
「それは、本拠地としている地域が?」
「ああ、そうだ。越後は雪国。進軍の見極めには難しい地域だ。戦のできる数は、たかが知れている。その少ない戦で、いかにして領地を肥やせるか。お前なら、どうする」
                
わからず、首を振る
「『人身売買』だ」
「人身売買?」
女であるなつは戦のことはよくわからず、帰蝶の言葉がよくわかっていない
茶碗に傾けていた急須の手が止まった
だが、男である道空と資房はその意味がわかる
二人は黙って聞いていた
「人間なら肥料は要らん、田畑も要らん。しかも、育てる必要もない。他人の畑に実ったものを奪うだけなら、誰にでもできる。上杉は援軍に出ると見せ掛け、各地で人を浚ってはそれを売買する」
「そんな・・・」
なつの顔色が青くなる
「それでは、どちらに転んでも傷付くのは、信濃の民だけではございませぬか・・・っ」
「しかも、それが他人の領地なのだから、上杉にとっては痛くも痒くもない。そして、武田も同じだ。村を略奪されても、まだ正式には国主にはなっていない。自分の畑を荒らされているわけではないのだからな、こちらに服従する意志がない人間を護る必要があるか?」
                
青いまま、首を振った
「そう言うことだ」
「では、これまでの両者の争いは、武田は信濃を手中に収めたい、上杉はそこで人間狩りをしたい。・・・そう言うことですか?」
「有態に言えばそうなるが、身も蓋もない言い方だな」
          申し訳ございません」
今度は頬を赤くして平伏する
なつの様子に道空も資房も苦笑いした
そこに秀隆が駆け込んで来る
「殿!」
「どうした」
「あ、これはおなつさん・・・。あ、堀田様も。あ」
「もう良いから、何の用だ」
後回しにされた資房は、帰蝶にぶすっと膨れっ面を見せた
「武田が動きました!今日明日中には上杉に仕掛ける模様!」
「そうか、やっと動いたか」
にやっと笑い、帰蝶は立ち上がった
「シゲ!三河に居る五郎八に伝令!松平正妻奪還には、充分に活躍せよ!松平に恩を売る絶好の機会だ。付け入る隙を、決して見逃がすな!」
「はっ!」
「又助!」
「はい!」
「万が一松平が尾張と三河の国境まで下がった場合に備え、警戒態勢を取れ!」
「はっ!」

九月十日未明
信濃国千曲川中流、武田軍、上杉軍が動いた
第四次川中島八幡原の戦いの幕開けである

巴が腹の子の傅役にと紹介のため、数人の男達を伊勢から呼び寄せた
伊勢攻防で誼を通わせることになった木造家から一人、実家の坂家から二人
一つに、岡本家
それは、帰蝶の鈴鹿山脈越えに尽力したあの青年であった
                
黙って、自分に平伏する
想い寄せる人の『主』に、平伏する
帰蝶も言葉を発せず、その青年を凝視した
合わせることはなかったが、間に挟まれた巴がちらちらと、その青年に目を送っている
やはり巴はこの男を選んだか、と

小さな吐息を重ねて積み上げた想いは、儚く散る運命にあるのか
自分のすることがそれに該当するのかどうか、帰蝶にはわからなかった
ただ願うのは、想い叶わずとも巴には幸せに成ってもらいたい
ただ、それだけだった
ささやかな願いを、女は祈る
いつの世も
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Secret
私も雷の「音」が大嫌いです…。
突然の大きな音が苦手なので、映画館で映画を見るのも内容によっては悩みます。
稲光は平気なんですけど(笑)

帰蝶の強さを言葉の中から改めて感じました。
どうしてこんなに強くならなくちゃいけないんだろう…と少し苦しくもなりながら。

帰蝶にも同じ言葉を聞かせてあげたかったです。
「帰蝶、心配するな」
と…。
mi URL 2010/10/06(Wed)15:25:38 編集
こんばんは
>私も雷の「音」が大嫌いです…。

実は、私、雷と稲妻の走る瞬間が大好きでして・・・
雷のあのどうどうと響く轟音、稲妻の青白く美しい軌跡
雨の降っていない時の稲妻って、とても美しく見えます

>どうしてこんなに強くならなくちゃいけないんだろう…と少し苦しくもなりながら。

支えてくれる人が居るから、強くなれる、強がれる
守るものがあるから、強くなくてはならない
帰蝶はそう、思ってます

>「帰蝶、心配するな」

きっと、吉法師が口にすれば一番似合う言葉ですよね
そう言ってもらえたら、帰蝶の両肩から力がどっと抜けて、楽になれるのにな、なんて
創作してる私が言ってはならないんでしょうが(苦笑
Haruhi 【2010/10/06 23:22】
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます

先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い

文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます

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◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
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祝:お濃さま出演 But模擬専…     (戦国無双3)


おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙

(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見


転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。

(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない

岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です

今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい

清洲桜醸造株式会社公式サイト

濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます

清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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