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兄と共に大和守討伐戦に参加するとの旨が書かれてあった
それと同じく、その討伐が済んだら逢って欲しいとの内容に、覚悟はしていたと言えど、帰蝶の胸が不安に高鳴る
内緒にはしておけないと、帰蝶はそれを信長に見せた
「こっちも動きやがったか」
何となく、突破口を見出したような夫の薄笑いの表情に、尚、帰蝶の不安は募る
そんな帰蝶に、信長はいつものニカッとした笑顔を差し向け、その肩を抱いた
「お前は、なんも心配すんな」
「吉法師様・・・」
「二人っきりなんて、そんな非常識な真似、あいつは絶対にできねーよ。俺と違ってみっちり教育されてんだ」
「わかってます・・・。でも・・・」
「帰蝶」
二人きりの空間で、自然とそう言う行動ができたのか、信長は胡坐を掻いた膝の中心、丁度股座に当る場所に帰蝶を横向きで座らせ、その目をじっと見詰めた
「なんも心配すんな。例え、いや、ぶっちゃければ想像もしたくないけど、もしもってこともある。もしもお前の身に女として耐えられないことが起きたとしても、俺はお前を拒絶したりしねえ」
「吉法師様・・・」
「そう言う場に行かせるのは、この俺なんだ。それが俺の罪だとしたら、甘んじて受けよう。お前一人で苦しめさせるなんてことは、絶対にしない」
「 」
堪らず、帰蝶は信長の胸にしがみ付いた
「怖いかもしんねーけど、踏ん張ってくれよな。俺はやっぱり、織田を勘十郎には渡したくない」
「それは・・・」
独占欲ではない
出世欲でもない
人の持つ煩悩など無縁の輩である信長が杞憂しているのは、別のことである
「あいつは俺と違って出来が良いのは知ってる。でもな、確かに勘十郎は良き惣領にはなれても、『良き領主』にはなれねぇ。昔の古い武家の体質に戻っちまうだけだ。それじゃ、この国は何も変わらねぇ。何も始まんねぇ」
「はい・・・」
常に新しい世界を踏み出そうとしている夫の言い分は、理解できる
だが、それでも帰蝶も心配を隠せなかった
もしも信勝との間に過ちでも・・・
信長も帰蝶の不安をわかっている
信長自身、それを望んでいるわけでもない
口にするのも、本来なら憚れた
帰蝶が恵那に託した手紙には、守就がいつ美濃に戻ったかと言う細かい日付と、時刻はいつか、知っていたら教えて欲しいと言うものだった
日付は兎も角、守就の戻った時刻を聞いてどうするのかと恵那の父・林新右衛門通安は不思議に想ったが、聞かれて応えぬわけには行かぬと、それを探るため、久し振りに稲葉山城に上がった
「ふぅ・・・、年を取ってからの登山は厳しいのぅ・・・」
今年で御年五十を迎える
傾斜や起伏の激しい稲葉山は、確かに老脚には厳しい山だった
「おや、これは林殿。お珍しい」
いつもは山の下で暮らしているはずの通安の姿に、城の者はその殆どが声を掛けて来る
先祖代々斎藤家に仕える林家と同じく、中には妙椿の時代を知る者も居るのだから、ここでは古株の一人に数えられた
「今日はどうなさいました」
「いやいや、可愛い盛りの内孫が尾張に行ってしまいまして、暇を持て余しておりました故、たまには殿のお顔でも拝見しようかと」
「尾張に?」
「ほれ、一人娘の恵那が昔から姫様に懐いておりましたのでな、とうとう姫様を追い掛けて、亭主連れで行ってしまいましたわ」
「ははは!しかし恵那殿は帰蝶姫様よりも年上のはず。懐いていたと言うよりも、ご姉妹のような間柄だったのでは?」
「いやぁ、甘えたれの娘を庇っていただけるのはありがたいんですが、何も亭主まで連れて行くこともありますまいに、ねぇ」
「まぁまぁそう言わず、姫様の役に立てるようなことがあれば、大出世ではございませんか」
「そんな禄の家ではございませんよ」
適当に世間話に付き合い、しばらくして城の門を潜った
斯波の当主、義統が殺害されてから五日が経つ
末森の信勝から正式に参戦の表明が伝わり、柴田勝家が名代として一足先に那古野城に入る
この戦でも信長は叔父・信光の手助けを得るつもりだった
「手柄は全て、叔父上様にお譲りくださいませ」
「それは構わんが、どうしてだ」
「吉法師様の後ろ盾になっていただくには、一人でも多くの味方が必要です。村木砦でも武功をお上げになられましたが、年若い勘十郎様の手柄に色薄れてしまいました」
「そうだな・・・」
一緒に出陣した信勝の動きの方が派手で、実際手柄を取った信光の功績は色褪せてしまったのは事実である
昨年の松葉城、深田城奪回戦でも信友に手柄を取らせるお膳立てをしていながら、結局勝家の独壇場となってしまっていた
今年初めの村木砦攻略でも、そうであった
家臣の手柄は主君の手柄
勝家の挙げた武功はそのまま、信勝のものになる
信光は二度も手柄を信勝側に奪われたのだから、このままでは信光までもが信勝側に靡いてしまう可能性を秘めていた
何が何でも信光に良い場面を譲らなければと、その翌日、信長は軍勢を整えて出陣した
「ご武運、お祈りしております」
「行って来る」
自分の武功は、二の次
いつも誰かに武功を譲る
どうせ戦に勝つなら、良い気分で終わらせたい
そう考えている信長だった
主家であるがために長く勝幡織田を押え付けていた清洲織田との雪辱戦に、叔父・信光も独立を掛けて戦に臨んだ
その上武功も挙げられたら言うこと無しである
信長もそのつもりで居た
ところが
出陣した次の日、戦に勝ったはずの信長が、苦虫を噛んだような顔をして戻って来た
「お帰りなさいませ。早く決着が着いたのですね」
夫の早い帰還に帰蝶は喜んだが、信長の顔を見て何が起こったのか俄かに緊張する
「如何なさいました・・・?」
鎧を脱いでから改めて局処に上がった信長に、帰蝶も怪訝そうな顔付きで聞いた
その帰蝶に、信長は搾り出すような声で応える
「まただ」
「また?」
「また、柴田の横槍が入った」
「え・・・?」
「恐らく勘十郎の指図だろうが、命令していない場所に布陣して、しかも先鋒を叔父貴に譲るよう予め言っておいたのに、それでも構わず突っ込みやがった」
「 吉法師様からのお咎めが出ると、わかっていながらですか・・・?」
いくら織田で一番の宿老と言え、そこまで勝手な真似ができるわけがない
夫の言うとおり、裏で信勝が糸を引いているのは明らかだった
「どうして、叔父上様の手柄を横取りするような真似を・・・」
「今回は一応、父親を討たれた斯波に手柄を譲るということで、叔父貴も納得してくれたが、こう度々横槍が入っては叔父貴だって我慢の限界があるだろ」
戦の中、手柄がないのはただ働きと同じである
武功を挙げてこその戦で、その武功を何度も横取りされてしまっては、いかな『大人』とていつまでも見過ごせるはずがない
「俺も限界だ・・・」
「 」
信勝側に手柄を取られたのは、これで三度目であった
初めこそ信光の活躍も目覚しいが、戦が終結する頃には必ず勝家がしゃしゃり出て、信勝側に武功が渡ってしまう
手柄や武功を挙げて、初めて武人の価値が出る
信光はそれなりの年齢を重ねた武人だった
その武人から必要不可欠な要素を取り上げてしまったら、何も残らない
「吉法師様」
厳しい眼差しで、帰蝶は言った
「勘十郎様に、お逢いします」
「帰蝶・・・」
「どうしてこのような真似をなさるのか、きっちり聞いて参ります」
それは一時的な感情だったのか
それとも、帰蝶自身、限界を超えていたのか
老齢に老齢を重ねた大叔父・秀敏では、いつ『お迎え』が来るかわからない
しかし、叔父・信光は信長の父信秀の弟だけあって、まだ若い
これから先の事を考えれば、老い先短い秀敏だけが後ろ盾では心許ないのだ
だからこそ、それまでの戦で度々信光に手柄をと譲って来たのだが、それが全て打ち崩されてばかりいては、帰蝶とて黙って見過ごせない
末森に戻ったばかりの信勝に、帰蝶は自ら「いつお逢いできますか」と催促の手紙を送った
優等生の信勝らしくか、あるいは待ち構えられていただけなのか、返事は即日返された
「母上。義姉上様から、お誘いの手紙を頂きました」
薄笑いを浮かべ、信勝は母に報告する
「あちらから動くとは、珍しい。相当切羽詰っているようですね」
「仕方がないでしょう」
と、信勝は苦笑いする
「向こう側には良いところなし、こちらは権六が全て手柄を取っているのですから、焦らないわけがありません」
「結果が全ての武家で、結果を出せないのとあれば親族達も、どちらが勝幡織田の後取りに相応しいか、自ずと理解できるというもの。勘十郎」
「はい」
「その上で、美濃の方様を手に入れなさい。あの娘までもがこちらに靡けば、吉法師には縋る物がなくなります」
「そうですね」
「多少手荒な真似をしても構いません」
「母上」
母親の言葉に、信勝は少し目を見開く
「女は、そうね、中には『手荒な真似』を好む者も居ますから」
「 」
市弥の言葉に、信勝も満足げな薄笑いを浮かべた
それなりの供を連れ立つのだから、密会と言うわけではないだろう
だが、二人きりで話し合うとなれば密談にはなるかも知れない
不安だとか心細いだとか、弱気なことを言っていられる場合ではなかった
意を決して信勝との面談に赴くため、この日帰蝶は朝早くに那古野城を出て、謁見の場である那古野、末森の丁度間にある興円寺に向う
見送りの信長は、やはり心配なものは心配で、帰蝶が選抜した従者の村井貞勝、今や弓の師匠となりつつある太田資房、母なつ直々の指名である池田恒興、それに加えて前田利家も付け足した
どれも帰蝶には馴染みの深い家臣ばかりである
土田時親はまだ斯波義銀の世話があるため、役職からは離れられない
弥三郎利親も可成と一緒に美濃を探っており、警護の人員には宛てられなかった
それでもこれだけの面子が揃えばと、安心できる
「それでは帰蝶、行って参ります」
まるで『いざ、出陣』の鬨にも聞こえて、信長は苦笑するしかない
付き添う侍女には恵那と菊子が
お能には乳飲み子が居るため、同行はできなかった
とりあえず、武器になるような兼定は取り上げたが、いざとなればそこら辺りの壷やら花瓶やら、なんでも獲物にしてしまうのではないかと言う気概さえ見えた
心配ではあるが、帰蝶だからと言う変な自信が安心にも繋がる
それでも落ち着くことはできなかったが
嫁いだ頃は毎日のように馬に跨り、信長とこの那古野の城下を駆け回った
一度目の妊娠の後、互いに忙しくなったとは言え、出掛ける回数もめっきり減っている
それでも今も、季節ごとには二人で連れ立ってあちらこちらと出歩いたりはしていた
二人で歩く伊勢湾の浜辺が一番のお気に入りだった
その浜辺も、そろそろ良い季節になろうかと言うのに、今年は一度も行ってない
戻ったら夫に強請ってみようかと想った
そろそろ蛤の美味しい時季ですね、と
実家に里帰りなら一日掛かりでも、直ぐ隣が末森なのだから、その中間にある寺まではそう時間も掛からない
恵那も菊子も徒歩での移動だ
最も、帰蝶まで徒歩で移動するわけには行かず、輿に乗って向ってはいるが
直ぐ側には護衛として付き添っている資房が、肩から弓をぶら下げて歩いていた
「奥方様」
輿の中に居る帰蝶に、ふと話し掛ける
「はい。何かあったの?」
「いえ、頭上を蝉丸が飛んでおります」
「蝉丸が?」
輿から顔を出すことはできないが、頭上を、鳶のようにとは行かないまでも、旋回している蝉丸を想い浮かべた
蝉丸の小屋は局処の近くに設置してある
舅から譲り受けた鴉なのだから、世話をするのは帰蝶の役目だった
帰蝶が城を出た後、それを見送ったなつは局処に戻り、蝉丸が珍しくギャー、ギャーと騒いでいるのを耳にした
「どうしたの、蝉丸」
蝉丸は信秀が可愛がっていた鴉であり、末森でもなつは何度も蝉丸を目にしている
帰蝶よりは付き合いが長い
鳥とは言え、取り分け蝉丸は頭の良い鴉だった
滅多なことでは騒がないのを、今日に限ってそれなりに広い小屋の中を忙しなく羽根をばたつかせ、暴れているのが気懸かりだった
「もしかして、奥方様を心配しているの?」
なつのその質問に応えたわけではないのだろうが、蝉丸が一際高く『ギャー!』と鳴いた
高々鳥の分際で主人の身の上を心配しているのかと、ふとおかしくなり、小屋の入り口を開ける
その途端、蝉丸がなつを押し出すかのごとく翼をさーっと広げ、今にも飛び出しそうな勢いで小屋の中を旋回した
「蝉丸? お前には、感じるの?奥方様のこれからを」
「ギャー!ギャー!」
「 」
入り口を通せんぼしていたなつは、しばらく考え込み、それから、身を翻して戸板から離れた
待ってたとばかりに、蝉丸が大空目掛けて羽ばたく
「蝉丸!奥方様を、奥方様を守ってね!」
飛び去る蝉丸の背中を見上げながら、なつは出せる限りの声で呼び掛けた
「 なつ、かしら。蝉丸を放ったのは」
独り言のように呟く
「頼もしい護衛が一人、いえ、一羽、増えたわ」
帰蝶の言葉に、資房はふっと笑って見せた
興円寺は、規模ほど然して大きいとは言えないが、趣はまるで武家屋敷のようでもある
以前夫が父と逢うために出向いた正徳寺との雰囲気も、まるで違う
なんだか知り合いの家に遊びに来たかのような気分になる場所だった
寺の門を潜り、正面への玄関へと続く石畳の前で輿が止まり、扉が開けられる
「お待ちしておりました。織田上総介信長様ご正室、斎藤帰蝶様ご一行様」
出迎えに出たのは、この寺の住職だろう
重々しい法衣を身に纏い、厳格な顔立ちで会釈する
「この度の私用で使わせていただくことを、感謝します」
帰蝶の言葉に再び頭を下げて応える
住職に案内され、一同は寺の中に入った
信徒は金持ちが多いのか、まるで京都の寺かのように煌びやかな装飾品が至るところに飾られている
一番目の着く場所に、見事な虎の金屏風が建て掛けられていた
「高そうな屏風ね。あんなの、うちにもないわ」
「ふふっ」
帰蝶の口調がおかしいのか、側に居た恵那が想わず吹き出す
それから、住職を先頭に建物の中に入った
「従者の方々は、次の間でお待ちください。奥方様は、こちらへ。織田勘十郎信勝様が先にお待ちです」
「 」
隣同士の部屋とは言え、やはり二人きりでの密談になるのかと、俄かに帰蝶の躰を緊張の糸が走る
「奥方様、大丈夫ですかねぇ」
那古野の表座敷の縁側で、信長を真ん中に左に秀隆、右に長秀が並び、茶団子片手に帰蝶を心配する
「大丈夫だろ、吉兵衛に勝三郎に又助、犬千代もおまけしたんだ」
「じーさんに腕っ節はまるっきりの勝三郎のぼっちゃんと、弓しか取り得のない又助、拳だけが自慢の犬千代、でしょ?勘十郎様と渡り合えるんですかね」
「 」
改めて言われると、自信がこそげ落ちる
「せめて私も同行できれば、心強かったんでしょうが」
さり気なく自分を宣伝する長秀に、秀隆は透かさず突っ込む
「何を言うか、芋侍」
「いっ、芋・・・っ!」
「どうどう」
顔を真っ赤にして秀隆に食い付こうとする長秀を、隣の信長が宥める
「今は、その四人に祈るしかないだろ。そうだな、せめてなつを連れて行けたら良かったんだけどな」
「でも、向うから連れて来るなと言って来たんでしょ?おなつさんを警戒してのことだとしたら、間違いなく奥方様、色事に巻き込まれるでしょうね。なんせ相手は、あの好色だった大殿(信秀)の倅ですよ?女の扱いは、殿より上手ですからね」
今も妻一本槍の信長と、着実に地固めに身を乗り出して側室を儲けている信勝とでは、女に対する扱い方そのものが違う
「だとしても、大丈夫だ。帰蝶なら、大丈夫」
それは自分への祈りの気持ちなのか
例え弟に手篭めにされたとしても、帰蝶を嫌うことなど絶対にない
今はそう、想えた
実際に帰蝶が信勝の手が付いたとして、変わらず帰蝶への想いは保ち続けられるのかどうか、それは信長自身にもわからないが
夏の到来を知らせる青い空を見上げ、それから、日の眩しさに目がちかちかして目眩を起す
「大丈夫ですか、殿。あらぬことを想像して、いっちまいました?」
「何処に行くんだ・・・」
膝を抱えるように上体を倒し、目の奥で煌く午前中の星に片手で両目蓋を押えながら吐き捨てた
「お越しになられました」
住職が信勝の待つ茶室の襖を開ける
日差しが直接入らないよう工夫された部屋だった
お陰で室内は少し薄暗い
貞勝らは隣の部屋で足止めを食らい、恵那と菊子も同じである
「申し訳ございませんが、うちではお武家様を持て成す女がおりません。無礼かとは想いますが、給仕をお願い致します」
そう言って、男達の部屋に押し留められた
信勝に付き添っていたのは勝家らを初めとする、数人の織田家譜代家臣と、大勢の、雑兵だろうか、見掛けない顔ばかりだった
こちらは遠慮して少人数で訪問したと言うのに、向うはかなりの人数を揃えている
これでは奥方に何かあっても守り切れない
貞勝は心の中で口唇を噛んだ
「お待ちしておりました」
帰蝶が入って来た途端、あの時嗅いだ香りが漂うのを信勝は自覚した
「早めに出たつもりなのですが、待たせてしまいましたね。申し訳ございません」
「いいえ」
相変わらず綺麗な顔をして、表面を取り繕ったような笑顔を浮かべると、帰蝶は内心呆れる
「今日はお化粧をなさっておいでではないのですね」
「 真っ白に塗りたくったお顔がお好きなんですか?」
「そうではありませんが」
棘のある物言いをする帰蝶に、やはり信勝は薄ら笑いを浮かべていた
自分の正面に座る帰蝶を、じっと凝視する
「では、料理でも運んでもらいましょうか」
「はい」
朝早く出たつもりだが、到着した頃には昼餉に近い時刻になっている
無理にでも食べれないこともない
帰蝶の返事を聞き、信勝が声を掛けた
「お願いします」
廊下で待機していた僧侶が、会釈してからその場を離れる
隣の部屋では宴会でも始まったのか、随分と賑やかな声が響いて来た
その声量だけでも、どれだけの人数が集まったのか窺い知れる
「大勢、引き連れて来られたのですね。こちらはあなた様を信頼して、少数で参りましたのに」
「ははは。いえ、先日清洲を攻撃したばかりでしょう?ですから、どこで大和守の残党が待ち伏せしているかと臆病になりまして」
「大和守様も清洲を攻撃されたばかりで、まだ動ける状態ではないはず。少し心配し過ぎではございませんか?」
「義姉上様のように、でんと構えていられない性質なんでしょうね、私は」
「 」
まるでこちらの詰問をはぐらかすような答え
抜け目がないとは、このことだろうか
「お待たせしました」
程なくして運ばれた料理の膳に、どちらも気が行く
「まぁ、鮎・・・」
皿の上には塩焼きにされた鮎が一匹、ちょこんと乗せられていた
「木曽川の鮎ですが、そろそろの時季でしょう?義姉上様も待ち望んでおいでではないかと」
「鮎は稲葉山に居た頃、夏になれば毎日のように食べておりました。とても懐かしいです。心遣い、ありがとうございます」
「いいえ。どうぞ、召し上がってください」
「はい」
気分良く鮎を突付く
信勝はと言うと、手勺で盃に酒を注ぎながら、盗み見るように帰蝶の口元に運ばれる箸をじっと見詰めている
その小さな口唇が開き、端を咥え込む
それからゆっくりと口の端が動くのを、酒を飲みながら眺めた
「美味しいです」
「良かった」
膳の上には鮎以外に鯛の刺身、薇の佃煮、鰹節を塗した筍の煮物、鶏の塩焼きも並んでいる
寺でこれだけの料理を出すのは精進していない証拠だろうかと、笑いたくて仕方ない
特に酒と肉は寺にとってご法度
それでも堂々と出しているのを見れば、凡そ寺としての機能が果たされていないことを物語る
堕落した宗教が、ここにあった
夫の杞憂が垣間見れる
最も、海の幸なら去年の正徳寺でも出たらしいが、料理をしたのは父が連れて来た料理人だったという話である
酒が出なかったのが残念だったと言っていたのが想い出され、帰蝶は笑いたくなるのを堪える
そんな帰蝶を眺めながら、信勝は相変わらず料理には手を付けず酒ばかりを煽っていた
「朝からお酒ばかりでは、体に障りますよ?お汁物だけでも口になされては如何ですか?」
「ご心配ありがとうございます。義姉上様はお優しい」
「そう言うわけでは・・・」
悪酔いをして、何をされるかわかったものではないからの心配とは、言えそうにもない
「時に、私を呼び出して何かお話でもあるのでしょうか」
悠長に食事などしていられる雰囲気ではなくなったのか、帰蝶は箸を置いて信勝に尋ねた
「呼び出す?」
「逢いたいと、そう手紙を遣したのは、勘十郎様です」
「そうでしたか」
「勘十郎様」
恍ける信勝に、帰蝶の眼差しも厳しくなる
「いつお逢いできますかと訊ねて来られたのは、義姉上様だとばかり想っておりました」
「私が?いつ」
「清洲での大和守との戦いの後。お忘れですか?」
「 」
それでも、最初に逢いたいと言って来たのはそっちだろう?と、吐き捨てたくなる
「夫のある身で義弟に逢いたいとは、義姉上様も中々のものですね」
「私は、そんなつもりでは」
いけない
そう、心で自分を止めた
むきにさせて、自分の調子に合わせるつもりなのが見え見えである
「勺を、してもらえませんか」
「 」
じっと信勝を目を見る
謀略を企んでいる目だった
「お願いします。手勺て、結構侘しいものなんですよ。酒好きの兄上だって、そうでしょ?誰かに勺をさせてるんじゃないんですか?それとも、義姉上様が?」
「気が利きませんで」
信勝を黙らせようと、帰蝶は立ち上がって信勝の側に行き、膝を落とす
それから、信勝の手から直接徳利を受け取った
指先が触れ合う
手を引いては負けだと、絡み付くような信勝の指から自然な仕草で徳利を奪った
「どうぞ」
「 」
少しにやっと笑ったような顔をする信勝は、黙って盃を帰蝶に差し向ける
差し出された盃に少量の酒を注ぎ、それを飲み干す信勝を見詰めた
「義姉上様も如何ですか」
「男女だけの席で酒を煽っては、織田の不名誉になりますので、遠慮させていただきます」
「そう連れないことを言わず、返礼でしょ?こう言う場面での酒ってのは」
「では、ほんの少し。口を濡らす程度に」
「口唇を濡らすのなら、酒じゃなくても構わないんじゃないですか」
「 」
卑猥な信勝のからかいにも動じず、徳利を信勝の膳に返し、帰蝶は黙って差し出された盃を受け取った
膳の上の徳利を掴み、帰蝶の受け持つ盃に酒を注ぎながら話す
「そう、つんけんなさらず」
「別にそんな」
「まるで、切っ先に咲く花のようですよ」
「切っ先に咲く、花?」
信勝の言葉が理解できず、想わず聞き返す
そんな帰蝶に信勝はこう応えた
「火花みたいです」
「火花・・・」
「一瞬で消えてしまう、儚い花。ですが、見た目はとても刺々しい」
「 」
「何を警戒なさっておいでですか」
「別に警戒など。あ・・・」
盃に並々と酒を注がれ、戸惑う
「話に夢中になってしまいました、すみません。徳利に戻しますか?」
「そんな、お行儀の悪い・・・」
「はは。さすが斎藤家の姫君。教育が行き届いてらっしゃる」
「これくらいは普通のことでは?」
「普通じゃない兄上に嫁がれた方の言葉とは、想えませんね」
「吉法師様が非常識だと仰りたいのですか?」
「そう、一々突っ掛からないで下さいますか」
兄嫁が、夫のことになると冷静さを欠くことくらい、一度逢えば充分わかる
それを逆手に取られた
隣に二人きりにさせられた奥方が気になると言うのに、こちらの部屋では騒がしいほどの宴会が始まり、聞き耳が立てられない
無駄に部屋が広い分、帰蝶の居る茶室の会話まで聞こえそうにもなかった
困ったな、と言う気持ちと苛立ちに、貞勝は顔を顰める
主に騒いでいるのは雑兵らしき輩達だった
柴田ら譜代の家臣達は静かに酒を飲んでいる
帰蝶の世話をするために同行した恵那と菊子も、そんな男達の給仕に手足を奪われてしまっていた
その内、突如として派手な装い姿の女達が部屋に入って来た
「木鷺屋でございます」
先頭に立つ女がそう告げる
「木鷺屋?」
まさかと、貞勝は想った
木鷺屋は最近尾張で流行っている『傾城(かぶき)屋』の類だったと想う
『傾城屋』とは、平たく言えば売春を主とする店のことだが、それこそピンからキリまであって、単純に酒を飲むだけの場所で、時折接待の女との会話を楽しむだけの粋な遊び方と、初めから肉体を目的とした男の遊び方の両極端に分かれる
木鷺屋は間違いなく後者であり、女が団体で乗り込んで来た時点で貞勝と資房は体を強張らせた
これから先、何が起こるというのか、想像すらしたくない
「 お菊さん、恵那さん」
貞勝は二人を手招きした
「表に出ていた方が良い」
「ですが、給仕を」
「給仕なら、この木鷺屋さんの女達に任せて」
「どうぞ、ごゆっくり」
貞勝の側に来た木鷺屋の女の一人が、菊子に笑い掛けた
「でも・・・」
躊躇う菊子に、貞勝と資房は黙って頷く
良い女が現れたことで、利家は舞い上がり煽るように酒を飲んだ
空になった盃に、女達が次々と酒を注いで行く
「行きましょう、お菊さん」
何を察知したのか、恵那が菊子の手を引っ張った
「本当に、良いんですか?」
「構わないよ、早くおゆきなさい」
後押しするように、資房が言う
それを聞いて、菊子は恵那に手を引かれるまま、会釈してその部屋を後にした
「隣、随分盛り上がってるみたいですね」
「 そうですね」
煩いほどの賑やかさに、信勝がこれを仕組んだのではないかと勘繰ってしまう
ここで何かが起きても、隣で騒げば音は聞こえなくなるだろうし、聞こえにくくもなるだろう
「それで、義姉上様は私に何をお話されたいのですか?」
恍ける一方の信勝は、決して自分から話など切り出さないだろう
そう簡単に想えた
「 先の戦の件で」
「清洲戦ですか?」
「伺いましたら、手柄は孫三郎様にとのことでしたのに、柴田殿が随分としゃしゃり出たようですね」
「しゃしゃり出るとは、不愉快な。戦は生き物です。どのように動くか、流れるか、誰にも想像できません。たまたま権六に手柄が落ちて来ただけで、叔父上の手柄を横取りしたつもりはありませんが。それとも、権六本人に聞きますか?隣に居ますから」
「それだけではございません。村木砦の攻略戦でも、松葉、深田の奪回戦でも、柴田殿が随分先行なさったとか。勘十郎様は、叔父上様を蔑ろになさっておいでですか?」
「 随分失礼な言い草ですね。兄上の差し金ですか?」
「吉法師様は関係ございません。私がそう想ったまでのこと。いくらなんでもやり過ぎだと感じたので、素直に聞いただけでございます」
「それでも、戦のなんたるかを、あなたはご存知なのですか?それとも、蝮の娘だから、何でもお見通しだとでも仰りたいのですか」
「私は、蝮の娘ではございません」
夫ですら、そんな言葉を使ったことはない
『蝮』は『毒蛇』である
誉め言葉ではないことぐらい、誰にでもわかった
「違う?そうですか」
「私は、斎藤道三の娘です。父は蝮などではございません。撤回してください」
「ならばあなたも、権六が手柄を横取りしたと発言なさったのを、取り消せますか」
「事実は事実でしょう?」
「同じ言葉をそっくりそのまま、お返しします。斎藤道三殿は、その卑劣なやり方で美濃の国主を追い出し、国を手に入れ、そして、自分に反抗する者を残酷な遣り方で処罰なさっておいでだ。とても人の業とは想えないほどにね」
「今日の話し合いと父は関係ありません。引き合いに出さないで下さいませ」
「ならば、あなたも権六を引き合いに出さず、想っていることを単刀直入に話されては如何ですか。痛くない腹を探られるのは、我慢できません」
「では、お伺いします」
「どうぞ」
至近距離で、ともすれば腹が立って信勝に平手でも食らわしたくなるのを必死で抑え、帰蝶は信勝から視線を外すことなく対峙した
「あなたは、私の実家の兄と繋がってますね?」
「何のことでしょう」
「兄と通じて、何を企んでおいでですか」
「あなたの兄上様?はて、どの兄上様でしょうか」
帰蝶には嫡男と認定された義龍以外、庶子を含めると優に五人の兄が居る
庶子は所詮実子と認められていない子供のことであり、同じ稲葉山では暮らしていなかったが、何処に誰が養子にやられているかぐらいは把握していた
勿論、信勝が言う『兄』の中には実兄である孫四郎龍元、喜三郎龍之は含まれて居ない
同じ母を持つ龍元と龍之が、妹の不利になるようなことに加担するはずがなかった
「斎藤新九郎利尚です」
「義姉上様は、兄上様をお疑いに?正気ですか」
「疑いだけで、実家がゴタゴタしているとは想えません」
「まさかとは想いますが、この私も一味だとかお想いで?」
「違うのですか?」
「 愚かな」
「 」
どこまでシラを切るつもりかと、苛立ちが募る
「あなたはやはり、切っ先に咲く花ですね。その刀で相手を傷付け、縦しんば向き合った人間との間に火花を散らす。あなたはそれで私と吉法師の兄上とを仲違いさせたがっているのですね」
「私が・・・?」
「それは斎藤道三様の差し金ですか?」
「違います・・・!そんな 」
まさか自分に疑いを掛けられるとは、想像すらしていなかった
さすがの帰蝶も、これには慌てた
いや
そう言い掛かりを付けられても不思議ではない時代なのだから、なんとか形勢を引っ繰り返さねばならない
想えば想うほど焦ってしまう
このままでは父に命じられて、織田の家に混乱を招くため嫁に出されたと吹聴されても防ぎようがない
勿論、夫がそれを信じるはずはないが、世間はそうは行かないのだから、帰蝶が焦るのも頷ける
「私は・・・」
「 」
策略に長けているとは薄々気付いていたが、正攻法で攻めれば存外に脆い
斯波と大和守織田を対立させたのも、この女の仕組んだことだろう
仕掛けるのは得意でも、仕掛けられた罠から脱するのは下手だ
そう、北痩笑みながら、信勝は心の中で呟いた
目の前に居る美女の、顔色の変わったその憂いさ
こう言うのを、『傾城』と言うのだろうな
ただその存在だけで城が傾くほどの美女を『傾城』と言う
それの大掛かりな物が『傾国』と言い、どちらも一人の女に入れ込んだがために城や国が傾いてしまうことを指す
私が尾張と美濃を支配すれば、義姉上様は『傾国』になるのだろうか
まだ幼さを色濃く残す妹・市や犬も、何れは絶世の美女と呼ばれるほどだと周囲からの評価は高い
そんな妹らと暮らしながらも信勝の興味は、目の前の、必死になって心を抗わせる兄嫁へと注がれていた
帰蝶から漂う花にも似た心地よい香りが、信勝を興奮させる
「美濃の方を娶ると言うことは、即ち、お前にも美濃の継承権が発生すると言うことです。美濃の方は国主の娘なのですから、斎藤の後継者に万が一の事でも起きれば、娘婿がその後を引き継ぐと言うのも不自然ではありません」
いかなる手段を使っても、帰蝶を手に入れろと母は言った
信勝も、それに対しては乗り気である
この女は、どんな風に泣くのだろう
どんな風に顔を歪めるのだろう
きっとその顔も、美しいに決まってる
ただ黙って兄嫁と対峙する
隣では煩いほどの男の彷徨、女の奇声が入り混じっていた
それでも、帰蝶と信勝は心の中で刀を向け合い、その切っ先に鋭い火花を散らし合っていた
それと同じく、その討伐が済んだら逢って欲しいとの内容に、覚悟はしていたと言えど、帰蝶の胸が不安に高鳴る
内緒にはしておけないと、帰蝶はそれを信長に見せた
「こっちも動きやがったか」
何となく、突破口を見出したような夫の薄笑いの表情に、尚、帰蝶の不安は募る
そんな帰蝶に、信長はいつものニカッとした笑顔を差し向け、その肩を抱いた
「お前は、なんも心配すんな」
「吉法師様・・・」
「二人っきりなんて、そんな非常識な真似、あいつは絶対にできねーよ。俺と違ってみっちり教育されてんだ」
「わかってます・・・。でも・・・」
「帰蝶」
二人きりの空間で、自然とそう言う行動ができたのか、信長は胡坐を掻いた膝の中心、丁度股座に当る場所に帰蝶を横向きで座らせ、その目をじっと見詰めた
「なんも心配すんな。例え、いや、ぶっちゃければ想像もしたくないけど、もしもってこともある。もしもお前の身に女として耐えられないことが起きたとしても、俺はお前を拒絶したりしねえ」
「吉法師様・・・」
「そう言う場に行かせるのは、この俺なんだ。それが俺の罪だとしたら、甘んじて受けよう。お前一人で苦しめさせるなんてことは、絶対にしない」
「
堪らず、帰蝶は信長の胸にしがみ付いた
「怖いかもしんねーけど、踏ん張ってくれよな。俺はやっぱり、織田を勘十郎には渡したくない」
「それは・・・」
独占欲ではない
出世欲でもない
人の持つ煩悩など無縁の輩である信長が杞憂しているのは、別のことである
「あいつは俺と違って出来が良いのは知ってる。でもな、確かに勘十郎は良き惣領にはなれても、『良き領主』にはなれねぇ。昔の古い武家の体質に戻っちまうだけだ。それじゃ、この国は何も変わらねぇ。何も始まんねぇ」
「はい・・・」
常に新しい世界を踏み出そうとしている夫の言い分は、理解できる
だが、それでも帰蝶も心配を隠せなかった
信長も帰蝶の不安をわかっている
信長自身、それを望んでいるわけでもない
口にするのも、本来なら憚れた
帰蝶が恵那に託した手紙には、守就がいつ美濃に戻ったかと言う細かい日付と、時刻はいつか、知っていたら教えて欲しいと言うものだった
日付は兎も角、守就の戻った時刻を聞いてどうするのかと恵那の父・林新右衛門通安は不思議に想ったが、聞かれて応えぬわけには行かぬと、それを探るため、久し振りに稲葉山城に上がった
「ふぅ・・・、年を取ってからの登山は厳しいのぅ・・・」
今年で御年五十を迎える
傾斜や起伏の激しい稲葉山は、確かに老脚には厳しい山だった
「おや、これは林殿。お珍しい」
いつもは山の下で暮らしているはずの通安の姿に、城の者はその殆どが声を掛けて来る
先祖代々斎藤家に仕える林家と同じく、中には妙椿の時代を知る者も居るのだから、ここでは古株の一人に数えられた
「今日はどうなさいました」
「いやいや、可愛い盛りの内孫が尾張に行ってしまいまして、暇を持て余しておりました故、たまには殿のお顔でも拝見しようかと」
「尾張に?」
「ほれ、一人娘の恵那が昔から姫様に懐いておりましたのでな、とうとう姫様を追い掛けて、亭主連れで行ってしまいましたわ」
「ははは!しかし恵那殿は帰蝶姫様よりも年上のはず。懐いていたと言うよりも、ご姉妹のような間柄だったのでは?」
「いやぁ、甘えたれの娘を庇っていただけるのはありがたいんですが、何も亭主まで連れて行くこともありますまいに、ねぇ」
「まぁまぁそう言わず、姫様の役に立てるようなことがあれば、大出世ではございませんか」
「そんな禄の家ではございませんよ」
適当に世間話に付き合い、しばらくして城の門を潜った
斯波の当主、義統が殺害されてから五日が経つ
末森の信勝から正式に参戦の表明が伝わり、柴田勝家が名代として一足先に那古野城に入る
この戦でも信長は叔父・信光の手助けを得るつもりだった
「手柄は全て、叔父上様にお譲りくださいませ」
「それは構わんが、どうしてだ」
「吉法師様の後ろ盾になっていただくには、一人でも多くの味方が必要です。村木砦でも武功をお上げになられましたが、年若い勘十郎様の手柄に色薄れてしまいました」
「そうだな・・・」
一緒に出陣した信勝の動きの方が派手で、実際手柄を取った信光の功績は色褪せてしまったのは事実である
昨年の松葉城、深田城奪回戦でも信友に手柄を取らせるお膳立てをしていながら、結局勝家の独壇場となってしまっていた
今年初めの村木砦攻略でも、そうであった
家臣の手柄は主君の手柄
勝家の挙げた武功はそのまま、信勝のものになる
信光は二度も手柄を信勝側に奪われたのだから、このままでは信光までもが信勝側に靡いてしまう可能性を秘めていた
何が何でも信光に良い場面を譲らなければと、その翌日、信長は軍勢を整えて出陣した
「ご武運、お祈りしております」
「行って来る」
自分の武功は、二の次
いつも誰かに武功を譲る
どうせ戦に勝つなら、良い気分で終わらせたい
そう考えている信長だった
主家であるがために長く勝幡織田を押え付けていた清洲織田との雪辱戦に、叔父・信光も独立を掛けて戦に臨んだ
その上武功も挙げられたら言うこと無しである
信長もそのつもりで居た
出陣した次の日、戦に勝ったはずの信長が、苦虫を噛んだような顔をして戻って来た
「お帰りなさいませ。早く決着が着いたのですね」
夫の早い帰還に帰蝶は喜んだが、信長の顔を見て何が起こったのか俄かに緊張する
「如何なさいました・・・?」
鎧を脱いでから改めて局処に上がった信長に、帰蝶も怪訝そうな顔付きで聞いた
その帰蝶に、信長は搾り出すような声で応える
「まただ」
「また?」
「また、柴田の横槍が入った」
「え・・・?」
「恐らく勘十郎の指図だろうが、命令していない場所に布陣して、しかも先鋒を叔父貴に譲るよう予め言っておいたのに、それでも構わず突っ込みやがった」
「
いくら織田で一番の宿老と言え、そこまで勝手な真似ができるわけがない
夫の言うとおり、裏で信勝が糸を引いているのは明らかだった
「どうして、叔父上様の手柄を横取りするような真似を・・・」
「今回は一応、父親を討たれた斯波に手柄を譲るということで、叔父貴も納得してくれたが、こう度々横槍が入っては叔父貴だって我慢の限界があるだろ」
戦の中、手柄がないのはただ働きと同じである
武功を挙げてこその戦で、その武功を何度も横取りされてしまっては、いかな『大人』とていつまでも見過ごせるはずがない
「俺も限界だ・・・」
「
信勝側に手柄を取られたのは、これで三度目であった
初めこそ信光の活躍も目覚しいが、戦が終結する頃には必ず勝家がしゃしゃり出て、信勝側に武功が渡ってしまう
手柄や武功を挙げて、初めて武人の価値が出る
信光はそれなりの年齢を重ねた武人だった
その武人から必要不可欠な要素を取り上げてしまったら、何も残らない
「吉法師様」
厳しい眼差しで、帰蝶は言った
「勘十郎様に、お逢いします」
「帰蝶・・・」
「どうしてこのような真似をなさるのか、きっちり聞いて参ります」
それは一時的な感情だったのか
それとも、帰蝶自身、限界を超えていたのか
老齢に老齢を重ねた大叔父・秀敏では、いつ『お迎え』が来るかわからない
しかし、叔父・信光は信長の父信秀の弟だけあって、まだ若い
これから先の事を考えれば、老い先短い秀敏だけが後ろ盾では心許ないのだ
だからこそ、それまでの戦で度々信光に手柄をと譲って来たのだが、それが全て打ち崩されてばかりいては、帰蝶とて黙って見過ごせない
末森に戻ったばかりの信勝に、帰蝶は自ら「いつお逢いできますか」と催促の手紙を送った
優等生の信勝らしくか、あるいは待ち構えられていただけなのか、返事は即日返された
「母上。義姉上様から、お誘いの手紙を頂きました」
薄笑いを浮かべ、信勝は母に報告する
「あちらから動くとは、珍しい。相当切羽詰っているようですね」
「仕方がないでしょう」
と、信勝は苦笑いする
「向こう側には良いところなし、こちらは権六が全て手柄を取っているのですから、焦らないわけがありません」
「結果が全ての武家で、結果を出せないのとあれば親族達も、どちらが勝幡織田の後取りに相応しいか、自ずと理解できるというもの。勘十郎」
「はい」
「その上で、美濃の方様を手に入れなさい。あの娘までもがこちらに靡けば、吉法師には縋る物がなくなります」
「そうですね」
「多少手荒な真似をしても構いません」
「母上」
母親の言葉に、信勝は少し目を見開く
「女は、そうね、中には『手荒な真似』を好む者も居ますから」
「
市弥の言葉に、信勝も満足げな薄笑いを浮かべた
それなりの供を連れ立つのだから、密会と言うわけではないだろう
だが、二人きりで話し合うとなれば密談にはなるかも知れない
不安だとか心細いだとか、弱気なことを言っていられる場合ではなかった
意を決して信勝との面談に赴くため、この日帰蝶は朝早くに那古野城を出て、謁見の場である那古野、末森の丁度間にある興円寺に向う
見送りの信長は、やはり心配なものは心配で、帰蝶が選抜した従者の村井貞勝、今や弓の師匠となりつつある太田資房、母なつ直々の指名である池田恒興、それに加えて前田利家も付け足した
どれも帰蝶には馴染みの深い家臣ばかりである
土田時親はまだ斯波義銀の世話があるため、役職からは離れられない
弥三郎利親も可成と一緒に美濃を探っており、警護の人員には宛てられなかった
それでもこれだけの面子が揃えばと、安心できる
「それでは帰蝶、行って参ります」
まるで『いざ、出陣』の鬨にも聞こえて、信長は苦笑するしかない
付き添う侍女には恵那と菊子が
お能には乳飲み子が居るため、同行はできなかった
とりあえず、武器になるような兼定は取り上げたが、いざとなればそこら辺りの壷やら花瓶やら、なんでも獲物にしてしまうのではないかと言う気概さえ見えた
心配ではあるが、帰蝶だからと言う変な自信が安心にも繋がる
それでも落ち着くことはできなかったが
嫁いだ頃は毎日のように馬に跨り、信長とこの那古野の城下を駆け回った
一度目の妊娠の後、互いに忙しくなったとは言え、出掛ける回数もめっきり減っている
それでも今も、季節ごとには二人で連れ立ってあちらこちらと出歩いたりはしていた
二人で歩く伊勢湾の浜辺が一番のお気に入りだった
その浜辺も、そろそろ良い季節になろうかと言うのに、今年は一度も行ってない
戻ったら夫に強請ってみようかと想った
そろそろ蛤の美味しい時季ですね、と
実家に里帰りなら一日掛かりでも、直ぐ隣が末森なのだから、その中間にある寺まではそう時間も掛からない
恵那も菊子も徒歩での移動だ
最も、帰蝶まで徒歩で移動するわけには行かず、輿に乗って向ってはいるが
直ぐ側には護衛として付き添っている資房が、肩から弓をぶら下げて歩いていた
「奥方様」
輿の中に居る帰蝶に、ふと話し掛ける
「はい。何かあったの?」
「いえ、頭上を蝉丸が飛んでおります」
「蝉丸が?」
輿から顔を出すことはできないが、頭上を、鳶のようにとは行かないまでも、旋回している蝉丸を想い浮かべた
蝉丸の小屋は局処の近くに設置してある
舅から譲り受けた鴉なのだから、世話をするのは帰蝶の役目だった
帰蝶が城を出た後、それを見送ったなつは局処に戻り、蝉丸が珍しくギャー、ギャーと騒いでいるのを耳にした
「どうしたの、蝉丸」
蝉丸は信秀が可愛がっていた鴉であり、末森でもなつは何度も蝉丸を目にしている
帰蝶よりは付き合いが長い
鳥とは言え、取り分け蝉丸は頭の良い鴉だった
滅多なことでは騒がないのを、今日に限ってそれなりに広い小屋の中を忙しなく羽根をばたつかせ、暴れているのが気懸かりだった
「もしかして、奥方様を心配しているの?」
なつのその質問に応えたわけではないのだろうが、蝉丸が一際高く『ギャー!』と鳴いた
高々鳥の分際で主人の身の上を心配しているのかと、ふとおかしくなり、小屋の入り口を開ける
その途端、蝉丸がなつを押し出すかのごとく翼をさーっと広げ、今にも飛び出しそうな勢いで小屋の中を旋回した
「蝉丸?
「ギャー!ギャー!」
「
入り口を通せんぼしていたなつは、しばらく考え込み、それから、身を翻して戸板から離れた
待ってたとばかりに、蝉丸が大空目掛けて羽ばたく
「蝉丸!奥方様を、奥方様を守ってね!」
飛び去る蝉丸の背中を見上げながら、なつは出せる限りの声で呼び掛けた
「
独り言のように呟く
「頼もしい護衛が一人、いえ、一羽、増えたわ」
帰蝶の言葉に、資房はふっと笑って見せた
興円寺は、規模ほど然して大きいとは言えないが、趣はまるで武家屋敷のようでもある
以前夫が父と逢うために出向いた正徳寺との雰囲気も、まるで違う
なんだか知り合いの家に遊びに来たかのような気分になる場所だった
寺の門を潜り、正面への玄関へと続く石畳の前で輿が止まり、扉が開けられる
「お待ちしておりました。織田上総介信長様ご正室、斎藤帰蝶様ご一行様」
出迎えに出たのは、この寺の住職だろう
重々しい法衣を身に纏い、厳格な顔立ちで会釈する
「この度の私用で使わせていただくことを、感謝します」
帰蝶の言葉に再び頭を下げて応える
住職に案内され、一同は寺の中に入った
信徒は金持ちが多いのか、まるで京都の寺かのように煌びやかな装飾品が至るところに飾られている
一番目の着く場所に、見事な虎の金屏風が建て掛けられていた
「高そうな屏風ね。あんなの、うちにもないわ」
「ふふっ」
帰蝶の口調がおかしいのか、側に居た恵那が想わず吹き出す
それから、住職を先頭に建物の中に入った
「従者の方々は、次の間でお待ちください。奥方様は、こちらへ。織田勘十郎信勝様が先にお待ちです」
「
隣同士の部屋とは言え、やはり二人きりでの密談になるのかと、俄かに帰蝶の躰を緊張の糸が走る
「奥方様、大丈夫ですかねぇ」
那古野の表座敷の縁側で、信長を真ん中に左に秀隆、右に長秀が並び、茶団子片手に帰蝶を心配する
「大丈夫だろ、吉兵衛に勝三郎に又助、犬千代もおまけしたんだ」
「じーさんに腕っ節はまるっきりの勝三郎のぼっちゃんと、弓しか取り得のない又助、拳だけが自慢の犬千代、でしょ?勘十郎様と渡り合えるんですかね」
「
改めて言われると、自信がこそげ落ちる
「せめて私も同行できれば、心強かったんでしょうが」
さり気なく自分を宣伝する長秀に、秀隆は透かさず突っ込む
「何を言うか、芋侍」
「いっ、芋・・・っ!」
「どうどう」
顔を真っ赤にして秀隆に食い付こうとする長秀を、隣の信長が宥める
「今は、その四人に祈るしかないだろ。そうだな、せめてなつを連れて行けたら良かったんだけどな」
「でも、向うから連れて来るなと言って来たんでしょ?おなつさんを警戒してのことだとしたら、間違いなく奥方様、色事に巻き込まれるでしょうね。なんせ相手は、あの好色だった大殿(信秀)の倅ですよ?女の扱いは、殿より上手ですからね」
今も妻一本槍の信長と、着実に地固めに身を乗り出して側室を儲けている信勝とでは、女に対する扱い方そのものが違う
「だとしても、大丈夫だ。帰蝶なら、大丈夫」
それは自分への祈りの気持ちなのか
例え弟に手篭めにされたとしても、帰蝶を嫌うことなど絶対にない
今はそう、想えた
実際に帰蝶が信勝の手が付いたとして、変わらず帰蝶への想いは保ち続けられるのかどうか、それは信長自身にもわからないが
夏の到来を知らせる青い空を見上げ、それから、日の眩しさに目がちかちかして目眩を起す
「大丈夫ですか、殿。あらぬことを想像して、いっちまいました?」
「何処に行くんだ・・・」
膝を抱えるように上体を倒し、目の奥で煌く午前中の星に片手で両目蓋を押えながら吐き捨てた
「お越しになられました」
住職が信勝の待つ茶室の襖を開ける
日差しが直接入らないよう工夫された部屋だった
お陰で室内は少し薄暗い
貞勝らは隣の部屋で足止めを食らい、恵那と菊子も同じである
「申し訳ございませんが、うちではお武家様を持て成す女がおりません。無礼かとは想いますが、給仕をお願い致します」
そう言って、男達の部屋に押し留められた
信勝に付き添っていたのは勝家らを初めとする、数人の織田家譜代家臣と、大勢の、雑兵だろうか、見掛けない顔ばかりだった
こちらは遠慮して少人数で訪問したと言うのに、向うはかなりの人数を揃えている
これでは奥方に何かあっても守り切れない
貞勝は心の中で口唇を噛んだ
「お待ちしておりました」
帰蝶が入って来た途端、あの時嗅いだ香りが漂うのを信勝は自覚した
「早めに出たつもりなのですが、待たせてしまいましたね。申し訳ございません」
「いいえ」
相変わらず綺麗な顔をして、表面を取り繕ったような笑顔を浮かべると、帰蝶は内心呆れる
「今日はお化粧をなさっておいでではないのですね」
「
「そうではありませんが」
棘のある物言いをする帰蝶に、やはり信勝は薄ら笑いを浮かべていた
自分の正面に座る帰蝶を、じっと凝視する
「では、料理でも運んでもらいましょうか」
「はい」
朝早く出たつもりだが、到着した頃には昼餉に近い時刻になっている
無理にでも食べれないこともない
帰蝶の返事を聞き、信勝が声を掛けた
「お願いします」
廊下で待機していた僧侶が、会釈してからその場を離れる
隣の部屋では宴会でも始まったのか、随分と賑やかな声が響いて来た
その声量だけでも、どれだけの人数が集まったのか窺い知れる
「大勢、引き連れて来られたのですね。こちらはあなた様を信頼して、少数で参りましたのに」
「ははは。いえ、先日清洲を攻撃したばかりでしょう?ですから、どこで大和守の残党が待ち伏せしているかと臆病になりまして」
「大和守様も清洲を攻撃されたばかりで、まだ動ける状態ではないはず。少し心配し過ぎではございませんか?」
「義姉上様のように、でんと構えていられない性質なんでしょうね、私は」
「
まるでこちらの詰問をはぐらかすような答え
抜け目がないとは、このことだろうか
「お待たせしました」
程なくして運ばれた料理の膳に、どちらも気が行く
「まぁ、鮎・・・」
皿の上には塩焼きにされた鮎が一匹、ちょこんと乗せられていた
「木曽川の鮎ですが、そろそろの時季でしょう?義姉上様も待ち望んでおいでではないかと」
「鮎は稲葉山に居た頃、夏になれば毎日のように食べておりました。とても懐かしいです。心遣い、ありがとうございます」
「いいえ。どうぞ、召し上がってください」
「はい」
気分良く鮎を突付く
信勝はと言うと、手勺で盃に酒を注ぎながら、盗み見るように帰蝶の口元に運ばれる箸をじっと見詰めている
その小さな口唇が開き、端を咥え込む
それからゆっくりと口の端が動くのを、酒を飲みながら眺めた
「美味しいです」
「良かった」
膳の上には鮎以外に鯛の刺身、薇の佃煮、鰹節を塗した筍の煮物、鶏の塩焼きも並んでいる
寺でこれだけの料理を出すのは精進していない証拠だろうかと、笑いたくて仕方ない
特に酒と肉は寺にとってご法度
それでも堂々と出しているのを見れば、凡そ寺としての機能が果たされていないことを物語る
堕落した宗教が、ここにあった
夫の杞憂が垣間見れる
最も、海の幸なら去年の正徳寺でも出たらしいが、料理をしたのは父が連れて来た料理人だったという話である
酒が出なかったのが残念だったと言っていたのが想い出され、帰蝶は笑いたくなるのを堪える
そんな帰蝶を眺めながら、信勝は相変わらず料理には手を付けず酒ばかりを煽っていた
「朝からお酒ばかりでは、体に障りますよ?お汁物だけでも口になされては如何ですか?」
「ご心配ありがとうございます。義姉上様はお優しい」
「そう言うわけでは・・・」
悪酔いをして、何をされるかわかったものではないからの心配とは、言えそうにもない
「時に、私を呼び出して何かお話でもあるのでしょうか」
悠長に食事などしていられる雰囲気ではなくなったのか、帰蝶は箸を置いて信勝に尋ねた
「呼び出す?」
「逢いたいと、そう手紙を遣したのは、勘十郎様です」
「そうでしたか」
「勘十郎様」
恍ける信勝に、帰蝶の眼差しも厳しくなる
「いつお逢いできますかと訊ねて来られたのは、義姉上様だとばかり想っておりました」
「私が?いつ」
「清洲での大和守との戦いの後。お忘れですか?」
「
それでも、最初に逢いたいと言って来たのはそっちだろう?と、吐き捨てたくなる
「夫のある身で義弟に逢いたいとは、義姉上様も中々のものですね」
「私は、そんなつもりでは」
いけない
そう、心で自分を止めた
むきにさせて、自分の調子に合わせるつもりなのが見え見えである
「勺を、してもらえませんか」
「
じっと信勝を目を見る
謀略を企んでいる目だった
「お願いします。手勺て、結構侘しいものなんですよ。酒好きの兄上だって、そうでしょ?誰かに勺をさせてるんじゃないんですか?それとも、義姉上様が?」
「気が利きませんで」
信勝を黙らせようと、帰蝶は立ち上がって信勝の側に行き、膝を落とす
それから、信勝の手から直接徳利を受け取った
指先が触れ合う
手を引いては負けだと、絡み付くような信勝の指から自然な仕草で徳利を奪った
「どうぞ」
「
少しにやっと笑ったような顔をする信勝は、黙って盃を帰蝶に差し向ける
差し出された盃に少量の酒を注ぎ、それを飲み干す信勝を見詰めた
「義姉上様も如何ですか」
「男女だけの席で酒を煽っては、織田の不名誉になりますので、遠慮させていただきます」
「そう連れないことを言わず、返礼でしょ?こう言う場面での酒ってのは」
「では、ほんの少し。口を濡らす程度に」
「口唇を濡らすのなら、酒じゃなくても構わないんじゃないですか」
「
卑猥な信勝のからかいにも動じず、徳利を信勝の膳に返し、帰蝶は黙って差し出された盃を受け取った
膳の上の徳利を掴み、帰蝶の受け持つ盃に酒を注ぎながら話す
「そう、つんけんなさらず」
「別にそんな」
「まるで、切っ先に咲く花のようですよ」
「切っ先に咲く、花?」
信勝の言葉が理解できず、想わず聞き返す
そんな帰蝶に信勝はこう応えた
「火花みたいです」
「火花・・・」
「一瞬で消えてしまう、儚い花。ですが、見た目はとても刺々しい」
「
「何を警戒なさっておいでですか」
「別に警戒など。あ・・・」
盃に並々と酒を注がれ、戸惑う
「話に夢中になってしまいました、すみません。徳利に戻しますか?」
「そんな、お行儀の悪い・・・」
「はは。さすが斎藤家の姫君。教育が行き届いてらっしゃる」
「これくらいは普通のことでは?」
「普通じゃない兄上に嫁がれた方の言葉とは、想えませんね」
「吉法師様が非常識だと仰りたいのですか?」
「そう、一々突っ掛からないで下さいますか」
兄嫁が、夫のことになると冷静さを欠くことくらい、一度逢えば充分わかる
それを逆手に取られた
隣に二人きりにさせられた奥方が気になると言うのに、こちらの部屋では騒がしいほどの宴会が始まり、聞き耳が立てられない
無駄に部屋が広い分、帰蝶の居る茶室の会話まで聞こえそうにもなかった
困ったな、と言う気持ちと苛立ちに、貞勝は顔を顰める
主に騒いでいるのは雑兵らしき輩達だった
柴田ら譜代の家臣達は静かに酒を飲んでいる
帰蝶の世話をするために同行した恵那と菊子も、そんな男達の給仕に手足を奪われてしまっていた
その内、突如として派手な装い姿の女達が部屋に入って来た
「木鷺屋でございます」
先頭に立つ女がそう告げる
「木鷺屋?」
まさかと、貞勝は想った
木鷺屋は最近尾張で流行っている『傾城(かぶき)屋』の類だったと想う
『傾城屋』とは、平たく言えば売春を主とする店のことだが、それこそピンからキリまであって、単純に酒を飲むだけの場所で、時折接待の女との会話を楽しむだけの粋な遊び方と、初めから肉体を目的とした男の遊び方の両極端に分かれる
木鷺屋は間違いなく後者であり、女が団体で乗り込んで来た時点で貞勝と資房は体を強張らせた
これから先、何が起こるというのか、想像すらしたくない
「
貞勝は二人を手招きした
「表に出ていた方が良い」
「ですが、給仕を」
「給仕なら、この木鷺屋さんの女達に任せて」
「どうぞ、ごゆっくり」
貞勝の側に来た木鷺屋の女の一人が、菊子に笑い掛けた
「でも・・・」
躊躇う菊子に、貞勝と資房は黙って頷く
良い女が現れたことで、利家は舞い上がり煽るように酒を飲んだ
空になった盃に、女達が次々と酒を注いで行く
「行きましょう、お菊さん」
何を察知したのか、恵那が菊子の手を引っ張った
「本当に、良いんですか?」
「構わないよ、早くおゆきなさい」
後押しするように、資房が言う
それを聞いて、菊子は恵那に手を引かれるまま、会釈してその部屋を後にした
「隣、随分盛り上がってるみたいですね」
「
煩いほどの賑やかさに、信勝がこれを仕組んだのではないかと勘繰ってしまう
ここで何かが起きても、隣で騒げば音は聞こえなくなるだろうし、聞こえにくくもなるだろう
「それで、義姉上様は私に何をお話されたいのですか?」
恍ける一方の信勝は、決して自分から話など切り出さないだろう
そう簡単に想えた
「
「清洲戦ですか?」
「伺いましたら、手柄は孫三郎様にとのことでしたのに、柴田殿が随分としゃしゃり出たようですね」
「しゃしゃり出るとは、不愉快な。戦は生き物です。どのように動くか、流れるか、誰にも想像できません。たまたま権六に手柄が落ちて来ただけで、叔父上の手柄を横取りしたつもりはありませんが。それとも、権六本人に聞きますか?隣に居ますから」
「それだけではございません。村木砦の攻略戦でも、松葉、深田の奪回戦でも、柴田殿が随分先行なさったとか。勘十郎様は、叔父上様を蔑ろになさっておいでですか?」
「
「吉法師様は関係ございません。私がそう想ったまでのこと。いくらなんでもやり過ぎだと感じたので、素直に聞いただけでございます」
「それでも、戦のなんたるかを、あなたはご存知なのですか?それとも、蝮の娘だから、何でもお見通しだとでも仰りたいのですか」
「私は、蝮の娘ではございません」
夫ですら、そんな言葉を使ったことはない
『蝮』は『毒蛇』である
誉め言葉ではないことぐらい、誰にでもわかった
「違う?そうですか」
「私は、斎藤道三の娘です。父は蝮などではございません。撤回してください」
「ならばあなたも、権六が手柄を横取りしたと発言なさったのを、取り消せますか」
「事実は事実でしょう?」
「同じ言葉をそっくりそのまま、お返しします。斎藤道三殿は、その卑劣なやり方で美濃の国主を追い出し、国を手に入れ、そして、自分に反抗する者を残酷な遣り方で処罰なさっておいでだ。とても人の業とは想えないほどにね」
「今日の話し合いと父は関係ありません。引き合いに出さないで下さいませ」
「ならば、あなたも権六を引き合いに出さず、想っていることを単刀直入に話されては如何ですか。痛くない腹を探られるのは、我慢できません」
「では、お伺いします」
「どうぞ」
至近距離で、ともすれば腹が立って信勝に平手でも食らわしたくなるのを必死で抑え、帰蝶は信勝から視線を外すことなく対峙した
「あなたは、私の実家の兄と繋がってますね?」
「何のことでしょう」
「兄と通じて、何を企んでおいでですか」
「あなたの兄上様?はて、どの兄上様でしょうか」
帰蝶には嫡男と認定された義龍以外、庶子を含めると優に五人の兄が居る
庶子は所詮実子と認められていない子供のことであり、同じ稲葉山では暮らしていなかったが、何処に誰が養子にやられているかぐらいは把握していた
勿論、信勝が言う『兄』の中には実兄である孫四郎龍元、喜三郎龍之は含まれて居ない
同じ母を持つ龍元と龍之が、妹の不利になるようなことに加担するはずがなかった
「斎藤新九郎利尚です」
「義姉上様は、兄上様をお疑いに?正気ですか」
「疑いだけで、実家がゴタゴタしているとは想えません」
「まさかとは想いますが、この私も一味だとかお想いで?」
「違うのですか?」
「
「
どこまでシラを切るつもりかと、苛立ちが募る
「あなたはやはり、切っ先に咲く花ですね。その刀で相手を傷付け、縦しんば向き合った人間との間に火花を散らす。あなたはそれで私と吉法師の兄上とを仲違いさせたがっているのですね」
「私が・・・?」
「それは斎藤道三様の差し金ですか?」
「違います・・・!そんな
まさか自分に疑いを掛けられるとは、想像すらしていなかった
さすがの帰蝶も、これには慌てた
いや
そう言い掛かりを付けられても不思議ではない時代なのだから、なんとか形勢を引っ繰り返さねばならない
想えば想うほど焦ってしまう
このままでは父に命じられて、織田の家に混乱を招くため嫁に出されたと吹聴されても防ぎようがない
勿論、夫がそれを信じるはずはないが、世間はそうは行かないのだから、帰蝶が焦るのも頷ける
「私は・・・」
「
策略に長けているとは薄々気付いていたが、正攻法で攻めれば存外に脆い
斯波と大和守織田を対立させたのも、この女の仕組んだことだろう
仕掛けるのは得意でも、仕掛けられた罠から脱するのは下手だ
目の前に居る美女の、顔色の変わったその憂いさ
ただその存在だけで城が傾くほどの美女を『傾城』と言う
それの大掛かりな物が『傾国』と言い、どちらも一人の女に入れ込んだがために城や国が傾いてしまうことを指す
私が尾張と美濃を支配すれば、義姉上様は『傾国』になるのだろうか
まだ幼さを色濃く残す妹・市や犬も、何れは絶世の美女と呼ばれるほどだと周囲からの評価は高い
そんな妹らと暮らしながらも信勝の興味は、目の前の、必死になって心を抗わせる兄嫁へと注がれていた
帰蝶から漂う花にも似た心地よい香りが、信勝を興奮させる
「美濃の方を娶ると言うことは、即ち、お前にも美濃の継承権が発生すると言うことです。美濃の方は国主の娘なのですから、斎藤の後継者に万が一の事でも起きれば、娘婿がその後を引き継ぐと言うのも不自然ではありません」
いかなる手段を使っても、帰蝶を手に入れろと母は言った
信勝も、それに対しては乗り気である
どんな風に顔を歪めるのだろう
きっとその顔も、美しいに決まってる
ただ黙って兄嫁と対峙する
隣では煩いほどの男の彷徨、女の奇声が入り混じっていた
それでも、帰蝶と信勝は心の中で刀を向け合い、その切っ先に鋭い火花を散らし合っていた
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千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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