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「おかえりなさいませ!」
夫の無事を確認しようと、表で待っていたお能が時親を出迎える
「ただいま」
時親の微笑みに、お能も弾ける笑顔で応えた
「奥方様は?」
「あそこに」
松風の上で、乱れた髪を手櫛で梳きながら城に戻って来る帰蝶の姿を目にし、無事であったことにほっとする
「お帰りなさいませ、奥方様。ご無事で何よりです。おなつ様が、首を長くしてお待ちですよ!」
「説教と一緒に待ってるんでしょ?」
帰蝶の、先を見透かした物の言い方に、お能は苦笑いした
清洲攻略は信長側の勝利で終わり、可成は帰蝶から頼まれていた岩室あや保護のため、一足先に局処に向かった
勝手知らぬ他人の城であるため、局処まで政綱に案内を頼む
自分達より先に城に踏み込んだ信光の部隊が、早速乱取りに取り掛かっているのがあちらこちらで見えた
数人係りで強姦されている女を見るのは忍びないが、可成にとってはある程度見慣れた光景でもある
最も、土岐家臣時代に経験したことばかりで、乱取りを行なうのは斎藤側、可成は乱取りに遭っている女を何人か助けた経験はあるが、自身が乱取りを行なったことはなかった
男を揮わせるような光景ではあるが、それに参加している場合ではない
帰蝶に頼まれた、岩室あや救出が先決である
「森殿!」
遠くで政綱の父、弥次右衛門に呼ばれ、可成は配下の者を連れ小走りに駆けた
「こちらです、急いで」
「承知した」
弥次右衛門を先頭に走り出し、やがて目的の部屋の前に辿り着くと、蒼白顔の弥次右衛門が襖の向こうを指差す
辺りでは乱取りがされていると言うのに、ここだけは人影も疎らだった
その部屋の中央で揉み合っている男女の姿が見える
女の手を掴み、無理矢理立たせようとしている男の姿が映った
「来い!」
「いやッ!嫌です!」
押し問答をしている二人を遠巻きに、弥次右衛門が告げる
「あの方が、森様の探しておられる岩室あや様です」
「あれが・・・」
花が香るとは、このことだろうか
遠目で見てもその美貌は際立っていた
信長の父がぞっこん惚れ込み、一時は相当に入れ込んでいたと聞かされたのも、満更嘘ではないような気にさえなって来る
床に這い蹲り、自分と共にするのを抵抗するあやに、信友の刀が振り下ろされる
その刀を間一髪のところで槍で受け流す
「岩室あや様でらっしゃいますね?」
「あなたは 」
「いかなる理由があろうとも、主人を殺害に至る経緯は許しがたい所業である」
城に入り、義統自刃の始末を付けるため、大和守信友を問答無用で自害に追い遣る
これで義銀は晴れて親の仇を取れたのだが、まだ若いため再び尾張守護に返り咲くことは無理だろう
信長が信光と共に清洲城に上がった後も、まだあちらこちらで小競り合いが起きている
女の集まる局処でも騒乱が起き、乱取りは未だ終結していなかった
先ずは信友の始末が先と、気がそちらに回っており、信長ですら与り知れぬ騒動であった
裏で手を回していたとは言え、漸く手に入れた清洲である
想い巡るのも一入であろうか
「犬千代」
「はいっ」
「那古野に戻り、帰陣は夕刻にすると伝えてくれ。改修したい各所の縄張りをしてから帰る」
「承知しました」
小競り合いとは言え、城にも多少の傷は入った
それを修繕する場所を確認しておかないといけない
だが、それを伝えた直後、本丸で小火が起きた
「 帰るのは、明日だな」
「そうですね・・・」
疲れ切った顔をする信長に、利家も頭から汗を浮かばせる
一足先に戻った帰蝶は、湯殿で汗を流した後、なつに髪を梳いてもらっていた
「随分乱れ切ってしまって。まるで頭を振り乱したようですよ」
「形振り構ってられなかったから」
「形振り構ってられないようなことでも、起きたのですか?」
「大したことじゃないわ。些細なことよ」
まさか信勝の部隊に取り囲まれたなどと言えるはずもない帰蝶は、取り繕った言い訳をする
「余り、無茶をなさらないで下さいね」
「でも、時には無茶をしなくては手に入らないものだってあるのよ」
「清洲は若が何れ、手に入れたでしょう。奥方様はまるで、生き急いでいるように見えます」
「まさか。そんな人柄じゃないわ」
いいえ
と、なつは心の中で否定した
娘と言っても過言ではない年齢の帰蝶が、愛しくて仕方ない
同時に、その危うい気性にも心配する
何処の奥方が先陣を切って戦場を駆け抜けると言うのか
後から戻った恒興が、恐縮しながらそれを話した
やはり想った通りと内心、怒りにも似た感情が込み上げる
『正妻』と呼ばれる女は腐るほど居ても、『斎藤帰蝶』と言う人物は、この世に一人きりしか居ないのだから
最早取替えの効かない存在になっている帰蝶には、危険な行為は取って欲しくなかった
擬似母としての、素直な気持ちだろうか
「そう言えば、蝉丸を放ったのは、なつ?」
「いいえ、存じません。見てみましたら、小屋の裏の木枠が腐って崩れておりました。目立たない場所でしたし、突付いた後も見受けます。恐らく日頃から蝉丸が突付いていたのでしょうね。今、修繕の手配をしております」
「そうだったの。てっきり、なつが気を配って放ってくれたのかと想ったわ」
「蝉丸は賢い子です。私に訴えるよりも、自力で抜け出した方が早いと想ったのでしょうね。私も奥方様を見送った後、局処ではなく台所に向いましたから、蝉丸の小屋の前は通らなかったんです」
「そう言うことなのね」
しばらくは他愛ない話が続き、やがてなつは哀願の想いを込めて言った
「兎に角、清洲は落ちたのでしょう?」
「そうね。吉法師様から正式な報告が上がると想うのだけど、間違いないでしょう」
「なら、これを機会にしばらく、大人しくなさってくださいね」
釘を刺すようななつの言い方に、帰蝶も素直に従うしかない
「はぁい」
不承ながらの口調で返事した
そこへ庭先から犬千代の声がする
「奥方様、ご報告です」
「お帰りなさい。首尾はどうですか」
「万事上手く。それと、岩室あや様を保護しました」
「あや様を?本当ですか?」
帰蝶の櫛を握ったまま、なつが縁側に駆け出る
「明日、ご一緒にお連れします」
「明日?今日じゃないのですか?」
「大和守の残党がまだうろうろしておりますので、少人数での移動は困難。それと、本丸に小火が起きまして、それの後始末と清洲城の修復普請もやりたいと、殿が申されておりまして」
「そうですか。小火が起きたのですね」
後から帰蝶も縁側に出る
「奥方様がお戻りになられた直後です。本丸で略奪が起きまして」
「勝幡が起したのですか?」
「いいえ、清洲側です。脱走の際、金目になるものでも漁っていたようで、その小競り合いで発火しまして」
「火が付くって、どんな小競り合いよ」
苦笑いしながら、利家の報告を聞く
「お戻りのご予定は、明日の正午の見通しです」
「承知しました。その準備をしておきましょう。犬千代は取って返して吉法師様に伝えて。あや様の受け入れ準備もしておきますので、どうか道中お気を付けて、と」
「承知しました」
翌日になり、信長が信光、信勝を連れ凱旋した
「お帰りなさいませ。ご無事の帰還、執着至極に存じます」
「疲れた」
出迎える帰蝶に凭れ掛かるように抱き付く
「本丸で小火が起きたとか」
信長を抱きかかえながら聞く
「天主だ。改修が大変だぞ」
「ご愁傷様です」
「叔父上と勘十郎を連れた。歓待してくれ」
「表座敷で祝勝会の用意ができております。いつでもどうぞ」
帰蝶の微笑みを目に、信長も漸く一息つけた
共に連れ立った岩室あやの出迎えに、同じ信秀側室出身のなつが持ち受ける
その姿になつは、兎に角先に躰を休ませることにした
表座敷では祝勝会が始まり、そこで清洲城に一番入城した信光から、清洲城譲渡が行なわれる
代わりに信長からは、この那古野城を信光に譲渡することを宣言された
義統の子供達の処遇は信長に一任され、当面は信長が尾張の国政を賄うことになった
体(てい)の良い乗っ取りになるが、だからと言って尾張の守護になったわけではない
朝廷が認めて、初めて尾張の国主である
今のところは大和守信友を討ち取った功績を買われての、守護代でしかない
それでも若い守護代に変わりはなく、帰蝶は素直に喜んでくれた
一方の局処では、あやとの謁見が行なわれる
数多の男を骨抜きにしてしまうほどの美貌を誇ると聞かされていたが、確かにそうだろうと感じさせるほどの、美しい女御だった
「織田信長妻、斎藤帰蝶でございます。お初にお目に掛かります」
「岩室あやでございます。この度は過分な保護、ありがとうございます」
あやも疲れているのだろう、言葉に覇気はなく顔色も悪い
それもそのはずだった
腹がぽっこりと浮いている
帰蝶は恐れることなく聞く
「大和守様の、お子ですか?」
あやは震えながら頷いた
主家殺しと言っても過度ではない行いをした信友の子とあれば、生まれたら直ちに殺されても文句は言えない
「如何なされたいとお考えですか」
「 私はそれまで、三人の男の手に委ねられました。だけどその中で、治部大輔様が一番深く、私を愛してくださいました・・・」
真剣に耳を傾けないと聞こえないような、小さな声である
「ご実家に戻られますか、それとも」
「できれば、治部大輔様の菩提を弔いとうございます・・・」
実家に戻ってもまた、政略の道具になるのを待つ身になるだけ
それに疲れたあやは、戻ることを拒否した
「吉法師様と相談してみます」
「よろしくお願いします・・・」
泥のように重く感じる体に鞭打って、あやは深々と頭を下げた
自分より二つ三つ上だろうか
あるいは夫より少し年上なだけだろうか
それでもまだ若い女のする表情ではなかった
まるで年増にまで上り詰めた女の顔をするあやに、帰蝶は心中複雑な想いを浮かばせた
帰蝶が局処であやと謁見をしている頃、表座敷では始めは祝勝会であったものが、やがては戦総論となってしまった
論題は、信勝の軍律違反である
信長の部隊の邪魔をした上に、命じていない行動までやっている
帰蝶の詰めていた寺に押し入ったことがそれだ
「寺の庭先が乱れたと、苦情が出ている」
「戦列の乱れを戻すため、散らばった兵を集めておりました。そのため、後詰部隊の居た寺に入ったのは事実ですが、乱すために押し入ったのではありません」
信勝の顔は見るからに不機嫌だった
それもそうだ
謂れのないことで叱責を受けるのだから、仕方がないだろう
「理由より結果だ。寺の賠償をこちらで受け持たねばならなくなった。予想外の出費だな」
「戦に予想外の出費は付き物でございましょう?過分だとおっしゃるのでしたら、こちらで負担しますが」
「どちらが金を払うかの話ではない。お前の部隊が列を乱したことが問題だと言ってるんだ」
「兄上の部隊にまで雪崩れ込んだことは認めますが、それには理由がございます」
「聞こうか。言い訳ではないことを祈るがな」
「お言葉ながら、こちらも予期せぬ邪魔が入り、止むを得ず兄上の陣に流れてしまっただけのこと。私を責めるのであれば、私の陣に雪崩れ込んで来た者も同様に扱いくださいませ」
「邪魔?誰だ」
「わかりません。どなたかのお小姓さんかと想われます」
「小姓?」
「半首と頬当が一体化したような防具を付けておられました。髪は長く、側には一羽の鴉」
「鴉なら、帰蝶が飼ってる。しかし、蝉丸は連れて行ってないぞ」
「心当たりはございませんか」
「 さあな」
信長はしらっとした顔で白を切る
そんな兄を信勝は、上目遣いで睨んだ
「兎に角だ、しばらく大人しくしていろ」
「 」
承服しかねる顔をして、信勝は黙って頭を下げた
とてもではないが、酒を飲んでいられる気分ではない
背後から紛れ込んだ信長の部隊の小姓らしき武将に邪魔され、手柄は取り損ね、公然の目の前で受ける必要のない叱責を受けたのだから、優等生の信勝には許しがたいことであった
憮然とした顔をして、城を出ようと廊下を歩く
その廊下で、なつ、お能を先頭に数人の侍女を引き連れた帰蝶と出くわす
「 勘十郎様・・・」
「義姉上様」
相変わらず美しい姿の兄嫁に、信勝は黙って会釈した
「祝勝会は、如何なさいましたか?」
あんなことを強要した自分に対しても、その表情は崩れない
涼やかな顔付きだった
「こちらの不手際がございまして、兄上からお叱りを受けたばかりです。反省しようと、早退させていただきました」
「まぁ、勘十郎様が不手際?信じられないことです」
「 」
梅雨前の、あの、蜜月にも似た密会を想い出す
それと同時に、帰蝶の香りも想い出した
「失礼します」
「え?」
有無を言わさず帰蝶の手首を掴むと、信勝は抱き寄せ、その首筋に鼻先を押し当てた
似ている
「 は、離して下さいッ!」
周りにはお能やなつ、それ以外にも大勢の侍女が付いている
その目の前で何と言う不埒なことをと、帰蝶の顔が真っ赤に染まった
「な、何をなさいます・・・!」
「失礼ですが、義姉上様は香でもお付けになっておられますか」
「 香・・・?」
そんなもの付けていないと言いたげに、帰蝶は首を振った
「匂いますよ。とても強い匂いだ」
「匂い・・・?」
「戦場に居れば、直ぐにでもわかってしまうような、そんな香りです」
「知りません、そんなもの・・・ッ」
「そうですか。失礼しました」
信勝はあっさり帰蝶を手放し、なつから苛烈な睨みを受けながらも飄々とした顔で会釈し、立ち去った
「大丈夫ですか?奥方様」
「ええ・・・。でも・・・」
信勝が鼻先を擦り付けた首筋を、拭うように撫でる
信勝の言った、『匂い』と言うのが気になった
「なつ・・・。私、匂う・・・?」
「え?」
汗臭いのかと心配になり聞いてみる
なつは帰蝶に鼻を近付け、くんくんと嗅いだ
「別に何も匂いませんが?」
「そう・・・。でも、勘十郎様は匂うって・・・。相当臭いのかしら」
「若にでもお聞きになったら如何です?」
「私、臭いですか?って?」
「それ以外、どんな表現がありますか?」
「 そうね・・・・・」
きっぱり言い切るなつに、帰蝶の頭からは汗が浮かび出た
「今日は祝賀よ。台所も少し休んで、祝ってちょうだい」
日頃目を掛けることも少ない台所の女達に、甘酒を振舞うため侍女を引き連れてやって来た
「干し柿もどうぞ」
と、肴にたくさんの干し柿を渡す
お返しに、信長が持ち帰った清洲のにごり酒をもらってしまう
「これじゃ、お裾分けにならないですね」
そう苦笑いするなつに、帰蝶も同じ苦笑いで応えた
那古野城はどこもかしこもお祭りのような賑わいを見せる
それもそのはず
長く自分達を支配して来た大和守家を討伐しただけでなく、漸く日の目を見ることができるのだから
主従の逆転は下剋上しかありえなかったこの時代、信長のように正当な理由を以って引っ繰り返した者はいない
誰もが羽目を外すのを、咎める者もいなかった
局処でもささやかな宴会が始まる
お目付けでもあるお絹は、別室で気の合う仲間同士酒盛りをしていた
日頃の憂さが相当溜っているのか、かなりの騒がしさである
那古野に到着したばかりのあやは、体の方も本調子ではなく、また、自分の暮らしていた城が落ちたことを祝う祭りに参加する気にはなれず、離れの母屋に移動し、そこで休んでいた
帰蝶の部屋にはいつもの面子が揃う
なつを筆頭にお能、菊子、恵那
帰蝶の身の周りの世話をする侍女達は、お絹と同じく別室で盃を傾けている
「本当に、夢のようです。これで殿も、晴れて大名の仲間入りですね」
「今はまだ小さいでしょうが、吉法師様なら大丈夫。いつか必ず斎藤にも負けない、立派な大大名になられます」
帰蝶は自信の溢れる顔で、喜ぶお能に返した
「あの方は、小さな豪族で納まる器ではありません。いつか、必ず天下に名を知らしめるお方になられます」
「お熱いことで」
夫をのろける帰蝶に、なつは冷やかした声で告げた
「煩いわね、なつは」
からかわれ、帰蝶は頬を赤くして目を吊り上げる
そこへ噂の張本人、信長が顔を覗かせた
「ここも賑やかだな」
「殿」
「吉法師様」
「若」
其々が其々の呼び方で信長を呼ぶ
「局処もあっちこっち、賑わってるな」
「はい、今日は無礼講です。みんなでこの良き日を祝いたくて」
「そうか」
満面の笑みで応える帰蝶に、信長も笑顔を崩さない
その信長は、片手に酒の入った大きな徳利を持っている
きっとここで飲む気なのだろうと、最初になつが立ち上がった
「では、私達は退散しましょう。夫婦水入らずでどうぞ、ごゆっくり」
「ごゆっくり」
「ごゆっくり」
なつの言葉の後を追うように、お能、菊子、恵那も立ち上がりながら声を掛ける
それが滑稽でおかしい
「変な気を利かさないでっ」
帰蝶の顔が益々赤くなる
「ははは!すまんな、お前達」
襖を閉め、
「じゃぁ、続きは私の部屋でしましょうか」
と言う、なつの声が聞こえるのを、信長と帰蝶は顔を見合わせて微笑んだ
「座敷の方は、よろしいのですか?」
「酒さえ飲めれば、俺が居なくても大丈夫だろ。それに、ゆっくりしたいしな」
「そうですか」
帰蝶のすぐ側に腰を下ろし、持ち込んだ徳利を下ろす
「お注ぎします」
「ああ」
誰が使ったかわからないが、薄っすら紅の付いた盃を軽く拭い持ち直す信長に、帰蝶は手にした徳利を傾けた
ほんのり白く濁った酒が注がれる
「現実かな・・・って、さ」
羽根を広げた鷹が、心休まる巣の中で寛ぐような、そんな光景だった
膝を崩し、帰蝶の注いでくれる酒を煽る
今日はいつもより酒が美味かった
「信じられませんか?」
「大和守を蹴落とすなんて、夢にも想ってなかった。勿論、そんな野心がなかったわけじゃない。でも俺は、精々大和守の下で切り取った領地を守ることで一生が終わるんだって想ってた」
「でも、この国を変えたいと言う夢は、捨て切れなかったのでしょう?」
「当たり前だ。でもな、それには先ず何をどうすれば良いのか、ずっとわからないままだった。戦をするのは簡単だ。でも、それには民をどうしても巻き込んじまう。俺は親父みたいに外交が上手いって訳じゃない。やっぱり拳で語るしか方法が想い付かねぇ。野蛮だってわかってるけどな、染み付いちまったもんは擦っても落ちねぇんだよ」
「そんなことありません。吉法師様が野蛮だなんて、そんなことありません」
「帰蝶・・・」
「いつも民のことを気に掛けて、どうすればみなの暮らしが豊かになるのか、そればかり考えてらっしゃる吉法師様が野蛮だなんて、何処の誰が言ってるんですか。この帰蝶が許しません」
「ははは、別に誰が言ってるわけじゃねえよ。俺が俺自身、そう感じてたことだ」
「だったらそのようなお考え、今直ぐお捨て下さい」
食って掛かる帰蝶に、信長は困惑しながら笑う
「わかった、わかった。お前に掛かると、この吉法師も形無しだな」
「吉法師様・・・」
自分の勇ましさが恥しくて、帰蝶は頬を赤くして俯いた
「でもな、この戦でわかったことがあるんだ」
「わかったこと?」
まだ桃色に染まる顔を上げ、帰蝶は聞き返した
「何のために生き、何のために死ねるか。その答えを得た時、人は今より強くなれる」
「 」
帰蝶の目が見開かれる
当たり前のようなことなのに、今の今まで考えたこともなかった
「何のために生き・・・、何のために死ねるか・・・」
「俺は、尾張の発展のために生き、尾張の民が幸せに成るんだったら死ねる」
「吉法師様・・・」
「まぁ、できれば、お前と余生をのんびり過ごしたいが、な?」
「 」
にかっと笑う信長に、帰蝶も照れ臭さに微笑みながら俯いた
「そうそう。なつからも言われてたけど、岩室の娘、斯波の菩提を弔いたいって?」
「 あ・・・、はい。ご実家に帰るのは、嫌だ、と」
「なんでまた」
「戻られてもまた、次の嫁入り先を待つ身に落ちます。それに、お腹には大和守様のややが」
「ああ、それも聞いた。親父の子なら保護できるが、信友の子となれば出家か、あるいは後顧の憂いを取り外すための人柱になってもらうしかねぇ」
「ならばどうか、出家の道を選ばせてあげてくださいませ」
「まぁな、生まれたばっかりの赤ん坊を殺すってのも、気が引けるしな。俺としても大人しく出家してくれりゃ別にガタガタ言う気はねぇよ」
気の良い信長ならではの意見だった
帰蝶とて、気の優しい夫が生まれて来る赤子を殺すだなど考えるはずがないと予見していた
「では、せめてお子をお生みになられるまで、あや様には心の安寧を保障してあげとうございます。女が子を産むのは簡単なことではございません。清洲があのようになってしまった今、心も不安定になっているかと存じます。ですので、できるだけ心と体の負担を軽くしてさしあげたいのです」
真剣な目をして訴える帰蝶に、信長はまじまじと眺める
「お前は、心根の優しい女だな」
「 え・・・?」
「今日、初めて逢ったんだろ?」
「はい」
「それなのに、そんなにも岩室のことを心配してる。そうそうできるもんじゃねーぜ?」
「そう・・・でしょうか。なつが日頃から気に掛けていたので、感情移入しただけだと想います」
「それでも、お前は優しいな」
「 」
言葉と同じく優しい微笑みで自分を見詰める夫に、帰蝶はやはり照れ臭さが勝(まさ)って真っ直ぐ見詰め返されず、少し目を落とす
「清洲だが」
「はい」
「少し荒れてしまってな」
「伺いました。天主に小火が起きたそうで」
「修繕の具合も見て来たが、斯波が住んでた頃の痛み具合も合わせてな、少しばかり日数が掛かりそうだ」
「そうなんですか」
「局処の方はそれほどじゃないようだが、俺が住む場所が無え・・・」
「それは大問題ですね」
気落ちする信長の仕草が面白くて、帰蝶はつい吹き出してしまった
「女に混じって、局処で暮らしますか?」
「そうしたら毎日、なつにからかわれる」
「ああ・・・、それは私も耐えられません・・・」
「だもんで、修繕が粗方片付くまで、もうしばらくここで暮らすことにした」
「はい、承知しました」
「叔父貴には俺達が移ってから那古野を譲渡するから、まぁぼちぼち片付けててくれ」
「はい」
「岩室のことは、なつと相談してお前が決めてくれ」
「良いんですか?」
「男の俺があれこれ口を挟むより、同じ女のお前が考えた方が岩室のためにもなる」
「 ありがとうございます」
夫の、精一杯の誠実な言葉に、帰蝶は畳に指を揃えて頭を下げた
指先にぽたりと、一滴の涙が落ちるのが見える
そんな、他人のために涙を流せる妻が愛おしく感じた
信長は盃を盆の上に置き、帰蝶を抱き寄せる
「きっ、吉法師様・・・ッ」
「良いだろ、今日ぐらい月が出てなくとも」
「そ、そうじゃなくて、私・・・ッ」
いきなり抱き締められ、躰が前のめりに倒れるのをそのまま抱きすくめられ、身動きが取れなくなる
帰蝶は踏ん張ることもできず益々焦った
「にっ、匂いますから・・・ッ」
「匂う?」
帰蝶の言葉が理解できず、キョトンとする
「何がだ?」
「わ・・・、私が・・・」
「お前が匂うのか?」
「そう言われました・・・」
「誰に」
「 」
義理の弟に公衆の面前で抱き寄せられ、匂いを嗅がれた、などと、言えるはずがない
黙り込む帰蝶を完全に腕の中に封じ込め、信長はその香りを嗅いだ
それから一呼吸置いて言う
「うん、匂うな」
「 やっぱり・・・。お風呂には毎日入ってるつもりなんですが、湯浴みだけでは駄目なんですね・・・」
がっかりするやら、女が匂うと言われて恥しいやら悲しいやら、落胆した顔で応える
だが、信長は意外なことを続けた
「良い匂いだ」
「 え・・・?」
「いつも想ってる。お前、特にこれと言って香とか付けないだろ」
「はい・・・」
「化粧も基本、嫌いだしな」
「はい・・・」
これは「女らしくない」と、いつもお絹から小言を言われている
「白粉の匂いじゃないし、香油の匂いでもない。なんだろうな、お前からは自然の匂いが立ち籠めてるんだ」
「自然の香り・・・?」
「なんだろう。花とかの類じゃないし、かと言って人工的なもんじゃない。香木の匂いでもないし、ほんと、なんだろうな。ほんのり甘い、良い匂いだ」
「 」
わからない帰蝶は応えられない
そんな帰蝶に顔を近付け、囁くように信長は言った
「知ってるか?」
「なんですか?」
「お前、躰の熱が上がったらその匂いが余計、強くなるんだよ」
「え・・・?」
「試してみるか?」
「え 」
どうやって、と聞く前に、信長は帰蝶の口唇に自分の口唇を重ね、何も言えなくしてしまう
少し驚いたが、夫とこうしているのは嫌いじゃない
寧ろ互いの気持ちを確認し合えて嬉しいし、気分も良くなる
帰蝶は黙って全身で信長を受け入れた
「床・・・、敷きますか・・・?」
口付けの合間に訊ねる
「暇が勿体ねぇ」
「どんなケチり方ですか」
おかしくて笑いたいのをまた、口付けで塞がれる
信長は帰蝶をそっと横たえ、その華奢な躰の上に乗った
やがて衣擦れの音がして、周囲の宴席の賑やかな声だけが響き渡る
夫とこうしていると、心も躰もとろけて行く
どれだけ夫を愛しているか、嫌でも自覚する瞬間だった
「明智殿」
可児の中心から少し外れた、ほとんど御嵩に近い場所で、光秀はその人物と面会した
相手は同じ可児の豪族、土田政久
政久の父が本筋である平左衛門の父から土田の家督を奪った経緯はあるが、政久自身は人柄の優れた人物である
「土田殿」
少し寂れた寺に、隠れるようにして入った
光秀の側には小姓の三宅弥平次、そして、見慣れぬ老人も同伴している
「態々申し訳ございません」
「いいえ、とんでもない。尾張の事変、伺っております。それよりも、こちらは」
と、光秀の後ろに立っている入道姿の老人に目をやった
「こちらは斎藤家家臣、武井夕庵様でいらっしゃいます」
「武井・・・夕庵・・・様・・・」
道三の、側近中の側近の名である
そう軽々しく下々の者と面会するような人物ではないことぐらい、政久でもわかった
驚きに目をいっぱい広げる
「とある方の名代で、明智の若様にあなたとの面会の仲介をお願いいたしました」
「とある方の名代・・・?」
「詳しくは、ひとまず落ち着いてから」
「 」
夕庵の言葉に、政久は頷いた
小さな寺のその本堂を借り、密会に密談を重ねる
「それで、お話とは」
「土田殿もご存知でしょうが、斎藤家の内部で分裂が起きております」
「はい・・・。倅から伺っております・・・。斎藤の若様に与するように、と・・・」
どこまで話せば良いのか、考えあぐねながら応えた
お陰で顔色が頗る悪い
「土田殿の内政に干渉する気は毛頭ございません。得をする方に着くのは世の倣い、こちらに味方せよとは強要いたしません。ですが、今一度お考え頂きたいのです」
「何を・・・でしょうか・・・」
「このまま一族で新九郎様に与することは、間違いではないのかと言うことです」
「間違い・・・」
「尾張の事変はもうご存知と仰っておられましたね?」
「はい。勝幡織田の若き惣領が、尾張守護代を倒したと」
守護代が守護を自害に追い遣ったのだから、これは正当な仇討ちである
誰からも非難されるべきことではないと同時に、よく練られた策略であることも自ずと見えた
「その、織田の若き惣領に、斎藤の姫君様が嫁がれているのもご存知ですよね?」
「はい、存じております」
「もしも土田家がこのまま新九郎様に味方すれば、尾張の織田が土田家に対して牙を剥くでしょう。それを否定することなどできません」
「織田が、土田を・・・。ですが、私の妹が、織田に嫁いでおります。その妹が織田の惣領の母親なのですよ?それなのに、ですか?」
政久の顔色が益々悪くなった
「勝幡織田の惣領と、そのご生母様の折り合いが悪いことは、ご存知ですか?」
「 ご次男を特に寵愛していることは、存じております。そのため、嫡男である惣領様を邪険にしていると・・・」
「こちらでも独自に調べさせていただきました」
「え・・・?」
「織田惣領殺害を企て、斎藤姫君帰蝶様をご次男の妻に娶る算段だと」
「そっ、そんな・・・!」
そこまでの話は、さすがに聞かされていない
どう反応すべきか全くわからなかった
「惣領を殺してしまえば、尾張の半分は自然と手に入る。しかも、美濃の姫君を娶れば、何れ美濃の国主にも一歩近付く。土田家は何を見返りに新九郎様に味方すると約束されたのでしょうか」
「わ、私は何も・・・!」
全て、倅が勝手にやってることだとでも言いたげな顔をする
少し間を置いて、夕庵が口を挟んだ
「 私は、斎藤帰蝶様のお目付けをやっておりました」
「武井様が・・・」
「姫様のご気性は、嫌と言うほど熟知しております。仏のような優しさと、鬼のような残酷さを合わせ持っておられるお方です。いえ、あなたを脅すつもりではなく、これは紛れもない事実でございます」
「それで・・・」
自分にどうしろと言うのだと、言いたげな顔を向ける
「もしも土田家が若の味方のままでおられたら、間違いなく次の標的は、土田家」
「うちが・・・?」
「尾張守護・斯波を自害に追い遣った大和守家織田を討伐に成功。その結果、勝幡織田は清洲の領地も含め尾張四郡を手に入れました。次は岩倉の伊勢守織田、と言いたいところですが、姫様は可愛げがないほど抜け目がない。明智の若様と挟撃する算段が立ってしまっているのです」
「え・・・?」
「こちらは手の内を話しました。ですので、土田殿にも本音で仰っていただきたい」
夕庵に代わって光秀が話す
「私と斎藤の姫様は、幼い頃から共に道三様の薫陶を受けて育ちました。私が武将、彼女を軍師に見立てた教育ですが、彼女の軍略は大変優れたものであります。ですので、もしも姫様が土田家を標的に定めたならば、逃れる術はございません」
「そんな・・・ッ」
親としての誇りもある
よもや「倅が勝手に進めた話だ」と、責任逃れしようとは考えられない状態だった
「姫様のご主人は、既に尾張四郡を切り取った実力の持ち主。一方の新九郎様はまだ実績すらない。土田家としても、尾張守護代か、土岐の威光を着た者か、選ぶのに難いでしょうが」
「 」
考える暇をくれと言わんばかりに、政久は俯いた
その姿を見て、最後の一押しと光秀は懐から一包みの手紙を取り出す
「これは尾張に嫁がれた姫様から直々に頂いた手紙です」
「姫様から・・・・?」
「お読みして、よろしいでしょうか」
「 」
声が出ず、久政は黙って頷いた
「この度、我が夫はその力を以って尾張を切り開いた。これにより、大和守家に代わって尾張の守護代となり、主家・斯波家を盛り立てる所存である。しかしながら、実家である斎藤で騒動が起きれば夫の負担となり、名誉も損なわれる結果となる。我が夫は比類なき律義者であると同時に、無類の愚直(正直)者でもある。妻の実家で騒動が起きれば、どちらに味方するかは明白である。できる限り早急に、穏便に済ますことを切に願う。斎藤帰蝶。明智十兵衛様」
読み終わり、光秀は間違いないことを証明するため、政久に広げて見せた
流麗な美しい女文字である
確かに末尾に『斎藤帰蝶』とあった
疑う余地などない
「今直ぐにとは、申しません。土田殿にも考える暇(いとま)は必要でしょう。ですので、どうかじっくりとお考え下さい」
「明智殿・・・」
「あなたに平穏な日々が戻ることを、祈っております」
「 」
綺麗な微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる光秀の表情に絆されそうになる
重ねた肌と、重ねた掌と、重ねた口唇、重ねた心が一つになる瞬間
大きく痙攣し、暗闇から一気に光を浴びせさせられる
眩い光景は真っ白で、その中でぼんやりと夫の顔が浮かんだ
「はぁ・・・」
一仕事を終えた躰に汗が浮かび、短い吐息の後、信長は帰蝶の胸元に頬を乗せた
「 ほらな」
「え・・・?」
「お前の匂い。強くなってる」
「 そうですか・・・?」
情を交わした後の声は、互いに少し掠れ、少し小さい
「心地良い匂いだ。ずっと嗅いで居たい・・・」
「吉法師様・・・」
「お前のこの匂いを嗅いでる間、俺はこの世で一番の幸せ者だって気になれる。離したくない・・・」
「嬉しい・・・」
愛情の籠った信長の言葉に、帰蝶は下からぎゅっと夫を抱き締めた
帰蝶も幸せだった
例えるなら、まるで夢を見ているような、そんな気分にさせられる
夢
そう
夫の夢が一歩、近付いた
身分の壁を壊すのは容易なことではない
それは難しく、不可能な話なのかも知れないだろう
それでも実現しようと、もがきながら前進する夫が誇りだった
夫と共にこの時代に生まれた幸運に感謝しながら、帰蝶はその体温に包まれ目を閉じた
幼い頃の夢を見た
膝の上で、父に難しい話を聞かされている夢だった
時々、『土岐』の名前が出ていた
目の前にはよく見知った顔がたくさん並んでいる
武井夕庵、堀田道空、小牧道家、猪子高就
恵那の父の林通安、元服したての光秀と、いつも自分を庇ってくれた叔父、光安
利三の父の利賢、長井の叔父、道利
それから、兄の義龍
隣に目をやれば、そこに利三が座っている
ほっとした瞬間、全員が向こう側に立った
「 ッ!」
驚いて、目を覚ます
気が付けば、二人で羽織っただけの小袖の下の全身から、汗が吹き出ている
隣の夫はまだ安らかな寝息を立てていた
障子の向こう側が、暗い赤に染まっているのがわかる
夕刻なのだろう
あの夢は一体自分に何を訴えようとしているのか
帰蝶は眠っている夫の頬をそっと撫でた
何があろうとも、夫だけは守ってみせる
その目はそう、誓っていた
『鷹の目』で
夫の無事を確認しようと、表で待っていたお能が時親を出迎える
「ただいま」
時親の微笑みに、お能も弾ける笑顔で応えた
「奥方様は?」
「あそこに」
松風の上で、乱れた髪を手櫛で梳きながら城に戻って来る帰蝶の姿を目にし、無事であったことにほっとする
「お帰りなさいませ、奥方様。ご無事で何よりです。おなつ様が、首を長くしてお待ちですよ!」
「説教と一緒に待ってるんでしょ?」
帰蝶の、先を見透かした物の言い方に、お能は苦笑いした
清洲攻略は信長側の勝利で終わり、可成は帰蝶から頼まれていた岩室あや保護のため、一足先に局処に向かった
勝手知らぬ他人の城であるため、局処まで政綱に案内を頼む
自分達より先に城に踏み込んだ信光の部隊が、早速乱取りに取り掛かっているのがあちらこちらで見えた
数人係りで強姦されている女を見るのは忍びないが、可成にとってはある程度見慣れた光景でもある
最も、土岐家臣時代に経験したことばかりで、乱取りを行なうのは斎藤側、可成は乱取りに遭っている女を何人か助けた経験はあるが、自身が乱取りを行なったことはなかった
男を揮わせるような光景ではあるが、それに参加している場合ではない
帰蝶に頼まれた、岩室あや救出が先決である
「森殿!」
遠くで政綱の父、弥次右衛門に呼ばれ、可成は配下の者を連れ小走りに駆けた
「こちらです、急いで」
「承知した」
弥次右衛門を先頭に走り出し、やがて目的の部屋の前に辿り着くと、蒼白顔の弥次右衛門が襖の向こうを指差す
辺りでは乱取りがされていると言うのに、ここだけは人影も疎らだった
その部屋の中央で揉み合っている男女の姿が見える
女の手を掴み、無理矢理立たせようとしている男の姿が映った
「来い!」
「いやッ!嫌です!」
押し問答をしている二人を遠巻きに、弥次右衛門が告げる
「あの方が、森様の探しておられる岩室あや様です」
「あれが・・・」
花が香るとは、このことだろうか
遠目で見てもその美貌は際立っていた
信長の父がぞっこん惚れ込み、一時は相当に入れ込んでいたと聞かされたのも、満更嘘ではないような気にさえなって来る
床に這い蹲り、自分と共にするのを抵抗するあやに、信友の刀が振り下ろされる
その刀を間一髪のところで槍で受け流す
「岩室あや様でらっしゃいますね?」
「あなたは
「いかなる理由があろうとも、主人を殺害に至る経緯は許しがたい所業である」
城に入り、義統自刃の始末を付けるため、大和守信友を問答無用で自害に追い遣る
これで義銀は晴れて親の仇を取れたのだが、まだ若いため再び尾張守護に返り咲くことは無理だろう
信長が信光と共に清洲城に上がった後も、まだあちらこちらで小競り合いが起きている
女の集まる局処でも騒乱が起き、乱取りは未だ終結していなかった
先ずは信友の始末が先と、気がそちらに回っており、信長ですら与り知れぬ騒動であった
裏で手を回していたとは言え、漸く手に入れた清洲である
想い巡るのも一入であろうか
「犬千代」
「はいっ」
「那古野に戻り、帰陣は夕刻にすると伝えてくれ。改修したい各所の縄張りをしてから帰る」
「承知しました」
小競り合いとは言え、城にも多少の傷は入った
それを修繕する場所を確認しておかないといけない
だが、それを伝えた直後、本丸で小火が起きた
「
「そうですね・・・」
疲れ切った顔をする信長に、利家も頭から汗を浮かばせる
一足先に戻った帰蝶は、湯殿で汗を流した後、なつに髪を梳いてもらっていた
「随分乱れ切ってしまって。まるで頭を振り乱したようですよ」
「形振り構ってられなかったから」
「形振り構ってられないようなことでも、起きたのですか?」
「大したことじゃないわ。些細なことよ」
まさか信勝の部隊に取り囲まれたなどと言えるはずもない帰蝶は、取り繕った言い訳をする
「余り、無茶をなさらないで下さいね」
「でも、時には無茶をしなくては手に入らないものだってあるのよ」
「清洲は若が何れ、手に入れたでしょう。奥方様はまるで、生き急いでいるように見えます」
「まさか。そんな人柄じゃないわ」
と、なつは心の中で否定した
娘と言っても過言ではない年齢の帰蝶が、愛しくて仕方ない
同時に、その危うい気性にも心配する
何処の奥方が先陣を切って戦場を駆け抜けると言うのか
後から戻った恒興が、恐縮しながらそれを話した
やはり想った通りと内心、怒りにも似た感情が込み上げる
『正妻』と呼ばれる女は腐るほど居ても、『斎藤帰蝶』と言う人物は、この世に一人きりしか居ないのだから
最早取替えの効かない存在になっている帰蝶には、危険な行為は取って欲しくなかった
擬似母としての、素直な気持ちだろうか
「そう言えば、蝉丸を放ったのは、なつ?」
「いいえ、存じません。見てみましたら、小屋の裏の木枠が腐って崩れておりました。目立たない場所でしたし、突付いた後も見受けます。恐らく日頃から蝉丸が突付いていたのでしょうね。今、修繕の手配をしております」
「そうだったの。てっきり、なつが気を配って放ってくれたのかと想ったわ」
「蝉丸は賢い子です。私に訴えるよりも、自力で抜け出した方が早いと想ったのでしょうね。私も奥方様を見送った後、局処ではなく台所に向いましたから、蝉丸の小屋の前は通らなかったんです」
「そう言うことなのね」
しばらくは他愛ない話が続き、やがてなつは哀願の想いを込めて言った
「兎に角、清洲は落ちたのでしょう?」
「そうね。吉法師様から正式な報告が上がると想うのだけど、間違いないでしょう」
「なら、これを機会にしばらく、大人しくなさってくださいね」
釘を刺すようななつの言い方に、帰蝶も素直に従うしかない
「はぁい」
不承ながらの口調で返事した
そこへ庭先から犬千代の声がする
「奥方様、ご報告です」
「お帰りなさい。首尾はどうですか」
「万事上手く。それと、岩室あや様を保護しました」
「あや様を?本当ですか?」
帰蝶の櫛を握ったまま、なつが縁側に駆け出る
「明日、ご一緒にお連れします」
「明日?今日じゃないのですか?」
「大和守の残党がまだうろうろしておりますので、少人数での移動は困難。それと、本丸に小火が起きまして、それの後始末と清洲城の修復普請もやりたいと、殿が申されておりまして」
「そうですか。小火が起きたのですね」
後から帰蝶も縁側に出る
「奥方様がお戻りになられた直後です。本丸で略奪が起きまして」
「勝幡が起したのですか?」
「いいえ、清洲側です。脱走の際、金目になるものでも漁っていたようで、その小競り合いで発火しまして」
「火が付くって、どんな小競り合いよ」
苦笑いしながら、利家の報告を聞く
「お戻りのご予定は、明日の正午の見通しです」
「承知しました。その準備をしておきましょう。犬千代は取って返して吉法師様に伝えて。あや様の受け入れ準備もしておきますので、どうか道中お気を付けて、と」
「承知しました」
翌日になり、信長が信光、信勝を連れ凱旋した
「お帰りなさいませ。ご無事の帰還、執着至極に存じます」
「疲れた」
出迎える帰蝶に凭れ掛かるように抱き付く
「本丸で小火が起きたとか」
信長を抱きかかえながら聞く
「天主だ。改修が大変だぞ」
「ご愁傷様です」
「叔父上と勘十郎を連れた。歓待してくれ」
「表座敷で祝勝会の用意ができております。いつでもどうぞ」
帰蝶の微笑みを目に、信長も漸く一息つけた
共に連れ立った岩室あやの出迎えに、同じ信秀側室出身のなつが持ち受ける
その姿になつは、兎に角先に躰を休ませることにした
表座敷では祝勝会が始まり、そこで清洲城に一番入城した信光から、清洲城譲渡が行なわれる
代わりに信長からは、この那古野城を信光に譲渡することを宣言された
義統の子供達の処遇は信長に一任され、当面は信長が尾張の国政を賄うことになった
体(てい)の良い乗っ取りになるが、だからと言って尾張の守護になったわけではない
朝廷が認めて、初めて尾張の国主である
今のところは大和守信友を討ち取った功績を買われての、守護代でしかない
それでも若い守護代に変わりはなく、帰蝶は素直に喜んでくれた
一方の局処では、あやとの謁見が行なわれる
数多の男を骨抜きにしてしまうほどの美貌を誇ると聞かされていたが、確かにそうだろうと感じさせるほどの、美しい女御だった
「織田信長妻、斎藤帰蝶でございます。お初にお目に掛かります」
「岩室あやでございます。この度は過分な保護、ありがとうございます」
あやも疲れているのだろう、言葉に覇気はなく顔色も悪い
それもそのはずだった
腹がぽっこりと浮いている
帰蝶は恐れることなく聞く
「大和守様の、お子ですか?」
あやは震えながら頷いた
主家殺しと言っても過度ではない行いをした信友の子とあれば、生まれたら直ちに殺されても文句は言えない
「如何なされたいとお考えですか」
「
真剣に耳を傾けないと聞こえないような、小さな声である
「ご実家に戻られますか、それとも」
「できれば、治部大輔様の菩提を弔いとうございます・・・」
実家に戻ってもまた、政略の道具になるのを待つ身になるだけ
それに疲れたあやは、戻ることを拒否した
「吉法師様と相談してみます」
「よろしくお願いします・・・」
泥のように重く感じる体に鞭打って、あやは深々と頭を下げた
自分より二つ三つ上だろうか
あるいは夫より少し年上なだけだろうか
それでもまだ若い女のする表情ではなかった
まるで年増にまで上り詰めた女の顔をするあやに、帰蝶は心中複雑な想いを浮かばせた
帰蝶が局処であやと謁見をしている頃、表座敷では始めは祝勝会であったものが、やがては戦総論となってしまった
論題は、信勝の軍律違反である
信長の部隊の邪魔をした上に、命じていない行動までやっている
帰蝶の詰めていた寺に押し入ったことがそれだ
「寺の庭先が乱れたと、苦情が出ている」
「戦列の乱れを戻すため、散らばった兵を集めておりました。そのため、後詰部隊の居た寺に入ったのは事実ですが、乱すために押し入ったのではありません」
信勝の顔は見るからに不機嫌だった
それもそうだ
謂れのないことで叱責を受けるのだから、仕方がないだろう
「理由より結果だ。寺の賠償をこちらで受け持たねばならなくなった。予想外の出費だな」
「戦に予想外の出費は付き物でございましょう?過分だとおっしゃるのでしたら、こちらで負担しますが」
「どちらが金を払うかの話ではない。お前の部隊が列を乱したことが問題だと言ってるんだ」
「兄上の部隊にまで雪崩れ込んだことは認めますが、それには理由がございます」
「聞こうか。言い訳ではないことを祈るがな」
「お言葉ながら、こちらも予期せぬ邪魔が入り、止むを得ず兄上の陣に流れてしまっただけのこと。私を責めるのであれば、私の陣に雪崩れ込んで来た者も同様に扱いくださいませ」
「邪魔?誰だ」
「わかりません。どなたかのお小姓さんかと想われます」
「小姓?」
「半首と頬当が一体化したような防具を付けておられました。髪は長く、側には一羽の鴉」
「鴉なら、帰蝶が飼ってる。しかし、蝉丸は連れて行ってないぞ」
「心当たりはございませんか」
「
信長はしらっとした顔で白を切る
そんな兄を信勝は、上目遣いで睨んだ
「兎に角だ、しばらく大人しくしていろ」
「
承服しかねる顔をして、信勝は黙って頭を下げた
とてもではないが、酒を飲んでいられる気分ではない
背後から紛れ込んだ信長の部隊の小姓らしき武将に邪魔され、手柄は取り損ね、公然の目の前で受ける必要のない叱責を受けたのだから、優等生の信勝には許しがたいことであった
憮然とした顔をして、城を出ようと廊下を歩く
その廊下で、なつ、お能を先頭に数人の侍女を引き連れた帰蝶と出くわす
「
「義姉上様」
相変わらず美しい姿の兄嫁に、信勝は黙って会釈した
「祝勝会は、如何なさいましたか?」
あんなことを強要した自分に対しても、その表情は崩れない
涼やかな顔付きだった
「こちらの不手際がございまして、兄上からお叱りを受けたばかりです。反省しようと、早退させていただきました」
「まぁ、勘十郎様が不手際?信じられないことです」
「
梅雨前の、あの、蜜月にも似た密会を想い出す
それと同時に、帰蝶の香りも想い出した
「失礼します」
「え?」
有無を言わさず帰蝶の手首を掴むと、信勝は抱き寄せ、その首筋に鼻先を押し当てた
「
周りにはお能やなつ、それ以外にも大勢の侍女が付いている
その目の前で何と言う不埒なことをと、帰蝶の顔が真っ赤に染まった
「な、何をなさいます・・・!」
「失礼ですが、義姉上様は香でもお付けになっておられますか」
「
そんなもの付けていないと言いたげに、帰蝶は首を振った
「匂いますよ。とても強い匂いだ」
「匂い・・・?」
「戦場に居れば、直ぐにでもわかってしまうような、そんな香りです」
「知りません、そんなもの・・・ッ」
「そうですか。失礼しました」
信勝はあっさり帰蝶を手放し、なつから苛烈な睨みを受けながらも飄々とした顔で会釈し、立ち去った
「大丈夫ですか?奥方様」
「ええ・・・。でも・・・」
信勝が鼻先を擦り付けた首筋を、拭うように撫でる
信勝の言った、『匂い』と言うのが気になった
「なつ・・・。私、匂う・・・?」
「え?」
汗臭いのかと心配になり聞いてみる
なつは帰蝶に鼻を近付け、くんくんと嗅いだ
「別に何も匂いませんが?」
「そう・・・。でも、勘十郎様は匂うって・・・。相当臭いのかしら」
「若にでもお聞きになったら如何です?」
「私、臭いですか?って?」
「それ以外、どんな表現がありますか?」
「
きっぱり言い切るなつに、帰蝶の頭からは汗が浮かび出た
「今日は祝賀よ。台所も少し休んで、祝ってちょうだい」
日頃目を掛けることも少ない台所の女達に、甘酒を振舞うため侍女を引き連れてやって来た
「干し柿もどうぞ」
と、肴にたくさんの干し柿を渡す
お返しに、信長が持ち帰った清洲のにごり酒をもらってしまう
「これじゃ、お裾分けにならないですね」
そう苦笑いするなつに、帰蝶も同じ苦笑いで応えた
那古野城はどこもかしこもお祭りのような賑わいを見せる
それもそのはず
長く自分達を支配して来た大和守家を討伐しただけでなく、漸く日の目を見ることができるのだから
主従の逆転は下剋上しかありえなかったこの時代、信長のように正当な理由を以って引っ繰り返した者はいない
誰もが羽目を外すのを、咎める者もいなかった
局処でもささやかな宴会が始まる
お目付けでもあるお絹は、別室で気の合う仲間同士酒盛りをしていた
日頃の憂さが相当溜っているのか、かなりの騒がしさである
那古野に到着したばかりのあやは、体の方も本調子ではなく、また、自分の暮らしていた城が落ちたことを祝う祭りに参加する気にはなれず、離れの母屋に移動し、そこで休んでいた
帰蝶の部屋にはいつもの面子が揃う
なつを筆頭にお能、菊子、恵那
帰蝶の身の周りの世話をする侍女達は、お絹と同じく別室で盃を傾けている
「本当に、夢のようです。これで殿も、晴れて大名の仲間入りですね」
「今はまだ小さいでしょうが、吉法師様なら大丈夫。いつか必ず斎藤にも負けない、立派な大大名になられます」
帰蝶は自信の溢れる顔で、喜ぶお能に返した
「あの方は、小さな豪族で納まる器ではありません。いつか、必ず天下に名を知らしめるお方になられます」
「お熱いことで」
夫をのろける帰蝶に、なつは冷やかした声で告げた
「煩いわね、なつは」
からかわれ、帰蝶は頬を赤くして目を吊り上げる
そこへ噂の張本人、信長が顔を覗かせた
「ここも賑やかだな」
「殿」
「吉法師様」
「若」
其々が其々の呼び方で信長を呼ぶ
「局処もあっちこっち、賑わってるな」
「はい、今日は無礼講です。みんなでこの良き日を祝いたくて」
「そうか」
満面の笑みで応える帰蝶に、信長も笑顔を崩さない
その信長は、片手に酒の入った大きな徳利を持っている
きっとここで飲む気なのだろうと、最初になつが立ち上がった
「では、私達は退散しましょう。夫婦水入らずでどうぞ、ごゆっくり」
「ごゆっくり」
「ごゆっくり」
なつの言葉の後を追うように、お能、菊子、恵那も立ち上がりながら声を掛ける
それが滑稽でおかしい
「変な気を利かさないでっ」
帰蝶の顔が益々赤くなる
「ははは!すまんな、お前達」
襖を閉め、
「じゃぁ、続きは私の部屋でしましょうか」
と言う、なつの声が聞こえるのを、信長と帰蝶は顔を見合わせて微笑んだ
「座敷の方は、よろしいのですか?」
「酒さえ飲めれば、俺が居なくても大丈夫だろ。それに、ゆっくりしたいしな」
「そうですか」
帰蝶のすぐ側に腰を下ろし、持ち込んだ徳利を下ろす
「お注ぎします」
「ああ」
誰が使ったかわからないが、薄っすら紅の付いた盃を軽く拭い持ち直す信長に、帰蝶は手にした徳利を傾けた
ほんのり白く濁った酒が注がれる
「現実かな・・・って、さ」
羽根を広げた鷹が、心休まる巣の中で寛ぐような、そんな光景だった
膝を崩し、帰蝶の注いでくれる酒を煽る
今日はいつもより酒が美味かった
「信じられませんか?」
「大和守を蹴落とすなんて、夢にも想ってなかった。勿論、そんな野心がなかったわけじゃない。でも俺は、精々大和守の下で切り取った領地を守ることで一生が終わるんだって想ってた」
「でも、この国を変えたいと言う夢は、捨て切れなかったのでしょう?」
「当たり前だ。でもな、それには先ず何をどうすれば良いのか、ずっとわからないままだった。戦をするのは簡単だ。でも、それには民をどうしても巻き込んじまう。俺は親父みたいに外交が上手いって訳じゃない。やっぱり拳で語るしか方法が想い付かねぇ。野蛮だってわかってるけどな、染み付いちまったもんは擦っても落ちねぇんだよ」
「そんなことありません。吉法師様が野蛮だなんて、そんなことありません」
「帰蝶・・・」
「いつも民のことを気に掛けて、どうすればみなの暮らしが豊かになるのか、そればかり考えてらっしゃる吉法師様が野蛮だなんて、何処の誰が言ってるんですか。この帰蝶が許しません」
「ははは、別に誰が言ってるわけじゃねえよ。俺が俺自身、そう感じてたことだ」
「だったらそのようなお考え、今直ぐお捨て下さい」
食って掛かる帰蝶に、信長は困惑しながら笑う
「わかった、わかった。お前に掛かると、この吉法師も形無しだな」
「吉法師様・・・」
自分の勇ましさが恥しくて、帰蝶は頬を赤くして俯いた
「でもな、この戦でわかったことがあるんだ」
「わかったこと?」
まだ桃色に染まる顔を上げ、帰蝶は聞き返した
「何のために生き、何のために死ねるか。その答えを得た時、人は今より強くなれる」
「
帰蝶の目が見開かれる
当たり前のようなことなのに、今の今まで考えたこともなかった
「何のために生き・・・、何のために死ねるか・・・」
「俺は、尾張の発展のために生き、尾張の民が幸せに成るんだったら死ねる」
「吉法師様・・・」
「まぁ、できれば、お前と余生をのんびり過ごしたいが、な?」
「
にかっと笑う信長に、帰蝶も照れ臭さに微笑みながら俯いた
「そうそう。なつからも言われてたけど、岩室の娘、斯波の菩提を弔いたいって?」
「
「なんでまた」
「戻られてもまた、次の嫁入り先を待つ身に落ちます。それに、お腹には大和守様のややが」
「ああ、それも聞いた。親父の子なら保護できるが、信友の子となれば出家か、あるいは後顧の憂いを取り外すための人柱になってもらうしかねぇ」
「ならばどうか、出家の道を選ばせてあげてくださいませ」
「まぁな、生まれたばっかりの赤ん坊を殺すってのも、気が引けるしな。俺としても大人しく出家してくれりゃ別にガタガタ言う気はねぇよ」
気の良い信長ならではの意見だった
帰蝶とて、気の優しい夫が生まれて来る赤子を殺すだなど考えるはずがないと予見していた
「では、せめてお子をお生みになられるまで、あや様には心の安寧を保障してあげとうございます。女が子を産むのは簡単なことではございません。清洲があのようになってしまった今、心も不安定になっているかと存じます。ですので、できるだけ心と体の負担を軽くしてさしあげたいのです」
真剣な目をして訴える帰蝶に、信長はまじまじと眺める
「お前は、心根の優しい女だな」
「
「今日、初めて逢ったんだろ?」
「はい」
「それなのに、そんなにも岩室のことを心配してる。そうそうできるもんじゃねーぜ?」
「そう・・・でしょうか。なつが日頃から気に掛けていたので、感情移入しただけだと想います」
「それでも、お前は優しいな」
「
言葉と同じく優しい微笑みで自分を見詰める夫に、帰蝶はやはり照れ臭さが勝(まさ)って真っ直ぐ見詰め返されず、少し目を落とす
「清洲だが」
「はい」
「少し荒れてしまってな」
「伺いました。天主に小火が起きたそうで」
「修繕の具合も見て来たが、斯波が住んでた頃の痛み具合も合わせてな、少しばかり日数が掛かりそうだ」
「そうなんですか」
「局処の方はそれほどじゃないようだが、俺が住む場所が無え・・・」
「それは大問題ですね」
気落ちする信長の仕草が面白くて、帰蝶はつい吹き出してしまった
「女に混じって、局処で暮らしますか?」
「そうしたら毎日、なつにからかわれる」
「ああ・・・、それは私も耐えられません・・・」
「だもんで、修繕が粗方片付くまで、もうしばらくここで暮らすことにした」
「はい、承知しました」
「叔父貴には俺達が移ってから那古野を譲渡するから、まぁぼちぼち片付けててくれ」
「はい」
「岩室のことは、なつと相談してお前が決めてくれ」
「良いんですか?」
「男の俺があれこれ口を挟むより、同じ女のお前が考えた方が岩室のためにもなる」
「
夫の、精一杯の誠実な言葉に、帰蝶は畳に指を揃えて頭を下げた
指先にぽたりと、一滴の涙が落ちるのが見える
そんな、他人のために涙を流せる妻が愛おしく感じた
信長は盃を盆の上に置き、帰蝶を抱き寄せる
「きっ、吉法師様・・・ッ」
「良いだろ、今日ぐらい月が出てなくとも」
「そ、そうじゃなくて、私・・・ッ」
いきなり抱き締められ、躰が前のめりに倒れるのをそのまま抱きすくめられ、身動きが取れなくなる
帰蝶は踏ん張ることもできず益々焦った
「にっ、匂いますから・・・ッ」
「匂う?」
帰蝶の言葉が理解できず、キョトンとする
「何がだ?」
「わ・・・、私が・・・」
「お前が匂うのか?」
「そう言われました・・・」
「誰に」
「
義理の弟に公衆の面前で抱き寄せられ、匂いを嗅がれた、などと、言えるはずがない
黙り込む帰蝶を完全に腕の中に封じ込め、信長はその香りを嗅いだ
それから一呼吸置いて言う
「うん、匂うな」
「
がっかりするやら、女が匂うと言われて恥しいやら悲しいやら、落胆した顔で応える
だが、信長は意外なことを続けた
「良い匂いだ」
「
「いつも想ってる。お前、特にこれと言って香とか付けないだろ」
「はい・・・」
「化粧も基本、嫌いだしな」
「はい・・・」
これは「女らしくない」と、いつもお絹から小言を言われている
「白粉の匂いじゃないし、香油の匂いでもない。なんだろうな、お前からは自然の匂いが立ち籠めてるんだ」
「自然の香り・・・?」
「なんだろう。花とかの類じゃないし、かと言って人工的なもんじゃない。香木の匂いでもないし、ほんと、なんだろうな。ほんのり甘い、良い匂いだ」
「
わからない帰蝶は応えられない
そんな帰蝶に顔を近付け、囁くように信長は言った
「知ってるか?」
「なんですか?」
「お前、躰の熱が上がったらその匂いが余計、強くなるんだよ」
「え・・・?」
「試してみるか?」
「え
どうやって、と聞く前に、信長は帰蝶の口唇に自分の口唇を重ね、何も言えなくしてしまう
少し驚いたが、夫とこうしているのは嫌いじゃない
寧ろ互いの気持ちを確認し合えて嬉しいし、気分も良くなる
帰蝶は黙って全身で信長を受け入れた
「床・・・、敷きますか・・・?」
口付けの合間に訊ねる
「暇が勿体ねぇ」
「どんなケチり方ですか」
おかしくて笑いたいのをまた、口付けで塞がれる
信長は帰蝶をそっと横たえ、その華奢な躰の上に乗った
やがて衣擦れの音がして、周囲の宴席の賑やかな声だけが響き渡る
夫とこうしていると、心も躰もとろけて行く
どれだけ夫を愛しているか、嫌でも自覚する瞬間だった
「明智殿」
可児の中心から少し外れた、ほとんど御嵩に近い場所で、光秀はその人物と面会した
相手は同じ可児の豪族、土田政久
政久の父が本筋である平左衛門の父から土田の家督を奪った経緯はあるが、政久自身は人柄の優れた人物である
「土田殿」
少し寂れた寺に、隠れるようにして入った
光秀の側には小姓の三宅弥平次、そして、見慣れぬ老人も同伴している
「態々申し訳ございません」
「いいえ、とんでもない。尾張の事変、伺っております。それよりも、こちらは」
と、光秀の後ろに立っている入道姿の老人に目をやった
「こちらは斎藤家家臣、武井夕庵様でいらっしゃいます」
「武井・・・夕庵・・・様・・・」
道三の、側近中の側近の名である
そう軽々しく下々の者と面会するような人物ではないことぐらい、政久でもわかった
驚きに目をいっぱい広げる
「とある方の名代で、明智の若様にあなたとの面会の仲介をお願いいたしました」
「とある方の名代・・・?」
「詳しくは、ひとまず落ち着いてから」
「
夕庵の言葉に、政久は頷いた
小さな寺のその本堂を借り、密会に密談を重ねる
「それで、お話とは」
「土田殿もご存知でしょうが、斎藤家の内部で分裂が起きております」
「はい・・・。倅から伺っております・・・。斎藤の若様に与するように、と・・・」
どこまで話せば良いのか、考えあぐねながら応えた
お陰で顔色が頗る悪い
「土田殿の内政に干渉する気は毛頭ございません。得をする方に着くのは世の倣い、こちらに味方せよとは強要いたしません。ですが、今一度お考え頂きたいのです」
「何を・・・でしょうか・・・」
「このまま一族で新九郎様に与することは、間違いではないのかと言うことです」
「間違い・・・」
「尾張の事変はもうご存知と仰っておられましたね?」
「はい。勝幡織田の若き惣領が、尾張守護代を倒したと」
守護代が守護を自害に追い遣ったのだから、これは正当な仇討ちである
誰からも非難されるべきことではないと同時に、よく練られた策略であることも自ずと見えた
「その、織田の若き惣領に、斎藤の姫君様が嫁がれているのもご存知ですよね?」
「はい、存じております」
「もしも土田家がこのまま新九郎様に味方すれば、尾張の織田が土田家に対して牙を剥くでしょう。それを否定することなどできません」
「織田が、土田を・・・。ですが、私の妹が、織田に嫁いでおります。その妹が織田の惣領の母親なのですよ?それなのに、ですか?」
政久の顔色が益々悪くなった
「勝幡織田の惣領と、そのご生母様の折り合いが悪いことは、ご存知ですか?」
「
「こちらでも独自に調べさせていただきました」
「え・・・?」
「織田惣領殺害を企て、斎藤姫君帰蝶様をご次男の妻に娶る算段だと」
「そっ、そんな・・・!」
そこまでの話は、さすがに聞かされていない
どう反応すべきか全くわからなかった
「惣領を殺してしまえば、尾張の半分は自然と手に入る。しかも、美濃の姫君を娶れば、何れ美濃の国主にも一歩近付く。土田家は何を見返りに新九郎様に味方すると約束されたのでしょうか」
「わ、私は何も・・・!」
全て、倅が勝手にやってることだとでも言いたげな顔をする
少し間を置いて、夕庵が口を挟んだ
「
「武井様が・・・」
「姫様のご気性は、嫌と言うほど熟知しております。仏のような優しさと、鬼のような残酷さを合わせ持っておられるお方です。いえ、あなたを脅すつもりではなく、これは紛れもない事実でございます」
「それで・・・」
自分にどうしろと言うのだと、言いたげな顔を向ける
「もしも土田家が若の味方のままでおられたら、間違いなく次の標的は、土田家」
「うちが・・・?」
「尾張守護・斯波を自害に追い遣った大和守家織田を討伐に成功。その結果、勝幡織田は清洲の領地も含め尾張四郡を手に入れました。次は岩倉の伊勢守織田、と言いたいところですが、姫様は可愛げがないほど抜け目がない。明智の若様と挟撃する算段が立ってしまっているのです」
「え・・・?」
「こちらは手の内を話しました。ですので、土田殿にも本音で仰っていただきたい」
夕庵に代わって光秀が話す
「私と斎藤の姫様は、幼い頃から共に道三様の薫陶を受けて育ちました。私が武将、彼女を軍師に見立てた教育ですが、彼女の軍略は大変優れたものであります。ですので、もしも姫様が土田家を標的に定めたならば、逃れる術はございません」
「そんな・・・ッ」
親としての誇りもある
よもや「倅が勝手に進めた話だ」と、責任逃れしようとは考えられない状態だった
「姫様のご主人は、既に尾張四郡を切り取った実力の持ち主。一方の新九郎様はまだ実績すらない。土田家としても、尾張守護代か、土岐の威光を着た者か、選ぶのに難いでしょうが」
「
考える暇をくれと言わんばかりに、政久は俯いた
その姿を見て、最後の一押しと光秀は懐から一包みの手紙を取り出す
「これは尾張に嫁がれた姫様から直々に頂いた手紙です」
「姫様から・・・・?」
「お読みして、よろしいでしょうか」
「
声が出ず、久政は黙って頷いた
「この度、我が夫はその力を以って尾張を切り開いた。これにより、大和守家に代わって尾張の守護代となり、主家・斯波家を盛り立てる所存である。しかしながら、実家である斎藤で騒動が起きれば夫の負担となり、名誉も損なわれる結果となる。我が夫は比類なき律義者であると同時に、無類の愚直(正直)者でもある。妻の実家で騒動が起きれば、どちらに味方するかは明白である。できる限り早急に、穏便に済ますことを切に願う。斎藤帰蝶。明智十兵衛様」
読み終わり、光秀は間違いないことを証明するため、政久に広げて見せた
流麗な美しい女文字である
確かに末尾に『斎藤帰蝶』とあった
疑う余地などない
「今直ぐにとは、申しません。土田殿にも考える暇(いとま)は必要でしょう。ですので、どうかじっくりとお考え下さい」
「明智殿・・・」
「あなたに平穏な日々が戻ることを、祈っております」
「
綺麗な微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる光秀の表情に絆されそうになる
重ねた肌と、重ねた掌と、重ねた口唇、重ねた心が一つになる瞬間
大きく痙攣し、暗闇から一気に光を浴びせさせられる
眩い光景は真っ白で、その中でぼんやりと夫の顔が浮かんだ
「はぁ・・・」
一仕事を終えた躰に汗が浮かび、短い吐息の後、信長は帰蝶の胸元に頬を乗せた
「
「え・・・?」
「お前の匂い。強くなってる」
「
情を交わした後の声は、互いに少し掠れ、少し小さい
「心地良い匂いだ。ずっと嗅いで居たい・・・」
「吉法師様・・・」
「お前のこの匂いを嗅いでる間、俺はこの世で一番の幸せ者だって気になれる。離したくない・・・」
「嬉しい・・・」
愛情の籠った信長の言葉に、帰蝶は下からぎゅっと夫を抱き締めた
帰蝶も幸せだった
例えるなら、まるで夢を見ているような、そんな気分にさせられる
そう
夫の夢が一歩、近付いた
身分の壁を壊すのは容易なことではない
それは難しく、不可能な話なのかも知れないだろう
それでも実現しようと、もがきながら前進する夫が誇りだった
夫と共にこの時代に生まれた幸運に感謝しながら、帰蝶はその体温に包まれ目を閉じた
幼い頃の夢を見た
膝の上で、父に難しい話を聞かされている夢だった
時々、『土岐』の名前が出ていた
目の前にはよく見知った顔がたくさん並んでいる
武井夕庵、堀田道空、小牧道家、猪子高就
恵那の父の林通安、元服したての光秀と、いつも自分を庇ってくれた叔父、光安
利三の父の利賢、長井の叔父、道利
それから、兄の義龍
隣に目をやれば、そこに利三が座っている
ほっとした瞬間、全員が向こう側に立った
「
驚いて、目を覚ます
気が付けば、二人で羽織っただけの小袖の下の全身から、汗が吹き出ている
隣の夫はまだ安らかな寝息を立てていた
障子の向こう側が、暗い赤に染まっているのがわかる
夕刻なのだろう
あの夢は一体自分に何を訴えようとしているのか
帰蝶は眠っている夫の頬をそっと撫でた
何があろうとも、夫だけは守ってみせる
その目はそう、誓っていた
『鷹の目』で
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更新のお知らせ
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1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
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信長 ~群青色の約束~
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管理人の独り言も混じっております
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ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
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麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
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