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今直ぐ返事をするのが難しいと言う政久に、光秀は猶予を与えることにした
追い詰めれば良くない結果を招くことにもなる
「遠いところまでご足労様でした」
「いえ、お逢いできて良かったです。あのまま何も知らされず倅の意見を通していたら、尾張から攻め込まれることになったのかも知れないのですから」
「勝幡織田も今はまだ下四郡、岩倉や犬山ともいつ対峙することになるやもしれませぬが、もしもその岩倉、犬山をも併呑してしまえば、尾張全体で木曽川を越えないとも言い切れませんしね」
「よくよく熟考してお返事いたします。私個人としては、明智殿に賛同したいと想っておりますので、どうかよしなに」
「それはありがたいお言葉です。励みにさせていただきます」
「 」
政久は黙って会釈し、寺を出た
光秀は三宅弥平次、夕庵と共にその背中を見送る
見送りながら、弥平次が想い出したように言った
「それにしても若ったら、言うこと殆ど出任せなんですもん。俺、笑いを押し殺すのに必死でしたよ」
「出任せとは酷いな。夕庵殿を介して、姫様ともじっくり打ち合わせしたんですよ?この半年ばかり。ねぇ、夕庵殿」
「はい」
夕庵はたおやかな微笑みを浮かべて応えた
「でも、織田の次男様が姫様のご主人を殺害して、姫様を横取りしようとしてるなんて、ほんとのことなんですか?」
「それについては姫様に着いている森三左衛門から手紙を頂いてます。尾張国主の妻になる気はないかと誘惑したと言うのですから、姫様のご主人を殺害する謀略が浮上してると言う表れでしょう。昨日自害に追い込まれた大和守も、織田上総介様暗殺を企てていたと言うのですから、絵空事ではないのでしょうね」
「それにしても、姫様の手紙っていつ届いたんです?届いたんなら殿が大喜びしてるはずですよ。なんせ姫様を溺愛してますからね。表面上は涼しい顔してますけど、何年か前、姫様が長山に来るってだけで、ずっとそわそわしてましたもん」
「ははは!この手紙は熙子に代筆してもらった物だ」
「え?!それじゃ、その手紙、偽物 」
「偽物とは酷いな。一応は姫様の了承も得てますよ」
「それでも姫様が書いたんじゃないんだったら、偽物じゃないですか」
「これも策略の内」
悪びれた風でもなく、光秀はしらっと言い切った
「しかし、若が武将で、姫様が軍師?それ、将棋の話でしょ」
「二人掛りじゃないと、道三様には勝てなかったんですよ。子供の頃の話なんですから、良いじゃないですか」
いつまでもネチネチと責め続ける弥平次に、光秀は頬を膨らませる
「薫陶まで受けてたって大法螺吹いて」
「道三様はその昔、どこにでも姫様をお連れしてましたし、姫様も幼き頃、道三様の膝の上で軍議を聞いておられたんです。強ち間違いとも言い切れないでしょ」
「俺、今日から若のこと、『大法螺様』ってお呼びします」
「やめなさいっ」
弥平次と光秀の遣り取りを、夕庵は笑いながら聞いていた
清洲城の改修工事も始まった頃、京から正式な任命書が届く
尾張で反乱を起した織田大和守信友の討伐に成功し、自身はあくまで斯波岩竜丸義銀の後継者として尾張の治安活動に従事すると言う信長の欲のない申し出に、朝廷も快く守護代を命じた
実際に尾張の視察に来るわけではないので何とでも言えるのだが、朝廷はそこまで疑り深くもない
これを逆手に取っただけのことだとしても、心の中で舌を出しながら北痩笑む
城の修繕の傍ら、貞勝は帰蝶の名代で斯波家に贈与した武器の在庫確認にやって来た
普請現場では信長自身、ねじり鉢巻姿で指揮を取っている光景に、想わず笑ってしまう
「殿」
「おう、吉兵衛か。帰蝶の代理か?」
「はい、武器庫の在庫確認に参りました」
「武器庫なら左側奥に倉庫群がある。一番厳重な造りになってるから、直ぐにわかるさ」
「ありがとうございます」
「ああ、それと」
「はい」
行こうとする貞勝を呼び止めた
「火薬、湿気ってるみたいでな、いつ暴発するかわかんねぇから気を付けろよ」
「 ご親切に、どうもありがとうございます」
危険ならさっさと表に出しててくれ、とは、とても言えないため、信長に背中を向けて「きっ!」と睨み顔をしてやった
その途端
「おい、吉兵衛」
と、再び声を掛けられ、慌てて振り返る
「はい、なんでございましょう」
「嘘だよ」
「 はい?」
キョトンとする貞勝の顔を見て、信長は何がおかしいのか腹を抱えて笑った
「私にはどうも、殿の感性が理解できません、奥方様・・・」
小さく呟きながら、信長の言った倉庫群へと漸く向う
予め貞勝が在庫を調べるため清洲に行くことを知らしていたからか、倉庫の前には利家が立って番をしていた
「犬千代殿」
「いらっしゃい、吉兵衛さん」
「武器庫はここですか」
「そうだよ」
「火薬なんかは?」
「危ないから、別の場所に移動させとけって、殿が。これ、火薬の在庫表」
「なんだ」
肩透かしを食らった貞勝は、利家からその目録を受け取る
性質の悪い冗談で人の肝を潰そうとしたり、その実木目細かい配慮ができたり、信長と言う男はどうも計り知れないと心の中で想い浮かべた
「それじゃ、俺、殿手伝って来るから」
「ああ、ありがとうね。ああ、そうだ」
「何?」
行こうとする利家に、想い出したことを伝える
「奥方様からおやつにと、串団子を持たされてるから、昼餉が終わった頃にでも召し上がりなさい。お茶の用意で恵那殿もご一緒してもらってるから、表に行けば直ぐわかるよ」
「やったー、串団子!さすが奥方様、気が利くぅ」
まだ年若い利家は、体付きこそ大きいが、中身はまだ子供のままだった
素直に喜び飛び跳ねながら、城の表玄関の方へと小走りに駆ける
その後姿に貞勝は苦笑いが浮かんだ
「さてと、のんびりしてられないな。この後、鍛冶屋にも行かなきゃ」
金銭感覚のしっかりしている貞勝は、帰蝶から一任され先の戦の後始末に、詰所で借りた寺の賠償と報酬、周辺住民への補償やら壊れた武具の修繕と、あちこちに行かなくてはならない
帰蝶の方は信長からいつでも引っ越せる準備をと言われているので、那古野の荷造りをしている最中だった
帰蝶に手渡された目録と、台帳を両手に武器庫の中の鉄砲や刀、槍を数える
そんなこんなで城に戻ったのは、とっぷり日が暮れる頃だった
「刀や槍が少なくなるのは予想してましたが、鉄砲も、ですか」
貞勝から受け取った報告書に目を通し、少し頭痛が起きたような顔をする
「三挺、足りなくなってます」
「武器として使うには、不十分な数。と言うことは」
「逃走資金にでも持ち出したのでしょうな」
「大和守様は既に自刃されているのだから、それ以外の誰かと言うことでしょうね」
「大和守の重臣、坂井大膳が今川領に逃走しておりますで、今川の手に渡ったらそのまま戦の資金にされてしまうでしょうなぁ」
「ああ、悔しい。縄でも括っておけばよかったわ」
「ははは」
凡そそんな気など初めからないのに、と言う気持ちも込めて、貞勝は軽く笑った
「まぁ、刀などの刃物類は何とでも補充できますが、鉄砲の損失は正直痛いですなぁ」
「かと言って、民にその皺寄せなどさせては、吉法師様の意向に背きます。しょうがない。何か商売でもやりますか」
「え?」
「何が良いと想う?」
「そうですねぇ・・・」
半分冗談、半分本気の顔をするから、貞勝もいい加減には受けられなくなってしまう
困った顔をしながら思案した
清洲城を落として二ヶ月が経った
「じゃぁ、そうしてくれ」
信長の周りに、何人かの小姓と秀隆、利家が立っている
「吉法師様」
「おう、帰蝶。良いところに来た」
「如何なさいました?」
「清洲の本丸の修繕が一先ず終わったところだ」
「まぁ、随分早く終わったのですね」
「天主はまだ半分くらいだがな、いつまでも空けておくわけにも行かない。だから、明日から荷物を運ぶことにした」
「では、局処も?」
「当然だろ?」
片時も離れていたくないと言いたそうな目をするから、帰蝶はやはり気恥ずかしさに微笑みながら目を反らした
愛を語る時、信長は怖いほど気持ちを真っ直ぐぶつけて来る
嬉しい反面どこか、恥しさを捨て切れないのも事実で、かと言って嫌だと言う気にもならない
自分がその『嬉しい気持ち』を夫と同じように表現できないだけで、心の中では飛び跳ねたいほど喜んでいる
「それじゃぁ、私も準備をしておきます。荷物の運び出しはいつでもできますので」
「わかった」
軽く会釈して、立ち去ろうとする帰蝶に引き止めたい気持ちが溢れたのか、信長は後ろから声を掛けた
「帰蝶、用事じゃなかったのか?」
「あ、はい。でも、清洲に着いてからでも」
「急ぎじゃないのか?」
「直接織田に関連することではないので」
「それでも聞くぞ。場合によっては、一刻の猶予だってならないかも知れないだろ」
「そうですね」
気を取り直し、帰蝶は信長に着いて私室に入る
夫婦なのだから、当然二人きりであった
「私の従兄妹にも調略をお願いしておりました」
「お前の従兄妹?」
「美濃国可児の、明智の若さまです」
「ああ、えっと、明智十兵衛光秀、だったか」
「はい」
信長とて、妻の親戚関係は大方把握している
「その十兵衛兄様から先ほど、連絡が入りました」
「連絡?それに、調略ってどんなものだ?」
「可児の土田家が我が兄・利尚(義龍)に加担していることは吉法師様もご存知のはず」
「ああ」
「ですので、斎藤家で進められている内部分裂を、土田家にも起しました」
「え・・・・・」
土田は母の実家である
自分が采配をすれば身内に対する甘さが生まれ、誤算に繋がる
そう想い、妻にその全てを委ねていたのだが、妻は自分が清洲城を落とすよりも早くそれを実行していた
驚くべきか、恐れるべきか
「土田は財力こそあれ武家として大きな家でもありません。持っている兵力も、高々知れています。ですので、直接戦に参加すると言うのは無理でしょうから、恐らくは軍資金での援助と言うことで留まるでしょう」
「そうだな」
「そこで、十兵衛の兄様にお願いして、心情的にこちらに味方するよう仕向けました」
「織田に味方ってことか?」
「いえ、明智に味方です」
「ああ、明智か」
「明智の姫君が私の母ですので、自然と父の味方にもなります。味方は少しでも多い方が良いでしょう?」
夫は何年も前から父に味方すると言っているのだから、織田の勢力を広めるよりも、父や明智の味方を増やした方が夫の体面も保てる
「それで、十兵衛兄様の手紙には、土田の当主、政久様が明智の味方に、ご子息の親正様が斎藤に与することになったそうです」
「親子で味方勢力が別れたってことか?」
「それなら、どちらが負けても家は存続できます。私としては不本意ですが、他人様の家のことですから口は挟めませんし」
なんでもない顔をしているが、心の内は悔しいのだろうなと、信長は読んだ
「まぁ、織田以外の国のことは、その国の人間に決めさせれば良い。お前が悩んだって、しんどいだけだろ」
「吉法師様・・・」
一人せかせかしている妻を見るのは、忍びない
どこもそうだろうが、妻に収まった女は大抵、奥室でのんびりと過ごすものだ
勿論近隣への外交は女の仕事なのだが、帰蝶はそれ以上のこともやろうとしている
それが見ていて、痛々しかった
俯く帰蝶に雰囲気を変えようと、別のことを話す
「そうだ。あれから岩室はどうしてる」
「 あ、はい」
帰蝶は直ぐに顔を上げ、あやのことを聞かせた
「萬松寺の庵院にでもと想ったのですが、末森のお義母上様が反対なされて。桃巌寺も同様に」
「自分の夫の側室だった女だぞ?保護してやろうって気はないのか」
「こちらの都合で斯波に送ってしまいましたが、一旦織田を離れた者を何故養わなくてはならないのかと申されて」
「まぁ、一理あるが、それも斯波との関係を密接にするためだろ?岩倉は政略として斯波に行ってくれたんだ。その恩を仇で返すような真似ができるか。それで、岩室を何処にやった」
「はい、取敢えず今は、お能の屋敷で預かってもらっております」
「他人の家じゃ落ち着かないだろ。それだったら、じぃの寺に預けてくれ」
「政秀寺に?」
「敷地内に草庵を建てる。早い目に建てさせるから、完成次第移ってもらってくれ」
「承知しました」
だけど、出費に出費が嵩むな・・・と、帰蝶の顔が暗くなった
「帰蝶」
そんな妻に、精一杯の声を掛ける
「がんばるから」
「 」
何をがんばるのかわからないが、いつもひたむきな夫の表情は愛しくて仕方がなくなってしまう
正直に出費が痛いとは言える雰囲気ではなくなり、それから、つい吹き出してしまった
「はい、期待しております」
「 あ、ああ・・・」
つい口から出てしまった言葉とは言え、今以上に国政従事を励まなくてはならないな、と気を引き締めた
「それじゃぁ、荷物の運び出し準備に取り掛かります」
「ああ、そうしてくれ」
夏前の引越し作業は、意外と快適だった
梅雨の影響も懸念されたが、時折訪れる『空梅雨』と言うものだろうか、ここのところ天気も良い
局処で荷物の運び出しをしている中、臨月間近の菊子は離れでお能や恵那の子供達の面倒を見ていた
子供達は毎日見ているとは言え、大きな菊子のお腹を珍しそうに眺めたり、撫でたり話し掛けたりしている
「いつ生まれるの?」
お能の長男・坊丸が尋ねた
「もう直ぐよ。みんな、お兄ちゃんお姉ちゃんになるのよ」
「那生(なお)も?」
「そうよ、那生もお姉ちゃんになるのよ」
夫の兄夫婦の子供なので、菊子にとって那生は姪に当たる
坊丸や、一人歩きが上手くなった勝丸も甥っ子である
唯一他人の子になる可成、恵那の嫡男・傅兵衛は、日頃から大人しい性格の子供だった
親はどちらも明快な性格なのだが、それが仇したか傅兵衛は少し離れたところからみんなの様子を伺っている
一番の年長者であるのにその光景はどこか物淋しく、菊子はありったけの笑顔を浮かべて呼んだ
「おいで、傅兵衛。そろそろおやつにしよう。手伝ってくれる?」
「はい」
部屋の隅に置いてあった、予め用意していた盆を傅兵衛と一緒に中央に運んだ
性格は大人しいが、傅兵衛は武家の子らしく利口な子供だった
その点に置いては義理の兄夫婦の子供に比べたら、ずっと武士らしい顔付きである
だから大人しいのかも知れない
荷物を運び出しも随分進み、那古野城もがらんとなる
帰蝶は信長と共に清洲城に上がったが、あやを預かっているお能はそのまま那古野に残った
菊子もこのような状態なので、今は動けない
信長達が清洲に向うと、あやと同じくお能の自宅でしばらく世話になることとなり、夫の弥三郎と共に那古野城を後にした
信長を後見人と定めた斯波義銀ら幼い兄弟達は、父親の死んだ清洲には戻りたくないと言うので、そのまま那古野に残し、時親、お能夫妻が世話をすることになった
義銀としても、自分の近習としてもう何年も側に居る時親と一緒の方が安心できるようで、暮らし向きが以前より劣ったとしてもこれと言って不平も口にしない
那古野に移動した信光の居城・守山城は信長の叔父で信光の兄・信次が引き継ぐことになったのだが、織田でも迂闊者で有名な人物であるが故にこののち、重大な事件を起こすことになる
「大きいですね・・・。さすが、尾張の顔」
平城なのは変わりないが、那古野城に比べればその大きさは比ではない
雲を突き抜けるかと想えるほどの高く聳えた天主を見上げていると、どうしても首が痛くなってしまう
首筋を撫でる帰蝶に、信長は軽く笑った
「ここが今日から俺達の戦場だ。ここから織田信長は出発する」
「はい」
「着いて来れるか?帰蝶」
「勿論、地の果てどこまでも、お供いたします」
「 」
帰蝶の返事に満足げな笑みを浮かべ、信長も正面に清洲城を見据えた
信長はまだ修繕の終わり切らない本丸へ、帰蝶は真っ先に改修の入った局処へと別れる
夫はいつも、自分のことを優先してくれた
嫁いだ日のことを想い出す
誰が使っていたわけでもない部屋を真新しく改築し、高価な箪笥や最新の文机まで用意していてくれたあの光景が懐かしい
「まぁ、随分綺麗」
同行したなつは、まるで新築したかのような光景に目を丸くした
外見は以前のままだが、主に使う部屋の殆どが真新しい
「わぁ、随分広くなってますよ」
主人の帰蝶より早く、居間や帰蝶の寝室を見て回るその姿に、帰蝶は笑いが止まらない
「そんなことよりも、自分の部屋も見て来たら?なつが使う部屋も、気合を入れて改築したって吉法師様、仰ってたわよ」
「私のことは後で良いんです。先ずは奥方様が快適に過ごせるかどうかが大事なんですから」
「どうして」
「お世継ぎですよ」
腰に両手を当て振り返るなつに、帰蝶の顔色が陰る
「私は・・・・・・・・・・・・」
もう、子供の望める躰ではないのかも知れない、と、ずっと想っていた
あれ以来、何度信長が帰蝶の中で果てても、子はできない
「あの時の和子(わこ)様が流れた経緯は、若から伺っております。全て自分の責任だと、若はご自分を責め続けておられます。今も」
「なつ・・・」
「あなたが諦めてしまっては、若は一生、重荷を背負って生きて行かなくてはなりません。諦めないで。私だって、勝三郎を産んで、その後、娘の稲を産むまでに七年掛かっております。あなたが諦めなければ、和子様だって望めるんです」
「なつ・・・」
「必要なら、何処にでも行って医者を探して来ます。どんな高価なお薬だって、厭わず買いましょう、奥方様。一緒に、がんばりましょうよ、ね?」
優しい顔だった
まるで自分を産んでくれた母のような眼差しで、なつは帰蝶を包み込んだ
「 ありがとう、なつ・・・」
嬉しくて、涙が溢れそうになるのを、帰蝶は必死に堪えた
一度住んでしまえば人は馴れるものなのだが、信長は「あれが気に入らない」「ここが気に入らない」と、清洲城のあちこちを改修し始めた
お陰で夕暮れ過ぎまでずっと、城の中から槌の打つ音が聞こえる
それを帰蝶となつの二人、苦笑いで見守っていた
自分の色に染めてしまいたいのだろう
斯波ではなく、信友の居た頃の匂いを消したくて仕方がないようである
共に着いた貞勝は奉行職を天性のものにしているのか、勘定を任せるとその才能を遺憾なく発揮させた
蕾が開花したかのような活躍ぶりだ
「奥方様、吉兵衛が始めた米取引の相場ですが、随分上がっているようですよ」
米の流通に合わせ利益の昇降の差額を配当金として、一般から投資を募る商売を始めたのだが、信長が清洲に移ってから商品流通が安定しており、小金の持った商人もがその投資に参加し始めた
利益は潤滑に上がり、米も一般家庭にも普及し始めたからだろうか
それまでは稗や泡、麦を混ぜたものが主だった食卓に米だけの食事が増え始めたのだから、米の流通も活発になる
それに伴い物価も若干は上昇したが、他の物を値下げすることで帳尻を合わせた
物価の下がった商品を扱う店が、米の取引純益を札にして買うことで、損失を補おうとしているのが商売になり、どちらも儲けに繋がる
米の相場が上がれば上がるほど、米札を買った人間にも利益が上がり、それ以外の物価が下がっても米札に回せるのだから
「はぁ・・・、凄いこと考えるわね、吉兵衛は。私だったら想い付かないわ。米の消費量を商売にするなんて」
「私もですよ。『投資』なんて言葉そのもの、今の今まで知りませんでした」
「なつは、凄い人物と知り合いだったのね、尊敬するわ」
「知り合いって言うか、殆ど幼馴染みみたいなもんなんですよ」
「幼馴染み・・・」
その言葉に、ふと、『お清』を想い出す
胸の奥に燠火のような想いがふっと浮かぶ
「元々私の実家は、そんなに碌なんて高くなかったんです。そうですね、大方様のご実家よりは小さいです。ですから、吉兵衛みたいに殆ど一般人に近い家の子供とも分け隔てなく共に過ごせました」
「でも、あなたの教養の高さは比ではないわ」
「まぁ、ありがとうございます。南近江でしたから、京が近くて随分開けてましたので、文字もたくさん流れて来ていて、そのお陰でしょうか」
「南近江のどこ?」
「目加田の近くです」
「琵琶湖の側?」
「若干内陸寄りです。蒲生郷に少し近いでしょうか。 六角に全てを奪われてしまいましたので、地名も変わっております。奥方様がお生まれになられる、ずっとずっと昔の話です」
表情は笑っているが、心の中では淋しいのだろう
なつが芯の強い女であるのは、生まれた故郷や実家を踏み躙られた悔しさを経験しているからだろうかと、帰蝶は想った
「故郷に帰れたら、先ず何をしたい?」
「帰れるなんて想ったことありませんけど」
なつも、ふと想い出す
二番目の夫、信秀が「いつかお前の故郷を取り返す」と言ってくれたことを
叶わぬまま他界してしまったが、その想いは今も生き続けていた
「そうですね、鮒鮨が食べたいですね」
「鮒鮨?」
「琵琶湖の名物なんですよ?ご存知ありませんか?」
「兄嫁が近江出身なんですが、生憎食文化までは知らされてませんでした。余り接点がなかったもので」
「そうですか。冬の保存食です」
「どんなもの?」
「そうですねぇ・・・。一言で言えば、悶絶しそうなほど臭いです」
「 え?」
信長も尾張守護代としての勤めに慣れようと必死の様子だった
ここに来て少しだけ、共に過ごせる時間が減った
淋しいが、夫ががんばっている姿を見るのは自身の励みにもなる
夫が内政に精を出しているのと同じく、帰蝶も光秀や夕庵との遣り取りを頻繁にした
勿論、間には恵那の父が入ってくれているが
美濃から入った報告は逐一信長に伝え、大和守信友を討ち取ったことで斎藤の動きも不穏なほど大人しくなったことに、猶予を与えられたような気がする
「向うが大人しくなった今の内に、こっちも済ませられることは済ませておこう」
「はい」
今は南尾張の情勢安定が先決であった
表立ったことは何もしていないが、反対勢力としてまだ岩倉織田が残っている
信勝が大人しいことも、気懸かりと言えば気懸かりだ
帰蝶がそんな風にあちらこちらに気を配っている様子は、見ていて清々しいとも想えない
もっとのんびりやればいいのにと、何度も声を掛けたくなる
それでも、言っても無駄なのが妻の気性なのだと知っている信長は、自分が実績を作れば帰蝶もゆっくりできると考えていた
本来なら自分がすべきことまで帰蝶がやっているのだから、頼りにしている反面、帰蝶の想いが重く圧し掛かることがあるのも事実だった
「持ち出された鉄砲の損失分は、吉兵衛が米札で稼いでくれてるんですよ」
「ああ、聞いた。新しい商売だな。売り上げがそのまま配当として利益になるなんて、誰も想い付かない商売だって」
「清洲の商人衆も少しずつ参加し始めてますので、あちらこちらで寄り合いなんかが行なわれすからね、会合に使う料亭なんかが繁盛して、経済も活性化して町人の吉法師様への評判も上がりつつあります」
「そうか、それを聞いて安心した」
「経済を安定させるなんて難しいことですが、だからこそやり甲斐があるんですよね」
「そうだな」
「あなたの努力が報われているようで、見ていて嬉しいです」
「帰蝶・・・」
たおやかに微笑む帰蝶に、信長はその手をそっと握った
「 」
やはり恥しさに、帰蝶は俯く
仲睦まじい夫婦の光景
ここに足りないものは、『子供』だけだった
今日は城詰めの番が回って来る
少し早めに屋敷を出て、妾の家に寄った
相手は以前自分の子を妊娠した家臣の妻ではなく、麓の茶屋の娘である
利三の屋敷は稲葉山の中腹にあった
利三だけではなく、あちらこちらに斎藤家家臣の邸宅が点在している
有事の際には直ぐに城に上がれるよう、山を切り開き家臣らの住む家を建てるための土地を提供していた
利三の実家であり、父が住む屋敷もその中腹に隣接している
そんな環境にあっても、利三の浮気癖は治らなかった
いや
利三自身、それを浮気だとは自覚していない
『妻から逃げるため』の手段でしかなかった
せがまれ、子を作るための儀式のような情交を何度契っても、精を放つ開放感は得られても、心までは満たされない
今も、ずっと
「ああ、帰蝶の夫は、とうとう尾張の半分を手に入れたか」
信長が清洲城に移ったことを報告に受け、義龍は苦虫を噛んだような顔をする
「斎藤清四郎利三、参りました」
小姓の開けた襖の向こうから登城の挨拶をする利三に、義龍は手招きした
「尾張の丹羽の馬屋から知らせが入った」
「馬屋と申しますと、生駒屋ですか」
「遂に上総介が清洲に入ったそうだ」
「 そうですか」
「これで将来、尾張国主の座は確実だな。仕方ないか、帰蝶が着いているのだから」
「 」
その名に利三は俯く
「名の通り、蝶よ花よと可愛がられて育ったように見えたのだが、実際は違ったようだな。末森は兄に手出しできず、岩倉も犬山との争いに決着が着かず勝幡までには手が回らない。そうこうしている内に、清洲織田が自滅して勝幡が繰り上がった、か。世間ではそう見ているのだろうが、真実は違う」
「若・・・」
「帰蝶だ」
「 」
それは利三も薄々気付いていた
織田信秀が病没し、後に残された嫡男・吉法師には、指導力皆無の噂が絶えなかった
なのに、戦では常に連勝、目の上の瘤だった大和守信友は主家に刃を向け自滅した
その筋書きを誰が書いたか、利三も義龍もわかっている
我が妹、嘗ての主君、斎藤の姫君・帰蝶が、そう仕向けているのだと
「すまんな」
帰蝶を想い出し、ぼんやりとし始めた利三に、義龍は突然謝罪の言葉を口にする
「い・・・。如何なさいました」
「いや 。上総介を殺した後、帰蝶を美濃に連れ戻し、何れはお前にと想っていたのだがな、その上総介を殺すのにどうしても末森の弟を利用しなくてはならない。一番近い人間なのだからな」
「はい・・・」
わかっているが、利三が理解できないのは『帰蝶をお前に』と言う言葉の部分である
「代わりに尾張の半分をと提案したのだが、向うは上手だな。兄を殺すのは謀叛にも等しい行為と、尾張の半分だけでは割が合わないと言って来てな、見返りに帰蝶を求めて来た」
「 その先には、美濃、でしょうか」
「ああ。帰蝶は道三正妻の産んだ、唯一の姫君だ。私に万が一のことがあれば、帰蝶の夫が第二継承者ともなり得る。父上が孫四郎を視野に入れてなければの話だがな」
「そうですね・・・」
「帰蝶のお陰で、こちらも詰まり気味になったな。さて、この困窮から、どう脱すればよいのやら」
妹の仕掛けた策略を、どう突破しようかと悩んでいる義龍は、どことなく楽しそうだった
道三は自分の後継者に認めておきながら、この義龍に全く期待を寄せていない
大柄な躰が禍したか、どことなくのんびりした雰囲気が否めないからだ
だが、その実、道三よりも策略家であることに全く気付いていないのも、大きな誤算である
信長を殺害して、帰蝶を美濃に連れ戻して、そして、義龍の言うように自分と夫婦になって、その後、義龍を支える片翼になると言う理想も良いだろう
そして、信長の弟が帰蝶を欲するのも理解できる
見た目だけなら他の女を探せば良いだけだ
帰蝶にはその美貌だけではない、別の力を秘めていた
それがなんなのか誰も説明できないが、利三だけはそれを口にすることができる
追随を許さぬ神懸り的な統率力、そして、人を惹き付けて止まぬその瞳
見詰められれば、帰蝶の広げた両手に落ちてしまう
それが罠だとわかっていながら、自ら足を踏み入れずにはいられない
そんなことを想い浮かべる利三に、義龍が再び声を掛けた
「ところでな、清四郎」
「はい」
「態々稲葉山を下山してまで浮気をしに行くくらいなら、いっそのこと側室でも持たんか」
「え 」
一瞬、絶句する
「気付かれないよう上手くやっているつもりだろうがな、お天道様はお見通しだぞ」
「あ・・・、あの・・・ッ」
「ん?」
「妻が、若にご相談でも・・・?」
「いいや。人の口は性ないものだ。お前自身、椿とは上手くやっているように見せていてもな、何処で誰が見ているかわからん。増してや、織田上総介が清洲入りを果たした今、こちらも綺麗な身で居なくてはならんのだからな、些細な醜聞も命取りだ」
「 申し訳ございません・・・」
「詫びよりも、少し慎め。それだけだ」
「 はっ・・・」
信長を殺し、尾張を手に入れる
その次は、伊勢
土岐の先祖、頼遠が辿った道を、斎藤が再現する
例え朝廷に弓引いた者だとしても、この美濃では彼は未だ英雄だった
その頼遠の辿った軌跡を再現すれば、美濃は磐石なものになる
今以上に発展する
義龍はそう信じていた
「それにしても、お前、変わったな」
「は・・・?」
「昔はそうじゃなかった。城に居る時はいつも帰蝶に振り回され、休みの日は一人静かに釣りを楽しんでいたお前が、こうも取っ替え引っ換え女を替えるとはな」
「若・・・」
「真面目が小袖を着ているような男だったのが、どうした。椿を娶ってからか?それとも、帰蝶が嫁に行ってからか?お前を変えたのは」
「 」
義龍のその言葉は自分を責めていた
無節操に女を替え、遊び耽っているように見えるのだろう
あの人の兄から『帰蝶』と言う名が出る度に、胸の奥が疼く
鈍い痛みに身悶えする
「そんなに、帰蝶が良かったのか」
「若・・・・・・・・」
違う
そう言いたくて首を振る
だけど、言葉が出て来なかった
そうだ
帰蝶でなければ駄目なのは、事実だった
「 身分が、違います」
「だが、忘れられないのだろう?」
「若・・・、どうして・・・」
「お前を見ていれば、わかる。他の者を見る目と、帰蝶を見る目では暖かさが違っていた。優しく抱き包むように、お前は帰蝶を見ていた。それは、恋をしている者の目だ」
「 」
そうだったのか、と
それは利三自身にもわからないことだった
「父上は、お前の力を恐れている。だから、大事な娘を嫁がせなかったのだ。お前達が好き合っていたのは、私も知っていた」
「若・・・、それは・・・ッ!」
違うと、慌てて否定しようとする
だが、義龍はそれを遮って続けた
「すまぬ。力及ばぬわしを許せ」
「若・・・」
「上総介の殺害が実行された後、帰蝶は末森の上総介舎弟の許に送る約束を交わしている。だが、いつかわしがこの手で尾張を落とす。その時こそ、お前の想いを成就させてやろうぞ。それまで、待ってくれぬか」
「 」
義龍の、優しい眼差しに絆されそうになり、本音を口にしてしまいそうだった
尾張に嫁いで六年になる
その間、自身も妻を娶り娘も生まれた
それまで触れたこともない女の肌に、何度も何度も触れた
中には自分の子を宿した女も居た
全て、始末させた
帰蝶が居た頃の自分と今の自分が同じ人間だとは、利三自身信じられない
何が自分を変えたのか、それだけはわからなかった
幼い頃、無邪気に遊んだ日々
帰蝶が表に出るようになった年頃から、自分が護衛としてこの稲葉山の隅々まで着いて回った
木に登ったり、岩に登ったり
虫取りや、花摘み、綺麗な石ころを拾って自慢し合ったり、秋にはどんぐりを拾って楽しんでいた
冬には雪だるまを作り、雪合戦に夢中になったり
そんな想い出の詰まった山を、利三は一人散策した
「お清、早く!」
「 」
幼い頃の帰蝶の声が聞こえたような気がして、振り返る
そこには誰も居なかった
無数に植わった木の上で、葉がカサカサと風に音を鳴らしている
この山の何処を探しても、帰蝶は居ない
当然だ
居るわけがない
だけど 逢いたい
このままでは狂ってしまうのではないかと想えるほど、心が帰蝶を手繰り寄せようとする
なのに、届かない
どれだけ想いを重ねても、それは帰蝶には届かない
だから
憎かった
帰蝶を奪った男が
織田信長が
見覚えのある場所に出た
斎藤が織田と争っていた頃、帰蝶と二人散策に出た先で織田の斥候と出くわした
あの時、帰蝶の咄嗟の判断で飛び込んだ川は、この先にある
周りの風景は何一つ変わらない
変わったのは自分だけだった
想い出を辿るように獣道を進んで行く
その道が開けた先に、あの崖が口を開いて待っていた
大人になって、少しだけ恐怖心と言うものが芽生える
それは『経験』を積んだからこそ出る『防衛本能』が、恐怖心となって現れるのだ
恐る恐る崖に近付く
そこには相変わらず美しい水を湛えた川が流れていた
夏の日差しに雪解け水が増えているのか、あの頃に比べて水位が少しだけ上がっていた
「よくもまぁ、こんな高いところから飛び込んだものだ・・・」
嘲笑しながら呟く
今、ここから飛び込んでみろと言われても、即答で断る
そんなところから飛び込み、泳ぎ着いた先で帰蝶の口唇を奪った
叱られるかと想っていたが、それがばれた後も帰蝶の態度は変わらなかった
あれから何度、帰蝶と口付けを交わしただろうか
あの頃は無我の境地に立ち、想い出に変わった今では心がとろけるような甘美な過去になっている
もう二度とあんな気持ちにはなれないのだろう
妻を抱いても、他の女を抱いても、帰蝶と交わした口付けほど、自分を酔わせてはくれなかった
それは、想いが籠っているからこそ感じるのだろう
『愛している』と言う想いが
川はキラキラと水飛沫を上げていつもと変わらぬ場所に流れて行く
なのに自分はその水と同じくはできなかった
心が迷っている
信長を殺しても良いのか、どうか
殺せば、姫様は悲しむだろうか
それとも、何食わぬ顔をして帰って来てくれるだろうか
それは、利三にもわからなかった
追い詰めれば良くない結果を招くことにもなる
「遠いところまでご足労様でした」
「いえ、お逢いできて良かったです。あのまま何も知らされず倅の意見を通していたら、尾張から攻め込まれることになったのかも知れないのですから」
「勝幡織田も今はまだ下四郡、岩倉や犬山ともいつ対峙することになるやもしれませぬが、もしもその岩倉、犬山をも併呑してしまえば、尾張全体で木曽川を越えないとも言い切れませんしね」
「よくよく熟考してお返事いたします。私個人としては、明智殿に賛同したいと想っておりますので、どうかよしなに」
「それはありがたいお言葉です。励みにさせていただきます」
「
政久は黙って会釈し、寺を出た
光秀は三宅弥平次、夕庵と共にその背中を見送る
見送りながら、弥平次が想い出したように言った
「それにしても若ったら、言うこと殆ど出任せなんですもん。俺、笑いを押し殺すのに必死でしたよ」
「出任せとは酷いな。夕庵殿を介して、姫様ともじっくり打ち合わせしたんですよ?この半年ばかり。ねぇ、夕庵殿」
「はい」
夕庵はたおやかな微笑みを浮かべて応えた
「でも、織田の次男様が姫様のご主人を殺害して、姫様を横取りしようとしてるなんて、ほんとのことなんですか?」
「それについては姫様に着いている森三左衛門から手紙を頂いてます。尾張国主の妻になる気はないかと誘惑したと言うのですから、姫様のご主人を殺害する謀略が浮上してると言う表れでしょう。昨日自害に追い込まれた大和守も、織田上総介様暗殺を企てていたと言うのですから、絵空事ではないのでしょうね」
「それにしても、姫様の手紙っていつ届いたんです?届いたんなら殿が大喜びしてるはずですよ。なんせ姫様を溺愛してますからね。表面上は涼しい顔してますけど、何年か前、姫様が長山に来るってだけで、ずっとそわそわしてましたもん」
「ははは!この手紙は熙子に代筆してもらった物だ」
「え?!それじゃ、その手紙、偽物
「偽物とは酷いな。一応は姫様の了承も得てますよ」
「それでも姫様が書いたんじゃないんだったら、偽物じゃないですか」
「これも策略の内」
悪びれた風でもなく、光秀はしらっと言い切った
「しかし、若が武将で、姫様が軍師?それ、将棋の話でしょ」
「二人掛りじゃないと、道三様には勝てなかったんですよ。子供の頃の話なんですから、良いじゃないですか」
いつまでもネチネチと責め続ける弥平次に、光秀は頬を膨らませる
「薫陶まで受けてたって大法螺吹いて」
「道三様はその昔、どこにでも姫様をお連れしてましたし、姫様も幼き頃、道三様の膝の上で軍議を聞いておられたんです。強ち間違いとも言い切れないでしょ」
「俺、今日から若のこと、『大法螺様』ってお呼びします」
「やめなさいっ」
弥平次と光秀の遣り取りを、夕庵は笑いながら聞いていた
清洲城の改修工事も始まった頃、京から正式な任命書が届く
尾張で反乱を起した織田大和守信友の討伐に成功し、自身はあくまで斯波岩竜丸義銀の後継者として尾張の治安活動に従事すると言う信長の欲のない申し出に、朝廷も快く守護代を命じた
実際に尾張の視察に来るわけではないので何とでも言えるのだが、朝廷はそこまで疑り深くもない
これを逆手に取っただけのことだとしても、心の中で舌を出しながら北痩笑む
城の修繕の傍ら、貞勝は帰蝶の名代で斯波家に贈与した武器の在庫確認にやって来た
普請現場では信長自身、ねじり鉢巻姿で指揮を取っている光景に、想わず笑ってしまう
「殿」
「おう、吉兵衛か。帰蝶の代理か?」
「はい、武器庫の在庫確認に参りました」
「武器庫なら左側奥に倉庫群がある。一番厳重な造りになってるから、直ぐにわかるさ」
「ありがとうございます」
「ああ、それと」
「はい」
行こうとする貞勝を呼び止めた
「火薬、湿気ってるみたいでな、いつ暴発するかわかんねぇから気を付けろよ」
「
危険ならさっさと表に出しててくれ、とは、とても言えないため、信長に背中を向けて「きっ!」と睨み顔をしてやった
その途端
「おい、吉兵衛」
と、再び声を掛けられ、慌てて振り返る
「はい、なんでございましょう」
「嘘だよ」
「
キョトンとする貞勝の顔を見て、信長は何がおかしいのか腹を抱えて笑った
「私にはどうも、殿の感性が理解できません、奥方様・・・」
小さく呟きながら、信長の言った倉庫群へと漸く向う
予め貞勝が在庫を調べるため清洲に行くことを知らしていたからか、倉庫の前には利家が立って番をしていた
「犬千代殿」
「いらっしゃい、吉兵衛さん」
「武器庫はここですか」
「そうだよ」
「火薬なんかは?」
「危ないから、別の場所に移動させとけって、殿が。これ、火薬の在庫表」
「なんだ」
肩透かしを食らった貞勝は、利家からその目録を受け取る
性質の悪い冗談で人の肝を潰そうとしたり、その実木目細かい配慮ができたり、信長と言う男はどうも計り知れないと心の中で想い浮かべた
「それじゃ、俺、殿手伝って来るから」
「ああ、ありがとうね。ああ、そうだ」
「何?」
行こうとする利家に、想い出したことを伝える
「奥方様からおやつにと、串団子を持たされてるから、昼餉が終わった頃にでも召し上がりなさい。お茶の用意で恵那殿もご一緒してもらってるから、表に行けば直ぐわかるよ」
「やったー、串団子!さすが奥方様、気が利くぅ」
まだ年若い利家は、体付きこそ大きいが、中身はまだ子供のままだった
素直に喜び飛び跳ねながら、城の表玄関の方へと小走りに駆ける
その後姿に貞勝は苦笑いが浮かんだ
「さてと、のんびりしてられないな。この後、鍛冶屋にも行かなきゃ」
金銭感覚のしっかりしている貞勝は、帰蝶から一任され先の戦の後始末に、詰所で借りた寺の賠償と報酬、周辺住民への補償やら壊れた武具の修繕と、あちこちに行かなくてはならない
帰蝶の方は信長からいつでも引っ越せる準備をと言われているので、那古野の荷造りをしている最中だった
帰蝶に手渡された目録と、台帳を両手に武器庫の中の鉄砲や刀、槍を数える
そんなこんなで城に戻ったのは、とっぷり日が暮れる頃だった
「刀や槍が少なくなるのは予想してましたが、鉄砲も、ですか」
貞勝から受け取った報告書に目を通し、少し頭痛が起きたような顔をする
「三挺、足りなくなってます」
「武器として使うには、不十分な数。と言うことは」
「逃走資金にでも持ち出したのでしょうな」
「大和守様は既に自刃されているのだから、それ以外の誰かと言うことでしょうね」
「大和守の重臣、坂井大膳が今川領に逃走しておりますで、今川の手に渡ったらそのまま戦の資金にされてしまうでしょうなぁ」
「ああ、悔しい。縄でも括っておけばよかったわ」
「ははは」
凡そそんな気など初めからないのに、と言う気持ちも込めて、貞勝は軽く笑った
「まぁ、刀などの刃物類は何とでも補充できますが、鉄砲の損失は正直痛いですなぁ」
「かと言って、民にその皺寄せなどさせては、吉法師様の意向に背きます。しょうがない。何か商売でもやりますか」
「え?」
「何が良いと想う?」
「そうですねぇ・・・」
半分冗談、半分本気の顔をするから、貞勝もいい加減には受けられなくなってしまう
困った顔をしながら思案した
清洲城を落として二ヶ月が経った
「じゃぁ、そうしてくれ」
信長の周りに、何人かの小姓と秀隆、利家が立っている
「吉法師様」
「おう、帰蝶。良いところに来た」
「如何なさいました?」
「清洲の本丸の修繕が一先ず終わったところだ」
「まぁ、随分早く終わったのですね」
「天主はまだ半分くらいだがな、いつまでも空けておくわけにも行かない。だから、明日から荷物を運ぶことにした」
「では、局処も?」
「当然だろ?」
片時も離れていたくないと言いたそうな目をするから、帰蝶はやはり気恥ずかしさに微笑みながら目を反らした
愛を語る時、信長は怖いほど気持ちを真っ直ぐぶつけて来る
嬉しい反面どこか、恥しさを捨て切れないのも事実で、かと言って嫌だと言う気にもならない
自分がその『嬉しい気持ち』を夫と同じように表現できないだけで、心の中では飛び跳ねたいほど喜んでいる
「それじゃぁ、私も準備をしておきます。荷物の運び出しはいつでもできますので」
「わかった」
軽く会釈して、立ち去ろうとする帰蝶に引き止めたい気持ちが溢れたのか、信長は後ろから声を掛けた
「帰蝶、用事じゃなかったのか?」
「あ、はい。でも、清洲に着いてからでも」
「急ぎじゃないのか?」
「直接織田に関連することではないので」
「それでも聞くぞ。場合によっては、一刻の猶予だってならないかも知れないだろ」
「そうですね」
気を取り直し、帰蝶は信長に着いて私室に入る
夫婦なのだから、当然二人きりであった
「私の従兄妹にも調略をお願いしておりました」
「お前の従兄妹?」
「美濃国可児の、明智の若さまです」
「ああ、えっと、明智十兵衛光秀、だったか」
「はい」
信長とて、妻の親戚関係は大方把握している
「その十兵衛兄様から先ほど、連絡が入りました」
「連絡?それに、調略ってどんなものだ?」
「可児の土田家が我が兄・利尚(義龍)に加担していることは吉法師様もご存知のはず」
「ああ」
「ですので、斎藤家で進められている内部分裂を、土田家にも起しました」
「え・・・・・」
土田は母の実家である
自分が采配をすれば身内に対する甘さが生まれ、誤算に繋がる
そう想い、妻にその全てを委ねていたのだが、妻は自分が清洲城を落とすよりも早くそれを実行していた
驚くべきか、恐れるべきか
「土田は財力こそあれ武家として大きな家でもありません。持っている兵力も、高々知れています。ですので、直接戦に参加すると言うのは無理でしょうから、恐らくは軍資金での援助と言うことで留まるでしょう」
「そうだな」
「そこで、十兵衛の兄様にお願いして、心情的にこちらに味方するよう仕向けました」
「織田に味方ってことか?」
「いえ、明智に味方です」
「ああ、明智か」
「明智の姫君が私の母ですので、自然と父の味方にもなります。味方は少しでも多い方が良いでしょう?」
夫は何年も前から父に味方すると言っているのだから、織田の勢力を広めるよりも、父や明智の味方を増やした方が夫の体面も保てる
「それで、十兵衛兄様の手紙には、土田の当主、政久様が明智の味方に、ご子息の親正様が斎藤に与することになったそうです」
「親子で味方勢力が別れたってことか?」
「それなら、どちらが負けても家は存続できます。私としては不本意ですが、他人様の家のことですから口は挟めませんし」
なんでもない顔をしているが、心の内は悔しいのだろうなと、信長は読んだ
「まぁ、織田以外の国のことは、その国の人間に決めさせれば良い。お前が悩んだって、しんどいだけだろ」
「吉法師様・・・」
一人せかせかしている妻を見るのは、忍びない
どこもそうだろうが、妻に収まった女は大抵、奥室でのんびりと過ごすものだ
勿論近隣への外交は女の仕事なのだが、帰蝶はそれ以上のこともやろうとしている
それが見ていて、痛々しかった
俯く帰蝶に雰囲気を変えようと、別のことを話す
「そうだ。あれから岩室はどうしてる」
「
帰蝶は直ぐに顔を上げ、あやのことを聞かせた
「萬松寺の庵院にでもと想ったのですが、末森のお義母上様が反対なされて。桃巌寺も同様に」
「自分の夫の側室だった女だぞ?保護してやろうって気はないのか」
「こちらの都合で斯波に送ってしまいましたが、一旦織田を離れた者を何故養わなくてはならないのかと申されて」
「まぁ、一理あるが、それも斯波との関係を密接にするためだろ?岩倉は政略として斯波に行ってくれたんだ。その恩を仇で返すような真似ができるか。それで、岩室を何処にやった」
「はい、取敢えず今は、お能の屋敷で預かってもらっております」
「他人の家じゃ落ち着かないだろ。それだったら、じぃの寺に預けてくれ」
「政秀寺に?」
「敷地内に草庵を建てる。早い目に建てさせるから、完成次第移ってもらってくれ」
「承知しました」
だけど、出費に出費が嵩むな・・・と、帰蝶の顔が暗くなった
「帰蝶」
そんな妻に、精一杯の声を掛ける
「がんばるから」
「
何をがんばるのかわからないが、いつもひたむきな夫の表情は愛しくて仕方がなくなってしまう
正直に出費が痛いとは言える雰囲気ではなくなり、それから、つい吹き出してしまった
「はい、期待しております」
「
つい口から出てしまった言葉とは言え、今以上に国政従事を励まなくてはならないな、と気を引き締めた
「それじゃぁ、荷物の運び出し準備に取り掛かります」
「ああ、そうしてくれ」
夏前の引越し作業は、意外と快適だった
梅雨の影響も懸念されたが、時折訪れる『空梅雨』と言うものだろうか、ここのところ天気も良い
局処で荷物の運び出しをしている中、臨月間近の菊子は離れでお能や恵那の子供達の面倒を見ていた
子供達は毎日見ているとは言え、大きな菊子のお腹を珍しそうに眺めたり、撫でたり話し掛けたりしている
「いつ生まれるの?」
お能の長男・坊丸が尋ねた
「もう直ぐよ。みんな、お兄ちゃんお姉ちゃんになるのよ」
「那生(なお)も?」
「そうよ、那生もお姉ちゃんになるのよ」
夫の兄夫婦の子供なので、菊子にとって那生は姪に当たる
坊丸や、一人歩きが上手くなった勝丸も甥っ子である
唯一他人の子になる可成、恵那の嫡男・傅兵衛は、日頃から大人しい性格の子供だった
親はどちらも明快な性格なのだが、それが仇したか傅兵衛は少し離れたところからみんなの様子を伺っている
一番の年長者であるのにその光景はどこか物淋しく、菊子はありったけの笑顔を浮かべて呼んだ
「おいで、傅兵衛。そろそろおやつにしよう。手伝ってくれる?」
「はい」
部屋の隅に置いてあった、予め用意していた盆を傅兵衛と一緒に中央に運んだ
性格は大人しいが、傅兵衛は武家の子らしく利口な子供だった
その点に置いては義理の兄夫婦の子供に比べたら、ずっと武士らしい顔付きである
だから大人しいのかも知れない
荷物を運び出しも随分進み、那古野城もがらんとなる
帰蝶は信長と共に清洲城に上がったが、あやを預かっているお能はそのまま那古野に残った
菊子もこのような状態なので、今は動けない
信長達が清洲に向うと、あやと同じくお能の自宅でしばらく世話になることとなり、夫の弥三郎と共に那古野城を後にした
信長を後見人と定めた斯波義銀ら幼い兄弟達は、父親の死んだ清洲には戻りたくないと言うので、そのまま那古野に残し、時親、お能夫妻が世話をすることになった
義銀としても、自分の近習としてもう何年も側に居る時親と一緒の方が安心できるようで、暮らし向きが以前より劣ったとしてもこれと言って不平も口にしない
那古野に移動した信光の居城・守山城は信長の叔父で信光の兄・信次が引き継ぐことになったのだが、織田でも迂闊者で有名な人物であるが故にこののち、重大な事件を起こすことになる
「大きいですね・・・。さすが、尾張の顔」
平城なのは変わりないが、那古野城に比べればその大きさは比ではない
雲を突き抜けるかと想えるほどの高く聳えた天主を見上げていると、どうしても首が痛くなってしまう
首筋を撫でる帰蝶に、信長は軽く笑った
「ここが今日から俺達の戦場だ。ここから織田信長は出発する」
「はい」
「着いて来れるか?帰蝶」
「勿論、地の果てどこまでも、お供いたします」
「
帰蝶の返事に満足げな笑みを浮かべ、信長も正面に清洲城を見据えた
信長はまだ修繕の終わり切らない本丸へ、帰蝶は真っ先に改修の入った局処へと別れる
夫はいつも、自分のことを優先してくれた
嫁いだ日のことを想い出す
誰が使っていたわけでもない部屋を真新しく改築し、高価な箪笥や最新の文机まで用意していてくれたあの光景が懐かしい
「まぁ、随分綺麗」
同行したなつは、まるで新築したかのような光景に目を丸くした
外見は以前のままだが、主に使う部屋の殆どが真新しい
「わぁ、随分広くなってますよ」
主人の帰蝶より早く、居間や帰蝶の寝室を見て回るその姿に、帰蝶は笑いが止まらない
「そんなことよりも、自分の部屋も見て来たら?なつが使う部屋も、気合を入れて改築したって吉法師様、仰ってたわよ」
「私のことは後で良いんです。先ずは奥方様が快適に過ごせるかどうかが大事なんですから」
「どうして」
「お世継ぎですよ」
腰に両手を当て振り返るなつに、帰蝶の顔色が陰る
「私は・・・・・・・・・・・・」
もう、子供の望める躰ではないのかも知れない、と、ずっと想っていた
あれ以来、何度信長が帰蝶の中で果てても、子はできない
「あの時の和子(わこ)様が流れた経緯は、若から伺っております。全て自分の責任だと、若はご自分を責め続けておられます。今も」
「なつ・・・」
「あなたが諦めてしまっては、若は一生、重荷を背負って生きて行かなくてはなりません。諦めないで。私だって、勝三郎を産んで、その後、娘の稲を産むまでに七年掛かっております。あなたが諦めなければ、和子様だって望めるんです」
「なつ・・・」
「必要なら、何処にでも行って医者を探して来ます。どんな高価なお薬だって、厭わず買いましょう、奥方様。一緒に、がんばりましょうよ、ね?」
優しい顔だった
まるで自分を産んでくれた母のような眼差しで、なつは帰蝶を包み込んだ
「
嬉しくて、涙が溢れそうになるのを、帰蝶は必死に堪えた
一度住んでしまえば人は馴れるものなのだが、信長は「あれが気に入らない」「ここが気に入らない」と、清洲城のあちこちを改修し始めた
お陰で夕暮れ過ぎまでずっと、城の中から槌の打つ音が聞こえる
それを帰蝶となつの二人、苦笑いで見守っていた
自分の色に染めてしまいたいのだろう
斯波ではなく、信友の居た頃の匂いを消したくて仕方がないようである
共に着いた貞勝は奉行職を天性のものにしているのか、勘定を任せるとその才能を遺憾なく発揮させた
蕾が開花したかのような活躍ぶりだ
「奥方様、吉兵衛が始めた米取引の相場ですが、随分上がっているようですよ」
米の流通に合わせ利益の昇降の差額を配当金として、一般から投資を募る商売を始めたのだが、信長が清洲に移ってから商品流通が安定しており、小金の持った商人もがその投資に参加し始めた
利益は潤滑に上がり、米も一般家庭にも普及し始めたからだろうか
それまでは稗や泡、麦を混ぜたものが主だった食卓に米だけの食事が増え始めたのだから、米の流通も活発になる
それに伴い物価も若干は上昇したが、他の物を値下げすることで帳尻を合わせた
物価の下がった商品を扱う店が、米の取引純益を札にして買うことで、損失を補おうとしているのが商売になり、どちらも儲けに繋がる
米の相場が上がれば上がるほど、米札を買った人間にも利益が上がり、それ以外の物価が下がっても米札に回せるのだから
「はぁ・・・、凄いこと考えるわね、吉兵衛は。私だったら想い付かないわ。米の消費量を商売にするなんて」
「私もですよ。『投資』なんて言葉そのもの、今の今まで知りませんでした」
「なつは、凄い人物と知り合いだったのね、尊敬するわ」
「知り合いって言うか、殆ど幼馴染みみたいなもんなんですよ」
「幼馴染み・・・」
その言葉に、ふと、『お清』を想い出す
胸の奥に燠火のような想いがふっと浮かぶ
「元々私の実家は、そんなに碌なんて高くなかったんです。そうですね、大方様のご実家よりは小さいです。ですから、吉兵衛みたいに殆ど一般人に近い家の子供とも分け隔てなく共に過ごせました」
「でも、あなたの教養の高さは比ではないわ」
「まぁ、ありがとうございます。南近江でしたから、京が近くて随分開けてましたので、文字もたくさん流れて来ていて、そのお陰でしょうか」
「南近江のどこ?」
「目加田の近くです」
「琵琶湖の側?」
「若干内陸寄りです。蒲生郷に少し近いでしょうか。
表情は笑っているが、心の中では淋しいのだろう
なつが芯の強い女であるのは、生まれた故郷や実家を踏み躙られた悔しさを経験しているからだろうかと、帰蝶は想った
「故郷に帰れたら、先ず何をしたい?」
「帰れるなんて想ったことありませんけど」
なつも、ふと想い出す
二番目の夫、信秀が「いつかお前の故郷を取り返す」と言ってくれたことを
叶わぬまま他界してしまったが、その想いは今も生き続けていた
「そうですね、鮒鮨が食べたいですね」
「鮒鮨?」
「琵琶湖の名物なんですよ?ご存知ありませんか?」
「兄嫁が近江出身なんですが、生憎食文化までは知らされてませんでした。余り接点がなかったもので」
「そうですか。冬の保存食です」
「どんなもの?」
「そうですねぇ・・・。一言で言えば、悶絶しそうなほど臭いです」
「
信長も尾張守護代としての勤めに慣れようと必死の様子だった
ここに来て少しだけ、共に過ごせる時間が減った
淋しいが、夫ががんばっている姿を見るのは自身の励みにもなる
夫が内政に精を出しているのと同じく、帰蝶も光秀や夕庵との遣り取りを頻繁にした
勿論、間には恵那の父が入ってくれているが
美濃から入った報告は逐一信長に伝え、大和守信友を討ち取ったことで斎藤の動きも不穏なほど大人しくなったことに、猶予を与えられたような気がする
「向うが大人しくなった今の内に、こっちも済ませられることは済ませておこう」
「はい」
今は南尾張の情勢安定が先決であった
表立ったことは何もしていないが、反対勢力としてまだ岩倉織田が残っている
信勝が大人しいことも、気懸かりと言えば気懸かりだ
帰蝶がそんな風にあちらこちらに気を配っている様子は、見ていて清々しいとも想えない
もっとのんびりやればいいのにと、何度も声を掛けたくなる
それでも、言っても無駄なのが妻の気性なのだと知っている信長は、自分が実績を作れば帰蝶もゆっくりできると考えていた
本来なら自分がすべきことまで帰蝶がやっているのだから、頼りにしている反面、帰蝶の想いが重く圧し掛かることがあるのも事実だった
「持ち出された鉄砲の損失分は、吉兵衛が米札で稼いでくれてるんですよ」
「ああ、聞いた。新しい商売だな。売り上げがそのまま配当として利益になるなんて、誰も想い付かない商売だって」
「清洲の商人衆も少しずつ参加し始めてますので、あちらこちらで寄り合いなんかが行なわれすからね、会合に使う料亭なんかが繁盛して、経済も活性化して町人の吉法師様への評判も上がりつつあります」
「そうか、それを聞いて安心した」
「経済を安定させるなんて難しいことですが、だからこそやり甲斐があるんですよね」
「そうだな」
「あなたの努力が報われているようで、見ていて嬉しいです」
「帰蝶・・・」
たおやかに微笑む帰蝶に、信長はその手をそっと握った
「
やはり恥しさに、帰蝶は俯く
仲睦まじい夫婦の光景
ここに足りないものは、『子供』だけだった
今日は城詰めの番が回って来る
少し早めに屋敷を出て、妾の家に寄った
相手は以前自分の子を妊娠した家臣の妻ではなく、麓の茶屋の娘である
利三の屋敷は稲葉山の中腹にあった
利三だけではなく、あちらこちらに斎藤家家臣の邸宅が点在している
有事の際には直ぐに城に上がれるよう、山を切り開き家臣らの住む家を建てるための土地を提供していた
利三の実家であり、父が住む屋敷もその中腹に隣接している
そんな環境にあっても、利三の浮気癖は治らなかった
いや
利三自身、それを浮気だとは自覚していない
『妻から逃げるため』の手段でしかなかった
せがまれ、子を作るための儀式のような情交を何度契っても、精を放つ開放感は得られても、心までは満たされない
今も、ずっと
「ああ、帰蝶の夫は、とうとう尾張の半分を手に入れたか」
信長が清洲城に移ったことを報告に受け、義龍は苦虫を噛んだような顔をする
「斎藤清四郎利三、参りました」
小姓の開けた襖の向こうから登城の挨拶をする利三に、義龍は手招きした
「尾張の丹羽の馬屋から知らせが入った」
「馬屋と申しますと、生駒屋ですか」
「遂に上総介が清洲に入ったそうだ」
「
「これで将来、尾張国主の座は確実だな。仕方ないか、帰蝶が着いているのだから」
「
その名に利三は俯く
「名の通り、蝶よ花よと可愛がられて育ったように見えたのだが、実際は違ったようだな。末森は兄に手出しできず、岩倉も犬山との争いに決着が着かず勝幡までには手が回らない。そうこうしている内に、清洲織田が自滅して勝幡が繰り上がった、か。世間ではそう見ているのだろうが、真実は違う」
「若・・・」
「帰蝶だ」
「
それは利三も薄々気付いていた
織田信秀が病没し、後に残された嫡男・吉法師には、指導力皆無の噂が絶えなかった
なのに、戦では常に連勝、目の上の瘤だった大和守信友は主家に刃を向け自滅した
その筋書きを誰が書いたか、利三も義龍もわかっている
我が妹、嘗ての主君、斎藤の姫君・帰蝶が、そう仕向けているのだと
「すまんな」
帰蝶を想い出し、ぼんやりとし始めた利三に、義龍は突然謝罪の言葉を口にする
「い・・・。如何なさいました」
「いや
「はい・・・」
わかっているが、利三が理解できないのは『帰蝶をお前に』と言う言葉の部分である
「代わりに尾張の半分をと提案したのだが、向うは上手だな。兄を殺すのは謀叛にも等しい行為と、尾張の半分だけでは割が合わないと言って来てな、見返りに帰蝶を求めて来た」
「
「ああ。帰蝶は道三正妻の産んだ、唯一の姫君だ。私に万が一のことがあれば、帰蝶の夫が第二継承者ともなり得る。父上が孫四郎を視野に入れてなければの話だがな」
「そうですね・・・」
「帰蝶のお陰で、こちらも詰まり気味になったな。さて、この困窮から、どう脱すればよいのやら」
妹の仕掛けた策略を、どう突破しようかと悩んでいる義龍は、どことなく楽しそうだった
道三は自分の後継者に認めておきながら、この義龍に全く期待を寄せていない
大柄な躰が禍したか、どことなくのんびりした雰囲気が否めないからだ
だが、その実、道三よりも策略家であることに全く気付いていないのも、大きな誤算である
信長を殺害して、帰蝶を美濃に連れ戻して、そして、義龍の言うように自分と夫婦になって、その後、義龍を支える片翼になると言う理想も良いだろう
そして、信長の弟が帰蝶を欲するのも理解できる
見た目だけなら他の女を探せば良いだけだ
帰蝶にはその美貌だけではない、別の力を秘めていた
それがなんなのか誰も説明できないが、利三だけはそれを口にすることができる
見詰められれば、帰蝶の広げた両手に落ちてしまう
それが罠だとわかっていながら、自ら足を踏み入れずにはいられない
そんなことを想い浮かべる利三に、義龍が再び声を掛けた
「ところでな、清四郎」
「はい」
「態々稲葉山を下山してまで浮気をしに行くくらいなら、いっそのこと側室でも持たんか」
「え
一瞬、絶句する
「気付かれないよう上手くやっているつもりだろうがな、お天道様はお見通しだぞ」
「あ・・・、あの・・・ッ」
「ん?」
「妻が、若にご相談でも・・・?」
「いいや。人の口は性ないものだ。お前自身、椿とは上手くやっているように見せていてもな、何処で誰が見ているかわからん。増してや、織田上総介が清洲入りを果たした今、こちらも綺麗な身で居なくてはならんのだからな、些細な醜聞も命取りだ」
「
「詫びよりも、少し慎め。それだけだ」
「
信長を殺し、尾張を手に入れる
その次は、伊勢
土岐の先祖、頼遠が辿った道を、斎藤が再現する
例え朝廷に弓引いた者だとしても、この美濃では彼は未だ英雄だった
その頼遠の辿った軌跡を再現すれば、美濃は磐石なものになる
今以上に発展する
義龍はそう信じていた
「それにしても、お前、変わったな」
「は・・・?」
「昔はそうじゃなかった。城に居る時はいつも帰蝶に振り回され、休みの日は一人静かに釣りを楽しんでいたお前が、こうも取っ替え引っ換え女を替えるとはな」
「若・・・」
「真面目が小袖を着ているような男だったのが、どうした。椿を娶ってからか?それとも、帰蝶が嫁に行ってからか?お前を変えたのは」
「
義龍のその言葉は自分を責めていた
無節操に女を替え、遊び耽っているように見えるのだろう
あの人の兄から『帰蝶』と言う名が出る度に、胸の奥が疼く
鈍い痛みに身悶えする
「そんなに、帰蝶が良かったのか」
「若・・・・・・・・」
違う
そう言いたくて首を振る
だけど、言葉が出て来なかった
そうだ
帰蝶でなければ駄目なのは、事実だった
「
「だが、忘れられないのだろう?」
「若・・・、どうして・・・」
「お前を見ていれば、わかる。他の者を見る目と、帰蝶を見る目では暖かさが違っていた。優しく抱き包むように、お前は帰蝶を見ていた。それは、恋をしている者の目だ」
「
そうだったのか、と
それは利三自身にもわからないことだった
「父上は、お前の力を恐れている。だから、大事な娘を嫁がせなかったのだ。お前達が好き合っていたのは、私も知っていた」
「若・・・、それは・・・ッ!」
違うと、慌てて否定しようとする
だが、義龍はそれを遮って続けた
「すまぬ。力及ばぬわしを許せ」
「若・・・」
「上総介の殺害が実行された後、帰蝶は末森の上総介舎弟の許に送る約束を交わしている。だが、いつかわしがこの手で尾張を落とす。その時こそ、お前の想いを成就させてやろうぞ。それまで、待ってくれぬか」
「
義龍の、優しい眼差しに絆されそうになり、本音を口にしてしまいそうだった
尾張に嫁いで六年になる
その間、自身も妻を娶り娘も生まれた
それまで触れたこともない女の肌に、何度も何度も触れた
中には自分の子を宿した女も居た
全て、始末させた
帰蝶が居た頃の自分と今の自分が同じ人間だとは、利三自身信じられない
何が自分を変えたのか、それだけはわからなかった
幼い頃、無邪気に遊んだ日々
帰蝶が表に出るようになった年頃から、自分が護衛としてこの稲葉山の隅々まで着いて回った
木に登ったり、岩に登ったり
虫取りや、花摘み、綺麗な石ころを拾って自慢し合ったり、秋にはどんぐりを拾って楽しんでいた
冬には雪だるまを作り、雪合戦に夢中になったり
そんな想い出の詰まった山を、利三は一人散策した
「お清、早く!」
「
幼い頃の帰蝶の声が聞こえたような気がして、振り返る
そこには誰も居なかった
無数に植わった木の上で、葉がカサカサと風に音を鳴らしている
この山の何処を探しても、帰蝶は居ない
当然だ
居るわけがない
だけど
このままでは狂ってしまうのではないかと想えるほど、心が帰蝶を手繰り寄せようとする
なのに、届かない
どれだけ想いを重ねても、それは帰蝶には届かない
だから
憎かった
帰蝶を奪った男が
織田信長が
見覚えのある場所に出た
斎藤が織田と争っていた頃、帰蝶と二人散策に出た先で織田の斥候と出くわした
あの時、帰蝶の咄嗟の判断で飛び込んだ川は、この先にある
周りの風景は何一つ変わらない
変わったのは自分だけだった
想い出を辿るように獣道を進んで行く
その道が開けた先に、あの崖が口を開いて待っていた
大人になって、少しだけ恐怖心と言うものが芽生える
それは『経験』を積んだからこそ出る『防衛本能』が、恐怖心となって現れるのだ
恐る恐る崖に近付く
そこには相変わらず美しい水を湛えた川が流れていた
夏の日差しに雪解け水が増えているのか、あの頃に比べて水位が少しだけ上がっていた
「よくもまぁ、こんな高いところから飛び込んだものだ・・・」
嘲笑しながら呟く
今、ここから飛び込んでみろと言われても、即答で断る
そんなところから飛び込み、泳ぎ着いた先で帰蝶の口唇を奪った
叱られるかと想っていたが、それがばれた後も帰蝶の態度は変わらなかった
あれから何度、帰蝶と口付けを交わしただろうか
あの頃は無我の境地に立ち、想い出に変わった今では心がとろけるような甘美な過去になっている
もう二度とあんな気持ちにはなれないのだろう
妻を抱いても、他の女を抱いても、帰蝶と交わした口付けほど、自分を酔わせてはくれなかった
それは、想いが籠っているからこそ感じるのだろう
『愛している』と言う想いが
川はキラキラと水飛沫を上げていつもと変わらぬ場所に流れて行く
なのに自分はその水と同じくはできなかった
心が迷っている
信長を殺しても良いのか、どうか
それとも、何食わぬ顔をして帰って来てくれるだろうか
それは、利三にもわからなかった
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千極一夜
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『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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