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不意に目の前から消えた信長の背中
空(くう)を走る鉄砲の音
秀隆は絶叫した
「殿ぉぉぉ ッ!!」
これが、夢の終わりであって、堪るか
「奥方様ぁー!那古野から、援軍が!」
貞勝が転がるように駆け込んで来た
「那古野が?!」
いの一番に、信光が助けに来てくれた
距離的にそうだとしても、最初に書簡を送った末森は、まだ動いていない
それが気懸かりではあるが、信長が戻るより早く信光が駆け付けてくれたことは嬉しかった
恐らくは、この清洲に残っていた義近らの身を案じてのことだろうが
小姓になったばかりの義近は、まだ経験がなかったため、今回留守番をさせられていた
それが功を奏したのか
尾張の民には斯波は今も、なくてはならない存在だ
その斯波の子を守れなかったとあれば、織田は守護代の座から転げ落ちる
また、東海の一地方の小さな豪族に逆戻りだ
「叔父上様の部隊の受け入れ態勢をッ!門に守備兵を全て回してッ!」
「はいッ!」
年甲斐もなく城を走り回る貞勝に釣られてか、にわかに慌しくなって来た
そんな最中
「奥方様ぁぁぁ!」
後詰にと、城に残されていた資房も貞勝と同様、帰蝶の居る部屋に転がり込んで来た
「どうしました、太田殿。末森が到着しましたかっ?」
帰蝶の代わりに問うなつに、資房は真っ青な顔を向けて報告した
「と 、殿がお帰りあそば・・・し・・・」
「吉法師様がッ?!」
帰蝶は咄嗟に立ち上がり、本丸に走り出した
だがなつは、資房の顔が青いことに引っ掛かる
「若は、ご無事なのですね?」
「 」
「太田殿?如何なさいました」
「殿・・・・・・・・・・・・は・・・・・・・・・・・」
「吉法師様!吉法師様ッ!」
信光の部隊と、先に戻った弥三郎ら馬廻り衆の部隊とが入り乱れ、清洲城の門前は酷い混雑振りだった
その中を帰蝶は、人波を掻き分けるように突き進んだ
「吉法師様ッ! あっ・・・!」
何処の部隊か、それら兵とぶつかり、もう少しで転びそうになる
なんとか踏み止まり、再び駆け出した
「吉法師様ッ!どこにおいでですか!吉法師様ッ!」
しばらく叫び、信長を呼ぶ
その帰蝶に気付いたのか、秀隆が大声で応えた
「奥方様!」
「 河尻・・・。河尻!」
秀隆の居る方へ走り出す帰蝶の目に、戸板の上に乗せられた信長の姿が映った
「吉法師様。吉・・・・・・・・・・・・」
戸板から流れる、夥しい血の量に、帰蝶は目を見開いた
「吉法師様ッ!」
重症を負った信長は、すぐさま自室に運び込まれ、町から医者が何人か集められる
だが、どの医者も満足な手当てすらしようとしない
既に、手遅れの状態だった
脱がされた鎧の、鉄砲の玉を受けた場所が著しく破壊されている
一極集中の攻撃を食らわされたことは、誰の説明を受けるまでもなかった
背中からまともに銃弾を受けては、腹当ても効果がないだろう
「誰が・・・・・・・・・・」
帰蝶の声が震えた
「誰が吉法師様を・・・・・・・・・!」
これが織田信長だとわかった上での、集中砲火であることは、誰よりも帰蝶が一番良く理解できた
「誰が吉法師様をッ!」
帰蝶は想わず、秀隆の胸倉を掴んで揺すった
「わ、わかりません・・・ッ。ですが、軍旗は・・・・・・・」
「何処の家紋ですか!」
秀隆は、搾り出すような声で応えた
「 撫子、でした・・・・・・・・・・・」
「 」
途端、帰蝶の目の前が、真っ暗になる
「撫子・・・・・・・・・・・・・・」
それは、道三が斎藤を継ぐ前の、本筋斎藤家の家紋
利三の家紋だった
「お清・・・・・・・・が・・・・・・・・・・・吉法師様・・・・・・・・を・・・・・・・・」
秀隆の胸倉を掴んでいた帰蝶の手から、力が抜けた
ともすれば倒れそうになる脚に、意識して力を入れる
医者が投げた治療をしなくては
そう、心に浮かんだ
「退いてッ!」
信長の背中の傷に薬草を載せていた義近を押し退け、帰蝶はその傷の酷さを目の当たりにする
「 」
大小様々な鉄砲痕が、見慣れた信長の肌にいくつも浮かぶ
一番酷い場所に乾燥させた蓬の葉を宛がい、義近に押えさせた
帰蝶は信長の腰にめり込んでいる鉄砲の玉を、医者の置いて行った器具で取り除く
一つ、二つ、玉を抜いて行くと、そこから新たに血が溢れ出る
それを義近が晒しで押えるも、到底間に合う数ではなかった
「何か、方法・・・・・・・・・・・。血を止める方法・・・・・・・・・」
帰蝶自身、信長の傷を押えながら辺りを見渡した
小袖は信長の血で染まり、袖が邪魔でしょうがない
それをまた引き千切りながら周囲を見渡すと、少し離れた場所に信長の種子島式が無造作に置かれていた
馬から落ちながらも、信長はこれだけは手放さなかったようで、柄の木の部分には信長の流した血が広範囲にべったりとこびり付いている
「その種子島を貸してッ!」
側に居た別の小姓が慌てて持ち上げ、帰蝶に手渡す
鉄砲には小さな袋が付いていた
それは、切らしてはならない玉薬
つまり、『火薬』
それが銅の筒に入れられているのだ
袋の中から銅筒を抜き、火薬を信長の傷の上に振り撒いた
「火種、火種をちょうだいッ!」
「奥方様?何をなさいますので?」
「早くッ!」
隣に居る義近の問い掛けには応えない
それどころではない
今の帰蝶に、周りを気遣う余裕などなかった
小姓が慌てて火打石で種子島式の火縄に火を熾す
それを帰蝶に手渡した
受け取った火縄を、火薬を降り注いだ信長の腰に近付ける
「お止めください、奥方様!何をなさいますかッ!」
漸く到着したなつが、帰蝶の奇行を止めようと声を張り上げた
だが、それよりも早く火種は火薬を燃やし、信長の腰で小さな爆発を起した
「きゃぁッ!」
驚いたなつが、腰を抜かす
帰蝶はそれにも怯えず、玉を抜きながら同じように次々と火薬を傷口に塗し、火を付ける
「奥方様!」
「煩いッ!」
邪魔をすれば、殺す
そんな気迫の籠った声で、帰蝶は怒鳴り上げる
火薬の爆発した後を、秀隆が酒を沁み込ませた晒しで拭った
「これは・・・・・・・・・・」
傷口が塞がっている
まだ僅かに血は滲んでいるが、抉られた傷に新たな傷、『火傷』を負わせて傷口を塞いでいた
「縫うより、こっちの方が手っ取り早い」
「奥方様・・・、いつの間に、こんな 」
「医者が投げたのは、数が多過ぎるのと、傷が近過ぎて縫い合わせられないからよ。それなら、皮膚を焼いて塞いでしまえば良いの。火薬!もっと火薬をちょうだい!」
そう説明する帰蝶自身の指先にも、軽い火傷の症状が現れていた
「奥方様、指が 」
気が抜けたように呟く秀隆を放って、帰蝶は新たな傷を同じように火薬で塞いで行った
血、は、力の源
その血を無駄にせぬよう、帰蝶は父からあらゆる止血の方法を教わっていた
圧迫止血、起爆止血、開いた傷に牛や馬の肉を押し付け、止める方法
新婚初夜、抱けない自分の躰に信長は、自ら鼻血を垂らしてまで庇ってくれた夜を想い出す
「 行かないで、吉法師様・・・」
小さく呟きながら、信長の手当てを続ける
僅かに付着した火薬は帰蝶の指先を燃やし、白く綺麗だった爪は、徐々に黄色く変色して行った
それを目の当たりにしている秀隆には、いつしか覚悟のようなものが生まれていた
これだけの治療にも関わらず、信長は呻くこともせず、小爆発に躰すらびくともしない
幸いかな、微かに息はあるが、それも所謂『虫の息』
いつ止まるとも知れぬ、頼りないものだった
帰蝶はそれにも気付かず、持てる力の限り信長の手当てをしている
自分の指を燃やしながら
こんなにも献身的な妻など、秀隆は見たことがなかった
「がんばって、吉法師様・・・ッ」
そう呟きながら、夫の背中を燃やす
夫はピクリともしなかった
やがて小さな傷は全て塞がり、大きな傷に取り掛かる
それまで傷口を押えていた義近を退かせ、帰蝶は糸を通した大きな針を指に抓んだ
ところが、自身、信長の手当てで相当の火傷をその指先に負っている
針が指先から零れ落ちた
「あ・・・・・・」
慌てて拾い上げるも、畳の上の針を抓めなかった
気付くのが遅過ぎる
僅かに残してあった爪先が、火薬で燃えて短くなっていたのだ
「 拾ってくれる?」
隣の義近に、小さく呟く
「はい」
義近は丁寧に針を拾い、帰蝶に手渡した
針の長さは、縫い針の倍の長さはある
細い物だが掴むことはできた
それを爪先のなくなった指にしっかり抓み、信長のその傷口に刺す
肉が盛り上がり、止め処なく溢れる血の量を増やした
信長の腹の辺りは既に、流れた血で真っ赤に染まり、血の海を作っている
これだけ血を流して、無事で居られるはずがない
わかっていても、帰蝶は信長の手当てをやめられなかった
広く口を開けたその傷に、周囲の皮膚を引き寄せようとする
だが、肉が足りなかった
寄せ合わせることができない
それだけ、この部分が特に酷く抉れている
骨のない部分だが、僅かに内臓が見えていた
何発の玉をこの部分に受けたのだろうか
それとも、至近距離からまともに食らったのだろうか
だとしても、ありえないほどの深さだった
殺すつもりでなければ、できない傷だ
「肉が足りない・・・・・・・・ッ」
針を通しても、引き寄せる皮膚がないため、糸を結ぶことができない
帰蝶は縫合を諦め、蓬を鷲掴みにして信長の腰に宛がい、全体重を掛けて止血した
それでも、溢れる血を止めることができなかった
「誰か・・・・・・・」
搾るような声
「誰か・・・・・・、吉法師様の血を止めて・・・・・・・」
「奥方様・・・・・・」
どんな腕の良い医者とて、消えゆく命を繋ぎとめることなどできない
わかっていても、帰蝶は叫んだ
「吉法師様の血を止めてッ!」
「 帰・・・蝶・・・・・・・」
それまで、一言の呻き声も上げなかった信長が、微かな声で応えた
「吉法師様ッ?!」
「もう・・・、良い・・・。ありがと、な・・・」
帰蝶の叫び声に、薄れていた意識が一時的に戻ったのか
それは誰にもわからない
「吉法師様ッ!」
「若ッ!」
這い蹲るように、なつが信長の枕元に寄った
「なつ・・・」
「はい・・・」
「遺言を・・・、頼む・・・」
「 はい」
その時が来た
覚悟の時が
なつは厳しい顔付きになり、信長の遺言を受ける
「駄目!吉法師様ッ!」
「俺の死は・・・、隠し通せ・・・」
「はい」
「いやッ!吉法師様、駄目!」
帰蝶は、信長に『最期の瞬間』を迎えさせまいと、必死で叫んだ
「織田の・・・、全ての権限を・・・、妻、・・・帰蝶に・・・譲渡・・・する・・・」
「やめて、吉法師様ッ!」
「信長の・・・全ての財産・・・の、一切の権限を・・・、妻、帰蝶に・・・譲渡する・・・」
「やめて、吉法師様・・・」
「織田の者は、帰蝶を、信長と想って、生涯を尽くすよう・・・」
「やめて・・・・・・・・・・・」
炭火のような、暖かな温もりが、自分の目の前で消えようとしている
それを止めることができない
どこまでも無力だと、帰蝶は自分を呪った
「帰蝶・・・」
「吉法師様・・・・・・・・・」
「お前、が、女房、で、良かっ・・・った・・・」
「帰蝶もです・・・。あなたが夫で、帰蝶は誰よりも幸せでした。だから、吉法師様、諦めないで・・・。生きてッ。帰蝶を置いて行かないでッ!」
「織田のこと・・・、後は頼んだ、な・・・?」
「嫌です!織田は、吉法師様が居なければ始まりませんッ!」
「織田を、ここまで大きくしたのは、お前、だ、・・・帰蝶」
「違います!織田を育てたのは、吉法師様です!織田を大名家にしたのは、吉法師様です!帰蝶は何もしていませんッ!」
「お前に任せたら、後は、安心だ・・・」
「嫌ですッ!帰蝶にはできませんッ!吉法師様のように、堂々と振舞うなどできませんッ!」
「勘十郎に、織田は任せられない・・・。民を幸せにはできない・・・。お前じゃなきゃ、駄目なんだ・・・。お前じゃなきゃ・・・」
「吉法師様・・・」
「織田のこと、尾張の民のこと、頼んだ・・・・・・・・」
「嫌です・・・。吉法師様と一緒じゃなきゃ、嫌です・・・ッ」
「帰蝶・・・・・・」
信長は、持てる力の全てを出し、帰蝶に手を伸ばした
帰蝶は透かさず、信長の手を受け取り、握り締める
あんなにも暖かかった信長の手は、血を流し過ぎ、殆ど冷たくなっていた
その手を帰蝶は、必死で擦った
「夢を、頼む・・・」
「吉法師様・・・・・・・・」
「民が笑って暮らせる世に・・・。頼む・・・」
「吉法師様・・・・・・・ッ」
「ずっと、一緒に居たかったけど、もう、無理だ・・・」
「言わないで・・・。そんなこと、口にしないで!帰蝶はいつも吉法師様と一緒です!いつも、いつまでも、吉法師様と一緒に居ます!何処にも行かないでッ!」
「帰蝶・・・」
信長の声が、徐々に収まって来る
「自由に、飛べ・・・。俺の、揚羽・・・蝶・・・」
「吉法師様・・・・・・ッ」
「帰蝶・・・・・・・・・」
小さくなる、信長の声
最後の最期に言えた言葉
「 愛してる・・・・・・・・・・・」
「吉法師様ッ!」
信長の手が、だらんと下がる
帰蝶が掴んでいなければ、畳の上に落ちるほど
「いや・・・・・・・・・・・・・」
帰蝶の目が開かれた
「行かないで、吉法師様」
周囲から、すすり泣く声が聞こえて来た
それまでずっと押し黙っていた秀隆も
側に居て、信長の遺言を受けたなつも、声を殺し、号泣していた
「帰蝶を、置いて行かないで・・・。一人にしないで・・・。吉法師様・・・」
ただ一人、帰蝶だけは涙を流さなかった
「一人にしないで!帰蝶を置いて行かないで!お願い、吉法師様!帰って来て!帰蝶のところに、戻って来てッ!」
信長の最期の手を握り締めながら、帰蝶は信長の肩を強く揺すった
「吉法師様ッ!」
どれだけ叫んでも、信長は応えてくれない
軽く閉じた目蓋は動かない
「いや!いやッ!吉法師様ッ!」
帰蝶は信長の手を離し、その背中に乗り、しがみ付く
「行かないでッ!戻って来てッ!お願い、吉法師様ッ!」
「奥方様・・・ッ」
見るに見かねたなつが、涙でぐしょぐしょになった顔を上げ、帰蝶の両肩を抱いた
「 吉法師様・・・。もう直ぐ、奉納相撲でしょ・・・?」
呟くように、帰蝶は信長に語り掛けた
まるでそこに居るかのように
「今年は、何処に行きますか?」
「奥方様・・・・・・・・」
周りの男達は、信長の死を受け入れた
なつも
だが、この場で帰蝶一人だけが、それを拒絶している
無理もない話か
「清洲に来て、初めての春ですものね。大きな神社が良いですか?それとも、熱田に行ってみますか?私、熱田の相撲はまだ見たことがありません。連れて行ってくれますか?熱田には確か、三種の神器の一つ、十掴の剣がありましたっけ。私、まだ見たことがないんです。あなたと一緒なら、見れるでしょうか」
「奥方様、若は、もう 」
「中村の田楽相撲も、良いですよね。猿田楽は?まだ早いですか?あれは、初夏でしたっけ」
「奥方様・・・・・ッ」
「ほらね・・・・・・・」
俯けた信長の顔を覗き込みながら、帰蝶は苦笑いする
「あなたが居なければ、帰蝶は何もわからないの!何も知らないの!私にこの世界を教えてくれたのは、あなたでしょう?!その入り口に連れて来て、後は一人で行けと言うのッ?!」
「奥方様ッ・・・!」
悲しみは、それが過ぎれば怒りになる
「いつも手を引いてくれたあなたが居なければ、帰蝶はそこから一歩も進めないッ!あなたが居なければ、何も始まらないの・・・ッ」
あなたが
私の世界の、全てなの
「吉法師様・・・。こんな意地悪、しないでください・・・。死んだ振りなんて、酷過ぎます・・・」
「奥方様ッ・・・!」
現実が見れないのではない
見ようとしないだけだった
そんな帰蝶の肩を、なつは一層強く揺さぶった
「若の想い、受け取ってください。お願いします・・・ッ!」
「嫌よ」
「奥方様ッ!」
「尾張を統べるのは、吉法師様なの!尾張の民を幸せにできるのは、吉法師様だけなの!私は、吉法師様の側に寄り添えれば、それで充分なのッ!」
「奥方様ッ!」
「それが私の幸せなのッ!」
なつの手を振り解き、帰蝶は立ち上がると側にあった信長の、種子島式を掴み、信長の部屋を飛び出した
「奥方様ッ! 誰か、奥方様を止めてッ!」
それを持って、何をしようと言うのか
わかっている
なつは、知っている
そのまま、斎藤義龍の首を取るつもりだと
一人で信長の仇を取るつもりだと
できるはずもないのに
やれるはずもないのに
無理だとわかっていても、それでも必死になる
帰蝶は
悲しいほど負けず嫌いで
苦しいほどひたむきで
切ないほど一途なのを、なつも知っていた
「奥方様ッ!」
帰蝶の後を追って、秀隆が本丸を駆け抜ける
秀隆は手に、鉄砲と対の道具、早合(火薬)入れである胴乱と呼ばれる四角い箱状の小さな皮袋の紐を掴んでいた
無意識に掴んでいたのだろうか
「 クソッ。なんて脚が速いんだ・・・ッ」
男の秀隆が、女の帰蝶の脚に追い付かない
帰蝶の小袖には袖がなく、小袖の至るところに信長の血が染み付き、まるで赤い小袖を着ているかのようにも見える
それ以上に、帰蝶の形相や駆け抜けるその姿に、多くの家人が腰を抜かす
帰蝶は真っ直ぐ、馬舎に向った
そしてそのまま、手綱だけを掴むと、裸の松風に飛び乗った
「奥方様!どちらにッ?!」
通せんぼをしようとする秀隆の頭上を、帰蝶は何も言わず無言のまま飛び越える
「ひッ!」
松風の迫力のある腹が眼前に迫る
秀隆は想わず身を屈め、頭を抱えた
「奥方様ぁッ!」
清洲の門前は、相変わらず信長軍と信光軍でごった返していた
退いて、道を開けてと声を掛けれるほど、今の帰蝶にはほんの僅かな心の余裕もなかった
無言のまま松風を走らせ、無言のまま門前の兵士らを蹴散らした
「うわぁッ!」
松風の蹄に蹴られ、飛んだ兵士も居た
ごった返したその場所が、一瞬にして騒然となる
その後を、馬に乗った秀隆も追い縋る
「退いてくれ!空けてくれッ!」
二度も馬に掻き回され、二人が去った後の門前はまるで、地獄絵図のような動乱さであった
松風に蹴られ、倒れ込んだままの兵士に、仲間の兵士が駆け寄る
そんな光景も、帰蝶の視界には入らない
背後を気にしていられる気分にはなれなかった
真っ直ぐ、美濃を目指す
片手には信長の遺した種子島式
片手には、松風と自分を繋ぐ綱
吉法師様・・・・・・・・・・・・・・
初めて口付けを交わしたのは、この松風の前だった
「下手くそだったろ、ごめんな」
そう言って照れながら、信長ははにかんだ笑顔を見せた
清洲の、燃え落ちた町を抜け、一宮を抜け、木曽大橋を渡る
行き交う人込みの中を、それでも帰蝶は駆け抜けた
人にどれだけ迷惑を掛け、どれだけ驚かせたかなど頭に浮かぶこともなく
ただ真っ直ぐ、稲葉山を目指す
信長に嫁いだのは、十二になって間もない春のことだった
美濃の鷺山の城から、この木曽大橋を超えた
父が大橋を閉鎖してくれていたお陰で周りには人影はなく、清洲を抜けるにも帰蝶は無事で、何事もなく那古野の信長の許に辿り着けた
その木曽の大橋で、利三と別れた
悲しくて、泣いた
もう二度と逢えないと、悲しくてずっと泣いていた
その『お清』に、最愛の夫を殺された
悲しみは怒りと憎しみに変わり、帰蝶の目からはひとひらの涙もなく、ただ真っ直ぐ
夫を殺した男達に、その怨嗟の念を向けていた
男勝りと育っても、それでも嫁いだ帰蝶は女だった
心の中は女のままだった
その帰蝶をここまで強くしたのは、誰だろう
死んだ夫に泣いて縋り嘆くよりも先に、武器を手に敵陣に突っ込むほどの強い女を、秀隆は見たことがない
信長が、帰蝶をここまで変えたのだと、後で気付いた
「奥方様ッ!」
うっかりすれば見失ってしまいそうな帰蝶の背中を、秀隆は懸命に追い駆けた
手綱を持たせれば右に出る者はない信長と、暇さえあれば松風に乗って遠出していた帰蝶の手綱捌きに、到底追い着けれるものではなかった
やがて松風は信長が陣を敷いた羽島の端に辿り着き、お能の実家のある長森を抜け、そして
こんなにも短時間で井ノ口に到着するとは、秀隆自身想っても居なかった
美濃と尾張は、こんなにも近かったのか、と
信長が帰蝶を娶る前は、道三と争い、何度もこの美濃と、尾張の間を行ったり来たりしていた
それでも、当時は遠く感じた美濃が、今はこんなにも近い
稲葉山の麓で、帰蝶は漸く松風を止めた
秀隆が乗っていた馬は、止まると同時に潰れてしまい、そのまま崩れるように倒れた
咄嗟のことと、秀隆はその馬から飛び降り、帰蝶の許に駆ける
「どうなさるおつもりですか、奥方様」
「 」
秀隆の問い掛けには応えず、帰蝶は黙って稲葉山の頂上、稲葉山城を睨み付けたまま松風から飛び降りた
ふと、信長を想い出す
初めて松風に乗った日、帰蝶は上手く降りれず尻餅を突いた
それを笑った信長に、帰蝶は苦情を言った
だが信長は、怯まずこう返した
「手伝うのは簡単だけど、そしたらお前は一生、自分の力で馬から降りようとは想わなくなるだろ?」
あの言葉のお陰で、自分はこうして一人で馬に乗り降りできるようになった
広い世界を教えてくれたのは、夫だった
自分の狭い見聞を広げてくれたのは、夫だった
いつも付き添い、隣に並び、手を引いてくれたのも夫だった
帰蝶の全ては、信長がその手で育てたものだった
共に歩み、共に悩み、共に泣き、共に怒り、共に考え、共に嘆き、共に笑い、共に期待し、共に走り、共に戦い、共に生き、共に老い、そして、できることなら、共に死にたかった・・・・・・・・・・
春には奉納相撲や奉納神楽を見に行った
夏には浜辺で魚を獲った
秋にはなつの作った手作りの月見団子を頬張りながら軍議を開き
冬には一つ一つ、二人で領地を広げて行った
その信長は、もう、居ない
この小さな掌から零れ、消えて行った
「吉法師様・・・・・・・・・・・ッ」
帰蝶は手にした種子島式を稲葉山城に向け、引き金を引いた
だが、弾を込めていない鉄砲は、当然だが発砲はしない
何度も引き金を引く
無駄だとわかっていても、引き金を引く
その帰蝶を背中から見ていた秀隆は、想わずその鉄砲を掴み、地面に置いた
「何をする!」
「鉄砲はね、こうしないと使えないんですよ。殿から、教わってるんでしょ?」
そう言いながら、秀隆は手にしていた胴乱から早合を出し、鉄砲の銃口に宛がい、『カルカ』の代わりに手近にあった細い枝で奥に詰め込む
早合は竹や紙の型に弾丸と火薬を詰め込んだものだ
その後、火蓋を開けて火皿に口薬と呼ばれる発火薬を乗せ、火蓋を閉じ、火打石で火縄に火を熾す
これだけでも手間隙の掛かることだった
帰蝶はそれをじっと見詰め、息を忘れたかのように黙り込んでいた
全ての準備が終わり、秀隆は帰蝶に信長の鉄砲を返す
手も腕も、信長の鮮血で真っ赤に染まった帰蝶はそれを受け取り、何も言わないまま再び銃口を稲葉山城に向ける
そして、宣言した
「斎藤義龍!貴様の首は、必ず私が取る!吉法師様の無念を必ず晴らしてみせるッ!美濃は私が取り返してやる!貴様に安穏とした生活など送らせるものか!必ず、必ず貴様を落としてみせるッ!斎藤義龍ッ!」
帰蝶の、火薬に燃えた指先が引き金を引いた
種子島式独特の、低い爆発音がする
「それまで、首を洗って待っていろ」
「 」
小さな
小さな帰蝶の背中に
大きな
大きな信長の夢が覆い被さった
その瞬間を、秀隆は確かに見た
信長の種子島式は馬上筒で、標準の半分の長さだった
それでも一般の種子島式よりも鉄の部分が多く、女が持つには重い
その種子島式を、帰蝶は見事、使いこなした
玉が何処に飛んだのかまでは、わからない
稲葉山城までは届かなかっただろう
それでも、帰蝶の放った一発は真っ直ぐ、稲葉山城に向かって飛んだ
自分の生まれ育った城に
自分の家族が、大好きな家族が、一瞬にして敵に回った
いや
仇になった
その重い現実を受け止めるには、余りも過酷過ぎる
それでも
帰蝶は真っ直ぐ立ち、きっと稲葉山を見上げ、涙も零さず、自分の身の上に嘆きすらせず、夫の仇討ちを心に決めた
秀隆は、言葉を心に浮かばせた
このお方に、着いてゆこう、と
金目になるものは、何も持たなかった
松風は手綱だけ
秀隆が乗った馬は潰れてしまい、使い物にはならない
どうやって帰ろうかと考えあぐねながら尾張に向かって歩いていたら、向うから可成と弥三郎が馬を走らせて来るのが見えた
「奥方様!河尻様!」
「三左・・・、弥三郎・・・」
おなつ様がカンカンですよ、と脅され、少し怯えながら清洲に帰る
この時の帰蝶にはまだ、信長の死を認める気持ちは沸いていなかった
少しだけいつもより落ち込んだ様子で、清洲の町を眺める
「見事に燃えたわね・・・」
「岩倉は孫三郎様が追い払ってくださいました。奥方様が飛び出した後、守山からも喜蔵様が軍勢を引き連れてくださって、岩倉も慌てて引き上げました」
「末森は」
「その後から、のそのそと、って感じです」
「 そう」
一番期待していた末森が、一番役に立たなかった
帰蝶は口唇を噛み締め、弥三郎の報告を聞く
「殿の通夜は 」
「 」
聞きたくないことだろう
帰蝶は返事をしない
それでも弥三郎は続けた
「今夜。告別式は、明日、政秀寺で」
「政秀寺で・・・・・・・・・・」
「殿のご遺言通りなら、密葬になります」
「織田に貢献した人が、密葬 」
「殿の死は隠し通さねばならないと、おなつ様が」
「そう・・・・・・・・」
皮肉か
これは、皮肉なのか
自分が死に追い遣り、自害した平手政秀の死を嘆き、信長が建立した寺に、その夫を埋葬せねばならなくなったのは
これは皮肉かと、笑えば良いのか
それとも、泣けば良いのか
泣けば夫は戻って来るのか
また、いつもの生活に戻れるのか
二人でなつに怒鳴られ、追い駆け回される毎日が戻って来るのか
平凡でも、安寧した幸せな明日がやって来るのか
その次も
その次も
何度眠っても、いつものようにそこに夫は居てくれるのか
いつもと変わらぬ笑顔を差し向けてくれるのか
いつもと変わらぬ声で、自分の名を呼んでくれるのか
帰蝶、と
「奥方様・・・ッ」
城に戻ると、なつが真っ赤に腫らした目で自分を睨み付ける
「どこで油を売ってましたかッ!こんな大変な時に!」
「ごめん・・・なさい」
「あなたが喪主でしょう?!あなたが若を送り出すのでしょうッ?!そのあなたがふらふらしていては、若も安心して眠れませんッ!しっかりなさいッ!」
「なつ・・・・・・・・・」
なつの掌は、自分の頬を打ちたくてうずうずしているように見えた
自分を怒鳴ることで、現実を見せ、それを受け入れさせようとしている
その気持ちは、嬉しかった
なつにとっても、信長は息子も同然の人間なのだから、死んで平気なわけがない
それなのに、いつもと変わらず、自分を怒鳴り付けてくれる
嬉しくて、泣きそうになった
だけど、泣けなかった
信長の棺は、通常の筒型ではなく、布団の上に寝そべるような横長の特注品にした
これなら筒の中で狭苦しく身を屈めることもなく、眠ったように居られるだろうと帰蝶が考案した
この頃はまだ、縦長の筒型の棺が主流だった
信秀も政秀も同じ形の棺に納められている
帰蝶は信長に、狭苦しい想いをさせたくなかった
血で汚れた信長の部屋は使えず、信長の遺体は表座敷に布団を敷き、安置されていた
胸の上に懐剣が置かれている
狐狸妖怪が信長の骸に悪さをしないためのまじないだった
それでも帰蝶は、それが信長だとは想えなかった
こんな時代なので、信長は便宜上臨済宗の門徒ではあったが、先祖を辿れば神道衆であり、その顔の上には布を被せていない
いつもと変わらぬ信長の『寝顔』がそこにある
血の気が失せ、真っ白になっても、それは『信長』だった
『夫』以外の誰でもなかった
体毛が少なく、男にしては髭が薄い
それを嫌って、信長はこの時代では珍しく、髭を伸ばしていなかった
その髭が薄っすらとほんの僅か、伸びていた
火薬で焼けた指先で、信長の薄ら髭を撫でる
火傷で傷む指先に、じょりじょりと髭の感触が伝わった
帰蝶はそっと、信長に顔を近付け、囁いた
「吉法師様。明日の朝には、ちゃんと目覚めてくださいね。いつまでもこんな悪戯、してちゃ駄目ですよ。あなたは、尾張の国主になるんですから」
「奥方様・・・」
側に居たなつは、帰蝶を諌めようとした
だけど、それをやめた
帰蝶にとってこれは、『現実ではない』のだから
「 奥方様、髪を」
なつの手には、髪を切るための鋏が握られていた
夫を亡くした女は、実家に帰るか、髪を切るか、入道して剃髪するか、選べた
帰蝶には、帰れる実家がない
夫と共になくなった
入道すれば、信長の死を認めたことになる
できなかった
帰蝶が選んだのは、髪を短く切る『落飾』だった
その緑深く艶やかな帰蝶の髪に、なつの手が当てられる
それから、静かに鋏の歯が噛み合わさり、さらさらと帰蝶の髪が流れて落ちた
なつの手で束ねられた髪は和紙で一つに結ばれ、信長の側に添えられた
昨日の夜、父の突然の挙兵に、夫はここを飛び出した
昼が来る前に、夫は変わり果てた姿でここに戻った
まだ日の高い午後に、帰蝶は清洲を飛び出した
夕刻になって、その清洲に戻った
戻った清洲には、死んだ夫が無言で自分の帰りを待っていた
誰もが経験しうる
この頃には、当たり前の風景
なつも、お能も、戦で前夫を亡くした
自分だけじゃない
自分だけじゃ
それでも、自分よりも大事なものを喪った帰蝶には、なんの慰めにもならなかった
自分よりも大事な人を喪った帰蝶には・・・・・・・・・・
空(くう)を走る鉄砲の音
秀隆は絶叫した
「殿ぉぉぉ
これが、夢の終わりであって、堪るか
「奥方様ぁー!那古野から、援軍が!」
貞勝が転がるように駆け込んで来た
「那古野が?!」
いの一番に、信光が助けに来てくれた
距離的にそうだとしても、最初に書簡を送った末森は、まだ動いていない
それが気懸かりではあるが、信長が戻るより早く信光が駆け付けてくれたことは嬉しかった
恐らくは、この清洲に残っていた義近らの身を案じてのことだろうが
小姓になったばかりの義近は、まだ経験がなかったため、今回留守番をさせられていた
それが功を奏したのか
尾張の民には斯波は今も、なくてはならない存在だ
その斯波の子を守れなかったとあれば、織田は守護代の座から転げ落ちる
また、東海の一地方の小さな豪族に逆戻りだ
「叔父上様の部隊の受け入れ態勢をッ!門に守備兵を全て回してッ!」
「はいッ!」
年甲斐もなく城を走り回る貞勝に釣られてか、にわかに慌しくなって来た
そんな最中
「奥方様ぁぁぁ!」
後詰にと、城に残されていた資房も貞勝と同様、帰蝶の居る部屋に転がり込んで来た
「どうしました、太田殿。末森が到着しましたかっ?」
帰蝶の代わりに問うなつに、資房は真っ青な顔を向けて報告した
「と
「吉法師様がッ?!」
帰蝶は咄嗟に立ち上がり、本丸に走り出した
だがなつは、資房の顔が青いことに引っ掛かる
「若は、ご無事なのですね?」
「
「太田殿?如何なさいました」
「殿・・・・・・・・・・・・は・・・・・・・・・・・」
「吉法師様!吉法師様ッ!」
信光の部隊と、先に戻った弥三郎ら馬廻り衆の部隊とが入り乱れ、清洲城の門前は酷い混雑振りだった
その中を帰蝶は、人波を掻き分けるように突き進んだ
「吉法師様ッ!
何処の部隊か、それら兵とぶつかり、もう少しで転びそうになる
なんとか踏み止まり、再び駆け出した
「吉法師様ッ!どこにおいでですか!吉法師様ッ!」
しばらく叫び、信長を呼ぶ
その帰蝶に気付いたのか、秀隆が大声で応えた
「奥方様!」
「
秀隆の居る方へ走り出す帰蝶の目に、戸板の上に乗せられた信長の姿が映った
「吉法師様。吉・・・・・・・・・・・・」
戸板から流れる、夥しい血の量に、帰蝶は目を見開いた
「吉法師様ッ!」
重症を負った信長は、すぐさま自室に運び込まれ、町から医者が何人か集められる
だが、どの医者も満足な手当てすらしようとしない
既に、手遅れの状態だった
脱がされた鎧の、鉄砲の玉を受けた場所が著しく破壊されている
一極集中の攻撃を食らわされたことは、誰の説明を受けるまでもなかった
背中からまともに銃弾を受けては、腹当ても効果がないだろう
「誰が・・・・・・・・・・」
帰蝶の声が震えた
「誰が吉法師様を・・・・・・・・・!」
これが織田信長だとわかった上での、集中砲火であることは、誰よりも帰蝶が一番良く理解できた
「誰が吉法師様をッ!」
帰蝶は想わず、秀隆の胸倉を掴んで揺すった
「わ、わかりません・・・ッ。ですが、軍旗は・・・・・・・」
「何処の家紋ですか!」
秀隆は、搾り出すような声で応えた
「
「
途端、帰蝶の目の前が、真っ暗になる
「撫子・・・・・・・・・・・・・・」
それは、道三が斎藤を継ぐ前の、本筋斎藤家の家紋
「お清・・・・・・・・が・・・・・・・・・・・吉法師様・・・・・・・・を・・・・・・・・」
秀隆の胸倉を掴んでいた帰蝶の手から、力が抜けた
ともすれば倒れそうになる脚に、意識して力を入れる
医者が投げた治療をしなくては
そう、心に浮かんだ
「退いてッ!」
信長の背中の傷に薬草を載せていた義近を押し退け、帰蝶はその傷の酷さを目の当たりにする
「
大小様々な鉄砲痕が、見慣れた信長の肌にいくつも浮かぶ
一番酷い場所に乾燥させた蓬の葉を宛がい、義近に押えさせた
帰蝶は信長の腰にめり込んでいる鉄砲の玉を、医者の置いて行った器具で取り除く
一つ、二つ、玉を抜いて行くと、そこから新たに血が溢れ出る
それを義近が晒しで押えるも、到底間に合う数ではなかった
「何か、方法・・・・・・・・・・・。血を止める方法・・・・・・・・・」
帰蝶自身、信長の傷を押えながら辺りを見渡した
小袖は信長の血で染まり、袖が邪魔でしょうがない
それをまた引き千切りながら周囲を見渡すと、少し離れた場所に信長の種子島式が無造作に置かれていた
馬から落ちながらも、信長はこれだけは手放さなかったようで、柄の木の部分には信長の流した血が広範囲にべったりとこびり付いている
「その種子島を貸してッ!」
側に居た別の小姓が慌てて持ち上げ、帰蝶に手渡す
鉄砲には小さな袋が付いていた
それは、切らしてはならない玉薬
つまり、『火薬』
それが銅の筒に入れられているのだ
袋の中から銅筒を抜き、火薬を信長の傷の上に振り撒いた
「火種、火種をちょうだいッ!」
「奥方様?何をなさいますので?」
「早くッ!」
隣に居る義近の問い掛けには応えない
それどころではない
今の帰蝶に、周りを気遣う余裕などなかった
小姓が慌てて火打石で種子島式の火縄に火を熾す
それを帰蝶に手渡した
受け取った火縄を、火薬を降り注いだ信長の腰に近付ける
「お止めください、奥方様!何をなさいますかッ!」
漸く到着したなつが、帰蝶の奇行を止めようと声を張り上げた
だが、それよりも早く火種は火薬を燃やし、信長の腰で小さな爆発を起した
「きゃぁッ!」
驚いたなつが、腰を抜かす
帰蝶はそれにも怯えず、玉を抜きながら同じように次々と火薬を傷口に塗し、火を付ける
「奥方様!」
「煩いッ!」
邪魔をすれば、殺す
そんな気迫の籠った声で、帰蝶は怒鳴り上げる
火薬の爆発した後を、秀隆が酒を沁み込ませた晒しで拭った
「これは・・・・・・・・・・」
傷口が塞がっている
まだ僅かに血は滲んでいるが、抉られた傷に新たな傷、『火傷』を負わせて傷口を塞いでいた
「縫うより、こっちの方が手っ取り早い」
「奥方様・・・、いつの間に、こんな
「医者が投げたのは、数が多過ぎるのと、傷が近過ぎて縫い合わせられないからよ。それなら、皮膚を焼いて塞いでしまえば良いの。火薬!もっと火薬をちょうだい!」
そう説明する帰蝶自身の指先にも、軽い火傷の症状が現れていた
「奥方様、指が
気が抜けたように呟く秀隆を放って、帰蝶は新たな傷を同じように火薬で塞いで行った
その血を無駄にせぬよう、帰蝶は父からあらゆる止血の方法を教わっていた
圧迫止血、起爆止血、開いた傷に牛や馬の肉を押し付け、止める方法
新婚初夜、抱けない自分の躰に信長は、自ら鼻血を垂らしてまで庇ってくれた夜を想い出す
「
小さく呟きながら、信長の手当てを続ける
僅かに付着した火薬は帰蝶の指先を燃やし、白く綺麗だった爪は、徐々に黄色く変色して行った
それを目の当たりにしている秀隆には、いつしか覚悟のようなものが生まれていた
これだけの治療にも関わらず、信長は呻くこともせず、小爆発に躰すらびくともしない
幸いかな、微かに息はあるが、それも所謂『虫の息』
いつ止まるとも知れぬ、頼りないものだった
帰蝶はそれにも気付かず、持てる力の限り信長の手当てをしている
自分の指を燃やしながら
こんなにも献身的な妻など、秀隆は見たことがなかった
「がんばって、吉法師様・・・ッ」
そう呟きながら、夫の背中を燃やす
夫はピクリともしなかった
やがて小さな傷は全て塞がり、大きな傷に取り掛かる
それまで傷口を押えていた義近を退かせ、帰蝶は糸を通した大きな針を指に抓んだ
ところが、自身、信長の手当てで相当の火傷をその指先に負っている
針が指先から零れ落ちた
「あ・・・・・・」
慌てて拾い上げるも、畳の上の針を抓めなかった
気付くのが遅過ぎる
僅かに残してあった爪先が、火薬で燃えて短くなっていたのだ
「
隣の義近に、小さく呟く
「はい」
義近は丁寧に針を拾い、帰蝶に手渡した
針の長さは、縫い針の倍の長さはある
細い物だが掴むことはできた
それを爪先のなくなった指にしっかり抓み、信長のその傷口に刺す
肉が盛り上がり、止め処なく溢れる血の量を増やした
信長の腹の辺りは既に、流れた血で真っ赤に染まり、血の海を作っている
これだけ血を流して、無事で居られるはずがない
わかっていても、帰蝶は信長の手当てをやめられなかった
広く口を開けたその傷に、周囲の皮膚を引き寄せようとする
だが、肉が足りなかった
寄せ合わせることができない
それだけ、この部分が特に酷く抉れている
骨のない部分だが、僅かに内臓が見えていた
何発の玉をこの部分に受けたのだろうか
それとも、至近距離からまともに食らったのだろうか
だとしても、ありえないほどの深さだった
「肉が足りない・・・・・・・・ッ」
針を通しても、引き寄せる皮膚がないため、糸を結ぶことができない
帰蝶は縫合を諦め、蓬を鷲掴みにして信長の腰に宛がい、全体重を掛けて止血した
それでも、溢れる血を止めることができなかった
「誰か・・・・・・・」
搾るような声
「誰か・・・・・・、吉法師様の血を止めて・・・・・・・」
「奥方様・・・・・・」
どんな腕の良い医者とて、消えゆく命を繋ぎとめることなどできない
わかっていても、帰蝶は叫んだ
「吉法師様の血を止めてッ!」
「
それまで、一言の呻き声も上げなかった信長が、微かな声で応えた
「吉法師様ッ?!」
「もう・・・、良い・・・。ありがと、な・・・」
帰蝶の叫び声に、薄れていた意識が一時的に戻ったのか
それは誰にもわからない
「吉法師様ッ!」
「若ッ!」
這い蹲るように、なつが信長の枕元に寄った
「なつ・・・」
「はい・・・」
「遺言を・・・、頼む・・・」
「
その時が来た
覚悟の時が
なつは厳しい顔付きになり、信長の遺言を受ける
「駄目!吉法師様ッ!」
「俺の死は・・・、隠し通せ・・・」
「はい」
「いやッ!吉法師様、駄目!」
帰蝶は、信長に『最期の瞬間』を迎えさせまいと、必死で叫んだ
「織田の・・・、全ての権限を・・・、妻、・・・帰蝶に・・・譲渡・・・する・・・」
「やめて、吉法師様ッ!」
「信長の・・・全ての財産・・・の、一切の権限を・・・、妻、帰蝶に・・・譲渡する・・・」
「やめて、吉法師様・・・」
「織田の者は、帰蝶を、信長と想って、生涯を尽くすよう・・・」
「やめて・・・・・・・・・・・」
炭火のような、暖かな温もりが、自分の目の前で消えようとしている
それを止めることができない
どこまでも無力だと、帰蝶は自分を呪った
「帰蝶・・・」
「吉法師様・・・・・・・・・」
「お前、が、女房、で、良かっ・・・った・・・」
「帰蝶もです・・・。あなたが夫で、帰蝶は誰よりも幸せでした。だから、吉法師様、諦めないで・・・。生きてッ。帰蝶を置いて行かないでッ!」
「織田のこと・・・、後は頼んだ、な・・・?」
「嫌です!織田は、吉法師様が居なければ始まりませんッ!」
「織田を、ここまで大きくしたのは、お前、だ、・・・帰蝶」
「違います!織田を育てたのは、吉法師様です!織田を大名家にしたのは、吉法師様です!帰蝶は何もしていませんッ!」
「お前に任せたら、後は、安心だ・・・」
「嫌ですッ!帰蝶にはできませんッ!吉法師様のように、堂々と振舞うなどできませんッ!」
「勘十郎に、織田は任せられない・・・。民を幸せにはできない・・・。お前じゃなきゃ、駄目なんだ・・・。お前じゃなきゃ・・・」
「吉法師様・・・」
「織田のこと、尾張の民のこと、頼んだ・・・・・・・・」
「嫌です・・・。吉法師様と一緒じゃなきゃ、嫌です・・・ッ」
「帰蝶・・・・・・」
信長は、持てる力の全てを出し、帰蝶に手を伸ばした
帰蝶は透かさず、信長の手を受け取り、握り締める
あんなにも暖かかった信長の手は、血を流し過ぎ、殆ど冷たくなっていた
その手を帰蝶は、必死で擦った
「夢を、頼む・・・」
「吉法師様・・・・・・・・」
「民が笑って暮らせる世に・・・。頼む・・・」
「吉法師様・・・・・・・ッ」
「ずっと、一緒に居たかったけど、もう、無理だ・・・」
「言わないで・・・。そんなこと、口にしないで!帰蝶はいつも吉法師様と一緒です!いつも、いつまでも、吉法師様と一緒に居ます!何処にも行かないでッ!」
「帰蝶・・・」
信長の声が、徐々に収まって来る
「自由に、飛べ・・・。俺の、揚羽・・・蝶・・・」
「吉法師様・・・・・・ッ」
「帰蝶・・・・・・・・・」
小さくなる、信長の声
最後の最期に言えた言葉
「
「吉法師様ッ!」
信長の手が、だらんと下がる
帰蝶が掴んでいなければ、畳の上に落ちるほど
「いや・・・・・・・・・・・・・」
帰蝶の目が開かれた
「行かないで、吉法師様」
周囲から、すすり泣く声が聞こえて来た
それまでずっと押し黙っていた秀隆も
側に居て、信長の遺言を受けたなつも、声を殺し、号泣していた
「帰蝶を、置いて行かないで・・・。一人にしないで・・・。吉法師様・・・」
ただ一人、帰蝶だけは涙を流さなかった
「一人にしないで!帰蝶を置いて行かないで!お願い、吉法師様!帰って来て!帰蝶のところに、戻って来てッ!」
信長の最期の手を握り締めながら、帰蝶は信長の肩を強く揺すった
「吉法師様ッ!」
どれだけ叫んでも、信長は応えてくれない
軽く閉じた目蓋は動かない
「いや!いやッ!吉法師様ッ!」
帰蝶は信長の手を離し、その背中に乗り、しがみ付く
「行かないでッ!戻って来てッ!お願い、吉法師様ッ!」
「奥方様・・・ッ」
見るに見かねたなつが、涙でぐしょぐしょになった顔を上げ、帰蝶の両肩を抱いた
「
呟くように、帰蝶は信長に語り掛けた
まるでそこに居るかのように
「今年は、何処に行きますか?」
「奥方様・・・・・・・・」
周りの男達は、信長の死を受け入れた
なつも
だが、この場で帰蝶一人だけが、それを拒絶している
無理もない話か
「清洲に来て、初めての春ですものね。大きな神社が良いですか?それとも、熱田に行ってみますか?私、熱田の相撲はまだ見たことがありません。連れて行ってくれますか?熱田には確か、三種の神器の一つ、十掴の剣がありましたっけ。私、まだ見たことがないんです。あなたと一緒なら、見れるでしょうか」
「奥方様、若は、もう
「中村の田楽相撲も、良いですよね。猿田楽は?まだ早いですか?あれは、初夏でしたっけ」
「奥方様・・・・・ッ」
「ほらね・・・・・・・」
俯けた信長の顔を覗き込みながら、帰蝶は苦笑いする
「あなたが居なければ、帰蝶は何もわからないの!何も知らないの!私にこの世界を教えてくれたのは、あなたでしょう?!その入り口に連れて来て、後は一人で行けと言うのッ?!」
「奥方様ッ・・・!」
悲しみは、それが過ぎれば怒りになる
「いつも手を引いてくれたあなたが居なければ、帰蝶はそこから一歩も進めないッ!あなたが居なければ、何も始まらないの・・・ッ」
私の世界の、全てなの
「吉法師様・・・。こんな意地悪、しないでください・・・。死んだ振りなんて、酷過ぎます・・・」
「奥方様ッ・・・!」
現実が見れないのではない
見ようとしないだけだった
そんな帰蝶の肩を、なつは一層強く揺さぶった
「若の想い、受け取ってください。お願いします・・・ッ!」
「嫌よ」
「奥方様ッ!」
「尾張を統べるのは、吉法師様なの!尾張の民を幸せにできるのは、吉法師様だけなの!私は、吉法師様の側に寄り添えれば、それで充分なのッ!」
「奥方様ッ!」
「それが私の幸せなのッ!」
なつの手を振り解き、帰蝶は立ち上がると側にあった信長の、種子島式を掴み、信長の部屋を飛び出した
「奥方様ッ!
それを持って、何をしようと言うのか
わかっている
なつは、知っている
そのまま、斎藤義龍の首を取るつもりだと
一人で信長の仇を取るつもりだと
できるはずもないのに
やれるはずもないのに
無理だとわかっていても、それでも必死になる
帰蝶は
悲しいほど負けず嫌いで
苦しいほどひたむきで
切ないほど一途なのを、なつも知っていた
「奥方様ッ!」
帰蝶の後を追って、秀隆が本丸を駆け抜ける
秀隆は手に、鉄砲と対の道具、早合(火薬)入れである胴乱と呼ばれる四角い箱状の小さな皮袋の紐を掴んでいた
無意識に掴んでいたのだろうか
「
男の秀隆が、女の帰蝶の脚に追い付かない
帰蝶の小袖には袖がなく、小袖の至るところに信長の血が染み付き、まるで赤い小袖を着ているかのようにも見える
それ以上に、帰蝶の形相や駆け抜けるその姿に、多くの家人が腰を抜かす
帰蝶は真っ直ぐ、馬舎に向った
そしてそのまま、手綱だけを掴むと、裸の松風に飛び乗った
「奥方様!どちらにッ?!」
通せんぼをしようとする秀隆の頭上を、帰蝶は何も言わず無言のまま飛び越える
「ひッ!」
松風の迫力のある腹が眼前に迫る
秀隆は想わず身を屈め、頭を抱えた
「奥方様ぁッ!」
清洲の門前は、相変わらず信長軍と信光軍でごった返していた
退いて、道を開けてと声を掛けれるほど、今の帰蝶にはほんの僅かな心の余裕もなかった
無言のまま松風を走らせ、無言のまま門前の兵士らを蹴散らした
「うわぁッ!」
松風の蹄に蹴られ、飛んだ兵士も居た
ごった返したその場所が、一瞬にして騒然となる
その後を、馬に乗った秀隆も追い縋る
「退いてくれ!空けてくれッ!」
二度も馬に掻き回され、二人が去った後の門前はまるで、地獄絵図のような動乱さであった
松風に蹴られ、倒れ込んだままの兵士に、仲間の兵士が駆け寄る
そんな光景も、帰蝶の視界には入らない
背後を気にしていられる気分にはなれなかった
真っ直ぐ、美濃を目指す
片手には信長の遺した種子島式
片手には、松風と自分を繋ぐ綱
初めて口付けを交わしたのは、この松風の前だった
「下手くそだったろ、ごめんな」
そう言って照れながら、信長ははにかんだ笑顔を見せた
清洲の、燃え落ちた町を抜け、一宮を抜け、木曽大橋を渡る
行き交う人込みの中を、それでも帰蝶は駆け抜けた
人にどれだけ迷惑を掛け、どれだけ驚かせたかなど頭に浮かぶこともなく
ただ真っ直ぐ、稲葉山を目指す
信長に嫁いだのは、十二になって間もない春のことだった
美濃の鷺山の城から、この木曽大橋を超えた
父が大橋を閉鎖してくれていたお陰で周りには人影はなく、清洲を抜けるにも帰蝶は無事で、何事もなく那古野の信長の許に辿り着けた
その木曽の大橋で、利三と別れた
悲しくて、泣いた
もう二度と逢えないと、悲しくてずっと泣いていた
その『お清』に、最愛の夫を殺された
悲しみは怒りと憎しみに変わり、帰蝶の目からはひとひらの涙もなく、ただ真っ直ぐ
夫を殺した男達に、その怨嗟の念を向けていた
男勝りと育っても、それでも嫁いだ帰蝶は女だった
心の中は女のままだった
その帰蝶をここまで強くしたのは、誰だろう
死んだ夫に泣いて縋り嘆くよりも先に、武器を手に敵陣に突っ込むほどの強い女を、秀隆は見たことがない
信長が、帰蝶をここまで変えたのだと、後で気付いた
「奥方様ッ!」
うっかりすれば見失ってしまいそうな帰蝶の背中を、秀隆は懸命に追い駆けた
手綱を持たせれば右に出る者はない信長と、暇さえあれば松風に乗って遠出していた帰蝶の手綱捌きに、到底追い着けれるものではなかった
やがて松風は信長が陣を敷いた羽島の端に辿り着き、お能の実家のある長森を抜け、そして
こんなにも短時間で井ノ口に到着するとは、秀隆自身想っても居なかった
美濃と尾張は、こんなにも近かったのか、と
信長が帰蝶を娶る前は、道三と争い、何度もこの美濃と、尾張の間を行ったり来たりしていた
それでも、当時は遠く感じた美濃が、今はこんなにも近い
稲葉山の麓で、帰蝶は漸く松風を止めた
秀隆が乗っていた馬は、止まると同時に潰れてしまい、そのまま崩れるように倒れた
咄嗟のことと、秀隆はその馬から飛び降り、帰蝶の許に駆ける
「どうなさるおつもりですか、奥方様」
「
秀隆の問い掛けには応えず、帰蝶は黙って稲葉山の頂上、稲葉山城を睨み付けたまま松風から飛び降りた
初めて松風に乗った日、帰蝶は上手く降りれず尻餅を突いた
それを笑った信長に、帰蝶は苦情を言った
だが信長は、怯まずこう返した
「手伝うのは簡単だけど、そしたらお前は一生、自分の力で馬から降りようとは想わなくなるだろ?」
あの言葉のお陰で、自分はこうして一人で馬に乗り降りできるようになった
広い世界を教えてくれたのは、夫だった
自分の狭い見聞を広げてくれたのは、夫だった
いつも付き添い、隣に並び、手を引いてくれたのも夫だった
帰蝶の全ては、信長がその手で育てたものだった
共に歩み、共に悩み、共に泣き、共に怒り、共に考え、共に嘆き、共に笑い、共に期待し、共に走り、共に戦い、共に生き、共に老い、そして、できることなら、共に死にたかった・・・・・・・・・・
春には奉納相撲や奉納神楽を見に行った
夏には浜辺で魚を獲った
秋にはなつの作った手作りの月見団子を頬張りながら軍議を開き
冬には一つ一つ、二人で領地を広げて行った
その信長は、もう、居ない
この小さな掌から零れ、消えて行った
「吉法師様・・・・・・・・・・・ッ」
帰蝶は手にした種子島式を稲葉山城に向け、引き金を引いた
だが、弾を込めていない鉄砲は、当然だが発砲はしない
何度も引き金を引く
無駄だとわかっていても、引き金を引く
その帰蝶を背中から見ていた秀隆は、想わずその鉄砲を掴み、地面に置いた
「何をする!」
「鉄砲はね、こうしないと使えないんですよ。殿から、教わってるんでしょ?」
そう言いながら、秀隆は手にしていた胴乱から早合を出し、鉄砲の銃口に宛がい、『カルカ』の代わりに手近にあった細い枝で奥に詰め込む
早合は竹や紙の型に弾丸と火薬を詰め込んだものだ
その後、火蓋を開けて火皿に口薬と呼ばれる発火薬を乗せ、火蓋を閉じ、火打石で火縄に火を熾す
これだけでも手間隙の掛かることだった
帰蝶はそれをじっと見詰め、息を忘れたかのように黙り込んでいた
全ての準備が終わり、秀隆は帰蝶に信長の鉄砲を返す
手も腕も、信長の鮮血で真っ赤に染まった帰蝶はそれを受け取り、何も言わないまま再び銃口を稲葉山城に向ける
そして、宣言した
「斎藤義龍!貴様の首は、必ず私が取る!吉法師様の無念を必ず晴らしてみせるッ!美濃は私が取り返してやる!貴様に安穏とした生活など送らせるものか!必ず、必ず貴様を落としてみせるッ!斎藤義龍ッ!」
帰蝶の、火薬に燃えた指先が引き金を引いた
種子島式独特の、低い爆発音がする
「それまで、首を洗って待っていろ」
「
小さな
小さな帰蝶の背中に
大きな
大きな信長の夢が覆い被さった
その瞬間を、秀隆は確かに見た
信長の種子島式は馬上筒で、標準の半分の長さだった
それでも一般の種子島式よりも鉄の部分が多く、女が持つには重い
その種子島式を、帰蝶は見事、使いこなした
玉が何処に飛んだのかまでは、わからない
稲葉山城までは届かなかっただろう
それでも、帰蝶の放った一発は真っ直ぐ、稲葉山城に向かって飛んだ
自分の生まれ育った城に
自分の家族が、大好きな家族が、一瞬にして敵に回った
いや
仇になった
その重い現実を受け止めるには、余りも過酷過ぎる
それでも
帰蝶は真っ直ぐ立ち、きっと稲葉山を見上げ、涙も零さず、自分の身の上に嘆きすらせず、夫の仇討ちを心に決めた
秀隆は、言葉を心に浮かばせた
金目になるものは、何も持たなかった
松風は手綱だけ
秀隆が乗った馬は潰れてしまい、使い物にはならない
どうやって帰ろうかと考えあぐねながら尾張に向かって歩いていたら、向うから可成と弥三郎が馬を走らせて来るのが見えた
「奥方様!河尻様!」
「三左・・・、弥三郎・・・」
おなつ様がカンカンですよ、と脅され、少し怯えながら清洲に帰る
この時の帰蝶にはまだ、信長の死を認める気持ちは沸いていなかった
少しだけいつもより落ち込んだ様子で、清洲の町を眺める
「見事に燃えたわね・・・」
「岩倉は孫三郎様が追い払ってくださいました。奥方様が飛び出した後、守山からも喜蔵様が軍勢を引き連れてくださって、岩倉も慌てて引き上げました」
「末森は」
「その後から、のそのそと、って感じです」
「
一番期待していた末森が、一番役に立たなかった
帰蝶は口唇を噛み締め、弥三郎の報告を聞く
「殿の通夜は
「
聞きたくないことだろう
帰蝶は返事をしない
それでも弥三郎は続けた
「今夜。告別式は、明日、政秀寺で」
「政秀寺で・・・・・・・・・・」
「殿のご遺言通りなら、密葬になります」
「織田に貢献した人が、密葬
「殿の死は隠し通さねばならないと、おなつ様が」
「そう・・・・・・・・」
皮肉か
これは、皮肉なのか
自分が死に追い遣り、自害した平手政秀の死を嘆き、信長が建立した寺に、その夫を埋葬せねばならなくなったのは
これは皮肉かと、笑えば良いのか
それとも、泣けば良いのか
泣けば夫は戻って来るのか
また、いつもの生活に戻れるのか
二人でなつに怒鳴られ、追い駆け回される毎日が戻って来るのか
平凡でも、安寧した幸せな明日がやって来るのか
その次も
その次も
何度眠っても、いつものようにそこに夫は居てくれるのか
いつもと変わらぬ笑顔を差し向けてくれるのか
いつもと変わらぬ声で、自分の名を呼んでくれるのか
帰蝶、と
「奥方様・・・ッ」
城に戻ると、なつが真っ赤に腫らした目で自分を睨み付ける
「どこで油を売ってましたかッ!こんな大変な時に!」
「ごめん・・・なさい」
「あなたが喪主でしょう?!あなたが若を送り出すのでしょうッ?!そのあなたがふらふらしていては、若も安心して眠れませんッ!しっかりなさいッ!」
「なつ・・・・・・・・・」
なつの掌は、自分の頬を打ちたくてうずうずしているように見えた
自分を怒鳴ることで、現実を見せ、それを受け入れさせようとしている
その気持ちは、嬉しかった
なつにとっても、信長は息子も同然の人間なのだから、死んで平気なわけがない
それなのに、いつもと変わらず、自分を怒鳴り付けてくれる
嬉しくて、泣きそうになった
だけど、泣けなかった
信長の棺は、通常の筒型ではなく、布団の上に寝そべるような横長の特注品にした
これなら筒の中で狭苦しく身を屈めることもなく、眠ったように居られるだろうと帰蝶が考案した
この頃はまだ、縦長の筒型の棺が主流だった
信秀も政秀も同じ形の棺に納められている
帰蝶は信長に、狭苦しい想いをさせたくなかった
血で汚れた信長の部屋は使えず、信長の遺体は表座敷に布団を敷き、安置されていた
胸の上に懐剣が置かれている
狐狸妖怪が信長の骸に悪さをしないためのまじないだった
それでも帰蝶は、それが信長だとは想えなかった
こんな時代なので、信長は便宜上臨済宗の門徒ではあったが、先祖を辿れば神道衆であり、その顔の上には布を被せていない
いつもと変わらぬ信長の『寝顔』がそこにある
血の気が失せ、真っ白になっても、それは『信長』だった
『夫』以外の誰でもなかった
体毛が少なく、男にしては髭が薄い
それを嫌って、信長はこの時代では珍しく、髭を伸ばしていなかった
その髭が薄っすらとほんの僅か、伸びていた
火薬で焼けた指先で、信長の薄ら髭を撫でる
火傷で傷む指先に、じょりじょりと髭の感触が伝わった
帰蝶はそっと、信長に顔を近付け、囁いた
「吉法師様。明日の朝には、ちゃんと目覚めてくださいね。いつまでもこんな悪戯、してちゃ駄目ですよ。あなたは、尾張の国主になるんですから」
「奥方様・・・」
側に居たなつは、帰蝶を諌めようとした
だけど、それをやめた
帰蝶にとってこれは、『現実ではない』のだから
「
なつの手には、髪を切るための鋏が握られていた
夫を亡くした女は、実家に帰るか、髪を切るか、入道して剃髪するか、選べた
帰蝶には、帰れる実家がない
夫と共になくなった
入道すれば、信長の死を認めたことになる
できなかった
帰蝶が選んだのは、髪を短く切る『落飾』だった
その緑深く艶やかな帰蝶の髪に、なつの手が当てられる
それから、静かに鋏の歯が噛み合わさり、さらさらと帰蝶の髪が流れて落ちた
なつの手で束ねられた髪は和紙で一つに結ばれ、信長の側に添えられた
昨日の夜、父の突然の挙兵に、夫はここを飛び出した
昼が来る前に、夫は変わり果てた姿でここに戻った
まだ日の高い午後に、帰蝶は清洲を飛び出した
夕刻になって、その清洲に戻った
戻った清洲には、死んだ夫が無言で自分の帰りを待っていた
誰もが経験しうる
この頃には、当たり前の風景
なつも、お能も、戦で前夫を亡くした
自分だけじゃない
自分だけじゃ
それでも、自分よりも大事なものを喪った帰蝶には、なんの慰めにもならなかった
自分よりも大事な人を喪った帰蝶には・・・・・・・・・・
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千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
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お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
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濃姫の里 隠し吟醸
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一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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