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緊張する
兎に角、緊張する
何が理由か、さっぱりわからない
夫に嫁いだ時でさえ、こんなにも緊張はしなかった
さっきから喉はカラカラに乾き、いつもは平気な爪先が痺れて仕方がない
できることなら、ここから逃げ出したい
帰蝶だけではなく、秀隆ですら、そう想ってしまった
ずっと表座敷を支配する嫌な緊張感に、他の男達ですら感染している
静寂が長く続き、誰も無駄口を叩かない
息をする音すら、聞こえない
そんな嫌な雰囲気が朝から続き、やがて
「養徳院様、お見えになりました」
その声に、一同揃ってビクンと震えた
嫌な瞬間がやって来た
十九条城を直ぐに落せるとは想えなかった帰蝶は、先ず手始めにその手前に砦を作らせた
斎藤がどう出るか見ものではあったが、まだ幼い当主ではどうにもならなかったのか、然程妨害も出ていないと勝家から報告が入る
合流した信益の部隊が護衛を勤め、充分に役割を果たしてくれていると言う
それだけで犬山を信用することはできないが、当面は美濃攻めに集中できることだけは理解した
一年限りの期限付きとは言え、しばらくはここから指揮を出さなくてはならない
そのためには、荒れた砦を綺麗に均す必要があった
雨の中、突貫工事で改築作業が進む
指揮しているのは兵助だった
「右の屋根も瓦を一度剥がしてくれ!」
そこに登る雑兵に大声で命令する
上からは「へーい」と暢気な声が帰って来た
その兵助の背中から
「猪子殿」
「 」
酷く聞き覚えのある声を聞き、兵助は一瞬肩をビクンと震わせ、それから恐る恐る振り返った
「雨の中、作業、ご苦労様」
「お・・・、おなつ様・・・」
自分でも笑ってしまうほど、膝がカクカクと鳴っていた
「おっ、お早いお着きで・・・」
「ええ、雨を待っていたら夏になってしまうと堀田様が仰るもんですから、強行しましたの」
綺麗な微笑みを浮かべるなつが、何故か恐ろしく感じるのは、それだけなつの顔を見ていない日が続いたということである
言うなれば、「鬼の居ぬ間」のなんとやら、だったのだろう
「殿は、いらっしゃいますか」
「はっ、表座敷でおなつ様のご到着を、今か今かと首を長くしてお待ちしてられます」
「まぁ・・・」
兵助の言い回しが余りにも大袈裟で、なつは小袖でそっと口元を隠して笑った
その姿ですら、恐ろしく感じる兵助なのであった
折りしも雨は小降りに変わり、なつは輿から降りて来たまま小袖を頭から被り砦に入った
後ろから付いて来る兵助は、なつがこれ以上濡れないよう、折れた戸板を屋根代わりにして持ってやると言う気の遣いようである
よく知らない雑兵達は、誰が来たのかと興味深げにその様子を覗き込んだ
「養徳院様、お見えになりました」
小姓の声に、表座敷の帰蝶らはこれ以上ないほど緊張の糸を張り巡らせた
久し振り、と表現して、良いのだろうか
帰蝶が清洲を出て、まだ四~五日しか経っていない
久し振りと声を掛けるには、不十分な日数だった
「殿・・・」
それでも、「久し振り」と感じられるほど久し振りに見た帰蝶の顔に、なつは頬が緩み、瞳が潤んだ
「来たか、なつ」
「はい・・・」
「こんな、粗雑な場所まで、よくもまぁ、足を踏み入れる気になったもんだ。改修工事も、この雨でままならぬと言うのに」
「人のことが言えますか?」
そんな環境で、女が一人、男に混じって寝起きをしているのに
呆れた顔をする帰蝶に、なつも苦笑いで応えた
「で、どうした、急に。私の様子でも、伺いに来たのか?」
「それだけではございません」
なつは懐に仕舞っていた書簡を取り出し、帰蝶の手前まで歩いて膝を落として直接手渡した
「何だ?」
「三河の松平家より、書状が届きました」
「三河の?」
一瞬キョトンとする帰蝶に
「もしや、お忘れでしたか?三河の松平家ご当主様と、謁見なされたことを」
「いや」
『覚えてないだけだ』
そう言いそうな顔をする帰蝶を、なつは軽く睨んだ
相変わらずだ
そう感じ、なつは何故かほっとする
墨俣と加納の両方を一度に落とし、多忙極まるかと想っていた
墨俣に留まると聞いた時、もう二度と逢えないのではないかと不安になった
その矢先に松平から手紙が届き、なつは自分が届けると言い張った
「もしや急ぎのご用ではないかと想い、こうしてお届けに参った次第でございます」
「そうか、足労だった。脚を伸ばせる場所もないが、清洲からここまで来たのだからな、少し躰を休ませておけ」
「そのことなのですが」
「何だ?」
「殿は、いつまでここに留まられるおつもりですか?」
「美濃を落すまでだが?」
何故、そんなことを聞くのかと言うような顔をする帰蝶に、何故、そんな先のわからないまで留まると簡単に言えるのかと、なつは責めるような顔をする
「おなつ様、清洲の様子は如何ですか?」
不意に秀隆が声を掛けて来た
「 え・・・、ええ。今のところ、安息です。犬山も動く気配はありませんし、清洲の警戒も万全、蜂須賀殿ら旧斯波の家臣達も、よく動いてくれています」
「『お能』が居るからな、蜂須賀が先頭に立っているのだろう」
正勝がお能に惚れているのは周知の事実で、帰蝶の言い回しに周りは笑い出した
なつだけは、少し微笑む程度でじっと帰蝶を見詰めている
「さて、昨日の今日で斎藤がどう出るか予測も付かんが、じっと待っているのも気が引ける。シゲ」
「はい」
「加納の視察を頼めるか。林の部隊も到着しているだろうが、向うからやって来るのを暢気に待っていられる暇もない。林が居たら、加納の改築普請を始めるよう、伝えてくれ」
「承知しました」
秀隆は素早く立ち上がると、表座敷を出て行った
「後の者も、呼ぶまで自由にしていろ。兵助」
「はい」
「さっきの話、やはりお前にもう一度頼む。どう申請すれば良いのか、私にはわからない」
「承知しました」
「さっきの話?」
なつがそう聞き返すのを、兵助は後ろ耳で聞きながら、今度は気を病むこともなく座敷を出て行った
それに合わせて、他にも居座っていた男達も出て行く
座敷には帰蝶となつの二人だけが残された
「殿?」
「ああ」
「なんですか?」
「いや、『花を売る』女が必要だからな、その手配を兵助に頼んだだけだ」
「花を売る・・・」
それが、戦場にも出向いてくれる娼婦達のことだと、説明を受けなくともなつには理解できた
尚更、帰蝶は直ぐには帰るつもりはないのだと言うことも、わかった
滞在期間が長くなるからこそ、兵士達に女を宛がうのであり、直ぐに帰るつもりなら呼ぶ必要もない
「殿・・・」
「心配するな、生きて帰る」
そう微笑む帰蝶に、声が掛けられない
ごめんなさい
心の中で謝る
私はいつの間にか、あなたの無事だけを祈っている
戦に勝利することへの祈りを、忘れてしまっている、と、自分を責めた
「しばらくは滞在するか?」
「え」
「それとも、雨が軽くなれば帰るのか?」
「 」
あなたは、どちらを望まれますか
倅に言われた言葉を想い出す
今の母上、まるで死にそうなお顔をなさってます、と
そんな顔を帰蝶には見せられない
「私は・・・」
おかしい
自分でも、そう想う
「長く居ては、みなも気が緩められないでしょうから、雨が上がれば」
お暇します
そう言おうとする表情は笑えても、口唇が引き攣って仕方がない
「そうか」
少し眉を寄せて微笑む帰蝶に、なつも指が動きそうになる
その直後
帰蝶の背後で高らかな雷鳴が「ドーン!」と響き渡り、その後をまるで雲が裂けたかのように雨が塊となって降り落ちた
「 当分、帰れそうにもないようだな」
「 」
美濃は大雨に見舞われたが、尾張の清洲は曇り空の程度で済んでいる
ただ、帰蝶の居るであろう西の空を覆う黒い雲を見上げながら、市弥は無意識に両手を握り合わせた
その市弥に、縁側の下から声を掛ける者がいた
「大方様」
「 千郷殿?」
生まれたばかりの雪丸を抱いた千郷が、お絹に付き添われてやって来た
「まあ、お絹!」
「大方様、お久し振りでございます」
「すっかり老け込んで」
「一言余分でございます」
ニコニコと笑顔で辛辣な言葉を投げ掛ける市弥に、お絹も千郷も、頭から汗を浮かばせた
「どうしたの?急に。来るとわかっていたら、出迎えの準備でもしたのに」
元来、子煩悩な市弥は他人の子だろうがお構いなく、幸丸を腕に抱き、あやしながら上機嫌で聞いた
「お気遣いなく。実は、荒尾の父が屋敷に参りまして」
「荒尾殿が?」
「殿の美濃攻めに参加したとのことで」
「ええ?」
千郷の言葉に、市弥は驚いた顔を見せる
「滝川殿に援軍を頼まれ、年も考えずホイホイ付いて行ったそうなんです。その帰り道、ここを通ったので序でにと、顔を覗きに来られて」
「まあ、そうだったの。上総介の世話をしてくださったのね。私からも、お礼申し上げます」
軽く会釈する市弥に、お絹は、本当に変わったな、と、昔を懐かしんだ
「勿体無い」
市弥自ら頭を下げ、千郷は恐縮した
「それで、父からたまにはお姑様に孫の顔を見せてやってはどうかと言われまして、前触れもなく突然お邪魔した次第でございます。お義母様は、お手隙でしょうか」
「それが、なつは今朝から上総介のところに」
「と、申しますと・・・」
お絹には、嫌な予感が走った
「美濃の墨俣へ出張中です」
「 」
聞いた瞬間、千郷は気が遠くなった
「奥様ッ!」
お絹が慌てて抱き支える
「 お義母様の非常識さは重々承知して嫁に入ったのですが、千郷はまだまだ覚悟が足りませなんだ・・・」
「はぁぁ・・・」
悔しさで口唇を噛み締める千郷に、市弥はなんと声を掛ければ良いのかわからない
「して、お義母様は何故、女の身で戦の場などに乗り込んだのでしょうか。もしや、殿の御身に何か」
「いえ、それは問題ありません。上総介は、丈夫なだけが取り得の子ですから」
「 」
他人の娘である帰蝶を、よもや自分の子と思い込んでいるのではあるまいな、と、お絹もなんと言葉を交わせば良いのかわからない
「実は、三河の松平との交渉が、上手く行きそうなの。だから、上総介宛てに松平から手紙が届いたのだけど、それを手渡しに行って不在なのよ」
「そうだったんですか。三河の松平家と。主人からその話は聞かされていたのですが、如何せん殿は・・・」
「気の早い子ですから、直ぐに返事がないと癇癪を起して」
「ほほほ・・・」
姑ながら、嫁のことをよく把握していると、お絹は愛想笑いに顔を引き攣らせる
「仲介に林が入ってますから、上総介の気性なども充分伝わっているのでしょうね。可も不可も、どちらにしても手に取ってわかる結果がないと、落ち着かないのよ、あの子は。それで今まで散々、苦労して来たのだから」
「大方様・・・」
優しい目付きになる市弥に、千郷は、相手が嫁とは言えど、母の愛情を垣間見たような気がする
「墨俣の方も、何とか落ち着きそうなの」
「そうですか、それは一安心ですね」
「確か勝三郎は」
「はい、大垣の方へ。父から伺いました」
「交渉術は、勝三郎や佐治の方がずっと上手いですからね。万が一にも大事には至らないでしょう」
「そうなることを、願っております。子も生まれたばかりで早々に未亡人は、ご免ですから」
「言えてるわ」
互いに笑い飛ばし、腕の中で動く幸丸に目を掛ける
「それにしても、幸丸も少し大きくなったわ。長男の貫禄が出て来たのかしら」
「ありがとうございます。大方様に誉めていただけるなんて、光栄です」
「それに引き換え、うちの娘達はまだ誰一人子を産んでなくて。いつになったら、孫が抱けるのかしら」
「大方様・・・」
少し困ったような顔をする千郷に、市弥も苦笑いする
「勿論、ここで共に暮らしている帰命も、私の可愛い孫に変わりはないわ。でもね、違うのよ」
「え?」
「『息子の嫁が産んだ子』と、『自分の娘が産んだ子』では、なんて言うのかしら、距離・・・みたいなもの?それが違うの」
「そのお気持ち、お察し致します」
年の功を地で行くお絹が、市弥の想いを理解した
「どう言うこと?お絹」
「自分の子の血が入っていても、自分とは違う腹から生まれて来た、そんな感覚があるのです。だけど、自分の娘は自分の分身にも想える。自分にずっと近い。だから、自分がまた、産んだかのような想いが持てるのです。愛せるのです。自分自身のように」
「お絹・・・」
「勿論、女にとっては『内孫』の方が大事ですよ。それはちゃんと理解して、だけど、そうじゃない部分も、人の心の中には確かにあるんです。冷たい言い方をするなら、『他の女が産んだ子』に、なるのでしょうか」
「 」
黙りこくる千郷に、お絹は諭すように優しい声で言って聞かせた
「奥様も、お年を召されてお孫様がお生まれになられたら、わかりますよ。みんなそうやって、順番が回って来るのですから」
「私も・・・?」
「ええ」
いつか、愛せる孫、愛せない孫が出て来るのだろうか
まだ年若い千郷には、理解できない、女の複雑さがここにあった
市弥が帰蝶を自分の子と想い違うような発言を繰り返すのは、何かを示唆しているのだろうか
例えば、やはり息子を殺した女と言う感情が蟠りになっているのか、あるいは、帰命を大事にせねばならないと言う一途な想いがそうさせているのか
それでもやはり、千郷にはわからない
『同じ孫』で何故、分別せねばならないのか、と
降り続く雨音を背に、帰蝶は元康からの手紙に目を通していた
その傍らでは心配そうな顔をするなつが、じっと見詰めている
「中々に、難しい問題だ」
「殿?」
読み終わった書状を畳み、なつに告げる
「織田に与するには、その口実となる材料が必要だと」
「 この、墨俣を落としただけでは、どうにもならないと言うことですか?」
「有態に言えば、そうなるな」
「じゃあ、松平は、殿に美濃を落せと?落すまで、味方にはならないと?」
「そう急くな、なつ」
「ですが・・・ッ」
「松平は、こう書いてあった。私個人としては、上総介と手を組みたい。だが、荒くれな三河武士を纏めるには、自分独りでは力不足。だから、上総介の手を借りたいと」
「殿の?」
帰蝶の説明に、なつは目を丸くさせた
「それが、実績を作るということだ」
「実績・・・」
「今川を倒したとて、その今川に松平が居たのだからな、言うなれば我らは敵だ。敵の力量を見定めるには、徹底的に叩かれねば目には見えない。しかし、松平は生きて戦地を脱した。どう言うことか、わかるか?」
「 織田は・・・、甘い」
「そうだ。私の采配は、まだまだ甘いと言うことだ。松平は、自分を屈せる相手でなければ、納得しないと教えてくれたのだ。これを教訓として生かすしか、方法はないだろう?」
「ですが、どのように松平の将らを屈するのですか?また、戦でもするのですか?」
「あはは。手を組もうかと言う相手と、戦か?花見合戦ではないのだぞ?」
「なら」
「なつ」
「 」
「焦るな」
「 は・・・」
言葉が直ぐには出て来ない
「はい・・・」
なつは息を吸い、それから応えた
「次郎三郎と言う男は、中々大したものだ。長く人質生活を送っていたからか、人の顔色を伺うのが上手い。私には到底、真似はできまい」
「殿に、人の顔色を伺う必要など、ございません。私達は殿の命じるまま、動くのみです」
「それが、松平の組織とは基礎が違うのだ、なつ」
「殿・・・」
「私達は、共に戦うと言う一つの目標によって、繋がりが持てている。松平は、次郎三郎を守ることで、結束力を固めている。その違いが、わかるか?」
「 いえ・・・」
「守るべき者が、戦場に居る。守らなくては成らない。死んでは成らない。だから、強くなれる。次郎三郎が死ねば、ヤツらは否応なしに、憎い今川の一部として組み込まれる。私だったら、斎藤に跪くのに等しい屈辱だろう。だから、ヤツらは必死になる。必死になって戦い、必死になって次郎三郎を守る。私は、自分から好んで前線に立つ。だから、シゲ達も前に出ざるを得なくなる。林は私に、その違いを教えたかったのかも知れない」
「林殿が、それを・・・」
「してやられたな」
そう言って、魅力的ににかっと笑い、なつの頬を赤くさせる
なつも胸の中で呟く
私は、殿のその笑顔にいつも、してやられます、と
「次郎三郎と言う男は、どんなものだ?末森で預かっていたのだろう?」
「ええ、確かに今川に引き渡されるまでは、織田でお預かりしておりました。ですが、彼の方は大方様預かりでしたので、私とは一切の接点はございません。年齢的に勘十郎様のご学友扱いをされておりましたので、その当時、私は」
「ああ、お前と義母上様は、水と油だったからな」
「お恥しいお話でございます・・・」
「私もあれから、義母上様にお話でも伺っておけばよかった。今更後悔するな、と言われるだろうが」
「いいえ・・・」
「次郎三郎の話では、勘十郎と随分仲が良かったと、そんな話し振りだった。だから、尚更聞けなかった。義母上様にまた、つらい想いをさせるのではないか、と」
「殿・・・」
元康の話を聞けば、一緒に居た信勝のことも想い出すだろう
義母はまた、泣いて暮らさねばならないのかと、それが気懸かりだった
「まぁ、付き合いができれば、嫌でも知ることになるだろう」
「殿」
「この話は忘れろ」
「 はい」
帰蝶が笑顔で居れば居るほど、どうしてか胸が苦しくなる
「それと・・・。殿が以前仰ってた、土岐郷の石谷(いしがや)のことですが」
「何かわかったか」
「殿が仰られていたのと、ほぼ近い状態でした」
「やはり、織田には関与しない方針だったか」
「本流斎藤家のご長男が後を継がれ、石谷の全ての実権を握っております。とてもではありませんが、『斎藤』と争っている織田に与する心積もりは見当たりませんでした」
「さすがに孫九郎は頭が切れる。抜け目がないのも仕方がない」
「殿」
予めわかっていたかのように、帰蝶は存外に落ち着いていた
「多治見の金森と謁見の帰り、土岐に寄ってみた」
「土岐に?」
「石谷は弟に傾倒しているようだ」
「弟と申しますと、斎藤」
「斎藤清四郎利三だ」
「 」
「この戦、長引けば長引くほど土岐郷も美濃斎藤に加担するだろうな。そうなると、越前の蜷川家がどう出るか」
「蜷川家・・・」
「おき・・・。斎藤清四郎の、母の実家だ」
なつの前で『お清』の名を出したくないのか、帰蝶は少し苦しそうな面持ちで応えた
「蜷川は越前の名門であることを良いことに、何かと美濃の内政干渉に関りたがる。おまけに、本流斎藤の婚姻まで口出しする始末」
だから、そうなる前に父は、側室生まれの椿を嫁にやったのだろう
『お清』の母親が利賢と別れさせられ、石谷へと嫁ぎ直したことは、帰蝶がまだ稲葉山城に居た頃の話だった
その当時はまだ長男は利賢の手元に残っていたが、帰蝶が嫁いだ後で石谷にやられたことも聞いて知っている
そのため、繰上げで利三が本流斎藤の跡取りになったことも、知っている
ただ、帰蝶は、妹の椿が既に他界したことまでは、知らなかった
「もしもそうなれば、その蜷川家が」
「ああ。朝倉と手を組み、織田に刃を向ける可能性も出て来る」
「では、この戦が長引けば、それだけ織田の敵が増えるということではありませんか」
「厄介だな」
「殿・・・。何をそのように悠長な」
「心配する前に、行動しろ。吉法師様が生きてらしたら、きっとそう言われる」
「若・・・が」
「くよくよするな、前を向け。前を向いて、歩け。そう、教えてくださった。だから私は、こうして歩いていられる」
「殿・・・」
この夫人は、夫の話をする時、取り分け明るい顔をする
楽しそうな顔をする
そう、できるようになったのだな、と、なつはどこか淋しい想いもした
『吉法師』が過去の人間になりつつあるのを、嫌でも知らされるからだ
「殿は・・・」
言葉が紡げない
それで、良いのですか?の、簡単な言葉が
「ん?」
「 いえ、何でもありません・・・」
聞き返す帰蝶に、首を振るしかできなかった
雨は変わらず降り続け、人の動きを制限してしまう
なのにそれは、帰蝶の枷にもならない
歩き続ける帰蝶の脚を、止める役割すら果たしはしない
お願い
余り遠くに行かないで
それは、『女』としての感情がそう想わせるのか、『親離れ』をしようとしている子を繋ぎ止めていたい、『親』としての感情なのか、なつには自分の気持ちが理解できなかった
「石谷の件は諦めよう。代わりに土田との連携強化、金森との関係も濃密に。そうだ、与一様の遠山家ともこの際、同盟を表明するか」
「殿・・・」
「東を固めれば、土岐郷だけではどうしようもなくなる。石谷の動く範囲を狭めれば、例え斎藤に与したとて、どうにも出れなくなるだろう。折角弥三郎が加納を取ったのだからな、お能にも連絡して、長森を手の内に治めるには良い頃合だろう」
「そう・・・ですね」
「何も心配するな。きっと、上手く行く」
「 」
そう微笑む帰蝶に、なつは言葉なく頷いた
「それより」
と、いきなり帰蝶は躰を崩し、なつの膝に頭を乗せた
「とっ、殿?!」
驚いたなつは耳朶まで赤く染める
「しばらく躰を伸ばしてなかったからな。少し貸せ」
「殿・・・」
膝の上の帰蝶の顔が真っ直ぐ見れない
「昔はお能の膝を枕に、よく寝ていた。いつからそうできなくなったのか、自分でもわからない。『大人』になったもかも、知れないな」
「 」
苦笑いする帰蝶に、なつは声もなく俯く
そのため、帰蝶の目蓋を閉じた寝顔が視界に入った
「そう言えば、吉法師様にこんな話をされたことがある」
目蓋を閉じたまま、話す
「若が?」
「『女房』とは、側に居る女と言う意味だ、と。当時はお能が私の一番近くに居た女だったから、吉法師様はお能を私の女房だと仰ってた。だけど、お能も嫁に行き、私の側から離れた。それから戻っては来たものの、今は徳子の乳母として、徳子の側に居て、私の側には居ない」
「ええ・・・」
「代わりに、お前が側に居てくれる」
「殿」
帰蝶は、薄っすらと目を開け、顔の上に居るなつに言った
「今の私の女房は、お前だな。なつ」
「 ッ」
息が詰まるかと想った
それから帰蝶は何事もなかったかのように、再び目を閉じ、静かな寝息を立てた
眠りに入る帰蝶を、なつは目頭が熱くなるのを自覚しながら見詰めた
殿
最高の殺し文句ですよ、と、心の中で呟きながら
なつが墨俣に向って数日が経つ
降り続く大雨に、帰るに帰れなくなったとお能宛てに連絡が入り、市弥も俄に忙しくなり始めた
いつもならなつが代行していた仕事まで、隠居生活をしている市弥の許へやって来る
「大方様、申し訳ございません」
加納砦の普請工事に必要な金の引き出しに、市弥の署名を求める貞勝は顔を顰めて謝罪した
「仕方がないわ。なつだって、遊びに行ったわけではないのだもの。それにしても、よく降るものね」
「木曽川が氾濫し掛けていると、報告も入っております。堀田様が視察に向われておられますが、土塁の類も必要になるかと」
「長良川は、大丈夫かしら。私も子供の頃、木曽川が長梅雨で氾濫した経験を持ってるわ。父様が木曽川を支配していたので、他人事ではなかったのよね。大事に至らなければ良いのだけど」
「その辺りも、警戒しましょう。殿のおられる墨俣も長良川の畔ですから、何か指令が届くかと想います」
「この雨じゃ、なつも中々帰って来れそうにもないしね」
「何の準備もされないまま行かれましたので、何か不自由はないかと心配しております」
「なつは、上総介が居れば満足なのでしょう?顔さえ見ていれば、充分じゃないのかしら」
からかうわけではないが、市弥の言葉どおりなので貞勝も、苦笑いするしかない
「何はともあれ、殿のいらっしゃらない梅雨は初めての経験ですので、万が一の場合は大方様に表に出てもらう場合もあるかと想われます。その際は、何卒宜しくお願い申し上げます」
「承知しました。私こそ、夫が死んで以来、表に出ることはなかったから、不手際がないよう補佐をお願いします」
「畏まりました」
二人が梅雨を乗り切る相談をしている最中、表の廊下から声が掛かった
「大方様、城下の池田屋敷から、お客様がお見えになりました」
「池田屋敷?勝三郎の?」
「いえ、勝吉郎様です」
「佐治?」
「大方様?」
市弥も貞勝も、不思議そうな顔をして、互いの顔を見合う
「何かしら。通してちょうだい」
「はい」
帰蝶が墨俣の砦に入った日から続く雨の中、突貫して行なわれた十九条の砦の普請が粗方終わったのは、それから十日後のことだった
取り敢えず屋根だけは完成したと報告を受ける
この頃になると雨も小康状態が続き、なつも漸く重い腰を上げれるまでになり、清洲に戻ることができた
「では、殿。くれぐれもご無理をなさらないように」
「わかってる。なつ、足労だった。お前が居てくれたお陰で、私も随分助かった」
「いえ」
それから、周囲に聞こえないような小さな声で、それを話す
「私が居る間に殿の月の物が終わって、ようございました。この環境では、お一人では処置が大変でしたでしょうに」
「ああ、その点でも感謝してる」
明け透けに応える帰蝶に、なつも頬を赤くする
「感謝だなんて、そんな・・・」
「みなも、お前のお陰で女を呼び込めて助かっただろうに。私一人だったら、気を遣うだろうからな」
「いえ・・・」
兵助が手配した女達に相手をしてもらっている間、自分だけなら手持ち無沙汰な想いをして居たかも知れないが、なつの存在のお陰で気鬱にもならなかった
帰蝶の笑顔が本心からだとわかり、なつもほっと安堵する
「道中、気を付けてな」
「はい。それでは、わたくしはお暇させていただきます」
「義母上様に宜しく伝えてくれ」
「はい」
正直、帰蝶にとってもなつにとっても、しばしの別れはつらかった
名残惜しみながら見送り、見送られ、帰蝶は砦に、なつは清洲への帰路に着く
その表座敷に入った途端、兵助が呼ぶ
「殿。大垣方面から佐治殿がお着きになりました」
「佐治が?どうした」
兵助の影から、佐治が現れる
「何かあったのか?」
「殿、ご無沙汰しております」
「挨拶は後回しで良い。急ぎの用事ではないのか?お前が態々来ると言うことは、そうなのだろ?」
「はい。殿、近江が動きました」
「やはりか」
佐治の報告に、帰蝶は然程驚きはしない
想定内のことなのだから
「浅井か?六角か?」
「殿の読みどおり、浅井です」
「そうか」
「しかし、その準備があると言うだけで、実際まだ動きは取れないようです」
「理由は、琵琶湖か?」
「その通りで・・・。しかし、どうして」
先読みする帰蝶に、佐治は目を丸くさせて驚いた
「この長梅雨だ。加えて、近江三山の雪解け水。この雨の影響で、どこまで流れ込むか私ですら予想できないのだからな、例え浅井の本拠地が琵琶湖から離れた場所にあるとは言え、東の琵琶湖の被害はそのまま、統括している浅井にも響く。それを放って他国に侵入など、無理な話だ」
これは以前、鈴鹿山脈越えの時にも生かされた
最も、その山中で狙撃されたのだから、良いか悪いか判断は難しいが
「それに、浅井の本拠地・小谷山も、険しい山道を上り下りせねばならないと、なつから聞いてる」
「おなつ様が?」
「しばらくだが、私の世話をしにここに来ていた。ついさっき、帰ったばかりだ」
「そうだったのですか」
「その小谷山をこの雨の中、危険を承知で降りるにしても、得る物があるかどうかわからない。そんな賭けに出れるほど、浅井も大家ではないしな。戦をするにしても、それ相応の代償を払わなくてはならないのを、どこまで許容できるか。恐らくは、様子見を続けるつもりだろう」
「確かにそうかも知れませんね」
「父も、長良川の氾濫には頭を痛ませていた。だから、木曽川の対策も講じれると言うわけだが」
「そうでしたか、長良川の経験で」
「それで、浅井が動く時期については、予想できるか」
「はい。恐らくは、七月」
「七月か。まだ日があるな」
「農耕期でもありますが、短期決戦としても八月では動きが取れない、九月までは待てない。となると、七月辺りが怪しいかと」
「わかった。では、それまで池田隊は、自由に動けることになるな」
「はい、勝三郎様より、いつでもこちらの本戦に参加できる準備は整っていると、殿にお伝えするよう承っております」
「では、清洲から残りの部隊も呼び寄せるよう、お前から指示してくれ。今回引き連れた三百では、心許ない」
「承知しました」
一礼すると、佐治は表座敷を出て行く
それを見届けてから、帰蝶も動いた
「兵助、シゲを呼べ」
「はっ」
近江の浅井が動く時期の予想を立てると、自ずとこれから先どう動けば良いのかもわかって来る
浅井が琵琶湖を擁すること、背後を六角に突かれたまま不用意に美濃へは入れないことも理由にはなる
作戦の立案が増えた
そんな気がしていた
あれから利三には出陣の命令は下りず、だが、相変わらず城下の加納にも織田が出入りし、日々、数を増やして行った
織田を追い出せない斎藤の世評は下がり、逆に、美濃にとうとう腰を下ろした織田への評価は上がった
長森の老舗の大店、お能の実家である『岐阜屋』までもが出入りを始め、遂には羽島、海津までもが織田に加担していることが世間に明らかとなってしまった
人の口は性ないもの、噂は光よりも早く耳に入り、益々斎藤の評判が落ちて行く
それを肌で感じるも、まだ幼い当主は多くの人間の話を聞けるだけの度量もなかった
まるで違う
自分が知っている彼の方とは
彼女が彼と同じ年の時には、既に嫁入りの準備をしていた
他人の家の米を食べながらも、自分の居場所を確保し、自分を保ち続けていた
何もかもが、自分の知る十二歳とは違うことに戸惑い、それを上手く言葉にできないもどかしさにのた打ち回り、悶々とした時だけが流れる
呼び出しの掛からない今、酒に溺れるのは心が弱い証拠だろうか
今日も浴びるように酒を食らい、崩れるように床に伏せる
そんな毎日が続けば、妻のあんも嫌でも心配せざるを得なくなる
「旦那様・・・」
もう寝ているとは想うものの、それでもやはり心配で利三の様子を伺う
「お休みになられましたか?」
そっと襖を開け、中の様子を覗き込んだ
小さな行灯を一つだけの寝室は、暗くてよくわからない
「入りますね、失礼します」
小さな声で断りを入れ、中に進む
「 」
夫は想ったとおり、既に軽く鼾を掻いて眠っていた
枕元には酒の瓶が転がっている
「旦那様・・・」
静かにそっと枕元に膝を落とし、夫の寝顔を覗く
薄っすらと汗が浮かんでいた
「そんなにも・・・」
つらいのですか?
愛した人と戦うのは・・・・・
心内、織田との雌雄を早く決めたいのだろう
和睦か決裂か、それが決まれば己の覚悟も決まる
争う仲ではあっても、この先どうなるかわからない
斎藤は織田と同盟であった頃に戻りたいだろう
争えば争うほど、双方疲弊して行くのは目に見えている
これまで過去に遡っても、織田か、斎藤か、どちらかと決まったことがないのだから
義龍が死んでから、夫が目に見えて荒れて来ている
それを止める手立ては、あんにはなかった
「旦那様・・・」
利三の額に浮いた汗を、懐の絞りでそっと拭う
触れた木綿に気付き、利三が薄っすらと目を開けた
「 お目覚めですか?」
「 」
利三が何かを口にした
だが、その声はあんには届かなかった
「勝手に入ってしまって、申し訳ございませんでした。でも、旦那様のことが心配で・・・」
目の前に、帰蝶が居た
心配そうに自分を見詰めていた
「姫様・・・・・」
不甲斐ない自分を叱咤しに来たのかと想った
「姫様・・・・・」
乾いた心が、それを呼んだのか
利三は帰蝶の手首を掴み、引き寄せた
「旦那様?」
突然夫に手を引かれ、あんの躰が利三の上に重なり落ちる
それから、強く抱き締められ、口唇を重ねられた
「 ッ」
いきなりのこととて驚くも、相手は夫なのだから
二人の間には、子供も居るのだから
それは、おかしくはない行為であった
だが
間もなく利三の腕の力が抜け、あんは解放された
「旦那・・・」
頬が赤くなっているのが自分でもわかるその状況の中、夫はそれを呟いた
「 姫様・・・」
「 」
間近に居たから
だから、それが聞こえた
夫は、妻である自分を、愛しい人と間違えた
覚悟して嫁に入った
もらって欲しいと、自分から懇願した
その望みは叶えられた
だけど、それでも未だ夫の心が他の女にあると想い知らされ、平気で居られる筈もない
いつかは『帰蝶姫』に対して憎しみが生まれるだろう
それは多分、今なのだと、あんは想った
心沈めたまま、眠る夫を振り返りもせず、あんは部屋を出て行った
残された利三は夢の中、追えぬ人を追い駆ける
「姫様」
帰蝶は、泣くでもなく、怒るでもなく、ただ黙ってじっと自分を見詰めていた
「もう、充分でしょう?私達はよく戦った。これ以上争う理由などありません!姫様、お願いします・・・ッ」
掠れた声で、必死になって言葉を上げる
「 美濃に・・・、帰って来てください・・・」
利三の声に、応えはない
「お願いします・・・。このままじゃ、斎藤がバラバラになってしまう・・・ッ」
ほんの少し眉を寄せ、ほんの少し笑うと、帰蝶は背中を向けようとする
その手を掴もうと、利三は咄嗟に腕を伸ばした
「姫様ッ!」
利三は慌てて帰蝶を追い駆けた
だが、その手に帰蝶を捉えることは、できなかった
「姫様・・・・・ッ」
風に舞う木の葉のように、帰蝶の背中がどんどんと遠ざかるのを、利三はただ見送るしかできなかった
現実でも
夢でも
自分は一歩も近付けていない
その想いに、打ち拉がれた
十九条城主は築城の頃こそ斎藤であったが、道三が西美濃を平定した後、今は長井も関っている
尾張と違って山の多い美濃では、山そのものが自然の要害となり城を守っていた
それは稲葉山城にも同じことが言えるだろう
攻め難いからこそ、守り易い
斎藤、長井がそう想っている今が、好機であった
「攻められないのであれば、出て来れないよう周りを囲んでしまえば良い」
大垣からは恒興を、加納に秀貞が入っていることを確認し、一宮から信盛を呼び寄せる
その、向かっている最中、帰蝶の許に清洲の市弥から至急の書簡が届いた
「義母上様から?」
こちらに来て一度も便りを出さなかった義母の手紙に、帰蝶は首を傾げながら目を通す
平仮名ばかりの女文字ではあっても、才女の誉れ高い義母の文字はどれも優雅で美しい
しかし内容は誉められるようなものではなく、義妹の市の身に一大事が起きたと言う大層なものだった
「市に、一体何が・・・・・」
文面では明日をも知れぬ命とばかりに、帰蝶の帰還を願っている
「まさか、流行り病の類にでも・・・」
「殿・・・ッ」
側に居た兵助が、今直ぐ帰るよう助言する
「手遅れになってからでは、間に合いません!後のことは勝三郎殿にお任せして、殿は一時ご帰還をッ!」
「兵助・・・」
珍しく、帰蝶の顔が青褪めるのを、兵助も自覚した
帰蝶のみが一旦清洲に戻ることになり、十九条で張っている勝家にその旨が伝えられる
大垣から合流した恒興が作戦指揮官を執ることとなった
恒興の補佐として、佐治が入っていることが理由だった
猪突猛進な勝家よりも、冷静沈着な佐治の方が向いている
そう判断したのは、帰蝶よりも戦に馴れている兵助だった
急ぎのこととて、帰蝶もそれには反対することもなく秀隆を残して、兵助の本部隊だけで清洲への岐(みち)を辿る
同じく利三も、稲葉山城の夕庵から招集が掛かった
「 加納砦を?」
夕庵の言葉に、利三は耳を疑う
しばらくは様子を見る方向で、方針は決まったはずだった
なのに、その加納砦に仕掛けると言う
「夕庵様」
「それしか、方法がありません」
「ですが、そうなると姫様は・・・ッ!」
「姫様は、清洲におられるでしょう。墨俣か、あるいは加納に居る可能性は低い」
「何故・・・」
「そう言い切れるのか?答えは簡単です。例え夫が側に居ようとも、男ばかりの集団の中に、女房を置いておける筈がない。今回は遠征のようです。あれから織田が動く気配もない。恐らくは、墨俣が本陣なのでしょう。頻繁に人が出入りしているのも、確認済みです。姫様は清洲から指示を出しているのでしょう。なら、墨俣を後回しにし、先ずは加納から目障りな織田を追い出します」
「 」
勿論、作戦の指揮権は龍興にある
夕庵の提案でどうにかなるものではなかった
「想えば私は、もっと早くに気付けばよかった」
「夕庵様?」
「あの『織田』が、ここまでになることを、私は予想すらしていなかった」
『何もできなかった織田』が、総大将・義龍を引き摺り出したのだから
確かに、夕庵の呟きは最もだった
「私達の真の敵は、織田上総介信長ではない。姫様です」
「姫様が・・・」
やはり、そうなるのか
利三はある種の落胆を感じた
「上総介から姫様を引き離すこと。これが、私達の急務です」
「 」
利三は言葉なく頷いた
「恐らくこの数日の間に、若殿も指揮をせざるを得なくなる事態が起きるでしょう。その時は、加納を宜しく願いします」
「 承知しました・・・」
それで、帰蝶を取り返せるのなら・・・と
「 」
ふと、想い出す
義龍のことを
義龍の言葉を
いつか帰蝶をお前にと言っていた、あの、他愛ない会話を想い出す
他愛ない物の中でそれだけが、何故か今も胸に張り付いて離れない
もしも叶うのなら、今度こそ
その手をしっかり握り締め、二度と手放さない
ただ、隣に居て欲しい
それは、『罪』と言う名の『願い』だった
体力の有り余る松風は、墨俣から一度だけ休息を取ったのみで、後は清洲まで休みなく走り続けた
お陰で、普通の軍馬である兵助らは置いてけぼりを食らう
「義母上!義母上!」
清洲の城に入ると、鎧姿のまま帰蝶は局処を走り回り、市弥の姿を探した
「義母上!」
帰蝶の声に気付き、市弥が部屋から出て来る
「まあ、上総介!帰って来てくれたの?!」
「義母上!市に、何かありましたかッ?!」
帰蝶に駆け寄り、市弥は破顔して腕を掴んで言った
「上総介、聞いてちょうだい!」
「何ですか」
義母の、この笑顔が妙に気になる
そして、次の言葉で絶句する
「市が、妊娠したの!」
「 は・・・?」
一瞬、頭が真っ白になった
墨俣からここまで殆ど無休で走り続けて、重い鎧を着けたまま局処を走り回り、その結果がこれか、と
「殿・・・」
なつも帰蝶の帰還を知り、慌てて表に出て来る
「だから、市が母親になるのよ!」
「あの・・・、それだけで・・・?」
「他に何があると言うの!」
「 」
呆然とする帰蝶が気の毒過ぎて、なつも声が掛けられなかった
市に大事が起きました
一刻を争う事態です
早く告げたいので、今直ぐの帰還を望みます
そう書かれてあった市弥の書状を、丸く握り潰して廊下に叩き付ける
怒り心頭にドカドカと歩きながら去ってゆく帰蝶の背中を、頭に汗を浮かばせながら見送り、なつは叩き捨てられた手紙を拾い上げた
「なんて罪作りな・・・」
実の娘が漸く妊娠した喜びを誰かに伝えたい浮かれた気分と、今が大事な時であるのに些細なことで呼び戻される羽目に遭う災難
どちらの気持ちもわかるが故に、どちらの味方もできない
だからと言って、放っておける性分でもないなつであった
「殿・・・ッ!」
大手門に出る帰蝶を、なつは必死で追い駆けた
「どうか大方様を許してあげてください」
「なつ」
帰蝶も一人の母親である
話せばわかってくれると、なつはそう想った
「殿の置かれてるお立場を考えれば、手紙を送ってまで呼び戻すのは行き過ぎた行為かも知れません。ですが、どうか理解してあげてくださいませ。大方様は、嬉しかったのです。やっと、子宝に恵まれたのですもの」
「わかってる。私とて、市の妊娠が嬉しくないわけではない。だがな、今を考えろ」
「殿・・・」
厳しい、帰蝶の言葉になつは肩をビクンと震わせた
「なつ。お前が着いていながら、何故義母上を止められなかった。今がどんな大事な時期か、この間まで墨俣に居たお前が一番よく知っているのではないのか」
「ですが・・・」
「何故我慢させなかった」
「殿・・・ッ」
苛々した顔
きつく寄った眉
相当に怒っている様子が、それだけでも痛いほど理解できる
「 申し訳ございませんでした・・・」
「兎に角」
帰ってからゆっくり話を聞くと、帰蝶はとんぼ返りで墨俣に戻る
追い付けなかった兵助達は清洲の外で帰蝶とかち合い、休みなく来た道を戻らなくてはならない
「なんなんだ、一体」
立腹満足の帰蝶は眉を釣り上がらせてぶつくさ文句を言いながら、松風を走らせた
「なつ」
局処に戻ると、市弥が困惑したような顔をして出迎える
「大方様・・・」
「上総介、行ったの?」
「はい」
「どうして、怒っていたの・・・?」
さすがの市弥も、戻る際の帰蝶の表情が気懸かりだったようだ
「それは・・・」
「喜んでくれると想ったのよ?」
「ですが、殿は今、三河の松平とも大事な時期。大方様にもお話しましたが、同盟の件を纏めるには、殿に実績が必要なのです」
「知ってるわ。今川だけでは、足りないと言うのでしょ?」
「はい・・・」
「だったら尚更、どうしてあの子は周りを頼らないの」
「大方様・・・」
「私を、誰だと想っているの?」
市弥も、いつまで経っても自分を頼ってくれない帰蝶に、痺れでも切らせたのだろうか
「可児の兄上に、書状を出します」
「大方様・・・ッ」
「何のための同盟なの。何故あの子はそれを使わないの。どうして、いつまでも自分一人で何とかできると想い込むの?私、そう言うの大嫌いなの。それで私自身がずっと、つらい想いをしていたこと、あの子は知らないわけではないのよ?どうして、私と同じ轍を踏もうとするの。見てて、苛々するわッ」
「大方様・・・」
息巻く市弥に、なつは苦笑いする
「仕方ございません。それが、殿なのです。あなた様にそっくりな、不器用なご子息が愛された方です」
「なつ・・・」
「意地っ張りなのは、夫婦、よく似ておられました」
「 」
「何を考えているのか、さっぱりわからない。悩んでいても、それを打ち明けようともしない。若も、一人で悩んで、一人で苦しんでおられました。呆れるくらいに」
「そう・・・ね」
信長の想い出話に、市弥も少し苦笑いをして応える
「なら、こちらでも勝手に動いてしまいましょう」
「ええ?」
なつの発言に、市弥は目を丸くして驚く
「そんなことして、上総介が怒らない?」
「怒ったって、相手は義理の親ですもの。例え殿であろうと、どうすることもできない筈です。私も付いております」
「なつ・・・」
「大方様、如何なさいますか。このなつが、補佐を致します。なんなりと申し付け下さいませ」
昔の蟠りが、まるで嘘のように消えている二人を、束の間の晴れ間が包み込んだ
十九条を目指して、斎藤が進軍する
その情報は勝家の許に届けられ、即座に墨俣に送られた
しかし、墨俣には帰蝶はおらず、伝達だけが宙を浮く形となってしまった
夕庵は加納砦を先に奪い返す事を提案したが、安藤守就によって阻止される
「織田に加担する者が多く集まる加納より、織田に加担しそうな流れである墨俣を先に潰さねば、どちらも取り溢すことになります。織田に考える暇を与えては成りません。波状攻撃で休みなく織田を攻め続け、美濃から追い返すことが先決」
夕庵に反論の隙も与えず、守就は言い放った
「蝮の娘だから、どうだと申されるのですか。所詮、女は女。弱き者に変わりはございません」
「 」
剣幕も激しい守就に、夕庵は黙り込んだ
女は女
その『女』の力量を舐めて掛かる者に、『蝮の娘』をどうにかできるものなのか、と、これはひとつ見ものだと考える
「夕庵様・・・」
利三が不安げに小さな声で囁いた
「加納を先に追い出さなければ、いたちごっこでは」
「わかってます。ですが、安藤殿がああ仰るのです。ここは一つ、傍観を決め込みましょう」
「傍観?」
軍議の場から離れ、二人きりで話し合いをする
「安藤殿は、姫様をよくご存知ではない。安藤様だけではない。姫様をよく知っている人間は、ここには極僅かしか残って居ない。 後は、長良川の合戦で死んだか、あるいは」
「 尾張に流れた」
「その通り。真、残念なことにございます。せめてここに道空殿が残ってくだされば、何とか手の打ち様もあったものを」
道空は自分と違って最初から道三側に付いた
引き止められなかった自分にも、責任はある
だが、道三の味方の全てを奪いたくもなかった
何故、と、己を詰る
何故、峰丸様に付かなかったのか、と
義龍と同じだ
自分も、別れた姫君に縋っていた
助けてくれると、信じていた
道三が死んで五年
これが現実なのだと思い知らされた
帰蝶がまだ尾張を走っている頃、十九条に拠る織田信益から救助の要請が墨俣に入った
帰蝶不在の今、代わりに指揮を取るのは秀隆しか見当たらない
「筆頭」
成政の代わりに下に就いた、まだ若い部下が手元に走って来た
「犬山織田から、援軍の催促が」
「わかってるッ。 でも、殿が・・・」
せめて兵助が残っていてくれたら、何か対処も見付かるだろうが、その兵助は帰蝶に併走している
胎を括るしかなかった
「しょーがねぇ・・・。俺が執るか」
秀隆は縁側から庭先に出た
「一部を残して、十九条に向け出発する!赤母衣!」
「はい!」
「お前らは殿の帰還を待て!」
「承知ッ!」
十九条の信益からは矢の催促、前線に出ている勝家、可成の奮戦もあってか、持ち堪えるところは持ち堪えている
それも、いつ崩されるともわからない状態だった
馬を走らせながら、秀隆は祈る
「殿・・・、頼みます、早く戻ってください・・・ッ」
「我々は我々で動きましょう」
龍興は守就の手玉に取られている
益の見えない自分の作戦には、乗らないだろう
そう判断した夕庵は、利三を捕まえ独自で動くことを決意した
「織田が井ノ口に近付くことも想定し、やはり加納を先に奪取するのが相応しい」
利三だけでは心許ないのか、小牧道家も随伴させる
「長井は織田を美濃から追い出すことだけに、躍起になっています。それでは、その先の見通しが暗い。追い出すだけでは、どうにもならないのです。叩き潰さねばならないのです」
「姫様には・・・」
「安心なさい。姫様に危害が及ばぬ内に、手を打つのです」
「どうなさいますか、夕庵様」
道家が訊ねる
「織田は大垣を掠めてこちらに進軍すると見て、ほぼ間違いないでしょう。大垣周辺は斎藤を快く想わない豪族や国人が多い。だから、敢えて美濃三人衆の中でも人望の厚い稲葉殿が、曾根に張っておられるのです。それを使いましょう」
「曾根を・・・」
「お清殿」
「はい」
「あなたの奥方様は、稲葉殿の姪御殿でしたね」
「 はい」
「伝手などはないか、お訊ねいただけますか」
「あんに、ですか?」
「使えるものは、何でも使え。道三様に教わった言葉です。恐らくは姫様も、同様のことを考えておられる筈。大垣は、特に有力な市橋家が織田に加担しているとかいないとか、実しやかな噂も絶えません。増してや、この争いの中、どこに織田が陣を張っているのかもわからない」
「墨俣と加納だけではないと?」
「姫様は、抜け目のないお方です。真、小賢しい姫君様であられました。誰が味方で、誰が敵か判断できぬものは打ち捨てる。寸分の容赦なく。いやいや、さすがは道三様の薫陶を受けられたお方。道空殿を引き込んだ時点で、私達は警戒せねばならなかったのです」
「多治見の金森も」
「ええ。斎藤とは因縁浅からぬ関係。姫様はそこに、目を付けた」
「姫様らしい」
道家は、俄に苦笑いした
「だからこそ、厄介なのです。姫様が自分らしさを前面に出してしまうと、我らの勝機は失われる。今はまだ織田の家臣らに、その殆どを抑えられておられるのでしょうが、姫様が単独で動けば、勝てません」
「ならば、姫様が自由に動けていない今の内に、先手を打つ」
利三が、呟くように告げた
「その通り。お清殿。そなたの働きが、この戦を決します」
「夕庵様・・・」
「姫様から、戦うための武器を、奪ってください」
「 」
そのために、妻のあんを利用しなくてはならない
帰蝶のためか
あんのためか
利三は、悩んだ
帰蝶のために妻を利用するのか
それで妻は、納得してくれるのか
自分は、あんを裏切るかも知れない
そんな不安に包まれ、心に暗雲が垂れ込めた
全ては、あなた様の御ために
そう、自分を納得させるしかなかった
誰に「そうしろ」と言われたわけではない
ただ自分が「そうしたかった」だけである
単純な、だけど人が失いがちな想いを抱え、帰蝶は走った
斎藤を倒すため、墨俣に向けて
風を切り、川を越え、生まれた故郷に弓を引く
ただ、夫との約束を果たすため
ただ、夢を夢のままで終わらせたくないがため
ただ
苦しみから、解放されたいがため・・・・・・
兎に角、緊張する
何が理由か、さっぱりわからない
夫に嫁いだ時でさえ、こんなにも緊張はしなかった
さっきから喉はカラカラに乾き、いつもは平気な爪先が痺れて仕方がない
できることなら、ここから逃げ出したい
帰蝶だけではなく、秀隆ですら、そう想ってしまった
ずっと表座敷を支配する嫌な緊張感に、他の男達ですら感染している
静寂が長く続き、誰も無駄口を叩かない
息をする音すら、聞こえない
そんな嫌な雰囲気が朝から続き、やがて
「養徳院様、お見えになりました」
その声に、一同揃ってビクンと震えた
嫌な瞬間がやって来た
十九条城を直ぐに落せるとは想えなかった帰蝶は、先ず手始めにその手前に砦を作らせた
斎藤がどう出るか見ものではあったが、まだ幼い当主ではどうにもならなかったのか、然程妨害も出ていないと勝家から報告が入る
合流した信益の部隊が護衛を勤め、充分に役割を果たしてくれていると言う
それだけで犬山を信用することはできないが、当面は美濃攻めに集中できることだけは理解した
一年限りの期限付きとは言え、しばらくはここから指揮を出さなくてはならない
そのためには、荒れた砦を綺麗に均す必要があった
雨の中、突貫工事で改築作業が進む
指揮しているのは兵助だった
「右の屋根も瓦を一度剥がしてくれ!」
そこに登る雑兵に大声で命令する
上からは「へーい」と暢気な声が帰って来た
その兵助の背中から
「猪子殿」
「
酷く聞き覚えのある声を聞き、兵助は一瞬肩をビクンと震わせ、それから恐る恐る振り返った
「雨の中、作業、ご苦労様」
「お・・・、おなつ様・・・」
自分でも笑ってしまうほど、膝がカクカクと鳴っていた
「おっ、お早いお着きで・・・」
「ええ、雨を待っていたら夏になってしまうと堀田様が仰るもんですから、強行しましたの」
綺麗な微笑みを浮かべるなつが、何故か恐ろしく感じるのは、それだけなつの顔を見ていない日が続いたということである
言うなれば、「鬼の居ぬ間」のなんとやら、だったのだろう
「殿は、いらっしゃいますか」
「はっ、表座敷でおなつ様のご到着を、今か今かと首を長くしてお待ちしてられます」
「まぁ・・・」
兵助の言い回しが余りにも大袈裟で、なつは小袖でそっと口元を隠して笑った
その姿ですら、恐ろしく感じる兵助なのであった
折りしも雨は小降りに変わり、なつは輿から降りて来たまま小袖を頭から被り砦に入った
後ろから付いて来る兵助は、なつがこれ以上濡れないよう、折れた戸板を屋根代わりにして持ってやると言う気の遣いようである
よく知らない雑兵達は、誰が来たのかと興味深げにその様子を覗き込んだ
「養徳院様、お見えになりました」
小姓の声に、表座敷の帰蝶らはこれ以上ないほど緊張の糸を張り巡らせた
久し振り、と表現して、良いのだろうか
帰蝶が清洲を出て、まだ四~五日しか経っていない
久し振りと声を掛けるには、不十分な日数だった
「殿・・・」
それでも、「久し振り」と感じられるほど久し振りに見た帰蝶の顔に、なつは頬が緩み、瞳が潤んだ
「来たか、なつ」
「はい・・・」
「こんな、粗雑な場所まで、よくもまぁ、足を踏み入れる気になったもんだ。改修工事も、この雨でままならぬと言うのに」
「人のことが言えますか?」
そんな環境で、女が一人、男に混じって寝起きをしているのに
呆れた顔をする帰蝶に、なつも苦笑いで応えた
「で、どうした、急に。私の様子でも、伺いに来たのか?」
「それだけではございません」
なつは懐に仕舞っていた書簡を取り出し、帰蝶の手前まで歩いて膝を落として直接手渡した
「何だ?」
「三河の松平家より、書状が届きました」
「三河の?」
一瞬キョトンとする帰蝶に
「もしや、お忘れでしたか?三河の松平家ご当主様と、謁見なされたことを」
「いや」
『覚えてないだけだ』
そう言いそうな顔をする帰蝶を、なつは軽く睨んだ
相変わらずだ
そう感じ、なつは何故かほっとする
墨俣と加納の両方を一度に落とし、多忙極まるかと想っていた
墨俣に留まると聞いた時、もう二度と逢えないのではないかと不安になった
その矢先に松平から手紙が届き、なつは自分が届けると言い張った
「もしや急ぎのご用ではないかと想い、こうしてお届けに参った次第でございます」
「そうか、足労だった。脚を伸ばせる場所もないが、清洲からここまで来たのだからな、少し躰を休ませておけ」
「そのことなのですが」
「何だ?」
「殿は、いつまでここに留まられるおつもりですか?」
「美濃を落すまでだが?」
何故、そんなことを聞くのかと言うような顔をする帰蝶に、何故、そんな先のわからないまで留まると簡単に言えるのかと、なつは責めるような顔をする
「おなつ様、清洲の様子は如何ですか?」
不意に秀隆が声を掛けて来た
「
「『お能』が居るからな、蜂須賀が先頭に立っているのだろう」
正勝がお能に惚れているのは周知の事実で、帰蝶の言い回しに周りは笑い出した
なつだけは、少し微笑む程度でじっと帰蝶を見詰めている
「さて、昨日の今日で斎藤がどう出るか予測も付かんが、じっと待っているのも気が引ける。シゲ」
「はい」
「加納の視察を頼めるか。林の部隊も到着しているだろうが、向うからやって来るのを暢気に待っていられる暇もない。林が居たら、加納の改築普請を始めるよう、伝えてくれ」
「承知しました」
秀隆は素早く立ち上がると、表座敷を出て行った
「後の者も、呼ぶまで自由にしていろ。兵助」
「はい」
「さっきの話、やはりお前にもう一度頼む。どう申請すれば良いのか、私にはわからない」
「承知しました」
「さっきの話?」
なつがそう聞き返すのを、兵助は後ろ耳で聞きながら、今度は気を病むこともなく座敷を出て行った
それに合わせて、他にも居座っていた男達も出て行く
座敷には帰蝶となつの二人だけが残された
「殿?」
「ああ」
「なんですか?」
「いや、『花を売る』女が必要だからな、その手配を兵助に頼んだだけだ」
「花を売る・・・」
それが、戦場にも出向いてくれる娼婦達のことだと、説明を受けなくともなつには理解できた
尚更、帰蝶は直ぐには帰るつもりはないのだと言うことも、わかった
滞在期間が長くなるからこそ、兵士達に女を宛がうのであり、直ぐに帰るつもりなら呼ぶ必要もない
「殿・・・」
「心配するな、生きて帰る」
そう微笑む帰蝶に、声が掛けられない
ごめんなさい
心の中で謝る
私はいつの間にか、あなたの無事だけを祈っている
戦に勝利することへの祈りを、忘れてしまっている、と、自分を責めた
「しばらくは滞在するか?」
「え」
「それとも、雨が軽くなれば帰るのか?」
「
あなたは、どちらを望まれますか
倅に言われた言葉を想い出す
今の母上、まるで死にそうなお顔をなさってます、と
そんな顔を帰蝶には見せられない
「私は・・・」
おかしい
自分でも、そう想う
「長く居ては、みなも気が緩められないでしょうから、雨が上がれば」
お暇します
そう言おうとする表情は笑えても、口唇が引き攣って仕方がない
「そうか」
少し眉を寄せて微笑む帰蝶に、なつも指が動きそうになる
その直後
帰蝶の背後で高らかな雷鳴が「ドーン!」と響き渡り、その後をまるで雲が裂けたかのように雨が塊となって降り落ちた
「
「
美濃は大雨に見舞われたが、尾張の清洲は曇り空の程度で済んでいる
ただ、帰蝶の居るであろう西の空を覆う黒い雲を見上げながら、市弥は無意識に両手を握り合わせた
その市弥に、縁側の下から声を掛ける者がいた
「大方様」
「
生まれたばかりの雪丸を抱いた千郷が、お絹に付き添われてやって来た
「まあ、お絹!」
「大方様、お久し振りでございます」
「すっかり老け込んで」
「一言余分でございます」
ニコニコと笑顔で辛辣な言葉を投げ掛ける市弥に、お絹も千郷も、頭から汗を浮かばせた
「どうしたの?急に。来るとわかっていたら、出迎えの準備でもしたのに」
元来、子煩悩な市弥は他人の子だろうがお構いなく、幸丸を腕に抱き、あやしながら上機嫌で聞いた
「お気遣いなく。実は、荒尾の父が屋敷に参りまして」
「荒尾殿が?」
「殿の美濃攻めに参加したとのことで」
「ええ?」
千郷の言葉に、市弥は驚いた顔を見せる
「滝川殿に援軍を頼まれ、年も考えずホイホイ付いて行ったそうなんです。その帰り道、ここを通ったので序でにと、顔を覗きに来られて」
「まあ、そうだったの。上総介の世話をしてくださったのね。私からも、お礼申し上げます」
軽く会釈する市弥に、お絹は、本当に変わったな、と、昔を懐かしんだ
「勿体無い」
市弥自ら頭を下げ、千郷は恐縮した
「それで、父からたまにはお姑様に孫の顔を見せてやってはどうかと言われまして、前触れもなく突然お邪魔した次第でございます。お義母様は、お手隙でしょうか」
「それが、なつは今朝から上総介のところに」
「と、申しますと・・・」
お絹には、嫌な予感が走った
「美濃の墨俣へ出張中です」
「
聞いた瞬間、千郷は気が遠くなった
「奥様ッ!」
お絹が慌てて抱き支える
「
「はぁぁ・・・」
悔しさで口唇を噛み締める千郷に、市弥はなんと声を掛ければ良いのかわからない
「して、お義母様は何故、女の身で戦の場などに乗り込んだのでしょうか。もしや、殿の御身に何か」
「いえ、それは問題ありません。上総介は、丈夫なだけが取り得の子ですから」
「
他人の娘である帰蝶を、よもや自分の子と思い込んでいるのではあるまいな、と、お絹もなんと言葉を交わせば良いのかわからない
「実は、三河の松平との交渉が、上手く行きそうなの。だから、上総介宛てに松平から手紙が届いたのだけど、それを手渡しに行って不在なのよ」
「そうだったんですか。三河の松平家と。主人からその話は聞かされていたのですが、如何せん殿は・・・」
「気の早い子ですから、直ぐに返事がないと癇癪を起して」
「ほほほ・・・」
姑ながら、嫁のことをよく把握していると、お絹は愛想笑いに顔を引き攣らせる
「仲介に林が入ってますから、上総介の気性なども充分伝わっているのでしょうね。可も不可も、どちらにしても手に取ってわかる結果がないと、落ち着かないのよ、あの子は。それで今まで散々、苦労して来たのだから」
「大方様・・・」
優しい目付きになる市弥に、千郷は、相手が嫁とは言えど、母の愛情を垣間見たような気がする
「墨俣の方も、何とか落ち着きそうなの」
「そうですか、それは一安心ですね」
「確か勝三郎は」
「はい、大垣の方へ。父から伺いました」
「交渉術は、勝三郎や佐治の方がずっと上手いですからね。万が一にも大事には至らないでしょう」
「そうなることを、願っております。子も生まれたばかりで早々に未亡人は、ご免ですから」
「言えてるわ」
互いに笑い飛ばし、腕の中で動く幸丸に目を掛ける
「それにしても、幸丸も少し大きくなったわ。長男の貫禄が出て来たのかしら」
「ありがとうございます。大方様に誉めていただけるなんて、光栄です」
「それに引き換え、うちの娘達はまだ誰一人子を産んでなくて。いつになったら、孫が抱けるのかしら」
「大方様・・・」
少し困ったような顔をする千郷に、市弥も苦笑いする
「勿論、ここで共に暮らしている帰命も、私の可愛い孫に変わりはないわ。でもね、違うのよ」
「え?」
「『息子の嫁が産んだ子』と、『自分の娘が産んだ子』では、なんて言うのかしら、距離・・・みたいなもの?それが違うの」
「そのお気持ち、お察し致します」
年の功を地で行くお絹が、市弥の想いを理解した
「どう言うこと?お絹」
「自分の子の血が入っていても、自分とは違う腹から生まれて来た、そんな感覚があるのです。だけど、自分の娘は自分の分身にも想える。自分にずっと近い。だから、自分がまた、産んだかのような想いが持てるのです。愛せるのです。自分自身のように」
「お絹・・・」
「勿論、女にとっては『内孫』の方が大事ですよ。それはちゃんと理解して、だけど、そうじゃない部分も、人の心の中には確かにあるんです。冷たい言い方をするなら、『他の女が産んだ子』に、なるのでしょうか」
「
黙りこくる千郷に、お絹は諭すように優しい声で言って聞かせた
「奥様も、お年を召されてお孫様がお生まれになられたら、わかりますよ。みんなそうやって、順番が回って来るのですから」
「私も・・・?」
「ええ」
まだ年若い千郷には、理解できない、女の複雑さがここにあった
市弥が帰蝶を自分の子と想い違うような発言を繰り返すのは、何かを示唆しているのだろうか
例えば、やはり息子を殺した女と言う感情が蟠りになっているのか、あるいは、帰命を大事にせねばならないと言う一途な想いがそうさせているのか
それでもやはり、千郷にはわからない
『同じ孫』で何故、分別せねばならないのか、と
降り続く雨音を背に、帰蝶は元康からの手紙に目を通していた
その傍らでは心配そうな顔をするなつが、じっと見詰めている
「中々に、難しい問題だ」
「殿?」
読み終わった書状を畳み、なつに告げる
「織田に与するには、その口実となる材料が必要だと」
「
「有態に言えば、そうなるな」
「じゃあ、松平は、殿に美濃を落せと?落すまで、味方にはならないと?」
「そう急くな、なつ」
「ですが・・・ッ」
「松平は、こう書いてあった。私個人としては、上総介と手を組みたい。だが、荒くれな三河武士を纏めるには、自分独りでは力不足。だから、上総介の手を借りたいと」
「殿の?」
帰蝶の説明に、なつは目を丸くさせた
「それが、実績を作るということだ」
「実績・・・」
「今川を倒したとて、その今川に松平が居たのだからな、言うなれば我らは敵だ。敵の力量を見定めるには、徹底的に叩かれねば目には見えない。しかし、松平は生きて戦地を脱した。どう言うことか、わかるか?」
「
「そうだ。私の采配は、まだまだ甘いと言うことだ。松平は、自分を屈せる相手でなければ、納得しないと教えてくれたのだ。これを教訓として生かすしか、方法はないだろう?」
「ですが、どのように松平の将らを屈するのですか?また、戦でもするのですか?」
「あはは。手を組もうかと言う相手と、戦か?花見合戦ではないのだぞ?」
「なら」
「なつ」
「
「焦るな」
「
言葉が直ぐには出て来ない
「はい・・・」
なつは息を吸い、それから応えた
「次郎三郎と言う男は、中々大したものだ。長く人質生活を送っていたからか、人の顔色を伺うのが上手い。私には到底、真似はできまい」
「殿に、人の顔色を伺う必要など、ございません。私達は殿の命じるまま、動くのみです」
「それが、松平の組織とは基礎が違うのだ、なつ」
「殿・・・」
「私達は、共に戦うと言う一つの目標によって、繋がりが持てている。松平は、次郎三郎を守ることで、結束力を固めている。その違いが、わかるか?」
「
「守るべき者が、戦場に居る。守らなくては成らない。死んでは成らない。だから、強くなれる。次郎三郎が死ねば、ヤツらは否応なしに、憎い今川の一部として組み込まれる。私だったら、斎藤に跪くのに等しい屈辱だろう。だから、ヤツらは必死になる。必死になって戦い、必死になって次郎三郎を守る。私は、自分から好んで前線に立つ。だから、シゲ達も前に出ざるを得なくなる。林は私に、その違いを教えたかったのかも知れない」
「林殿が、それを・・・」
「してやられたな」
そう言って、魅力的ににかっと笑い、なつの頬を赤くさせる
なつも胸の中で呟く
私は、殿のその笑顔にいつも、してやられます、と
「次郎三郎と言う男は、どんなものだ?末森で預かっていたのだろう?」
「ええ、確かに今川に引き渡されるまでは、織田でお預かりしておりました。ですが、彼の方は大方様預かりでしたので、私とは一切の接点はございません。年齢的に勘十郎様のご学友扱いをされておりましたので、その当時、私は」
「ああ、お前と義母上様は、水と油だったからな」
「お恥しいお話でございます・・・」
「私もあれから、義母上様にお話でも伺っておけばよかった。今更後悔するな、と言われるだろうが」
「いいえ・・・」
「次郎三郎の話では、勘十郎と随分仲が良かったと、そんな話し振りだった。だから、尚更聞けなかった。義母上様にまた、つらい想いをさせるのではないか、と」
「殿・・・」
元康の話を聞けば、一緒に居た信勝のことも想い出すだろう
義母はまた、泣いて暮らさねばならないのかと、それが気懸かりだった
「まぁ、付き合いができれば、嫌でも知ることになるだろう」
「殿」
「この話は忘れろ」
「
帰蝶が笑顔で居れば居るほど、どうしてか胸が苦しくなる
「それと・・・。殿が以前仰ってた、土岐郷の石谷(いしがや)のことですが」
「何かわかったか」
「殿が仰られていたのと、ほぼ近い状態でした」
「やはり、織田には関与しない方針だったか」
「本流斎藤家のご長男が後を継がれ、石谷の全ての実権を握っております。とてもではありませんが、『斎藤』と争っている織田に与する心積もりは見当たりませんでした」
「さすがに孫九郎は頭が切れる。抜け目がないのも仕方がない」
「殿」
予めわかっていたかのように、帰蝶は存外に落ち着いていた
「多治見の金森と謁見の帰り、土岐に寄ってみた」
「土岐に?」
「石谷は弟に傾倒しているようだ」
「弟と申しますと、斎藤」
「斎藤清四郎利三だ」
「
「この戦、長引けば長引くほど土岐郷も美濃斎藤に加担するだろうな。そうなると、越前の蜷川家がどう出るか」
「蜷川家・・・」
「おき・・・。斎藤清四郎の、母の実家だ」
なつの前で『お清』の名を出したくないのか、帰蝶は少し苦しそうな面持ちで応えた
「蜷川は越前の名門であることを良いことに、何かと美濃の内政干渉に関りたがる。おまけに、本流斎藤の婚姻まで口出しする始末」
だから、そうなる前に父は、側室生まれの椿を嫁にやったのだろう
『お清』の母親が利賢と別れさせられ、石谷へと嫁ぎ直したことは、帰蝶がまだ稲葉山城に居た頃の話だった
その当時はまだ長男は利賢の手元に残っていたが、帰蝶が嫁いだ後で石谷にやられたことも聞いて知っている
そのため、繰上げで利三が本流斎藤の跡取りになったことも、知っている
ただ、帰蝶は、妹の椿が既に他界したことまでは、知らなかった
「もしもそうなれば、その蜷川家が」
「ああ。朝倉と手を組み、織田に刃を向ける可能性も出て来る」
「では、この戦が長引けば、それだけ織田の敵が増えるということではありませんか」
「厄介だな」
「殿・・・。何をそのように悠長な」
「心配する前に、行動しろ。吉法師様が生きてらしたら、きっとそう言われる」
「若・・・が」
「くよくよするな、前を向け。前を向いて、歩け。そう、教えてくださった。だから私は、こうして歩いていられる」
「殿・・・」
この夫人は、夫の話をする時、取り分け明るい顔をする
楽しそうな顔をする
そう、できるようになったのだな、と、なつはどこか淋しい想いもした
『吉法師』が過去の人間になりつつあるのを、嫌でも知らされるからだ
「殿は・・・」
言葉が紡げない
それで、良いのですか?の、簡単な言葉が
「ん?」
「
聞き返す帰蝶に、首を振るしかできなかった
雨は変わらず降り続け、人の動きを制限してしまう
なのにそれは、帰蝶の枷にもならない
歩き続ける帰蝶の脚を、止める役割すら果たしはしない
お願い
余り遠くに行かないで
それは、『女』としての感情がそう想わせるのか、『親離れ』をしようとしている子を繋ぎ止めていたい、『親』としての感情なのか、なつには自分の気持ちが理解できなかった
「石谷の件は諦めよう。代わりに土田との連携強化、金森との関係も濃密に。そうだ、与一様の遠山家ともこの際、同盟を表明するか」
「殿・・・」
「東を固めれば、土岐郷だけではどうしようもなくなる。石谷の動く範囲を狭めれば、例え斎藤に与したとて、どうにも出れなくなるだろう。折角弥三郎が加納を取ったのだからな、お能にも連絡して、長森を手の内に治めるには良い頃合だろう」
「そう・・・ですね」
「何も心配するな。きっと、上手く行く」
「
そう微笑む帰蝶に、なつは言葉なく頷いた
「それより」
と、いきなり帰蝶は躰を崩し、なつの膝に頭を乗せた
「とっ、殿?!」
驚いたなつは耳朶まで赤く染める
「しばらく躰を伸ばしてなかったからな。少し貸せ」
「殿・・・」
膝の上の帰蝶の顔が真っ直ぐ見れない
「昔はお能の膝を枕に、よく寝ていた。いつからそうできなくなったのか、自分でもわからない。『大人』になったもかも、知れないな」
「
苦笑いする帰蝶に、なつは声もなく俯く
そのため、帰蝶の目蓋を閉じた寝顔が視界に入った
「そう言えば、吉法師様にこんな話をされたことがある」
目蓋を閉じたまま、話す
「若が?」
「『女房』とは、側に居る女と言う意味だ、と。当時はお能が私の一番近くに居た女だったから、吉法師様はお能を私の女房だと仰ってた。だけど、お能も嫁に行き、私の側から離れた。それから戻っては来たものの、今は徳子の乳母として、徳子の側に居て、私の側には居ない」
「ええ・・・」
「代わりに、お前が側に居てくれる」
「殿」
帰蝶は、薄っすらと目を開け、顔の上に居るなつに言った
「今の私の女房は、お前だな。なつ」
「
息が詰まるかと想った
それから帰蝶は何事もなかったかのように、再び目を閉じ、静かな寝息を立てた
眠りに入る帰蝶を、なつは目頭が熱くなるのを自覚しながら見詰めた
殿
最高の殺し文句ですよ、と、心の中で呟きながら
なつが墨俣に向って数日が経つ
降り続く大雨に、帰るに帰れなくなったとお能宛てに連絡が入り、市弥も俄に忙しくなり始めた
いつもならなつが代行していた仕事まで、隠居生活をしている市弥の許へやって来る
「大方様、申し訳ございません」
加納砦の普請工事に必要な金の引き出しに、市弥の署名を求める貞勝は顔を顰めて謝罪した
「仕方がないわ。なつだって、遊びに行ったわけではないのだもの。それにしても、よく降るものね」
「木曽川が氾濫し掛けていると、報告も入っております。堀田様が視察に向われておられますが、土塁の類も必要になるかと」
「長良川は、大丈夫かしら。私も子供の頃、木曽川が長梅雨で氾濫した経験を持ってるわ。父様が木曽川を支配していたので、他人事ではなかったのよね。大事に至らなければ良いのだけど」
「その辺りも、警戒しましょう。殿のおられる墨俣も長良川の畔ですから、何か指令が届くかと想います」
「この雨じゃ、なつも中々帰って来れそうにもないしね」
「何の準備もされないまま行かれましたので、何か不自由はないかと心配しております」
「なつは、上総介が居れば満足なのでしょう?顔さえ見ていれば、充分じゃないのかしら」
からかうわけではないが、市弥の言葉どおりなので貞勝も、苦笑いするしかない
「何はともあれ、殿のいらっしゃらない梅雨は初めての経験ですので、万が一の場合は大方様に表に出てもらう場合もあるかと想われます。その際は、何卒宜しくお願い申し上げます」
「承知しました。私こそ、夫が死んで以来、表に出ることはなかったから、不手際がないよう補佐をお願いします」
「畏まりました」
二人が梅雨を乗り切る相談をしている最中、表の廊下から声が掛かった
「大方様、城下の池田屋敷から、お客様がお見えになりました」
「池田屋敷?勝三郎の?」
「いえ、勝吉郎様です」
「佐治?」
「大方様?」
市弥も貞勝も、不思議そうな顔をして、互いの顔を見合う
「何かしら。通してちょうだい」
「はい」
帰蝶が墨俣の砦に入った日から続く雨の中、突貫して行なわれた十九条の砦の普請が粗方終わったのは、それから十日後のことだった
取り敢えず屋根だけは完成したと報告を受ける
この頃になると雨も小康状態が続き、なつも漸く重い腰を上げれるまでになり、清洲に戻ることができた
「では、殿。くれぐれもご無理をなさらないように」
「わかってる。なつ、足労だった。お前が居てくれたお陰で、私も随分助かった」
「いえ」
それから、周囲に聞こえないような小さな声で、それを話す
「私が居る間に殿の月の物が終わって、ようございました。この環境では、お一人では処置が大変でしたでしょうに」
「ああ、その点でも感謝してる」
明け透けに応える帰蝶に、なつも頬を赤くする
「感謝だなんて、そんな・・・」
「みなも、お前のお陰で女を呼び込めて助かっただろうに。私一人だったら、気を遣うだろうからな」
「いえ・・・」
兵助が手配した女達に相手をしてもらっている間、自分だけなら手持ち無沙汰な想いをして居たかも知れないが、なつの存在のお陰で気鬱にもならなかった
帰蝶の笑顔が本心からだとわかり、なつもほっと安堵する
「道中、気を付けてな」
「はい。それでは、わたくしはお暇させていただきます」
「義母上様に宜しく伝えてくれ」
「はい」
正直、帰蝶にとってもなつにとっても、しばしの別れはつらかった
名残惜しみながら見送り、見送られ、帰蝶は砦に、なつは清洲への帰路に着く
その表座敷に入った途端、兵助が呼ぶ
「殿。大垣方面から佐治殿がお着きになりました」
「佐治が?どうした」
兵助の影から、佐治が現れる
「何かあったのか?」
「殿、ご無沙汰しております」
「挨拶は後回しで良い。急ぎの用事ではないのか?お前が態々来ると言うことは、そうなのだろ?」
「はい。殿、近江が動きました」
「やはりか」
佐治の報告に、帰蝶は然程驚きはしない
想定内のことなのだから
「浅井か?六角か?」
「殿の読みどおり、浅井です」
「そうか」
「しかし、その準備があると言うだけで、実際まだ動きは取れないようです」
「理由は、琵琶湖か?」
「その通りで・・・。しかし、どうして」
先読みする帰蝶に、佐治は目を丸くさせて驚いた
「この長梅雨だ。加えて、近江三山の雪解け水。この雨の影響で、どこまで流れ込むか私ですら予想できないのだからな、例え浅井の本拠地が琵琶湖から離れた場所にあるとは言え、東の琵琶湖の被害はそのまま、統括している浅井にも響く。それを放って他国に侵入など、無理な話だ」
これは以前、鈴鹿山脈越えの時にも生かされた
最も、その山中で狙撃されたのだから、良いか悪いか判断は難しいが
「それに、浅井の本拠地・小谷山も、険しい山道を上り下りせねばならないと、なつから聞いてる」
「おなつ様が?」
「しばらくだが、私の世話をしにここに来ていた。ついさっき、帰ったばかりだ」
「そうだったのですか」
「その小谷山をこの雨の中、危険を承知で降りるにしても、得る物があるかどうかわからない。そんな賭けに出れるほど、浅井も大家ではないしな。戦をするにしても、それ相応の代償を払わなくてはならないのを、どこまで許容できるか。恐らくは、様子見を続けるつもりだろう」
「確かにそうかも知れませんね」
「父も、長良川の氾濫には頭を痛ませていた。だから、木曽川の対策も講じれると言うわけだが」
「そうでしたか、長良川の経験で」
「それで、浅井が動く時期については、予想できるか」
「はい。恐らくは、七月」
「七月か。まだ日があるな」
「農耕期でもありますが、短期決戦としても八月では動きが取れない、九月までは待てない。となると、七月辺りが怪しいかと」
「わかった。では、それまで池田隊は、自由に動けることになるな」
「はい、勝三郎様より、いつでもこちらの本戦に参加できる準備は整っていると、殿にお伝えするよう承っております」
「では、清洲から残りの部隊も呼び寄せるよう、お前から指示してくれ。今回引き連れた三百では、心許ない」
「承知しました」
一礼すると、佐治は表座敷を出て行く
それを見届けてから、帰蝶も動いた
「兵助、シゲを呼べ」
「はっ」
近江の浅井が動く時期の予想を立てると、自ずとこれから先どう動けば良いのかもわかって来る
浅井が琵琶湖を擁すること、背後を六角に突かれたまま不用意に美濃へは入れないことも理由にはなる
作戦の立案が増えた
そんな気がしていた
あれから利三には出陣の命令は下りず、だが、相変わらず城下の加納にも織田が出入りし、日々、数を増やして行った
織田を追い出せない斎藤の世評は下がり、逆に、美濃にとうとう腰を下ろした織田への評価は上がった
長森の老舗の大店、お能の実家である『岐阜屋』までもが出入りを始め、遂には羽島、海津までもが織田に加担していることが世間に明らかとなってしまった
人の口は性ないもの、噂は光よりも早く耳に入り、益々斎藤の評判が落ちて行く
それを肌で感じるも、まだ幼い当主は多くの人間の話を聞けるだけの度量もなかった
まるで違う
自分が知っている彼の方とは
彼女が彼と同じ年の時には、既に嫁入りの準備をしていた
他人の家の米を食べながらも、自分の居場所を確保し、自分を保ち続けていた
何もかもが、自分の知る十二歳とは違うことに戸惑い、それを上手く言葉にできないもどかしさにのた打ち回り、悶々とした時だけが流れる
呼び出しの掛からない今、酒に溺れるのは心が弱い証拠だろうか
今日も浴びるように酒を食らい、崩れるように床に伏せる
そんな毎日が続けば、妻のあんも嫌でも心配せざるを得なくなる
「旦那様・・・」
もう寝ているとは想うものの、それでもやはり心配で利三の様子を伺う
「お休みになられましたか?」
そっと襖を開け、中の様子を覗き込んだ
小さな行灯を一つだけの寝室は、暗くてよくわからない
「入りますね、失礼します」
小さな声で断りを入れ、中に進む
「
夫は想ったとおり、既に軽く鼾を掻いて眠っていた
枕元には酒の瓶が転がっている
「旦那様・・・」
静かにそっと枕元に膝を落とし、夫の寝顔を覗く
薄っすらと汗が浮かんでいた
「そんなにも・・・」
つらいのですか?
愛した人と戦うのは・・・・・
心内、織田との雌雄を早く決めたいのだろう
和睦か決裂か、それが決まれば己の覚悟も決まる
争う仲ではあっても、この先どうなるかわからない
斎藤は織田と同盟であった頃に戻りたいだろう
争えば争うほど、双方疲弊して行くのは目に見えている
これまで過去に遡っても、織田か、斎藤か、どちらかと決まったことがないのだから
義龍が死んでから、夫が目に見えて荒れて来ている
それを止める手立ては、あんにはなかった
「旦那様・・・」
利三の額に浮いた汗を、懐の絞りでそっと拭う
触れた木綿に気付き、利三が薄っすらと目を開けた
「
「
利三が何かを口にした
だが、その声はあんには届かなかった
「勝手に入ってしまって、申し訳ございませんでした。でも、旦那様のことが心配で・・・」
目の前に、帰蝶が居た
心配そうに自分を見詰めていた
「姫様・・・・・」
不甲斐ない自分を叱咤しに来たのかと想った
「姫様・・・・・」
乾いた心が、それを呼んだのか
利三は帰蝶の手首を掴み、引き寄せた
「旦那様?」
突然夫に手を引かれ、あんの躰が利三の上に重なり落ちる
それから、強く抱き締められ、口唇を重ねられた
「
いきなりのこととて驚くも、相手は夫なのだから
二人の間には、子供も居るのだから
それは、おかしくはない行為であった
だが
間もなく利三の腕の力が抜け、あんは解放された
「旦那・・・」
頬が赤くなっているのが自分でもわかるその状況の中、夫はそれを呟いた
「
「
間近に居たから
だから、それが聞こえた
夫は、妻である自分を、愛しい人と間違えた
覚悟して嫁に入った
もらって欲しいと、自分から懇願した
その望みは叶えられた
だけど、それでも未だ夫の心が他の女にあると想い知らされ、平気で居られる筈もない
いつかは『帰蝶姫』に対して憎しみが生まれるだろう
それは多分、今なのだと、あんは想った
心沈めたまま、眠る夫を振り返りもせず、あんは部屋を出て行った
残された利三は夢の中、追えぬ人を追い駆ける
「姫様」
帰蝶は、泣くでもなく、怒るでもなく、ただ黙ってじっと自分を見詰めていた
「もう、充分でしょう?私達はよく戦った。これ以上争う理由などありません!姫様、お願いします・・・ッ」
掠れた声で、必死になって言葉を上げる
「
利三の声に、応えはない
「お願いします・・・。このままじゃ、斎藤がバラバラになってしまう・・・ッ」
ほんの少し眉を寄せ、ほんの少し笑うと、帰蝶は背中を向けようとする
その手を掴もうと、利三は咄嗟に腕を伸ばした
「姫様ッ!」
利三は慌てて帰蝶を追い駆けた
だが、その手に帰蝶を捉えることは、できなかった
「姫様・・・・・ッ」
風に舞う木の葉のように、帰蝶の背中がどんどんと遠ざかるのを、利三はただ見送るしかできなかった
現実でも
夢でも
自分は一歩も近付けていない
その想いに、打ち拉がれた
十九条城主は築城の頃こそ斎藤であったが、道三が西美濃を平定した後、今は長井も関っている
尾張と違って山の多い美濃では、山そのものが自然の要害となり城を守っていた
それは稲葉山城にも同じことが言えるだろう
攻め難いからこそ、守り易い
斎藤、長井がそう想っている今が、好機であった
「攻められないのであれば、出て来れないよう周りを囲んでしまえば良い」
大垣からは恒興を、加納に秀貞が入っていることを確認し、一宮から信盛を呼び寄せる
その、向かっている最中、帰蝶の許に清洲の市弥から至急の書簡が届いた
「義母上様から?」
こちらに来て一度も便りを出さなかった義母の手紙に、帰蝶は首を傾げながら目を通す
平仮名ばかりの女文字ではあっても、才女の誉れ高い義母の文字はどれも優雅で美しい
しかし内容は誉められるようなものではなく、義妹の市の身に一大事が起きたと言う大層なものだった
「市に、一体何が・・・・・」
文面では明日をも知れぬ命とばかりに、帰蝶の帰還を願っている
「まさか、流行り病の類にでも・・・」
「殿・・・ッ」
側に居た兵助が、今直ぐ帰るよう助言する
「手遅れになってからでは、間に合いません!後のことは勝三郎殿にお任せして、殿は一時ご帰還をッ!」
「兵助・・・」
珍しく、帰蝶の顔が青褪めるのを、兵助も自覚した
帰蝶のみが一旦清洲に戻ることになり、十九条で張っている勝家にその旨が伝えられる
大垣から合流した恒興が作戦指揮官を執ることとなった
恒興の補佐として、佐治が入っていることが理由だった
猪突猛進な勝家よりも、冷静沈着な佐治の方が向いている
そう判断したのは、帰蝶よりも戦に馴れている兵助だった
急ぎのこととて、帰蝶もそれには反対することもなく秀隆を残して、兵助の本部隊だけで清洲への岐(みち)を辿る
同じく利三も、稲葉山城の夕庵から招集が掛かった
「
夕庵の言葉に、利三は耳を疑う
しばらくは様子を見る方向で、方針は決まったはずだった
なのに、その加納砦に仕掛けると言う
「夕庵様」
「それしか、方法がありません」
「ですが、そうなると姫様は・・・ッ!」
「姫様は、清洲におられるでしょう。墨俣か、あるいは加納に居る可能性は低い」
「何故・・・」
「そう言い切れるのか?答えは簡単です。例え夫が側に居ようとも、男ばかりの集団の中に、女房を置いておける筈がない。今回は遠征のようです。あれから織田が動く気配もない。恐らくは、墨俣が本陣なのでしょう。頻繁に人が出入りしているのも、確認済みです。姫様は清洲から指示を出しているのでしょう。なら、墨俣を後回しにし、先ずは加納から目障りな織田を追い出します」
「
勿論、作戦の指揮権は龍興にある
夕庵の提案でどうにかなるものではなかった
「想えば私は、もっと早くに気付けばよかった」
「夕庵様?」
「あの『織田』が、ここまでになることを、私は予想すらしていなかった」
『何もできなかった織田』が、総大将・義龍を引き摺り出したのだから
確かに、夕庵の呟きは最もだった
「私達の真の敵は、織田上総介信長ではない。姫様です」
「姫様が・・・」
やはり、そうなるのか
利三はある種の落胆を感じた
「上総介から姫様を引き離すこと。これが、私達の急務です」
「
利三は言葉なく頷いた
「恐らくこの数日の間に、若殿も指揮をせざるを得なくなる事態が起きるでしょう。その時は、加納を宜しく願いします」
「
それで、帰蝶を取り返せるのなら・・・と
「
ふと、想い出す
義龍のことを
義龍の言葉を
いつか帰蝶をお前にと言っていた、あの、他愛ない会話を想い出す
他愛ない物の中でそれだけが、何故か今も胸に張り付いて離れない
もしも叶うのなら、今度こそ
その手をしっかり握り締め、二度と手放さない
ただ、隣に居て欲しい
それは、『罪』と言う名の『願い』だった
体力の有り余る松風は、墨俣から一度だけ休息を取ったのみで、後は清洲まで休みなく走り続けた
お陰で、普通の軍馬である兵助らは置いてけぼりを食らう
「義母上!義母上!」
清洲の城に入ると、鎧姿のまま帰蝶は局処を走り回り、市弥の姿を探した
「義母上!」
帰蝶の声に気付き、市弥が部屋から出て来る
「まあ、上総介!帰って来てくれたの?!」
「義母上!市に、何かありましたかッ?!」
帰蝶に駆け寄り、市弥は破顔して腕を掴んで言った
「上総介、聞いてちょうだい!」
「何ですか」
義母の、この笑顔が妙に気になる
そして、次の言葉で絶句する
「市が、妊娠したの!」
「
一瞬、頭が真っ白になった
墨俣からここまで殆ど無休で走り続けて、重い鎧を着けたまま局処を走り回り、その結果がこれか、と
「殿・・・」
なつも帰蝶の帰還を知り、慌てて表に出て来る
「だから、市が母親になるのよ!」
「あの・・・、それだけで・・・?」
「他に何があると言うの!」
「
呆然とする帰蝶が気の毒過ぎて、なつも声が掛けられなかった
市に大事が起きました
一刻を争う事態です
早く告げたいので、今直ぐの帰還を望みます
そう書かれてあった市弥の書状を、丸く握り潰して廊下に叩き付ける
怒り心頭にドカドカと歩きながら去ってゆく帰蝶の背中を、頭に汗を浮かばせながら見送り、なつは叩き捨てられた手紙を拾い上げた
「なんて罪作りな・・・」
実の娘が漸く妊娠した喜びを誰かに伝えたい浮かれた気分と、今が大事な時であるのに些細なことで呼び戻される羽目に遭う災難
どちらの気持ちもわかるが故に、どちらの味方もできない
だからと言って、放っておける性分でもないなつであった
「殿・・・ッ!」
大手門に出る帰蝶を、なつは必死で追い駆けた
「どうか大方様を許してあげてください」
「なつ」
帰蝶も一人の母親である
話せばわかってくれると、なつはそう想った
「殿の置かれてるお立場を考えれば、手紙を送ってまで呼び戻すのは行き過ぎた行為かも知れません。ですが、どうか理解してあげてくださいませ。大方様は、嬉しかったのです。やっと、子宝に恵まれたのですもの」
「わかってる。私とて、市の妊娠が嬉しくないわけではない。だがな、今を考えろ」
「殿・・・」
厳しい、帰蝶の言葉になつは肩をビクンと震わせた
「なつ。お前が着いていながら、何故義母上を止められなかった。今がどんな大事な時期か、この間まで墨俣に居たお前が一番よく知っているのではないのか」
「ですが・・・」
「何故我慢させなかった」
「殿・・・ッ」
苛々した顔
きつく寄った眉
相当に怒っている様子が、それだけでも痛いほど理解できる
「
「兎に角」
帰ってからゆっくり話を聞くと、帰蝶はとんぼ返りで墨俣に戻る
追い付けなかった兵助達は清洲の外で帰蝶とかち合い、休みなく来た道を戻らなくてはならない
「なんなんだ、一体」
立腹満足の帰蝶は眉を釣り上がらせてぶつくさ文句を言いながら、松風を走らせた
「なつ」
局処に戻ると、市弥が困惑したような顔をして出迎える
「大方様・・・」
「上総介、行ったの?」
「はい」
「どうして、怒っていたの・・・?」
さすがの市弥も、戻る際の帰蝶の表情が気懸かりだったようだ
「それは・・・」
「喜んでくれると想ったのよ?」
「ですが、殿は今、三河の松平とも大事な時期。大方様にもお話しましたが、同盟の件を纏めるには、殿に実績が必要なのです」
「知ってるわ。今川だけでは、足りないと言うのでしょ?」
「はい・・・」
「だったら尚更、どうしてあの子は周りを頼らないの」
「大方様・・・」
「私を、誰だと想っているの?」
市弥も、いつまで経っても自分を頼ってくれない帰蝶に、痺れでも切らせたのだろうか
「可児の兄上に、書状を出します」
「大方様・・・ッ」
「何のための同盟なの。何故あの子はそれを使わないの。どうして、いつまでも自分一人で何とかできると想い込むの?私、そう言うの大嫌いなの。それで私自身がずっと、つらい想いをしていたこと、あの子は知らないわけではないのよ?どうして、私と同じ轍を踏もうとするの。見てて、苛々するわッ」
「大方様・・・」
息巻く市弥に、なつは苦笑いする
「仕方ございません。それが、殿なのです。あなた様にそっくりな、不器用なご子息が愛された方です」
「なつ・・・」
「意地っ張りなのは、夫婦、よく似ておられました」
「
「何を考えているのか、さっぱりわからない。悩んでいても、それを打ち明けようともしない。若も、一人で悩んで、一人で苦しんでおられました。呆れるくらいに」
「そう・・・ね」
信長の想い出話に、市弥も少し苦笑いをして応える
「なら、こちらでも勝手に動いてしまいましょう」
「ええ?」
なつの発言に、市弥は目を丸くして驚く
「そんなことして、上総介が怒らない?」
「怒ったって、相手は義理の親ですもの。例え殿であろうと、どうすることもできない筈です。私も付いております」
「なつ・・・」
「大方様、如何なさいますか。このなつが、補佐を致します。なんなりと申し付け下さいませ」
昔の蟠りが、まるで嘘のように消えている二人を、束の間の晴れ間が包み込んだ
十九条を目指して、斎藤が進軍する
その情報は勝家の許に届けられ、即座に墨俣に送られた
しかし、墨俣には帰蝶はおらず、伝達だけが宙を浮く形となってしまった
夕庵は加納砦を先に奪い返す事を提案したが、安藤守就によって阻止される
「織田に加担する者が多く集まる加納より、織田に加担しそうな流れである墨俣を先に潰さねば、どちらも取り溢すことになります。織田に考える暇を与えては成りません。波状攻撃で休みなく織田を攻め続け、美濃から追い返すことが先決」
夕庵に反論の隙も与えず、守就は言い放った
「蝮の娘だから、どうだと申されるのですか。所詮、女は女。弱き者に変わりはございません」
「
剣幕も激しい守就に、夕庵は黙り込んだ
女は女
その『女』の力量を舐めて掛かる者に、『蝮の娘』をどうにかできるものなのか、と、これはひとつ見ものだと考える
「夕庵様・・・」
利三が不安げに小さな声で囁いた
「加納を先に追い出さなければ、いたちごっこでは」
「わかってます。ですが、安藤殿がああ仰るのです。ここは一つ、傍観を決め込みましょう」
「傍観?」
軍議の場から離れ、二人きりで話し合いをする
「安藤殿は、姫様をよくご存知ではない。安藤様だけではない。姫様をよく知っている人間は、ここには極僅かしか残って居ない。
「
「その通り。真、残念なことにございます。せめてここに道空殿が残ってくだされば、何とか手の打ち様もあったものを」
道空は自分と違って最初から道三側に付いた
引き止められなかった自分にも、責任はある
だが、道三の味方の全てを奪いたくもなかった
何故、と、己を詰る
何故、峰丸様に付かなかったのか、と
義龍と同じだ
自分も、別れた姫君に縋っていた
助けてくれると、信じていた
道三が死んで五年
これが現実なのだと思い知らされた
帰蝶がまだ尾張を走っている頃、十九条に拠る織田信益から救助の要請が墨俣に入った
帰蝶不在の今、代わりに指揮を取るのは秀隆しか見当たらない
「筆頭」
成政の代わりに下に就いた、まだ若い部下が手元に走って来た
「犬山織田から、援軍の催促が」
「わかってるッ。
せめて兵助が残っていてくれたら、何か対処も見付かるだろうが、その兵助は帰蝶に併走している
胎を括るしかなかった
「しょーがねぇ・・・。俺が執るか」
秀隆は縁側から庭先に出た
「一部を残して、十九条に向け出発する!赤母衣!」
「はい!」
「お前らは殿の帰還を待て!」
「承知ッ!」
十九条の信益からは矢の催促、前線に出ている勝家、可成の奮戦もあってか、持ち堪えるところは持ち堪えている
それも、いつ崩されるともわからない状態だった
馬を走らせながら、秀隆は祈る
「殿・・・、頼みます、早く戻ってください・・・ッ」
「我々は我々で動きましょう」
龍興は守就の手玉に取られている
益の見えない自分の作戦には、乗らないだろう
そう判断した夕庵は、利三を捕まえ独自で動くことを決意した
「織田が井ノ口に近付くことも想定し、やはり加納を先に奪取するのが相応しい」
利三だけでは心許ないのか、小牧道家も随伴させる
「長井は織田を美濃から追い出すことだけに、躍起になっています。それでは、その先の見通しが暗い。追い出すだけでは、どうにもならないのです。叩き潰さねばならないのです」
「姫様には・・・」
「安心なさい。姫様に危害が及ばぬ内に、手を打つのです」
「どうなさいますか、夕庵様」
道家が訊ねる
「織田は大垣を掠めてこちらに進軍すると見て、ほぼ間違いないでしょう。大垣周辺は斎藤を快く想わない豪族や国人が多い。だから、敢えて美濃三人衆の中でも人望の厚い稲葉殿が、曾根に張っておられるのです。それを使いましょう」
「曾根を・・・」
「お清殿」
「はい」
「あなたの奥方様は、稲葉殿の姪御殿でしたね」
「
「伝手などはないか、お訊ねいただけますか」
「あんに、ですか?」
「使えるものは、何でも使え。道三様に教わった言葉です。恐らくは姫様も、同様のことを考えておられる筈。大垣は、特に有力な市橋家が織田に加担しているとかいないとか、実しやかな噂も絶えません。増してや、この争いの中、どこに織田が陣を張っているのかもわからない」
「墨俣と加納だけではないと?」
「姫様は、抜け目のないお方です。真、小賢しい姫君様であられました。誰が味方で、誰が敵か判断できぬものは打ち捨てる。寸分の容赦なく。いやいや、さすがは道三様の薫陶を受けられたお方。道空殿を引き込んだ時点で、私達は警戒せねばならなかったのです」
「多治見の金森も」
「ええ。斎藤とは因縁浅からぬ関係。姫様はそこに、目を付けた」
「姫様らしい」
道家は、俄に苦笑いした
「だからこそ、厄介なのです。姫様が自分らしさを前面に出してしまうと、我らの勝機は失われる。今はまだ織田の家臣らに、その殆どを抑えられておられるのでしょうが、姫様が単独で動けば、勝てません」
「ならば、姫様が自由に動けていない今の内に、先手を打つ」
利三が、呟くように告げた
「その通り。お清殿。そなたの働きが、この戦を決します」
「夕庵様・・・」
「姫様から、戦うための武器を、奪ってください」
「
そのために、妻のあんを利用しなくてはならない
帰蝶のためか
あんのためか
利三は、悩んだ
帰蝶のために妻を利用するのか
それで妻は、納得してくれるのか
自分は、あんを裏切るかも知れない
そんな不安に包まれ、心に暗雲が垂れ込めた
そう、自分を納得させるしかなかった
誰に「そうしろ」と言われたわけではない
ただ自分が「そうしたかった」だけである
単純な、だけど人が失いがちな想いを抱え、帰蝶は走った
斎藤を倒すため、墨俣に向けて
風を切り、川を越え、生まれた故郷に弓を引く
ただ、夫との約束を果たすため
ただ、夢を夢のままで終わらせたくないがため
ただ
苦しみから、解放されたいがため・・・・・・
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
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(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
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濃姫の里 隠し吟醸
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一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
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清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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