×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
諸将の集まった表座敷の庭に、颯爽とした帰蝶の姿が現れた
「殿!」
これから戦だと言うのに
しかも、勝ち目など見えないかも知れないと言うのに、どの顔もこの空のように晴れ晴れとしている
まるでこれから起きることが楽しみで仕方がないかのように
「殿・・・」
だがその顔も、初めて見せた兜姿に、多少は動揺する
そして、帰蝶の兜の頂に飾られた羽根に、目を奪われる
「殿・・・、それは・・・」
可成の質問に、帰蝶は薄笑いで応えた
「蝉丸の羽根だ」
「蝉丸・・・の」
死んだ時、あの美しい黒羽を抜いていた光景を想い出す
しかし、帰蝶の抜いた羽根は一枚二枚ではない
もっとたくさんの羽根を抜いたはずが、『前立て』として意匠されているのは一本だけだった
「兜は、重いものだな」
苦笑する帰蝶に、秀隆らも苦笑いする
首の負担を軽減させるため、敢えて甲冑を外した
種子島式を腰に差しているため、胴巻きも短い物だった
「そんな軽装じゃぁ、前線には立てませんね」
と、恒興が告げる
「構わない。その方が動き易い」
「まぁ、殿は元々軽装で動き回られますから、我々のようにごちゃごちゃ飾り立ててしまえば、敵の恰好の餌食になってしまいますけどね。ああ、殿の場合は餌食ではなく、撒き餌ですかな」
「この頃言うようになったな、勝三郎。なつそっくりだっ」
嫌味を含めて、帰蝶はそう言い返してやった
しかし、敵も然る者
「親子ですから」
そう、にたりと笑う勝三郎に、帰蝶はなつ直伝の『あかんべー』をしてやった
なつと別れ、局処の廊下を歩く
帰蝶の部屋の前で人の話し声が聞こえ、市弥はふと足を止め、襖を開けた
縁側に、さちが座っている
隣には少しみすぼらしい小袖を着た年増の女の姿もあった
あれがさちの母親かと、市弥は帰蝶の部屋に入り、近寄った
さちは利治の許に嫁ぎ、局処を退職したが、元々は帰蝶の部屋の管理人であったため、この付近なら勝手を知っているのだろう
部屋を抜け、二人が並ぶ縁側へと出ながら声を掛けた
「さち」
「 大方様」
振り返ったさちの笑顔と、少し困惑した隣の年増の顔、それから、少し膨れて来たさちの腹に目が行った
「お早うございます」
「お早う」
「お早うございます。お世話になっております」
二人は縁側から腰を上げ、庭に立つ恰好で市弥に頭を下げた
「さち、の、お母上様」
「お母上様だなんて、呼んでいただける身分ではございませんが・・・」
弥三郎、さち、死んだ時親の何れも美形である
その三人を生んだ母のやえも、綺麗な顔立ちをしていた
農家生まれとは想えないほどに
「自分の家だと想って、どうか寛いでくださいね」
「勿体無いお言葉です」
やえは頬を綻ばせながら深く頭を下げた
「 ご主人様は」
恐る恐る訊ねてみる
「ええ、主人でしたら、弥三郎の屋敷に残っております」
「屋敷に・・・」
やはり、家を奪った男の孫娘を側で見るのは、つらいのだろうか
そんな顔をしたのか、やえは慌てて首を振り、手振りを加えて説明した
「いえ、そうではなくて、みんなが一斉に留守にしては、屋敷がどうなるか心配だからと、ですので留守番を買って出ただけで、ここに来たくないと言うのではございません」
「おやえ・・・殿と、申されましたか」
「あ、はい」
「あなたは、気配りの良く届くお方ですね」
「え?」
突然誉められ、やえはキョトンとした
「こんなことを言っては何ですが、もしも平左衛門殿があのまま城に残られたとしたら、あなたとは巡り会えなかったのですね。そうなると、当然平三郎も弥三郎も、さち、も、生まれては来なかったかも知れない」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
そうだな、と、やえは無言になった
「私達土田は、あなたのご主人様に酷い仕打ちをしました。どうか、許してください」
と、市弥は深く深く頭を下げた
「大方様、お止めになってください!」
やえは慌ててそれを止めた
「そりゃ・・・、蟠りがないと言えば、嘘になります。城を追い出されたことは、恨みに感じていることでしょう。ですが大方様は、私達に仕事を与えてくださいました。倅は武家にもらわれました。弥三郎も、武家に戻ることができ、さちはそのお武家様に嫁ぐことができました。それもこれも、大方様が絆を寄り合わせてくださったからです」
「私が?」
「大方様が、うちの主人に馬屋の仕事をくださらなかったら、弥三郎は吉法師様と巡り会うこともありませんでした。倅の平三郎を斯波家にと口添えしてくださったのも、大方様です。大方様が斯波家に口添えしていただけなかったら、平三郎はお能様と夫婦になることもありませんでした。それを考えれば私達は、過分に大方様から幸福を頂きました。これ以上強請ることなどあるのでしょうか」
「おやえ殿・・・」
「大方様。過去を振り返っても、人は笑っていられることだけではありません。つらいことだって、たくさんあります。ですが、今が笑っていられるのなら、人はそれが幸せなのです。私も、さちも、弥三郎も、そして主人も、笑って清洲で暮らさせてもらってます。これ以上の欲を出せば、地獄に落ちます。閻魔様に、それこそ酷い仕打ちを受けます。ですから、大方様、あなた様だけが心を痛められることなど、ありません」
「 」
『救われる』とは、このことだろうか
祖父は土田の傍流ながら才に溢れた人物で、勇猛でもあったと聞かされている
美濃の片隅の、小さな豪族の、その家臣で納まる器ではなかったと
時は妙椿から次世代へと受け継がれ、俄に湧き上がった土岐家、斎藤家の争いに便乗し、嫡流である土田を追い出した
政治能力の希薄さを押して
土田家はそれまでどおり土岐家に従属のままでいるか、それとも、斎藤家に加担して可児で独立するかを迫られていた
祖父は斎藤家と手を組みながら、可児の独立豪族として確立することを選んだ
だがそれには、温厚派である嫡流・土田家が邪魔だった
土田の繁栄のため
そう、大義名分を掲げ、祖父はまだ幼かった平左衛門共々、土田家嫡流一族を可児から追い出した
しかし、大義名分は所詮、口実でしかない
それ以上の効力は持たない
嫡流を追い出し宗家に収まり、狙い通り土岐家からの独立には成功した
だが、精々木曽川の制河権を得ることが関の山、それ以上大きな家には発展しなかった
挙句、祖父ほどの能力もなかった父は、幼い自分を金目当てで織田に売った
長良川で起きた斎藤家の内乱に、その巻き添えを食らい、父は切腹した
だが、市弥は悲しいとは想わなかった
親子の縁(えにし)は、とうの昔に切れたと感じていたから
だから、心のどこかでは帰蝶が羨ましかった
素直に父親の死を受け入れていたから
今も道三のことを誰も忘れないのは、帰蝶の心の片隅に『父親』が存在しているからだろう
自分の心はどうだろう
誰も、父の死を嘆いてはくれなかった
そうだろう
自分ですら
娘である自分ですら、父の死を受け入れず、流してしまっているのだから
誰が悲しむというのか
それでも、祖父が追い出した土田一家のことだけは、忘れたことがなかった
祖父が土田家を乗っ取ったのは、自分がまだ生まれていない頃のことだった
それでも、祖父や父、肉親から武勇伝を聞かされ育った市弥は、心のどこかで疑問を感じていた
祖父がしたことは、間違いなく正しいことだったのか、と
暗に権力欲しさで嫡流家を追い出したのではないのか、と
『自分の祖父が、主家を追い出した』
そう、心に負い目として感じ始めていた時、嫁いだ織田で嫡流の一家の話を耳にした
市弥は平左衛門を探し出し、その日食うのに困っていた平左衛門に馬屋の仕事を与えた
そして、その頃は既に生まれていた時親の将来も、保障した
それが『信秀正妻』と言う地位に昇り詰めた自分にできる、精一杯のことだと
それでも、心の負い目まで消えたわけではない
元来市弥も、優しい気性の女だった
織田家で生き残らなくてはならないと言う気概が、市弥に『気性が荒い』と言う重い鎧を纏わせていた
その鎧が今、やえの言葉で全て脱げ落ちたような気になれた
「 ありがとう、おやえ殿」
小さく礼を言う市弥を、やえは不思議そうに目を丸くさせて聞いていた
「私は、救われた・・・」
「大方様?」
「ありがとう」
「 」
わけがわからず、やえは兎に角微笑んで見せた
ふと、さちの方を見る
さちも微笑んでいた
そしてまた、やえの方を向く
二人の微笑み方は、よく似ていた
人の心を和ませてくれる、そんな微笑み方だった
なつと恒興も、性格は好対照でも仕草などはよく似ている
親子とは、こうも似てしまうものなのか
言葉は乱暴でも、いつも誰かを気に掛けていた吉法師
優等生ではあっても、実兄を亡き者にしてまで義姉を得ようと画策していた三法師
どちらも、自分に似たのかも知れないと市弥は想った
「佐治」
出発前、帰蝶は佐治を見付ける
「昨日はご苦労だったな」
「いえ、大したことはありません」
「お前の活躍なしでは、清洲は犬山の被害を受けていた。無傷で美濃に向えるのは、お前のお陰だ。礼を言う」
「そんな、勿体無いです」
はにかみ笑う佐治の側で、藤吉の姿を見付けた
「藤吉、か?」
「覚えてくださってたので?!」
顔を皺だらけにして、藤吉は喜ぶ
「佐治と組んで、大垣周辺の活動をしていたのだったな」
「はい!お陰で色々と学ばせてもらいました」
「それは良かった。しかし、お前は確か蜂須賀の家臣だったな」
「はい、一応」
「蜂須賀の命令か?」
「いえ。清洲から動きそうにもなかったので、佐治さんに無理を言って連れて来てもらいました」
「ですが殿、藤吉さんの助力もあって、犬山との交戦を避けられたのです。どうか責めないであげてください」
藤吉の身を案じた佐治が助け舟に入る
「誰が責めると言った。有能な人間は一人でも多い方が良い。藤吉」
「はい」
「蜂須賀に無断で出陣したとなれば、帰れば相応の咎が待っている。そうであって欲しくないのなら、武功を挙げろ。借金は、あればあるほど邪魔になるが、武功はいくらあっても邪魔にはならない。存分に働け」
「ありがたきお言葉、感謝感激雨霰でございます!」
「 変わった喜び方だな・・・」
自分の言葉を受け、大袈裟なほどはしゃぐ藤吉に、さすがの帰蝶も頭から汗を浮かばせた
「清洲織田、出陣ッ!」
小牧山の門前に、成政の怒声が響く
いつもの見慣れた光景
先発の可成が最初に門を出て、その後を弥三郎の部隊が後続する
しかし今回は、弥三郎は別の場所へ向うことになっていた
「健勝で」
「ああ。そちらこそ、首尾よく頼むぞ」
長く『親友』でいる可成と弥三郎が、互いの健闘を祈る
可成の部隊の後を、勝家の部隊が続いた
その中にこっそり利家が紛れているのが見える
周りと同化しようと、大きな体を小さく丸めて進む
あれで隠れたつもりかと、松風の上の帰蝶は声を殺して笑った
黒母衣衆の秀隆が動く
猪子兵助高就が指導する帰蝶の本隊がそれに続く
後尾を小姓衆、馬廻り衆の成政の部隊が繋がった
「姉上様・・・」
小さな声で信良は、帰蝶の無事を祈る
清洲の中庭に、手毬で遊ぶ帰命と瑞希の姿があった
その側で見守る菊子の姿もある
台所では袖を襷で巻き上げ、火を掛けた鍋に向って汗を浮かばせているなつが居た
願いを掛けるような顔で、木杓子を一生懸命回している
想いを一つに
ただ、無事を祈る
五月晴れの青空の下、清洲織田軍が美濃に向けて出発した
ぶらり、ぶらりと清洲の町を歩く平左衛門は、暇を持て余したかのようにぼけっとした顔をしていた
やえが市弥に言ったことは所詮方便に過ぎず、やはり市弥の顔が見づらいと言うのが本音だった
自分を追い出した男の縁者の世話にはなりたくない
若い頃は、確かにその世話になり仕事にもありつけた
だがあの時は食うか食わずかの瀬戸際で、まだ乳飲み子も同然だった時親と、やえを抱えて途方に暮れており、市弥の申し出は渡りに船と受け入れたが、今はあの時とは逆に倅の弥三郎のお陰で裕福な生活に戻った
生活が安定すると、やはり市弥の土田家に対する想いも、城を追われたあの日を想い出し、平常では居られない
普段使わないからか、金も余り気味な状態で、かと言って、貧乏人根性が染み付いてしまった今では、贅沢な豪遊など洒落込む気分にもなれない
だから、こうして何をするでもなく、買い物をするわけでもなく、女を買うわけでもなく、酒を煽るわけでもなく、ただぼんやりと町を歩くことが習慣になってしまっていた
そんな平左衛門を背後から声を掛ける者が現れた
「もしかして、小牧の平左衛門さんかい?土田の、旦那」
「 ?」
清洲に移り住んで数ヶ月にはなるが、声を掛けられるのは初めての経験で、平左衛門は心臓をドクンとさせ驚きながら振り返った
「やっぱりそうだ、平左衛門さん」
声を掛けて来たのは自分と似た年齢の初老の男だった
「もしかしてあんた、近江の」
「そうそう、近江・愛知(えち)の雄吉だよ」
「やっぱりかい!」
久し振りに顔を合わせた商売仲間の登場に、平左衛門は破顔して両肩を叩いた
「いやまさか、こんなとこで逢えるだなんてねぇ!」
「本当だよ。平左衛門さんが商売を引退したってのは聞いてたけど、清洲に住んでるのかい?」
「まあ、そんなところだね」
「そうかい、それは豪勢だねぇ」
「どうだか」
二人で揃って、酒場で一滴の酒を楽しむことにした
「清洲はどうだい」
最初に開口したのは雄吉だった
「そうだねぇ。最近は美濃の斎藤と争ってるからね、治安的に少しは悪くなったかな」
「そうかい。わしも商売で来るのは久し振りなんだが、少し物価が高くなってるね」
「まぁ、もう少ししたら落ち着くと想うけどね」
「だと良いんだが、近江で嫌な噂を聞いちまってね」
「嫌な噂?」
傾け掛けた盃を止め、平左衛門は聞き返した
「ほらね、その斎藤、ここの織田と争ってるって言っただろう?」
「ああ。それがどうかしたかい」
「お陰で美濃の情勢も、狂っちまっててね」
「え?」
雄吉の言葉に、平左衛門は耳を疑った
「どう言うことだい」
「先々代だったか、斎藤が急に勢力を拡大した時期があっただろう?」
「ああ。確か入道した国主の頃だったか」
「そうだよ。あの頃に起きた大和の東大寺領の、大井荘内で騒動が起きただろう」
「そうだったか」
その頃は仕事を覚えるのに躍起で、隣の国のことまでは覚えていない
「荘園が次々と斎藤に取られてしまって、その騒動に紛れて各地でも豪族やら国人やらが荘園の切り取りをやってた。そして、やがては豪族、国人同士の争いにまで発展した。特に大垣方面が激しかったな」
「そうだったのかい、そんなことが」
「しかし、その騒動も斎藤家が鎮圧し、一時期は穏やかになったんだがね、その斎藤家でつい最近、その跡取りが急死して、また混乱が起き始めてるんだよ」
「え?」
平左衛門は目を丸くして驚いた
大垣と言えば、甥の佐治が調略を掛けていた土地である
何か事変が起これば直ぐにでもわかりそうなものだったが、丁度帰蝶が戦の準備と美濃の多治見に出向いた時期も重なって、佐治も大垣方面の配備が疎かになっていた
その隙を突かれたのだろうか
兎に角、平左衛門にはこの話は初耳で、しかも寝耳に水の程度でもあった
「そっ、それで、大垣はどうなってんだい」
「今、織田と争ってるんだろ?それに便乗して近江、越前とかから攻め込むんじゃねえかって話だよ。近江はまた複雑でね。ほれ、湖南の六角と湖北の浅井が争いながら、美濃に雪崩れ込むのを謀ってるって噂だし、その浅井は越前の朝倉と組んでるらしくてね、それじゃぁ攻め込まれたら、美濃の豪族どもはどれを相手に戦えば良いのかわからず仕舞いじゃねえかってことでさ。その上織田からも攻め込まれ、こりゃ斎藤も腕の見せ所だろうね」
「てことは、織田には対処しきれないってわけなんだね」
「さあね、そこまではわからないよ。そりゃ、いっぺんに来られたら八方塞だろうけど、美濃には強い豪族も犇いているからね、そんな簡単には落ちなんだろうけどさ。兎も角、先代の時代にはどこも手を出そうとはしなかった、それだけ切れ者だったんだね、斎藤義龍と言う人は。その人が死んだ途端、あの有様だ。ありゃ織田じゃなくても、何れはどこかの家が美濃を落としちまうだろうさ」
「 」
その、織田の家臣である息子の身の上を考えると、美濃はどうしても織田が落さなくてはならないと言う気になって仕方がない
「雄吉さん・・・」
詰まらない意地など、今は必要なのか
平左衛門は、そう想った
「すまない、俺は帰るよ」
「どうしたんだい、平左衛門さん」
「俺の倅が、織田の家臣やってんだ。その斬り込みやってんだ。今もらった情報、どうしても倅に伝えたくてね」
「え?織田の家臣?」
「すまねえ、愛想なしで」
「平左衛門さん」
「勘定、ここに置いておくよ!」
懐から財布ごと雄吉に押し付けると、平左衛門は店を飛び出し駆けて行った
「平左衛門さん!」
慌てて店の入り口まで追い駆けたが、平左衛門は既に遠くなっていた
「倅が織田の家臣?確か長男は斯波家にって話だったが、その長男か?まさか、あのやんちゃな弥三郎が武家に?いや、まさか・・・」
そう苦笑いしながら、押し付けられた財布の中身を見て肝を潰される
「ひぃぃぃ・・・!」
商売柄、大金を見るのには馴れたつもりだったが、開けた途端零れ落ちる銅銭に他人の金なら尚更だった
「平左衛門さん、こりゃちょっと多過ぎだよ・・・」
走る、走る
兎に角走る
酒は入ってはいるが、量にしてみれば些細なことでしかない
それでも体が温まれば酒の回りも早い
序でに目も回りそうになっていた
息切れた喉はカラカラに、足は痙攣を起しそうなほど悲鳴を上げ、額には季節を先取りしたかのような大粒の汗が浮かび、それでも平左衛門は必死になって清洲城を目指した
倅が向ったのが井ノ口なのか、大垣なのかわからない
もしも大垣だったなら、近江か越前に挟まれてしまう
最後の、大事な跡取りを亡くすわけにはいかなかった
雄吉と再会した商店街から清洲城までは、相当の距離がある
おまけに平左衛門は五十をとっくに過ぎた老体で、いくら馬屋を営んでいたからとは言え、引退してから今日までのんびりとした生活に浸かっていた躰は想うように動いてはくれない
途中何度も立ち止まり、休みながら走る
それを繰り返している内に、漸く清洲城の大手門の前まで辿り着いたのは、もう昼をとっくに過ぎた頃だった
顔を真っ赤に腫らし、全身から湯気が出そうなほどの大汗を掻いた男の出現に、門番の二人は不審者かと構えた
「すっ、すまねえ!すみません!」
「何だ、お前は」
「何の用だ」
「せっ、倅の・・・ッ、弥三郎にッ、だっ、大事な話が・・・!」
「弥三郎?」
『弥三郎』と言う名は、この頃はありふれた名前であるため、門番はどの『弥三郎』のことなのかさっぱりわからない
「弥三郎を・・・ッ!」
「爺さん、悪いが今日は引き取ってくれ。日が悪い」
「そうじゃなくて・・・ッ、さ、さち・・・」
「さち?」
平左衛門は咄嗟に娘の名前を出した
「土田さちが、ここにお世話になってる筈です。私はその父親です。火急の知らせがあり、参りました!どうか、逢わせて下さいませッ!」
「さち?」
「もしかして、局処のおさち坊のことかい?」
「おさち坊?」
もう一人の門番が不思議総な顔をして、相方を見た
「ほら、奥方様の弟君に嫁がれた、局処のおさち坊だよ」
「ああ、あのさっちゃんかい。爺さん、いや、あなたは」
そこへ、偶然通り掛かった資房が騒動に気付く
「どうした」
「あ、これは太田様・・・!」
「あなたは?」
門番に挟まれた、くたびれ切った平左衛門に目をやる
「私は、土田さちの父で、土田平左衛門と申します。どうしても、倅の弥三郎に伝えなくてはならないことがあり、お通し願いたいのですが・・・」
「おお、弥三郎殿とさっちゃん・・・、いえ、おさち殿の父上様であられましたか。おい、この方をお通ししてくれ」
「はい」
資房の一言に、自分の前に立ちはだかっていた男が同時に避ける
この光景を目の当たりにした平左衛門は目を丸くさせ、資房に訊ねた
「あなた様は・・・」
「申し遅れました。わたくし、織田家内事(ないじ)統括総責任者、太田又助資房でございます」
「 」
清洲城の門前で、いきなり織田家の家内の全てを取り仕切る人物と遭遇できたのは、幸運だろうか
だがこの『幸運』は、一度きりでは終わらなかった
清洲城の表座敷とか言うところに通されるのかと想いきや、それ以上の上等な部屋に案内された
案内されたのは、ここに入ることを許された男性は城主だけと言う、特別な場所、清洲城南本殿局処奥座敷
そんな聞いたこともないような場所に案内され、しかも、自分と向き合っているのは織田家の頂点に限りなく近い人物、織田信長生母・土田御前
つまり、『自分を追い出した男の孫娘』であり、『生きる道を与えてくれた恩人』でもあり、遺恨あり、恩義ありの複雑な想いを抱える相手であった
表座敷は『砦』、『屋敷』と呼ばれる『城』にも存在するが、常に砂や土、泥で汚れるため畳は敷かないのが一般だった
しかし『奥座敷』は全面に畳を敷き詰められている
高級な畳を何十枚も敷けるのは、それだけ家の財力を物語るもので、畳と触れ合う生活を送っていない者には爪先がこそばゆくて仕方がない
しかし、正座した膝がびりびりと痺れるのは、決して、正座に馴れていないからではなく、極度の緊張から来るものだ
そんな膝を手で押え付けながら、平三郎は市弥に話をしていた
「それは、真ですか」
自分のしどろもどろな話を、市弥は決して焦らせることもなく根気良く聞いてくれる
その話が終わった後、市弥はそう聞いた
「近江の愛知に居る知人から、直接聞いた話でございます。信憑性は高いかと存じます」
頭を垂れ、平左衛門は市弥の顔をできるだけ見ないよう、心掛けた
「そうですか。あなたは馬屋を営み、その人脈は多岐に渡るもの。決して出任せではないと、信じましょう」
「それでは・・・ッ」
市弥の返事に、平左衛門は初めて顔を上げた
目の前に立派な御仁が座っている
とても美しい女御だった
様々な想いはあっても、市弥と対面するのはこれが初めての平左衛門は、一瞬目の前がチカチカとして、激しく瞬きをした
「又助、なつは?」
「はい、朝から台所に詰めておられます」
「台所?」
「大事な用事があるので、終わるまでは戻らないと」
「そう・・・。何をしているのかわからないけれど、当分帰って来ないってことなのね」
「そう、なりますかな・・・」
なんとも的を射ない話だけに、資房も明確な返事ができなかった
「仕方がないわね。又助」
「はい」
「この情報を、小牧山に伝えてくれる?」
「殿には」
「上総介が何処に布陣してるかまでは、わからないのよ。あの子が小牧山を出発したことは届いているけど、何処に向ったかまでは聞いていないもの」
「そうですね」
「朝から台所に詰めているのだから、恐らくなつも知らないはず。聞くだけ無駄でしょう」
「ですか」
「土田殿」
自身も土田姓でありながら、平左衛門にそう名を呼ぶ
「は、はい」
「重要な情報を、ありがとうございます。上総介に代わって、お礼を申し上げます」
と、市弥は平左衛門に指を突いて頭を下げた
「そっ、そんなっ、勿体無い・・・っ!」
「この情報が上総介に届けば、あの子も攻め所を絞れます。増してや、前年より大垣周辺を攻めているものの、上手く行かない理由もはっきりしました。そうなれば、無理なごり押しも考慮に入ることでしょう。あの子は、猪突猛進に突き進む子だから」
市弥の言葉に、資房は声を殺して笑った
その通りなだけに、帰蝶を庇う意味も見付からない
「土田殿は、しばらく躰を休めてください。そんなに汗を掻かれて。お風呂の用意も、させていただきましょう」
「そっ、そんな滅相もない!」
勿体無過ぎて、平左衛門は手を振りながら慌てて断る
「重要な情報を齎してくださった恩人に、汗まみれのままで帰れとは、織田家のすることではありません。どうか遠慮なさらず。ああ、そうだ、さちとおやえ殿もお呼びしましょう。又助、二人を呼んで来てくれる?」
「はい、畏まりました」
「おっ、大方様・・・!」
平左衛門は、両膝を握り締めて叫んだ
「私は、あなたを、あなたの一族を恨んで、恨んで生きて来た人間でございます!あなた様の恩義を感じながら、それでもあなた様ですら恨んでいた人間でございます!そんな私に、これ以上お優しくなさらないでくださいませッ!」
「平左衛門殿・・・」
「 」
立ち上がり掛けた資房も、動きを止める
「 私も、ね、ずっと、心に負い目を感じて生きていました。あなたに馬屋の仕事を与えることで、私は救われたかった」
市弥はゆっくりとした口調で、自分の想いを話した
「六年前だったかしら。あなたのご次男、弥三郎が、当時私の暮らしていた末森城にやって来た時、私は弥三郎ですら取り込み、あなたにもっと恩を感じてもらおうと画策しました」
「え・・・?」
突然の市弥の告白に、平左衛門はおろか、資房はもっと驚いた顔をした
丁度守山城の争奪戦の頃のことだろう
信勝の動きを確認するため可成と弥三郎が末森城に向い、そのまま帰って来なかったことを想い出す
「弥三郎も世話をすれば、私は私の家の罪から救われると想っておりました。だけど、それで救われることなどないと、今朝、気付いたのです」
「今朝・・・」
「あなたのご内儀様、おやえ殿に、・・・救われました」
「え?おやえに?」
平左衛門のキョトンとした顔は、更に面妖なものに変わった
「あなたは、素晴らしい女性を娶られましたね。おやえ殿のようなご賢婦様は、そうそう見付かりません。どうぞ、大切になさってください」
「 はい」
市弥の言葉がよくわからず、だが、聞き返したり根掘り葉掘りするのも失礼かと、平左衛門は声小さく返事した
大方様も変わられたものだな、と、局処から戻る際、資房は一人考えた
若い頃から織田家に仕えていた資房は、当然、市弥が嫁いで来た頃のことも知っている
幼さゆえか尖った印象のある少女で、成人してからは見た目どおり威圧的で、夫が亡くなった後もしばらくは権力で人を押え付けて来た
その市弥が、今ではすっかり丸くなり、人当たりも柔らかくなっている
那古野、末森に居た頃とは比べ物にならないほどだ
そう言えばおなつ様も、昔に比べて随分世話焼きになっている、とも
元々そう言った資質だったのだろうが、誰も彼も構っていたわけではない
そんななつも今、台所に籠って何をしているのやらと物思いに耽ていると、そのなつが手に小さな壷を持って歩いて来るのが見えた
「おなつ様」
「 又助・・・」
その壷は両手ですっぽり隠れてしまうほどの物で、恐らくだが山椒か何かが入っていた入れ物だろうと想った
「台所に引き篭もっておられると伺いましたが、もう御用はお済で?」
「ええ。 ああ、そうだ。殿の布陣先はわかるかしら?」
「殿の布陣先ですか?ええ、私もそれを探し当てに行く最中でございました」
「どうかしたの?」
「大垣周辺の情報が手に入りましたので、それをお伝えしに小牧に向かう途中だったのです」
「大垣周辺の情報?」
「ご説明差し上げたいのは山々なのですが、急を要するものですから先を急がせて頂きたく、ご無礼かとは存じますが失敬させていただきます」
「ええ・・・。気を付けて」
「大方様はご存知ですので、宜しければ大方様にお伺い下さいませ」
「大方様に?」
「さちのお父上様が、情報を持って来てくださったのです。おなつ様は台所にいらっしゃいますもので、お呼びするもの不具合があるのではと想い、遠慮させていただいたのですが、失礼致しました」
「いいえ。私も今になって漸く終わったところですから、私を待つ必要はありません」
「お気遣い、痛み入ります。それでは、これにて御免」
「はい」
その場で資房を見送り、それから
「あ!又助、待ってちょうだい!」
自分の手の中にある小壷の存在を想い出した
砦を出発した帰蝶らは小牧山から千秋村へと移動する
この千秋村は秀隆の妻の叔父で、熱田神宮大宮司、桶狭間山合戦の折に織田の先鋒として活躍した千秋四郎季忠と由縁のある地だった
ここで軍勢を整えるため、一旦停まる
加えて、浮野でも岩倉相手に戦を交えたこともあり、勝手は知っていた
秀隆の妻の出身地でもあるので、立ち寄った寺は二つ返事で場所を提供してくれた
「この辺りは茶畑が多いのだな」
「木曽川が近いですからね、水源が豊富ですから。でも、その分水害も多いですよ」
「今年は何事もなく過ぎてくれれば良いのだが」
夏を心配する帰蝶に、寺の住職が美味い茶で持て成してくれた
「織田様が統括してくださるようになってから、その水害も目に見えて減って来ております。この辺りの者はみな、織田様に感謝しております」
大雨や大雪のあった年は、決まって長良川が氾濫を起していた
その経験を生かし、道空は木曽川の水位が上がれば溢れた水が村や町を直撃しないよう別の川、つまり『水の逃げ道』となる大溝を作った
その大溝は規模的に小さいものながら、伊勢湾まで続いていた
これのお陰で水害は、以前より比べて劇的に減っている
「そう言ってもらえると、汗を流す甲斐がある。ご厚意、深く謝す」
軽く頭を下げる帰蝶に、住職も会釈して返した
しばしの休息を取った後、一行は一宮に入った
ここで信盛の部隊を待機させる
場所は一宮の妙興寺
恒興が妙心寺派であったことが幸いしたか、あるいは日頃より清洲との友好関係が実を結んだか、こちらでも信盛の部隊を快く引き受けてくれた
妙興寺から美濃路に入り、木曽川を跨いで濃尾大橋を渡る
夫も渡ったであろうこの橋を、祈るような想いで松風を歩かせた
渡りながら、右から受ける美濃の風に想いを巡らせる
こんな状況になっても、美濃は遠く大きい
兄は賢い男だと、帰蝶は痛いほど想い知った
妻は近江・湖北の浅井家の娘
これは父が考えた政略だが、夫婦仲の良好さは兄の努力の賜物であろう
父亡き後は近江・湖南の六角とも政略を結び、更には越前の朝倉から嫡男の嫁をもらい同盟は成立した
だが、その兄が死んでしまっては、この同盟もどこまで続くかわからない
しかし兄は自分の死後のことも、きちんと考慮していたのか
妻の実家の浅井と、嫡男喜太郎の妻の実家朝倉は、現当主、前当主同士が密接な関係にあると言う情報は得ている
もしも斎藤家が義龍亡き後もこの両家と円満であれば、織田は近江、越前をも相手に回さなくてはならなくなる
その逆に、義龍死後の今が好機と、近江、越前が揃って進撃して来る可能性も考えられた
自分は、どちらを相手に戦えば良いのか、わからない
近江も越前も、敵か、味方か、わからない
木曽川を渡り終えたところで、別行動を命令されている弥三郎の部隊が北上した
弥三郎、そして弟の利治、その部隊を見送り、帰蝶らは再び南を目指して進軍する
やがて、信長が陣を敷いた羽島郷大良の地に到着した
あれから何年も経っている
当時の縄張りはとっくに消え、何もない草(くさ)原だけが広がっていた
「 」
胸を掠める様々な想い
ここで夫は何を想い、何を決意したのだろうか
何が夫を駆り立てたのだろうか
もしもあの時、父が兄に対して挙兵をしなければ、夫は死なずに済んだのかも知れないと、そう想うと、父の行動が許せなくなる
だが、父がそうしたのには、夫と自分を守ろうとする親心があったことで、責められるものではない
わかってはいても、それでも、どうしても父を恨んでしまう
余計なことを、と
「殿」
先頭に立っていた可成が戻って来る
「陣は、如何なさいますか」
「 そうだな。ここまで不休で来たのだから、足を伸ばせる場所が必要か」
「では、縄張りを始めます」
「頼んだ」
可成、勝家の部隊を中心として、仮設の陣を敷くための準備が始まった
帰蝶の本隊は総大将を守るため、周囲を警戒する
「兵助」
「はい」
その指揮をしている本部隊隊長の兵助に声を掛ける
「近江、越前はどう動く」
「近江と越前ですか?」
「近江は義姉上様が嫁がれてから、斎藤とは良縁だ。だがそれも、父上、兄上がご存命中のこと、その両方が亡くなられた今、この二ヶ所はどう動く」
「はて、兵助のこの薄い頭でわかるかどうか存じませんが、殿ならどうされますか」
「私が?」
「逆を考えてみましょう。もしも近江か越前が殿のお立場なら、殿はどうされますか」
「そんなもの、攻めるに決まっているだろ?」
「例えば、ご姉妹やお子が嫁がれていても?」
「当然だろう?千載一遇の機会を、みすみす逃す愚か者が何処に居る」
今が正にそれなのだから、今更聞くなとでも言いたげな顔をして、帰蝶は返事した
「ならば、近江、越前も、殿と同じ行動をされるでしょうね」
「 」
兵助の答えは、帰蝶に何かを想い付かせたのか
その後直ぐ、帰蝶は黙り込んだ
こうなると、どんなに声を掛けても返事をしないと知っている兵助は、黙って帰蝶から離れ、見守った
「私が攻めるのだから、これを好機と想わないはずがない。織田との騒乱に紛れ、西か、あるいは北から潜入すれば、織田に目の行っている斎藤はそれに気付かない。だが、越前が美濃に入るには、飛騨を少し掠めて通らねばならない。若狭からは、無理だな。朝倉の領地とは言え、まだ反勢力が残ってる若狭を利用すれば、逆に自分が潰される。私だったら、犬山に協力しろと言っているようなものだ。素直に従うわけがない。なら、朝倉の美濃潜入が無理だとしても、近江はどうだろう。近江は六角を中心とした士族社会と、浅井を中心とした土豪社会が鎬を削っている。増してや、六角、浅井は今も争っている最中。こちらに向かうとしても、互いが足の引っ張り合いにはなる。 しかし、美濃を攻めるにしても、無理な話ではないのは・・・、浅井 か」
六角はそもそも、帰蝶の先祖の一人である土岐頼遠と同世代に活躍した、同じく『婆娑羅大名』の異名を持つ佐々木道誉を先祖とする
その佐々木家のそもそもの嫡流である、現在の京極家は美濃・関ヶ原と隣接する場所に位置していた
関ヶ原の領主である竹中家は、斎藤に組み込まれている
浅井は台頭して来た頃に、その京極家を併呑していた
つまり、京極は浅井に協力できる状態に、強制的に置かれている
勿論、京極家と六角家は血縁同士なので、京極家にも拒否権はあるだろう
だが、通過することまでは阻止できない立場にあった
「確か、浅井から京極に娘が入ってるな」
そうなると、親戚同士ともなる
その京極が浅井の争いに加担することはないとしても、美濃入りには協力するものと見られた
「やはり、竹中を取り込めなかったのは痛手だな・・・」
だが、竹中以外の家なら、とも想う
「 」
一瞬、帰蝶の目が見開いた
それから直ぐ、恒興の部隊を目視で探した
「勝三郎!佐治ッ!」
叫ぶ帰蝶の許へ馳せ参じる二人
佐治の側には藤吉が寄り添っていた
「お呼びですか、殿」
「どうかなさいましたか?」
「お前達は大垣派遣だが、大垣城には向わず市橋家と接触しろ」
「え?」
突然の作戦変更に、二人はキョトンとする
「織田に乗じて、近江が動くかも知れん。何としてでも、近江勢の侵入を阻止しろ」
「近江?」
「兄上は、近江の侵攻を恐れて六角と手を組んだ。しかし、その兄上が死んでしまっては、同盟も自然破棄されているかも知れん。そうなれば織田は近江の六角か、あるいは浅井とは味方同士になれるかも知れんが、余所者に美濃を良いようにされるのは我慢がならない。近江を美濃に近付けさせるな。侵入の気配あれば市橋家を中心に、近江を叩き潰せッ!」
「はっ!」
帰蝶の性格を良く知る二人は、言葉どおりの命令遂行を果たそうと、早々に大良を出る
しかし、帰蝶を知らない、増してやそれが『信長』だと信じている藤吉には、帰蝶の突然の作戦変更の意図を理解できるはずもなかった
「佐治さん、どうして殿は近江が攻めて来るってわかるんですか?」
「それは、私にもわかりません」
「へ?」
佐治の返事に、藤吉は目を丸くさせる
「ですが、殿がそうしろと仰るのですから、その通りにするだけです」
「どう言うことですか」
まだわからない顔をする藤吉に、佐治は苦笑いして応える
「それが、殿だからです」
「 」
益々理解しがたい顔をする藤吉であった
急場凌ぎで作った陣の完成を待たず、帰蝶は大良を出発した
急がねばならない
近江がどう動くのかわからない今、片付けなければならないことは早く片付けたい
さっさと墨俣を落とし、加納砦を奪取せねばならない
自分がまごつけばまごつくほど、美濃を危険に晒す
斎藤の勢力の衰えを目にした周辺が、放っておくとは想えない
東はなるほど、景任が居る限りそうそう入って来ることはできないだろう
だが、帰蝶にとって『味方』と公言できる存在のない西は、脆く壊れやすい場所になる
西の脅威は、まだ実感したことのない帰蝶に、想像できるような容易い存在ではない
自分が起死回生の想いで倒した今川との争いから僅か三ヵ月後、近江の浅井、元服したての若き当主が、六角に奪われていた旧領を次々と奪還したことは聞かされている
悔しい想いをしたのが自分ではなく、なつだったとしても、今になってあの時のなつの気持ちが理解できた
何故、目を張らなかったのかとも、後悔する
諜報部隊である一益は、伊勢と尾張を何度も往復し、ここのところ織田の争いには満足に参加できていない状況だった
真の敵は、伊勢ではない
その北
近江に居た
「今日中に墨俣を奪う!もたつけば、近江のどちらが動くかわからん!手足の一本ぐらい、くれてやれ!何としてでも早急に墨俣を奪取せよッ!」
帰蝶の檄は全ての部隊に届いた
加納砦に向っている弥三郎の隊にも、作戦変更の指令が届けられる
加納砦は破棄された場所ではあるが、斎藤の領地であった
自分の庭で起きる争いに、知らん顔をしている莫迦は居ない
誰が出て来るかわからないが、墨俣を落してからと悠長なことは言っていられなかった
帰蝶は、墨俣、加納の同時攻略を命じた
其々の部隊が、其々の配置場所に急ぐ
本隊である帰蝶も、先頭を切って走った
朝早くに陣が出発した後の小牧山砦で、信良は長秀を相手に『兵棋』をやらされていた
美濃を中心とした布陣図の上に、草や花で色を染めた駒を動かし、それに対し長秀が裁定をする
「どうですか」
「駄目ですね」
恐る恐る訊ねる信良を、一刀両断する
布陣図の上、斎藤が清洲を進撃した場合を想定し、信良にどこに配置すれば良いのかを探り当てさせているが、見た感じはそれが正しくても、実戦では穴だらけの布陣になった
信良は清洲を守るためにこの小牧山、そして、奪取済みを想定して加納砦から兵を動かし、斎藤を挟撃する作戦を立てた
それを駄目出しされたのだ
「いいですか」
長秀は信良の動かした駒を小牧山砦、加納砦に其々戻し、斎藤の軍勢が既に木曽川を越えた状態に配置させる
「殿なら、こうされます」
「斎藤が入るのを、黙って見過ごすのですか?」
「黙ってはおりませんよ、殿の性格を考えれば」
「では、姉上はどのようにして斎藤を蹴散らすおつもりでしょうか」
「 」
長秀は少し笑いながら、手持ちの駒を犬山に置いた
「 犬山?」
「はい」
「ですが、犬山は清洲に対し服従の姿勢を見せていません。その犬山が清洲に加勢するでしょうか」
「加勢するなどと、誰が申しました」
「え?」
長秀の言葉に、信良は顔を傾けた
「斎藤が清洲に向っている間、殿なら犬山を落とし、即時、清洲を破棄します」
「ええ?」
酷く驚いた様子を見せる信良に、長秀は大笑いしたいのを堪えた
「そもそも、殿は何のために墨俣を捨ててまで加納砦を落そうとされているのか、お考え下さい」
「そうしたいのは山々ですが、私は姉上とはそうお付き合いがなく、そのご気性がよくわかりません」
「まあ、それは致し方がありませんね。それまで部屋に引き篭もっておられた若様が、お悪い」
「 」
はっきり言われ、不貞腐れる
「加納砦は、稲葉山城とは目と鼻の先。小牧山砦は、犬山が動いた場合を想定して、吉法師様が亡くなられた後直ぐ、築かれました」
「それは、存じております」
「では、その加納砦と小牧山砦を直線で結んでみてください」
「ええと」
言われるまま、信良は素直に指でなぞってみた
「あ・・・」
「気付かれましたか?」
聡明な信良に、長秀はにっこりと微笑む
「直線で結べば、稲葉山城、犬山城、どちらの侵入も防げる」
「ご名答」
「では、どうして先ほどの配置は駄目だったのでしょうか」
「若様は、斎藤を迎え撃つため清洲を出られました。しかし、肝心なことをお忘れです」
「肝心なこと?」
「犬山が、美濃と通じていることを」
「 」
そうだった、と、信良は苦い顔をする
「織田が斎藤を迎撃するために清洲を出れば、その隙を突いて犬山が動きます。斎藤を追い返すつもりが、犬山に清洲を落されては元も子もありません」
「では、姉上がどうして清洲を破棄するのか、破棄してどうするのかはおわかりになるのですか?」
「勿論。そうでなければ、殿に付き合うことなどできません」
「どのように?」
「先ず、清洲を空にします」
「清洲を空に?」
「戦が終わるまで、そうですね、特に重要なのが帰命丸様の安否。これが肝心です。帰命丸様の安否さえ確保できれば、殿は遺憾なく戦えます」
「姉上は、如何にして若様をお守りするのでしょうか」
「寺に預けます」
「寺に?」
「まあ、実際そうなさるのかどうかまでは、わかりかねますが、兎に角、戦が起きても中立の立場を保てる場所、そうですね、殿なら寺ではなく神社。ああ、そうだ、河尻様が熱田神宮とご縁のある方でした。もし預けるなら、そこでしょうな」
「神社に?」
「はい。ですが、一時的なことです。先ずは命奪われる心配のない場所に匿い、殿ご自身は犬山を攻めます。勿論、城を落とせる自信がなくては、この作戦は成功しませんが。そして首尾よく犬山城を落とし、清洲城を破棄。破棄すれば、斎藤に落されても恐れるものは何もありません」
「何故ですか?」
「総大将、城主、つまり、殿が部隊と共にご健在なら、単に拠点を変更するだけのこと。要は斎藤は、不要になった城を落としただけに過ぎません。そして、犬山は美濃に隣接した場所にあります。更に言うなれば、東美濃の遠山家と殿は浅からぬ関係にある家柄。と、言うことは?」
「 ええと・・・」
直ぐには答えを見付けられない様子の信良に代わって、先を急ぐ長秀が応える
「斎藤を清洲に釘付けにしておき、殿自身は美濃を攻め落とす」
「そんな簡単に行くものでしょうか」
「行かないからこそ、実践する意味があるのです」
「 」
「加納砦はその時初めて、能力を発揮するでしょう」
「では、この小牧山砦の存在意義は?」
「と、申しますと?」
「犬山の動きを抑えるためにこの砦を築いたのであれば、清洲を空にせずとも犬山を迎え撃てるのではありませんか?」
「なら、斎藤はどのようにして抑えますか?」
「それは、加納砦で」
「と言うことは、斎藤、犬山が同時に仕掛けて来た場合、清洲は兵力を分散させねばなりませんね」
「そうなりますね」
「犬山は兎も角、斎藤の五万越えの敵兵は、どのようにして?」
「それは・・・」
言葉に詰まる
「良いですか、若様。いかな殿とて、例えご実家とあれど今現在の斎藤の兵力は、計り知れないのです。昨年の戦では、ある程度の予測はできたとしても、まだ充分な兵力ではありませんでした。なのに、負けてしまった」
「 」
「若様のお父上様、先々代様がご存命中の、美濃攻めの折の織田の兵力は三万。しかし現在、殿はその三万全ての兵を動かしてはおられません。そうでしょうな、これまでの戦でいくらかは消費されてしまい、補充もままならない。加えて、若様の兄上様と戦われた稲生は、覚えてらっしゃいますか」
「はい。末森は約二千余り。佐々や前田も含めたら、恐らく五千は越えたかと」
「ええ、そうですね。あの時は佐々家では弟の市丸殿がこちらへ、前田家では犬千代殿、慶次郎殿が其々殿に着いておりましたので、兄弟同士の争いを避けるため、両家は戦にはお出になられませんでしたが、形勢不利と見たならば、即座に出て来られたでしょう。それに対し殿は、たった七百で戦われました」
「だから、大丈夫ではないのですか?」
「そうではありません」
せっかちなところが出て来た信良に、長秀は苦笑いした
「小牧山を対犬山に置いても、加納だけでは斎藤は止められない。決して」
「どうしてわかるのですか?」
「斎藤は殿のご実家です。これまでの戦に、殿のご気性が顕著に現れておりますので、恐らくは斎藤方に殿が何らかの形で戦に参加していることは気付かれているのではないかと想います」
「姉上が、兄上の振りをしていることが知られていると言うことですか?」
「そうは申せません。女が戦に出るなど有り得ることではありませんから、そこまでは想像もしていないでしょう。ですが、殿が指示していることは知られているのではないかと、私は懸念しております」
「そうですか・・・」
「ですから、昨年の戦が負け戦になってしまったのです」
「 」
長秀に論破され、信良は黙り込んで俯いた
「それから、この小牧山砦は完全に犬山を抑えられるだけの力はありません。ですので、殿は美濃国多治見の金森家と手を組まれたのです」
「いざとなったら、金森家も参加すると?」
「参加は、まだそこまで誼が深くなったわけではございませんから、どちらの戦いも加勢してくれるとは限りません。そうですね、殿でしたら犬山攻略は遠山家と、稲葉山城攻略でしたら金森家と組まれるでしょう。金森家は斎藤家に、何らかの恨みは持っているでしょうから」
「では、小牧山砦の存在意義は、やはり犬山の監視だけと言うことになりますか?」
「そもそも、殿が何を考え小牧山砦を築かれたのか、それをよくご存知なのは殿ご自身だけなのです。我々はただ、砦を築けと命令されたので、それに従ったまで」
「尚更、小牧山砦の存在意義がわからなくなるではありませんか」
「そんなことはございません。良いですか、若様。この小牧山にこの砦を築いたことで、何がわかりましたか?」
「ええと、えっと」
必死になって考える
「それまで大人しかった犬山が、動きました」
「それを今、言おうとしたところです。どうして丹羽殿はせっかちなのですか?」
「 すみません・・・」
眉を寄せて非難する信良を、長秀は小さくなって謝罪した
「では、姉上がここに砦を作ったのは、犬山を炙り出すため?」
「そうなりますね」
「だから、斎藤戦には向いてない」
「斎藤と争っても、知らぬ間に犬山に出て来られては、それこそ挟み撃ちを食らいます。それを懸念されて、殿は更に砦の改築を急いだのです」
「では、ここは元々規模的に」
「はい。現在よりは小さいものでした」
「そうだったのですか・・・」
「小牧山砦は、犬山の本心を暴露させるため。結果、斎藤と通じていることがわかりました。そして加納砦の奪取の目的は、万が一清洲を奪われた際の対応策」
「対応策?」
「先程も申し上げましたとおり、清洲を破棄して一時的に小牧山に本拠を移し、まぁ、現実のものになるかどうかわかりませんがと前置きを置いて、遠山家と結託し、斎藤を清洲から動けなくしてその間に金森家と共に西美濃を占拠、斎藤が反撃した場合は加納砦が防衛線の役目を果たします。そして、これはまぁ現実的な話ですが、遠山家と犬山を落とし、そこを本拠地とし、美濃攻め。斎藤の部隊を清洲に箱詰めにすると仮定しての話ですから、可能性はどんどん広がりますが、戦力不足の稲葉山城を落とすのは容易です。そのために、大垣周辺の豪族や国人と接触していたのですから」
「だから・・・、姉上は墨俣を囮にしてまで、加納を・・・」
「そう言うことです」
しばし呆然としながら呟く
「そんな、餅絵のような話・・・」
「現実には起こり得ないと?」
「 」
信良は黙って頷いた
「ですが、殿は実際にそれを行動されました。それが、田楽桶狭間山合戦」
「桶狭間山・・・合戦・・・」
「まあ、私も殿とは十年来のお付き合いをさせていただいておりますから、そう予想できたことなのですが。ああ、そうそう、桶狭間山も経験しての結果で物が言えますかな」
「そうですか・・・」
「桶狭間山での合戦の際、若様は何をしておいでで?」
「 部屋で経を唱えておりました」
素直に応える信良に、長秀がぶっと吹き出した
「私は、昨日一日、初めて姉上様と向かい合いました」
「はい」
笑われても、信良は臆さず自分の想いを話す
「そして、帰ってからの軍議。 姉上様が、何故私にここに残れと仰ったのか、その理由が少しだけ見えました」
「と、申されますと?」
「実際の戦場に立って、これだけのことが学べるでしょうか」
「 」
長秀の目尻が、少しだけ下がる
「恐らく私は、足手纏いなだけの存在に成り下がると想います。だけど、ここに残れば丹羽殿から様々なことが学べる。生きた知識です。だから、姉上は・・・」
「若様」
「丹羽殿」
信良は改まって膝を揃え、長秀に向き合った
「もっとたくさんのことが知りたい、もっとたくさんのことを学びたい。そして、姉上のお役に立ちたい。役に立つ弟だと想われたい。だから」
必死な目をして訴える信良を、長秀は目を細めて微笑んで見詰めた
「もっとたくさんのことを教えてください。もっとたくさんの課題を、私に与えてください。お願いします」
殿
あなた様を支える手が、年々、増えて参りますね
それは、あなた様が呼び寄せるのですか?
それとも、空に昇った吉法師様が、導いてくださっているのでしょうか
私は織田に居て、これほど安心できたことはございません
心強さを感じたことは、ありません
とても、嬉しいことですね
今頃殿は羽島に着いたかと庭先に広がる空を見上げながら、傍らで頼もしい存在を感じるのを、長秀は肌で味わっていた
「殿!」
これから戦だと言うのに
しかも、勝ち目など見えないかも知れないと言うのに、どの顔もこの空のように晴れ晴れとしている
まるでこれから起きることが楽しみで仕方がないかのように
「殿・・・」
だがその顔も、初めて見せた兜姿に、多少は動揺する
そして、帰蝶の兜の頂に飾られた羽根に、目を奪われる
「殿・・・、それは・・・」
可成の質問に、帰蝶は薄笑いで応えた
「蝉丸の羽根だ」
「蝉丸・・・の」
死んだ時、あの美しい黒羽を抜いていた光景を想い出す
しかし、帰蝶の抜いた羽根は一枚二枚ではない
もっとたくさんの羽根を抜いたはずが、『前立て』として意匠されているのは一本だけだった
「兜は、重いものだな」
苦笑する帰蝶に、秀隆らも苦笑いする
首の負担を軽減させるため、敢えて甲冑を外した
種子島式を腰に差しているため、胴巻きも短い物だった
「そんな軽装じゃぁ、前線には立てませんね」
と、恒興が告げる
「構わない。その方が動き易い」
「まぁ、殿は元々軽装で動き回られますから、我々のようにごちゃごちゃ飾り立ててしまえば、敵の恰好の餌食になってしまいますけどね。ああ、殿の場合は餌食ではなく、撒き餌ですかな」
「この頃言うようになったな、勝三郎。なつそっくりだっ」
嫌味を含めて、帰蝶はそう言い返してやった
しかし、敵も然る者
「親子ですから」
そう、にたりと笑う勝三郎に、帰蝶はなつ直伝の『あかんべー』をしてやった
なつと別れ、局処の廊下を歩く
帰蝶の部屋の前で人の話し声が聞こえ、市弥はふと足を止め、襖を開けた
縁側に、さちが座っている
隣には少しみすぼらしい小袖を着た年増の女の姿もあった
あれがさちの母親かと、市弥は帰蝶の部屋に入り、近寄った
さちは利治の許に嫁ぎ、局処を退職したが、元々は帰蝶の部屋の管理人であったため、この付近なら勝手を知っているのだろう
部屋を抜け、二人が並ぶ縁側へと出ながら声を掛けた
「さち」
「
振り返ったさちの笑顔と、少し困惑した隣の年増の顔、それから、少し膨れて来たさちの腹に目が行った
「お早うございます」
「お早う」
「お早うございます。お世話になっております」
二人は縁側から腰を上げ、庭に立つ恰好で市弥に頭を下げた
「さち、の、お母上様」
「お母上様だなんて、呼んでいただける身分ではございませんが・・・」
弥三郎、さち、死んだ時親の何れも美形である
その三人を生んだ母のやえも、綺麗な顔立ちをしていた
農家生まれとは想えないほどに
「自分の家だと想って、どうか寛いでくださいね」
「勿体無いお言葉です」
やえは頬を綻ばせながら深く頭を下げた
「
恐る恐る訊ねてみる
「ええ、主人でしたら、弥三郎の屋敷に残っております」
「屋敷に・・・」
やはり、家を奪った男の孫娘を側で見るのは、つらいのだろうか
そんな顔をしたのか、やえは慌てて首を振り、手振りを加えて説明した
「いえ、そうではなくて、みんなが一斉に留守にしては、屋敷がどうなるか心配だからと、ですので留守番を買って出ただけで、ここに来たくないと言うのではございません」
「おやえ・・・殿と、申されましたか」
「あ、はい」
「あなたは、気配りの良く届くお方ですね」
「え?」
突然誉められ、やえはキョトンとした
「こんなことを言っては何ですが、もしも平左衛門殿があのまま城に残られたとしたら、あなたとは巡り会えなかったのですね。そうなると、当然平三郎も弥三郎も、さち、も、生まれては来なかったかも知れない」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
そうだな、と、やえは無言になった
「私達土田は、あなたのご主人様に酷い仕打ちをしました。どうか、許してください」
と、市弥は深く深く頭を下げた
「大方様、お止めになってください!」
やえは慌ててそれを止めた
「そりゃ・・・、蟠りがないと言えば、嘘になります。城を追い出されたことは、恨みに感じていることでしょう。ですが大方様は、私達に仕事を与えてくださいました。倅は武家にもらわれました。弥三郎も、武家に戻ることができ、さちはそのお武家様に嫁ぐことができました。それもこれも、大方様が絆を寄り合わせてくださったからです」
「私が?」
「大方様が、うちの主人に馬屋の仕事をくださらなかったら、弥三郎は吉法師様と巡り会うこともありませんでした。倅の平三郎を斯波家にと口添えしてくださったのも、大方様です。大方様が斯波家に口添えしていただけなかったら、平三郎はお能様と夫婦になることもありませんでした。それを考えれば私達は、過分に大方様から幸福を頂きました。これ以上強請ることなどあるのでしょうか」
「おやえ殿・・・」
「大方様。過去を振り返っても、人は笑っていられることだけではありません。つらいことだって、たくさんあります。ですが、今が笑っていられるのなら、人はそれが幸せなのです。私も、さちも、弥三郎も、そして主人も、笑って清洲で暮らさせてもらってます。これ以上の欲を出せば、地獄に落ちます。閻魔様に、それこそ酷い仕打ちを受けます。ですから、大方様、あなた様だけが心を痛められることなど、ありません」
「
『救われる』とは、このことだろうか
祖父は土田の傍流ながら才に溢れた人物で、勇猛でもあったと聞かされている
美濃の片隅の、小さな豪族の、その家臣で納まる器ではなかったと
時は妙椿から次世代へと受け継がれ、俄に湧き上がった土岐家、斎藤家の争いに便乗し、嫡流である土田を追い出した
政治能力の希薄さを押して
土田家はそれまでどおり土岐家に従属のままでいるか、それとも、斎藤家に加担して可児で独立するかを迫られていた
祖父は斎藤家と手を組みながら、可児の独立豪族として確立することを選んだ
だがそれには、温厚派である嫡流・土田家が邪魔だった
土田の繁栄のため
そう、大義名分を掲げ、祖父はまだ幼かった平左衛門共々、土田家嫡流一族を可児から追い出した
しかし、大義名分は所詮、口実でしかない
それ以上の効力は持たない
嫡流を追い出し宗家に収まり、狙い通り土岐家からの独立には成功した
だが、精々木曽川の制河権を得ることが関の山、それ以上大きな家には発展しなかった
挙句、祖父ほどの能力もなかった父は、幼い自分を金目当てで織田に売った
長良川で起きた斎藤家の内乱に、その巻き添えを食らい、父は切腹した
だが、市弥は悲しいとは想わなかった
親子の縁(えにし)は、とうの昔に切れたと感じていたから
だから、心のどこかでは帰蝶が羨ましかった
素直に父親の死を受け入れていたから
今も道三のことを誰も忘れないのは、帰蝶の心の片隅に『父親』が存在しているからだろう
自分の心はどうだろう
誰も、父の死を嘆いてはくれなかった
そうだろう
自分ですら
娘である自分ですら、父の死を受け入れず、流してしまっているのだから
誰が悲しむというのか
それでも、祖父が追い出した土田一家のことだけは、忘れたことがなかった
祖父が土田家を乗っ取ったのは、自分がまだ生まれていない頃のことだった
それでも、祖父や父、肉親から武勇伝を聞かされ育った市弥は、心のどこかで疑問を感じていた
祖父がしたことは、間違いなく正しいことだったのか、と
暗に権力欲しさで嫡流家を追い出したのではないのか、と
『自分の祖父が、主家を追い出した』
そう、心に負い目として感じ始めていた時、嫁いだ織田で嫡流の一家の話を耳にした
市弥は平左衛門を探し出し、その日食うのに困っていた平左衛門に馬屋の仕事を与えた
そして、その頃は既に生まれていた時親の将来も、保障した
それが『信秀正妻』と言う地位に昇り詰めた自分にできる、精一杯のことだと
それでも、心の負い目まで消えたわけではない
元来市弥も、優しい気性の女だった
織田家で生き残らなくてはならないと言う気概が、市弥に『気性が荒い』と言う重い鎧を纏わせていた
その鎧が今、やえの言葉で全て脱げ落ちたような気になれた
「
小さく礼を言う市弥を、やえは不思議そうに目を丸くさせて聞いていた
「私は、救われた・・・」
「大方様?」
「ありがとう」
「
わけがわからず、やえは兎に角微笑んで見せた
ふと、さちの方を見る
さちも微笑んでいた
そしてまた、やえの方を向く
二人の微笑み方は、よく似ていた
人の心を和ませてくれる、そんな微笑み方だった
なつと恒興も、性格は好対照でも仕草などはよく似ている
親子とは、こうも似てしまうものなのか
言葉は乱暴でも、いつも誰かを気に掛けていた吉法師
優等生ではあっても、実兄を亡き者にしてまで義姉を得ようと画策していた三法師
どちらも、自分に似たのかも知れないと市弥は想った
「佐治」
出発前、帰蝶は佐治を見付ける
「昨日はご苦労だったな」
「いえ、大したことはありません」
「お前の活躍なしでは、清洲は犬山の被害を受けていた。無傷で美濃に向えるのは、お前のお陰だ。礼を言う」
「そんな、勿体無いです」
はにかみ笑う佐治の側で、藤吉の姿を見付けた
「藤吉、か?」
「覚えてくださってたので?!」
顔を皺だらけにして、藤吉は喜ぶ
「佐治と組んで、大垣周辺の活動をしていたのだったな」
「はい!お陰で色々と学ばせてもらいました」
「それは良かった。しかし、お前は確か蜂須賀の家臣だったな」
「はい、一応」
「蜂須賀の命令か?」
「いえ。清洲から動きそうにもなかったので、佐治さんに無理を言って連れて来てもらいました」
「ですが殿、藤吉さんの助力もあって、犬山との交戦を避けられたのです。どうか責めないであげてください」
藤吉の身を案じた佐治が助け舟に入る
「誰が責めると言った。有能な人間は一人でも多い方が良い。藤吉」
「はい」
「蜂須賀に無断で出陣したとなれば、帰れば相応の咎が待っている。そうであって欲しくないのなら、武功を挙げろ。借金は、あればあるほど邪魔になるが、武功はいくらあっても邪魔にはならない。存分に働け」
「ありがたきお言葉、感謝感激雨霰でございます!」
「
自分の言葉を受け、大袈裟なほどはしゃぐ藤吉に、さすがの帰蝶も頭から汗を浮かばせた
「清洲織田、出陣ッ!」
小牧山の門前に、成政の怒声が響く
いつもの見慣れた光景
先発の可成が最初に門を出て、その後を弥三郎の部隊が後続する
しかし今回は、弥三郎は別の場所へ向うことになっていた
「健勝で」
「ああ。そちらこそ、首尾よく頼むぞ」
長く『親友』でいる可成と弥三郎が、互いの健闘を祈る
可成の部隊の後を、勝家の部隊が続いた
その中にこっそり利家が紛れているのが見える
周りと同化しようと、大きな体を小さく丸めて進む
あれで隠れたつもりかと、松風の上の帰蝶は声を殺して笑った
黒母衣衆の秀隆が動く
猪子兵助高就が指導する帰蝶の本隊がそれに続く
後尾を小姓衆、馬廻り衆の成政の部隊が繋がった
「姉上様・・・」
小さな声で信良は、帰蝶の無事を祈る
清洲の中庭に、手毬で遊ぶ帰命と瑞希の姿があった
その側で見守る菊子の姿もある
台所では袖を襷で巻き上げ、火を掛けた鍋に向って汗を浮かばせているなつが居た
願いを掛けるような顔で、木杓子を一生懸命回している
想いを一つに
ただ、無事を祈る
五月晴れの青空の下、清洲織田軍が美濃に向けて出発した
ぶらり、ぶらりと清洲の町を歩く平左衛門は、暇を持て余したかのようにぼけっとした顔をしていた
やえが市弥に言ったことは所詮方便に過ぎず、やはり市弥の顔が見づらいと言うのが本音だった
自分を追い出した男の縁者の世話にはなりたくない
若い頃は、確かにその世話になり仕事にもありつけた
だがあの時は食うか食わずかの瀬戸際で、まだ乳飲み子も同然だった時親と、やえを抱えて途方に暮れており、市弥の申し出は渡りに船と受け入れたが、今はあの時とは逆に倅の弥三郎のお陰で裕福な生活に戻った
生活が安定すると、やはり市弥の土田家に対する想いも、城を追われたあの日を想い出し、平常では居られない
普段使わないからか、金も余り気味な状態で、かと言って、貧乏人根性が染み付いてしまった今では、贅沢な豪遊など洒落込む気分にもなれない
だから、こうして何をするでもなく、買い物をするわけでもなく、女を買うわけでもなく、酒を煽るわけでもなく、ただぼんやりと町を歩くことが習慣になってしまっていた
そんな平左衛門を背後から声を掛ける者が現れた
「もしかして、小牧の平左衛門さんかい?土田の、旦那」
「
清洲に移り住んで数ヶ月にはなるが、声を掛けられるのは初めての経験で、平左衛門は心臓をドクンとさせ驚きながら振り返った
「やっぱりそうだ、平左衛門さん」
声を掛けて来たのは自分と似た年齢の初老の男だった
「もしかしてあんた、近江の」
「そうそう、近江・愛知(えち)の雄吉だよ」
「やっぱりかい!」
久し振りに顔を合わせた商売仲間の登場に、平左衛門は破顔して両肩を叩いた
「いやまさか、こんなとこで逢えるだなんてねぇ!」
「本当だよ。平左衛門さんが商売を引退したってのは聞いてたけど、清洲に住んでるのかい?」
「まあ、そんなところだね」
「そうかい、それは豪勢だねぇ」
「どうだか」
二人で揃って、酒場で一滴の酒を楽しむことにした
「清洲はどうだい」
最初に開口したのは雄吉だった
「そうだねぇ。最近は美濃の斎藤と争ってるからね、治安的に少しは悪くなったかな」
「そうかい。わしも商売で来るのは久し振りなんだが、少し物価が高くなってるね」
「まぁ、もう少ししたら落ち着くと想うけどね」
「だと良いんだが、近江で嫌な噂を聞いちまってね」
「嫌な噂?」
傾け掛けた盃を止め、平左衛門は聞き返した
「ほらね、その斎藤、ここの織田と争ってるって言っただろう?」
「ああ。それがどうかしたかい」
「お陰で美濃の情勢も、狂っちまっててね」
「え?」
雄吉の言葉に、平左衛門は耳を疑った
「どう言うことだい」
「先々代だったか、斎藤が急に勢力を拡大した時期があっただろう?」
「ああ。確か入道した国主の頃だったか」
「そうだよ。あの頃に起きた大和の東大寺領の、大井荘内で騒動が起きただろう」
「そうだったか」
その頃は仕事を覚えるのに躍起で、隣の国のことまでは覚えていない
「荘園が次々と斎藤に取られてしまって、その騒動に紛れて各地でも豪族やら国人やらが荘園の切り取りをやってた。そして、やがては豪族、国人同士の争いにまで発展した。特に大垣方面が激しかったな」
「そうだったのかい、そんなことが」
「しかし、その騒動も斎藤家が鎮圧し、一時期は穏やかになったんだがね、その斎藤家でつい最近、その跡取りが急死して、また混乱が起き始めてるんだよ」
「え?」
平左衛門は目を丸くして驚いた
大垣と言えば、甥の佐治が調略を掛けていた土地である
何か事変が起これば直ぐにでもわかりそうなものだったが、丁度帰蝶が戦の準備と美濃の多治見に出向いた時期も重なって、佐治も大垣方面の配備が疎かになっていた
その隙を突かれたのだろうか
兎に角、平左衛門にはこの話は初耳で、しかも寝耳に水の程度でもあった
「そっ、それで、大垣はどうなってんだい」
「今、織田と争ってるんだろ?それに便乗して近江、越前とかから攻め込むんじゃねえかって話だよ。近江はまた複雑でね。ほれ、湖南の六角と湖北の浅井が争いながら、美濃に雪崩れ込むのを謀ってるって噂だし、その浅井は越前の朝倉と組んでるらしくてね、それじゃぁ攻め込まれたら、美濃の豪族どもはどれを相手に戦えば良いのかわからず仕舞いじゃねえかってことでさ。その上織田からも攻め込まれ、こりゃ斎藤も腕の見せ所だろうね」
「てことは、織田には対処しきれないってわけなんだね」
「さあね、そこまではわからないよ。そりゃ、いっぺんに来られたら八方塞だろうけど、美濃には強い豪族も犇いているからね、そんな簡単には落ちなんだろうけどさ。兎も角、先代の時代にはどこも手を出そうとはしなかった、それだけ切れ者だったんだね、斎藤義龍と言う人は。その人が死んだ途端、あの有様だ。ありゃ織田じゃなくても、何れはどこかの家が美濃を落としちまうだろうさ」
「
その、織田の家臣である息子の身の上を考えると、美濃はどうしても織田が落さなくてはならないと言う気になって仕方がない
「雄吉さん・・・」
詰まらない意地など、今は必要なのか
平左衛門は、そう想った
「すまない、俺は帰るよ」
「どうしたんだい、平左衛門さん」
「俺の倅が、織田の家臣やってんだ。その斬り込みやってんだ。今もらった情報、どうしても倅に伝えたくてね」
「え?織田の家臣?」
「すまねえ、愛想なしで」
「平左衛門さん」
「勘定、ここに置いておくよ!」
懐から財布ごと雄吉に押し付けると、平左衛門は店を飛び出し駆けて行った
「平左衛門さん!」
慌てて店の入り口まで追い駆けたが、平左衛門は既に遠くなっていた
「倅が織田の家臣?確か長男は斯波家にって話だったが、その長男か?まさか、あのやんちゃな弥三郎が武家に?いや、まさか・・・」
そう苦笑いしながら、押し付けられた財布の中身を見て肝を潰される
「ひぃぃぃ・・・!」
商売柄、大金を見るのには馴れたつもりだったが、開けた途端零れ落ちる銅銭に他人の金なら尚更だった
「平左衛門さん、こりゃちょっと多過ぎだよ・・・」
走る、走る
兎に角走る
酒は入ってはいるが、量にしてみれば些細なことでしかない
それでも体が温まれば酒の回りも早い
序でに目も回りそうになっていた
息切れた喉はカラカラに、足は痙攣を起しそうなほど悲鳴を上げ、額には季節を先取りしたかのような大粒の汗が浮かび、それでも平左衛門は必死になって清洲城を目指した
倅が向ったのが井ノ口なのか、大垣なのかわからない
もしも大垣だったなら、近江か越前に挟まれてしまう
最後の、大事な跡取りを亡くすわけにはいかなかった
雄吉と再会した商店街から清洲城までは、相当の距離がある
おまけに平左衛門は五十をとっくに過ぎた老体で、いくら馬屋を営んでいたからとは言え、引退してから今日までのんびりとした生活に浸かっていた躰は想うように動いてはくれない
途中何度も立ち止まり、休みながら走る
それを繰り返している内に、漸く清洲城の大手門の前まで辿り着いたのは、もう昼をとっくに過ぎた頃だった
顔を真っ赤に腫らし、全身から湯気が出そうなほどの大汗を掻いた男の出現に、門番の二人は不審者かと構えた
「すっ、すまねえ!すみません!」
「何だ、お前は」
「何の用だ」
「せっ、倅の・・・ッ、弥三郎にッ、だっ、大事な話が・・・!」
「弥三郎?」
『弥三郎』と言う名は、この頃はありふれた名前であるため、門番はどの『弥三郎』のことなのかさっぱりわからない
「弥三郎を・・・ッ!」
「爺さん、悪いが今日は引き取ってくれ。日が悪い」
「そうじゃなくて・・・ッ、さ、さち・・・」
「さち?」
平左衛門は咄嗟に娘の名前を出した
「土田さちが、ここにお世話になってる筈です。私はその父親です。火急の知らせがあり、参りました!どうか、逢わせて下さいませッ!」
「さち?」
「もしかして、局処のおさち坊のことかい?」
「おさち坊?」
もう一人の門番が不思議総な顔をして、相方を見た
「ほら、奥方様の弟君に嫁がれた、局処のおさち坊だよ」
「ああ、あのさっちゃんかい。爺さん、いや、あなたは」
そこへ、偶然通り掛かった資房が騒動に気付く
「どうした」
「あ、これは太田様・・・!」
「あなたは?」
門番に挟まれた、くたびれ切った平左衛門に目をやる
「私は、土田さちの父で、土田平左衛門と申します。どうしても、倅の弥三郎に伝えなくてはならないことがあり、お通し願いたいのですが・・・」
「おお、弥三郎殿とさっちゃん・・・、いえ、おさち殿の父上様であられましたか。おい、この方をお通ししてくれ」
「はい」
資房の一言に、自分の前に立ちはだかっていた男が同時に避ける
この光景を目の当たりにした平左衛門は目を丸くさせ、資房に訊ねた
「あなた様は・・・」
「申し遅れました。わたくし、織田家内事(ないじ)統括総責任者、太田又助資房でございます」
「
清洲城の門前で、いきなり織田家の家内の全てを取り仕切る人物と遭遇できたのは、幸運だろうか
だがこの『幸運』は、一度きりでは終わらなかった
清洲城の表座敷とか言うところに通されるのかと想いきや、それ以上の上等な部屋に案内された
案内されたのは、ここに入ることを許された男性は城主だけと言う、特別な場所、清洲城南本殿局処奥座敷
そんな聞いたこともないような場所に案内され、しかも、自分と向き合っているのは織田家の頂点に限りなく近い人物、織田信長生母・土田御前
つまり、『自分を追い出した男の孫娘』であり、『生きる道を与えてくれた恩人』でもあり、遺恨あり、恩義ありの複雑な想いを抱える相手であった
表座敷は『砦』、『屋敷』と呼ばれる『城』にも存在するが、常に砂や土、泥で汚れるため畳は敷かないのが一般だった
しかし『奥座敷』は全面に畳を敷き詰められている
高級な畳を何十枚も敷けるのは、それだけ家の財力を物語るもので、畳と触れ合う生活を送っていない者には爪先がこそばゆくて仕方がない
しかし、正座した膝がびりびりと痺れるのは、決して、正座に馴れていないからではなく、極度の緊張から来るものだ
そんな膝を手で押え付けながら、平三郎は市弥に話をしていた
「それは、真ですか」
自分のしどろもどろな話を、市弥は決して焦らせることもなく根気良く聞いてくれる
その話が終わった後、市弥はそう聞いた
「近江の愛知に居る知人から、直接聞いた話でございます。信憑性は高いかと存じます」
頭を垂れ、平左衛門は市弥の顔をできるだけ見ないよう、心掛けた
「そうですか。あなたは馬屋を営み、その人脈は多岐に渡るもの。決して出任せではないと、信じましょう」
「それでは・・・ッ」
市弥の返事に、平左衛門は初めて顔を上げた
目の前に立派な御仁が座っている
とても美しい女御だった
様々な想いはあっても、市弥と対面するのはこれが初めての平左衛門は、一瞬目の前がチカチカとして、激しく瞬きをした
「又助、なつは?」
「はい、朝から台所に詰めておられます」
「台所?」
「大事な用事があるので、終わるまでは戻らないと」
「そう・・・。何をしているのかわからないけれど、当分帰って来ないってことなのね」
「そう、なりますかな・・・」
なんとも的を射ない話だけに、資房も明確な返事ができなかった
「仕方がないわね。又助」
「はい」
「この情報を、小牧山に伝えてくれる?」
「殿には」
「上総介が何処に布陣してるかまでは、わからないのよ。あの子が小牧山を出発したことは届いているけど、何処に向ったかまでは聞いていないもの」
「そうですね」
「朝から台所に詰めているのだから、恐らくなつも知らないはず。聞くだけ無駄でしょう」
「ですか」
「土田殿」
自身も土田姓でありながら、平左衛門にそう名を呼ぶ
「は、はい」
「重要な情報を、ありがとうございます。上総介に代わって、お礼を申し上げます」
と、市弥は平左衛門に指を突いて頭を下げた
「そっ、そんなっ、勿体無い・・・っ!」
「この情報が上総介に届けば、あの子も攻め所を絞れます。増してや、前年より大垣周辺を攻めているものの、上手く行かない理由もはっきりしました。そうなれば、無理なごり押しも考慮に入ることでしょう。あの子は、猪突猛進に突き進む子だから」
市弥の言葉に、資房は声を殺して笑った
その通りなだけに、帰蝶を庇う意味も見付からない
「土田殿は、しばらく躰を休めてください。そんなに汗を掻かれて。お風呂の用意も、させていただきましょう」
「そっ、そんな滅相もない!」
勿体無過ぎて、平左衛門は手を振りながら慌てて断る
「重要な情報を齎してくださった恩人に、汗まみれのままで帰れとは、織田家のすることではありません。どうか遠慮なさらず。ああ、そうだ、さちとおやえ殿もお呼びしましょう。又助、二人を呼んで来てくれる?」
「はい、畏まりました」
「おっ、大方様・・・!」
平左衛門は、両膝を握り締めて叫んだ
「私は、あなたを、あなたの一族を恨んで、恨んで生きて来た人間でございます!あなた様の恩義を感じながら、それでもあなた様ですら恨んでいた人間でございます!そんな私に、これ以上お優しくなさらないでくださいませッ!」
「平左衛門殿・・・」
「
立ち上がり掛けた資房も、動きを止める
「
市弥はゆっくりとした口調で、自分の想いを話した
「六年前だったかしら。あなたのご次男、弥三郎が、当時私の暮らしていた末森城にやって来た時、私は弥三郎ですら取り込み、あなたにもっと恩を感じてもらおうと画策しました」
「え・・・?」
突然の市弥の告白に、平左衛門はおろか、資房はもっと驚いた顔をした
丁度守山城の争奪戦の頃のことだろう
信勝の動きを確認するため可成と弥三郎が末森城に向い、そのまま帰って来なかったことを想い出す
「弥三郎も世話をすれば、私は私の家の罪から救われると想っておりました。だけど、それで救われることなどないと、今朝、気付いたのです」
「今朝・・・」
「あなたのご内儀様、おやえ殿に、・・・救われました」
「え?おやえに?」
平左衛門のキョトンとした顔は、更に面妖なものに変わった
「あなたは、素晴らしい女性を娶られましたね。おやえ殿のようなご賢婦様は、そうそう見付かりません。どうぞ、大切になさってください」
「
市弥の言葉がよくわからず、だが、聞き返したり根掘り葉掘りするのも失礼かと、平左衛門は声小さく返事した
大方様も変わられたものだな、と、局処から戻る際、資房は一人考えた
若い頃から織田家に仕えていた資房は、当然、市弥が嫁いで来た頃のことも知っている
幼さゆえか尖った印象のある少女で、成人してからは見た目どおり威圧的で、夫が亡くなった後もしばらくは権力で人を押え付けて来た
その市弥が、今ではすっかり丸くなり、人当たりも柔らかくなっている
那古野、末森に居た頃とは比べ物にならないほどだ
そう言えばおなつ様も、昔に比べて随分世話焼きになっている、とも
元々そう言った資質だったのだろうが、誰も彼も構っていたわけではない
そんななつも今、台所に籠って何をしているのやらと物思いに耽ていると、そのなつが手に小さな壷を持って歩いて来るのが見えた
「おなつ様」
「
その壷は両手ですっぽり隠れてしまうほどの物で、恐らくだが山椒か何かが入っていた入れ物だろうと想った
「台所に引き篭もっておられると伺いましたが、もう御用はお済で?」
「ええ。
「殿の布陣先ですか?ええ、私もそれを探し当てに行く最中でございました」
「どうかしたの?」
「大垣周辺の情報が手に入りましたので、それをお伝えしに小牧に向かう途中だったのです」
「大垣周辺の情報?」
「ご説明差し上げたいのは山々なのですが、急を要するものですから先を急がせて頂きたく、ご無礼かとは存じますが失敬させていただきます」
「ええ・・・。気を付けて」
「大方様はご存知ですので、宜しければ大方様にお伺い下さいませ」
「大方様に?」
「さちのお父上様が、情報を持って来てくださったのです。おなつ様は台所にいらっしゃいますもので、お呼びするもの不具合があるのではと想い、遠慮させていただいたのですが、失礼致しました」
「いいえ。私も今になって漸く終わったところですから、私を待つ必要はありません」
「お気遣い、痛み入ります。それでは、これにて御免」
「はい」
その場で資房を見送り、それから
「あ!又助、待ってちょうだい!」
自分の手の中にある小壷の存在を想い出した
砦を出発した帰蝶らは小牧山から千秋村へと移動する
この千秋村は秀隆の妻の叔父で、熱田神宮大宮司、桶狭間山合戦の折に織田の先鋒として活躍した千秋四郎季忠と由縁のある地だった
ここで軍勢を整えるため、一旦停まる
加えて、浮野でも岩倉相手に戦を交えたこともあり、勝手は知っていた
秀隆の妻の出身地でもあるので、立ち寄った寺は二つ返事で場所を提供してくれた
「この辺りは茶畑が多いのだな」
「木曽川が近いですからね、水源が豊富ですから。でも、その分水害も多いですよ」
「今年は何事もなく過ぎてくれれば良いのだが」
夏を心配する帰蝶に、寺の住職が美味い茶で持て成してくれた
「織田様が統括してくださるようになってから、その水害も目に見えて減って来ております。この辺りの者はみな、織田様に感謝しております」
大雨や大雪のあった年は、決まって長良川が氾濫を起していた
その経験を生かし、道空は木曽川の水位が上がれば溢れた水が村や町を直撃しないよう別の川、つまり『水の逃げ道』となる大溝を作った
その大溝は規模的に小さいものながら、伊勢湾まで続いていた
これのお陰で水害は、以前より比べて劇的に減っている
「そう言ってもらえると、汗を流す甲斐がある。ご厚意、深く謝す」
軽く頭を下げる帰蝶に、住職も会釈して返した
しばしの休息を取った後、一行は一宮に入った
ここで信盛の部隊を待機させる
場所は一宮の妙興寺
恒興が妙心寺派であったことが幸いしたか、あるいは日頃より清洲との友好関係が実を結んだか、こちらでも信盛の部隊を快く引き受けてくれた
妙興寺から美濃路に入り、木曽川を跨いで濃尾大橋を渡る
夫も渡ったであろうこの橋を、祈るような想いで松風を歩かせた
渡りながら、右から受ける美濃の風に想いを巡らせる
こんな状況になっても、美濃は遠く大きい
兄は賢い男だと、帰蝶は痛いほど想い知った
妻は近江・湖北の浅井家の娘
これは父が考えた政略だが、夫婦仲の良好さは兄の努力の賜物であろう
父亡き後は近江・湖南の六角とも政略を結び、更には越前の朝倉から嫡男の嫁をもらい同盟は成立した
だが、その兄が死んでしまっては、この同盟もどこまで続くかわからない
しかし兄は自分の死後のことも、きちんと考慮していたのか
妻の実家の浅井と、嫡男喜太郎の妻の実家朝倉は、現当主、前当主同士が密接な関係にあると言う情報は得ている
もしも斎藤家が義龍亡き後もこの両家と円満であれば、織田は近江、越前をも相手に回さなくてはならなくなる
その逆に、義龍死後の今が好機と、近江、越前が揃って進撃して来る可能性も考えられた
自分は、どちらを相手に戦えば良いのか、わからない
近江も越前も、敵か、味方か、わからない
木曽川を渡り終えたところで、別行動を命令されている弥三郎の部隊が北上した
弥三郎、そして弟の利治、その部隊を見送り、帰蝶らは再び南を目指して進軍する
やがて、信長が陣を敷いた羽島郷大良の地に到着した
あれから何年も経っている
当時の縄張りはとっくに消え、何もない草(くさ)原だけが広がっていた
「
胸を掠める様々な想い
ここで夫は何を想い、何を決意したのだろうか
何が夫を駆り立てたのだろうか
もしもあの時、父が兄に対して挙兵をしなければ、夫は死なずに済んだのかも知れないと、そう想うと、父の行動が許せなくなる
だが、父がそうしたのには、夫と自分を守ろうとする親心があったことで、責められるものではない
わかってはいても、それでも、どうしても父を恨んでしまう
余計なことを、と
「殿」
先頭に立っていた可成が戻って来る
「陣は、如何なさいますか」
「
「では、縄張りを始めます」
「頼んだ」
可成、勝家の部隊を中心として、仮設の陣を敷くための準備が始まった
帰蝶の本隊は総大将を守るため、周囲を警戒する
「兵助」
「はい」
その指揮をしている本部隊隊長の兵助に声を掛ける
「近江、越前はどう動く」
「近江と越前ですか?」
「近江は義姉上様が嫁がれてから、斎藤とは良縁だ。だがそれも、父上、兄上がご存命中のこと、その両方が亡くなられた今、この二ヶ所はどう動く」
「はて、兵助のこの薄い頭でわかるかどうか存じませんが、殿ならどうされますか」
「私が?」
「逆を考えてみましょう。もしも近江か越前が殿のお立場なら、殿はどうされますか」
「そんなもの、攻めるに決まっているだろ?」
「例えば、ご姉妹やお子が嫁がれていても?」
「当然だろう?千載一遇の機会を、みすみす逃す愚か者が何処に居る」
今が正にそれなのだから、今更聞くなとでも言いたげな顔をして、帰蝶は返事した
「ならば、近江、越前も、殿と同じ行動をされるでしょうね」
「
兵助の答えは、帰蝶に何かを想い付かせたのか
その後直ぐ、帰蝶は黙り込んだ
こうなると、どんなに声を掛けても返事をしないと知っている兵助は、黙って帰蝶から離れ、見守った
「私が攻めるのだから、これを好機と想わないはずがない。織田との騒乱に紛れ、西か、あるいは北から潜入すれば、織田に目の行っている斎藤はそれに気付かない。だが、越前が美濃に入るには、飛騨を少し掠めて通らねばならない。若狭からは、無理だな。朝倉の領地とは言え、まだ反勢力が残ってる若狭を利用すれば、逆に自分が潰される。私だったら、犬山に協力しろと言っているようなものだ。素直に従うわけがない。なら、朝倉の美濃潜入が無理だとしても、近江はどうだろう。近江は六角を中心とした士族社会と、浅井を中心とした土豪社会が鎬を削っている。増してや、六角、浅井は今も争っている最中。こちらに向かうとしても、互いが足の引っ張り合いにはなる。
六角はそもそも、帰蝶の先祖の一人である土岐頼遠と同世代に活躍した、同じく『婆娑羅大名』の異名を持つ佐々木道誉を先祖とする
その佐々木家のそもそもの嫡流である、現在の京極家は美濃・関ヶ原と隣接する場所に位置していた
関ヶ原の領主である竹中家は、斎藤に組み込まれている
浅井は台頭して来た頃に、その京極家を併呑していた
つまり、京極は浅井に協力できる状態に、強制的に置かれている
勿論、京極家と六角家は血縁同士なので、京極家にも拒否権はあるだろう
だが、通過することまでは阻止できない立場にあった
「確か、浅井から京極に娘が入ってるな」
そうなると、親戚同士ともなる
その京極が浅井の争いに加担することはないとしても、美濃入りには協力するものと見られた
「やはり、竹中を取り込めなかったのは痛手だな・・・」
だが、竹中以外の家なら、とも想う
「
一瞬、帰蝶の目が見開いた
それから直ぐ、恒興の部隊を目視で探した
「勝三郎!佐治ッ!」
叫ぶ帰蝶の許へ馳せ参じる二人
佐治の側には藤吉が寄り添っていた
「お呼びですか、殿」
「どうかなさいましたか?」
「お前達は大垣派遣だが、大垣城には向わず市橋家と接触しろ」
「え?」
突然の作戦変更に、二人はキョトンとする
「織田に乗じて、近江が動くかも知れん。何としてでも、近江勢の侵入を阻止しろ」
「近江?」
「兄上は、近江の侵攻を恐れて六角と手を組んだ。しかし、その兄上が死んでしまっては、同盟も自然破棄されているかも知れん。そうなれば織田は近江の六角か、あるいは浅井とは味方同士になれるかも知れんが、余所者に美濃を良いようにされるのは我慢がならない。近江を美濃に近付けさせるな。侵入の気配あれば市橋家を中心に、近江を叩き潰せッ!」
「はっ!」
帰蝶の性格を良く知る二人は、言葉どおりの命令遂行を果たそうと、早々に大良を出る
しかし、帰蝶を知らない、増してやそれが『信長』だと信じている藤吉には、帰蝶の突然の作戦変更の意図を理解できるはずもなかった
「佐治さん、どうして殿は近江が攻めて来るってわかるんですか?」
「それは、私にもわかりません」
「へ?」
佐治の返事に、藤吉は目を丸くさせる
「ですが、殿がそうしろと仰るのですから、その通りにするだけです」
「どう言うことですか」
まだわからない顔をする藤吉に、佐治は苦笑いして応える
「それが、殿だからです」
「
益々理解しがたい顔をする藤吉であった
急場凌ぎで作った陣の完成を待たず、帰蝶は大良を出発した
急がねばならない
近江がどう動くのかわからない今、片付けなければならないことは早く片付けたい
さっさと墨俣を落とし、加納砦を奪取せねばならない
自分がまごつけばまごつくほど、美濃を危険に晒す
斎藤の勢力の衰えを目にした周辺が、放っておくとは想えない
東はなるほど、景任が居る限りそうそう入って来ることはできないだろう
だが、帰蝶にとって『味方』と公言できる存在のない西は、脆く壊れやすい場所になる
西の脅威は、まだ実感したことのない帰蝶に、想像できるような容易い存在ではない
自分が起死回生の想いで倒した今川との争いから僅か三ヵ月後、近江の浅井、元服したての若き当主が、六角に奪われていた旧領を次々と奪還したことは聞かされている
悔しい想いをしたのが自分ではなく、なつだったとしても、今になってあの時のなつの気持ちが理解できた
何故、目を張らなかったのかとも、後悔する
諜報部隊である一益は、伊勢と尾張を何度も往復し、ここのところ織田の争いには満足に参加できていない状況だった
真の敵は、伊勢ではない
その北
「今日中に墨俣を奪う!もたつけば、近江のどちらが動くかわからん!手足の一本ぐらい、くれてやれ!何としてでも早急に墨俣を奪取せよッ!」
帰蝶の檄は全ての部隊に届いた
加納砦に向っている弥三郎の隊にも、作戦変更の指令が届けられる
加納砦は破棄された場所ではあるが、斎藤の領地であった
自分の庭で起きる争いに、知らん顔をしている莫迦は居ない
誰が出て来るかわからないが、墨俣を落してからと悠長なことは言っていられなかった
帰蝶は、墨俣、加納の同時攻略を命じた
其々の部隊が、其々の配置場所に急ぐ
本隊である帰蝶も、先頭を切って走った
朝早くに陣が出発した後の小牧山砦で、信良は長秀を相手に『兵棋』をやらされていた
美濃を中心とした布陣図の上に、草や花で色を染めた駒を動かし、それに対し長秀が裁定をする
「どうですか」
「駄目ですね」
恐る恐る訊ねる信良を、一刀両断する
布陣図の上、斎藤が清洲を進撃した場合を想定し、信良にどこに配置すれば良いのかを探り当てさせているが、見た感じはそれが正しくても、実戦では穴だらけの布陣になった
信良は清洲を守るためにこの小牧山、そして、奪取済みを想定して加納砦から兵を動かし、斎藤を挟撃する作戦を立てた
それを駄目出しされたのだ
「いいですか」
長秀は信良の動かした駒を小牧山砦、加納砦に其々戻し、斎藤の軍勢が既に木曽川を越えた状態に配置させる
「殿なら、こうされます」
「斎藤が入るのを、黙って見過ごすのですか?」
「黙ってはおりませんよ、殿の性格を考えれば」
「では、姉上はどのようにして斎藤を蹴散らすおつもりでしょうか」
「
長秀は少し笑いながら、手持ちの駒を犬山に置いた
「
「はい」
「ですが、犬山は清洲に対し服従の姿勢を見せていません。その犬山が清洲に加勢するでしょうか」
「加勢するなどと、誰が申しました」
「え?」
長秀の言葉に、信良は顔を傾けた
「斎藤が清洲に向っている間、殿なら犬山を落とし、即時、清洲を破棄します」
「ええ?」
酷く驚いた様子を見せる信良に、長秀は大笑いしたいのを堪えた
「そもそも、殿は何のために墨俣を捨ててまで加納砦を落そうとされているのか、お考え下さい」
「そうしたいのは山々ですが、私は姉上とはそうお付き合いがなく、そのご気性がよくわかりません」
「まあ、それは致し方がありませんね。それまで部屋に引き篭もっておられた若様が、お悪い」
「
はっきり言われ、不貞腐れる
「加納砦は、稲葉山城とは目と鼻の先。小牧山砦は、犬山が動いた場合を想定して、吉法師様が亡くなられた後直ぐ、築かれました」
「それは、存じております」
「では、その加納砦と小牧山砦を直線で結んでみてください」
「ええと」
言われるまま、信良は素直に指でなぞってみた
「あ・・・」
「気付かれましたか?」
聡明な信良に、長秀はにっこりと微笑む
「直線で結べば、稲葉山城、犬山城、どちらの侵入も防げる」
「ご名答」
「では、どうして先ほどの配置は駄目だったのでしょうか」
「若様は、斎藤を迎え撃つため清洲を出られました。しかし、肝心なことをお忘れです」
「肝心なこと?」
「犬山が、美濃と通じていることを」
「
そうだった、と、信良は苦い顔をする
「織田が斎藤を迎撃するために清洲を出れば、その隙を突いて犬山が動きます。斎藤を追い返すつもりが、犬山に清洲を落されては元も子もありません」
「では、姉上がどうして清洲を破棄するのか、破棄してどうするのかはおわかりになるのですか?」
「勿論。そうでなければ、殿に付き合うことなどできません」
「どのように?」
「先ず、清洲を空にします」
「清洲を空に?」
「戦が終わるまで、そうですね、特に重要なのが帰命丸様の安否。これが肝心です。帰命丸様の安否さえ確保できれば、殿は遺憾なく戦えます」
「姉上は、如何にして若様をお守りするのでしょうか」
「寺に預けます」
「寺に?」
「まあ、実際そうなさるのかどうかまでは、わかりかねますが、兎に角、戦が起きても中立の立場を保てる場所、そうですね、殿なら寺ではなく神社。ああ、そうだ、河尻様が熱田神宮とご縁のある方でした。もし預けるなら、そこでしょうな」
「神社に?」
「はい。ですが、一時的なことです。先ずは命奪われる心配のない場所に匿い、殿ご自身は犬山を攻めます。勿論、城を落とせる自信がなくては、この作戦は成功しませんが。そして首尾よく犬山城を落とし、清洲城を破棄。破棄すれば、斎藤に落されても恐れるものは何もありません」
「何故ですか?」
「総大将、城主、つまり、殿が部隊と共にご健在なら、単に拠点を変更するだけのこと。要は斎藤は、不要になった城を落としただけに過ぎません。そして、犬山は美濃に隣接した場所にあります。更に言うなれば、東美濃の遠山家と殿は浅からぬ関係にある家柄。と、言うことは?」
「
直ぐには答えを見付けられない様子の信良に代わって、先を急ぐ長秀が応える
「斎藤を清洲に釘付けにしておき、殿自身は美濃を攻め落とす」
「そんな簡単に行くものでしょうか」
「行かないからこそ、実践する意味があるのです」
「
「加納砦はその時初めて、能力を発揮するでしょう」
「では、この小牧山砦の存在意義は?」
「と、申しますと?」
「犬山の動きを抑えるためにこの砦を築いたのであれば、清洲を空にせずとも犬山を迎え撃てるのではありませんか?」
「なら、斎藤はどのようにして抑えますか?」
「それは、加納砦で」
「と言うことは、斎藤、犬山が同時に仕掛けて来た場合、清洲は兵力を分散させねばなりませんね」
「そうなりますね」
「犬山は兎も角、斎藤の五万越えの敵兵は、どのようにして?」
「それは・・・」
言葉に詰まる
「良いですか、若様。いかな殿とて、例えご実家とあれど今現在の斎藤の兵力は、計り知れないのです。昨年の戦では、ある程度の予測はできたとしても、まだ充分な兵力ではありませんでした。なのに、負けてしまった」
「
「若様のお父上様、先々代様がご存命中の、美濃攻めの折の織田の兵力は三万。しかし現在、殿はその三万全ての兵を動かしてはおられません。そうでしょうな、これまでの戦でいくらかは消費されてしまい、補充もままならない。加えて、若様の兄上様と戦われた稲生は、覚えてらっしゃいますか」
「はい。末森は約二千余り。佐々や前田も含めたら、恐らく五千は越えたかと」
「ええ、そうですね。あの時は佐々家では弟の市丸殿がこちらへ、前田家では犬千代殿、慶次郎殿が其々殿に着いておりましたので、兄弟同士の争いを避けるため、両家は戦にはお出になられませんでしたが、形勢不利と見たならば、即座に出て来られたでしょう。それに対し殿は、たった七百で戦われました」
「だから、大丈夫ではないのですか?」
「そうではありません」
せっかちなところが出て来た信良に、長秀は苦笑いした
「小牧山を対犬山に置いても、加納だけでは斎藤は止められない。決して」
「どうしてわかるのですか?」
「斎藤は殿のご実家です。これまでの戦に、殿のご気性が顕著に現れておりますので、恐らくは斎藤方に殿が何らかの形で戦に参加していることは気付かれているのではないかと想います」
「姉上が、兄上の振りをしていることが知られていると言うことですか?」
「そうは申せません。女が戦に出るなど有り得ることではありませんから、そこまでは想像もしていないでしょう。ですが、殿が指示していることは知られているのではないかと、私は懸念しております」
「そうですか・・・」
「ですから、昨年の戦が負け戦になってしまったのです」
「
長秀に論破され、信良は黙り込んで俯いた
「それから、この小牧山砦は完全に犬山を抑えられるだけの力はありません。ですので、殿は美濃国多治見の金森家と手を組まれたのです」
「いざとなったら、金森家も参加すると?」
「参加は、まだそこまで誼が深くなったわけではございませんから、どちらの戦いも加勢してくれるとは限りません。そうですね、殿でしたら犬山攻略は遠山家と、稲葉山城攻略でしたら金森家と組まれるでしょう。金森家は斎藤家に、何らかの恨みは持っているでしょうから」
「では、小牧山砦の存在意義は、やはり犬山の監視だけと言うことになりますか?」
「そもそも、殿が何を考え小牧山砦を築かれたのか、それをよくご存知なのは殿ご自身だけなのです。我々はただ、砦を築けと命令されたので、それに従ったまで」
「尚更、小牧山砦の存在意義がわからなくなるではありませんか」
「そんなことはございません。良いですか、若様。この小牧山にこの砦を築いたことで、何がわかりましたか?」
「ええと、えっと」
必死になって考える
「それまで大人しかった犬山が、動きました」
「それを今、言おうとしたところです。どうして丹羽殿はせっかちなのですか?」
「
眉を寄せて非難する信良を、長秀は小さくなって謝罪した
「では、姉上がここに砦を作ったのは、犬山を炙り出すため?」
「そうなりますね」
「だから、斎藤戦には向いてない」
「斎藤と争っても、知らぬ間に犬山に出て来られては、それこそ挟み撃ちを食らいます。それを懸念されて、殿は更に砦の改築を急いだのです」
「では、ここは元々規模的に」
「はい。現在よりは小さいものでした」
「そうだったのですか・・・」
「小牧山砦は、犬山の本心を暴露させるため。結果、斎藤と通じていることがわかりました。そして加納砦の奪取の目的は、万が一清洲を奪われた際の対応策」
「対応策?」
「先程も申し上げましたとおり、清洲を破棄して一時的に小牧山に本拠を移し、まぁ、現実のものになるかどうかわかりませんがと前置きを置いて、遠山家と結託し、斎藤を清洲から動けなくしてその間に金森家と共に西美濃を占拠、斎藤が反撃した場合は加納砦が防衛線の役目を果たします。そして、これはまぁ現実的な話ですが、遠山家と犬山を落とし、そこを本拠地とし、美濃攻め。斎藤の部隊を清洲に箱詰めにすると仮定しての話ですから、可能性はどんどん広がりますが、戦力不足の稲葉山城を落とすのは容易です。そのために、大垣周辺の豪族や国人と接触していたのですから」
「だから・・・、姉上は墨俣を囮にしてまで、加納を・・・」
「そう言うことです」
しばし呆然としながら呟く
「そんな、餅絵のような話・・・」
「現実には起こり得ないと?」
「
信良は黙って頷いた
「ですが、殿は実際にそれを行動されました。それが、田楽桶狭間山合戦」
「桶狭間山・・・合戦・・・」
「まあ、私も殿とは十年来のお付き合いをさせていただいておりますから、そう予想できたことなのですが。ああ、そうそう、桶狭間山も経験しての結果で物が言えますかな」
「そうですか・・・」
「桶狭間山での合戦の際、若様は何をしておいでで?」
「
素直に応える信良に、長秀がぶっと吹き出した
「私は、昨日一日、初めて姉上様と向かい合いました」
「はい」
笑われても、信良は臆さず自分の想いを話す
「そして、帰ってからの軍議。
「と、申されますと?」
「実際の戦場に立って、これだけのことが学べるでしょうか」
「
長秀の目尻が、少しだけ下がる
「恐らく私は、足手纏いなだけの存在に成り下がると想います。だけど、ここに残れば丹羽殿から様々なことが学べる。生きた知識です。だから、姉上は・・・」
「若様」
「丹羽殿」
信良は改まって膝を揃え、長秀に向き合った
「もっとたくさんのことが知りたい、もっとたくさんのことを学びたい。そして、姉上のお役に立ちたい。役に立つ弟だと想われたい。だから」
必死な目をして訴える信良を、長秀は目を細めて微笑んで見詰めた
「もっとたくさんのことを教えてください。もっとたくさんの課題を、私に与えてください。お願いします」
殿
あなた様を支える手が、年々、増えて参りますね
それは、あなた様が呼び寄せるのですか?
それとも、空に昇った吉法師様が、導いてくださっているのでしょうか
私は織田に居て、これほど安心できたことはございません
心強さを感じたことは、ありません
とても、嬉しいことですね
今頃殿は羽島に着いたかと庭先に広がる空を見上げながら、傍らで頼もしい存在を感じるのを、長秀は肌で味わっていた
PR
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
勝手にPR
濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
岐阜の地酒 日本泉公式サイト
(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト
濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
ブログ内検索
ご訪問、ありがとうございます
あまり役には立ちませんが念のため
解析