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この日は珍しく穏やかな一日だった
鉄砲の音も聞こえない、人の怒声も聞こえない
ただ、静かで穏やかな一日だった
「お清、そのまま真っ直ぐ進めて」
「はい、姫様」
清四郎は帰蝶の指示通り、『将棋の歩』を真っ直ぐ進めた
枡一つ、少しずつ、少しずつ
「ははは、帰蝶、清四郎。そんなにちまちましていては、いつまで経っても『将』は落とせんぞ」
対峙する道三は、笑いながら一つずつ一つずつ、帰蝶・清四郎組の歩兵を弾いて行った
「姫様・・・」
手元の歩兵の駒が数少なくなって来る
「まだだ、まだ」
焦る清四郎を他所に、帰蝶はただ一点だけを見詰めていた
「父様がそこに入るまで、待って」
「ですが・・・」
「大丈夫。私達は必ず勝つ」
「 」
自信満々な帰蝶の微笑みに、それでも清四郎は気が気でない
帰蝶達の駒を弾く道三の駒が、狙った枡に入った
「お清、出せッ!」
それを狙っていた帰蝶は、声を荒げ清四郎に命令した
「王手ッ!」
月が昇る暗闇の中、数限りなく気の重い背中は、ゆかねばならぬ場所へと自分を誘(いざな)う
まるで体が泥でできたように、利三は引き摺りながら稲葉山城の表座敷に向かった
想うところは多々ある
だが、「してやられた」
ただ、それだけであった
主だった家臣らの集まる表座敷に到着する
「失礼します」
利三の声に、一鉄、守就、氏家直元ら、他にも斎藤の譜代が続く
そして、夕庵、夕庵の隣に小牧道家
それら諸侯が顔を向けた
「どうでした、斎藤殿」
一鉄が声を掛ける
利三は直ぐに声を上げることができなかった
墨俣から上がる烽火に、弥三郎は号令を掛けた
「おらぁーッ!死ぬ気で走れ走れッ!」
背中に端指物を二本、三本差した雑兵が、辺りをせっせとせっせと走り回る
「あの・・・、これって何の意味が・・・?」
自分も背中に織田木瓜の指物を五本も指し込まれた利治が、顔を顰めて弥三郎に聞いた
「んー?そんなの、『水増し』に決まってんでしょ」
「水増し?」
「足りなきゃ、足りてるように見せ掛ける。そんなの、商売の常識ですよ」
「商売と加納攻略と、どう関係が・・・」
「攻略たって、殿の見立てでは砦はもう何十年も前に放棄されたまんまで、斎藤も手入れすらしてないって話じゃないですか。でも、だからって安心して入れるわけじゃない。かと言って、こっちも数が少ない分、まともにぶつかったら引っ繰り返っちまう。そうならないよう、兵の数を『水増し』してるんです。水増しってのは、商売の基本ですよ」
「あ・・・、あこぎな・・・ッ」
大人の汚い部分を見たような気がして、利治は後退った
「これでもし砦に斎藤兵が居たとしても、慌てて出てってくれるんじゃ?」
「それで出て行かなかったらどうするんですか」
「そん時ぁ特攻でしょ」
「結局何も解決してないじゃないですかッ」
「では、追って兵を送ります。どうぞ存分にお使いださい」
善次は恒興に頭を下げ、踵を返した
恒興は舅の背中を複雑な表情で見送る
その恒興に振り返った
「婿殿」
「あ・・・、はい」
「これは博打。己の人生を賭けた、大博打。打つに値すると、想いますか」
恒興は良く考えてから応えた
「 義父上様の賭けた博打が、大きな当りを出すには、先ず、私達が当りを引き寄せねばなりません。その努力は惜しみません」
「は、は、は」
また、ゆっくりと笑う
「千郷の目は、狂ってなかった。あの子があなたを選んだ理由、なんとなくわかったような気が致します」
「え?」
「最初の亭主が死んだ時、私は、千郷は泣きながら帰って来ると想ってました。だけど、あの子は帰って来なかった。しばらくして、池田殿の嫁になりたいと私に手紙を送って来た」
「え、え?」
恒興は顔を赤くして聞き返した
「織田殿の口添えもあって、私は特にそれには反対しませんでした。どの道、織田との縁を切りたくはなかったので。だけど、多少の不安はありました。千郷は、何を好んで『家臣』の家に嫁ぐのか、と」
「 」
それもそうだな、と、恒興は少しだけ俯いた
「千郷は、『家』を選んだのではない。『人間』を、選んだのですね」
だが、善次の言葉に再び顔を上げる
「義父上様・・・」
「私の、自慢の娘です。千郷を送って、良かった」
「 」
恒興は、目蓋を細めて微笑んだ
「千郷のこと、頼みます」
「勿論です。全身全霊を賭けて、お守りします」
さっきとは打って変わって、即座に返事する恒興に、つい、吹き出してしまう
「千郷は、私の大事な、大事な人ですから」
「 」
臆面もなくそう言い切る恒興が、どうしてだろう、善次は頼もしく感じて仕方がなかった
この男なら安心だと、何故だかそう想えた
「 それでは」
「はい、道中お気を付けて」
善次は会釈し、来た道を戻る
その背中を、恒興は長く見送った
この席に新当主・喜太郎龍興の姿はなかった
深夜である
また、居たとしても使えたかどうか、定かでもない
「清四郎殿、如何なさいました」
俯く利三に、夕庵の声が掛かる
「織田はどうなさいました」
「 はい・・・」
「斎藤殿?」
一鉄が歩み寄り、利三の肩に手を掛ける
「 斎藤の、敗北にございます」
「何ッ?!」
「莫迦な!」
利三の言葉に、最初に守就が悲鳴を上げ、声が飛び交う
「長井甲斐守様、日比野下野守様、共に討ち死に・・・ッ」
「 」
夕庵は、利三を以ってしても織田を抑えられなかったことに、初めて驚愕した
「まさか、織田に・・・」
側に居た一鉄も、利三から手を引く
「織田の数は、如何ほどか」
守就が訊ねた
「 当初、二千から三千。途中、同等の数が増えました・・・」
「斎藤の数は」
言い難そうに、利三は応えた
「六千」
「何故、二千から三千の数の時に、決められなかった」
守就の言葉は、最もである
寡兵に手を拱いていたのだから
それは紛れもない事実なのだから
「 私の不徳の致すところで」
「そなたの後悔を聞いているのではない。結果を聞いているのだ」
利三の言葉を遮り、守就は詰め寄った
「何故、援軍の要請を遣さなかった」
「それは・・・」
「自分ひとりでなんとかできると、傲慢な考えが浮かんだのではあるまいな」
「そんな・・・ッ」
「武井殿」
その矛先は夕庵にも及ぶ
「何故、斎藤殿一人に織田を任せたのですか。その失策の原因を聞かせてもらいましょう」
「 」
夕庵は、じっと守就を見詰めた
隙あらば失脚させようと、魂胆が見え見えだった
「敗退の原因、一つ目は我らがまだ新政権の下では結束できていなかったこと、二つ目は、長井家に配慮し過ぎてしまったがゆえの誤算、三つ目は」
夕庵は表座敷に居る全員の顔を一回り見てから、続けた
「相手が『蝮の娘』であることを、忘れていたがための侮り」
「 蝮の・・・・・」
「娘・・・・・・・・・」
夕庵の言葉に、辺りが静まり返る
「お屋形様が亡くなられて三日、我らは織田が出ることを考慮せねばならなかった。それができなかったこと。また、織田が狙っているのは長井家の領地。斎藤がどこまで出しゃばってよいものか、見当が付かなかった。恐らく隼人佐様は、勝っても機嫌を損ねられたでしょうな」
「何故、そう言えます」
直元が訊ねた
「『斎藤の手柄』になるからです」
「莫迦莫迦しい」
守就が言い捨てた
「安藤様。あなたは道三様と隼人佐様の間柄を、良くご存知ではない」
「何を仰る。二人は兄弟だ。しかも、弟は兄へ謀叛を起こした。憎んでいるのだろう?」
「そんな単純なものと、受け取っておられるのですか」
「何?」
「隼人佐様は、道三様を憎んでいるのではありません。『斎藤』を嫌っているのです」
「何?!」
これには守就だけでなく、全員が驚きの色を隠せない
「隼人佐様が真に目論んでいたのは、道三様の失脚でも討死でもない。斎藤の瓦解」
「何故・・・ですか」
不破光治が震えながら訊ねた
「隼人佐様は、初代新九郎様、つまり、道三様のお父上様に認めてはもらえず、『長井家に置き去り』にされたお方です」
「長井に、置き去り?」
「何を言っておられる、武井殿。長井は、道三様親子で乗っ取った家ではございませんか」
「謂わば、残しておかねば成らぬ大事な布石。だから隼人佐様を」
「ならば、何故新九郎様は『西村』をあっさり捨てた」
初めて、夕庵の声が荒くなった
「『必要ない』から、捨てたのです」
「まさか・・・、そんな・・・」
「新九郎様、勘九郎様親子は、常に新しい時代、新しい時代へと目を向けていらした。それまで自分達の通った道など、どうなろうが、背中に興味などおありではなかった。長井家も、また、然り。あのお二人にとって長井は、ただの踏み石に過ぎなかった。あってもなくても、価値などもう、とっくの昔に見限っておられた。ですが、隼人佐様の処遇に困り、新九郎様は『長井家の跡取り』と言う都合のいい立場に隼人佐様を追い遣った。周囲から見れば一国一城の主です。厚遇されていると想われるでしょう、ですが真実は違う。新九郎様は隼人佐様を道三様の『盾』として使われることを想い付かれた。何故か、おわかりですか」
「 」
誰も応えられない
そのような話、今初めて耳にするのだから
そして、迂闊に応えられるような内容でもなかった
うっかり手を出せば、自分に跳ね返って来る
それほどの恐ろしい力を持っていた
「お清殿」
「 は・・・、はい」
「あなたには、少し毒が強いかも知れません。どうか、覚悟してお聞きください」
「 」
利三は声を出せず、震えながら頷いた
「『斎藤を乗っ取るため』。そのために、新九郎様は隼人佐様を長井と言う盾に仕立て上げた」
「下剋上のために、我が子を・・・?」
一鉄が呟く
「盾は壊れても、また、取替えが効く。そのようなお心だったのです。それが、毒を持つ蛇、『蝮』と呼ばれる由縁です」
「何故、道三様親子は、そのような企てを・・・」
光治の呟きは最もだった
立身出世のため、血を引く息子を見捨てたのだから
「『美濃を制する者は、天下を制する』。これが、全てでございます」
「美濃を・・・?制する者・・・は・・・?」
「道三様親子の目にあったのは、天下を制すること」
そして、愛する人を迎え入れること
夕庵はその一言を胸に閉まった
「ですが、志半ばで新九郎様は病のためお亡くなりになられた。残された勘九郎様は斎藤を乗っ取ることが精一杯、それ以上のことはできなかった。それが隼人佐様の『復讐』の温床になってしまった。自分を見捨てた父と、兄への復讐。長良川合戦は、それの結果に過ぎません。隼人佐様が斎藤を嫌う意味が、おわかりになられたでしょうか。斎藤は、斎藤と言う家は、隼人佐様にとって、怨嗟の象徴でしかないのです。ですから、私はどれだけの兵力を投入すれば良いのか、考えが浮かばなかった。ご理解いただけましたでしょうか」
「 」
返事はない
それが『返事』となった
これで大方の人間が納得するだろう
だが利三は、それが夕庵の方便であることなど、承知していた
謀叛に道利が加担したのは事実なのだから、道三か、あるいは斎藤を嫌っているのは本当のことだろう
しかし、本音は、帰蝶を傷付けたくない
ただ、それだけ
愛する道三の愛娘だから
だから、帰蝶を傷付けたくない
自分なら帰蝶を傷付けないと、夕庵は知っているから
だから、自分が派遣された
利三は、知っていた
「 そのような、恐ろしいことを考え、実行できる男の血を引く、から・・・」
守就が、小さく呟いた
何年も昔、もう十年は越えたかまだか、あの日
初めて帰蝶と向かい合った那古野の城の表座敷
背筋に走った冷たい感触
あの時感じた想いが蘇る
これは、『尾張のうつけ』の女房ではない
『蝮の娘』だ
あの日を、想い出す
帰蝶の眼差しが月夜に光る
何を想うか、静かに月を眺める
「殿、弥三郎から知らせが入りました」
秀隆が入った
「そうか。首尾はどうだ」
「上々のようで」
「そうか」
くすりとも笑わず、帰蝶は変わらず月を見上げる
その目は何かを狙っていた
「蝮の・・・道三の・・・娘・・・」
帰蝶をよく知る利三、夕庵、小牧道家以外の全員が、静寂(しじま)の中を漂った
「私達は、再び道三と戦うことになるのか・・・」
一鉄の呟きが消えぬ間に、鎧姿の兵が表座敷に飛び込んで来た
「一大事にございますッ!」
「どうした」
守就が振り返りながら聞く
「城下、かっ、加納砦が・・・ッ」
「加納砦がどうした」
「その砦は確か、既に破棄されていると聞きますが」
光治は守就の顔を見た
「加納砦が、織田に落とされましたッ!」
「何ッ?!」
「 ッ」
一同は騒然とし、利三は夕庵を見た
夕庵は口唇を噛み締めながら、動くなと首を振る
「おのれ、織田め・・・ッ」
「墨俣を囮にしたかッ!」
「一日に、二ヶ所も、同時に・・・」
一鉄は、『信長』に着いた帰蝶を、『蝮の娘』を畏(おそ)れた
どれほどの者なのか
その、知らぬ『敵』に恐怖した
「織田の数はッ?!」
「ざっと三千ッ!まだ増え続けておりますッ!」
「まだまだだ!もっと火を熾せッ!」
弥三郎は土塁に片足を乗せ、現場を指揮した
「指物もありったけ立てろッ!織田が総勢五千は下らねえように見せ掛けるんだッ!」
ごうごうと松明が燃え盛り、人の影が二つ、三つ、四つと増える
奪った砦の周囲には織田の木瓜、佐治が考案した『永樂通寳』の軍旗も所狭しと並べられていた
これではこの暗がりの中、兵の数は膨大に感じただろう
火を点けて回ったり、端指物を差したり、あるいは燃やせる物を掻き集めたり探したりと、ひっきりなしに雑兵達が動き回る
尚更、織田の兵を把握できなかった
「こうしてはおられぬ!加納を奪取するぞ!」
「お待ちください」
立ち上がる守就を、夕庵は止めた
「今から行っても間に合いません。加納砦は、取り返せません」
「何故そう言い切れる」
「加納砦は、斎藤妙椿様が対織田対策に築かれた堅固なもの。織田を相手に築いたと言うことは、我らにも手出しはできないもの。尾張の虎、織田信秀でさえ、避けて通った場所。破棄していたから放置していたのではない。必要ないから放っておいたに過ぎない」
「 姫様・・・が、織田に嫁いだ・・・から・・・」
掠れる声で、利三は必死になって言葉にした
「我らは肝心なことを忘れていた。私ですら、忘れていた」
後悔の念に苦しみながら、夕庵は言い切った
「我らの敵は、織田ではない。『蝮の娘』、斎藤帰蝶様その方であることをッ!」
「加納砦に林の部隊を入れるよう、清洲に走れ。必要なら、坂井も呼べ。坂井は吉法師様とも誼を通わせていた。緊急だと言えば動いてくれるだろう。吉兵衛に加納修繕の見積もりを、明日の昼までに用意しろと伝えろ」
「承知ッ!」
帰蝶の指示通り、秀隆が部下を清洲に走らせる
砦を落としたからと言って、のんびりできる状況ではない
斎藤の兵力は、今の織田と比べて無尽蔵
兵の補充はいくらでも利く
態勢を整えて再び攻め込まれては、こちらは打つ手なしの無防備な状態も同然なのだから、充分な応戦などできようがない
今できることは、再び襲来して来るだろう斎藤を、追い返すのに必要な戦力を集めることだった
加納を兵で満たせば斎藤が向かう先は墨俣だけに限られる
加納砦と稲葉山城が至近距離であればあるほど、落とすのは後回しとなるだろう
引き換え墨俣は、周囲に美濃国人や豪族が犇いている
それら国人衆らを引き込まれては、斎藤にとって敵が増えるだけである
商業都市に近い加納と、中立の立場に立っている国人衆らが周辺に多く居る墨俣とでは、どちらを先に落せば、より斎藤にとって良いことなのか、少し考えれば誰でもわかる
味方は増やすに越したことはない
同時に、敵は少ないに越したことはない
「殿、そろそろお休みになられては」
心配した兵助が帰蝶に声を掛ける
「休んでいられるか」
「殿」
「そこに、美濃があるんだ」
一瞬顔を顰めるも、兵助は帰蝶の表情が穏やかであることに気付く
「この戦、津島衆が加担してくれたことが大きい。津島には、何か表敬でもせねばならんな」
「それなら、津島天神の祭に寄与でもなさっては」
「津島天神?」
「牛頭天王を祀る神社の祝祭です」
「そうか、少し調べて考えてみる」
「はい」
帰蝶が少しだけ躰を横にずらす
「後で、何か羽織るものをお持ちします」
「気遣うな。お前も休め」
「ありがとうございます」
目と鼻の先にある加納砦を落とされたことは、夕庵にとっても誤算であった
次の手を考えるのに猶予をもらい、自室に戻ろうとする
その後ろには、小牧道家が控えていた
道家は一度、夕庵の伝言を当時帰蝶の小姓であった龍之介に伝えた経緯がある
それだけでも、二人がどれほど親密な関係にあるか想像できた
「源太」
「はい」
「姫様は、どうされる」
「 夕庵様」
源太と呼ばれた道家は、少し苦笑いした
自分にわかる筈がないだろうとでも、言いた気に
そもそも道家の通称は『源助』である
ところが、この頃の男は『助』の付く者が多く、帰蝶の側近である猪子高就も『助』の付く『兵助』であるため、紛らわしいと無理矢理帰蝶に名前を変えさせられた『被害者』であった
しかし、今ではもうすっかり定着している
それほど、帰蝶が幼い頃から周りに居た男は多かった
「あの時と同じだ」
「あの時?」
「姫様がここのつかとうの時、お清殿と組み道三様に挑んだ将棋」
「ほう」
帰蝶が父の道三を相手に将棋を差しているのは、よく知っている
一人では敵わないから、清四郎、今の利三と二人掛りでやっていたのも、よく知っている
「姫様はお清殿に命じてあらゆる歩兵の駒を進め、道三様の注意を引かせた。道三様は姫様の策略に嵌り、それに気付かず歩兵を潰して回った。笑いながら」
「 」
「しかし、歩兵とは言え数を潰せば、自軍にも相応の損害が出る。歩兵の駒がなくなった頃、姫様は一手を打った」
「どのような」
「 中央を進む飛車。正に、『王手飛車取り』。道三様は歩兵の数に気を取られて、飛車が側まで接近していることに気付かなかった。姫様はそれすら、囮にされた」
「飛車を、ですか?」
夕庵は頷きながら応えた
「飛車は大きく派手だ。嫌でも目に付く。道三様は飛車の動きに惑わされ、見逃していたのだよ。飛車の影に隠れて進んでいた、縦横無尽に動かせる『角』を」
「 」
まさか、と、道家は額から汗を浮かばせた
「姫様は、だからこそ敢えて『歩兵』を捨てたのだ」
「 」
道家は言葉を失くし、夕庵を見詰めた
九つか十の子供が、それをできるのか、と
考え得るのか、と
「姫様は『将』を得るため『駒』を棄てた。何の躊躇いもなく。姫様は自らを歩兵と看做し、飛車を進めた。それが、『加納砦』だ。墨俣は囮、してやられた」
「夕庵様・・・」
「姫様は、『歩兵』と、我らを欺く『飛車』を同時に演じられた。 敵うはずがない」
「それでは、姫様はどう・・・」
「私には、わからない。姫様がこの先、どう出るのかを。墨俣を囮にしたことすら、私には想像もできなかった。正しく、『してやられた』、だよ」
「夕庵様・・・」
「『織田信長』は、目でもない。我らの目標は、姫様に絞る」
「 」
夕庵は、何故、あれほど愛した帰蝶を目的に定めたのか
道家にはわからなかった
斎藤を守りたいのか、美濃を守りたいのか、夕庵はそのどちらなのか
道家にはわからなかった
静かに明けた朝の空に、帰蝶の目蓋が動く
しばらくして、目を開けた
「 眩し・・・」
くらくらと目眩がしそうな光りに目を逸らし、部屋の中に顔を向ければ、少し離れたところに秀隆が行き倒れている
「シゲ・・・」
ふと見れば、秀隆より更に離れたところに利家が転がり、利家の下には兵助、兵助の下には・・・と、男達がまるで歩きながら脱ぎ捨てた小袖のように、点々と転がっていた
「お前達、何やってるんだ・・・」
「いやぁ、弥三郎の随時報告を入れようと想ってお邪魔しましたら、殿があんまりすやすやと寝入っておられたので、一先ず起きられるまでお待ちしようと座ってましたが、こちらもつい、ウトウトと・・・」
「お前が側にいたなど、気付かなかったぞ」
「殿の寝顔、可愛かったですよ」
「 」
帰蝶は黙って秀隆の顔面に拳を叩き込んだ
「俺は、殿が河尻様と二人っきりでは危ないと、お側に居たのですが、俺もついウトウトと」
「そうだな、俺がどんな目に遭うか知れんしな」
「 」
二度目の、帰蝶の拳が炸裂する
「私は犬千代殿を部屋からお連れしようとしたのですが、余りの重さに耐え切れず、ついウトウトと」
「どんなうっかりなんだ」
帰蝶は想わず兵助に突っ込んだ
「私は」
「もう良い」
延々と「ついウトウト」の理由を聞いている暇などない
「兵助、犬山の様子はどうだ」
「はい。先方の返事待ちです」
「シゲ、加納の方はどうだ」
「弥三郎が踏み止まってます。斎藤も今のところ、出る様子はありません。向こうも様子見でしょう」
「承知した。兵助」
「はい」
「犬山は、恐らく手助けの一つでもする算段だろうが、早く回答を出さない場合、斎藤に与したと看做すと伝えておけ」
「はい。ですが、殿・・・」
「兄上が生きていたなら、犬山も傍観を決め込むだろう。だが、頼りの綱の義龍が居ない今、犬山は孤立無援の状態だ。そんな状況の中で、どこまで意地が張れるか見ものではあるが、こちらも敵か味方か早い段階で判断を付けたいとはっきり伝えろ。妻の実家がどうだとか、昔の縁がどうだとか、回りくどい口説き方はやめておけ。私が欲しい返事は、美濃攻めに『協力する』か『協力しないか』の二つのみ。それ以外の返事をしようものなら、見切りを付ける」
「 承知しました・・・。追って、使いを出します」
矢継ぎ早に言葉を並べ立て、それでも何れは犬山を落すつもりでいる帰蝶を、責めるつもりなど毛頭ない
ただ、自分をそう追い込んでるのではないのかと、兵助は聊か心配になって来た
秀隆が先に立ち、部屋を出る
それに続き利家らも外に出た
一人残った兵助は愚図々する
「何をしてる。さっさと行け」
「 はい」
想いを断ち切るかのように敷居を跨ぐと、入れ違いに可成、勝家がやって来た
「猪子殿」
「あ・・・、森殿、柴田殿」
「殿はいらっしゃいますか」
「あ、はい」
兵助が身を避けると、勝家を先に可成の二人が部屋に入った
「殿」
背後で勝家の声が聞こえる
後ろ髪を引かれる想いで兵助は立ち去った
春の過ぎた庭先に、子供の楽しそうな笑い声が聞こえる
「みずき、みずき」
帰命丸は自分よりふたつ年上の幼馴染みの名を、当たり前のように呼んだ
「みずき、ここ、ここ」
呼ばれ、受け取った手毬を帰命に投げ返す
「次、みずき」
帰命は受け取った手毬をまた、瑞希に投げ返した
瑞希も手毬を帰命に投げ返す
上手く受け取ろうとして前に出過ぎてしまい、手毬は帰命の顔の中心にぶつかる
「若様!」
見守っていた菊子が慌てて駆け寄った
遅れて瑞希も駆け付ける
「痛いよお」
鼻を押さえ、帰命は顔を歪ませた
「若様、ごめんなさい。大丈夫?」
「若様、お怪我は?」
その手を退かせ鼻を見る
少し赤くはなっているが、鼻血のような類のものは確認できなかった
「大したことないようですね、一安心です」
ほっとする菊子にカチンと来たのか、帰命は大袈裟なほど泣き叫んだ
「痛い、痛い、痛い!」
これは誰かの関心を買いたいのだな、と、菊子は帰命の頭を撫でながら言った
「まあ、それは大変ですわ。今直ぐお母様をお呼びしなくては」
その途端、帰命の全身がビクンと震え、泣き止む
「若様、少々お待ちくださいませね。只今おなつ様にお願いして、お母様をお呼びしていただけるよう、取り計らっていただきますゆえ」
「い、痛くなくなった、痛くなくなった。だから、かかさは呼ばなくて良い!」
今年四つになった帰命も、そろそろ知識が付いて来たのか、それでも一端に母親を恐れる辺りまだ子供らしさが滲み出ており、菊子はその微笑ましさに笑った
「若様は、お母様が怖いのですか?」
帰蝶は帰命を実子とは認めておらず、信勝亡き後も『養子』を押し通した
それは信勝以外にも帰命を狙う者が現れるのではないかと言う、猜疑心からである
信長正妻の子でなければ、その命も軽く見られる
帰蝶はそれに賭けた
縁側で、それでも一応の手当てとして、濡らした手拭いを帰命の鼻に当ててやりながら、菊子はそう聞いた
帰命の隣では瑞希が心配そうに覗き込んでいる
「別に怖くはないけど」
「なら、このこともご報告せねばなりません。よろしいですか?」
「そしたらみずきが叱られる」
「仕方ございません。瑞希が手毬を当てたのは本当のことなんですから。ねえ、瑞希」
「 」
瑞希は少し青褪めながら頷いた
「だめだ、それは。みずきが叱られるのは、かわいそおだ」
「若様」
「きみょおはみずきを庇ってあげたいけど、かかさはそれ以上に怖い人なんだっ」
「やはり、お怖いのですね?」
「 」
手拭いを当てられたまま、帰命は大きく首を振った
「どっちなんですか」
「こっ、怖くないけど、怖い・・・」
「まあ」
「きくはかかさの怖いのを知らないんだ」
「若様」
あなたより付き合いが長いのですよ?と言いたいのを、相手はまだ四歳児だからと、菊子は苦笑いを浮かべた
「かかさを怒らせたら、お尻ペンペンじゃ済まないんだからな?」
「 」
確かに、悪戯の度が過ぎた時は、実子であろうと構わず叱り飛ばしているが、それでも『帰蝶』にしてみればまだ大人しい方なのに、と、そうも想い浮かべる
「かかさはどうして怒りっぽい?」
「怒りっぽいのではありませんよ。若様には、お強く賢い子にお育ち頂きたいのです。ですから、敢えて厳しくされるのですよ」
「きみょおは、弱いか?」
「今は、そうですね、まだお小さいのですもの、仕方ありません」
「みずきも守れんか?」
「瑞希を?」
帰命の告白に、菊子はキョトンとした顔をする
帰命の向うに居る瑞希を見ても、同様の表情をしていた
「きみょおはみずきを守るんだ」
「どうしてですか?」
「かかさが言ってた。大事なもの、守れない弱い子になるなって」
「殿が・・・。それで、瑞希を?」
「きみょおはみずきが大事だ。きくも、大事だ」
「まあ、ありがとうございます」
帰命の優しい言葉に、菊子も頬を緩ませた
「なつも大事だ」
「そうですね」
「ばば様も大事だ」
「ええ」
「えっと、それから花!」
「そうですね、お花様も大事ですね」
「それから、ええと、吉兵衛と、新左衛門と、五郎左衛門と弥助と、ええと、小三郎と、それから、ええと」
「若様は欲張りですね」
ありとあらゆる名前を挙げようとする帰命に、また苦笑いが浮かぶ
「子供とはそう言うものだとなつが言ってた!」
「 そうですか」
『なつ』が味方に付いているのだから、自分では敵う筈もないと菊子はそれ以上何も言わなかった
「かかさ、いつ帰るかな」
「そうですね。今回は遠征ですから、直ぐにはお戻りにはなられませんよ」
「早く帰って来ないかな」
「お戻りになられましたら、何をして差し上げます?」
「んーと、指きりげんまん」
「 なんの・・・?」
菊子の頭からは大きな汗が滴の形となって浮かび上がった
そこへ、花を連れ、徳子を抱いたお能がやって来る
「あら、みんなここに居たのね」
「お能様」
「花!」
花を見付けた帰命が駆け出し、手を掴む
「花、遊ぼう!」
花の返事を待たず、瑞希の手も引きながら問答無用で庭に出る
「あら、さっき若様の泣き声が聞こえたのだけど、気の所為だったのかしら」
「いえ」
菊子は苦笑いしながらお能を見た
お能の腕の中で、実娘ではあるが親子の縁を切った、まだ幼い徳子が両手を伸ばして『義理の兄』達に混ざろうとじたばたする
「徳姫様は、まだいけませんよ」
と、お能が窘めた
徳子はわからず悲しそうな顔をする
そんな徳子に、実の姉である花が縁側の下から手を伸ばした
「徳姫様、後でお花を摘んであげますね。だから、待っていて下さい」
花自身、まだ幼い頃に徳子と別れた
徳子が自分の直ぐ下の妹であることを、覚えていない
母が徳子に乳を与える時、その介添えを良くやっていたことすら
それでも、血が呼び合うのか
『姉』の言葉に、徳子が大人しくなった
「 ありがとう、花」
「 」
花はにかっと笑って、自分を待っている帰命と瑞希の許に駆け戻った
「お能様・・・」
「 良いの、何も言わないで」
少し悲しそうな、だけどそれを堪えてお能は続けた
「死に向う夫を見送れなかった、これが私の罪」
「お能様」
「だから、私は罰を受けているの」
「そんな・・・」
「でも、その罰はとても優しく、そして温かいの。どうしてかしら、私はその罰を受けるのが、とても嬉しいのよ」
棄てた我が子とこうして、毎日触れ合えるのだから
自分のこの手で育てられるのだから
穏やかな顔をするお能に、菊子もそれ以上何も言わなかった
しんみりとした空気を掻き消すかのように、お能は明るい声で言う
「そうそう、ここに来た理由を忘れていたわ」
「何ですか?」
「来月、巴の方様がお戻りになられるそうなの」
「まあ、巴の方様が?どうしたんでしょう、何かあったんでしょうか」
「そこは聞いてないけれど、先程滝川様が来られて、おなつ様に謁見されて、その話を聞かされたの。だから本丸の方でもその準備をお願いとここに来たのに、後回しにしてしまったわ」
「滝川様、お戻りになられたんですか?」
「いいえ、殿の墨俣攻略に参加なされたそうなのよ」
「そうだったんですか」
「墨俣砦、落とされたそうよ」
「そうですか!」
お能の雰囲気に暗くなっていた菊子も、漸く明るい声が出せた
「おなつ様も、さぞやお喜びになられておられるでしょう」
「ええ、そうね。弥三郎殿も、随分ご活躍なされたそうよ」
「え?旦那様が?」
「ほら、加納に放棄されていた砦があったでしょう?」
「ええと、確か妙椿様の時代の」
「ええ。うちの実家に近いところにあるのだけど、その砦を弥三郎殿が落とされたって聞いたわ」
「ええ?!ま、まさか」
確かに夫は織田の一軍として働いているが、作戦の先頭に立つなど夢にも想わない
尚更、菊子は驚いた
「それで、林様もその砦の援軍に出発なされるそうなの」
「林様が?大丈夫でしょうか」
「何が?」
「だって、うちの旦那様、林様の嫌いな部類に入るので・・・」
「あはは。林様は明快な気質の人間を嫌う傾向があるものね。それで殿とも余り折り合いは良くないけれど、林様はそれ以上に相手の資質を見られるお方よ。そう気に掛けることでもないと想うわ。それに、弥三郎殿のお側には、林様が何より苦手としている殿の、そのご実弟、新五様がいらっしゃるんですもの。気を抜けば殿にどのような報告が届くかわからないのだから、下手な行動は慎まれるわよ」
「なら、良いんですが・・・」
「菊子も心配性ね」
「殿のお側におりましたら、どなたも心配性になります」
「 言い得て妙ね」
確かにそうだと、お能は納得してしまった
墨俣砦を落とした翌日、犬山の織田信清から返信があり、弟をそちらに向かわせると言う
犬山がどう動くのか知りたかっただけの帰蝶は、信清本人が来ようが誰を代用しようが意には介さない
織田信益の到着を待って次の出兵地・十九条城へ出発することにした
墨俣を落としただけでは、心許ない
このまま真っ直ぐ稲葉山城を目指すのも良いが、如何せん兵力に差があり過ぎる
願わくば、この周辺の国人や豪族を味方に引き込みたい、そのためには一つでも多くの戦に『勝ち』を残したい
その想いで、帰蝶は次の戦の場を十九条に定めた
更には、墨俣に入っていた叔父・長井道利が十四条に引き込んだと言う情報を得ている
叔父には色々と貸しのある帰蝶にしてみれば、それを素通りすることなどできなかった
夫の仇は取れなくとも、できることなら叔父を東美濃に追い遣りたい
景任の居る東美濃へ
そこに入れば、叔父は手出しのしづらい状態にはなるだろう
叔父は織田と斎藤の争いには無用の存在
そう、想っていた
墨俣砦を落として二日後、犬山城から弟の信益を遣すと知らせを受け、それとほぼ同時に一宮の傾城(かぶき)屋から娼婦達が大勢やって来た
これは兵助が手配したのだろう
当初、帰蝶も十九条城へ向う予定だったが、それを取りやめる
「折角女達が来てくれたと言うのに、私が一緒では男達も寛げまい?私は墨俣に残る」
「そんな」
兵助は上手い言葉が出て来ず、苦笑いするしかなかった
「現場の指揮は権に一存する。女達の管理も権がやれ。もし手に余るようだったら、三左に回せ。ヤツは妻帯者だ。女の尻の叩き方ぐらいは知ってるだろう」
「はっ」
勝家は軽く一礼して応えた
「あ、殿」
少し離れた場所から秀隆が声を掛ける
「おなつ様が、来られるそうですよ」
「え?何故だ」
「殿のお世話をするためだとか?」
「 」
顔を酷く歪ませる帰蝶を見て、秀隆の頭に汗が浮かぶ
「そんなに嫌なんですか?」
「じゃあ聞くが、お前はなつに世話されて嬉しいか?」
「 」
秀隆も黙りこくる
そんな二人を眺めながら、数年前、自分も弥三郎と似たような会話をしたなと、可成の頭にも汗が浮かんだ
「そうか、なつが来るのか。・・・しまったな」
戦の場に持って来てはいけないと、帰蝶は美濃の土岐郷で求めたものを小牧山の砦に置いて来てしまった
それをそっと後悔の言葉にする
「どうかなさいましたか?」
少し首を傾げて秀隆が聞いた
「いや、何でもない」
帰蝶は軽く首を振って応えた
「なつが到着したら、お前達も少しは気を緩められるだろう?なつは私と違って、『男の事情』を理解してくれる。傾城屋からも追加でこちらに来てもらえるよう、取り計らってもらおう。それまでもうしばらく、辛抱してくれ」
「殿・・・」
秀隆はほんのりと頬を染め、気恥ずかしさを誤魔化すように苦笑いをして見せた
「男は、難儀だな」
「そう・・・ですね」
「女にはそう言った生理現象はない。精々、股座から血を垂れ流す程度だ。だが男は、生理機能そのものが鈍ってしまう。戦に、身が入らなくなる。・・・・・・・・日比野や義叔父の陣に若衆らが居たのも、責められるものではないのだろうな」
「女性の生理期間も、大変だと伺います。うちの女房も、若い頃は酷い痛みに悩まされました。今は随分軽くなったそうですが。ですが、まだお若い殿には、まだまだおつらいでしょう」
「そんな時は、なつが庇ってくれる。少なくとも、その頃に戦をしようなんて、想いもしないしな」
「殿がこれまで遠征をしなかった理由は、やはり、それですか」
「遠征できる場所を確保できなかった、と言うのが正解だが」
自分自身に皮肉を込めて応える
「長期戦も、これまでにありませんでした。ですが、今回は本腰を入れられましたね。どう言った気の変わりようでしょうか」
「 」
目前に聳える稲葉山の城を眺める
目視できる場所にあるわけではないが、朧げに山の片鱗だけは見えた
その場所を見詰めながら、呟くように告白する
「私は、自分が何者であるのか、知りたかった」
「 」
「それを知らないまま、吉法師様に嫁いだ。一家の主婦として、私の人生は終わる筈だった。だけど、そうも行かなくなった」
「 ええ」
「幼い頃から抱えていたその想いが、蘇った」
「ご自分が何者であるのか、お知りになりたいと」
「他愛もないことだ。取るに足らぬことだ。それでも、私は知りたい。私は、何者だ」
秀隆には、応えられなかった
自身、それを知ることはできないからだ
真っ直ぐ前を向いたまま、こう続ける
「それを知るために、美濃を攻めているのだろうな」
「美濃を落せば、ご自分の正体がわかると?」
「そんな気がするだけだ、気に留めるな」
「 」
秀隆は返事の代わりに会釈した
「しかし、戦の作法も知らなかった私にしては、ここまで来れたことは上出来ではないか?」
「殿」
少しだけ秀隆を見て、それからまた正面に顔を戻す
「何も知らなかった。吉法師様は、何も教えてくださらなかった。だけど。人の殺し方は、林が教えてくれた」
「 」
胸が痛む
「戦い方は、今川が教えてくれた」
嫌でも戦わなくてはならなくなった人生
何のために
誰のために
「斎藤からは、国の盗り方を学ぼう」
「 」
踠(もが)きながら、少しずつそれを経験としていく
切ないほどの苦しみを抱えながら
その視線の先が、それを教えてくれる
帰蝶の横顔は、相変わらず美しかった
木曽の大橋で初めて見た時よりも、ずっと美しい
だがその『美しさ』は女のものではなく、荒ぶる魂を持つ者の、特有の匂いを漂わせるものだった
戦場に立つようになってから、ほんのりと日焼けした肌
それでも、冬になれば白く戻るが
高い鼻梁に切れ長の目蓋
細い口唇は常に一文字に結ばれ、その意志の強さが伺える
この方でなければ、夫の代わりにここに立つことなどなかっただろう
こうして織田家臣一万の頂点に立つことも、なかっただろう
「 」
秀隆は、ふいと帰蝶の横顔を改めて見詰めた
本当なら、もうとっくの昔に、その立場を放り投げたかったのではないだろうか
そんな気がした
「さて。犬山の部隊がいつ到着するかわからんが、先に支度だけでもしておくか」
秀隆が見詰めていたことにも気付かず、帰蝶は顔を向けて告げた
「そうですね。権さんなんか、殿の号令を今か今かと待ってるでしょうし」
「ヤツは待たせれば待たせるだけ、勇猛さが表に出て来る。現場では頼もしい将だろう」
「ははは」
短気ではあるが、確かにその通りだと軽く笑う
「シゲ、命令がある」
「はい、何でしょう」
「叔父(道利)が逃げ込んだ十四条を攻めるために、先ずはその手前の十九条を落とす必要があるが」
「承知しております」
今、出陣の支度をしているのは、正に十九条の城を落とすための準備なのだから
言われずとも承知している
「十九条だけを拠点にするのは心許ない。相手は斎藤なのだからな」
「では、その付近の国人か豪族を味方に引き込みましょうか」
「それも良いが、あの辺りは市橋が絡んでいる。佐治の仕事の邪魔をするわけにはいかん」
「では、どのように?佐治に使いを出しましょうか」
「いや、その必要はない」
「え?」
秀隆には、帰蝶の言葉の意味が飲み込めない
「十九条と十四条の間に、とある寺がある」
「寺?」
ほんの少し、胸が痛みで熱くなる
「父上に所縁のある寺だ」
「お父上様・・・。斎藤道三様で」
「そうだな、頑固な住職だから、金を積んだぐらいでは首を振ってはくれんだろう。戦のためだと言っても納得しないのであれば、私の名を出せ」
「殿の」
『信長』の名前が、そこまで威力があるとは想えない
素直に首を傾げる秀隆に、帰蝶は言った
「織田ではない。斎藤の名だ」
「斎藤の・・・」
「『斎藤のじゃじゃ馬』の名くらいは、稲葉山の麓にまで届いているだろう。住職が覚えていたら、の話だが」
「 承知しました」
名は、棄てたつもりで居た
それでも、使わねばならない時が来て、それを受け入れねばならない現実がそこにあって、帰蝶はそれを使った
どうして、と、ただ単純にそう想う
何故この女性(ひと)は、自分の親ですら利用できるのだろうか、と
朝靄が晴れて間もなく、犬山の城を出発した弟の部隊を山頂から見送る
「 」
世間は屈したと想うだろうか
「十郎様・・・」
背後から伊予の声がした
振り返ると、心配そうな顔をしている妻が立っている
「どうした、伊予」
「良いのですか?」
「何がだ?」
「私のことは、お気遣いなく。十郎様は十郎様の想うようになさってください」
「何を言っている。私は私が想うことをしているだけだ」
信清は笑いながら応えた
「清洲から、使者が来たのでしょう?なんと言って、あなた様を脅したのですか」
「伊予」
美濃攻めに参加するか、否か
ただ、それだけを聞いて来た
妻を盾に取られたわけではない
戦を仕掛けると脅されたわけでもない
ただ、聞いて来た
是か、非か
「 屈したわけではない」
心配顔をやめない妻に、信清は告げた
「斎藤と同盟を組もうとしていた矢先に、当主が死んだ。私は選択に迫られた」
「十郎様・・・」
「それでも斎藤か、織田か、を」
「斎藤か・・・、織田・・・か・・・」
「私は、織田を選んだ」
「織田を・・・」
伊予の顔が、ほんの少し、ほんの僅かだけ明るくなった
本音はやはり、実家に与してもらいたかったのだろう
そう想えた
想えたが、それでも信清は敢えてこう続けた
「暇が欲しかった。ほんの少しで良い、私にも支度の暇が欲しかった」
「十郎様・・・?」
その言葉の意味がわからない
だが、その直後、現実は伊予に『答え』を見せた
「殿」
二人の背中から、家臣の声がする
「津川殿が、お見えになりました」
「津川・・・」
「そうか」
「 十郎様・・・」
家臣の男と、夫の間を伊予の顔が行き来する
「そう言うことだ、伊予」
「 」
夫は、清洲織田に与しながら、清洲織田に歯向かう気だと知った
あの人に勝てるのか・・・
伊予は、兄嫁の顔を想い浮かべた
勝てるか勝てないか、自分に判断できるわけがない
そんな自分にできることは、夫に寄り添い、支えることだけだと、そう考えた
墨俣奪取以降、雨は小さな勢力を保ちながら降り続ける
「梅雨に入ったか」
墨俣の俄改修の進む表座敷から、空を見上げた
降ったり、止んだりを繰り返す空は、雨雲の灰色に染まっている
そんな空を見上げている帰蝶の許に秀隆がやって来た
「殿。犬山の加勢が到着しました」
「 そうか」
少し振り返り、そのまま告げる
「十九条を攻めている権達と合流するよう、伝えろ」
「承知」
自身は、逢う気はないと、目がそう言っている
逢ったところで、交わす言葉もないだろう
『帰蝶』にとって織田信益は、面識のない人間なのだから
相変わらず、黙って空を見上げている
空に昇った夫と、対話でもしているのだろうか
秀隆はただ単純に、そう想っていた
十九条を落せば、次は、叔父の籠る十四条
逃(のが)さない
許さない
兄達を殺し、父を死なせ、夫を死に追い遣り、義龍を追い詰めた叔父だけは、決して、許さない
鉄砲の音も聞こえない、人の怒声も聞こえない
ただ、静かで穏やかな一日だった
「お清、そのまま真っ直ぐ進めて」
「はい、姫様」
清四郎は帰蝶の指示通り、『将棋の歩』を真っ直ぐ進めた
枡一つ、少しずつ、少しずつ
「ははは、帰蝶、清四郎。そんなにちまちましていては、いつまで経っても『将』は落とせんぞ」
対峙する道三は、笑いながら一つずつ一つずつ、帰蝶・清四郎組の歩兵を弾いて行った
「姫様・・・」
手元の歩兵の駒が数少なくなって来る
「まだだ、まだ」
焦る清四郎を他所に、帰蝶はただ一点だけを見詰めていた
「父様がそこに入るまで、待って」
「ですが・・・」
「大丈夫。私達は必ず勝つ」
「
自信満々な帰蝶の微笑みに、それでも清四郎は気が気でない
帰蝶達の駒を弾く道三の駒が、狙った枡に入った
「お清、出せッ!」
それを狙っていた帰蝶は、声を荒げ清四郎に命令した
「王手ッ!」
月が昇る暗闇の中、数限りなく気の重い背中は、ゆかねばならぬ場所へと自分を誘(いざな)う
まるで体が泥でできたように、利三は引き摺りながら稲葉山城の表座敷に向かった
想うところは多々ある
だが、「してやられた」
ただ、それだけであった
主だった家臣らの集まる表座敷に到着する
「失礼します」
利三の声に、一鉄、守就、氏家直元ら、他にも斎藤の譜代が続く
そして、夕庵、夕庵の隣に小牧道家
それら諸侯が顔を向けた
「どうでした、斎藤殿」
一鉄が声を掛ける
利三は直ぐに声を上げることができなかった
墨俣から上がる烽火に、弥三郎は号令を掛けた
「おらぁーッ!死ぬ気で走れ走れッ!」
背中に端指物を二本、三本差した雑兵が、辺りをせっせとせっせと走り回る
「あの・・・、これって何の意味が・・・?」
自分も背中に織田木瓜の指物を五本も指し込まれた利治が、顔を顰めて弥三郎に聞いた
「んー?そんなの、『水増し』に決まってんでしょ」
「水増し?」
「足りなきゃ、足りてるように見せ掛ける。そんなの、商売の常識ですよ」
「商売と加納攻略と、どう関係が・・・」
「攻略たって、殿の見立てでは砦はもう何十年も前に放棄されたまんまで、斎藤も手入れすらしてないって話じゃないですか。でも、だからって安心して入れるわけじゃない。かと言って、こっちも数が少ない分、まともにぶつかったら引っ繰り返っちまう。そうならないよう、兵の数を『水増し』してるんです。水増しってのは、商売の基本ですよ」
「あ・・・、あこぎな・・・ッ」
大人の汚い部分を見たような気がして、利治は後退った
「これでもし砦に斎藤兵が居たとしても、慌てて出てってくれるんじゃ?」
「それで出て行かなかったらどうするんですか」
「そん時ぁ特攻でしょ」
「結局何も解決してないじゃないですかッ」
「では、追って兵を送ります。どうぞ存分にお使いださい」
善次は恒興に頭を下げ、踵を返した
恒興は舅の背中を複雑な表情で見送る
その恒興に振り返った
「婿殿」
「あ・・・、はい」
「これは博打。己の人生を賭けた、大博打。打つに値すると、想いますか」
恒興は良く考えてから応えた
「
「は、は、は」
また、ゆっくりと笑う
「千郷の目は、狂ってなかった。あの子があなたを選んだ理由、なんとなくわかったような気が致します」
「え?」
「最初の亭主が死んだ時、私は、千郷は泣きながら帰って来ると想ってました。だけど、あの子は帰って来なかった。しばらくして、池田殿の嫁になりたいと私に手紙を送って来た」
「え、え?」
恒興は顔を赤くして聞き返した
「織田殿の口添えもあって、私は特にそれには反対しませんでした。どの道、織田との縁を切りたくはなかったので。だけど、多少の不安はありました。千郷は、何を好んで『家臣』の家に嫁ぐのか、と」
「
それもそうだな、と、恒興は少しだけ俯いた
「千郷は、『家』を選んだのではない。『人間』を、選んだのですね」
だが、善次の言葉に再び顔を上げる
「義父上様・・・」
「私の、自慢の娘です。千郷を送って、良かった」
「
恒興は、目蓋を細めて微笑んだ
「千郷のこと、頼みます」
「勿論です。全身全霊を賭けて、お守りします」
さっきとは打って変わって、即座に返事する恒興に、つい、吹き出してしまう
「千郷は、私の大事な、大事な人ですから」
「
臆面もなくそう言い切る恒興が、どうしてだろう、善次は頼もしく感じて仕方がなかった
この男なら安心だと、何故だかそう想えた
「
「はい、道中お気を付けて」
善次は会釈し、来た道を戻る
その背中を、恒興は長く見送った
この席に新当主・喜太郎龍興の姿はなかった
深夜である
また、居たとしても使えたかどうか、定かでもない
「清四郎殿、如何なさいました」
俯く利三に、夕庵の声が掛かる
「織田はどうなさいました」
「
「斎藤殿?」
一鉄が歩み寄り、利三の肩に手を掛ける
「
「何ッ?!」
「莫迦な!」
利三の言葉に、最初に守就が悲鳴を上げ、声が飛び交う
「長井甲斐守様、日比野下野守様、共に討ち死に・・・ッ」
「
夕庵は、利三を以ってしても織田を抑えられなかったことに、初めて驚愕した
「まさか、織田に・・・」
側に居た一鉄も、利三から手を引く
「織田の数は、如何ほどか」
守就が訊ねた
「
「斎藤の数は」
言い難そうに、利三は応えた
「六千」
「何故、二千から三千の数の時に、決められなかった」
守就の言葉は、最もである
寡兵に手を拱いていたのだから
それは紛れもない事実なのだから
「
「そなたの後悔を聞いているのではない。結果を聞いているのだ」
利三の言葉を遮り、守就は詰め寄った
「何故、援軍の要請を遣さなかった」
「それは・・・」
「自分ひとりでなんとかできると、傲慢な考えが浮かんだのではあるまいな」
「そんな・・・ッ」
「武井殿」
その矛先は夕庵にも及ぶ
「何故、斎藤殿一人に織田を任せたのですか。その失策の原因を聞かせてもらいましょう」
「
夕庵は、じっと守就を見詰めた
隙あらば失脚させようと、魂胆が見え見えだった
「敗退の原因、一つ目は我らがまだ新政権の下では結束できていなかったこと、二つ目は、長井家に配慮し過ぎてしまったがゆえの誤算、三つ目は」
夕庵は表座敷に居る全員の顔を一回り見てから、続けた
「相手が『蝮の娘』であることを、忘れていたがための侮り」
「
「娘・・・・・・・・・」
夕庵の言葉に、辺りが静まり返る
「お屋形様が亡くなられて三日、我らは織田が出ることを考慮せねばならなかった。それができなかったこと。また、織田が狙っているのは長井家の領地。斎藤がどこまで出しゃばってよいものか、見当が付かなかった。恐らく隼人佐様は、勝っても機嫌を損ねられたでしょうな」
「何故、そう言えます」
直元が訊ねた
「『斎藤の手柄』になるからです」
「莫迦莫迦しい」
守就が言い捨てた
「安藤様。あなたは道三様と隼人佐様の間柄を、良くご存知ではない」
「何を仰る。二人は兄弟だ。しかも、弟は兄へ謀叛を起こした。憎んでいるのだろう?」
「そんな単純なものと、受け取っておられるのですか」
「何?」
「隼人佐様は、道三様を憎んでいるのではありません。『斎藤』を嫌っているのです」
「何?!」
これには守就だけでなく、全員が驚きの色を隠せない
「隼人佐様が真に目論んでいたのは、道三様の失脚でも討死でもない。斎藤の瓦解」
「何故・・・ですか」
不破光治が震えながら訊ねた
「隼人佐様は、初代新九郎様、つまり、道三様のお父上様に認めてはもらえず、『長井家に置き去り』にされたお方です」
「長井に、置き去り?」
「何を言っておられる、武井殿。長井は、道三様親子で乗っ取った家ではございませんか」
「謂わば、残しておかねば成らぬ大事な布石。だから隼人佐様を」
「ならば、何故新九郎様は『西村』をあっさり捨てた」
初めて、夕庵の声が荒くなった
「『必要ない』から、捨てたのです」
「まさか・・・、そんな・・・」
「新九郎様、勘九郎様親子は、常に新しい時代、新しい時代へと目を向けていらした。それまで自分達の通った道など、どうなろうが、背中に興味などおありではなかった。長井家も、また、然り。あのお二人にとって長井は、ただの踏み石に過ぎなかった。あってもなくても、価値などもう、とっくの昔に見限っておられた。ですが、隼人佐様の処遇に困り、新九郎様は『長井家の跡取り』と言う都合のいい立場に隼人佐様を追い遣った。周囲から見れば一国一城の主です。厚遇されていると想われるでしょう、ですが真実は違う。新九郎様は隼人佐様を道三様の『盾』として使われることを想い付かれた。何故か、おわかりですか」
「
誰も応えられない
そのような話、今初めて耳にするのだから
そして、迂闊に応えられるような内容でもなかった
うっかり手を出せば、自分に跳ね返って来る
それほどの恐ろしい力を持っていた
「お清殿」
「
「あなたには、少し毒が強いかも知れません。どうか、覚悟してお聞きください」
「
利三は声を出せず、震えながら頷いた
「『斎藤を乗っ取るため』。そのために、新九郎様は隼人佐様を長井と言う盾に仕立て上げた」
「下剋上のために、我が子を・・・?」
一鉄が呟く
「盾は壊れても、また、取替えが効く。そのようなお心だったのです。それが、毒を持つ蛇、『蝮』と呼ばれる由縁です」
「何故、道三様親子は、そのような企てを・・・」
光治の呟きは最もだった
立身出世のため、血を引く息子を見捨てたのだから
「『美濃を制する者は、天下を制する』。これが、全てでございます」
「美濃を・・・?制する者・・・は・・・?」
「道三様親子の目にあったのは、天下を制すること」
そして、愛する人を迎え入れること
夕庵はその一言を胸に閉まった
「ですが、志半ばで新九郎様は病のためお亡くなりになられた。残された勘九郎様は斎藤を乗っ取ることが精一杯、それ以上のことはできなかった。それが隼人佐様の『復讐』の温床になってしまった。自分を見捨てた父と、兄への復讐。長良川合戦は、それの結果に過ぎません。隼人佐様が斎藤を嫌う意味が、おわかりになられたでしょうか。斎藤は、斎藤と言う家は、隼人佐様にとって、怨嗟の象徴でしかないのです。ですから、私はどれだけの兵力を投入すれば良いのか、考えが浮かばなかった。ご理解いただけましたでしょうか」
「
返事はない
それが『返事』となった
これで大方の人間が納得するだろう
だが利三は、それが夕庵の方便であることなど、承知していた
謀叛に道利が加担したのは事実なのだから、道三か、あるいは斎藤を嫌っているのは本当のことだろう
しかし、本音は、帰蝶を傷付けたくない
ただ、それだけ
愛する道三の愛娘だから
だから、帰蝶を傷付けたくない
自分なら帰蝶を傷付けないと、夕庵は知っているから
だから、自分が派遣された
利三は、知っていた
「
守就が、小さく呟いた
何年も昔、もう十年は越えたかまだか、あの日
初めて帰蝶と向かい合った那古野の城の表座敷
背筋に走った冷たい感触
あの時感じた想いが蘇る
これは、『尾張のうつけ』の女房ではない
『蝮の娘』だ
あの日を、想い出す
帰蝶の眼差しが月夜に光る
何を想うか、静かに月を眺める
「殿、弥三郎から知らせが入りました」
秀隆が入った
「そうか。首尾はどうだ」
「上々のようで」
「そうか」
くすりとも笑わず、帰蝶は変わらず月を見上げる
その目は何かを狙っていた
「蝮の・・・道三の・・・娘・・・」
帰蝶をよく知る利三、夕庵、小牧道家以外の全員が、静寂(しじま)の中を漂った
「私達は、再び道三と戦うことになるのか・・・」
一鉄の呟きが消えぬ間に、鎧姿の兵が表座敷に飛び込んで来た
「一大事にございますッ!」
「どうした」
守就が振り返りながら聞く
「城下、かっ、加納砦が・・・ッ」
「加納砦がどうした」
「その砦は確か、既に破棄されていると聞きますが」
光治は守就の顔を見た
「加納砦が、織田に落とされましたッ!」
「何ッ?!」
「
一同は騒然とし、利三は夕庵を見た
夕庵は口唇を噛み締めながら、動くなと首を振る
「おのれ、織田め・・・ッ」
「墨俣を囮にしたかッ!」
「一日に、二ヶ所も、同時に・・・」
一鉄は、『信長』に着いた帰蝶を、『蝮の娘』を畏(おそ)れた
どれほどの者なのか
その、知らぬ『敵』に恐怖した
「織田の数はッ?!」
「ざっと三千ッ!まだ増え続けておりますッ!」
「まだまだだ!もっと火を熾せッ!」
弥三郎は土塁に片足を乗せ、現場を指揮した
「指物もありったけ立てろッ!織田が総勢五千は下らねえように見せ掛けるんだッ!」
ごうごうと松明が燃え盛り、人の影が二つ、三つ、四つと増える
奪った砦の周囲には織田の木瓜、佐治が考案した『永樂通寳』の軍旗も所狭しと並べられていた
これではこの暗がりの中、兵の数は膨大に感じただろう
火を点けて回ったり、端指物を差したり、あるいは燃やせる物を掻き集めたり探したりと、ひっきりなしに雑兵達が動き回る
尚更、織田の兵を把握できなかった
「こうしてはおられぬ!加納を奪取するぞ!」
「お待ちください」
立ち上がる守就を、夕庵は止めた
「今から行っても間に合いません。加納砦は、取り返せません」
「何故そう言い切れる」
「加納砦は、斎藤妙椿様が対織田対策に築かれた堅固なもの。織田を相手に築いたと言うことは、我らにも手出しはできないもの。尾張の虎、織田信秀でさえ、避けて通った場所。破棄していたから放置していたのではない。必要ないから放っておいたに過ぎない」
「
掠れる声で、利三は必死になって言葉にした
「我らは肝心なことを忘れていた。私ですら、忘れていた」
後悔の念に苦しみながら、夕庵は言い切った
「我らの敵は、織田ではない。『蝮の娘』、斎藤帰蝶様その方であることをッ!」
「加納砦に林の部隊を入れるよう、清洲に走れ。必要なら、坂井も呼べ。坂井は吉法師様とも誼を通わせていた。緊急だと言えば動いてくれるだろう。吉兵衛に加納修繕の見積もりを、明日の昼までに用意しろと伝えろ」
「承知ッ!」
帰蝶の指示通り、秀隆が部下を清洲に走らせる
砦を落としたからと言って、のんびりできる状況ではない
斎藤の兵力は、今の織田と比べて無尽蔵
兵の補充はいくらでも利く
態勢を整えて再び攻め込まれては、こちらは打つ手なしの無防備な状態も同然なのだから、充分な応戦などできようがない
今できることは、再び襲来して来るだろう斎藤を、追い返すのに必要な戦力を集めることだった
加納を兵で満たせば斎藤が向かう先は墨俣だけに限られる
加納砦と稲葉山城が至近距離であればあるほど、落とすのは後回しとなるだろう
引き換え墨俣は、周囲に美濃国人や豪族が犇いている
それら国人衆らを引き込まれては、斎藤にとって敵が増えるだけである
商業都市に近い加納と、中立の立場に立っている国人衆らが周辺に多く居る墨俣とでは、どちらを先に落せば、より斎藤にとって良いことなのか、少し考えれば誰でもわかる
味方は増やすに越したことはない
同時に、敵は少ないに越したことはない
「殿、そろそろお休みになられては」
心配した兵助が帰蝶に声を掛ける
「休んでいられるか」
「殿」
「そこに、美濃があるんだ」
一瞬顔を顰めるも、兵助は帰蝶の表情が穏やかであることに気付く
「この戦、津島衆が加担してくれたことが大きい。津島には、何か表敬でもせねばならんな」
「それなら、津島天神の祭に寄与でもなさっては」
「津島天神?」
「牛頭天王を祀る神社の祝祭です」
「そうか、少し調べて考えてみる」
「はい」
帰蝶が少しだけ躰を横にずらす
「後で、何か羽織るものをお持ちします」
「気遣うな。お前も休め」
「ありがとうございます」
目と鼻の先にある加納砦を落とされたことは、夕庵にとっても誤算であった
次の手を考えるのに猶予をもらい、自室に戻ろうとする
その後ろには、小牧道家が控えていた
道家は一度、夕庵の伝言を当時帰蝶の小姓であった龍之介に伝えた経緯がある
それだけでも、二人がどれほど親密な関係にあるか想像できた
「源太」
「はい」
「姫様は、どうされる」
「
源太と呼ばれた道家は、少し苦笑いした
自分にわかる筈がないだろうとでも、言いた気に
そもそも道家の通称は『源助』である
ところが、この頃の男は『助』の付く者が多く、帰蝶の側近である猪子高就も『助』の付く『兵助』であるため、紛らわしいと無理矢理帰蝶に名前を変えさせられた『被害者』であった
しかし、今ではもうすっかり定着している
それほど、帰蝶が幼い頃から周りに居た男は多かった
「あの時と同じだ」
「あの時?」
「姫様がここのつかとうの時、お清殿と組み道三様に挑んだ将棋」
「ほう」
帰蝶が父の道三を相手に将棋を差しているのは、よく知っている
一人では敵わないから、清四郎、今の利三と二人掛りでやっていたのも、よく知っている
「姫様はお清殿に命じてあらゆる歩兵の駒を進め、道三様の注意を引かせた。道三様は姫様の策略に嵌り、それに気付かず歩兵を潰して回った。笑いながら」
「
「しかし、歩兵とは言え数を潰せば、自軍にも相応の損害が出る。歩兵の駒がなくなった頃、姫様は一手を打った」
「どのような」
「
「飛車を、ですか?」
夕庵は頷きながら応えた
「飛車は大きく派手だ。嫌でも目に付く。道三様は飛車の動きに惑わされ、見逃していたのだよ。飛車の影に隠れて進んでいた、縦横無尽に動かせる『角』を」
「
まさか、と、道家は額から汗を浮かばせた
「姫様は、だからこそ敢えて『歩兵』を捨てたのだ」
「
道家は言葉を失くし、夕庵を見詰めた
九つか十の子供が、それをできるのか、と
考え得るのか、と
「姫様は『将』を得るため『駒』を棄てた。何の躊躇いもなく。姫様は自らを歩兵と看做し、飛車を進めた。それが、『加納砦』だ。墨俣は囮、してやられた」
「夕庵様・・・」
「姫様は、『歩兵』と、我らを欺く『飛車』を同時に演じられた。
「それでは、姫様はどう・・・」
「私には、わからない。姫様がこの先、どう出るのかを。墨俣を囮にしたことすら、私には想像もできなかった。正しく、『してやられた』、だよ」
「夕庵様・・・」
「『織田信長』は、目でもない。我らの目標は、姫様に絞る」
「
夕庵は、何故、あれほど愛した帰蝶を目的に定めたのか
道家にはわからなかった
斎藤を守りたいのか、美濃を守りたいのか、夕庵はそのどちらなのか
道家にはわからなかった
静かに明けた朝の空に、帰蝶の目蓋が動く
しばらくして、目を開けた
「
くらくらと目眩がしそうな光りに目を逸らし、部屋の中に顔を向ければ、少し離れたところに秀隆が行き倒れている
「シゲ・・・」
ふと見れば、秀隆より更に離れたところに利家が転がり、利家の下には兵助、兵助の下には・・・と、男達がまるで歩きながら脱ぎ捨てた小袖のように、点々と転がっていた
「お前達、何やってるんだ・・・」
「いやぁ、弥三郎の随時報告を入れようと想ってお邪魔しましたら、殿があんまりすやすやと寝入っておられたので、一先ず起きられるまでお待ちしようと座ってましたが、こちらもつい、ウトウトと・・・」
「お前が側にいたなど、気付かなかったぞ」
「殿の寝顔、可愛かったですよ」
「
帰蝶は黙って秀隆の顔面に拳を叩き込んだ
「俺は、殿が河尻様と二人っきりでは危ないと、お側に居たのですが、俺もついウトウトと」
「そうだな、俺がどんな目に遭うか知れんしな」
「
二度目の、帰蝶の拳が炸裂する
「私は犬千代殿を部屋からお連れしようとしたのですが、余りの重さに耐え切れず、ついウトウトと」
「どんなうっかりなんだ」
帰蝶は想わず兵助に突っ込んだ
「私は」
「もう良い」
延々と「ついウトウト」の理由を聞いている暇などない
「兵助、犬山の様子はどうだ」
「はい。先方の返事待ちです」
「シゲ、加納の方はどうだ」
「弥三郎が踏み止まってます。斎藤も今のところ、出る様子はありません。向こうも様子見でしょう」
「承知した。兵助」
「はい」
「犬山は、恐らく手助けの一つでもする算段だろうが、早く回答を出さない場合、斎藤に与したと看做すと伝えておけ」
「はい。ですが、殿・・・」
「兄上が生きていたなら、犬山も傍観を決め込むだろう。だが、頼りの綱の義龍が居ない今、犬山は孤立無援の状態だ。そんな状況の中で、どこまで意地が張れるか見ものではあるが、こちらも敵か味方か早い段階で判断を付けたいとはっきり伝えろ。妻の実家がどうだとか、昔の縁がどうだとか、回りくどい口説き方はやめておけ。私が欲しい返事は、美濃攻めに『協力する』か『協力しないか』の二つのみ。それ以外の返事をしようものなら、見切りを付ける」
「
矢継ぎ早に言葉を並べ立て、それでも何れは犬山を落すつもりでいる帰蝶を、責めるつもりなど毛頭ない
ただ、自分をそう追い込んでるのではないのかと、兵助は聊か心配になって来た
秀隆が先に立ち、部屋を出る
それに続き利家らも外に出た
一人残った兵助は愚図々する
「何をしてる。さっさと行け」
「
想いを断ち切るかのように敷居を跨ぐと、入れ違いに可成、勝家がやって来た
「猪子殿」
「あ・・・、森殿、柴田殿」
「殿はいらっしゃいますか」
「あ、はい」
兵助が身を避けると、勝家を先に可成の二人が部屋に入った
「殿」
背後で勝家の声が聞こえる
後ろ髪を引かれる想いで兵助は立ち去った
春の過ぎた庭先に、子供の楽しそうな笑い声が聞こえる
「みずき、みずき」
帰命丸は自分よりふたつ年上の幼馴染みの名を、当たり前のように呼んだ
「みずき、ここ、ここ」
呼ばれ、受け取った手毬を帰命に投げ返す
「次、みずき」
帰命は受け取った手毬をまた、瑞希に投げ返した
瑞希も手毬を帰命に投げ返す
上手く受け取ろうとして前に出過ぎてしまい、手毬は帰命の顔の中心にぶつかる
「若様!」
見守っていた菊子が慌てて駆け寄った
遅れて瑞希も駆け付ける
「痛いよお」
鼻を押さえ、帰命は顔を歪ませた
「若様、ごめんなさい。大丈夫?」
「若様、お怪我は?」
その手を退かせ鼻を見る
少し赤くはなっているが、鼻血のような類のものは確認できなかった
「大したことないようですね、一安心です」
ほっとする菊子にカチンと来たのか、帰命は大袈裟なほど泣き叫んだ
「痛い、痛い、痛い!」
これは誰かの関心を買いたいのだな、と、菊子は帰命の頭を撫でながら言った
「まあ、それは大変ですわ。今直ぐお母様をお呼びしなくては」
その途端、帰命の全身がビクンと震え、泣き止む
「若様、少々お待ちくださいませね。只今おなつ様にお願いして、お母様をお呼びしていただけるよう、取り計らっていただきますゆえ」
「い、痛くなくなった、痛くなくなった。だから、かかさは呼ばなくて良い!」
今年四つになった帰命も、そろそろ知識が付いて来たのか、それでも一端に母親を恐れる辺りまだ子供らしさが滲み出ており、菊子はその微笑ましさに笑った
「若様は、お母様が怖いのですか?」
帰蝶は帰命を実子とは認めておらず、信勝亡き後も『養子』を押し通した
それは信勝以外にも帰命を狙う者が現れるのではないかと言う、猜疑心からである
信長正妻の子でなければ、その命も軽く見られる
帰蝶はそれに賭けた
縁側で、それでも一応の手当てとして、濡らした手拭いを帰命の鼻に当ててやりながら、菊子はそう聞いた
帰命の隣では瑞希が心配そうに覗き込んでいる
「別に怖くはないけど」
「なら、このこともご報告せねばなりません。よろしいですか?」
「そしたらみずきが叱られる」
「仕方ございません。瑞希が手毬を当てたのは本当のことなんですから。ねえ、瑞希」
「
瑞希は少し青褪めながら頷いた
「だめだ、それは。みずきが叱られるのは、かわいそおだ」
「若様」
「きみょおはみずきを庇ってあげたいけど、かかさはそれ以上に怖い人なんだっ」
「やはり、お怖いのですね?」
「
手拭いを当てられたまま、帰命は大きく首を振った
「どっちなんですか」
「こっ、怖くないけど、怖い・・・」
「まあ」
「きくはかかさの怖いのを知らないんだ」
「若様」
あなたより付き合いが長いのですよ?と言いたいのを、相手はまだ四歳児だからと、菊子は苦笑いを浮かべた
「かかさを怒らせたら、お尻ペンペンじゃ済まないんだからな?」
「
確かに、悪戯の度が過ぎた時は、実子であろうと構わず叱り飛ばしているが、それでも『帰蝶』にしてみればまだ大人しい方なのに、と、そうも想い浮かべる
「かかさはどうして怒りっぽい?」
「怒りっぽいのではありませんよ。若様には、お強く賢い子にお育ち頂きたいのです。ですから、敢えて厳しくされるのですよ」
「きみょおは、弱いか?」
「今は、そうですね、まだお小さいのですもの、仕方ありません」
「みずきも守れんか?」
「瑞希を?」
帰命の告白に、菊子はキョトンとした顔をする
帰命の向うに居る瑞希を見ても、同様の表情をしていた
「きみょおはみずきを守るんだ」
「どうしてですか?」
「かかさが言ってた。大事なもの、守れない弱い子になるなって」
「殿が・・・。それで、瑞希を?」
「きみょおはみずきが大事だ。きくも、大事だ」
「まあ、ありがとうございます」
帰命の優しい言葉に、菊子も頬を緩ませた
「なつも大事だ」
「そうですね」
「ばば様も大事だ」
「ええ」
「えっと、それから花!」
「そうですね、お花様も大事ですね」
「それから、ええと、吉兵衛と、新左衛門と、五郎左衛門と弥助と、ええと、小三郎と、それから、ええと」
「若様は欲張りですね」
ありとあらゆる名前を挙げようとする帰命に、また苦笑いが浮かぶ
「子供とはそう言うものだとなつが言ってた!」
「
『なつ』が味方に付いているのだから、自分では敵う筈もないと菊子はそれ以上何も言わなかった
「かかさ、いつ帰るかな」
「そうですね。今回は遠征ですから、直ぐにはお戻りにはなられませんよ」
「早く帰って来ないかな」
「お戻りになられましたら、何をして差し上げます?」
「んーと、指きりげんまん」
「
菊子の頭からは大きな汗が滴の形となって浮かび上がった
そこへ、花を連れ、徳子を抱いたお能がやって来る
「あら、みんなここに居たのね」
「お能様」
「花!」
花を見付けた帰命が駆け出し、手を掴む
「花、遊ぼう!」
花の返事を待たず、瑞希の手も引きながら問答無用で庭に出る
「あら、さっき若様の泣き声が聞こえたのだけど、気の所為だったのかしら」
「いえ」
菊子は苦笑いしながらお能を見た
お能の腕の中で、実娘ではあるが親子の縁を切った、まだ幼い徳子が両手を伸ばして『義理の兄』達に混ざろうとじたばたする
「徳姫様は、まだいけませんよ」
と、お能が窘めた
徳子はわからず悲しそうな顔をする
そんな徳子に、実の姉である花が縁側の下から手を伸ばした
「徳姫様、後でお花を摘んであげますね。だから、待っていて下さい」
花自身、まだ幼い頃に徳子と別れた
徳子が自分の直ぐ下の妹であることを、覚えていない
母が徳子に乳を与える時、その介添えを良くやっていたことすら
それでも、血が呼び合うのか
『姉』の言葉に、徳子が大人しくなった
「
「
花はにかっと笑って、自分を待っている帰命と瑞希の許に駆け戻った
「お能様・・・」
「
少し悲しそうな、だけどそれを堪えてお能は続けた
「死に向う夫を見送れなかった、これが私の罪」
「お能様」
「だから、私は罰を受けているの」
「そんな・・・」
「でも、その罰はとても優しく、そして温かいの。どうしてかしら、私はその罰を受けるのが、とても嬉しいのよ」
棄てた我が子とこうして、毎日触れ合えるのだから
自分のこの手で育てられるのだから
穏やかな顔をするお能に、菊子もそれ以上何も言わなかった
しんみりとした空気を掻き消すかのように、お能は明るい声で言う
「そうそう、ここに来た理由を忘れていたわ」
「何ですか?」
「来月、巴の方様がお戻りになられるそうなの」
「まあ、巴の方様が?どうしたんでしょう、何かあったんでしょうか」
「そこは聞いてないけれど、先程滝川様が来られて、おなつ様に謁見されて、その話を聞かされたの。だから本丸の方でもその準備をお願いとここに来たのに、後回しにしてしまったわ」
「滝川様、お戻りになられたんですか?」
「いいえ、殿の墨俣攻略に参加なされたそうなのよ」
「そうだったんですか」
「墨俣砦、落とされたそうよ」
「そうですか!」
お能の雰囲気に暗くなっていた菊子も、漸く明るい声が出せた
「おなつ様も、さぞやお喜びになられておられるでしょう」
「ええ、そうね。弥三郎殿も、随分ご活躍なされたそうよ」
「え?旦那様が?」
「ほら、加納に放棄されていた砦があったでしょう?」
「ええと、確か妙椿様の時代の」
「ええ。うちの実家に近いところにあるのだけど、その砦を弥三郎殿が落とされたって聞いたわ」
「ええ?!ま、まさか」
確かに夫は織田の一軍として働いているが、作戦の先頭に立つなど夢にも想わない
尚更、菊子は驚いた
「それで、林様もその砦の援軍に出発なされるそうなの」
「林様が?大丈夫でしょうか」
「何が?」
「だって、うちの旦那様、林様の嫌いな部類に入るので・・・」
「あはは。林様は明快な気質の人間を嫌う傾向があるものね。それで殿とも余り折り合いは良くないけれど、林様はそれ以上に相手の資質を見られるお方よ。そう気に掛けることでもないと想うわ。それに、弥三郎殿のお側には、林様が何より苦手としている殿の、そのご実弟、新五様がいらっしゃるんですもの。気を抜けば殿にどのような報告が届くかわからないのだから、下手な行動は慎まれるわよ」
「なら、良いんですが・・・」
「菊子も心配性ね」
「殿のお側におりましたら、どなたも心配性になります」
「
確かにそうだと、お能は納得してしまった
墨俣砦を落とした翌日、犬山の織田信清から返信があり、弟をそちらに向かわせると言う
犬山がどう動くのか知りたかっただけの帰蝶は、信清本人が来ようが誰を代用しようが意には介さない
織田信益の到着を待って次の出兵地・十九条城へ出発することにした
墨俣を落としただけでは、心許ない
このまま真っ直ぐ稲葉山城を目指すのも良いが、如何せん兵力に差があり過ぎる
願わくば、この周辺の国人や豪族を味方に引き込みたい、そのためには一つでも多くの戦に『勝ち』を残したい
その想いで、帰蝶は次の戦の場を十九条に定めた
更には、墨俣に入っていた叔父・長井道利が十四条に引き込んだと言う情報を得ている
叔父には色々と貸しのある帰蝶にしてみれば、それを素通りすることなどできなかった
夫の仇は取れなくとも、できることなら叔父を東美濃に追い遣りたい
景任の居る東美濃へ
そこに入れば、叔父は手出しのしづらい状態にはなるだろう
叔父は織田と斎藤の争いには無用の存在
そう、想っていた
墨俣砦を落として二日後、犬山城から弟の信益を遣すと知らせを受け、それとほぼ同時に一宮の傾城(かぶき)屋から娼婦達が大勢やって来た
これは兵助が手配したのだろう
当初、帰蝶も十九条城へ向う予定だったが、それを取りやめる
「折角女達が来てくれたと言うのに、私が一緒では男達も寛げまい?私は墨俣に残る」
「そんな」
兵助は上手い言葉が出て来ず、苦笑いするしかなかった
「現場の指揮は権に一存する。女達の管理も権がやれ。もし手に余るようだったら、三左に回せ。ヤツは妻帯者だ。女の尻の叩き方ぐらいは知ってるだろう」
「はっ」
勝家は軽く一礼して応えた
「あ、殿」
少し離れた場所から秀隆が声を掛ける
「おなつ様が、来られるそうですよ」
「え?何故だ」
「殿のお世話をするためだとか?」
「
顔を酷く歪ませる帰蝶を見て、秀隆の頭に汗が浮かぶ
「そんなに嫌なんですか?」
「じゃあ聞くが、お前はなつに世話されて嬉しいか?」
「
秀隆も黙りこくる
そんな二人を眺めながら、数年前、自分も弥三郎と似たような会話をしたなと、可成の頭にも汗が浮かんだ
「そうか、なつが来るのか。・・・しまったな」
戦の場に持って来てはいけないと、帰蝶は美濃の土岐郷で求めたものを小牧山の砦に置いて来てしまった
それをそっと後悔の言葉にする
「どうかなさいましたか?」
少し首を傾げて秀隆が聞いた
「いや、何でもない」
帰蝶は軽く首を振って応えた
「なつが到着したら、お前達も少しは気を緩められるだろう?なつは私と違って、『男の事情』を理解してくれる。傾城屋からも追加でこちらに来てもらえるよう、取り計らってもらおう。それまでもうしばらく、辛抱してくれ」
「殿・・・」
秀隆はほんのりと頬を染め、気恥ずかしさを誤魔化すように苦笑いをして見せた
「男は、難儀だな」
「そう・・・ですね」
「女にはそう言った生理現象はない。精々、股座から血を垂れ流す程度だ。だが男は、生理機能そのものが鈍ってしまう。戦に、身が入らなくなる。・・・・・・・・日比野や義叔父の陣に若衆らが居たのも、責められるものではないのだろうな」
「女性の生理期間も、大変だと伺います。うちの女房も、若い頃は酷い痛みに悩まされました。今は随分軽くなったそうですが。ですが、まだお若い殿には、まだまだおつらいでしょう」
「そんな時は、なつが庇ってくれる。少なくとも、その頃に戦をしようなんて、想いもしないしな」
「殿がこれまで遠征をしなかった理由は、やはり、それですか」
「遠征できる場所を確保できなかった、と言うのが正解だが」
自分自身に皮肉を込めて応える
「長期戦も、これまでにありませんでした。ですが、今回は本腰を入れられましたね。どう言った気の変わりようでしょうか」
「
目前に聳える稲葉山の城を眺める
目視できる場所にあるわけではないが、朧げに山の片鱗だけは見えた
その場所を見詰めながら、呟くように告白する
「私は、自分が何者であるのか、知りたかった」
「
「それを知らないまま、吉法師様に嫁いだ。一家の主婦として、私の人生は終わる筈だった。だけど、そうも行かなくなった」
「
「幼い頃から抱えていたその想いが、蘇った」
「ご自分が何者であるのか、お知りになりたいと」
「他愛もないことだ。取るに足らぬことだ。それでも、私は知りたい。私は、何者だ」
秀隆には、応えられなかった
自身、それを知ることはできないからだ
真っ直ぐ前を向いたまま、こう続ける
「それを知るために、美濃を攻めているのだろうな」
「美濃を落せば、ご自分の正体がわかると?」
「そんな気がするだけだ、気に留めるな」
「
秀隆は返事の代わりに会釈した
「しかし、戦の作法も知らなかった私にしては、ここまで来れたことは上出来ではないか?」
「殿」
少しだけ秀隆を見て、それからまた正面に顔を戻す
「何も知らなかった。吉法師様は、何も教えてくださらなかった。だけど。人の殺し方は、林が教えてくれた」
「
胸が痛む
「戦い方は、今川が教えてくれた」
嫌でも戦わなくてはならなくなった人生
何のために
誰のために
「斎藤からは、国の盗り方を学ぼう」
「
踠(もが)きながら、少しずつそれを経験としていく
切ないほどの苦しみを抱えながら
その視線の先が、それを教えてくれる
帰蝶の横顔は、相変わらず美しかった
木曽の大橋で初めて見た時よりも、ずっと美しい
だがその『美しさ』は女のものではなく、荒ぶる魂を持つ者の、特有の匂いを漂わせるものだった
戦場に立つようになってから、ほんのりと日焼けした肌
それでも、冬になれば白く戻るが
高い鼻梁に切れ長の目蓋
細い口唇は常に一文字に結ばれ、その意志の強さが伺える
この方でなければ、夫の代わりにここに立つことなどなかっただろう
こうして織田家臣一万の頂点に立つことも、なかっただろう
「
秀隆は、ふいと帰蝶の横顔を改めて見詰めた
そんな気がした
「さて。犬山の部隊がいつ到着するかわからんが、先に支度だけでもしておくか」
秀隆が見詰めていたことにも気付かず、帰蝶は顔を向けて告げた
「そうですね。権さんなんか、殿の号令を今か今かと待ってるでしょうし」
「ヤツは待たせれば待たせるだけ、勇猛さが表に出て来る。現場では頼もしい将だろう」
「ははは」
短気ではあるが、確かにその通りだと軽く笑う
「シゲ、命令がある」
「はい、何でしょう」
「叔父(道利)が逃げ込んだ十四条を攻めるために、先ずはその手前の十九条を落とす必要があるが」
「承知しております」
今、出陣の支度をしているのは、正に十九条の城を落とすための準備なのだから
言われずとも承知している
「十九条だけを拠点にするのは心許ない。相手は斎藤なのだからな」
「では、その付近の国人か豪族を味方に引き込みましょうか」
「それも良いが、あの辺りは市橋が絡んでいる。佐治の仕事の邪魔をするわけにはいかん」
「では、どのように?佐治に使いを出しましょうか」
「いや、その必要はない」
「え?」
秀隆には、帰蝶の言葉の意味が飲み込めない
「十九条と十四条の間に、とある寺がある」
「寺?」
ほんの少し、胸が痛みで熱くなる
「父上に所縁のある寺だ」
「お父上様・・・。斎藤道三様で」
「そうだな、頑固な住職だから、金を積んだぐらいでは首を振ってはくれんだろう。戦のためだと言っても納得しないのであれば、私の名を出せ」
「殿の」
『信長』の名前が、そこまで威力があるとは想えない
素直に首を傾げる秀隆に、帰蝶は言った
「織田ではない。斎藤の名だ」
「斎藤の・・・」
「『斎藤のじゃじゃ馬』の名くらいは、稲葉山の麓にまで届いているだろう。住職が覚えていたら、の話だが」
「
名は、棄てたつもりで居た
それでも、使わねばならない時が来て、それを受け入れねばならない現実がそこにあって、帰蝶はそれを使った
どうして、と、ただ単純にそう想う
何故この女性(ひと)は、自分の親ですら利用できるのだろうか、と
朝靄が晴れて間もなく、犬山の城を出発した弟の部隊を山頂から見送る
「
世間は屈したと想うだろうか
「十郎様・・・」
背後から伊予の声がした
振り返ると、心配そうな顔をしている妻が立っている
「どうした、伊予」
「良いのですか?」
「何がだ?」
「私のことは、お気遣いなく。十郎様は十郎様の想うようになさってください」
「何を言っている。私は私が想うことをしているだけだ」
信清は笑いながら応えた
「清洲から、使者が来たのでしょう?なんと言って、あなた様を脅したのですか」
「伊予」
美濃攻めに参加するか、否か
ただ、それだけを聞いて来た
妻を盾に取られたわけではない
戦を仕掛けると脅されたわけでもない
ただ、聞いて来た
是か、非か
「
心配顔をやめない妻に、信清は告げた
「斎藤と同盟を組もうとしていた矢先に、当主が死んだ。私は選択に迫られた」
「十郎様・・・」
「それでも斎藤か、織田か、を」
「斎藤か・・・、織田・・・か・・・」
「私は、織田を選んだ」
「織田を・・・」
伊予の顔が、ほんの少し、ほんの僅かだけ明るくなった
本音はやはり、実家に与してもらいたかったのだろう
そう想えた
想えたが、それでも信清は敢えてこう続けた
「暇が欲しかった。ほんの少しで良い、私にも支度の暇が欲しかった」
「十郎様・・・?」
その言葉の意味がわからない
だが、その直後、現実は伊予に『答え』を見せた
「殿」
二人の背中から、家臣の声がする
「津川殿が、お見えになりました」
「津川・・・」
「そうか」
「
家臣の男と、夫の間を伊予の顔が行き来する
「そう言うことだ、伊予」
「
夫は、清洲織田に与しながら、清洲織田に歯向かう気だと知った
あの人に勝てるのか・・・
伊予は、兄嫁の顔を想い浮かべた
勝てるか勝てないか、自分に判断できるわけがない
そんな自分にできることは、夫に寄り添い、支えることだけだと、そう考えた
墨俣奪取以降、雨は小さな勢力を保ちながら降り続ける
「梅雨に入ったか」
墨俣の俄改修の進む表座敷から、空を見上げた
降ったり、止んだりを繰り返す空は、雨雲の灰色に染まっている
そんな空を見上げている帰蝶の許に秀隆がやって来た
「殿。犬山の加勢が到着しました」
「
少し振り返り、そのまま告げる
「十九条を攻めている権達と合流するよう、伝えろ」
「承知」
自身は、逢う気はないと、目がそう言っている
逢ったところで、交わす言葉もないだろう
『帰蝶』にとって織田信益は、面識のない人間なのだから
相変わらず、黙って空を見上げている
空に昇った夫と、対話でもしているのだろうか
秀隆はただ単純に、そう想っていた
逃(のが)さない
許さない
兄達を殺し、父を死なせ、夫を死に追い遣り、義龍を追い詰めた叔父だけは、決して、許さない
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
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1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
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信長 ~群青色の約束~
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[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
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千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
勝手にPR
濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
岐阜の地酒 日本泉公式サイト
(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト
濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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ご訪問、ありがとうございます
あまり役には立ちませんが念のため
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