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「うっ・・・、お・・・、おえぇぇぇぇーッ」
九月に入り、帰蝶の悪阻が激しくなった
些細なことがきっかけで、日に何度も嘔吐を繰り返す
これでは仕事にならんと、局処に帰された
帰蝶不在の際は一番年長者である資房が受け持つことになったが、それだけの力量があるわけでもなく、本丸の仕事をせっせとせっせと局処に運ぶ
運ぶ度に
「おえぇぇぇぇーッ!」
と、吐いている帰蝶を目の当たりにして、気の毒で仕方がなかった
「お、奥方様・・・、追加の書類です・・・」
「悪いわね、又助。何度も来させて・・・うぇぇぇぇぇーッ!」
「 」
なんとも応えられず、資房は困ったような顔をして笑うしかできない
「悪阻は、そう長く続く物ではないから、安定したら本丸で仕事もできるようになるでしょう。太田殿、今しばらくお願いしますね」
「はっ!この太田又助資房、奥方様のためなら何度でも局処に走る所存。何なりとお申し付けくださいませ!」
「じゃぁ、この桶を綺麗にして来てくれる?」
と、帰蝶の嘔吐物の入った桶を手渡される
「 」
苦笑い以上に、絶句しかできなかった
稲生での戦いの後、末森の土田御前から速攻で詫びが入った
自分の監督不行き届きだったと
しかも、信長本人にではなく、貞勝に
信長に頭を下げるのは耐えられない
その代わりとなる帰蝶には、もっと
その次の権力者であるなつとは、信秀を巡って若い頃の確執がある
ならばと、なつの名代でもある貞勝に頭を下げたらしい
「この度の不始末、私からも勘十郎には充分叱り付けました。吉法師・・・殿には多大なご迷惑をお掛けしたこと、心よりお詫び申し上げます」
自分に平伏する市弥を、貞勝はなんとなくぼんやりと見た
守山騒動で可成、弥三郎の解放交渉に上がった時、自分を門前払いをした女性とは、とても想えない
「柴田、林兄弟も、織田を想ってのこと。それをどうか汲んで下さるよう、殿に仲介お願い申したい所存。どうか寛大なご処置をお願い致します」
「御前様のお気持ちは、充分理解できました」
「では」
「殿にはなんとか、事無きよう取り図らせていただきます」
「よろしくお願い申し上げます、村井殿」
何度も何度も自分に平伏する市弥が、寧ろ哀れでしょうがなかった
「 と、末森から詫びが入りましたが」
この時の帰蝶は、それどころじゃなかった
「うぇ・・・」
軽く吐き気を催し、
「そんなのどうでも良いわよ、もう。おえぇぇぇぇぇーッ!」
「 」
実際、どうでも良いわけがなかった
夫が死んだ原因が末森にあるのなら、徹底的に断罪してやりたい
だけど、それが『戦』と言うものなら不承でも納得するしかなかった
それが『時代』と言うものなのだから
家督争いで兄弟同士の骨肉の争いは、今に始まったことじゃない
何処の家でも多かれ少なかれ起きている
夫はただ、父を救おうとしただけだ
斎藤の争いに巻き込まれて死んだのなら、時間は掛かろうがいつかは理解できる
帰蝶が理解できないのは、岩倉を引き入れたのが末森ではないかと言う疑念だった
その証拠がない
証拠がないから探している
斎藤とは断絶した
夕庵との連絡は未だ取り合っているが、頻繁にと言うのは無理だった
頼りの綱だった明智家は一家離散
義叔母のしきは越前の親戚の家に入り、保護を受けている
従兄妹の光秀夫妻は家臣・子供共々行方不明
光秀の調略により父に味方するはずだった土田家は、親子で敵味方に分かれ、父に味方した政久は自刃、息子親正はべったり義龍寄りの立場であった
明智の旧領地を取られて堪るかと、末森との激突前に景任の遠山一族と結託し、領地は全て遠山家が管理するようになった
相手が相手だけに土田もそうそう手は出せず、今現在、斎藤と組んで遠山一族に戦を仕掛ける準備があるらしいとの噂も流れ始めていた
帰蝶には、考えること、やらねばならないことがたくさんある
その上妊娠中の悪阻に苦しんでいる状況だ
後回しにできることは後回しにし、先に済ませねばならないことは先に済ませる
そうでなければとてもではないが、一人では切り盛りなどできない
そんな帰蝶の許に義龍から手紙が届いた
「我、完敗なり。されど次の一手差し向けるべし。手合わせ願う。 允可(いんか)」
「允可?」
兄の書き記したその言葉に、帰蝶は首を傾げた
「どうも斎藤の殿は、ご自分のことを『允可』と自称なさっておいでのようです」
「自称?」
可成の言葉に、帰蝶は眉間を寄せた
「誰の許しを乞いたいの?」
「さあ」
『允可』とは、『許すこと』である
赦免のような重い意味ではなく、軽い意味合いを持つが、帰蝶は何故兄がそんな言葉を名前の代わりに使い始めたのか、その真意がわからなかった
兄は何を悔い、何に後悔しているのか
「お返事、なさいますか」
可成はそっと聞いた
「当然でしょ。紙と筆!」
怒り心頭の帰蝶は、和紙にでかでかと『くそくらえ』と書いてやった
予想通りの帰蝶の反応に満足した義龍は、笑いに笑ったと言う
「 」
名塚の砦から佐久間信盛が引き上げて、正式に信長軍に復帰した
その信盛と、度重なる援助を送ってくれる信長叔父・信光が清洲に上がり、信長との謁見を申し出た
逢わせてやりたくとも、信長は冷たい土の中だ
逢わせられるわけがない
言い逃れをしようにも、この二人にはそれが無理だと帰蝶は知っている
今後の織田のことを考えても
帰蝶は局処の自室、信長の仏壇の前に二人を案内した
案の定、言葉を失って随分経っていた
この頃信長の小袖を羽織っていた帰蝶だったが、男姿で出るわけにも行かず久し振りに女物の小袖を着る
帯が苦しくて、何度も吐き気に襲われた
そんな気持ちの悪さを必死で押え、二人と面会する
「今まで黙っていたこと、どうかお許しくださいませ」
悪阻がまだ治まらぬ胸焼けを抱えながら、帰蝶は二人に頭を下げた
「 吉・・・法師は、いつ・・・」
叔父の信光が、漸く口を開く
「今年、春」
「春・・・?」
「ど・・・、どこで・・・。殿は、どこでお亡くなりに・・・」
「ここ、清洲で」
「何故、どうしてですか。何が原因で・・・。病、でしょうか・・・。大殿のように・・・」
信盛の声が震えていた
「いいえ」
「では、何故・・・!」
「今年春、美濃、長良川に於いて父と兄が争いました」
「聞いております。お父上様には、お気の毒なことを・・・」
「まさか、殿はその時・・・・・ッ」
信盛の目が見開いた
「 はい」
「 ッ」
信盛は立ち上がり掛け、信光は余りのことに腰が抜けて膝が崩れた
「織田上総介信長は、我が父の救援のため木曽川を越え、長良川に到着する前、敵の攻撃を受け 」
「そっ、そんな・・・」
信盛の膝が、ガクッと崩れた
「何故知らせてくれなんだ」
「申し訳ございません」
「織田を乗っ取るつもりだったかッ!」
「孫三郎様、それは余りにも過ぎた言葉でございます!」
控えていたなつが、咄嗟に帰蝶を庇う
「織田を乗っ取るつもりならば、とっくの昔に乗っ取っております!奥方様は、その逆に織田を守ろうと末森だけではございません、ご実家である斎藤とも戦うおつもりなのです!」
「なつ」
「斎藤、とも・・・?」
「奥方様、それは真でございますか・・・ッ」
「 ええ」
帰蝶は真っ直ぐ信盛を見詰め、応えた
「織田は、私にとっても掛け替えのない大切な家。守りたい、夫の代わりに。我が力及ばざるとも、身命に懸けて織田を守りたい。この気持ちに嘘偽りはありません」
意志の強い目をし、きっぱりと言い切る帰蝶
その上、織田家の信任も厚いなつが着いていると言うことは、帰蝶に織田家乗っ取りの意志はないと言うことだ
「 信じてよいのか」
「もしも私が孫三郎様の信頼を裏切るような真似をすれば、その場でこの首、捧げまする」
「 」
ゆっくりと頭を下げる帰蝶に、信光は聞いた
「何故、吉法師の死を隠し通していた」
「吉法師様のご遺言。そして、尾張の混乱を避けるため」
「吉法師の遺言?」
「このなつが受けました。織田の全てを奥方様に譲渡すると。信長の財産の一切を奥方様に委ねると」
「織田の全て・・・・・・・・」
「勿論、それは吉法師様が所有されるだけの範囲内のことでございます。孫三郎様の財産は範疇にありません」
「そうか。 聞かせてくれ、嫁御殿」
「はい」
「吉法師は、何をそなたに託した」
「 」
帰蝶は、信長の夢、信長の描いた理想を語り聞かせた
始めは信じられない顔をしていた信光や信盛も、やがて帰蝶の話しにのめり込む
「武家支配ではない、新しい時代?」
「勿論、我ら武家が消えてしまうわけではございません。武家は民を指導する立場に変わるだけで、今までどおり領地を守る役目も変わりません」
「しかし、それでは武力放棄ではございませんか。他の誰が賛同すると言うのですか」
信盛の意見は最もだった
「それを理解するには、新しい時代をその目で見てもらうしか方法はないわ」
「その、『新しい時代』をどうやって切り拓く」
「今、暗中模索の段階です」
「随分悠長な話だな」
「ですが、やってみる価値はあります」
信光は信秀と同じく、信長の想いを否定する側に回っている
それはやはり、仕方のないことだった
武家に生まれたのだから
だが、諦めるわけにはいかなかった
夫の夢が懸かってるのだ
「今の世を、違う視点から眺めてみれば、吉法師様がしようとしていたことの意味が、おわかりになると想います。一方向からだけではなく、多方向から」
「それで何が見える」
「新しい未来が見えます。民が笑っている未来が見えます。それに寄り添う我ら武家の姿が見えます。孫三郎様、どうか、どうか!」
帰蝶は具合の悪い体を押して平伏した
「今しばらく、吉法師様の夢、温めさせてくださいませ!」
「嫁御殿・・・」
「なつからも、お願い申し上げます、孫三郎様・・・ッ」
「 池田・・・」
帰蝶に倣って自分も平伏するなつに、信光は目を細めた
「上下身分のない世の中、確かに話は聞いた。だが、実現するには相当の道程が必要だぞ?嫁御殿」
「 わかっております。一朝一夕ではどうにもならないことくらい」
帰蝶は信光と二人、局処の縁側に腰掛け茶を啜っていた
「その覚悟はできているのか」
「覚悟がなければ、このように胸の内を明かしたりは致しません」
「 」
甥の遺した頼もしい嫁は、微笑む姿までキラキラと輝いている
それは途方もない夢を追い駆けた、大きな野望を抱える武人にも見えた
「 池田が従っているのだ。そなたの力、とくと拝見しようか」
「孫三郎様・・・」
「若いそなたは知らぬかもしれんがな、池田は昔、兄上を巡って土田御前とは大喧嘩までした気性の激しい女でな」
「なつが・・・ですか?」
突然昔話を始めた信光に、帰蝶は目を丸くする
そのなつは信盛と末森の話をしていた
末森に預けられている、娘の稲のことでも話しているのだろうか
「池田の前夫は、勝三郎が池田の腹に居た時に死んだ。今のそなたと同じ状況だ」
「 」
「しばらくは先夫の残した財産で食い繋いでいたが、元々そんなに家禄が高いわけではない。それに、部下達を養わなくてはならないしな」
「 はい」
「収入はない。支出ばかりが嵩む。相当困窮した状況だった。それでもなんとか遣り繰りをして勝三郎を生んだが、弱り目に祟り目と言うのか、古くから仕えていた部下に、残りの財産全てを持ち逃げされてしまってな」
「え・・・?」
驚きに、帰蝶の目は見開かれ、口はぽかんと開いたままで、閉じることができなくなった
そんな話、今まで一度も聞かされたことがなかったからだ
「屋敷を担保に金を借り、それで暮らしていたが、稼いでくれる夫が居ない。池田の実家も、近江の六角に取り潰され、帰る場所がない。そなたなら、どうする」
「 路頭に迷います・・・」
「正直だな。わしはそうは想わんが」
「え?」
「そなたも中々強かな女に見える。何とでも食い繋ぐ方法を考えそうなものだが」
「 」
誉められているのか貶されているのかわからず、苦笑いしか浮かべられなかった
「そんな時だ。那古野で吉法師の乳母を探していたのを、誰だったか忘れたが、池田を推薦した者がおってな」
「そうだったんですか・・・。それで、なつは吉法師様の乳母に・・・」
「大変だったと想うぞ?乳飲み子を抱えて、他人の子を育てなきゃならんのだ。それでも池田は笑いながら吉法師を育てよった」
「はい。なつは愛情に溢れた、素晴らしい女性だと想います。なつでなければ、吉法師様はあんなにもすくすく育たなかったと想います」
「嫁御殿」
「時には厳しく、時には温かく、見る者全てを幸せにしてくれる。私は、なつが側に居てくれて本当に、嬉しいんです。それに、なつがそんなにも立派な女性だということを教えてくださった孫三郎様にも、感謝申し上げます」
「いやいや」
信光は笑いながら自分の頭を撫でた
「聞かん坊な吉法師を、池田は苦労しながらも言うことを聞かせ、それはかなりの根気が必要だっただろう。母親ですら見捨てた子だ。増してや他人の池田にはもっと、扱いにくかっただろうな。それでも池田は吉法師を見捨てず、いつも情を掛けて育てた。その池田の力量を認めて、兄上は自分の側室にと、池田を迎え入れたんだ」
「そんなことが」
「ところが、だ」
「はい」
急転直下だろうか、信光の口調が若干早くなった
「側室に入った池田が、兄上との同褥を断りよってな」
「え?」
「息子の勝三郎が親離れするまで、次の子は産みたくないと拒絶しよったんだ」
「なつったら・・・」
信光の話しに、帰蝶は想わず苦笑いした
「勝三郎は大事な、池田家のたった一人の跡取りだから、立派に育てる責任があると。それを果たすまでは、誰の子であろうが産む気はないときっぱり言い切りよってな、それじゃぁ側室の意味がないと、土田御前と大喧嘩」
「そう言うわけだったんですか。なつらしい」
「しかも、そんな池田を兄上は手も出さず寵愛しよって。まぁ、だからと言って、兄上は好色でも有名だったからな、他の女に手出しせずと言うわけではなかったが、それから池田は兄上の片腕的存在になってな」
「それで土田御前様はなつを警戒してたんですね?」
「そうだ。自分の立場が危うくなるのではないか、と、心配して」
「土田御前様の不安は理解できますが、無用な心配ですね。なつに限って、そんな過ぎた真似はいたしません」
「そなた、よほど池田とは理解し合える仲と見る」
「 そうでしょうか。私もしょっちゅう叱られている身ですが」
「吉法師も、しょっちゅう池田には叱られていた。だがな、情のある叱咤はその者を育てるが、愛情のない叱咤はその者を傷付けるだけだ」
「孫三郎様・・・」
その通りだと、帰蝶は想った
なつは、確かにすぐ怒鳴り散らすが、その先にはいつも、間違いを正してやりたいと言う愛情が見えていた
だからこそ、帰蝶もなつに怒鳴られるのを不快に感じたことがない
「池田は吉法師に愛情を掛け、母親の分も手塩に掛け、吉法師を育てた。多少破天荒なところもあったがな、それは決して責められるべきことではない。織田の中で誰よりも、織田の未来を考えていたのかも知れんな。嫁御殿の話を聞いていると、そう想えるようになった」
「 ありがとうございます」
帰蝶はそっと頭を下げた
「織田の未来、わしもそなたに託す。どうか、尾張の民を幸せにしてやってくれ」
「孫三郎様・・・ッ」
「ここに来る途中、清洲の町を少しぶらついてみた。みんな、生き生きした顔をしていた。ついこの間、岩倉に襲撃されそうになったとは想えんくらいにな。気概を感じた。この町は、自分達で守るんだ、と言う気概をな。吉法師は、それを望んでいたのだな」
「 」
夫を理解してくれた人が居た
夫のやろうとしていたことを理解(わか)ってくれた人が居た
今、自分の目の前に
幼い頃から信光は、数少ない信長の理解者だったと言う
それは決して、賛辞でも世辞でもなく、本当に、心から理解してくれていたのだと知った
武家の柵でそれを表に出せなかっただけで、父親の信秀と同様、心の芯は信長を信じてくれていたのだと
涙が出そうになったのを、帰蝶は必死で堪えた
もう泣かないと、夫に誓ったから・・・・・・・・・
「それではな、また困ったことがあったら何でも相談してくれ」
「ありがとうございます」
なつと二人、門前まで信光を見送る
「孫三郎様」
「なんだ、嫁御殿」
「また、吉法師様のお話、聞かせてくださいませ」
「ははは、それならそこにいる池田に聞けばよかろう?誰よりも吉法師と共に過ごしていたのだから」
「だってなつったら吉法師様の愚痴しか聞かせてくれないんですもの」
「しょうがないでしょう?若にはどれだけ煮え湯を飲まされて来たと想うんですか。若には不平不満はあっても、誉めれるようなことなど何一つありませんっ」
「池田」
そんななつを、信光が抑える
「照れるでない。そなたの悪い癖だ」
「え・・・・・・・・・」
「そなたは、誰よりも大事に想っている者を、すぐ貶す癖がある。己に正直であれ。吉法師は、そなたの手で真っ直ぐ育ったのだ。自慢に値するぞ?」
「孫三郎様・・・・・・・・・・」
その言葉に、なつは涙ぐんで俯いた
「嫁御殿」
なつを微笑ましい表情で見ている帰蝶に戻る
「はい、孫三郎様」
「今度逢う時は、『叔父上』と呼んでもらえるかな?」
「え?」
「『信長』として、生きる決意を固めたのであろう?ならばわしは、そなたの叔父だ。それ相応の呼び方があって然るべきではないのかな?」
「 よろしいのでしょうか・・・」
「なぁに、構わん。わしもな、吉法師が死んだと聞いて、がっくりした。だが、そなたが吉法師の代わりであるならば文句はない」
「 」
そこまで理解してくれたのかと、嬉しい気持ちが溢れる
「ただし、だ」
「はい」
「つらいと想ったら、少し立ち止まり、そして、休むが良い。そなたの周りには、羽を休める止まり木がたくさんある。どれでも選り取りみどり、選びたい放題じゃ」
「 はい」
涙で目を潤ませているなつを、帰蝶は微笑んで見詰めながら返事した
「末森でも良い、岩倉でも良い。どちらでも動いた時は、直ぐに知らせろ」
「承知しました」
局処に戻り、帰蝶は布団を敷きっ放しにしている寝室に入り、躰を横にした
「お加減、如何ですか?」
その後をなつも入る
「少し疲れた・・・」
「そうでしょうね、随分お話が盛り上がっていたようですし」
なつは苦笑いして言った
「なつの方は、どうだったの?」
「え?」
「末森預かりになっている娘さんのこと、聞けた?」
「 ええ」
少し、元気が薄れる
「どうかしたの?」
帰蝶は横になったまま聞いた
「いえ、なんでもありません」
「なんでもないのに、そんな悲しそうな顔をするの?なつは」
「 」
それは自分でも自覚していなかった
少しだけ、なつの眉間が寄っている
「言って。私にできることなら、何でもしてあげたいの」
「奥方様・・・・・・・・」
「どうかしたの?稲姫」
「 」
苦笑いに首を傾げながら、なつは告白した
「末森の局処で、・・・・・・・疎外扱いされていると」
「あなたの娘だから?」
「 」
なつは黙って頷いた
「私が生んだ娘ですが、大殿の娘でもあります。ですから、私の勝手でどこかに移動させるなど、できません。今は耐えてもらうしか・・・・・・・・」
「大丈夫よ、なつ」
「奥方様・・・・・・・・」
「あなたの娘さんですもの。虐めなんかに負けるはずがないわ。いつか自由になることを信じて、きっと耐えてらっしゃる。なら、母親のあなたがするべきことは、その娘を信じることじゃないの?」
「はい・・・・・・・・・・・」
「手紙、書いてあげなさいな。暇がないのなら、自分で作らなきゃ、ね?」
「そうですね」
頼りなく苦笑いしながら、なつは応える
「末森の反乱、できる限り早く鎮静化させるから、もう少し待って」
「無理なさらないで下さい。今は清洲のことで精一杯なのでしょう?それに、大事な躰ですもの。稲のことは、後で結構です。そんな風に気を掛けてもらえただけで、充分です」
「無理してるのは、なつよ」
「え?」
「いつもそうやって、自分のことを後回しにする。時々は自己主張したって良いじゃない。誰が文句言うってのよ。なつは、我慢し過ぎ」
「奥方様ほどじゃありませんよ」
苦笑いして、なつは言った
「奥方様ほど、我慢し過ぎる方はいらっしゃいません。時々は我侭だっておっしゃいな。見ているこっちがつらくなります」
「なつ・・・」
信光の言うとおり、理解し合えているのだろうかと、そう想う
それは恐らく、なつが自分を理解し、合わせてくれるのだろうとも
「そう言えば、なつを吉法師様の乳母に推挙してくださった方がいらっしゃるんですってね」
「え?ええ」
突然話が変わり、なつは一瞬目を見開いた
「その方がいらっしゃらなかったら、吉法師様はあのように立派には育たなかったのね。どなたなの?私からもお礼が言いたいわ」
「あの・・・、孫三郎様ですけど・・・?」
「え?」
今度は帰蝶の目が丸くなる
「前の主人、元々は孫三郎様の小姓としてお勤めしてたんです。それでその後大殿に仕えることになって。それで、若の乳母にと私を推薦してくださったんですが、孫三郎様、そのこと仰らなかったんですか?」
「いいえ・・・、全然・・・」
「孫三郎様もお年なのかしら。まだまだ若いと想っていたのだけど、残念です」
はぁ・・・と溜息吐くなつに、帰蝶の頭からは汗が流れた
信長の小袖に着替え、信長軍に復帰した信盛を歓待するための宴会が始まる表座敷に向う
「そろそろお腹も出て来る頃です。つらいと想ったら、直ぐに席を立ってくださいましよ?」
「わかったわ、なつ」
先頭を歩くのは龍之介
表座敷の襖を開け、帰蝶の到着を知らせる
「行儀が悪くて、ごめんなさいね」
表座敷の上座、そこで脇息に肘を掛けて凭れる帰蝶は、信盛に詫びを入れた
「いいえ、お気になさらず。座椅子でも構いませんでしたものを、寧ろ気を遣っていただきありがとうございます」
「あなたの一門の佐之助はどうしたの?一緒かと想っていたのだけど」
「佐之助は砦の後始末に。放置していて末森に利用されるのは我慢がならないと、本格的に守城にするつもりだそうで、その普請に取り掛かっております」
「勤勉なのね。私も見習わなきゃ」
「それよりも奥方様」
「この恰好のこと?」
男物の小袖に、男物の袴姿のことを指摘するつもりだろうかと、先回りする
「確かに、そのお姿には驚かされますが、おなつ様のお話に因れば、奥方様は現在身重の躰だそうで」
「ええ」
「そのようなお体で戦場に出ざるを得なかった我らの不甲斐なさ、重ね重ねお詫び申し上げたい所存にございます」
帰蝶が来るまでに秀隆らと散々話し合ったのか、帰蝶の詳細は既に聞かされていたかのような様子である
説明する手間が省けたと、帰蝶は内心ほっとした
深々と頭を下げる信盛に、信長に対するその忠義の厚さを見る
この男も、裏切ったりはしない
そう、直感できた
「気にしないで。あの戦、出たいと希望したのは私なの。みんな反対したのよ。でもね、どうしても末森をこの手で叩き潰したかった」
「憶測だけと探るのは、余りにも危険。されどこの私も、つい先日までその末森に居た人間です」
「奥方様、松助から聞きました」
秀隆が進み出る
「殿が亡くなられた原因、やはり末森にあったと」
「 」
帰蝶の眉間に皺が寄る
「聞かせてくれる?」
「はっ」
末森での信盛の扱いは、信長に於ける秀貞と同様で、大事な軍議には一切参加させてもらえなかった
そのため、信長が道三救出に向かったあの日の軍議も、信盛は参加しておらず、詳細の一切はわからないと言う
「されど、あの日、柴田殿が数人の配下を連れ城を出たのは間違いございません」
「柴田が先導したのね?」
「確たる証拠はありません。軍事演習だと白を切られてしまえば、その証拠も見付かりません。ですが、方法は一つあります」
「何?」
「与兵衛らの話しと総合すれば、岩倉は小田井から清洲に入ったと」
「ええ」
「ならば、小田井の手前、こちらからすれば向う側になる黒井川村に岩倉の軍旗を見た者を見付けることができれば、それを証拠に末森に詰問する場を設けることができます」
「黒井川村?」
「小さな村落ですが、末森の領地に当ります」
「それじゃぁ、その村で岩倉の軍旗を見た人間が居たら、間違いなく末森が関与していたと言う証拠を突き付けることができるってことね?」
「それで、今、滝川殿が黒井川村に向いました。奥方様の到着を待つ暇が惜しいと」
「わかったわ。三左」
「はい」
「後で久助の応援に行ってくれる?久助には鉄砲隊編成もやってもらってるから、部隊も今少なくなってるわ。大変だと想うから」
「承知しました」
「松助、ありがとう」
「え?」
礼を言う帰蝶に、信盛はキョトンとした
「裏切り者と誹られることを覚悟で話してくれたのね。あなたの武士の矜持、傷付けてしまってごめんなさい」
「 いいえ・・・」
どうしてそんなことでこの人は、謝るのだろう
家臣としては当然のことをしたまでなのに、と、信盛は目を丸くする
「 私は、殿にお仕えするために大殿より派遣されました。しかし、充分な働きもできぬまま、殿にもなんの恩返しもできずお別れすることになり、それが何より心残りでございました。ですので、奥方様をお助けすることが殿への変わらぬ忠誠の証ではないかと」
「ありがとう・・・。それと、吉法師様への恩とは?」
「はい。私は佐之助に比べると、要領が悪いと申しますか」
信盛は苦笑いしながら話した
「人が五つの仕事を片付けている間、私は二つか、精々三つまでしか片付けられませんでした」
「今の松助見てると、とてもそうは想えないけどな」
秀隆の言葉に、信盛は「ははっ」と短く笑う
「殿が幼い頃の話だ。那古野城主に任命された頃のことだな」
秀隆にそう応える
「薄鈍と馬鹿にされていた私を、殿は『お前の仕事は間違いがないから、任せて安心だ』と仰ってくださったのです。私は、そんな殿のお気持ちに応えたいと必死になりました。お陰で、今の私が居ます。私を見捨てず使い続けてくださった殿には、感謝してもし足りません。ですから奥方様、あなた様のされることが殿の夢の続きなのなら、私もあなた様と共に駆け抜けとうございます。今後ともこの佐久間松助信盛、どうぞお側に置いてくださいませ」
「松助・・・」
夫の子供の頃の話、信盛の真心、帰蝶は嬉しさに口の端を緩ませた
「私の方こそ、よろしくね。吉法師様の足元にも及ばないでしょうが、河尻達同様、どうか助けになってね。一緒に、吉法師様の夢を実現させましょう」
「ははっ!」
平伏する信盛に、他の者も釣られて軽く頭を下げる
一人慶次郎だけは、少し苦笑いで帰蝶を見ていた
女でありながら男のような統率力を持つ帰蝶に、危なげなその人生を心配したのか
この日の夕刻、一益が戻って来た
「三左殿の助力のお陰で、目撃者も随分集まりました」
「本当に?」
一益の報告に、帰蝶の目も輝く
「あの日、村祭りが行なわれていたそうで、その準備に何人かの村人が夜明け前から準備に取り掛かっていたそうです。村の鎮守の社で集まっていたようですが、そこで岩倉の軍旗を掲げた軍勢を先導している者を見たと」
「それで、誰だったの?」
「柴田殿でした」
「 柴田・・・が」
勝家が市弥に従順なのは知っていたが、あの時、勝家を殺してしまわなくて良かったと、今頃になって想う
「たまたまその村に柴田殿を知っている者がおりまして、どうして末森が岩倉と行動しているのか不思議だったそうです。ただ、村は僅か百人にも満たない人口ですので、噂にしても然程広がらずそのまま立ち消えになってしまったようで」
「松助がこちらに戻って来てくれなかったら、絶対に手に入らなかった情報ね。黒井川村は末森の管轄だから、全然視野に入ってなかったわ」
「私もです。春日で情報を得られず、諦めておりました」
「それじゃぁ、その証人、清洲に連れて来れる?」
「それですが、やはり末森の管轄の住民を清洲に連れて来ると言うのは、今の段階では難しいようです。私も何とか頼んでみたのですが、殿と末森の若様の仲が悪いことは有名ですから、もし禍でも降って来たらと尻込みしております」
「それはしょうがないわね・・・。でも、他に有力な情報があるわけじゃない。久助」
「はい」
「手間でしょうが、その証人の安否保護、お願いして良いかしら」
「と言いますと?」
「今は無理かも知れないけど、いつかは証言してくれる日が来るかも知れない。心変わりでもして、と言う希望も捨て切れません。こちらが誠意を見せれば、向うも応えてくれると想うの」
「そうですね」
どんな時も決して諦めず、常に最善の方法を選ぶ
今更とは言え、一益はそれでも帰蝶の気丈振りに感嘆した
守る物が大きいと、女はここまで強くなれるのか、と
「ところで、久助」
「はい、なんでしょう」
「随分前なんだけど」
「はい」
「吉法師様に、あなたとの馴れ初めを聞いたことがあるの」
「馴れ初め、ですか」
一益らしい、短い笑い声が上がった
「突然如何なさいましたか」
「あなたが戻る前に松助の歓迎会をやっていたんだけど。ああ、あなたのご馳走、ちゃんと置いてあるわよ」
「ありがとうございます」
軽く会釈する
「松助と吉法師様の馴れ初めを聞かされたの」
「そうでしたか。松助は仕官し始めの頃、周りからその仕事振りを随分冷やかされておりましてね」
「みたいね」
「盆暗佐久間の異名まで取ったほどで」
「それも遠い昔の話しね」
「ええ。松助は努力で自分を変えました。大した男です。その話をお聞きになったのですか?」
「ええ。それで、ふとあなたのことを想い出したの。それで、あなたが帰って来たら聞いてみようかなって」
「殿は私のことをどのように仰ってたのですか?」
「伊勢の浜辺に打ち上げられていたって。本当なの?」
「 」
一瞬目を丸くして、それから豪快に笑う
「ええ、確かに打ち上げられていました」
「そうなの?」
「 私の一族は、伊勢北畠の一門である木造に仕えておりました」
「宗家に弓引く、気概のある一族ね」
「そう評価していただくには、余りにもこそばゆい」
一益は笑い顔を苦笑いに変えて続けた
「元々滝川は木造から派生したと言われておりますが、木造は我が一族を親族のように大切にしてくださいました。その木造が北畠と繰り返して来た争いで、私の一家は敗走に伊勢から逃げなくてはならないほどに追い詰められました」
「ご家族は?」
「はっ。殿の仲介で、今は木造に保護されております」
「そう・・・、よかった・・・」
心底安堵する帰蝶の顔に、一益も胸が温かくなる
「私は家族と共に船に乗り込み、伊勢からの脱出を試みました。しかし、北畠の軍艦に襲われ、船は沈み、泳いで逃げることになったのですが、某・・・泳ぎは苦手でして・・・」
「え?海辺で育ったんじゃ?」
「子供の頃、海で泳いでいましたら蛸に襲われましてな、それ以来海は苦手で苦手で」
「 」
顔を顰める一益に、帰蝶の頭からは汗が浮かんだ
「泳いで尾張に渡るつもりでしたが、途中で意識を失い、気が付けば浜辺に打ち上げられておりました」
「運が良かったのね。あなたは生きる運命(さだめ)だったのよ」
「 」
帰蝶の言葉に、一益はそっと微笑んだ
「その私を、殿が見付けてくださったのです」
「それも、運命の巡り合わせだったのね」
「そうかも知れません。殿は見付けた私にこう仰いました」
「お前、魚人か?」
「 」
信長の言葉に、帰蝶は一瞬目を丸くして、それから吹き出す
「魚人・・・て・・・」
「私は、その答えに『魚人になりそこなったもぐらだ』と返事しました。そうしたら殿、なんて言ったと想います?」
「さぁ」
「ちょうどもぐらが欲しかったんだ。うちに来い。 って」
「吉法師様・・・・・・・・」
「素性も知れぬ私を、殿は何も聞かず拾ってくださいました。私はその時、心に誓ったのです。『この方に着いて行こう』と・・・」
「そう言う馴れ初めだったのね・・・。あなたが一生懸命に尽くしてくれる理由が、少しわかったような気がするわ」
一益から全てを聞き、帰蝶は信長を想い胸が熱くなる
「私は、幼いながらにあれほどの器を持った御仁を知りません。全てを受け入れるだけの広い器を持った方を知りません。奥方様。末森と斎藤が殿を殺したのだとすれば、奥方様の仇は私の仇でもございます。この滝川久助一益、その敵討ちに身命注ぎたいと考えております。いかなる指令も受ける所存、今後も一益を扱き使ってくださいませッ」
「 久助・・・」
其々が其々に信長との想い出を秘め、其々が其々に信長の仇討ちを決意している
信長が死んでつらいのは、自分だけじゃなかったのだと、半年が来て漸く気付く帰蝶だった
末森との激突以降、特に変わったことは起きなかった
精々美濃の岐阜屋から請求書が届いたくらいで
「 船渡し賃・・・?」
「木曽大橋を封鎖している間、美濃と尾張の行き来をうちの実家が船渡しをしていたんですが、利用者には無償で提供していたんだそうです」
お能が申し訳なさそうな顔で説明する
「その船の利用請求が、今届いたって訳なのね」
「直ぐに請求するのも大変だろうって・・・」
「後から来ても大変な物は大変よ。何、この請求額」
「あっ、あのっ、それでしたら分割にしてもらうよう、頼んでみますけど・・・っ」
「足元見られて笑われるのは我慢ならないわ。吉兵衛に言って、支払って来てッ」
帰蝶は大きく膨れた腹を抱えて叫んだ
「織田が民間に支払いを滞納してるなんて世間に知られたら、良い笑い者よ!」
年が明け、帰蝶の腹は一層膨れた
細い躰に大きな腹を抱えひょこひょこ歩く姿は、今居る信長家臣みなの期待を背負っているようにも見える
「もうそろそろですかね」
「まだでしょう」
「何かあったらおなつ様が知らせてくれますよ」
帰蝶の腹を励みに、秀隆らも日々の勤めに勤しむ
信長の遺した尾張下四郡の治安維持、軍事拡大、商業発展
全てを帰蝶の代わりにと、その意気込みも大きい
雪が深くなる二月、遂にその時がやって来た
朝から帰蝶の寝室に女達が忙しなく出入りする
隣にある帰蝶の私室の縁側には、集まれるだけ家臣らが集まった
「いよいよか」
帰蝶の懐妊がわかってから暇を持て余していた慶次郎ですら、正座をしてじっと膝を抱えている
「姉上、がんばって・・・!」
弟の利治は、気が気でない顔をして、姉の部屋の障子を見詰めていた
「ああああああああ、なんか瑞希が生まれた日を想い出すなぁ・・・」
落ち着かない様子に、弥三郎は縁側の下の庭をうろちょろと、じっとできない
「医者はまだか」
「今、又助さんが呼びに行ってますよ」
長秀と恒興の言葉が続く
その恒興も、妻の千郷が帰蝶の出産の手伝いに部屋に籠っている
様子を聞こうにもまだ幼い千郷は、廊下に出ても精々使い走りで城を駆け回っており、捕まえるに捕まえられなかった
「奥方様、どうかご無事で・・・ッ」
「ほら、いきんで!」
助産は四人の子供を産んでいるお能が務めた
周りの女はその殆どが出産経験者であるため、心強い
医者の到着も必要はないんだろうが、万が一の事を考えての出番である
「呼吸を整えて、もう一度!」
「い、痛いぃぃぃー!」
日頃弱音など吐かない帰蝶ですら、陣痛の痛みには耐え切れない
ずっと悲鳴を上げていた
「息を吸って!深く!はい!吐いて!いきんで!」
お能の指示に従って深呼吸、いきみ、を繰り返す
その間に「痛い」「痛い」と叫びを上げた
「がんばってください、奥方様!」
なつは帰蝶の手を握り締め、信長の代わりに励ました
「吸って!深く吸って!はい!吐いて!」
「んっ・・・!んんんっ!」
額と言わず全身が汗まみれ
痛い、痛いと叫んでも、つらい、つらいとは叫ばない
誰もが心待ちにしていた
帰蝶自身、それを待ち望んでいた
信長の命が帰って来ることを
その瞬間を
「いきんで!」
「んーッ!はぁッ!」
息が塊となって帰蝶の口から吐き出される
「もう一度!」
「奥方様ッ!」
「んーッ!」
早く、帰って来て
吉法師様・・・・・・・・・
「頭が見えて来ましたよ!もう少しです、奥方様!」
「んーッ!」
「昼餉、如何なさいますか?縁側に運びましょうか」
龍之介が、やって来た
「今はそれどころじゃねぇ!」
真冬の寒さに、誰も部屋の中に入ろうとはしなかった
朝からずっと縁側に居て、祝賀の瞬間を心待ちにしている
縁側に並ぶ男の人数が増えていた
外回りから戻って来た利家がちょこんと座っている
代わりに弥三郎が外回りに出ていた
入れ替わるように一益が戻り、長秀が本丸に戻る
そうやって交代交代に縁側に座る男が入れ替わり立ち代り、やがて
「お生まれになられました!」
千郷が障子を開けて知らせてくれた
「立派な若子(わこ)様です!」
「うおぉぉぉぉ ッ!」
歓喜の怒号が庭中に響いた
戦に勝った以上の喜びようである
反発している利治ですら、慶次郎と抱き合って喜んだ
「やった!やった!やったーッ!」
「若子様だってよ!お前の姉貴、やったじゃねーか!」
庭の大騒ぎが聞こえる中、帰蝶は床の中で産み落とした子に初乳を飲ませていた
「真っ黄色・・・」
その鮮やかな黄の色に帰蝶は目を丸くしている
「次に与える時は、乳の色をしていますよ。安心してください」
そう、お能が言ってくれた
「吉法師様の、子・・・」
腕の中の我が子に、帰蝶の目も潤む
「若のお子なんですね、若のお子なんですね・・・」
なつは最早、涙腺が決壊状態だった
「おめでとうございます、立派にお勤めを果たされましたね。ご立派です、奥方様」
「ありがとう・・・」
一生懸命、自分の乳首を咥えている小さな我が子に、帰蝶はありったけの愛情の眼差しを注ぐ
「お名前は、お決めになられていますか?」
菊子が、号泣しているなつの代わりに聞いた
「ええ」
「若のお子、若のお子・・・。若に、そっくりですよ、奥方様・・・」
おー、おー、と泣きながら、なつは言った
「本当?」
「この鼻の高さ、本当に、若に生き写しで・・・」
そしてまた、おー、おー、と泣き叫ぶ
子の側で咽び泣くなつを、腕越しに眺めている帰蝶も微笑んでいた
「お名前は?又助さんが、紙に命名を書く準備してますよ」
「そう」
「なんて、お付けになられますか?」
誰もが優しい表情で帰蝶の言葉を待っている
その中で、帰蝶はたおやかな声で応えた
「 帰命」
帰命、は、仏語で「心から仏や、仏の教えに従う」ことであるとされるが、本来の意味は梵語で「礼拝」、「崇拝」を現す言葉である
宗教が自分達の都合で、言葉を好き勝手に変えてしまっていた
帰蝶は信長を崇拝している
今もその気持ちに変わりはない
また、信長は自分に教えを説く仏にも似た存在だった
生まれた子が男だろうが女だろうが、帰蝶は『帰命』と名付ける心積もりだった
そして、それは夢でもあった
経緯はともあれ、一度は流産した経験を持つ
今度の子も無事生まれるかどうか、ずっと不安だった
夢が一つ、叶った
「吉法師様にも、抱かせてあげたかった・・・」
「奥方様・・・・・・・・」
穏やかな微笑みでそう言う帰蝶に、なつは涙でぐちゃぐちゃになった顔を向た
この世で誰よりも、この子の誕生を待ちわびていた人が、この世に居ない無情さ
それでも帰蝶は微笑んでいる
女は、母になると強くなることを、なつは帰蝶を目に感じ入ったような気分になれた
帰命の眠る部屋の壁に、資房が心を込めて書いた和紙が貼り付けられた
命名 帰命
信長が姿を変えて戻って来た、と、誰もが信じて疑わない
そして、生まれたばかりの帰命を、信長の後継者として既に認めた
これからの自分達の使命は、この帰命丸を守ることだと、誰もがその想いを自然と胸に抱き締めた
守らなくてはならない命
この世でたった一つの命
掛け替えのない、大切な命
それを守るのは、自分達だ、と
九月に入り、帰蝶の悪阻が激しくなった
些細なことがきっかけで、日に何度も嘔吐を繰り返す
これでは仕事にならんと、局処に帰された
帰蝶不在の際は一番年長者である資房が受け持つことになったが、それだけの力量があるわけでもなく、本丸の仕事をせっせとせっせと局処に運ぶ
運ぶ度に
「おえぇぇぇぇーッ!」
と、吐いている帰蝶を目の当たりにして、気の毒で仕方がなかった
「お、奥方様・・・、追加の書類です・・・」
「悪いわね、又助。何度も来させて・・・うぇぇぇぇぇーッ!」
「
なんとも応えられず、資房は困ったような顔をして笑うしかできない
「悪阻は、そう長く続く物ではないから、安定したら本丸で仕事もできるようになるでしょう。太田殿、今しばらくお願いしますね」
「はっ!この太田又助資房、奥方様のためなら何度でも局処に走る所存。何なりとお申し付けくださいませ!」
「じゃぁ、この桶を綺麗にして来てくれる?」
と、帰蝶の嘔吐物の入った桶を手渡される
「
苦笑い以上に、絶句しかできなかった
稲生での戦いの後、末森の土田御前から速攻で詫びが入った
自分の監督不行き届きだったと
しかも、信長本人にではなく、貞勝に
信長に頭を下げるのは耐えられない
その代わりとなる帰蝶には、もっと
その次の権力者であるなつとは、信秀を巡って若い頃の確執がある
ならばと、なつの名代でもある貞勝に頭を下げたらしい
「この度の不始末、私からも勘十郎には充分叱り付けました。吉法師・・・殿には多大なご迷惑をお掛けしたこと、心よりお詫び申し上げます」
自分に平伏する市弥を、貞勝はなんとなくぼんやりと見た
守山騒動で可成、弥三郎の解放交渉に上がった時、自分を門前払いをした女性とは、とても想えない
「柴田、林兄弟も、織田を想ってのこと。それをどうか汲んで下さるよう、殿に仲介お願い申したい所存。どうか寛大なご処置をお願い致します」
「御前様のお気持ちは、充分理解できました」
「では」
「殿にはなんとか、事無きよう取り図らせていただきます」
「よろしくお願い申し上げます、村井殿」
何度も何度も自分に平伏する市弥が、寧ろ哀れでしょうがなかった
「
この時の帰蝶は、それどころじゃなかった
「うぇ・・・」
軽く吐き気を催し、
「そんなのどうでも良いわよ、もう。おえぇぇぇぇぇーッ!」
「
実際、どうでも良いわけがなかった
夫が死んだ原因が末森にあるのなら、徹底的に断罪してやりたい
だけど、それが『戦』と言うものなら不承でも納得するしかなかった
それが『時代』と言うものなのだから
家督争いで兄弟同士の骨肉の争いは、今に始まったことじゃない
何処の家でも多かれ少なかれ起きている
夫はただ、父を救おうとしただけだ
斎藤の争いに巻き込まれて死んだのなら、時間は掛かろうがいつかは理解できる
帰蝶が理解できないのは、岩倉を引き入れたのが末森ではないかと言う疑念だった
その証拠がない
証拠がないから探している
斎藤とは断絶した
夕庵との連絡は未だ取り合っているが、頻繁にと言うのは無理だった
頼りの綱だった明智家は一家離散
義叔母のしきは越前の親戚の家に入り、保護を受けている
従兄妹の光秀夫妻は家臣・子供共々行方不明
光秀の調略により父に味方するはずだった土田家は、親子で敵味方に分かれ、父に味方した政久は自刃、息子親正はべったり義龍寄りの立場であった
明智の旧領地を取られて堪るかと、末森との激突前に景任の遠山一族と結託し、領地は全て遠山家が管理するようになった
相手が相手だけに土田もそうそう手は出せず、今現在、斎藤と組んで遠山一族に戦を仕掛ける準備があるらしいとの噂も流れ始めていた
帰蝶には、考えること、やらねばならないことがたくさんある
その上妊娠中の悪阻に苦しんでいる状況だ
後回しにできることは後回しにし、先に済ませねばならないことは先に済ませる
そうでなければとてもではないが、一人では切り盛りなどできない
そんな帰蝶の許に義龍から手紙が届いた
「我、完敗なり。されど次の一手差し向けるべし。手合わせ願う。
「允可?」
兄の書き記したその言葉に、帰蝶は首を傾げた
「どうも斎藤の殿は、ご自分のことを『允可』と自称なさっておいでのようです」
「自称?」
可成の言葉に、帰蝶は眉間を寄せた
「誰の許しを乞いたいの?」
「さあ」
『允可』とは、『許すこと』である
赦免のような重い意味ではなく、軽い意味合いを持つが、帰蝶は何故兄がそんな言葉を名前の代わりに使い始めたのか、その真意がわからなかった
兄は何を悔い、何に後悔しているのか
「お返事、なさいますか」
可成はそっと聞いた
「当然でしょ。紙と筆!」
怒り心頭の帰蝶は、和紙にでかでかと『くそくらえ』と書いてやった
予想通りの帰蝶の反応に満足した義龍は、笑いに笑ったと言う
「
名塚の砦から佐久間信盛が引き上げて、正式に信長軍に復帰した
その信盛と、度重なる援助を送ってくれる信長叔父・信光が清洲に上がり、信長との謁見を申し出た
逢わせてやりたくとも、信長は冷たい土の中だ
逢わせられるわけがない
言い逃れをしようにも、この二人にはそれが無理だと帰蝶は知っている
今後の織田のことを考えても
帰蝶は局処の自室、信長の仏壇の前に二人を案内した
案の定、言葉を失って随分経っていた
この頃信長の小袖を羽織っていた帰蝶だったが、男姿で出るわけにも行かず久し振りに女物の小袖を着る
帯が苦しくて、何度も吐き気に襲われた
そんな気持ちの悪さを必死で押え、二人と面会する
「今まで黙っていたこと、どうかお許しくださいませ」
悪阻がまだ治まらぬ胸焼けを抱えながら、帰蝶は二人に頭を下げた
「
叔父の信光が、漸く口を開く
「今年、春」
「春・・・?」
「ど・・・、どこで・・・。殿は、どこでお亡くなりに・・・」
「ここ、清洲で」
「何故、どうしてですか。何が原因で・・・。病、でしょうか・・・。大殿のように・・・」
信盛の声が震えていた
「いいえ」
「では、何故・・・!」
「今年春、美濃、長良川に於いて父と兄が争いました」
「聞いております。お父上様には、お気の毒なことを・・・」
「まさか、殿はその時・・・・・ッ」
信盛の目が見開いた
「
「
信盛は立ち上がり掛け、信光は余りのことに腰が抜けて膝が崩れた
「織田上総介信長は、我が父の救援のため木曽川を越え、長良川に到着する前、敵の攻撃を受け
「そっ、そんな・・・」
信盛の膝が、ガクッと崩れた
「何故知らせてくれなんだ」
「申し訳ございません」
「織田を乗っ取るつもりだったかッ!」
「孫三郎様、それは余りにも過ぎた言葉でございます!」
控えていたなつが、咄嗟に帰蝶を庇う
「織田を乗っ取るつもりならば、とっくの昔に乗っ取っております!奥方様は、その逆に織田を守ろうと末森だけではございません、ご実家である斎藤とも戦うおつもりなのです!」
「なつ」
「斎藤、とも・・・?」
「奥方様、それは真でございますか・・・ッ」
「
帰蝶は真っ直ぐ信盛を見詰め、応えた
「織田は、私にとっても掛け替えのない大切な家。守りたい、夫の代わりに。我が力及ばざるとも、身命に懸けて織田を守りたい。この気持ちに嘘偽りはありません」
意志の強い目をし、きっぱりと言い切る帰蝶
その上、織田家の信任も厚いなつが着いていると言うことは、帰蝶に織田家乗っ取りの意志はないと言うことだ
「
「もしも私が孫三郎様の信頼を裏切るような真似をすれば、その場でこの首、捧げまする」
「
ゆっくりと頭を下げる帰蝶に、信光は聞いた
「何故、吉法師の死を隠し通していた」
「吉法師様のご遺言。そして、尾張の混乱を避けるため」
「吉法師の遺言?」
「このなつが受けました。織田の全てを奥方様に譲渡すると。信長の財産の一切を奥方様に委ねると」
「織田の全て・・・・・・・・」
「勿論、それは吉法師様が所有されるだけの範囲内のことでございます。孫三郎様の財産は範疇にありません」
「そうか。
「はい」
「吉法師は、何をそなたに託した」
「
帰蝶は、信長の夢、信長の描いた理想を語り聞かせた
始めは信じられない顔をしていた信光や信盛も、やがて帰蝶の話しにのめり込む
「武家支配ではない、新しい時代?」
「勿論、我ら武家が消えてしまうわけではございません。武家は民を指導する立場に変わるだけで、今までどおり領地を守る役目も変わりません」
「しかし、それでは武力放棄ではございませんか。他の誰が賛同すると言うのですか」
信盛の意見は最もだった
「それを理解するには、新しい時代をその目で見てもらうしか方法はないわ」
「その、『新しい時代』をどうやって切り拓く」
「今、暗中模索の段階です」
「随分悠長な話だな」
「ですが、やってみる価値はあります」
信光は信秀と同じく、信長の想いを否定する側に回っている
それはやはり、仕方のないことだった
武家に生まれたのだから
だが、諦めるわけにはいかなかった
夫の夢が懸かってるのだ
「今の世を、違う視点から眺めてみれば、吉法師様がしようとしていたことの意味が、おわかりになると想います。一方向からだけではなく、多方向から」
「それで何が見える」
「新しい未来が見えます。民が笑っている未来が見えます。それに寄り添う我ら武家の姿が見えます。孫三郎様、どうか、どうか!」
帰蝶は具合の悪い体を押して平伏した
「今しばらく、吉法師様の夢、温めさせてくださいませ!」
「嫁御殿・・・」
「なつからも、お願い申し上げます、孫三郎様・・・ッ」
「
帰蝶に倣って自分も平伏するなつに、信光は目を細めた
「上下身分のない世の中、確かに話は聞いた。だが、実現するには相当の道程が必要だぞ?嫁御殿」
「
帰蝶は信光と二人、局処の縁側に腰掛け茶を啜っていた
「その覚悟はできているのか」
「覚悟がなければ、このように胸の内を明かしたりは致しません」
「
甥の遺した頼もしい嫁は、微笑む姿までキラキラと輝いている
それは途方もない夢を追い駆けた、大きな野望を抱える武人にも見えた
「
「孫三郎様・・・」
「若いそなたは知らぬかもしれんがな、池田は昔、兄上を巡って土田御前とは大喧嘩までした気性の激しい女でな」
「なつが・・・ですか?」
突然昔話を始めた信光に、帰蝶は目を丸くする
そのなつは信盛と末森の話をしていた
末森に預けられている、娘の稲のことでも話しているのだろうか
「池田の前夫は、勝三郎が池田の腹に居た時に死んだ。今のそなたと同じ状況だ」
「
「しばらくは先夫の残した財産で食い繋いでいたが、元々そんなに家禄が高いわけではない。それに、部下達を養わなくてはならないしな」
「
「収入はない。支出ばかりが嵩む。相当困窮した状況だった。それでもなんとか遣り繰りをして勝三郎を生んだが、弱り目に祟り目と言うのか、古くから仕えていた部下に、残りの財産全てを持ち逃げされてしまってな」
「え・・・?」
驚きに、帰蝶の目は見開かれ、口はぽかんと開いたままで、閉じることができなくなった
そんな話、今まで一度も聞かされたことがなかったからだ
「屋敷を担保に金を借り、それで暮らしていたが、稼いでくれる夫が居ない。池田の実家も、近江の六角に取り潰され、帰る場所がない。そなたなら、どうする」
「
「正直だな。わしはそうは想わんが」
「え?」
「そなたも中々強かな女に見える。何とでも食い繋ぐ方法を考えそうなものだが」
「
誉められているのか貶されているのかわからず、苦笑いしか浮かべられなかった
「そんな時だ。那古野で吉法師の乳母を探していたのを、誰だったか忘れたが、池田を推薦した者がおってな」
「そうだったんですか・・・。それで、なつは吉法師様の乳母に・・・」
「大変だったと想うぞ?乳飲み子を抱えて、他人の子を育てなきゃならんのだ。それでも池田は笑いながら吉法師を育てよった」
「はい。なつは愛情に溢れた、素晴らしい女性だと想います。なつでなければ、吉法師様はあんなにもすくすく育たなかったと想います」
「嫁御殿」
「時には厳しく、時には温かく、見る者全てを幸せにしてくれる。私は、なつが側に居てくれて本当に、嬉しいんです。それに、なつがそんなにも立派な女性だということを教えてくださった孫三郎様にも、感謝申し上げます」
「いやいや」
信光は笑いながら自分の頭を撫でた
「聞かん坊な吉法師を、池田は苦労しながらも言うことを聞かせ、それはかなりの根気が必要だっただろう。母親ですら見捨てた子だ。増してや他人の池田にはもっと、扱いにくかっただろうな。それでも池田は吉法師を見捨てず、いつも情を掛けて育てた。その池田の力量を認めて、兄上は自分の側室にと、池田を迎え入れたんだ」
「そんなことが」
「ところが、だ」
「はい」
急転直下だろうか、信光の口調が若干早くなった
「側室に入った池田が、兄上との同褥を断りよってな」
「え?」
「息子の勝三郎が親離れするまで、次の子は産みたくないと拒絶しよったんだ」
「なつったら・・・」
信光の話しに、帰蝶は想わず苦笑いした
「勝三郎は大事な、池田家のたった一人の跡取りだから、立派に育てる責任があると。それを果たすまでは、誰の子であろうが産む気はないときっぱり言い切りよってな、それじゃぁ側室の意味がないと、土田御前と大喧嘩」
「そう言うわけだったんですか。なつらしい」
「しかも、そんな池田を兄上は手も出さず寵愛しよって。まぁ、だからと言って、兄上は好色でも有名だったからな、他の女に手出しせずと言うわけではなかったが、それから池田は兄上の片腕的存在になってな」
「それで土田御前様はなつを警戒してたんですね?」
「そうだ。自分の立場が危うくなるのではないか、と、心配して」
「土田御前様の不安は理解できますが、無用な心配ですね。なつに限って、そんな過ぎた真似はいたしません」
「そなた、よほど池田とは理解し合える仲と見る」
「
「吉法師も、しょっちゅう池田には叱られていた。だがな、情のある叱咤はその者を育てるが、愛情のない叱咤はその者を傷付けるだけだ」
「孫三郎様・・・」
その通りだと、帰蝶は想った
なつは、確かにすぐ怒鳴り散らすが、その先にはいつも、間違いを正してやりたいと言う愛情が見えていた
だからこそ、帰蝶もなつに怒鳴られるのを不快に感じたことがない
「池田は吉法師に愛情を掛け、母親の分も手塩に掛け、吉法師を育てた。多少破天荒なところもあったがな、それは決して責められるべきことではない。織田の中で誰よりも、織田の未来を考えていたのかも知れんな。嫁御殿の話を聞いていると、そう想えるようになった」
「
帰蝶はそっと頭を下げた
「織田の未来、わしもそなたに託す。どうか、尾張の民を幸せにしてやってくれ」
「孫三郎様・・・ッ」
「ここに来る途中、清洲の町を少しぶらついてみた。みんな、生き生きした顔をしていた。ついこの間、岩倉に襲撃されそうになったとは想えんくらいにな。気概を感じた。この町は、自分達で守るんだ、と言う気概をな。吉法師は、それを望んでいたのだな」
「
夫を理解してくれた人が居た
夫のやろうとしていたことを理解(わか)ってくれた人が居た
今、自分の目の前に
幼い頃から信光は、数少ない信長の理解者だったと言う
それは決して、賛辞でも世辞でもなく、本当に、心から理解してくれていたのだと知った
武家の柵でそれを表に出せなかっただけで、父親の信秀と同様、心の芯は信長を信じてくれていたのだと
涙が出そうになったのを、帰蝶は必死で堪えた
もう泣かないと、夫に誓ったから・・・・・・・・・
「それではな、また困ったことがあったら何でも相談してくれ」
「ありがとうございます」
なつと二人、門前まで信光を見送る
「孫三郎様」
「なんだ、嫁御殿」
「また、吉法師様のお話、聞かせてくださいませ」
「ははは、それならそこにいる池田に聞けばよかろう?誰よりも吉法師と共に過ごしていたのだから」
「だってなつったら吉法師様の愚痴しか聞かせてくれないんですもの」
「しょうがないでしょう?若にはどれだけ煮え湯を飲まされて来たと想うんですか。若には不平不満はあっても、誉めれるようなことなど何一つありませんっ」
「池田」
そんななつを、信光が抑える
「照れるでない。そなたの悪い癖だ」
「え・・・・・・・・・」
「そなたは、誰よりも大事に想っている者を、すぐ貶す癖がある。己に正直であれ。吉法師は、そなたの手で真っ直ぐ育ったのだ。自慢に値するぞ?」
「孫三郎様・・・・・・・・・・」
その言葉に、なつは涙ぐんで俯いた
「嫁御殿」
なつを微笑ましい表情で見ている帰蝶に戻る
「はい、孫三郎様」
「今度逢う時は、『叔父上』と呼んでもらえるかな?」
「え?」
「『信長』として、生きる決意を固めたのであろう?ならばわしは、そなたの叔父だ。それ相応の呼び方があって然るべきではないのかな?」
「
「なぁに、構わん。わしもな、吉法師が死んだと聞いて、がっくりした。だが、そなたが吉法師の代わりであるならば文句はない」
「
そこまで理解してくれたのかと、嬉しい気持ちが溢れる
「ただし、だ」
「はい」
「つらいと想ったら、少し立ち止まり、そして、休むが良い。そなたの周りには、羽を休める止まり木がたくさんある。どれでも選り取りみどり、選びたい放題じゃ」
「
涙で目を潤ませているなつを、帰蝶は微笑んで見詰めながら返事した
「末森でも良い、岩倉でも良い。どちらでも動いた時は、直ぐに知らせろ」
「承知しました」
局処に戻り、帰蝶は布団を敷きっ放しにしている寝室に入り、躰を横にした
「お加減、如何ですか?」
その後をなつも入る
「少し疲れた・・・」
「そうでしょうね、随分お話が盛り上がっていたようですし」
なつは苦笑いして言った
「なつの方は、どうだったの?」
「え?」
「末森預かりになっている娘さんのこと、聞けた?」
「
少し、元気が薄れる
「どうかしたの?」
帰蝶は横になったまま聞いた
「いえ、なんでもありません」
「なんでもないのに、そんな悲しそうな顔をするの?なつは」
「
それは自分でも自覚していなかった
少しだけ、なつの眉間が寄っている
「言って。私にできることなら、何でもしてあげたいの」
「奥方様・・・・・・・・」
「どうかしたの?稲姫」
「
苦笑いに首を傾げながら、なつは告白した
「末森の局処で、・・・・・・・疎外扱いされていると」
「あなたの娘だから?」
「
なつは黙って頷いた
「私が生んだ娘ですが、大殿の娘でもあります。ですから、私の勝手でどこかに移動させるなど、できません。今は耐えてもらうしか・・・・・・・・」
「大丈夫よ、なつ」
「奥方様・・・・・・・・」
「あなたの娘さんですもの。虐めなんかに負けるはずがないわ。いつか自由になることを信じて、きっと耐えてらっしゃる。なら、母親のあなたがするべきことは、その娘を信じることじゃないの?」
「はい・・・・・・・・・・・」
「手紙、書いてあげなさいな。暇がないのなら、自分で作らなきゃ、ね?」
「そうですね」
頼りなく苦笑いしながら、なつは応える
「末森の反乱、できる限り早く鎮静化させるから、もう少し待って」
「無理なさらないで下さい。今は清洲のことで精一杯なのでしょう?それに、大事な躰ですもの。稲のことは、後で結構です。そんな風に気を掛けてもらえただけで、充分です」
「無理してるのは、なつよ」
「え?」
「いつもそうやって、自分のことを後回しにする。時々は自己主張したって良いじゃない。誰が文句言うってのよ。なつは、我慢し過ぎ」
「奥方様ほどじゃありませんよ」
苦笑いして、なつは言った
「奥方様ほど、我慢し過ぎる方はいらっしゃいません。時々は我侭だっておっしゃいな。見ているこっちがつらくなります」
「なつ・・・」
信光の言うとおり、理解し合えているのだろうかと、そう想う
それは恐らく、なつが自分を理解し、合わせてくれるのだろうとも
「そう言えば、なつを吉法師様の乳母に推挙してくださった方がいらっしゃるんですってね」
「え?ええ」
突然話が変わり、なつは一瞬目を見開いた
「その方がいらっしゃらなかったら、吉法師様はあのように立派には育たなかったのね。どなたなの?私からもお礼が言いたいわ」
「あの・・・、孫三郎様ですけど・・・?」
「え?」
今度は帰蝶の目が丸くなる
「前の主人、元々は孫三郎様の小姓としてお勤めしてたんです。それでその後大殿に仕えることになって。それで、若の乳母にと私を推薦してくださったんですが、孫三郎様、そのこと仰らなかったんですか?」
「いいえ・・・、全然・・・」
「孫三郎様もお年なのかしら。まだまだ若いと想っていたのだけど、残念です」
はぁ・・・と溜息吐くなつに、帰蝶の頭からは汗が流れた
信長の小袖に着替え、信長軍に復帰した信盛を歓待するための宴会が始まる表座敷に向う
「そろそろお腹も出て来る頃です。つらいと想ったら、直ぐに席を立ってくださいましよ?」
「わかったわ、なつ」
先頭を歩くのは龍之介
表座敷の襖を開け、帰蝶の到着を知らせる
「行儀が悪くて、ごめんなさいね」
表座敷の上座、そこで脇息に肘を掛けて凭れる帰蝶は、信盛に詫びを入れた
「いいえ、お気になさらず。座椅子でも構いませんでしたものを、寧ろ気を遣っていただきありがとうございます」
「あなたの一門の佐之助はどうしたの?一緒かと想っていたのだけど」
「佐之助は砦の後始末に。放置していて末森に利用されるのは我慢がならないと、本格的に守城にするつもりだそうで、その普請に取り掛かっております」
「勤勉なのね。私も見習わなきゃ」
「それよりも奥方様」
「この恰好のこと?」
男物の小袖に、男物の袴姿のことを指摘するつもりだろうかと、先回りする
「確かに、そのお姿には驚かされますが、おなつ様のお話に因れば、奥方様は現在身重の躰だそうで」
「ええ」
「そのようなお体で戦場に出ざるを得なかった我らの不甲斐なさ、重ね重ねお詫び申し上げたい所存にございます」
帰蝶が来るまでに秀隆らと散々話し合ったのか、帰蝶の詳細は既に聞かされていたかのような様子である
説明する手間が省けたと、帰蝶は内心ほっとした
深々と頭を下げる信盛に、信長に対するその忠義の厚さを見る
この男も、裏切ったりはしない
そう、直感できた
「気にしないで。あの戦、出たいと希望したのは私なの。みんな反対したのよ。でもね、どうしても末森をこの手で叩き潰したかった」
「憶測だけと探るのは、余りにも危険。されどこの私も、つい先日までその末森に居た人間です」
「奥方様、松助から聞きました」
秀隆が進み出る
「殿が亡くなられた原因、やはり末森にあったと」
「
帰蝶の眉間に皺が寄る
「聞かせてくれる?」
「はっ」
末森での信盛の扱いは、信長に於ける秀貞と同様で、大事な軍議には一切参加させてもらえなかった
そのため、信長が道三救出に向かったあの日の軍議も、信盛は参加しておらず、詳細の一切はわからないと言う
「されど、あの日、柴田殿が数人の配下を連れ城を出たのは間違いございません」
「柴田が先導したのね?」
「確たる証拠はありません。軍事演習だと白を切られてしまえば、その証拠も見付かりません。ですが、方法は一つあります」
「何?」
「与兵衛らの話しと総合すれば、岩倉は小田井から清洲に入ったと」
「ええ」
「ならば、小田井の手前、こちらからすれば向う側になる黒井川村に岩倉の軍旗を見た者を見付けることができれば、それを証拠に末森に詰問する場を設けることができます」
「黒井川村?」
「小さな村落ですが、末森の領地に当ります」
「それじゃぁ、その村で岩倉の軍旗を見た人間が居たら、間違いなく末森が関与していたと言う証拠を突き付けることができるってことね?」
「それで、今、滝川殿が黒井川村に向いました。奥方様の到着を待つ暇が惜しいと」
「わかったわ。三左」
「はい」
「後で久助の応援に行ってくれる?久助には鉄砲隊編成もやってもらってるから、部隊も今少なくなってるわ。大変だと想うから」
「承知しました」
「松助、ありがとう」
「え?」
礼を言う帰蝶に、信盛はキョトンとした
「裏切り者と誹られることを覚悟で話してくれたのね。あなたの武士の矜持、傷付けてしまってごめんなさい」
「
どうしてそんなことでこの人は、謝るのだろう
家臣としては当然のことをしたまでなのに、と、信盛は目を丸くする
「
「ありがとう・・・。それと、吉法師様への恩とは?」
「はい。私は佐之助に比べると、要領が悪いと申しますか」
信盛は苦笑いしながら話した
「人が五つの仕事を片付けている間、私は二つか、精々三つまでしか片付けられませんでした」
「今の松助見てると、とてもそうは想えないけどな」
秀隆の言葉に、信盛は「ははっ」と短く笑う
「殿が幼い頃の話だ。那古野城主に任命された頃のことだな」
秀隆にそう応える
「薄鈍と馬鹿にされていた私を、殿は『お前の仕事は間違いがないから、任せて安心だ』と仰ってくださったのです。私は、そんな殿のお気持ちに応えたいと必死になりました。お陰で、今の私が居ます。私を見捨てず使い続けてくださった殿には、感謝してもし足りません。ですから奥方様、あなた様のされることが殿の夢の続きなのなら、私もあなた様と共に駆け抜けとうございます。今後ともこの佐久間松助信盛、どうぞお側に置いてくださいませ」
「松助・・・」
夫の子供の頃の話、信盛の真心、帰蝶は嬉しさに口の端を緩ませた
「私の方こそ、よろしくね。吉法師様の足元にも及ばないでしょうが、河尻達同様、どうか助けになってね。一緒に、吉法師様の夢を実現させましょう」
「ははっ!」
平伏する信盛に、他の者も釣られて軽く頭を下げる
一人慶次郎だけは、少し苦笑いで帰蝶を見ていた
女でありながら男のような統率力を持つ帰蝶に、危なげなその人生を心配したのか
この日の夕刻、一益が戻って来た
「三左殿の助力のお陰で、目撃者も随分集まりました」
「本当に?」
一益の報告に、帰蝶の目も輝く
「あの日、村祭りが行なわれていたそうで、その準備に何人かの村人が夜明け前から準備に取り掛かっていたそうです。村の鎮守の社で集まっていたようですが、そこで岩倉の軍旗を掲げた軍勢を先導している者を見たと」
「それで、誰だったの?」
「柴田殿でした」
「
勝家が市弥に従順なのは知っていたが、あの時、勝家を殺してしまわなくて良かったと、今頃になって想う
「たまたまその村に柴田殿を知っている者がおりまして、どうして末森が岩倉と行動しているのか不思議だったそうです。ただ、村は僅か百人にも満たない人口ですので、噂にしても然程広がらずそのまま立ち消えになってしまったようで」
「松助がこちらに戻って来てくれなかったら、絶対に手に入らなかった情報ね。黒井川村は末森の管轄だから、全然視野に入ってなかったわ」
「私もです。春日で情報を得られず、諦めておりました」
「それじゃぁ、その証人、清洲に連れて来れる?」
「それですが、やはり末森の管轄の住民を清洲に連れて来ると言うのは、今の段階では難しいようです。私も何とか頼んでみたのですが、殿と末森の若様の仲が悪いことは有名ですから、もし禍でも降って来たらと尻込みしております」
「それはしょうがないわね・・・。でも、他に有力な情報があるわけじゃない。久助」
「はい」
「手間でしょうが、その証人の安否保護、お願いして良いかしら」
「と言いますと?」
「今は無理かも知れないけど、いつかは証言してくれる日が来るかも知れない。心変わりでもして、と言う希望も捨て切れません。こちらが誠意を見せれば、向うも応えてくれると想うの」
「そうですね」
どんな時も決して諦めず、常に最善の方法を選ぶ
今更とは言え、一益はそれでも帰蝶の気丈振りに感嘆した
守る物が大きいと、女はここまで強くなれるのか、と
「ところで、久助」
「はい、なんでしょう」
「随分前なんだけど」
「はい」
「吉法師様に、あなたとの馴れ初めを聞いたことがあるの」
「馴れ初め、ですか」
一益らしい、短い笑い声が上がった
「突然如何なさいましたか」
「あなたが戻る前に松助の歓迎会をやっていたんだけど。ああ、あなたのご馳走、ちゃんと置いてあるわよ」
「ありがとうございます」
軽く会釈する
「松助と吉法師様の馴れ初めを聞かされたの」
「そうでしたか。松助は仕官し始めの頃、周りからその仕事振りを随分冷やかされておりましてね」
「みたいね」
「盆暗佐久間の異名まで取ったほどで」
「それも遠い昔の話しね」
「ええ。松助は努力で自分を変えました。大した男です。その話をお聞きになったのですか?」
「ええ。それで、ふとあなたのことを想い出したの。それで、あなたが帰って来たら聞いてみようかなって」
「殿は私のことをどのように仰ってたのですか?」
「伊勢の浜辺に打ち上げられていたって。本当なの?」
「
一瞬目を丸くして、それから豪快に笑う
「ええ、確かに打ち上げられていました」
「そうなの?」
「
「宗家に弓引く、気概のある一族ね」
「そう評価していただくには、余りにもこそばゆい」
一益は笑い顔を苦笑いに変えて続けた
「元々滝川は木造から派生したと言われておりますが、木造は我が一族を親族のように大切にしてくださいました。その木造が北畠と繰り返して来た争いで、私の一家は敗走に伊勢から逃げなくてはならないほどに追い詰められました」
「ご家族は?」
「はっ。殿の仲介で、今は木造に保護されております」
「そう・・・、よかった・・・」
心底安堵する帰蝶の顔に、一益も胸が温かくなる
「私は家族と共に船に乗り込み、伊勢からの脱出を試みました。しかし、北畠の軍艦に襲われ、船は沈み、泳いで逃げることになったのですが、某・・・泳ぎは苦手でして・・・」
「え?海辺で育ったんじゃ?」
「子供の頃、海で泳いでいましたら蛸に襲われましてな、それ以来海は苦手で苦手で」
「
顔を顰める一益に、帰蝶の頭からは汗が浮かんだ
「泳いで尾張に渡るつもりでしたが、途中で意識を失い、気が付けば浜辺に打ち上げられておりました」
「運が良かったのね。あなたは生きる運命(さだめ)だったのよ」
「
帰蝶の言葉に、一益はそっと微笑んだ
「その私を、殿が見付けてくださったのです」
「それも、運命の巡り合わせだったのね」
「そうかも知れません。殿は見付けた私にこう仰いました」
「お前、魚人か?」
「
信長の言葉に、帰蝶は一瞬目を丸くして、それから吹き出す
「魚人・・・て・・・」
「私は、その答えに『魚人になりそこなったもぐらだ』と返事しました。そうしたら殿、なんて言ったと想います?」
「さぁ」
「ちょうどもぐらが欲しかったんだ。うちに来い。
「吉法師様・・・・・・・・」
「素性も知れぬ私を、殿は何も聞かず拾ってくださいました。私はその時、心に誓ったのです。『この方に着いて行こう』と・・・」
「そう言う馴れ初めだったのね・・・。あなたが一生懸命に尽くしてくれる理由が、少しわかったような気がするわ」
一益から全てを聞き、帰蝶は信長を想い胸が熱くなる
「私は、幼いながらにあれほどの器を持った御仁を知りません。全てを受け入れるだけの広い器を持った方を知りません。奥方様。末森と斎藤が殿を殺したのだとすれば、奥方様の仇は私の仇でもございます。この滝川久助一益、その敵討ちに身命注ぎたいと考えております。いかなる指令も受ける所存、今後も一益を扱き使ってくださいませッ」
「
其々が其々に信長との想い出を秘め、其々が其々に信長の仇討ちを決意している
信長が死んでつらいのは、自分だけじゃなかったのだと、半年が来て漸く気付く帰蝶だった
末森との激突以降、特に変わったことは起きなかった
精々美濃の岐阜屋から請求書が届いたくらいで
「
「木曽大橋を封鎖している間、美濃と尾張の行き来をうちの実家が船渡しをしていたんですが、利用者には無償で提供していたんだそうです」
お能が申し訳なさそうな顔で説明する
「その船の利用請求が、今届いたって訳なのね」
「直ぐに請求するのも大変だろうって・・・」
「後から来ても大変な物は大変よ。何、この請求額」
「あっ、あのっ、それでしたら分割にしてもらうよう、頼んでみますけど・・・っ」
「足元見られて笑われるのは我慢ならないわ。吉兵衛に言って、支払って来てッ」
帰蝶は大きく膨れた腹を抱えて叫んだ
「織田が民間に支払いを滞納してるなんて世間に知られたら、良い笑い者よ!」
年が明け、帰蝶の腹は一層膨れた
細い躰に大きな腹を抱えひょこひょこ歩く姿は、今居る信長家臣みなの期待を背負っているようにも見える
「もうそろそろですかね」
「まだでしょう」
「何かあったらおなつ様が知らせてくれますよ」
帰蝶の腹を励みに、秀隆らも日々の勤めに勤しむ
信長の遺した尾張下四郡の治安維持、軍事拡大、商業発展
全てを帰蝶の代わりにと、その意気込みも大きい
雪が深くなる二月、遂にその時がやって来た
朝から帰蝶の寝室に女達が忙しなく出入りする
隣にある帰蝶の私室の縁側には、集まれるだけ家臣らが集まった
「いよいよか」
帰蝶の懐妊がわかってから暇を持て余していた慶次郎ですら、正座をしてじっと膝を抱えている
「姉上、がんばって・・・!」
弟の利治は、気が気でない顔をして、姉の部屋の障子を見詰めていた
「ああああああああ、なんか瑞希が生まれた日を想い出すなぁ・・・」
落ち着かない様子に、弥三郎は縁側の下の庭をうろちょろと、じっとできない
「医者はまだか」
「今、又助さんが呼びに行ってますよ」
長秀と恒興の言葉が続く
その恒興も、妻の千郷が帰蝶の出産の手伝いに部屋に籠っている
様子を聞こうにもまだ幼い千郷は、廊下に出ても精々使い走りで城を駆け回っており、捕まえるに捕まえられなかった
「奥方様、どうかご無事で・・・ッ」
「ほら、いきんで!」
助産は四人の子供を産んでいるお能が務めた
周りの女はその殆どが出産経験者であるため、心強い
医者の到着も必要はないんだろうが、万が一の事を考えての出番である
「呼吸を整えて、もう一度!」
「い、痛いぃぃぃー!」
日頃弱音など吐かない帰蝶ですら、陣痛の痛みには耐え切れない
ずっと悲鳴を上げていた
「息を吸って!深く!はい!吐いて!いきんで!」
お能の指示に従って深呼吸、いきみ、を繰り返す
その間に「痛い」「痛い」と叫びを上げた
「がんばってください、奥方様!」
なつは帰蝶の手を握り締め、信長の代わりに励ました
「吸って!深く吸って!はい!吐いて!」
「んっ・・・!んんんっ!」
額と言わず全身が汗まみれ
痛い、痛いと叫んでも、つらい、つらいとは叫ばない
誰もが心待ちにしていた
帰蝶自身、それを待ち望んでいた
信長の命が帰って来ることを
その瞬間を
「いきんで!」
「んーッ!はぁッ!」
息が塊となって帰蝶の口から吐き出される
「もう一度!」
「奥方様ッ!」
「んーッ!」
早く、帰って来て
吉法師様・・・・・・・・・
「頭が見えて来ましたよ!もう少しです、奥方様!」
「んーッ!」
「昼餉、如何なさいますか?縁側に運びましょうか」
龍之介が、やって来た
「今はそれどころじゃねぇ!」
真冬の寒さに、誰も部屋の中に入ろうとはしなかった
朝からずっと縁側に居て、祝賀の瞬間を心待ちにしている
縁側に並ぶ男の人数が増えていた
外回りから戻って来た利家がちょこんと座っている
代わりに弥三郎が外回りに出ていた
入れ替わるように一益が戻り、長秀が本丸に戻る
そうやって交代交代に縁側に座る男が入れ替わり立ち代り、やがて
「お生まれになられました!」
千郷が障子を開けて知らせてくれた
「立派な若子(わこ)様です!」
「うおぉぉぉぉ
歓喜の怒号が庭中に響いた
戦に勝った以上の喜びようである
反発している利治ですら、慶次郎と抱き合って喜んだ
「やった!やった!やったーッ!」
「若子様だってよ!お前の姉貴、やったじゃねーか!」
庭の大騒ぎが聞こえる中、帰蝶は床の中で産み落とした子に初乳を飲ませていた
「真っ黄色・・・」
その鮮やかな黄の色に帰蝶は目を丸くしている
「次に与える時は、乳の色をしていますよ。安心してください」
そう、お能が言ってくれた
「吉法師様の、子・・・」
腕の中の我が子に、帰蝶の目も潤む
「若のお子なんですね、若のお子なんですね・・・」
なつは最早、涙腺が決壊状態だった
「おめでとうございます、立派にお勤めを果たされましたね。ご立派です、奥方様」
「ありがとう・・・」
一生懸命、自分の乳首を咥えている小さな我が子に、帰蝶はありったけの愛情の眼差しを注ぐ
「お名前は、お決めになられていますか?」
菊子が、号泣しているなつの代わりに聞いた
「ええ」
「若のお子、若のお子・・・。若に、そっくりですよ、奥方様・・・」
おー、おー、と泣きながら、なつは言った
「本当?」
「この鼻の高さ、本当に、若に生き写しで・・・」
そしてまた、おー、おー、と泣き叫ぶ
子の側で咽び泣くなつを、腕越しに眺めている帰蝶も微笑んでいた
「お名前は?又助さんが、紙に命名を書く準備してますよ」
「そう」
「なんて、お付けになられますか?」
誰もが優しい表情で帰蝶の言葉を待っている
その中で、帰蝶はたおやかな声で応えた
「
帰命、は、仏語で「心から仏や、仏の教えに従う」ことであるとされるが、本来の意味は梵語で「礼拝」、「崇拝」を現す言葉である
宗教が自分達の都合で、言葉を好き勝手に変えてしまっていた
帰蝶は信長を崇拝している
今もその気持ちに変わりはない
また、信長は自分に教えを説く仏にも似た存在だった
生まれた子が男だろうが女だろうが、帰蝶は『帰命』と名付ける心積もりだった
そして、それは夢でもあった
経緯はともあれ、一度は流産した経験を持つ
今度の子も無事生まれるかどうか、ずっと不安だった
夢が一つ、叶った
「吉法師様にも、抱かせてあげたかった・・・」
「奥方様・・・・・・・・」
穏やかな微笑みでそう言う帰蝶に、なつは涙でぐちゃぐちゃになった顔を向た
この世で誰よりも、この子の誕生を待ちわびていた人が、この世に居ない無情さ
それでも帰蝶は微笑んでいる
女は、母になると強くなることを、なつは帰蝶を目に感じ入ったような気分になれた
帰命の眠る部屋の壁に、資房が心を込めて書いた和紙が貼り付けられた
信長が姿を変えて戻って来た、と、誰もが信じて疑わない
そして、生まれたばかりの帰命を、信長の後継者として既に認めた
これからの自分達の使命は、この帰命丸を守ることだと、誰もがその想いを自然と胸に抱き締めた
守らなくてはならない命
この世でたった一つの命
掛け替えのない、大切な命
それを守るのは、自分達だ、と
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
岐阜の地酒 日本泉公式サイト
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本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
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