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事実上の、宣戦布告
それを帰蝶の方から申し渡した
いつでも受けて立つと
那古野城の前で、信時は帰蝶と別れる
清洲に寄ってお茶でもと誘ったが、厚かましい真似はできないとやんわりと断られた
最も、言葉どおり来られても、信長には逢わせられないので、内心ほっとしているが
その背中を見送りながら、帰蝶は資房に聞いた
「どうだった?」
「はい、素直なほどに。奥方様が林殿とお話をされている最中、ずっと落ち着かないご様子でした」
「一応は援軍に来たけど、なんだか義理でって言う感じが否めなかったのよね。あるいは、疑われないように、て言うか。だから同席してもらったけど、来てもらって正解だったかしら」
「そのようで」
「直接関係しているわけでもなさそうだけど、かと言って無関係ってわけでもないようね。探りを入れてみましょうか」
そう言って資房を見る
資房は目を丸くして自分を見ていた
「何?」
「いえ」
「なんでもないって顔をしてないけど?何かあるのなら、言って。考え直してみるから」
「いえ、そうではなくて」
「何なのよ」
「奥方様、生き生きされておいでです」
「え?」
「まるで水を得た魚のようです」
「 そう・・・?」
資房の言葉はよくわからないが、聞いても自分の前では余り無駄口を叩かない男だから、必要以上なことを言ったりはしないだろうと想い、敢えて追求はしなかった
「守山に探りを、ですか・・・?」
城に帰り、帰蝶は早速そのことをなつ、恒興親子に話した
「どれくらい末森に入り込んでいるのか、それだけでも知りたいの」
「ですが、もしも末森と結託していたとなれば、奥方様は如何なさるのですか?」
恒興は、守山まで見送った荒尾の姫君、千郷のことが気になった
「別にどうもしないわ」
「奥方様?」
「だって、うちの当面の敵は末森よ?自分から敵を増やしてどうするの」
「それはそうかも知れませんが・・・」
「ですが奥方様、勝三郎の言うことも最もです。縦しんば末森と結託していたとなれば、何かしらの処分は下さないと周りに示しが付きません」
「だからって追放、あるいは切腹を命じてどうにかなるの?守山の新しい城主を探し直すの?吉法師様は年功序列を考えて、安房守様を城主に任命したって土田御前様に言ったのでしょう?」
「え、ええ・・・」
「なら、それを実行するとなれば、次の城主は誰かしら。土田御前様の希望通り、勘十郎様の次弟、三十郎様になるわね?それこそ、末森の思う壷じゃないの?」
「それは、そうかも知れませんが・・・」
「吉法師様の下した決定を引っ繰り返してしまうような処分をしたら、吉法師様が安房守様を傀儡にしようと企んでいたって勘繰られてしまうわ」
「そんな」
なつも恒興も、眉間に皺を寄せた
この親子、全くそっくりである
それを見比べていておかしくなったのか、帰蝶は笑いそうになるのを必死で堪えた
揃って同じことをするからだ
「守山には、勝三郎が行ってくれる?」
「え?私で良いんですか?」
「千郷姫の送迎で一度は行ったことがあるでしょう?知らない人間が行くよりも、少しは知った人間が行った方が、向うも余り警戒しないと想うの」
「は 」
千郷の名を他の人間の口から聞き、恒興の胸が少しだけ高鳴った
そして、今も気に掛けている自分を笑う
どうして、いつまでも、と
「守山には念を押していて。末森と手を組む心積もりがあるのか、ないのか。なければこれまで同様、吉法師様に忠誠を誓うこと。背くのであれば、それなりの覚悟をするように、と」
「はい」
「付き添いには、又助に頼んで。今、中庭で弓でも引いてると想うわ」
「承知しました。では、早速」
「お願いね」
「はっ」
恒興を部屋から見送り、なつと二人きりになる
あやが清洲に戻って来てくれてからは、なつも時々は本丸の帰蝶の側に居ることができた
「新五の様子は、どう?」
「はい、岩竜丸様と今、剣術稽古の最中です。中々筋が良いようですよ」
「剣術稽古て、誰が着いててくれてるの?」
「河尻殿です」
「河尻?そんなに剣の腕が良かったかしら」
「ふふふっ。いつもふざけたことを言ってますけどね、ああ見えて中々腕が立つんですよ」
「文字の方は、どう?書簡でも出せそうな腕前かしら」
「そちらの方は変わらず堀田殿が指導されております。まだまだ拙いと感が否めませんが、新五様は何に置いても覚えが早いので、すくすくと、と言った感じです」
「へぇぇ、そうなんだぁ」
「ぼんやりしていたら、弟君に先を越されてしまいますよ?」
「あら、挑発するの?珍しい。『男みたいな真似は、なさらなくて結構です』って言わないんだ」
「今は、ですね」
「今だけなの?」
他愛ない雑談に、なつは真面目な表情をして応えた
「あなたは、修羅の道を選ばれたのです。男のような、いえ、男以上の仕事をせねばならないのです。そんなあなたに『女らしく』などと、足枷手枷を掛けるつもりはありません」
「なつ・・・」
「どうぞ、ご自由にお飛びください、奥方様」
「 ありがとう」
優しい気持ちになれた
いつからだろう
このなつを、母のように想えるようになったのは
自分が十四の時に補佐として那古野城に来てもらってから今日までずっと、側に居てくれている
もう、なつの居ない生活は考えられなかった
愛する夫が戦死したのは、確かに悲しい
だが、戦乱の世である
武士である以上、夫もいつかは戦で命を落としただろう
それが早いか、遅いかだけで、武士なら真っ当に天寿を果たすと言うのは難しい時代だ
そう言う時代に生きているのだ
夫婦として過ごした時間は、他の家に比べて短い内に入るかも知れない
だが、他の夫婦に比べても、濃密な毎日を過ごせていた
信長が死んで一ヶ月
漸く、そう想えるようになって来た
それもやはり、側になつが居てくれるお陰だと想えた
なつを中心に、信長に忠誠を誓った秀隆らが寄り集まる
それに支えられているのだと、想えるようになって来た
午前中の仕事を片付け、吉兵衛の報告を聞く
岩倉は清洲襲撃に半分は成功、半分は失敗したため、今のところ動く気配はないと言う
最も、向うも田植えの時期に差し掛かっているのだから、戦どころではないだろう
それを考えると、帰蝶自身考えなくてはならないことも浮かぶ
「農民と兵士を分けるというのは、無謀かしら」
「一体、どう言ったことで?」
帰蝶の言い分を理解できない
「つまり、農家と兵士を分けるってことよ」
「奥方様、全く答えになっておりませんぞ」
「あのね」
わかってくれない貞勝に、頭から汗を浮かばせた
さりとて、どう説明すれば良いのやら、と、考えあぐねる
そんな帰蝶に控えていた龍之介が進み出た
「あの、差し出口を挟むようですが、奥方様が仰りたいのは、畑を耕す農民と、戦をする兵士を別々にすると言うことではありませんか?」
「そう!それよ、それ」
龍之介が代わりに説明してくれ、帰蝶は顔をにぱっと笑わせた
「はぁ、農民と兵士を、ですか。どうやって」
「 」
最もだ、と、帰蝶も無言になる
「それなら、一般公募でもなさっては如何ですか?立て札でも立てるとか」
「そうね、それも良いわね」
「ですが実際問題、農家出身で文字が読める者がどれくらい居ましょうか」
「 」
それもそうだな、と、帰蝶は再び無言になる
「そう言う時にこそ、滝川様の出番では?色々な町や村に行って、織田が兵士を募ってると話を広めてもらうと言うのは如何でしょう。あるいは、清洲に仕える諸将に頼んで、其々の所領地で公募するとか。あまり話が広がり過ぎると、末森や岩倉が警戒しないとも言い切れませんし」
「そうね。兵士を募って、下手に戦の準備をしているのではと想われるのも、癪だし」
「癪なんですか」
「癪でしょ」
「そうですか」
「そうよ」
「っぷ・・・」
帰蝶と貞勝のずれた会話に龍之介は吹き出した
弘治二年五月下旬
帰蝶が那古野の林秀貞を訪問した二日後、秀貞を筆頭とした末森派が信長に対し謀叛の御旗を立てた
恒興が守山の信時と面談した次の日である
こちらの動く速さに、必死になって着いて来ているようなその行動が、面白くて仕方なかった
それを想定していた帰蝶にとっては、驚くことではない
寧ろ自分が想っていたより早く行動してくれたことに歓喜する
「嬉しそうですね、奥方様」
「だって、想ったとおりに動くのよ?これで末森を叩く絶好の大義名分ができたんだもん。喜ばずに居られますか、っての」
「奥方様、最近随分蓮っ葉な言葉をお使いになられるようになりましたね」
「悪い?」
「下品ですが、まるで」
「まるで?」
「 若がこの世に戻って来たような気になります」
「 」
信長を現す名に、帰蝶の笑顔が苦笑いに変わる
「奥方様。酷なことを申し上げるようですが」
「・・・・・何?」
「この際、『信長』襲名をなさっては如何ですか」
「信長襲名・・・?」
帰蝶の目が丸くなる
「今まで奥方様は、若の代わりとしてやっておられます。ですがいっそのこと、あなた自身が『信長』として行動し発言すると言うのは」
「 みんなが許してくれるかしら」
それが怖くて、あくまで信長名代としてやって来た
もしもみんながそっぽを向いたらと考えると、怖くてできない
「それは、これからのあなた次第です。若の名を生かすも殺すも、あなたの腕一本に掛かってます。如何ですか。今のような中途半端な状態では、寧ろ着いて来る者も離れてしまうと想うのです。怖いかも知れませんよ。なんだかんだと言っても、やはり若の名は大きい。その意味も。だからこそ、受ける意味があるんじゃないでしょうか」
「なつ・・・・・・・・」
「末森鎮圧が成功したら、でも良いじゃないですか。多分、みんなもそれを待っていると想います」
「 」
「奥方様からみんなに話すのは気が引けるでしょうから、私からみんなに話してみますね」
「 うん・・・」
その肩に圧し掛かる荷は、余りにも大き過ぎて
だが、帰蝶以外の誰にも背負えぬ物だと、なつは知っていた
それなら、その覚悟を持たさねばならない
「夫の夢の実現を」と、どこかまだ他人事に捉えられるような甘いことをいつまでも言っていては、今は団結している織田家臣も、いつか瓦解してしまう
特に、何れはぶつかるだろう末森との争いに負けたら、間違いなく末森が本流として機能してしまう
それだけはなんとしてでも避けなくてはならなかった
織田の嫡子であると信勝と、単に信長の夢を託された帰蝶とでは、その存在の重みが違う
今はまだ軽い存在である帰蝶に、『信長』の名を足せば、充分信勝と対抗しうる力を得ることになる
なつはなつなりに、それを画策していた
信長の遺した夢
それを継ぐことができるのは帰蝶だけだと
そう、信じていたから
六月に入り、一益が行方不明になっていた織田信次を見付け出した
なんと信次は妻の妹の嫁ぎ先に身を潜めていたのだ
親戚筋と言うわけではない、殆ど無縁の輩も良いところな家に隠れていたのだから、それでは見付けるのも容易ではないだろう
「孫十郎殿の出迎えを」
一益に命じ信次の出迎えをさせる
「全く。織田の男は肝っ玉が大きいのと小さいのとでは、その落差が激し過ぎる」
呆れる顔の帰蝶に、言い得て妙なだけになつは、反論も織田の男を庇う気力すら湧かなかった
信次をしばらく那古野の信光に預け、帰蝶は対末森の準備に取り掛かった
向うがいつ仕掛けて来るのかわからない以上、こちらもそれなりの準備をしなくてはならない
但し、以前帰蝶が言った、『農民と兵士を分ける』と言う案は未だ実現していない
時期が悪過ぎるのだ
何処の農家も今が一番忙しい
猫の手も借りたい時期に大事な働き手を失うわけには行かなかった
中々集まらぬ職業兵士に、それでも苛立つことはしない
苛々して損をするのは自分だからだ
帰蝶はいつもと変わりなく、信長のやっていた仕事を淡々とこなしていた
そんな時、一益が親戚の倅・慶次郎を連れて来た
「どうも」
「 」
慶次郎を見て、帰蝶は目を丸くする
まるで少年だった頃の信長と、殆ど同じ出で立ちだからだった
乱雑に結んだ茶筅髷に、鷹の羽を染色した飾りを着けている
小袖には袖がなく、袴も随分と粗野な野袴でよれよれであった
一所に落ち着いていられない気性だと言うことがよくわかる
これでは前田でも問題になって仕方ないだろう
背はそれほど高くはない
精々、夫の少し上辺りか
だが、肩幅は夫によく似ていた
「お前が慶次郎ね。話は久助から聞いてます」
「どうせ悪い話ばっかでしょ?」
「こら!慶次郎!奥方様に、なんて言う口を!」
「構わないわよ、久助」
「ですが・・・」
慶次郎の無作法に、一益は目くじらを立てて叱る
「その方が、私も話しやすい」
「は・・・」
不承に平伏する一益に、慶次郎はあっかんべーをしてやった
その光景がおかしくて、帰蝶は吹き出してしまう
「慶次郎」
「はい?」
「お前は何が得意だ?」
「俺?多芸多趣味ですよ」
「そうか、それは頼もしいわね」
「慶次郎」
「良いから、久助」
「は・・・」
どうして自分が窘められなきゃならないのかと、首を傾げながら引込む
「漁はできる?」
「鰹でも釣りますか?」
「いいわね、それは。私、鰹大好きよ」
「俺もです」
「やはり、梅雨の時期の鰹が一番かしら」
「いやいや、夏の盛りの鰹が一番。これに溜り醤油を垂らして酒と一緒に食うのが一番の贅沢っすよ」
「そうよね、やっぱりそれが一番よね。でもね、溜り醤油に柚子を一滴散らして食べると、また格別なのよ?知ってた?」
「へぇ、醤油に柚子ですか」
「主人がこれが好きでねぇ、夏になったらいつもそればっかり」
「粋なご主人様ですね」
「そうよ」
慶次郎の言葉に、帰蝶はたおやかな微笑みを返した
「私の夫は、この世で一番の人なんだから」
「 奥方様・・・」
帰蝶の胸には、今もまだ信長が生きていて、力強く息吹いているのだと一益は知った
「馬は?得意?」
「そりゃ、もう。なんなら俺の背中に着いて来ます?」
「あら、面白そうね」
「奥方様ッ」
「勝負してみる?もし私に勝ったら、お前の好きな物、何でもあげるわ」
「本当ですか?後悔しても遅いですよ」
「ふふっ」
自信ありげに笑う帰蝶と、不敵に笑う慶次郎の間で、一益だけが焦りまくっている
この光景がおかしくて、龍之介は必死になって笑いを噛み殺していた
「随分立派な馬だな」
馬舎の前で、用意する松風を眺めながら、慶次郎は溜息を零した
「『松風』って言ってね、奥方様の愛馬ですよ。こいつに敵う馬は、何処探したって居ませんよ」
「へぇぇ」
馬の世話をしている老人の説明に、唸る
見事な体躯、長い手足、艶やかな黒毛
女が乗るには余りにももったいないと想った
「お待たせ」
そこへ、野袴に履き替えた帰蝶が龍之介を伴ってやって来た
「どの馬に乗る?決めた?」
「ええ。この松風に。良いですか」
「松風に?」
一瞬キョトンとし、それから笑いそうな顔で応える
「良いわよ、乗って御覧なさい。乗れるもんなら、ね」
「後で吠え面掻いても知りませんよ」
「掻かないわよ」
「じゃぁ、俺が勝ったらこの松風、もらっていいっすか」
「良いわよ」
愛馬の割りに、随分あっさり言う
それが少し気に掛かるが、慶次郎は気持ちを立て直して松風の手綱を掴み、身軽にひょいっと飛び乗った
「へぇ」
普段から馬に乗り慣れているのだろう
松風の上に居る慶次郎は様になっていた
その姿に想わず声を漏らす
「似合ってるわね、結構」
「そうでしょ」
してやったりと、慶次郎がニヤッと笑ったその直後、いきなり松風が暴れ出す
「う、うわ!」
乗っている慶次郎は手綱をしっかり握り直し、何とか立て直そうと大声を出す
「どう!どう!どう!」
「奥方様、危ない」
「大丈夫よ。松風は私に怪我なんかさせない」
「ですが・・・」
帰蝶を庇う龍之介の顔に、松風の蹴った砂がぽちぽちとぶつかる
「おっ、落ち着け!こら!」
前足、後ろ足を交互に振り上げ、松風は慶次郎を振り落とそうと激しく飛び跳ねた
普通ならもうとっくに落馬しても不思議ではない
それでも慶次郎は必死な形相で松風にしがみ付いていた
その体の半分が背から零れ落ちそうになった頃、漸く帰蝶が声を掛ける
「おやめ、松風」
たったその一言で、さっきまでの暴れ振りが嘘のように、松風は大人しくなった
「はっ・・・、はっ・・・、嘘だろ・・・?」
「この子は私と一緒で気性が激しいの。この子は私と吉法師様以外、誰も乗せたことがないわ」
「そんな・・・。もっと早く言ってくれよ」
気が動転したのか、慶次郎は有り得ない口の利き方をした
「言ったら、乗らなかった?お前のことだから、余計向きになって乗りこなしてやろうって想うんじゃないの?」
「 」
なんで自分を理解できるんだ
今日、初めて逢ったのに
そんな言葉が慶次郎の胸に浮かんだ
「じゃ、行きましょうか。龍之介」
「はい」
「戻りは夕餉までにできるよう努力するから、なつには仕事は帰ってからするって言っておいて」
「はい」
「作治」
「はい」
帰蝶は馬の世話係りの老人にも声を掛ける
「松風の藁、新しいのに換えておいて。多分疲れるだろうから、多めにお願い」
「はい」
「松風も、おじさんだもんね」
「いえいえ、まだまだ若いですよ、松風は」
「慶次郎」
「は・・・、はい」
「お前は、そうね、そこの栗毛の馬でどう?優駿よ」
「何でも良いです」
「作治」
「はい」
「その寿を出してあげて」
「承知しました」
寿と呼ばれた栗毛に鞍と手綱を繋げる
その間、帰蝶は松風に鐙だけを着けていた
「鞍は?」
「要らないわ。鞍なんか付けたら、うっかり遠出しちゃう。そしたら夢中になって帰れなくなって、それこそなつに大目玉食らうわ」
「ふ~ん」
その『なつ』と言う人物は、相当怖い侍女なんだな、と、単純にそう想った
「行くわよ?!」
颯爽と松風に跨り、帰蝶が声を掛ける
「ま、待てよ!先に行くなんてずるいぞ!」
最早慶次郎には、目の前に居る人物が誰なのか、など、考えられなかった
「じゃぁ、何処に行きたい?お前の好きなとこで良いわ」
「だったら、熱田まで競争だ」
「熱田?」
熱田は帰蝶自身、まだ行ったことがない
方向はわかっても、清洲からの道筋がわからない
「庄内川は越えられないわ。早く戻らなきゃならないし、手近なところにしない?」
「それじゃぁ、七宝天神はどうだい」
「七宝天神?」
「今日はそこで夏の奉納相撲だ」
「奉納相撲?」
その言葉を聞き、帰蝶の目が輝く
「勝幡より清洲に近い。場所も知ってるかい?」
「ええ、何度か七宝には行ったことがあるわ。天神様は行ったことがないけど、場所は知ってる」
「じゃぁ、そこにしよう」
「ええ」
「同時に走るぜ?」
「良いわよ」
「用意」
慶次郎の声に、帰蝶は松風の手綱を握り締めた
「どん!」
同時に走る
脳裏に浮かぶ
信長とよく、那古野城を抜け出したことを
その度に平手政秀に追い駆け回され、戻れば表座敷で延々と説教を食らった
女の自分に、馬に乗ることを教えてくれた
お陰でこうして、自分の自由で松風に乗れる
松風は帰蝶を乗せ、元々農耕馬だとは想えぬほどの堂々とした素晴らしい走りで、少し先を走っていた寿を捉えた
「へへっ。なんだかんだっても、所詮女の腕じゃ俺に追い付けるわけが 」
そう高を括っていた慶次郎の真横を、松風の鼻先が近付く
視界に松風が入った
「え・・・?」
横を向いた瞬間、松風が寿を追い抜いた
「まさか 」
あっと言う間に、鞍を着けていない帰蝶に追い抜かれた
清洲の大堀の橋を渡る頃には、すっかり置いてけぼりを食らう
「冗談だろッ?!」
馬には絶対の自信があった慶次郎の自尊心を、帰蝶はずたずたに引き裂いた
「はいッ!松風ッ!」
軽く鞭を当てる
松風はどんどん加速して行った
さっき作治が「松風に敵うヤツは居ない」と言ったのは嘘なんかじゃなかった、と、想えるほど
「もっとしっかり俺に捕まってろ。俺の手綱は乱暴で有名だからな、振り落とされても拾ってやらんぞ」
ふと、信長の言葉が蘇った
初めて早馬に乗った時の、あの感触が想い返される
風が強くて、目を開けているのがやっとだった
直ぐ前にある夫の背中が、自分をその風から守ってくれていた
あの時はまだ少年で、背中も小さかった
だけど帰蝶にとっては何に替えることもできないほど、広くて頼もしい背中だった
その信長に、一度も馬で勝ったことがなかった
この松風を以ってしても
吉法師様・・・・・・・・
初夏の香りが鼻腔を突く
もう直ぐ戦が始まると、帰蝶に教える
夫の夢を守るための、第一戦が
「ほらー!行けーッ!」
神社で行なわれている奉納相撲の観戦に、帰蝶は夢中になった
拳を振り上げ、応援する
「ちぇっ。結局、奥方様には勝てなかった」
隣では悔しそうな顔で慶次郎が土俵を見る
「世界は広い。自分よりも優れている者など、この世には大勢居る。その世界を見て自分ももっと強くなりたいと願うも、狭い箱庭で満足するのも、お前の勝手よ。私は夫に世界の広さを教わった。この世は計り知れないことだらけだと、教わった。だから、その世界で自分を試したい」
「何を?」
「私が何者であるのか、を」
「 」
今まで、そんなことを口にした女が居ただろうか
女は黙って男に従い、子を作れば良いだけの存在だと、誰かが言っていた
慶次郎も、そんなもんなんだろうと想っていた
それでも、何かが違うような気がして、突っ張って生きていた
その自分に真っ直ぐ、気持ちをぶつける女が他に居ただろうか
慶次郎は、自分の隣で夢中になって相撲を観戦している帰蝶を、ただじっと見詰めた
『女』の器をした『将』が、そこに居た
爪先に転がる石を見て、それを何に使えるのか考えるよりも、目の先にある海の、その水をどう使おうか考える
奥方様はそんな人なんだと、慶次郎は想った
敵いっこない、と
「 俺・・・、仕官します」
「え?なんて言ったの?!」
歓声が煩くて、慶次郎の声が良く聞こえない
「俺、あんたに着いて行くっつったの!」
「そう」
「そう、って、あのね・・・」
あっさりした帰蝶の返事に、慶次郎は肩透かしを食らう
「理由なんて、なんでも良いわよ。お前が行きたい場所に行けば良い。居たい場所に居れば良い。それだけよ」
「 」
慶次郎の目が見開かれる
そんな考えを持つ女がこの世に居るのが信じられない
「それー!次行けーっ!」
帰蝶は自分よりも相撲に夢中になっている
その光景に慶次郎は苦笑いし、共に観戦した
「おらぁー!だらしねーぞ!しっかりしろやッ!」
「あはははは!今年は西の村が勝ったわね。米より野菜の方が豊作かしら」
「それでも良いや。大根の田楽は好きだからな」
「偶然ね、私も大好きよ、大根田楽」
「やっぱり芥子味噌だよな」
「何言ってんのよ、甘酢味噌でしょ」
「芥子味噌だって」
「甘酢味噌よ」
つまらないことで言い争いながら、松風と寿の待つ神社の隅に戻る
「松風」
「ん?」
「欲しい?」
突然言い出す帰蝶に、慶次郎は少し驚きながら、だけどその背中に微笑みながら応えた
「要らないっすよ」
「え?」
慶次郎の返事に帰蝶は振り返った
「だって、誰も乗せないんでしょ、そいつ」
「慶次郎」
「それに、奥方様だって、心底くれてやろうって気はないんじゃないんすか?」
「え 」
「そう、顔に書いてある」
「 ッ」
帰蝶は慌てて自分の頬やおでこを手でカサカサと擦った
「あっはっはっはっはっ!」
「からかったのね?!」
「そう怒りなさんな。さっきの仕返しだぁ」
「お前ね」
「松風に子は居ないのかい?」
「居るわよ、何頭か」
「だったら、その内の一頭、くれないかい。その代わり、この前田慶次郎利益、あんたの好きに使ってやってくれぃ。それでとんとんだ」
「とんとん、ね」
安い買い物なのか高い買い物なのか、さすがの帰蝶もこの時はわからなかった
ただ、一応は仕官したことになるが、実質帰蝶の『遊び相手』としての役割の方が大きくて、誰も慶次郎を家臣だとは想わなかったが
「あー・・・。やっぱり、夕餉過ぎちゃった・・・。なつ、頭から角出してるだろうなぁ・・・」
空はとっぷり茜色に染まり、遠くで鴉が鳴いていた
鞍のない松風を器用に乗り、ぼやく帰蝶に慶次郎も掛ける言葉がない
『なつ』と言う人物を、まだ知らないからだ
下手に慰めて逆効果だったら怖い
粗野に見えて慶次郎は、意外と細かい心遣いのできる男だった
「でも、露店に出てた鮎の塩焼きは美味かった」
苦し紛れに、何気ない一言を呟く
「そうね、鮎の塩焼き。確かに美味しかった。旬になればもっと美味しいわよね」
「鮎と言えば、醤油甘露煮だよね」
帰蝶が食い付いてくれたことで、そこから話も盛り上がるかと想えば
「何言ってんのよ。味醂干しに決まってるでしょ」
「甘露煮だってぇの」
「味醂干しよ」
「甘露煮」
「味醂干し」
どうもこの奥方様とは、食の趣味は相容れないようだ、とも、想った
そんな遣り取りを繰り返しながら清洲に戻ると、その門前で貞勝、資房が顔色を変えて待ち受けていた
「奥方様!」
「ど、どうしたの。なつ、そんなに角出してるのっ?」
さすがの帰蝶も焦る
「一大事でございますッ!」
「 ?」
守山で、清洲派、末森派が衝突
その先導者でもある清洲派・坂井と、末森派・角田の抗争に信時が巻き込まれ、切腹したと言う
「河尻!」
「はいッ!」
「今直ぐ末森から佐久間を引き入り、守山に入れッ!ぐずぐずしていたら末森に付け込まれるッ!」
「はいッ!」
「五郎左衛門!」
「は、はい!」
「那古野の孫三郎様を仲介に、孫十郎様を守山に戻せッ!」
「はいぃ!」
「奥方様・・・ッ!」
慌しく動き回る表座敷で、恒興が帰蝶の小袖の袖を掴んだ
「どうしたの、勝三郎」
「ち・・・、千郷様が・・・」
「千郷姫が、どうかしたの?」
「守山を脱出し、今、志賀の常安寺に匿われておられます・・・ッ」
「それで、どうしたいの!」
余りの慌しさに、帰蝶は悠長に構えていられる余裕がなかった
書類作成の片手間に恒興の話を聞くため、つい怒鳴りがちになる
「迎えに行きとうございますッ!」
精一杯の声を張り上げ、恒興は応えた
「行ってらっしゃい!」
帰蝶は良く考えもせず許可する
「は、はいッ!」
「奥方様、千郷様を如何なさるおつもりですか」
なつが、ふと話し掛けた
「荒尾を手放せば、伊勢湾の制海権を失ってしまう。末森に取られるわけには行かないのよ、千郷様は!」
「わかりました」
「龍之介!」
「はい!」
「長谷川に、滝川を連れ戻して来るよう伝えて!今、岩倉の方に行ってるから!」
「はい!承知しました!」
「誰か、新五を局処から連れて来て!」
「はい!」
義近が表座敷を駆け出した
「兵助!何処!」
「はい、ここです!」
表座敷の外の縁側から、兵助の声がした
「三左と弥三郎に、守山護衛を頼んで来て!」
「はい!」
「お前は那古野に行って、五郎左衛門の代わりに那古野に残って、孫三郎様の護衛を!末森が那古野にまで手を出そうとしたら、直ぐ連絡して!」
「はい!」
「馬で行きなさいよッ?!稲葉山に居た時みたいに、走るのが速いのが自慢ですーみたいな、脚で行ったら承知しないからねッ?!」
「はははいッ!」
「 」
どんな生活だったんだ、と、聞いていたなつは頭から汗を浮かばした
「さて、一段落」
兵助が出た後、それまでのゴタゴタした騒ぎが嘘のように、帰蝶の声が落ち着いた
「後は勝三郎が千郷様を連れて来るまで、情報整理でもしてましょうか」
「はい、そうですね」
いつものことなのか、他の人間はそう慌てた様子でもない
だが、こう言った場面に初めて遭遇する慶次郎は、口をあんぐりと開いたまま呆然としていた
その、一段落着いた頃に利治がやって来る
「遅い!」
のんびりしていたわけではないが、それでも帰蝶は怒鳴った
「呼んだら直ぐに来なさい!」
連れて来いと言われて、間もなくの到着であるにも関わらず、だ
「申し訳ございません」
それでも利治は不平も言わず平伏する
「新五」
「はい」
「姉はもう直ぐ戦に出る」
「はい」
「今直ぐじゃない。多分、田植えが終わって一段落が付いてからだと想うけど、お前はどうしたい?城に残って後詰でも学ぶ?それとも」
「一緒に行きとうございます!」
利治の返事に、慶次郎は目を丸くした
見たところ、まだ十歳かそれくらいだろう
なのに、恐れもせずきっぱりと返事する
「わかったわ。じゃぁ、慶次郎」
「ん?」
「一緒に来て、新五を守って」
「俺で良いんですかい?」
「お前しか手が空いてないもの」
「そうですね」
あっさり言われ、内心舌を出す
「ああ、そうだ。肝心なこと、忘れてた」
その場に居る者を放ったらかし、帰蝶は突如として自室に戻った
それからしばらくして
「奥方様ぁー!お止めくださいー!」と、後を追ったなつの絶叫する声が響いた
何事かと、利治と慶次郎は駆け出す
「どうしたどうしたっ?」
「何かあったんですかっ?!」
声を辿ると、本丸の中庭に到着する
そこに刀を持った帰蝶と、止めようとするなつの姿が浮かんだ
「姉上!ご乱心ですかっ?!」
「一体どうしたってんだっ」
「もう、煩いなぁ、みんなして」
そう言いながら、帰蝶は手にしていた陣太刀を鞘から抜く
「これは、斎藤義龍が吉法師様に、って贈った物なの」
「 そう、だったんですか・・・」
「でも、必要ないから返そうと想って」
「だったら普通に返しゃぁいいじゃないか。なんだってそんなとこで振り上げるんだい」
「こうするからよっ!」
そう言いながら、帰蝶は庭に飾ってある削り岩に向って、太刀を振り下ろした
ところが、勇ましく振り下ろしたは良いが、ガシャン!と派手な音がするだけで、岩も刀もびくともしない
「いったぁーい!」
手が痺れて、帰蝶は持っていた刀を落としてしまう
「何やってんだか」
呆れながら慶次郎が、帰蝶の落とした刀を拾い上げた
「これ、折っちまいたいのかい?」
「そうよ」
「奥方様ッ」
「何でまた。高そうな刀じゃないか、もったいない」
「だとしても、贈られた吉法師様は本陣にそれを飾ることができなくなってしまったわ。それをできなくしたのは、斎藤よ。だったら、必要のないものは返すのが筋ってもんでしょ?」
「そうかもしんないけどね?」
「これが私流の返し方よ。貸して。真っ二つに折ってやるんだから」
「それでも、今のあんたにゃこの刀、折れやしないよ」
「何でよっ」
「竹を割るのと、刀そのものを折ってしまうのとじゃ、覚悟が違うんだよ、覚悟が」
「覚悟、って・・・」
「あんた、まだその覚悟が足りないねぇ。その綺麗な手は、人を殺したことがあるのかい?」
「そっ、そんなことっ・・・!」
「ないんだろう?刀ってのはね、結局人を殺すための道具だ。その人殺しの道具を折るってのは、そう簡単には行かないんだよ」
「だったら、お前にはできるのっ?」
むかっとして、帰蝶は慶次郎に言い返す
その慶次郎はそっと笑って応えた
「折って良いんだね?」
「折れるもんならね」
帰蝶の返事に、慶次郎は岩に向って刀を構え、深呼吸し、それから、一気に振り下ろした
ガシッ!と言う鈍い音と、カーンと言う鋼のぶつかる音が混じり、刀は真っ二つに折れた
折れた半分は宙を切り、利治の足元に落ちる
「うわっ!」
想わず身を翻し難を逃れたが、一歩間違えれば脳天に突き刺さっていたかも知れない
そう想っただけで、慶次郎が憎くて仕方がない利治だった
「刀ってのはね、こう折るんだよ」
「 」
折れた柄を帰蝶に手渡す
帰蝶は受け取りながら、黙って、なくなった刃先の陣太刀を見詰めた
人を殺す覚悟
それがなければ、戦などできやしない
自分はやはり、信長の代わりもできないのかと、絶望的な気分になった
地を這うように探せば、答えはいつか見付かるのだろうか
その後、慶次郎はこの女性こそが帰蝶の言っていた『なつ』と言う人物で、なつが恒興の生母であること、先々代信秀の側室であること、また、帰蝶の重要な補佐でもあることを聞かされ、驚く
「世の中には凄い女が居るもんだ」
「私をそこらの侍女か何かかと想っていたの?」
笑いながら言うのは余裕のある証拠だが
「うん、そうだね。もっと婆かと想ってたよ。意外に若いんだね」
「 」
慶次郎の言葉に、なつは米神に血管を浮かばせて、早歩きで慶次郎を追い駆け回した
「悪かったってー!若いって言ってんじゃん!」
「誉め言葉にもなってませんよ、それ!」
「あはははははは!」
慶次郎の声と、なつの声と、利治の笑い声が混じる中庭で、帰蝶だけが厳しい現実を突き付けられた
それは、信長からの問い掛けなのかも知れない
このまま大人しくしていれば、平穏な生活を送れるかも知れない
信勝に正直に話せば、もしかしたらあるいは、信長の菩提を弔うための場所を提供してくれるかも知れない
だけど、それで良いのかと、自分自身が問い掛ける
折れた陣太刀を眺めながら、帰蝶は自分に問い掛けた
何がしたいの?
何をやろうとしているの?
と
それを帰蝶の方から申し渡した
いつでも受けて立つと
那古野城の前で、信時は帰蝶と別れる
清洲に寄ってお茶でもと誘ったが、厚かましい真似はできないとやんわりと断られた
最も、言葉どおり来られても、信長には逢わせられないので、内心ほっとしているが
その背中を見送りながら、帰蝶は資房に聞いた
「どうだった?」
「はい、素直なほどに。奥方様が林殿とお話をされている最中、ずっと落ち着かないご様子でした」
「一応は援軍に来たけど、なんだか義理でって言う感じが否めなかったのよね。あるいは、疑われないように、て言うか。だから同席してもらったけど、来てもらって正解だったかしら」
「そのようで」
「直接関係しているわけでもなさそうだけど、かと言って無関係ってわけでもないようね。探りを入れてみましょうか」
そう言って資房を見る
資房は目を丸くして自分を見ていた
「何?」
「いえ」
「なんでもないって顔をしてないけど?何かあるのなら、言って。考え直してみるから」
「いえ、そうではなくて」
「何なのよ」
「奥方様、生き生きされておいでです」
「え?」
「まるで水を得た魚のようです」
「
資房の言葉はよくわからないが、聞いても自分の前では余り無駄口を叩かない男だから、必要以上なことを言ったりはしないだろうと想い、敢えて追求はしなかった
「守山に探りを、ですか・・・?」
城に帰り、帰蝶は早速そのことをなつ、恒興親子に話した
「どれくらい末森に入り込んでいるのか、それだけでも知りたいの」
「ですが、もしも末森と結託していたとなれば、奥方様は如何なさるのですか?」
恒興は、守山まで見送った荒尾の姫君、千郷のことが気になった
「別にどうもしないわ」
「奥方様?」
「だって、うちの当面の敵は末森よ?自分から敵を増やしてどうするの」
「それはそうかも知れませんが・・・」
「ですが奥方様、勝三郎の言うことも最もです。縦しんば末森と結託していたとなれば、何かしらの処分は下さないと周りに示しが付きません」
「だからって追放、あるいは切腹を命じてどうにかなるの?守山の新しい城主を探し直すの?吉法師様は年功序列を考えて、安房守様を城主に任命したって土田御前様に言ったのでしょう?」
「え、ええ・・・」
「なら、それを実行するとなれば、次の城主は誰かしら。土田御前様の希望通り、勘十郎様の次弟、三十郎様になるわね?それこそ、末森の思う壷じゃないの?」
「それは、そうかも知れませんが・・・」
「吉法師様の下した決定を引っ繰り返してしまうような処分をしたら、吉法師様が安房守様を傀儡にしようと企んでいたって勘繰られてしまうわ」
「そんな」
なつも恒興も、眉間に皺を寄せた
この親子、全くそっくりである
それを見比べていておかしくなったのか、帰蝶は笑いそうになるのを必死で堪えた
揃って同じことをするからだ
「守山には、勝三郎が行ってくれる?」
「え?私で良いんですか?」
「千郷姫の送迎で一度は行ったことがあるでしょう?知らない人間が行くよりも、少しは知った人間が行った方が、向うも余り警戒しないと想うの」
「は
千郷の名を他の人間の口から聞き、恒興の胸が少しだけ高鳴った
そして、今も気に掛けている自分を笑う
どうして、いつまでも、と
「守山には念を押していて。末森と手を組む心積もりがあるのか、ないのか。なければこれまで同様、吉法師様に忠誠を誓うこと。背くのであれば、それなりの覚悟をするように、と」
「はい」
「付き添いには、又助に頼んで。今、中庭で弓でも引いてると想うわ」
「承知しました。では、早速」
「お願いね」
「はっ」
恒興を部屋から見送り、なつと二人きりになる
あやが清洲に戻って来てくれてからは、なつも時々は本丸の帰蝶の側に居ることができた
「新五の様子は、どう?」
「はい、岩竜丸様と今、剣術稽古の最中です。中々筋が良いようですよ」
「剣術稽古て、誰が着いててくれてるの?」
「河尻殿です」
「河尻?そんなに剣の腕が良かったかしら」
「ふふふっ。いつもふざけたことを言ってますけどね、ああ見えて中々腕が立つんですよ」
「文字の方は、どう?書簡でも出せそうな腕前かしら」
「そちらの方は変わらず堀田殿が指導されております。まだまだ拙いと感が否めませんが、新五様は何に置いても覚えが早いので、すくすくと、と言った感じです」
「へぇぇ、そうなんだぁ」
「ぼんやりしていたら、弟君に先を越されてしまいますよ?」
「あら、挑発するの?珍しい。『男みたいな真似は、なさらなくて結構です』って言わないんだ」
「今は、ですね」
「今だけなの?」
他愛ない雑談に、なつは真面目な表情をして応えた
「あなたは、修羅の道を選ばれたのです。男のような、いえ、男以上の仕事をせねばならないのです。そんなあなたに『女らしく』などと、足枷手枷を掛けるつもりはありません」
「なつ・・・」
「どうぞ、ご自由にお飛びください、奥方様」
「
優しい気持ちになれた
いつからだろう
このなつを、母のように想えるようになったのは
自分が十四の時に補佐として那古野城に来てもらってから今日までずっと、側に居てくれている
もう、なつの居ない生活は考えられなかった
愛する夫が戦死したのは、確かに悲しい
だが、戦乱の世である
武士である以上、夫もいつかは戦で命を落としただろう
それが早いか、遅いかだけで、武士なら真っ当に天寿を果たすと言うのは難しい時代だ
そう言う時代に生きているのだ
夫婦として過ごした時間は、他の家に比べて短い内に入るかも知れない
だが、他の夫婦に比べても、濃密な毎日を過ごせていた
信長が死んで一ヶ月
漸く、そう想えるようになって来た
それもやはり、側になつが居てくれるお陰だと想えた
なつを中心に、信長に忠誠を誓った秀隆らが寄り集まる
それに支えられているのだと、想えるようになって来た
午前中の仕事を片付け、吉兵衛の報告を聞く
岩倉は清洲襲撃に半分は成功、半分は失敗したため、今のところ動く気配はないと言う
最も、向うも田植えの時期に差し掛かっているのだから、戦どころではないだろう
それを考えると、帰蝶自身考えなくてはならないことも浮かぶ
「農民と兵士を分けるというのは、無謀かしら」
「一体、どう言ったことで?」
帰蝶の言い分を理解できない
「つまり、農家と兵士を分けるってことよ」
「奥方様、全く答えになっておりませんぞ」
「あのね」
わかってくれない貞勝に、頭から汗を浮かばせた
さりとて、どう説明すれば良いのやら、と、考えあぐねる
そんな帰蝶に控えていた龍之介が進み出た
「あの、差し出口を挟むようですが、奥方様が仰りたいのは、畑を耕す農民と、戦をする兵士を別々にすると言うことではありませんか?」
「そう!それよ、それ」
龍之介が代わりに説明してくれ、帰蝶は顔をにぱっと笑わせた
「はぁ、農民と兵士を、ですか。どうやって」
「
最もだ、と、帰蝶も無言になる
「それなら、一般公募でもなさっては如何ですか?立て札でも立てるとか」
「そうね、それも良いわね」
「ですが実際問題、農家出身で文字が読める者がどれくらい居ましょうか」
「
それもそうだな、と、帰蝶は再び無言になる
「そう言う時にこそ、滝川様の出番では?色々な町や村に行って、織田が兵士を募ってると話を広めてもらうと言うのは如何でしょう。あるいは、清洲に仕える諸将に頼んで、其々の所領地で公募するとか。あまり話が広がり過ぎると、末森や岩倉が警戒しないとも言い切れませんし」
「そうね。兵士を募って、下手に戦の準備をしているのではと想われるのも、癪だし」
「癪なんですか」
「癪でしょ」
「そうですか」
「そうよ」
「っぷ・・・」
帰蝶と貞勝のずれた会話に龍之介は吹き出した
弘治二年五月下旬
帰蝶が那古野の林秀貞を訪問した二日後、秀貞を筆頭とした末森派が信長に対し謀叛の御旗を立てた
恒興が守山の信時と面談した次の日である
こちらの動く速さに、必死になって着いて来ているようなその行動が、面白くて仕方なかった
それを想定していた帰蝶にとっては、驚くことではない
寧ろ自分が想っていたより早く行動してくれたことに歓喜する
「嬉しそうですね、奥方様」
「だって、想ったとおりに動くのよ?これで末森を叩く絶好の大義名分ができたんだもん。喜ばずに居られますか、っての」
「奥方様、最近随分蓮っ葉な言葉をお使いになられるようになりましたね」
「悪い?」
「下品ですが、まるで」
「まるで?」
「
「
信長を現す名に、帰蝶の笑顔が苦笑いに変わる
「奥方様。酷なことを申し上げるようですが」
「・・・・・何?」
「この際、『信長』襲名をなさっては如何ですか」
「信長襲名・・・?」
帰蝶の目が丸くなる
「今まで奥方様は、若の代わりとしてやっておられます。ですがいっそのこと、あなた自身が『信長』として行動し発言すると言うのは」
「
それが怖くて、あくまで信長名代としてやって来た
もしもみんながそっぽを向いたらと考えると、怖くてできない
「それは、これからのあなた次第です。若の名を生かすも殺すも、あなたの腕一本に掛かってます。如何ですか。今のような中途半端な状態では、寧ろ着いて来る者も離れてしまうと想うのです。怖いかも知れませんよ。なんだかんだと言っても、やはり若の名は大きい。その意味も。だからこそ、受ける意味があるんじゃないでしょうか」
「なつ・・・・・・・・」
「末森鎮圧が成功したら、でも良いじゃないですか。多分、みんなもそれを待っていると想います」
「
「奥方様からみんなに話すのは気が引けるでしょうから、私からみんなに話してみますね」
「
その肩に圧し掛かる荷は、余りにも大き過ぎて
だが、帰蝶以外の誰にも背負えぬ物だと、なつは知っていた
それなら、その覚悟を持たさねばならない
「夫の夢の実現を」と、どこかまだ他人事に捉えられるような甘いことをいつまでも言っていては、今は団結している織田家臣も、いつか瓦解してしまう
特に、何れはぶつかるだろう末森との争いに負けたら、間違いなく末森が本流として機能してしまう
それだけはなんとしてでも避けなくてはならなかった
織田の嫡子であると信勝と、単に信長の夢を託された帰蝶とでは、その存在の重みが違う
今はまだ軽い存在である帰蝶に、『信長』の名を足せば、充分信勝と対抗しうる力を得ることになる
なつはなつなりに、それを画策していた
信長の遺した夢
それを継ぐことができるのは帰蝶だけだと
そう、信じていたから
六月に入り、一益が行方不明になっていた織田信次を見付け出した
なんと信次は妻の妹の嫁ぎ先に身を潜めていたのだ
親戚筋と言うわけではない、殆ど無縁の輩も良いところな家に隠れていたのだから、それでは見付けるのも容易ではないだろう
「孫十郎殿の出迎えを」
一益に命じ信次の出迎えをさせる
「全く。織田の男は肝っ玉が大きいのと小さいのとでは、その落差が激し過ぎる」
呆れる顔の帰蝶に、言い得て妙なだけになつは、反論も織田の男を庇う気力すら湧かなかった
信次をしばらく那古野の信光に預け、帰蝶は対末森の準備に取り掛かった
向うがいつ仕掛けて来るのかわからない以上、こちらもそれなりの準備をしなくてはならない
但し、以前帰蝶が言った、『農民と兵士を分ける』と言う案は未だ実現していない
時期が悪過ぎるのだ
何処の農家も今が一番忙しい
猫の手も借りたい時期に大事な働き手を失うわけには行かなかった
中々集まらぬ職業兵士に、それでも苛立つことはしない
苛々して損をするのは自分だからだ
帰蝶はいつもと変わりなく、信長のやっていた仕事を淡々とこなしていた
そんな時、一益が親戚の倅・慶次郎を連れて来た
「どうも」
「
慶次郎を見て、帰蝶は目を丸くする
まるで少年だった頃の信長と、殆ど同じ出で立ちだからだった
乱雑に結んだ茶筅髷に、鷹の羽を染色した飾りを着けている
小袖には袖がなく、袴も随分と粗野な野袴でよれよれであった
一所に落ち着いていられない気性だと言うことがよくわかる
これでは前田でも問題になって仕方ないだろう
背はそれほど高くはない
精々、夫の少し上辺りか
だが、肩幅は夫によく似ていた
「お前が慶次郎ね。話は久助から聞いてます」
「どうせ悪い話ばっかでしょ?」
「こら!慶次郎!奥方様に、なんて言う口を!」
「構わないわよ、久助」
「ですが・・・」
慶次郎の無作法に、一益は目くじらを立てて叱る
「その方が、私も話しやすい」
「は・・・」
不承に平伏する一益に、慶次郎はあっかんべーをしてやった
その光景がおかしくて、帰蝶は吹き出してしまう
「慶次郎」
「はい?」
「お前は何が得意だ?」
「俺?多芸多趣味ですよ」
「そうか、それは頼もしいわね」
「慶次郎」
「良いから、久助」
「は・・・」
どうして自分が窘められなきゃならないのかと、首を傾げながら引込む
「漁はできる?」
「鰹でも釣りますか?」
「いいわね、それは。私、鰹大好きよ」
「俺もです」
「やはり、梅雨の時期の鰹が一番かしら」
「いやいや、夏の盛りの鰹が一番。これに溜り醤油を垂らして酒と一緒に食うのが一番の贅沢っすよ」
「そうよね、やっぱりそれが一番よね。でもね、溜り醤油に柚子を一滴散らして食べると、また格別なのよ?知ってた?」
「へぇ、醤油に柚子ですか」
「主人がこれが好きでねぇ、夏になったらいつもそればっかり」
「粋なご主人様ですね」
「そうよ」
慶次郎の言葉に、帰蝶はたおやかな微笑みを返した
「私の夫は、この世で一番の人なんだから」
「
帰蝶の胸には、今もまだ信長が生きていて、力強く息吹いているのだと一益は知った
「馬は?得意?」
「そりゃ、もう。なんなら俺の背中に着いて来ます?」
「あら、面白そうね」
「奥方様ッ」
「勝負してみる?もし私に勝ったら、お前の好きな物、何でもあげるわ」
「本当ですか?後悔しても遅いですよ」
「ふふっ」
自信ありげに笑う帰蝶と、不敵に笑う慶次郎の間で、一益だけが焦りまくっている
この光景がおかしくて、龍之介は必死になって笑いを噛み殺していた
「随分立派な馬だな」
馬舎の前で、用意する松風を眺めながら、慶次郎は溜息を零した
「『松風』って言ってね、奥方様の愛馬ですよ。こいつに敵う馬は、何処探したって居ませんよ」
「へぇぇ」
馬の世話をしている老人の説明に、唸る
見事な体躯、長い手足、艶やかな黒毛
女が乗るには余りにももったいないと想った
「お待たせ」
そこへ、野袴に履き替えた帰蝶が龍之介を伴ってやって来た
「どの馬に乗る?決めた?」
「ええ。この松風に。良いですか」
「松風に?」
一瞬キョトンとし、それから笑いそうな顔で応える
「良いわよ、乗って御覧なさい。乗れるもんなら、ね」
「後で吠え面掻いても知りませんよ」
「掻かないわよ」
「じゃぁ、俺が勝ったらこの松風、もらっていいっすか」
「良いわよ」
愛馬の割りに、随分あっさり言う
それが少し気に掛かるが、慶次郎は気持ちを立て直して松風の手綱を掴み、身軽にひょいっと飛び乗った
「へぇ」
普段から馬に乗り慣れているのだろう
松風の上に居る慶次郎は様になっていた
その姿に想わず声を漏らす
「似合ってるわね、結構」
「そうでしょ」
してやったりと、慶次郎がニヤッと笑ったその直後、いきなり松風が暴れ出す
「う、うわ!」
乗っている慶次郎は手綱をしっかり握り直し、何とか立て直そうと大声を出す
「どう!どう!どう!」
「奥方様、危ない」
「大丈夫よ。松風は私に怪我なんかさせない」
「ですが・・・」
帰蝶を庇う龍之介の顔に、松風の蹴った砂がぽちぽちとぶつかる
「おっ、落ち着け!こら!」
前足、後ろ足を交互に振り上げ、松風は慶次郎を振り落とそうと激しく飛び跳ねた
普通ならもうとっくに落馬しても不思議ではない
それでも慶次郎は必死な形相で松風にしがみ付いていた
その体の半分が背から零れ落ちそうになった頃、漸く帰蝶が声を掛ける
「おやめ、松風」
たったその一言で、さっきまでの暴れ振りが嘘のように、松風は大人しくなった
「はっ・・・、はっ・・・、嘘だろ・・・?」
「この子は私と一緒で気性が激しいの。この子は私と吉法師様以外、誰も乗せたことがないわ」
「そんな・・・。もっと早く言ってくれよ」
気が動転したのか、慶次郎は有り得ない口の利き方をした
「言ったら、乗らなかった?お前のことだから、余計向きになって乗りこなしてやろうって想うんじゃないの?」
「
なんで自分を理解できるんだ
今日、初めて逢ったのに
そんな言葉が慶次郎の胸に浮かんだ
「じゃ、行きましょうか。龍之介」
「はい」
「戻りは夕餉までにできるよう努力するから、なつには仕事は帰ってからするって言っておいて」
「はい」
「作治」
「はい」
帰蝶は馬の世話係りの老人にも声を掛ける
「松風の藁、新しいのに換えておいて。多分疲れるだろうから、多めにお願い」
「はい」
「松風も、おじさんだもんね」
「いえいえ、まだまだ若いですよ、松風は」
「慶次郎」
「は・・・、はい」
「お前は、そうね、そこの栗毛の馬でどう?優駿よ」
「何でも良いです」
「作治」
「はい」
「その寿を出してあげて」
「承知しました」
寿と呼ばれた栗毛に鞍と手綱を繋げる
その間、帰蝶は松風に鐙だけを着けていた
「鞍は?」
「要らないわ。鞍なんか付けたら、うっかり遠出しちゃう。そしたら夢中になって帰れなくなって、それこそなつに大目玉食らうわ」
「ふ~ん」
その『なつ』と言う人物は、相当怖い侍女なんだな、と、単純にそう想った
「行くわよ?!」
颯爽と松風に跨り、帰蝶が声を掛ける
「ま、待てよ!先に行くなんてずるいぞ!」
最早慶次郎には、目の前に居る人物が誰なのか、など、考えられなかった
「じゃぁ、何処に行きたい?お前の好きなとこで良いわ」
「だったら、熱田まで競争だ」
「熱田?」
熱田は帰蝶自身、まだ行ったことがない
方向はわかっても、清洲からの道筋がわからない
「庄内川は越えられないわ。早く戻らなきゃならないし、手近なところにしない?」
「それじゃぁ、七宝天神はどうだい」
「七宝天神?」
「今日はそこで夏の奉納相撲だ」
「奉納相撲?」
その言葉を聞き、帰蝶の目が輝く
「勝幡より清洲に近い。場所も知ってるかい?」
「ええ、何度か七宝には行ったことがあるわ。天神様は行ったことがないけど、場所は知ってる」
「じゃぁ、そこにしよう」
「ええ」
「同時に走るぜ?」
「良いわよ」
「用意」
慶次郎の声に、帰蝶は松風の手綱を握り締めた
「どん!」
同時に走る
脳裏に浮かぶ
信長とよく、那古野城を抜け出したことを
その度に平手政秀に追い駆け回され、戻れば表座敷で延々と説教を食らった
女の自分に、馬に乗ることを教えてくれた
お陰でこうして、自分の自由で松風に乗れる
松風は帰蝶を乗せ、元々農耕馬だとは想えぬほどの堂々とした素晴らしい走りで、少し先を走っていた寿を捉えた
「へへっ。なんだかんだっても、所詮女の腕じゃ俺に追い付けるわけが
そう高を括っていた慶次郎の真横を、松風の鼻先が近付く
視界に松風が入った
「え・・・?」
横を向いた瞬間、松風が寿を追い抜いた
「まさか
あっと言う間に、鞍を着けていない帰蝶に追い抜かれた
清洲の大堀の橋を渡る頃には、すっかり置いてけぼりを食らう
「冗談だろッ?!」
馬には絶対の自信があった慶次郎の自尊心を、帰蝶はずたずたに引き裂いた
「はいッ!松風ッ!」
軽く鞭を当てる
松風はどんどん加速して行った
さっき作治が「松風に敵うヤツは居ない」と言ったのは嘘なんかじゃなかった、と、想えるほど
「もっとしっかり俺に捕まってろ。俺の手綱は乱暴で有名だからな、振り落とされても拾ってやらんぞ」
ふと、信長の言葉が蘇った
初めて早馬に乗った時の、あの感触が想い返される
風が強くて、目を開けているのがやっとだった
直ぐ前にある夫の背中が、自分をその風から守ってくれていた
あの時はまだ少年で、背中も小さかった
だけど帰蝶にとっては何に替えることもできないほど、広くて頼もしい背中だった
その信長に、一度も馬で勝ったことがなかった
この松風を以ってしても
初夏の香りが鼻腔を突く
もう直ぐ戦が始まると、帰蝶に教える
夫の夢を守るための、第一戦が
「ほらー!行けーッ!」
神社で行なわれている奉納相撲の観戦に、帰蝶は夢中になった
拳を振り上げ、応援する
「ちぇっ。結局、奥方様には勝てなかった」
隣では悔しそうな顔で慶次郎が土俵を見る
「世界は広い。自分よりも優れている者など、この世には大勢居る。その世界を見て自分ももっと強くなりたいと願うも、狭い箱庭で満足するのも、お前の勝手よ。私は夫に世界の広さを教わった。この世は計り知れないことだらけだと、教わった。だから、その世界で自分を試したい」
「何を?」
「私が何者であるのか、を」
「
今まで、そんなことを口にした女が居ただろうか
女は黙って男に従い、子を作れば良いだけの存在だと、誰かが言っていた
慶次郎も、そんなもんなんだろうと想っていた
それでも、何かが違うような気がして、突っ張って生きていた
その自分に真っ直ぐ、気持ちをぶつける女が他に居ただろうか
慶次郎は、自分の隣で夢中になって相撲を観戦している帰蝶を、ただじっと見詰めた
『女』の器をした『将』が、そこに居た
爪先に転がる石を見て、それを何に使えるのか考えるよりも、目の先にある海の、その水をどう使おうか考える
奥方様はそんな人なんだと、慶次郎は想った
敵いっこない、と
「
「え?なんて言ったの?!」
歓声が煩くて、慶次郎の声が良く聞こえない
「俺、あんたに着いて行くっつったの!」
「そう」
「そう、って、あのね・・・」
あっさりした帰蝶の返事に、慶次郎は肩透かしを食らう
「理由なんて、なんでも良いわよ。お前が行きたい場所に行けば良い。居たい場所に居れば良い。それだけよ」
「
慶次郎の目が見開かれる
そんな考えを持つ女がこの世に居るのが信じられない
「それー!次行けーっ!」
帰蝶は自分よりも相撲に夢中になっている
その光景に慶次郎は苦笑いし、共に観戦した
「おらぁー!だらしねーぞ!しっかりしろやッ!」
「あはははは!今年は西の村が勝ったわね。米より野菜の方が豊作かしら」
「それでも良いや。大根の田楽は好きだからな」
「偶然ね、私も大好きよ、大根田楽」
「やっぱり芥子味噌だよな」
「何言ってんのよ、甘酢味噌でしょ」
「芥子味噌だって」
「甘酢味噌よ」
つまらないことで言い争いながら、松風と寿の待つ神社の隅に戻る
「松風」
「ん?」
「欲しい?」
突然言い出す帰蝶に、慶次郎は少し驚きながら、だけどその背中に微笑みながら応えた
「要らないっすよ」
「え?」
慶次郎の返事に帰蝶は振り返った
「だって、誰も乗せないんでしょ、そいつ」
「慶次郎」
「それに、奥方様だって、心底くれてやろうって気はないんじゃないんすか?」
「え
「そう、顔に書いてある」
「
帰蝶は慌てて自分の頬やおでこを手でカサカサと擦った
「あっはっはっはっはっ!」
「からかったのね?!」
「そう怒りなさんな。さっきの仕返しだぁ」
「お前ね」
「松風に子は居ないのかい?」
「居るわよ、何頭か」
「だったら、その内の一頭、くれないかい。その代わり、この前田慶次郎利益、あんたの好きに使ってやってくれぃ。それでとんとんだ」
「とんとん、ね」
安い買い物なのか高い買い物なのか、さすがの帰蝶もこの時はわからなかった
ただ、一応は仕官したことになるが、実質帰蝶の『遊び相手』としての役割の方が大きくて、誰も慶次郎を家臣だとは想わなかったが
「あー・・・。やっぱり、夕餉過ぎちゃった・・・。なつ、頭から角出してるだろうなぁ・・・」
空はとっぷり茜色に染まり、遠くで鴉が鳴いていた
鞍のない松風を器用に乗り、ぼやく帰蝶に慶次郎も掛ける言葉がない
『なつ』と言う人物を、まだ知らないからだ
下手に慰めて逆効果だったら怖い
粗野に見えて慶次郎は、意外と細かい心遣いのできる男だった
「でも、露店に出てた鮎の塩焼きは美味かった」
苦し紛れに、何気ない一言を呟く
「そうね、鮎の塩焼き。確かに美味しかった。旬になればもっと美味しいわよね」
「鮎と言えば、醤油甘露煮だよね」
帰蝶が食い付いてくれたことで、そこから話も盛り上がるかと想えば
「何言ってんのよ。味醂干しに決まってるでしょ」
「甘露煮だってぇの」
「味醂干しよ」
「甘露煮」
「味醂干し」
どうもこの奥方様とは、食の趣味は相容れないようだ、とも、想った
そんな遣り取りを繰り返しながら清洲に戻ると、その門前で貞勝、資房が顔色を変えて待ち受けていた
「奥方様!」
「ど、どうしたの。なつ、そんなに角出してるのっ?」
さすがの帰蝶も焦る
「一大事でございますッ!」
「
守山で、清洲派、末森派が衝突
その先導者でもある清洲派・坂井と、末森派・角田の抗争に信時が巻き込まれ、切腹したと言う
「河尻!」
「はいッ!」
「今直ぐ末森から佐久間を引き入り、守山に入れッ!ぐずぐずしていたら末森に付け込まれるッ!」
「はいッ!」
「五郎左衛門!」
「は、はい!」
「那古野の孫三郎様を仲介に、孫十郎様を守山に戻せッ!」
「はいぃ!」
「奥方様・・・ッ!」
慌しく動き回る表座敷で、恒興が帰蝶の小袖の袖を掴んだ
「どうしたの、勝三郎」
「ち・・・、千郷様が・・・」
「千郷姫が、どうかしたの?」
「守山を脱出し、今、志賀の常安寺に匿われておられます・・・ッ」
「それで、どうしたいの!」
余りの慌しさに、帰蝶は悠長に構えていられる余裕がなかった
書類作成の片手間に恒興の話を聞くため、つい怒鳴りがちになる
「迎えに行きとうございますッ!」
精一杯の声を張り上げ、恒興は応えた
「行ってらっしゃい!」
帰蝶は良く考えもせず許可する
「は、はいッ!」
「奥方様、千郷様を如何なさるおつもりですか」
なつが、ふと話し掛けた
「荒尾を手放せば、伊勢湾の制海権を失ってしまう。末森に取られるわけには行かないのよ、千郷様は!」
「わかりました」
「龍之介!」
「はい!」
「長谷川に、滝川を連れ戻して来るよう伝えて!今、岩倉の方に行ってるから!」
「はい!承知しました!」
「誰か、新五を局処から連れて来て!」
「はい!」
義近が表座敷を駆け出した
「兵助!何処!」
「はい、ここです!」
表座敷の外の縁側から、兵助の声がした
「三左と弥三郎に、守山護衛を頼んで来て!」
「はい!」
「お前は那古野に行って、五郎左衛門の代わりに那古野に残って、孫三郎様の護衛を!末森が那古野にまで手を出そうとしたら、直ぐ連絡して!」
「はい!」
「馬で行きなさいよッ?!稲葉山に居た時みたいに、走るのが速いのが自慢ですーみたいな、脚で行ったら承知しないからねッ?!」
「はははいッ!」
「
どんな生活だったんだ、と、聞いていたなつは頭から汗を浮かばした
「さて、一段落」
兵助が出た後、それまでのゴタゴタした騒ぎが嘘のように、帰蝶の声が落ち着いた
「後は勝三郎が千郷様を連れて来るまで、情報整理でもしてましょうか」
「はい、そうですね」
いつものことなのか、他の人間はそう慌てた様子でもない
だが、こう言った場面に初めて遭遇する慶次郎は、口をあんぐりと開いたまま呆然としていた
その、一段落着いた頃に利治がやって来る
「遅い!」
のんびりしていたわけではないが、それでも帰蝶は怒鳴った
「呼んだら直ぐに来なさい!」
連れて来いと言われて、間もなくの到着であるにも関わらず、だ
「申し訳ございません」
それでも利治は不平も言わず平伏する
「新五」
「はい」
「姉はもう直ぐ戦に出る」
「はい」
「今直ぐじゃない。多分、田植えが終わって一段落が付いてからだと想うけど、お前はどうしたい?城に残って後詰でも学ぶ?それとも」
「一緒に行きとうございます!」
利治の返事に、慶次郎は目を丸くした
見たところ、まだ十歳かそれくらいだろう
なのに、恐れもせずきっぱりと返事する
「わかったわ。じゃぁ、慶次郎」
「ん?」
「一緒に来て、新五を守って」
「俺で良いんですかい?」
「お前しか手が空いてないもの」
「そうですね」
あっさり言われ、内心舌を出す
「ああ、そうだ。肝心なこと、忘れてた」
その場に居る者を放ったらかし、帰蝶は突如として自室に戻った
それからしばらくして
「奥方様ぁー!お止めくださいー!」と、後を追ったなつの絶叫する声が響いた
何事かと、利治と慶次郎は駆け出す
「どうしたどうしたっ?」
「何かあったんですかっ?!」
声を辿ると、本丸の中庭に到着する
そこに刀を持った帰蝶と、止めようとするなつの姿が浮かんだ
「姉上!ご乱心ですかっ?!」
「一体どうしたってんだっ」
「もう、煩いなぁ、みんなして」
そう言いながら、帰蝶は手にしていた陣太刀を鞘から抜く
「これは、斎藤義龍が吉法師様に、って贈った物なの」
「
「でも、必要ないから返そうと想って」
「だったら普通に返しゃぁいいじゃないか。なんだってそんなとこで振り上げるんだい」
「こうするからよっ!」
そう言いながら、帰蝶は庭に飾ってある削り岩に向って、太刀を振り下ろした
ところが、勇ましく振り下ろしたは良いが、ガシャン!と派手な音がするだけで、岩も刀もびくともしない
「いったぁーい!」
手が痺れて、帰蝶は持っていた刀を落としてしまう
「何やってんだか」
呆れながら慶次郎が、帰蝶の落とした刀を拾い上げた
「これ、折っちまいたいのかい?」
「そうよ」
「奥方様ッ」
「何でまた。高そうな刀じゃないか、もったいない」
「だとしても、贈られた吉法師様は本陣にそれを飾ることができなくなってしまったわ。それをできなくしたのは、斎藤よ。だったら、必要のないものは返すのが筋ってもんでしょ?」
「そうかもしんないけどね?」
「これが私流の返し方よ。貸して。真っ二つに折ってやるんだから」
「それでも、今のあんたにゃこの刀、折れやしないよ」
「何でよっ」
「竹を割るのと、刀そのものを折ってしまうのとじゃ、覚悟が違うんだよ、覚悟が」
「覚悟、って・・・」
「あんた、まだその覚悟が足りないねぇ。その綺麗な手は、人を殺したことがあるのかい?」
「そっ、そんなことっ・・・!」
「ないんだろう?刀ってのはね、結局人を殺すための道具だ。その人殺しの道具を折るってのは、そう簡単には行かないんだよ」
「だったら、お前にはできるのっ?」
むかっとして、帰蝶は慶次郎に言い返す
その慶次郎はそっと笑って応えた
「折って良いんだね?」
「折れるもんならね」
帰蝶の返事に、慶次郎は岩に向って刀を構え、深呼吸し、それから、一気に振り下ろした
ガシッ!と言う鈍い音と、カーンと言う鋼のぶつかる音が混じり、刀は真っ二つに折れた
折れた半分は宙を切り、利治の足元に落ちる
「うわっ!」
想わず身を翻し難を逃れたが、一歩間違えれば脳天に突き刺さっていたかも知れない
そう想っただけで、慶次郎が憎くて仕方がない利治だった
「刀ってのはね、こう折るんだよ」
「
折れた柄を帰蝶に手渡す
帰蝶は受け取りながら、黙って、なくなった刃先の陣太刀を見詰めた
それがなければ、戦などできやしない
自分はやはり、信長の代わりもできないのかと、絶望的な気分になった
地を這うように探せば、答えはいつか見付かるのだろうか
その後、慶次郎はこの女性こそが帰蝶の言っていた『なつ』と言う人物で、なつが恒興の生母であること、先々代信秀の側室であること、また、帰蝶の重要な補佐でもあることを聞かされ、驚く
「世の中には凄い女が居るもんだ」
「私をそこらの侍女か何かかと想っていたの?」
笑いながら言うのは余裕のある証拠だが
「うん、そうだね。もっと婆かと想ってたよ。意外に若いんだね」
「
慶次郎の言葉に、なつは米神に血管を浮かばせて、早歩きで慶次郎を追い駆け回した
「悪かったってー!若いって言ってんじゃん!」
「誉め言葉にもなってませんよ、それ!」
「あはははははは!」
慶次郎の声と、なつの声と、利治の笑い声が混じる中庭で、帰蝶だけが厳しい現実を突き付けられた
それは、信長からの問い掛けなのかも知れない
このまま大人しくしていれば、平穏な生活を送れるかも知れない
信勝に正直に話せば、もしかしたらあるいは、信長の菩提を弔うための場所を提供してくれるかも知れない
だけど、それで良いのかと、自分自身が問い掛ける
折れた陣太刀を眺めながら、帰蝶は自分に問い掛けた
何がしたいの?
何をやろうとしているの?
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文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
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更新のお知らせ
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1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
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管理人の独り言も混じっております
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[08/13 kitilyou]
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[03/02 kitilyou命]
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ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
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量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
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