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帰蝶が生まれた当時、義龍は局処で暮らしていた
夕べから奥が騒々しい
「奥方様のご出産が近いのですよ」
その頃、まだ生きていた乳母が教えてくれた
「弟かな、妹かな」
「ほほほ。生まれてみないことには、わかりませんね」
「そうか」
時折、ばたばたと足音が聞こえ、だが、側室生まれの自分が簡単に立ち入れる場所でもない
義龍は離れたところからただ見ているしかなかった
「もう、お休みなさいませ、若」
そう言われ、義龍は大人しく寝ることにした
耳障りに眠れないのではないかと想ったが、習慣はどうにもならず、布団に入れば直ぐ寝入る
次の日の朝がどんなものなのか、知りもせず
やがて夜明けが訪れた
まだ眠りの中に居た義龍の耳に、少し離れた場所から人の足音と、人の声がする
「早く殿にお知らせを!」
「 ッ」
生まれたんだ
直感的に、そう想った
義龍は目を擦りながら布団から這い出て、縁側の障子を開けた
「眩しい・・・ッ」
開けたばかりの目蓋に、昇る朝日がいつも以上に眩しく感じる
目がひりひりと痛くなり、義龍は想わず強く擦った
それから明るさに馴れ、ゆっくりと開く
「 わぁ・・・・・」
東の空に輝く、明けの明星
来迎に負けぬとばかりに一層、光り輝いていた
それは大きく堂々と揺らめく
それはこの世で唯一の確かなものにも想え、不動の輝きと、威風とした雰囲気を誇らしげに咲かせているように見える
この輝きを見ているのは、この世で自分一人のような気にさせられた
それほど神聖で、厳かな光景だった
今が朝なのか夜なのか、それがわからぬほどの光りを放つ明星を、義龍はいつまでも見上げていた
生まれたのは女だった
正室生まれとしては、初めての『姫君』である
父の喜びようは大変なものだった
朝から祝賀の準備に本丸が慌しくなる
だが、その祝いの席に義龍が呼ばれることはなかった
遠い場所から大人達が騒ぐのを、ただ眺めている
それしか許されなかった
昼過ぎになり、城の中も漸く落ち着いて来る
「妹君でしたね」
そう、乳母が話し掛けて来た
「奥方様にとって、初めての娘御。お名前は、どうなさるのでしょうか」
「うん。きっと、綺麗な名前を付けると想うよ」
父の正妻・那々は、自分の母親が育てたような人物で、義龍自身、その人柄は良く知っていた
聡明で大人しく、女として申し分のない女性だ
だからきっと、綺麗で美しい名前を考え、それを父に強請るだろうと想っていた
それでも、自分とは関係ないとどこかで距離を置く
祝賀に呼ばれなかったことは、然程気には留めていない
少しずつ父との距離も広がりつつあった頃だからだろうか
ただ、生まれた妹のことは気になった
様子だけでも知りたいと義龍は庭を回り、那々の寝室を伺おうと、こっそりやって来た
物陰からなら少しでも知ることができるだろうか
そう想いながらこそこそと隠れ、辺りを見回す
那々の部屋の障子が開けられていた
何人かの侍女が居るが、それほど大勢と言うわけでもない
みんな布団の上の那々を守るように座っていた
楽しそうな声が聞こえる
その中で那々の声も少しだけ聞こえた
何を話しているのかな、と、子供心ながらに身を乗り出す
ところが、うっかり足を滑らせ、義龍は前のめりに倒れてしまった
「何者ですか?!」
驚いた侍女が立ち上がり、二人ほどが庭に駆け出した
「 若様・・・!」
「え・・・、えへへ・・・」
ばつが悪そうに、義龍は苦笑いをしながら立ち上がる
「遠慮なさらず、お越しくださればよろしかったのに」
那々とはそれほど年が離れているわけではない
まだ若いその女性とは、まるで姉弟のような感覚で居られた
「ですが、出産間もないこととて、お邪魔して煩わしい想いをさせては申し訳ないと・・・」
那々の隣で眠っている、生まれたばかりの赤ん坊に目が行って、言葉は那々に差し向けられても、気持ちは妹しか見ていなかった
「女の子です」
「はい、伺いました。生まれたての赤ん坊を見るのは、初めてです。凄く緊張します」
真っ白な、雪の肌
その中で頬の赤さだけが際立って見える
自分の小指の先程しかないんじゃないかと想えるほど、妹の口唇は小さかった
切れ長の目蓋、ちょこんと乗っかった鼻先がとても愛らしい
「あなたも、そろそろ妻を娶る頃。赤ん坊の扱いに、馴れなくてはなりませんよ」
「はい、那々様」
明るい明星の許に生まれたこの妹は、どんな人生を送るのだろうか
どんな人物に育つのだろうか
母親が絶世の美女なのだから、やはりこの妹も美しく育つのだろうか
私の自慢になるだろうか
そんな想いを浮かばせる義龍に、那々はこう言った
「もし良かったら、あなたがこの子の名付けになってくれませんか?」
「え?!」
那々の申し出に、義龍は酷く驚いた
「わっ、私がですか?!」
周囲の侍女達も驚く
当然だろう
誰もが名付けは道三がするものだとばかり想っていたのだから
「だって、あなたは深吉野様のご子息だもの。賢いあなたなら、きっとこの子に似合った名前を付けてくれる、そう信じてます」
「 」
那々は自分の母・深吉野に心酔している
それは、僅か五歳と言う幼さでここに嫁にやられ、その後の世話の殆どを深吉野がやっていたからか
那々にとって深吉野は、実の母以上の存在だった
深吉野は那々の聖母なのだ
期待する那々の眼差しに、義龍は胸が苦しくなった
それに応えられるだろうか、と
「お前が、名付けに?」
母の深吉野は病を患い、稲葉山を降りて寺で静養していた
山頂にある城では、いざと言う時直ぐに医者が駆け付けれるわけではない
そう言った場合を想定して、母は山を降り、静かなこの寺で暮らしていた
寺の名は崇福寺
一色家から土岐の養子に入った人物が開基したとも伝えられている
古い昔のこととて、真偽の程は定かではないが
本来なら斎藤家菩提寺の常在寺で養生していてもおかしくはないのだが、何故か母はこの寺を選んだ
その寺に赴き、事を伝える
「私に務まるでしょうか・・・」
「那々様が、他ならぬお前を選んでくださったのです。それに応えるのが、お前の役目」
「母上・・・」
母は今も美しいままだった
病でその躰はかなり痩せ細っても、美しいままの母だった
優しい眼差しで、包むように見詰めてくれる
「でも、どんな名前にしたら良いのか、想い浮かばなくて・・・」
「お前の心を惹いた、何でも良い、浮かぶままそれを言葉にし、名前に変えれば良いのよ」
「それだけで良いんでしょうか?」
「名は、言霊。想いを込めれば、願いになる」
「名は、言霊・・・」
母の言ったことは、わかるような、わからないような
理解できぬまま、義龍は稲葉山へと戻った
戻る最中、季節を舞う蝶が飛び交う
「あれは、並揚羽蝶の群か?」
その中に一羽、色の違う蝶が紛れている
「 黄蝶・・・。珍しいな、こんなところで見るなんて」
羽に点のある紋黄蝶は良く見掛けるが、点のない黄蝶はしばらく見た記憶がなかった
「黄蝶・・・か。黄蝶 」
さっき、母に言われた言葉が想い返される
「私の心に浮かぶもの・・・、それを名に・・・」
「 蛺(きょう)蝶?」
「蛺(きょう)蝶とは、揚羽蝶のことです」
城に戻ると、義龍はさっそく那々にそれを告げた
「明の古い時代に杜甫と言う人物が居ます。その人が書き記した物の中に『人生七十古来稀』と言う故事があって、その中に蝶のことを語る場面があるのです」
「どんな?」
布団の中で那々は、興味深げに聞き返した
「朝廷で働く人が、夜詰めの仕事を終え戻る際、見掛けた光景に語り掛けると言うものなのですが、良いでしょうか」
「どうぞ」
「朝(ちょう)より回(かえ)りて日日(ひび)春衣を典し、毎日、江頭(こうとう)に酔(え)ひを尽くして帰る。酒債は尋常、行く処に有り。人生七十、古来稀なり。花を穿つ蛺(きょう)蝶は深深(しんしん)として見え、水に点ずる蜻蜓は款款として飛ぶ。伝語す。風光、共に流転して、暫時、相(あい)賞して、相違ふこと莫(なか)れ」
義龍は一気に読み上げた
「どう言った意味ですか?」
「大雑把に訳せば、朝廷での仕事を終えて退出するたびに春服を質に入れ、毎日のように、その金で曲江のほとりで酒に酔い痴れては家に帰る。酒代の借金も当たり前のこととなり、あちこちに溜っている」
「ぷくく・・・っ」
なんてだらしのない話だろうと、那々は笑った
それでも義龍も微笑みながら続ける
「しかし、人の寿命には限りがあって、古来、七十まで長生きする者は珍しいのだ。生きている内に楽しくやりたい。歩いていると、ふと、揚羽蝶が花の茂みの奥深くに見え、蜻蛉が尾を水面に点々と着けながら、軽やかに飛んでゆくのが見えた。長閑な春の景色に言伝けをしよう。私もお前も共に移ろいゆく身だが、このしばしの間、お互いに慈しみ合い、仲違いすることがないようにしようではないか、と」
「それは、朝廷からの帰り人が、花に群れる蝶や水面の蜻蛉に語り掛けたのですか?」
「恐らくは。日々、いろいろなことがあるけれど、今はただ流れる景色を共に仲良く見ましょうと言う意味ではないかと、私は考えます」
「そんな深い意味が」
「私は、この子と仲良くやりたい。仲違いなどせず、兄妹(きょうだい)仲良く過ごしたい。そんな想いを込めて」
と、義龍は生まれた妹を優しく見詰めた
「朝(ちょう)回(かえり)て、と、花の間を飛ぶ蛺(きょう)蝶は揚羽蝶のことと先程申しましたが、それを掛け合わせました。それと、ここに戻る途中で黄色の蝶、黄蝶を見ました」
「まあ、黄蝶を?」
「とても綺麗な蝶でした」
「紋黄蝶は良く見掛けるけれど、黄蝶は珍しいわね」
那々の言葉に気を良くしたのか、義龍はにかっと笑った
「この子は蝶のように自由に美しく育って欲しい。そして、嫁に行っても悲しいこと、つらいことがあったら遠慮なく帰って来れるように、と、帰蝶。帰る蝶と書いて、帰蝶。 どうでしょうか?」
出戻りなど縁起でもないことだが、それでも心置きなく自由に戻れるように、そして、長生きをするようにと義龍は祈りを込めた
「さすが深吉野様のご子息」と、那々は一度で気に入ってくれた
その後、生まれた娘の名を付けたがっていた父が不機嫌になったのは言うまでもないが、最後は那々のごり押しで『帰蝶』と言う名に決定した
そんな昔を懐かしく想う
「夕庵」
「はい」
天井を見詰めながら、義龍は言った
「もしも私に万が一のことがあったら、父上のあの壷は、帰蝶に渡してくれ」
「お屋形様」
「万が一など、そんなことはありません・・・ッ」
利三が慌てて否定する
「私は、私の命を知っている。清四郎。人は、永遠ではない」
「お屋形様・・・」
「私も、何れは堕つ魂となりて、この世を彷徨う。その時、誰かが私の魂を導いてくれることを、ただ祈るだけだ。願わくば、我が名付け子がそれを担ってくれると良いのだが」
それは妹のことを言っているのか
それとも、嫡男・喜太郎のことを言っているのか
「頼んだぞ、夕庵」
「 承知しました」
「夕庵様・・・ッ!」
あっさり返事してしまう夕庵に、利三は批難の感情を込めて名を呼んだ
それでも夕庵は動じず、続ける
「その日の訪れを、ずっと先であることを願っておりますが」
「ははは。無理を言うな。私は、『親殺し』の業を背負っている。もうそろそろ、楽になりたい」
「 」
帰蝶が生まれて間もなく、義龍は遅れ馳せながらの元服を済ませ、本丸に移った
これで妹とも逢う機会が減るかと想ったが、願いどおり自由に飛ぶ蝶へと成長した帰蝶は、城の中を所狭しと駆け回り、周囲の人間を呆れさせた
その足が、やがて城の外にまで及ぶようになった頃、妹は自分のために松ぼっくりの実を二つ、見付けて来てくれた
それを加工し、細工し、寺で養生している母に土産として持ち寄った
「まあ、綺麗な松の独楽」
「母上に」
「私に?ありがとう」
病は進行と回復を繰り返し、益々母をやつれさせる
それをどうにもできない自分を、義龍は責めた
自分の無力さを
ならばせめて、母を喜ばせてやりたい
その一心で、義龍はできる限り母を見舞った
「帰蝶姫は、どんな方?」
「噂どおりですよ。お転婆で、じゃじゃ馬で、一所にじっとしていられない」
「まあ」
深吉野は、息子の口調に笑った
「でも、とても良い子です。人を外見だけで判断せず、気持ちの内側に入り、内面から見ようとする。その心はとても自由で、名前の通り自分の思うが侭飛び続ける、そんな子です」
「そう、良いお嬢さんに育ったのね」
深吉野は、見たことのない帰蝶を想像し、そっと微笑んだ
「実はこの独楽を作るための松ぼっくりも、帰蝶が探して来てくれたんです」
「まあ、帰蝶姫が?こんな立派な物を。あの広い稲葉山で?まだお小さいのでしょう?」
義龍の話に、深吉野は驚いて目を見開いた
「はい。私が大きな松ぼっくりを探してると聞いたらしく、態々探しに行ってくれたんです」
「そう、優しい方なのね、帰蝶姫は」
「ですが、みんな帰蝶を理解しようとしない。それがとても悲しいです」
「なら、あなたが帰蝶姫を理解すれば良いじゃないの」
「え?」
今度は義龍が、母の言葉に目を丸くする
「あなたが名付け親なのでしょう?」
「え、ええ、まあ・・・」
「親が子を理解できないことこそ、悲しいことだわ。そんなこと、あってはいけない。誰も帰蝶姫を理解しようとしないのなら、あなたが帰蝶姫を理解なさい。大丈夫。願いを込めて名を付けたのなら、帰蝶姫はあなたの願いに応えてくれる」
「母上・・・」
「何も心配しないで。あなたなら、大丈夫。母は信じてます」
「 」
全幅の信頼を寄せてくれる母を、義龍は溢れる想いで見詰めた
この世の素晴らしさ、女の素晴らしさ、人の心の大きさ、豊かさ、男に必要な要素の全てを教えてくれた母が他界したのは、それから三年が経った後だった
父は一度も母の見舞いには行かなかった
その上、それから数年後には自分の父親は別の男だと濡れ衣を着せ、母を辱めた
義龍には許せなかった
許せる行為ではなかった
「父上!お願いです!母上の見舞いに・・・ッ!」
危篤を知らせる使者の前で、義龍は懇願した
「母上は、もう長くないのです・・・。お願いします、一度だけでも母上にお顔を・・・ッ!」
だが、父は動かなかった
土岐家との争いも大詰めに入った頃だった
そんなゆとりなどないとわかっていながら、それでも義龍は父に願った
せめて、母に顔を見せてやって欲しいと
「 ありがとう、豊太丸」
しんしんと、桜の花の花弁が、雪のように舞い散る季節
「しっかり、ね。しっかり、美濃を守れる、強い男になるのよ」
「母上・・・」
枕元、その近くに義龍の作った松ぼっくりの独楽が二つ、並んでいた
母の最期を看取り、悲しみに暮れながら戻った義龍を、両手を合わせた帰蝶が出迎える
「兄様」
幼い妹の見せる、その膨らんだ両手が、そっと開かれた
「紋黄蝶を捕まえたの」
「 」
中から一羽の黄蝶が舞い上がる
「帰蝶、それはお前と同じ名の黄蝶だ」
「え?」
帰蝶はキョトンとして兄を見上げた
妹は、何も知らない
義理の兄の母親が死んだことなど
ただ単純に、黄蝶を見付け、捕まえただけだろう
それを見せただけだろう
それでも、妹の掌の中から生まれた黄蝶は空に昇る
眠るように逝った、母の魂を導くかのように
ぽろり、と、ひと滴、義龍の目から涙が零れた
「兄様」
袖を引っ張る帰蝶に顔を落す
「ありがとう、帰蝶。これで母上も、迷わず空に昇れる」
意味はわからないようだが、兄の言葉に帰蝶はにっと笑った
優しく、美しかった母
誰よりも自分を愛してくれた母
その母を辱めた父
自分を認めようとしなかった父
ただ、憎かったはずのその人を、本当はただ、認めて欲しかっただけのその人を
この世でただ一人の父を殺したその罪の重さを、病を患ったその身に一人受け、一人、立ち
それなのに、弱り掛けた心が求めるのは、いつも一人きり
母ではなく、父でもなく、自分を慕ってくれた妹に、想いをただ伝えたくて
「後は頼んだ」と言えないもどかしさに、苦しみ、のた打ち回り、それでも立ち尽くして
一人、耐えるしかなかった
耐えられたのはきっと、あの時の妹の優しさが心に残っていたからだろうか
だがら、一人耐えようと決めたのか
妹が生まれた秋まで、自分は生きていられるのかと、自分を笑った
織田が接触を試みている、関ヶ原の竹中一族との謁見から戻る
関ヶ原付近は西から美濃を守るためには、欠かせない要所であった
それを織田に奪われるわけにはいかない
大垣城周辺の豪族や国人のいくつかが、織田に寝返ったと報告も入っている
どれほどの優れた部下を持つようになったのか守就にはわからないが、これまでの織田の動きを見ても、そう簡単に美濃を切り崩せるはずがないと踏む
東にはまだ、犬山織田が残っているのだから
これを先に片付けないことには、清洲織田はそうそうこちらに攻め込める筈がないと睨んだ
「ここのところ、織田も静かですね」
伴った部下が守就に話し掛ける
「そうだろうな。春先、三河の松平と接触したと聞く」
「三河の松平?今川の?」
「何を考えているのか、さっぱりわからん。織田はどう動きたいのだ。美濃を攻めるのか、犬山を攻めるのか、それとも、駿府でも攻めるのか」
「駿府まで届きますでしょうか」
「そのために、松平に近付いたとも考えられる」
「松平がどちらに転ぶかで、勝敗が決まると言うことでしょうか」
「そうだな。織田か、今川か。松平を手玉に取った方が、勝つ」
「でしたら、我らも松平に」
「ははは!」
守就は大きな声で笑った
「間の遠山をどうする。あの大きな山は、簡単には動かんぞ」
「はあ・・・、そうでしたね」
「織田は恐ろしい」
「はい?」
部下の男はキョトンとわけのわからない顔を向けた
「我らの知らぬ間に、版図を広げている。伊勢の隣の知多、我らの側の恵那、可児、そして、今は大垣。気が付けば、ぐるりと取り囲まれていたなどと言う、無様な結果だけは招きたくないものだな」
「そうですね・・・」
「東尾張の、今川に奪われていた旧領を取り返し、末森を滅ぼし、岩倉を追い出し、今は犬山だけになった。この犬山が落ちれば、尾張は上総介の物になる。それを止める手立てがないのだ、我らには。恐ろしい男だ、上総介は」
「お屋形様は、どのようにされるのでしょうか」
「何もできん」
「え?」
部下は驚いて守就を見た
「容態が芳しくない。もう、長くはないだろうなぁ」
「そんな・・・」
絶望に、目を地面に落す
その部下に、守就は付け加えた
「今、急ぎ越前朝倉家より、花嫁を呼んでいる最中だ」
「ああ、喜太郎様の」
「もしもお屋形様に万が一のことがあっても、朝倉の後ろ盾さえあれば、織田もそうそう手は出せん。同時に、浅井との連携も強めねばならん。それには、関ヶ原付近の国人との利害も一致させねば」
「 」
部下は自分の理解の範疇を超えたものと、返事をしなかった
大垣周辺の国人を寝返らせることに成功した佐治だったが、関ヶ原の竹中一族を引き込むことには失敗する
「斎藤も、動くのが早かったですね」
藤吉が悔しそうに吐き捨てる
「向うも危機感を募らせていたんでしょう。竹中に織田と斎藤を吟味されては、こちらの分が悪い。織田の情報が漏れる前に手を引いた方が得策ですね」
「まさか斎藤が嫁を差し出すとは、考えてなかった」
「かと言って、殿は政略結婚を嫌ってますからね、斎藤と同じ手は使えない」
「大名のクセに政略を嫌うって、織田の殿様は変わってるなぁ」
「ははは、そうですね、確かに変わってる」
藤吉の言葉に、佐治は笑った
それから、改めて帰蝶が大名であることを自覚する
「そうか・・・。殿は大名なんだ・・・」
と、小さく呟いた
「それで、どうします?関ヶ原は」
「そうですね。無理をして手を伸ばしても、向うは近江、浅井が待ち受けている。六角から旧領を取り戻し、意気も上がってる浅井がどう出て来るかわからない以上、これ以上触手を伸ばすのは危険かも知れません。悔しいですが、竹中は諦めましょう」
「ほんと、悔しいなぁ・・・。あと一歩だったのに」
「仕方ありませんよ。美濃に本拠地を置く斎藤には、敵わない。斎藤以上の好条件など、今の織田では無理です」
佐治から竹中家の引き込みに失敗したと報告を受け、帰蝶の心中は穏やかではなかった
「はぁ・・・」
小さな溜息を吐き、斎藤包囲網を見直す
初めて帰蝶、『信長』との謁見を果たした藤吉も、その余りにもの美しさに溜息を零していた
「本当に、これが織田の殿様で?」
こっそりと佐治に聞く
「そうですよ」
「もっと荒くれた、ならず者かと想ってました」
「まぁ・・・」
先代の吉法師様はそうでしたが、と言う言葉を、佐治は想い切り飲み込む
例え自分と共に美濃攻略の任務を担っているとは言え、藤吉に真実を話すわけにはいかない
「お前が藤吉か」
帰蝶は何やら佐治にこしょこしょと耳打ちしている藤吉に目を遣り、話し掛ける
「はっ、へぇぇっ、そうでございますです、はい!」
「佐治から話は聞いている。大垣周辺の国人をこちらに寝返らせるため、色々と便宜をはかってくれているそうだな」
「い、いいええ!俺、あっ、いや!私は佐治さんと一緒に仕事ができるだけで満足で!」
藤吉は緊張の余り、声を張り上げて応える
その様がおかしく、帰蝶も佐治も笑った
「それだけで満足していては、男の値打ちは上がらない。お前、局処の杉原の娘と恋仲なのだそうだな」
「ええええ?!さっ、さては佐治さんですね?!」
「え?」
「あることないこと色々べらべら喋ったんでしょ!」
「いや、私は何も・・・」
藤吉の迫力に負け、佐治は言い訳も弁明もできなかった
「もう!佐治さんの莫迦ぁ!恥しいっ!」
藤吉はまるでおどけるように両手で顔を押え、女のように腰を振った
「ははは、面白いヤツだな、お前は。残念だが、話したのは佐治ではない。局処の女から聞いた」
「局処の?もしや、奥方様かどなたか様でしょうか」
「奥方・・・」
奥方と言われても、当事者である自分がここで男の恰好をしているのだから、どう言い逃れれば良いのかわからない
「いや、別の女だ」
「別の?ご側室の坂の方様は今、伊勢のご実家で軍事を担っておられる最中、と言うことは」
途端に藤吉は目尻を下げ、いやらしく笑う
「殿も隅に置けませんなぁ。奥方様がいらっしゃる前で、浮気ですか?へっへっへっ」
「浮気・・・」
こともあろうか意外なことを言い出すな、と、帰蝶は頭から汗を浮かばせる
「藤吉さん、縦しんば殿にそのようなお考えが浮かんだとしても、おなつ様がいらっしゃる以上、不可能です」
「佐治・・・」
自分は周囲からそんなにも、なつの監視を強く受けていると想われているのかと、帰蝶は佐治の言葉に二つ目の汗を浮かばせた
「私のことは置いといて。お前が佐治と共に大垣に向っていると聞かされた後に、そのような話がどこからともなく耳に入ったのだ。女の世界は広いようで狭い、狭いようで広い。その、杉原の娘は、私は直接には知らないが、聞けば中々の働き者で、その上頭も切れると評判だそうだ」
「へぇぇ、お寧のヤツ、そんな評判が良いんですかぁ」
「見たところ、お前とは随分年も離れているようだ。なのにお前を選んだと言うことは、お前にも秘めた才能があると言うことなのだろう。だったら、その娘に恥を掻かせぬためにも、今以上に働き、名を挙げろ」
「へっ、へへいっ!」
帰蝶の言葉に、藤吉は慌てて平伏した
「今は先ず、織田に着いてくれた大垣の国人衆を、いざと言う時保護できるだけの武力確保が先決です。もしも斎藤が粛清を始めてしまっては、折角こちらに付いてくださった市橋様に顔が立ちません」
「そうだな。革手は改めて三左が落としに掛かってる。そうなると、革手を中心に斎藤からの離反を試みている国人衆を見極め、接触することが大事か」
帰蝶は佐治に顔を戻して応えた
「そうですね」
「と、なればやはり、革手の隣にある長森を、完全に織田に転ばせるのが肝心」
「長森・・・」
「お能に動いてもらうしかないか」
「お能て、もしかして局処の別嬪さんのことですか?」
「ええ、そうです。美濃の大店の娘さんなんです」
「知ってますよ、はい!俺、いや、私はまだ拝見したことありませんが、うちの殿の蜂須賀様が、随分入れ込んでまして」
「蜂須賀・・・。ああ、お前は蜂須賀家の家臣だったか」
「へえ。蜂須賀様、御用もないのに局処の庭の手前でうろうろしてるのを、お寧がよく見掛けると俺、いや、私に良く話してます。局処でも有名だそうで」
「そんなにもか」
「運良くお能様をお目にされた蜂須賀様の顔と来たら、もう、抱腹絶倒の面立ちだとか」
「ははは。それなら私も一度は見てみたいものだ。あの強面の蜂須賀が、鼻の下を伸ばす様と言うのをな」
「鼻の下なんてもんじゃないですよ。口の端までだら~んと垂れ下がって」
「ははははは」
そんな和気藹々とする帰蝶と藤吉の間を、佐治は恐る恐る割り込むように問い掛けた
「大丈夫でしょうか」
「何がだ?」
「平三郎様が亡くなられて、もう直ぐ一年が経ちますが、お能様に外交能力は戻ってますでしょうか。例えご実家が相手だとしても、向うは美濃に身を置く立場。もしも孤立してしまっては、岐阜屋さんそのものが危険に晒される場合があります」
「そうならぬよう、細心の注意は払う。それに、長森と当時に接触したい相手が居る」
「長森と同時に、接触したい相手?どなた様でしょうか。東美濃の遠山家ですか?」
「遠山とは、既に婚姻関係にある。与一様の気性を見ても、斎藤に寝返るとは想わん」
「では?」
「美濃・多治見の金森だ」
「金森?それって 」
「さて、義母上様に頭でも下げに参るか」
帰蝶は笑いながら立ち上がった
「金森五郎八可近を?」
「確か、義父上様が亡くなられた際、三十郎殿の近習として、義母上様預かりの身になっていると想います」
「ええ、確かに五郎八は三十郎の傅役として、うちで抱えてますが、それが?」
「わたしくにいただけませんか」
「え?」
市弥はわけがわからず、目を丸くした
「金森は、そもそもは土岐家の傍流。その出自は美濃に発祥します」
「ええ、だから私も美濃出身とあって、五郎八には息子の三十郎の世話をしてもらってます」
「金森の本筋は争いに敗れ、近江に渡った。しかし成人すると尾張に入り、義父上様に仕えた。それは偏に、美濃に返り咲くため。その志あるならば、金森は織田にとって良い働きをしてくれます」
「それで?」
「本筋は美濃を離れても、金森家そのものはまだ美濃に残っております。その、金森家が守っている多治見を、織田が保護、そして、金森家が望んでいる本家の帰還を助ける」
「それで、金森家の持つ多治見を、織田に?」
「はい」
「五郎八が織田に仕えているからと言って、上手く運ぶものですか?」
「はい」
胸を張って、堂々と応える帰蝶に、市弥は嬉しそうに口唇を歪ませ、笑った
「どうやって?」
「五郎八の父・金森定近は、そもそもは土岐家の後継者争いに巻き込まれ、美濃を追い遣られたようなものです。その原因を作ったのは、我が父ですが」
「ふふふっ」
「土岐家家督争いに従来は嫡男・土岐修理大夫頼武を推した。これは長男が継承するのに、当然のことでしょう。しかし父は次男・土岐美濃守頼芸を推した」
「操りやすいから」
「はい」
はっきり言う市弥に、帰蝶も笑った
「父は土岐美濃守頼芸とは深い絆で結ばれていた。それは美濃守の愛妾を貰い受けたと言う、女の私にはどうにも納得できない男の絆ですが、深吉野様を介して父と美濃守は深く結ばれていた。表面上では」
「表面上」
「 父は、利用できる物はなんでも利用する性質です。深吉野様も、立身出世に利用されたような物」
「その方は、確か京の公家のお嬢様でしたよね」
「ええ。公家の娘が側室とあらば、都から強力な後ろ盾を得ます。父はそれを背に美濃を制した。それも、かなり強硬な手を使って。ですから、父を嫌っている兄は長良川で大勝した後、現在も母方の姓、一色を名乗っております」
「あなたの家は、とても複雑ね。それに比べたら、織田は単純だわ」
「そんなことは・・・」
市弥の嘆きに、帰蝶は苦笑いした
「それで、五郎八を使って、美濃の金森と接触を?」
「美濃に居る、私の傅役に武井夕庵と申す者がおります」
「そうなの」
「その夕庵の娘が、多治見金森に嫁いでおります」
「まあ、そうだったの」
「その両方から、攻めます」
「落せるの?」
「容易く」
帰蝶のあっけらかんとした返事に、市弥は口を押えて笑った
「父は美濃守から深吉野様を貰い受けると、その後美濃守の甥であり、対立している修理大夫の嫡男・土岐次郎頼純に娘を嫁がせ、懐柔しております。その結果、修理大夫は味方を失い、急速に勢力を落した。金森家はそのごたごたに巻き込まれたような物。今も、少なからず斎藤を恨んでいると想われます」
「それで、斎藤家家臣の武井殿の娘をもらって、一時的な和睦を結んでいるのね?」
「はい、その通りです。本家の代わりに美濃に留まり、家を守っている現在の金森家も、三十郎殿に仕えている金森も、土岐美濃守頼芸を擁した斎藤が大嫌いです。それを利用したいのです」
「革手も、森殿が攻略に差し掛かってる。そうなると、隣にある長森も織田に落ちるのは目前。だから、今まで多治見金森を放って置いたのね?」
「実績のない家に、味方する者などおりませんから」
帰蝶が金森家を放置していたのは、接触するにもその間の岩倉、犬山が邪魔になっていた
だが、岩倉は一族を追い出すのに成功し、可成が革手を落とし、佐治が大垣周辺の平定に当っている今なら、残る犬山も早々手は出せないと踏んだ
「その点、あなたは桶狭間山で今川を倒した。昨年は斎藤に大敗したとは言え、今も東美濃遠山家とは良縁、この春には三河の松平とも接触した」
「金森家と手を結ぶことに成功すれば、松平も織田を無視することはできなくなる。それには、義母上様のご実家、土田家の協力も必要です」
「承知しました。土田は、織田が多治見金森と接触するまで、犬山を抑えておけば良いのですね?」
「はい」
多くを語らずとも理解してくれる賢婦・市弥に、帰蝶は満足げな微笑みを浮かべた
道三の遺した壷は、義龍の部屋にあった
絹の布で包み、桐の箱に仕舞ったままだ
義龍はその壷を一度も手にしていない
父の形見であるその壷を、義龍は自分の手で触れることを嫌っていた
元来、優しい性根である義龍は、今も『父親殺し』を自分自身に汚名として着せている
誰が責めるわけでもないのに、自分自身を責めている
どうしてそこまで、と疑問に想うと同時に、若らしいと夕庵は納得した
母親想いの優しい少年に、父を心の底から憎むことはできないのだろう
そう言った点では、義龍と帰蝶は根本から違う
あの姫君は、自分に牙を剥いた者は誰であろうと決して許さない、激しい気性をしているのだから
そんな二人が仲良くやれていたのは、やはり、義龍が愛情を以って帰蝶に接し、帰蝶は義龍のその想いに応えていただけなのだろう
そう想い浮かべながら、夕庵は義龍の部屋の壷を想い出していた
道三の壷、名を『双麗菊花』
夕庵はその壷を見たことがあった
まだ夕庵も道三も幼かった、ずっとずっと昔のことだ
焦げ茶色の小さな壷を、道三は『宝物だ』と言っていた
「母上から頂いた、大事な壷だ」と、両手に抱えて抱き締めていた
優麗にして華奢だった、美しかった頃の道三を想い出す
「 勘九郎様・・・」
ただ自由を求めて美濃に降り立った鷹は、その歩む道をいつから間違えたのか
側に居て止められなかった自分にも、罪はある
夕庵もまた、自分を責めた
「お前の家は、私が取り返してやる」
そう宣言した『勘九郎』時代の道三が目蓋の裏に蘇り、夕庵は目頭が熱くなるのを感じた
出会いは、道三九歳、夕庵七歳の頃だった
他人のために熱くなれたあの少年は、いつから愛する者ですら利用できるほど、冷徹な男になったのだろうか
帰蝶から久し振りの任務を受け、お能は早速実家の父に手紙を書いた
少なからずとも気分転換にはなったのか、筆を持つ指はすらすらと動く
その手紙を届けるのは、脚の速い藤吉に任される
「よろしくお願いします」
局処一の美女の呼び名も高いお能は、年増の年齢になると相応の妖艶さと言うものが出て来た
その上未亡人と言う愁いを帯びた立場が、尚更色気に拍車を掛けている
本人の望むも望まざるも関係なく
「へっ、へぇえええ!」
藤吉はお能の色気の迫力に押され、地面に額を着けて平伏した
「そこまで頭を下げずとも・・・」
側で見ていたなつは、呆れ果てて頭から汗を流す
お能と個人的に言葉を交わしたことにより、藤吉が蜂須賀小六正勝から軽い虐めを受けたのは後日談の笑い話としても
春はいつものように通り過ぎる
信長の法要を毎年の如く秘密裏に済ませ、政秀寺の住職から周辺の様子を聞く
信長の無銘の墓の隣に並んだ蝉丸の、小さな置石のような墓の前に千切った干し肉を供え、手を合わせた
「蝉丸。そちらの様子はどうだ?相変わらず、吉法師様と義父上様は喧嘩が絶えないか?」
自分で言っておきながら、軽く笑う
「お前にも、嫁を持たせれば良かったか。今頃後悔している。お前以上に賢い鳥など、そうそう居ないからな」
それから、隣の信長の墓に目を遣る
「吉法師様。あなたから見て、帰蝶はどうですか?がんばってますでしょうか。それとも、まだまだですか?」
話し掛けて、応える声などあるわけがない
それでも、語り掛けずには居られない
「知っている人間が相手だと言うのに、中々上手く進みません。だけどその分、みんなががんばってくれている。吉法師様が目を掛けた佐治ですが、私が想う以上の働きをしてくれています。市との夫婦仲も良好のようですし、後は子供が授かるのを待つだけですね。でも、案外早く子が生まれるかも知れません。二人とも、まだ若いですから」
「何仰ってるんですか。殿だって、まだまだお若いですよ」
背中からなつの声がする
振り返る帰蝶に、なつは苦笑いしながら言った
「年寄り臭いことを、仰らないで下さい。そう言うのは、私の役目なんですから」
「なつ・・・」
帰蝶の隣で腰を下ろし、信長に手を合わせる
「若。あなたの奥方様は、強靭な精神の持ち主ですね。さすが、三郎様から『美濃の鷹』の称号を与えられるに相応しい」
「『美濃の鷹』、って、誉め過ぎだぞ、なつ」
「邪魔しないで下さい。私は若に話し掛けてるんですから」
「 すまん」
小さくなる帰蝶に、なつは鼻先で軽く笑った
竹中家から素早く手を引いたお陰か、織田の情報は然程外部に漏れることなく済んだ
お能の実家・岐阜屋からも色の良い返事がもらえた
藤吉を介して、多少なりともお能と顔見知りになったことで、蜂須賀正勝の機嫌も良かった
市弥の呼び掛けに応えた土田家の協力もあって、犬山の妨害もなく多治見・金森家と接触できる運びとなり、月が明ければ五郎八可近を伴って美濃に入る予定も立った
松平元康からも書状が届くようになり、現在、家臣らの説得に当っていると知らされた
何もかも順風良く進んでいると想っていた
そう、信じていた
「池田殿ッ!」
いつものように城にやって来た佐治を、市橋長利が血相を変えて出迎えた
「市橋様、態々お出迎え痛み入り 」
「一大事でございます!」
会釈する佐治の腕を掴んで、長利は叫んだ
「美濃国主、斎藤治部大輔様がお亡くなりに・・・・・・・・・ッ!」
「 え・・・?」
月が変わり、帰蝶が自ら美濃に入り、金森家との交渉に出向こうかと言う頃
永禄四年五月十一日、未明
静かな夜明けがやって来た
障子越しに見える来迎に、義龍は弱々しい声で願った
「開けてくれ・・・。星は出ているか・・・」
臨終である
側には妻・近江の方と嫡男・喜太郎が控えていた
少し離れた場所に夕庵と、利三が並んでいる
義龍の願いに、夕庵が腰を上げ、障子を開く
「 出ております。今朝も煌々と、輝きに満ち溢れております」
「そうか・・・。見てみたい・・・」
「いけません、お屋形様。動かれては、お体に障ります・・・ッ」
妻がそう制止する
「動かざるとも、何れは堕ちる・・・。永らえど、やがて消えゆくならば、せめて最期に一目、見たい・・・・・・・・・・」
明けの明星を
「 」
夕庵が黙って自分を見詰める
利三は軽く頷き、義龍の枕元に擦り寄った
そっと、義龍の首に腕を回し、静かに抱き起こす
あれほどの巨漢を誇っていた義龍の躰は、泣けて来るほど軽くなっていた
夕庵に呼ばれ、数人の小姓衆が部屋に入り、義龍を抱えながら縁側に向う
「 ああ・・・、美しいな・・・。蝶が生まれし朝よりは、やや弱い・・・。だけど、美しい・・・。この世に、こんなにも美しい物があったのか・・・」
昇る朝日の光に負けぬ、大きな星の輝きはまるで宝石のようにいくつもの光線を描き、四方八方にその手を伸ばす
それは幼き頃、伸び伸びと野山を駆け回った妹のようにも見える
思うが侭その肢体を伸ばし、どこまでもどこまでも自由に飛び回るその姿に羨望し、自由のなかった己を反映させ、自分の分も飛んでくれと願ったあの、幼い頃の無垢な気持ちが蘇った
明けの明星を前に、義龍の目尻からひと滴の涙が零れる
「斎藤の家督は、喜太郎に譲る・・・」
妻は『当然だ』と言う顔をした
「まだ、幼い・・・。みな、喜太郎を助け、力になってくれ・・・」
夕庵が黙って頭を下げる
義龍を支えていた利三も、頷いた
「あああ・・・、明るいな・・・。まるで、帰蝶のようだ・・・」
息を漏らすかのように呟く
その名に、利三の胸が抉られた
「堕つ魂・・・、一つ一つ拾い上げ・・・、空に還れと祈り、捧げ 」
想い出せないのか、言葉が詰まる
「永劫、安寧賜らんと願い、想、畏(かしこ)き畏き申さする」
夕庵が助けるように続けた
「東、天より出(いずる)女神の・・・、南・・・、地より生まれし勇猛の・・・、西・・・、山より昇りし地の絶えの・・・、北、この世の天つ守護の神・・・、堕つ魂を護りて・・・、掌(たなごころ)、合わせ、祈り、静かに導かん 」
義龍の声が途切れた
「 お屋形様・・・」
力が抜け、ぐったりとした体重に重みが掛かる
腕の中の義龍が息を引き取ったことを、利三は悟った
「父上ーッ!」
近江の方のすすり泣く声、倅の縋り付く姿
小姓らももらい泣き、義龍の部屋に家臣らが集まり出す
その中で夕庵だけが別の世界に居るかのように、やがて訪れる騒乱を肌に感じていた
美濃は、何れ落される
土岐と斎藤の争いも激しかったあの頃の記憶が、脳裏を巡り夕庵を苦しめた
美濃の、斎藤に属さない国人衆、豪族達の引き込みも順調良く、加えて金森家への訪問のため、先に市弥が実家の土田家との交渉に乗り出した
その護衛として勝家、信盛が同行する
市弥の交渉術の上手さには定評があった
政略で織田に嫁いだ女性なのだから、外交能力があって然るべきであろう
丁度可成からの報告と、藤吉からは岐阜屋からの返事を受けており、表座敷にはそれ以外にも秀隆、恒興といつもの面子に加えて正勝も同席していた
勿論、正勝は藤吉と誼を通わせ、その恋人である寧を間に少しでも、お能に近付こうと言う下心が見えているのだが
長秀は第二次美濃攻めに向けての糧道確保のため、一宮に出向いていた
「五郎左、お前には荷駄隊を頼む」
「私がですか?」
命令された長秀は、兵糧確保は初めてのことではないので驚きはしなかったが、てっきり墨俣を落した後の普請に携わるのだとばかり想っていたため、拍子抜けする
「お前は吉兵衛に似て計算高い」
「計算高い?」
帰蝶の言葉に、長秀の目が据わる
「すまん、言葉を誤った。計算が早い」
言い直しはしたものの、何となく帰蝶の本音が垣間見れて、不貞腐れた長秀は顔をくしゃくしゃに歪ませた
「一粒の米も無駄にすることなく振り分けるには、計算し尽くせるだけの頭脳が要求される。その点お前は、京入洛の際、持ち寄った兵糧を全く無駄にせず、また、足りないと言う失態も犯さなかった。見た目、地味な役割だろうが、賢い人間にしかできない、限定された仕事だとも想っている」
「殿・・・、買い被りでございます・・・」
さすがにそこまで誉められると、心がむず痒くなる
長秀は頬を真っ赤に染めた
「墨俣砦を落せたらの話だが、兵糧だけではなく武器職人も連れて行かなくてはならないかも知れないしな。それらの賃金も計算せねばならない。砦普請でも、その頭脳を如何なく発揮させただろう?吉兵衛は局処から離れられない。戦に連れて行くわけには、いかない」
「はい、承知しております」
貞勝が清洲から離れれば、普段の城の機能が鈍るのだ
清洲周辺の商業地帯も、貞勝を中心として動いているのだから、尚更だ
「私が抱える部下はみな、戦にのみ生きる荒くればかりだ。勝三郎の部隊は兎も角、頭を使うよりも体を使う方を得意とする。武器を手にしていないと、落ち着かない者ばかりなのだからな」
「ははは・・・」
確かに猪武者が多いと、長秀は苦笑いした
「頼めるか?」
「そう言うことでしたら。但し、もう二度と『計算高い』なんて仰らないで下さいよ?結構傷付きますから」
「悪かった」
ふと、長秀との遣り取りを想い出し、帰蝶は笑いを堪えるのに精一杯だった
傍らで秀隆と恒興の会話が聞こえる
「河尻様、あれからお髭を伸ばされていないみたいですけど、どうかなされたんですか?」
「いやな、うちの女房が」
こちらでは、帰蝶が可成と話をしている
「革手の商人達の多くが、尾張に属したいと。やはり長年土岐家の支配を受けていたのが習慣と言いますか、ある種安心のようなものがあったのを、力尽くで斎藤が乗っ取り、そのしこりも大きいようで、未だ懐柔するのを不服としているようです」
「それで、岐阜屋の方はどうだ」
「はい。岐阜屋も長く斎藤には盾突いておりますので、目を付けられているようです。かと言って、美濃一番の大店ですからね、直接手出しと言うのは無理のようですが、もしも不始末でもあれば店を取り潰す用意もあるようです」
「物騒だな」
「ですが、岐阜屋ご次男様が最近、暖簾分けで革手に店を構えまして」
「店を?」
「ご長男様も、お能様のご子息を嫡養子に迎えられ」
「ああ、坊丸か」
「跡取りの心配がなくなったそうで、家督相続権のないご次男様が家を出るという形で」
「なるほど、跡取り問題の騒動を回避したか」
意識の片隅で、秀隆と恒興の会話が聞こえた
「そうだったんですか」
「お陰で詰所の若い連中にまで冷やかされて、敵わん」
「ですが、お似合いですよ」
二人の話していることはよくわからないが、ちらりと目を遣ると、見た目年齢が十歳は若返った秀隆が居る
居て、恒興と楽しそうに談笑していた
他愛ない雑談に花を咲かせる者も居れば、軍議に熱を籠らせる者も居た
「大方様の交渉が上手く行けば、犬山も恐れるほどではなくなる。いやぁ、祈る想いとは、このことでございますな」
正勝の声が右の耳から聞こえ、同時に
「殿ッ!殿ーッ!」
佐治の叫ぶ声が左の耳から聞こえた
「殿ッ!」
取次ぎの小姓も間に合わず、佐治が自ら襖を開けた
それに同席している家臣らの全員が驚く
「どうした、佐治。お前らしくない、騒々しい」
多くの家臣が集まる中で、佐治は息が詰まる想いをしながら帰蝶に伝えた
「大事変でございます!」
「だからどうしたってんだ、佐治。お市様と仲違いでもしたか?」
秀隆がからかうように言う
それに帰蝶らは軽く笑うが、肝心の佐治は笑うどころではなく、いや、そんな余裕などあるわけもなく
「美濃国斎藤家ご当主、斎藤治部大輔義龍様、病のためご永逝ッ!」
「 ッ」
目が大きく見開かれる
一瞬にして、帰蝶の世界の色も、音も、全てが失われた
「何?!」
佐治の言葉に部屋が騒然となる
「斎藤がッ?!」
立ち上がる者も居た
「以前より病に苦しんでいるとは聞いていたが、まさか」
「いや、だがこれで織田も楽になる」
口々に佐治の齎した情報を把握しようと、隣同士あれやこれやと話し合う声が響く中、一番近くに居た可成が視線を帰蝶に戻した
「 殿」
そんな、部屋の騒ぎも帰蝶の耳には届かない
秀隆が大きく口を開いて、自分に何かを言っている
それが聞こえない
秀隆の向こうに見える正勝が、立ち上がって何かを叫んでいるようにも見えた
だけど、何を言っているのかわからなかった
自分の、荒々しい呼吸の音しか聞こえない状況の中、帰蝶は漸く呟く
「兄上・・・が・・・・・」
敵手の死亡
これに喜ばない者など、居るものか
帰蝶は青褪めた顔を俯け、立ち上がり、一瞬ふら付く
それでも踏み止まり、よろけるようにふらふらとしながら座敷を出た
「殿ッ・・・!」
秀隆が慌てて後を追う
「いやぁ、これで美濃攻めも楽に運びますな」
「しかし、向うには美濃三人衆が着いてますぞ。まだ楽観視はできますまい」
ひょこひょこひょこと、藤吉が佐治の許に駆け寄った
「佐治さん、凄いお手柄ですね。そんな大事な情報、仕入れるなんて。これでまた、出世に繋がるってもんじゃないですか。なんでそんな、暗い顔してるんですか?」
「 」
佐治は、帰蝶の事情を知らない藤吉に、どんな説明も困難だと想った
あなたが織田信長だと信じているその人は、実は織田信長ではなく奥方の斎藤帰蝶様で、死んだのはその方の兄上なのだ、と、言えるはずのない言葉を押し殺すことで精一杯だった
周りにも当然、それを知らない者が何人も居る
その殆どが義龍の死去を素直に喜んだ
「ははははは、果報は寝て待てと言うが、殿は本当に運が良い。こうも強敵がころりと逝ってくれるとは、願ったり叶ったりだ」
「殿には天運が着いてらっしゃるのかも知れないな」
わはははは、と、男達の高笑いが表座敷に鳴り響いた
そんな中で恒興は、ぎゅっと拳を握り締め、「どうしてそんなに笑っていられるんだ」と、怒鳴りたい気持ちになった
亡くなったのは殿の兄上様なのに、と、佐治同様、そんな言葉が溢れそうで、苦悶に顔を歪ませた
その恒興の気持ちを代弁するかのように、ずっと静かだった可成が声を張り上げる
「皆々方!」
可成は、帰蝶の、いや、帰蝶を知らぬ者にとってはそれは『信長』であるが、その『信長』の側近中の側近である人物の怒鳴り声に、表座敷の喧騒は一瞬にして収まった
「確かに、我らにとって強敵である斎藤の、その指揮官が急没したのは、織田にとっては幸いなれど、ここには、その斎藤家の御曹司、新五様がおられる。新五様にとっては、兄上様。各々方、ご自分の同僚の身内の死を、それほど喜ぶべきことにございましょうか。新五様の前で、諸手を挙げて笑えるのでございましょうか。これは織田にとっては確かに好機、されど、今のようにはしゃぐに値することかどうか、その胸でお考え下さいませ」
「 」
立ち上がっていた正勝らは、ばつが悪そうに座り込み、何も言えない歯痒さを感じていた恒興は胸がスカッとする想いで、だが、想い直し、帰蝶を追って座敷を出た
「 森殿」
ぽつりと、正勝が可成に話し掛ける
「殿は、どのように出られるのでしょうか」
「勿論、この好機を逃すお方ではございません。しかし、目標が斎藤治部大輔様であったのが逸れてしまったのです。作戦の練り直しは、否めないでしょうな」
「そう・・・か。殿は、それでも戦われるか」
「そう言うお方にございますので」
今は兄の死に打ち拉がれているだろうが、必ず、必ず這い上がる
可成にはその自信があった
なんとなく、なんとなく、本丸に居るのが嫌だった
兄の病は夕庵から伝え知っていた
命に関わることも、わかっていた
だが、昨年の戦に於いて、兄はまだまだ元気であると想い込み、二度目の対峙を楽しみにしていた
なのに
帰蝶は局処の廊下を渡り、自分の部屋に入った
帰命は菊子に預け、本丸に居る
誰も居ない部屋を抜け、障子を開け、縁側に出た
秀隆は帰蝶の私室に入るわけにはいかず、廊下から帰蝶の許へ走った
「 殿」
「 」
背中から、秀隆の声がする
帰蝶は振り返るのが億劫だったのか、頭を上げた
その拍子によろけ、後ろに倒れそうになるのを秀隆が抱き支え、背中にその胸の温かさが伝わった
頭の先が秀隆の肩口に当る
そのまま顔を上げ、呟く
「 どうして男はみんな、私を置いて、先に逝く・・・」
顔を上げていることで喉が詰まり、囁くような小さな声だった
「殿・・・・・・・・」
帰蝶の右目が涙で潤んでいた
瞬きでもすれば、零れて落ちそうなほど
「みんな、私を置き去りにする・・・」
「私は・・・・・・」
秀隆は、抱き締めた帰蝶の腹に当る腕の力を強めた
「私は、殿を置いて行ったりはしません。これまで同様、ずっとずっと、殿のお側におります」
「シゲ・・・・・・・」
心からの誓いに、帰蝶は苦笑いを浮かべ、ゆっくりとした手付きで秀隆の顎を指先で撫でた
「髭・・・」
「はい?」
「もう、伸ばさないのか・・・?」
「ああ」
それから、そっと帰蝶を手放す
離した腕と胸に、冷たい風が吹き通り抜けた
「実はね、女房がこれ、気に入りまして」
「ご内儀殿が?」
「髭がない方が男前だって」
「ははは・・・」
力なく、それでも帰蝶は笑えた
「お陰で、髪剃りの消費が半端じゃなくて。おまけに私、ちょっと童顔でしょう?最近、部下も私を舐めるようになりましてね、全く。腹立たしい」
「ふふっ・・・」
涙が零れないよう、帰蝶は目蓋を閉じて笑い、そして、裸足のまま庭に出た
「付き合え、シゲ」
「 喜んで」
一つ、一つ、魂が堕ちる
それを一つ、一つ、拾い上げ、天に帰れるように祈れと、父は言った
自分は兄の堕ちた魂を拾い上げ、天に帰るための祈りを捧げられるだろうか
兄のように、仇と言えど広い心で全てを許せるほどの、大きな人物になれるだろうか
兄は、自分の目標だったのかも知れない
目指すものだったのかも知れない
その、目指すべき目標を失い、それでも立ち止まることを許されない帰蝶には、泣くことすら認められなかった
初めて、感じた
胸に大きな穴が開く瞬間を
それが、兄の死だった
夕べから奥が騒々しい
「奥方様のご出産が近いのですよ」
その頃、まだ生きていた乳母が教えてくれた
「弟かな、妹かな」
「ほほほ。生まれてみないことには、わかりませんね」
「そうか」
時折、ばたばたと足音が聞こえ、だが、側室生まれの自分が簡単に立ち入れる場所でもない
義龍は離れたところからただ見ているしかなかった
「もう、お休みなさいませ、若」
そう言われ、義龍は大人しく寝ることにした
耳障りに眠れないのではないかと想ったが、習慣はどうにもならず、布団に入れば直ぐ寝入る
次の日の朝がどんなものなのか、知りもせず
やがて夜明けが訪れた
まだ眠りの中に居た義龍の耳に、少し離れた場所から人の足音と、人の声がする
「早く殿にお知らせを!」
「
生まれたんだ
直感的に、そう想った
義龍は目を擦りながら布団から這い出て、縁側の障子を開けた
「眩しい・・・ッ」
開けたばかりの目蓋に、昇る朝日がいつも以上に眩しく感じる
目がひりひりと痛くなり、義龍は想わず強く擦った
それから明るさに馴れ、ゆっくりと開く
「
東の空に輝く、明けの明星
来迎に負けぬとばかりに一層、光り輝いていた
それは大きく堂々と揺らめく
それはこの世で唯一の確かなものにも想え、不動の輝きと、威風とした雰囲気を誇らしげに咲かせているように見える
この輝きを見ているのは、この世で自分一人のような気にさせられた
それほど神聖で、厳かな光景だった
今が朝なのか夜なのか、それがわからぬほどの光りを放つ明星を、義龍はいつまでも見上げていた
生まれたのは女だった
正室生まれとしては、初めての『姫君』である
父の喜びようは大変なものだった
朝から祝賀の準備に本丸が慌しくなる
だが、その祝いの席に義龍が呼ばれることはなかった
遠い場所から大人達が騒ぐのを、ただ眺めている
それしか許されなかった
昼過ぎになり、城の中も漸く落ち着いて来る
「妹君でしたね」
そう、乳母が話し掛けて来た
「奥方様にとって、初めての娘御。お名前は、どうなさるのでしょうか」
「うん。きっと、綺麗な名前を付けると想うよ」
父の正妻・那々は、自分の母親が育てたような人物で、義龍自身、その人柄は良く知っていた
聡明で大人しく、女として申し分のない女性だ
だからきっと、綺麗で美しい名前を考え、それを父に強請るだろうと想っていた
それでも、自分とは関係ないとどこかで距離を置く
祝賀に呼ばれなかったことは、然程気には留めていない
少しずつ父との距離も広がりつつあった頃だからだろうか
ただ、生まれた妹のことは気になった
様子だけでも知りたいと義龍は庭を回り、那々の寝室を伺おうと、こっそりやって来た
物陰からなら少しでも知ることができるだろうか
そう想いながらこそこそと隠れ、辺りを見回す
那々の部屋の障子が開けられていた
何人かの侍女が居るが、それほど大勢と言うわけでもない
みんな布団の上の那々を守るように座っていた
楽しそうな声が聞こえる
その中で那々の声も少しだけ聞こえた
何を話しているのかな、と、子供心ながらに身を乗り出す
ところが、うっかり足を滑らせ、義龍は前のめりに倒れてしまった
「何者ですか?!」
驚いた侍女が立ち上がり、二人ほどが庭に駆け出した
「
「え・・・、えへへ・・・」
ばつが悪そうに、義龍は苦笑いをしながら立ち上がる
「遠慮なさらず、お越しくださればよろしかったのに」
那々とはそれほど年が離れているわけではない
まだ若いその女性とは、まるで姉弟のような感覚で居られた
「ですが、出産間もないこととて、お邪魔して煩わしい想いをさせては申し訳ないと・・・」
那々の隣で眠っている、生まれたばかりの赤ん坊に目が行って、言葉は那々に差し向けられても、気持ちは妹しか見ていなかった
「女の子です」
「はい、伺いました。生まれたての赤ん坊を見るのは、初めてです。凄く緊張します」
真っ白な、雪の肌
その中で頬の赤さだけが際立って見える
自分の小指の先程しかないんじゃないかと想えるほど、妹の口唇は小さかった
切れ長の目蓋、ちょこんと乗っかった鼻先がとても愛らしい
「あなたも、そろそろ妻を娶る頃。赤ん坊の扱いに、馴れなくてはなりませんよ」
「はい、那々様」
明るい明星の許に生まれたこの妹は、どんな人生を送るのだろうか
どんな人物に育つのだろうか
母親が絶世の美女なのだから、やはりこの妹も美しく育つのだろうか
私の自慢になるだろうか
そんな想いを浮かばせる義龍に、那々はこう言った
「もし良かったら、あなたがこの子の名付けになってくれませんか?」
「え?!」
那々の申し出に、義龍は酷く驚いた
「わっ、私がですか?!」
周囲の侍女達も驚く
当然だろう
誰もが名付けは道三がするものだとばかり想っていたのだから
「だって、あなたは深吉野様のご子息だもの。賢いあなたなら、きっとこの子に似合った名前を付けてくれる、そう信じてます」
「
那々は自分の母・深吉野に心酔している
それは、僅か五歳と言う幼さでここに嫁にやられ、その後の世話の殆どを深吉野がやっていたからか
那々にとって深吉野は、実の母以上の存在だった
深吉野は那々の聖母なのだ
期待する那々の眼差しに、義龍は胸が苦しくなった
それに応えられるだろうか、と
「お前が、名付けに?」
母の深吉野は病を患い、稲葉山を降りて寺で静養していた
山頂にある城では、いざと言う時直ぐに医者が駆け付けれるわけではない
そう言った場合を想定して、母は山を降り、静かなこの寺で暮らしていた
寺の名は崇福寺
一色家から土岐の養子に入った人物が開基したとも伝えられている
古い昔のこととて、真偽の程は定かではないが
本来なら斎藤家菩提寺の常在寺で養生していてもおかしくはないのだが、何故か母はこの寺を選んだ
その寺に赴き、事を伝える
「私に務まるでしょうか・・・」
「那々様が、他ならぬお前を選んでくださったのです。それに応えるのが、お前の役目」
「母上・・・」
母は今も美しいままだった
病でその躰はかなり痩せ細っても、美しいままの母だった
優しい眼差しで、包むように見詰めてくれる
「でも、どんな名前にしたら良いのか、想い浮かばなくて・・・」
「お前の心を惹いた、何でも良い、浮かぶままそれを言葉にし、名前に変えれば良いのよ」
「それだけで良いんでしょうか?」
「名は、言霊。想いを込めれば、願いになる」
「名は、言霊・・・」
母の言ったことは、わかるような、わからないような
理解できぬまま、義龍は稲葉山へと戻った
戻る最中、季節を舞う蝶が飛び交う
「あれは、並揚羽蝶の群か?」
その中に一羽、色の違う蝶が紛れている
「
羽に点のある紋黄蝶は良く見掛けるが、点のない黄蝶はしばらく見た記憶がなかった
「黄蝶・・・か。黄蝶
さっき、母に言われた言葉が想い返される
「私の心に浮かぶもの・・・、それを名に・・・」
「
「蛺(きょう)蝶とは、揚羽蝶のことです」
城に戻ると、義龍はさっそく那々にそれを告げた
「明の古い時代に杜甫と言う人物が居ます。その人が書き記した物の中に『人生七十古来稀』と言う故事があって、その中に蝶のことを語る場面があるのです」
「どんな?」
布団の中で那々は、興味深げに聞き返した
「朝廷で働く人が、夜詰めの仕事を終え戻る際、見掛けた光景に語り掛けると言うものなのですが、良いでしょうか」
「どうぞ」
「朝(ちょう)より回(かえ)りて日日(ひび)春衣を典し、毎日、江頭(こうとう)に酔(え)ひを尽くして帰る。酒債は尋常、行く処に有り。人生七十、古来稀なり。花を穿つ蛺(きょう)蝶は深深(しんしん)として見え、水に点ずる蜻蜓は款款として飛ぶ。伝語す。風光、共に流転して、暫時、相(あい)賞して、相違ふこと莫(なか)れ」
義龍は一気に読み上げた
「どう言った意味ですか?」
「大雑把に訳せば、朝廷での仕事を終えて退出するたびに春服を質に入れ、毎日のように、その金で曲江のほとりで酒に酔い痴れては家に帰る。酒代の借金も当たり前のこととなり、あちこちに溜っている」
「ぷくく・・・っ」
なんてだらしのない話だろうと、那々は笑った
それでも義龍も微笑みながら続ける
「しかし、人の寿命には限りがあって、古来、七十まで長生きする者は珍しいのだ。生きている内に楽しくやりたい。歩いていると、ふと、揚羽蝶が花の茂みの奥深くに見え、蜻蛉が尾を水面に点々と着けながら、軽やかに飛んでゆくのが見えた。長閑な春の景色に言伝けをしよう。私もお前も共に移ろいゆく身だが、このしばしの間、お互いに慈しみ合い、仲違いすることがないようにしようではないか、と」
「それは、朝廷からの帰り人が、花に群れる蝶や水面の蜻蛉に語り掛けたのですか?」
「恐らくは。日々、いろいろなことがあるけれど、今はただ流れる景色を共に仲良く見ましょうと言う意味ではないかと、私は考えます」
「そんな深い意味が」
「私は、この子と仲良くやりたい。仲違いなどせず、兄妹(きょうだい)仲良く過ごしたい。そんな想いを込めて」
と、義龍は生まれた妹を優しく見詰めた
「朝(ちょう)回(かえり)て、と、花の間を飛ぶ蛺(きょう)蝶は揚羽蝶のことと先程申しましたが、それを掛け合わせました。それと、ここに戻る途中で黄色の蝶、黄蝶を見ました」
「まあ、黄蝶を?」
「とても綺麗な蝶でした」
「紋黄蝶は良く見掛けるけれど、黄蝶は珍しいわね」
那々の言葉に気を良くしたのか、義龍はにかっと笑った
「この子は蝶のように自由に美しく育って欲しい。そして、嫁に行っても悲しいこと、つらいことがあったら遠慮なく帰って来れるように、と、帰蝶。帰る蝶と書いて、帰蝶。
出戻りなど縁起でもないことだが、それでも心置きなく自由に戻れるように、そして、長生きをするようにと義龍は祈りを込めた
「さすが深吉野様のご子息」と、那々は一度で気に入ってくれた
その後、生まれた娘の名を付けたがっていた父が不機嫌になったのは言うまでもないが、最後は那々のごり押しで『帰蝶』と言う名に決定した
そんな昔を懐かしく想う
「夕庵」
「はい」
天井を見詰めながら、義龍は言った
「もしも私に万が一のことがあったら、父上のあの壷は、帰蝶に渡してくれ」
「お屋形様」
「万が一など、そんなことはありません・・・ッ」
利三が慌てて否定する
「私は、私の命を知っている。清四郎。人は、永遠ではない」
「お屋形様・・・」
「私も、何れは堕つ魂となりて、この世を彷徨う。その時、誰かが私の魂を導いてくれることを、ただ祈るだけだ。願わくば、我が名付け子がそれを担ってくれると良いのだが」
それは妹のことを言っているのか
それとも、嫡男・喜太郎のことを言っているのか
「頼んだぞ、夕庵」
「
「夕庵様・・・ッ!」
あっさり返事してしまう夕庵に、利三は批難の感情を込めて名を呼んだ
それでも夕庵は動じず、続ける
「その日の訪れを、ずっと先であることを願っておりますが」
「ははは。無理を言うな。私は、『親殺し』の業を背負っている。もうそろそろ、楽になりたい」
「
帰蝶が生まれて間もなく、義龍は遅れ馳せながらの元服を済ませ、本丸に移った
これで妹とも逢う機会が減るかと想ったが、願いどおり自由に飛ぶ蝶へと成長した帰蝶は、城の中を所狭しと駆け回り、周囲の人間を呆れさせた
その足が、やがて城の外にまで及ぶようになった頃、妹は自分のために松ぼっくりの実を二つ、見付けて来てくれた
それを加工し、細工し、寺で養生している母に土産として持ち寄った
「まあ、綺麗な松の独楽」
「母上に」
「私に?ありがとう」
病は進行と回復を繰り返し、益々母をやつれさせる
それをどうにもできない自分を、義龍は責めた
自分の無力さを
ならばせめて、母を喜ばせてやりたい
その一心で、義龍はできる限り母を見舞った
「帰蝶姫は、どんな方?」
「噂どおりですよ。お転婆で、じゃじゃ馬で、一所にじっとしていられない」
「まあ」
深吉野は、息子の口調に笑った
「でも、とても良い子です。人を外見だけで判断せず、気持ちの内側に入り、内面から見ようとする。その心はとても自由で、名前の通り自分の思うが侭飛び続ける、そんな子です」
「そう、良いお嬢さんに育ったのね」
深吉野は、見たことのない帰蝶を想像し、そっと微笑んだ
「実はこの独楽を作るための松ぼっくりも、帰蝶が探して来てくれたんです」
「まあ、帰蝶姫が?こんな立派な物を。あの広い稲葉山で?まだお小さいのでしょう?」
義龍の話に、深吉野は驚いて目を見開いた
「はい。私が大きな松ぼっくりを探してると聞いたらしく、態々探しに行ってくれたんです」
「そう、優しい方なのね、帰蝶姫は」
「ですが、みんな帰蝶を理解しようとしない。それがとても悲しいです」
「なら、あなたが帰蝶姫を理解すれば良いじゃないの」
「え?」
今度は義龍が、母の言葉に目を丸くする
「あなたが名付け親なのでしょう?」
「え、ええ、まあ・・・」
「親が子を理解できないことこそ、悲しいことだわ。そんなこと、あってはいけない。誰も帰蝶姫を理解しようとしないのなら、あなたが帰蝶姫を理解なさい。大丈夫。願いを込めて名を付けたのなら、帰蝶姫はあなたの願いに応えてくれる」
「母上・・・」
「何も心配しないで。あなたなら、大丈夫。母は信じてます」
「
全幅の信頼を寄せてくれる母を、義龍は溢れる想いで見詰めた
この世の素晴らしさ、女の素晴らしさ、人の心の大きさ、豊かさ、男に必要な要素の全てを教えてくれた母が他界したのは、それから三年が経った後だった
父は一度も母の見舞いには行かなかった
その上、それから数年後には自分の父親は別の男だと濡れ衣を着せ、母を辱めた
義龍には許せなかった
許せる行為ではなかった
「父上!お願いです!母上の見舞いに・・・ッ!」
危篤を知らせる使者の前で、義龍は懇願した
「母上は、もう長くないのです・・・。お願いします、一度だけでも母上にお顔を・・・ッ!」
だが、父は動かなかった
土岐家との争いも大詰めに入った頃だった
そんなゆとりなどないとわかっていながら、それでも義龍は父に願った
せめて、母に顔を見せてやって欲しいと
「
しんしんと、桜の花の花弁が、雪のように舞い散る季節
「しっかり、ね。しっかり、美濃を守れる、強い男になるのよ」
「母上・・・」
枕元、その近くに義龍の作った松ぼっくりの独楽が二つ、並んでいた
母の最期を看取り、悲しみに暮れながら戻った義龍を、両手を合わせた帰蝶が出迎える
「兄様」
幼い妹の見せる、その膨らんだ両手が、そっと開かれた
「紋黄蝶を捕まえたの」
「
中から一羽の黄蝶が舞い上がる
「帰蝶、それはお前と同じ名の黄蝶だ」
「え?」
帰蝶はキョトンとして兄を見上げた
妹は、何も知らない
義理の兄の母親が死んだことなど
ただ単純に、黄蝶を見付け、捕まえただけだろう
それを見せただけだろう
それでも、妹の掌の中から生まれた黄蝶は空に昇る
眠るように逝った、母の魂を導くかのように
ぽろり、と、ひと滴、義龍の目から涙が零れた
「兄様」
袖を引っ張る帰蝶に顔を落す
「ありがとう、帰蝶。これで母上も、迷わず空に昇れる」
意味はわからないようだが、兄の言葉に帰蝶はにっと笑った
優しく、美しかった母
誰よりも自分を愛してくれた母
その母を辱めた父
自分を認めようとしなかった父
ただ、憎かったはずのその人を、本当はただ、認めて欲しかっただけのその人を
この世でただ一人の父を殺したその罪の重さを、病を患ったその身に一人受け、一人、立ち
それなのに、弱り掛けた心が求めるのは、いつも一人きり
母ではなく、父でもなく、自分を慕ってくれた妹に、想いをただ伝えたくて
「後は頼んだ」と言えないもどかしさに、苦しみ、のた打ち回り、それでも立ち尽くして
一人、耐えるしかなかった
耐えられたのはきっと、あの時の妹の優しさが心に残っていたからだろうか
だがら、一人耐えようと決めたのか
織田が接触を試みている、関ヶ原の竹中一族との謁見から戻る
関ヶ原付近は西から美濃を守るためには、欠かせない要所であった
それを織田に奪われるわけにはいかない
大垣城周辺の豪族や国人のいくつかが、織田に寝返ったと報告も入っている
どれほどの優れた部下を持つようになったのか守就にはわからないが、これまでの織田の動きを見ても、そう簡単に美濃を切り崩せるはずがないと踏む
東にはまだ、犬山織田が残っているのだから
これを先に片付けないことには、清洲織田はそうそうこちらに攻め込める筈がないと睨んだ
「ここのところ、織田も静かですね」
伴った部下が守就に話し掛ける
「そうだろうな。春先、三河の松平と接触したと聞く」
「三河の松平?今川の?」
「何を考えているのか、さっぱりわからん。織田はどう動きたいのだ。美濃を攻めるのか、犬山を攻めるのか、それとも、駿府でも攻めるのか」
「駿府まで届きますでしょうか」
「そのために、松平に近付いたとも考えられる」
「松平がどちらに転ぶかで、勝敗が決まると言うことでしょうか」
「そうだな。織田か、今川か。松平を手玉に取った方が、勝つ」
「でしたら、我らも松平に」
「ははは!」
守就は大きな声で笑った
「間の遠山をどうする。あの大きな山は、簡単には動かんぞ」
「はあ・・・、そうでしたね」
「織田は恐ろしい」
「はい?」
部下の男はキョトンとわけのわからない顔を向けた
「我らの知らぬ間に、版図を広げている。伊勢の隣の知多、我らの側の恵那、可児、そして、今は大垣。気が付けば、ぐるりと取り囲まれていたなどと言う、無様な結果だけは招きたくないものだな」
「そうですね・・・」
「東尾張の、今川に奪われていた旧領を取り返し、末森を滅ぼし、岩倉を追い出し、今は犬山だけになった。この犬山が落ちれば、尾張は上総介の物になる。それを止める手立てがないのだ、我らには。恐ろしい男だ、上総介は」
「お屋形様は、どのようにされるのでしょうか」
「何もできん」
「え?」
部下は驚いて守就を見た
「容態が芳しくない。もう、長くはないだろうなぁ」
「そんな・・・」
絶望に、目を地面に落す
その部下に、守就は付け加えた
「今、急ぎ越前朝倉家より、花嫁を呼んでいる最中だ」
「ああ、喜太郎様の」
「もしもお屋形様に万が一のことがあっても、朝倉の後ろ盾さえあれば、織田もそうそう手は出せん。同時に、浅井との連携も強めねばならん。それには、関ヶ原付近の国人との利害も一致させねば」
「
部下は自分の理解の範疇を超えたものと、返事をしなかった
大垣周辺の国人を寝返らせることに成功した佐治だったが、関ヶ原の竹中一族を引き込むことには失敗する
「斎藤も、動くのが早かったですね」
藤吉が悔しそうに吐き捨てる
「向うも危機感を募らせていたんでしょう。竹中に織田と斎藤を吟味されては、こちらの分が悪い。織田の情報が漏れる前に手を引いた方が得策ですね」
「まさか斎藤が嫁を差し出すとは、考えてなかった」
「かと言って、殿は政略結婚を嫌ってますからね、斎藤と同じ手は使えない」
「大名のクセに政略を嫌うって、織田の殿様は変わってるなぁ」
「ははは、そうですね、確かに変わってる」
藤吉の言葉に、佐治は笑った
それから、改めて帰蝶が大名であることを自覚する
「そうか・・・。殿は大名なんだ・・・」
と、小さく呟いた
「それで、どうします?関ヶ原は」
「そうですね。無理をして手を伸ばしても、向うは近江、浅井が待ち受けている。六角から旧領を取り戻し、意気も上がってる浅井がどう出て来るかわからない以上、これ以上触手を伸ばすのは危険かも知れません。悔しいですが、竹中は諦めましょう」
「ほんと、悔しいなぁ・・・。あと一歩だったのに」
「仕方ありませんよ。美濃に本拠地を置く斎藤には、敵わない。斎藤以上の好条件など、今の織田では無理です」
佐治から竹中家の引き込みに失敗したと報告を受け、帰蝶の心中は穏やかではなかった
「はぁ・・・」
小さな溜息を吐き、斎藤包囲網を見直す
初めて帰蝶、『信長』との謁見を果たした藤吉も、その余りにもの美しさに溜息を零していた
「本当に、これが織田の殿様で?」
こっそりと佐治に聞く
「そうですよ」
「もっと荒くれた、ならず者かと想ってました」
「まぁ・・・」
先代の吉法師様はそうでしたが、と言う言葉を、佐治は想い切り飲み込む
例え自分と共に美濃攻略の任務を担っているとは言え、藤吉に真実を話すわけにはいかない
「お前が藤吉か」
帰蝶は何やら佐治にこしょこしょと耳打ちしている藤吉に目を遣り、話し掛ける
「はっ、へぇぇっ、そうでございますです、はい!」
「佐治から話は聞いている。大垣周辺の国人をこちらに寝返らせるため、色々と便宜をはかってくれているそうだな」
「い、いいええ!俺、あっ、いや!私は佐治さんと一緒に仕事ができるだけで満足で!」
藤吉は緊張の余り、声を張り上げて応える
その様がおかしく、帰蝶も佐治も笑った
「それだけで満足していては、男の値打ちは上がらない。お前、局処の杉原の娘と恋仲なのだそうだな」
「ええええ?!さっ、さては佐治さんですね?!」
「え?」
「あることないこと色々べらべら喋ったんでしょ!」
「いや、私は何も・・・」
藤吉の迫力に負け、佐治は言い訳も弁明もできなかった
「もう!佐治さんの莫迦ぁ!恥しいっ!」
藤吉はまるでおどけるように両手で顔を押え、女のように腰を振った
「ははは、面白いヤツだな、お前は。残念だが、話したのは佐治ではない。局処の女から聞いた」
「局処の?もしや、奥方様かどなたか様でしょうか」
「奥方・・・」
奥方と言われても、当事者である自分がここで男の恰好をしているのだから、どう言い逃れれば良いのかわからない
「いや、別の女だ」
「別の?ご側室の坂の方様は今、伊勢のご実家で軍事を担っておられる最中、と言うことは」
途端に藤吉は目尻を下げ、いやらしく笑う
「殿も隅に置けませんなぁ。奥方様がいらっしゃる前で、浮気ですか?へっへっへっ」
「浮気・・・」
こともあろうか意外なことを言い出すな、と、帰蝶は頭から汗を浮かばせる
「藤吉さん、縦しんば殿にそのようなお考えが浮かんだとしても、おなつ様がいらっしゃる以上、不可能です」
「佐治・・・」
自分は周囲からそんなにも、なつの監視を強く受けていると想われているのかと、帰蝶は佐治の言葉に二つ目の汗を浮かばせた
「私のことは置いといて。お前が佐治と共に大垣に向っていると聞かされた後に、そのような話がどこからともなく耳に入ったのだ。女の世界は広いようで狭い、狭いようで広い。その、杉原の娘は、私は直接には知らないが、聞けば中々の働き者で、その上頭も切れると評判だそうだ」
「へぇぇ、お寧のヤツ、そんな評判が良いんですかぁ」
「見たところ、お前とは随分年も離れているようだ。なのにお前を選んだと言うことは、お前にも秘めた才能があると言うことなのだろう。だったら、その娘に恥を掻かせぬためにも、今以上に働き、名を挙げろ」
「へっ、へへいっ!」
帰蝶の言葉に、藤吉は慌てて平伏した
「今は先ず、織田に着いてくれた大垣の国人衆を、いざと言う時保護できるだけの武力確保が先決です。もしも斎藤が粛清を始めてしまっては、折角こちらに付いてくださった市橋様に顔が立ちません」
「そうだな。革手は改めて三左が落としに掛かってる。そうなると、革手を中心に斎藤からの離反を試みている国人衆を見極め、接触することが大事か」
帰蝶は佐治に顔を戻して応えた
「そうですね」
「と、なればやはり、革手の隣にある長森を、完全に織田に転ばせるのが肝心」
「長森・・・」
「お能に動いてもらうしかないか」
「お能て、もしかして局処の別嬪さんのことですか?」
「ええ、そうです。美濃の大店の娘さんなんです」
「知ってますよ、はい!俺、いや、私はまだ拝見したことありませんが、うちの殿の蜂須賀様が、随分入れ込んでまして」
「蜂須賀・・・。ああ、お前は蜂須賀家の家臣だったか」
「へえ。蜂須賀様、御用もないのに局処の庭の手前でうろうろしてるのを、お寧がよく見掛けると俺、いや、私に良く話してます。局処でも有名だそうで」
「そんなにもか」
「運良くお能様をお目にされた蜂須賀様の顔と来たら、もう、抱腹絶倒の面立ちだとか」
「ははは。それなら私も一度は見てみたいものだ。あの強面の蜂須賀が、鼻の下を伸ばす様と言うのをな」
「鼻の下なんてもんじゃないですよ。口の端までだら~んと垂れ下がって」
「ははははは」
そんな和気藹々とする帰蝶と藤吉の間を、佐治は恐る恐る割り込むように問い掛けた
「大丈夫でしょうか」
「何がだ?」
「平三郎様が亡くなられて、もう直ぐ一年が経ちますが、お能様に外交能力は戻ってますでしょうか。例えご実家が相手だとしても、向うは美濃に身を置く立場。もしも孤立してしまっては、岐阜屋さんそのものが危険に晒される場合があります」
「そうならぬよう、細心の注意は払う。それに、長森と当時に接触したい相手が居る」
「長森と同時に、接触したい相手?どなた様でしょうか。東美濃の遠山家ですか?」
「遠山とは、既に婚姻関係にある。与一様の気性を見ても、斎藤に寝返るとは想わん」
「では?」
「美濃・多治見の金森だ」
「金森?それって
「さて、義母上様に頭でも下げに参るか」
帰蝶は笑いながら立ち上がった
「金森五郎八可近を?」
「確か、義父上様が亡くなられた際、三十郎殿の近習として、義母上様預かりの身になっていると想います」
「ええ、確かに五郎八は三十郎の傅役として、うちで抱えてますが、それが?」
「わたしくにいただけませんか」
「え?」
市弥はわけがわからず、目を丸くした
「金森は、そもそもは土岐家の傍流。その出自は美濃に発祥します」
「ええ、だから私も美濃出身とあって、五郎八には息子の三十郎の世話をしてもらってます」
「金森の本筋は争いに敗れ、近江に渡った。しかし成人すると尾張に入り、義父上様に仕えた。それは偏に、美濃に返り咲くため。その志あるならば、金森は織田にとって良い働きをしてくれます」
「それで?」
「本筋は美濃を離れても、金森家そのものはまだ美濃に残っております。その、金森家が守っている多治見を、織田が保護、そして、金森家が望んでいる本家の帰還を助ける」
「それで、金森家の持つ多治見を、織田に?」
「はい」
「五郎八が織田に仕えているからと言って、上手く運ぶものですか?」
「はい」
胸を張って、堂々と応える帰蝶に、市弥は嬉しそうに口唇を歪ませ、笑った
「どうやって?」
「五郎八の父・金森定近は、そもそもは土岐家の後継者争いに巻き込まれ、美濃を追い遣られたようなものです。その原因を作ったのは、我が父ですが」
「ふふふっ」
「土岐家家督争いに従来は嫡男・土岐修理大夫頼武を推した。これは長男が継承するのに、当然のことでしょう。しかし父は次男・土岐美濃守頼芸を推した」
「操りやすいから」
「はい」
はっきり言う市弥に、帰蝶も笑った
「父は土岐美濃守頼芸とは深い絆で結ばれていた。それは美濃守の愛妾を貰い受けたと言う、女の私にはどうにも納得できない男の絆ですが、深吉野様を介して父と美濃守は深く結ばれていた。表面上では」
「表面上」
「
「その方は、確か京の公家のお嬢様でしたよね」
「ええ。公家の娘が側室とあらば、都から強力な後ろ盾を得ます。父はそれを背に美濃を制した。それも、かなり強硬な手を使って。ですから、父を嫌っている兄は長良川で大勝した後、現在も母方の姓、一色を名乗っております」
「あなたの家は、とても複雑ね。それに比べたら、織田は単純だわ」
「そんなことは・・・」
市弥の嘆きに、帰蝶は苦笑いした
「それで、五郎八を使って、美濃の金森と接触を?」
「美濃に居る、私の傅役に武井夕庵と申す者がおります」
「そうなの」
「その夕庵の娘が、多治見金森に嫁いでおります」
「まあ、そうだったの」
「その両方から、攻めます」
「落せるの?」
「容易く」
帰蝶のあっけらかんとした返事に、市弥は口を押えて笑った
「父は美濃守から深吉野様を貰い受けると、その後美濃守の甥であり、対立している修理大夫の嫡男・土岐次郎頼純に娘を嫁がせ、懐柔しております。その結果、修理大夫は味方を失い、急速に勢力を落した。金森家はそのごたごたに巻き込まれたような物。今も、少なからず斎藤を恨んでいると想われます」
「それで、斎藤家家臣の武井殿の娘をもらって、一時的な和睦を結んでいるのね?」
「はい、その通りです。本家の代わりに美濃に留まり、家を守っている現在の金森家も、三十郎殿に仕えている金森も、土岐美濃守頼芸を擁した斎藤が大嫌いです。それを利用したいのです」
「革手も、森殿が攻略に差し掛かってる。そうなると、隣にある長森も織田に落ちるのは目前。だから、今まで多治見金森を放って置いたのね?」
「実績のない家に、味方する者などおりませんから」
帰蝶が金森家を放置していたのは、接触するにもその間の岩倉、犬山が邪魔になっていた
だが、岩倉は一族を追い出すのに成功し、可成が革手を落とし、佐治が大垣周辺の平定に当っている今なら、残る犬山も早々手は出せないと踏んだ
「その点、あなたは桶狭間山で今川を倒した。昨年は斎藤に大敗したとは言え、今も東美濃遠山家とは良縁、この春には三河の松平とも接触した」
「金森家と手を結ぶことに成功すれば、松平も織田を無視することはできなくなる。それには、義母上様のご実家、土田家の協力も必要です」
「承知しました。土田は、織田が多治見金森と接触するまで、犬山を抑えておけば良いのですね?」
「はい」
多くを語らずとも理解してくれる賢婦・市弥に、帰蝶は満足げな微笑みを浮かべた
道三の遺した壷は、義龍の部屋にあった
絹の布で包み、桐の箱に仕舞ったままだ
義龍はその壷を一度も手にしていない
父の形見であるその壷を、義龍は自分の手で触れることを嫌っていた
元来、優しい性根である義龍は、今も『父親殺し』を自分自身に汚名として着せている
誰が責めるわけでもないのに、自分自身を責めている
どうしてそこまで、と疑問に想うと同時に、若らしいと夕庵は納得した
母親想いの優しい少年に、父を心の底から憎むことはできないのだろう
そう言った点では、義龍と帰蝶は根本から違う
あの姫君は、自分に牙を剥いた者は誰であろうと決して許さない、激しい気性をしているのだから
そんな二人が仲良くやれていたのは、やはり、義龍が愛情を以って帰蝶に接し、帰蝶は義龍のその想いに応えていただけなのだろう
そう想い浮かべながら、夕庵は義龍の部屋の壷を想い出していた
道三の壷、名を『双麗菊花』
夕庵はその壷を見たことがあった
まだ夕庵も道三も幼かった、ずっとずっと昔のことだ
焦げ茶色の小さな壷を、道三は『宝物だ』と言っていた
「母上から頂いた、大事な壷だ」と、両手に抱えて抱き締めていた
優麗にして華奢だった、美しかった頃の道三を想い出す
「
ただ自由を求めて美濃に降り立った鷹は、その歩む道をいつから間違えたのか
側に居て止められなかった自分にも、罪はある
夕庵もまた、自分を責めた
「お前の家は、私が取り返してやる」
そう宣言した『勘九郎』時代の道三が目蓋の裏に蘇り、夕庵は目頭が熱くなるのを感じた
出会いは、道三九歳、夕庵七歳の頃だった
他人のために熱くなれたあの少年は、いつから愛する者ですら利用できるほど、冷徹な男になったのだろうか
帰蝶から久し振りの任務を受け、お能は早速実家の父に手紙を書いた
少なからずとも気分転換にはなったのか、筆を持つ指はすらすらと動く
その手紙を届けるのは、脚の速い藤吉に任される
「よろしくお願いします」
局処一の美女の呼び名も高いお能は、年増の年齢になると相応の妖艶さと言うものが出て来た
その上未亡人と言う愁いを帯びた立場が、尚更色気に拍車を掛けている
本人の望むも望まざるも関係なく
「へっ、へぇえええ!」
藤吉はお能の色気の迫力に押され、地面に額を着けて平伏した
「そこまで頭を下げずとも・・・」
側で見ていたなつは、呆れ果てて頭から汗を流す
お能と個人的に言葉を交わしたことにより、藤吉が蜂須賀小六正勝から軽い虐めを受けたのは後日談の笑い話としても
春はいつものように通り過ぎる
信長の法要を毎年の如く秘密裏に済ませ、政秀寺の住職から周辺の様子を聞く
信長の無銘の墓の隣に並んだ蝉丸の、小さな置石のような墓の前に千切った干し肉を供え、手を合わせた
「蝉丸。そちらの様子はどうだ?相変わらず、吉法師様と義父上様は喧嘩が絶えないか?」
自分で言っておきながら、軽く笑う
「お前にも、嫁を持たせれば良かったか。今頃後悔している。お前以上に賢い鳥など、そうそう居ないからな」
それから、隣の信長の墓に目を遣る
「吉法師様。あなたから見て、帰蝶はどうですか?がんばってますでしょうか。それとも、まだまだですか?」
話し掛けて、応える声などあるわけがない
それでも、語り掛けずには居られない
「知っている人間が相手だと言うのに、中々上手く進みません。だけどその分、みんなががんばってくれている。吉法師様が目を掛けた佐治ですが、私が想う以上の働きをしてくれています。市との夫婦仲も良好のようですし、後は子供が授かるのを待つだけですね。でも、案外早く子が生まれるかも知れません。二人とも、まだ若いですから」
「何仰ってるんですか。殿だって、まだまだお若いですよ」
背中からなつの声がする
振り返る帰蝶に、なつは苦笑いしながら言った
「年寄り臭いことを、仰らないで下さい。そう言うのは、私の役目なんですから」
「なつ・・・」
帰蝶の隣で腰を下ろし、信長に手を合わせる
「若。あなたの奥方様は、強靭な精神の持ち主ですね。さすが、三郎様から『美濃の鷹』の称号を与えられるに相応しい」
「『美濃の鷹』、って、誉め過ぎだぞ、なつ」
「邪魔しないで下さい。私は若に話し掛けてるんですから」
「
小さくなる帰蝶に、なつは鼻先で軽く笑った
竹中家から素早く手を引いたお陰か、織田の情報は然程外部に漏れることなく済んだ
お能の実家・岐阜屋からも色の良い返事がもらえた
藤吉を介して、多少なりともお能と顔見知りになったことで、蜂須賀正勝の機嫌も良かった
市弥の呼び掛けに応えた土田家の協力もあって、犬山の妨害もなく多治見・金森家と接触できる運びとなり、月が明ければ五郎八可近を伴って美濃に入る予定も立った
松平元康からも書状が届くようになり、現在、家臣らの説得に当っていると知らされた
何もかも順風良く進んでいると想っていた
そう、信じていた
「池田殿ッ!」
いつものように城にやって来た佐治を、市橋長利が血相を変えて出迎えた
「市橋様、態々お出迎え痛み入り
「一大事でございます!」
会釈する佐治の腕を掴んで、長利は叫んだ
「美濃国主、斎藤治部大輔様がお亡くなりに・・・・・・・・・ッ!」
「
月が変わり、帰蝶が自ら美濃に入り、金森家との交渉に出向こうかと言う頃
永禄四年五月十一日、未明
静かな夜明けがやって来た
障子越しに見える来迎に、義龍は弱々しい声で願った
「開けてくれ・・・。星は出ているか・・・」
臨終である
側には妻・近江の方と嫡男・喜太郎が控えていた
少し離れた場所に夕庵と、利三が並んでいる
義龍の願いに、夕庵が腰を上げ、障子を開く
「
「そうか・・・。見てみたい・・・」
「いけません、お屋形様。動かれては、お体に障ります・・・ッ」
妻がそう制止する
「動かざるとも、何れは堕ちる・・・。永らえど、やがて消えゆくならば、せめて最期に一目、見たい・・・・・・・・・・」
「
夕庵が黙って自分を見詰める
利三は軽く頷き、義龍の枕元に擦り寄った
そっと、義龍の首に腕を回し、静かに抱き起こす
あれほどの巨漢を誇っていた義龍の躰は、泣けて来るほど軽くなっていた
夕庵に呼ばれ、数人の小姓衆が部屋に入り、義龍を抱えながら縁側に向う
「
昇る朝日の光に負けぬ、大きな星の輝きはまるで宝石のようにいくつもの光線を描き、四方八方にその手を伸ばす
それは幼き頃、伸び伸びと野山を駆け回った妹のようにも見える
思うが侭その肢体を伸ばし、どこまでもどこまでも自由に飛び回るその姿に羨望し、自由のなかった己を反映させ、自分の分も飛んでくれと願ったあの、幼い頃の無垢な気持ちが蘇った
明けの明星を前に、義龍の目尻からひと滴の涙が零れる
「斎藤の家督は、喜太郎に譲る・・・」
妻は『当然だ』と言う顔をした
「まだ、幼い・・・。みな、喜太郎を助け、力になってくれ・・・」
夕庵が黙って頭を下げる
義龍を支えていた利三も、頷いた
「あああ・・・、明るいな・・・。まるで、帰蝶のようだ・・・」
息を漏らすかのように呟く
その名に、利三の胸が抉られた
「堕つ魂・・・、一つ一つ拾い上げ・・・、空に還れと祈り、捧げ
想い出せないのか、言葉が詰まる
「永劫、安寧賜らんと願い、想、畏(かしこ)き畏き申さする」
夕庵が助けるように続けた
「東、天より出(いずる)女神の・・・、南・・・、地より生まれし勇猛の・・・、西・・・、山より昇りし地の絶えの・・・、北、この世の天つ守護の神・・・、堕つ魂を護りて・・・、掌(たなごころ)、合わせ、祈り、静かに導かん
義龍の声が途切れた
「
力が抜け、ぐったりとした体重に重みが掛かる
腕の中の義龍が息を引き取ったことを、利三は悟った
「父上ーッ!」
近江の方のすすり泣く声、倅の縋り付く姿
小姓らももらい泣き、義龍の部屋に家臣らが集まり出す
その中で夕庵だけが別の世界に居るかのように、やがて訪れる騒乱を肌に感じていた
土岐と斎藤の争いも激しかったあの頃の記憶が、脳裏を巡り夕庵を苦しめた
美濃の、斎藤に属さない国人衆、豪族達の引き込みも順調良く、加えて金森家への訪問のため、先に市弥が実家の土田家との交渉に乗り出した
その護衛として勝家、信盛が同行する
市弥の交渉術の上手さには定評があった
政略で織田に嫁いだ女性なのだから、外交能力があって然るべきであろう
丁度可成からの報告と、藤吉からは岐阜屋からの返事を受けており、表座敷にはそれ以外にも秀隆、恒興といつもの面子に加えて正勝も同席していた
勿論、正勝は藤吉と誼を通わせ、その恋人である寧を間に少しでも、お能に近付こうと言う下心が見えているのだが
長秀は第二次美濃攻めに向けての糧道確保のため、一宮に出向いていた
「五郎左、お前には荷駄隊を頼む」
「私がですか?」
命令された長秀は、兵糧確保は初めてのことではないので驚きはしなかったが、てっきり墨俣を落した後の普請に携わるのだとばかり想っていたため、拍子抜けする
「お前は吉兵衛に似て計算高い」
「計算高い?」
帰蝶の言葉に、長秀の目が据わる
「すまん、言葉を誤った。計算が早い」
言い直しはしたものの、何となく帰蝶の本音が垣間見れて、不貞腐れた長秀は顔をくしゃくしゃに歪ませた
「一粒の米も無駄にすることなく振り分けるには、計算し尽くせるだけの頭脳が要求される。その点お前は、京入洛の際、持ち寄った兵糧を全く無駄にせず、また、足りないと言う失態も犯さなかった。見た目、地味な役割だろうが、賢い人間にしかできない、限定された仕事だとも想っている」
「殿・・・、買い被りでございます・・・」
さすがにそこまで誉められると、心がむず痒くなる
長秀は頬を真っ赤に染めた
「墨俣砦を落せたらの話だが、兵糧だけではなく武器職人も連れて行かなくてはならないかも知れないしな。それらの賃金も計算せねばならない。砦普請でも、その頭脳を如何なく発揮させただろう?吉兵衛は局処から離れられない。戦に連れて行くわけには、いかない」
「はい、承知しております」
貞勝が清洲から離れれば、普段の城の機能が鈍るのだ
清洲周辺の商業地帯も、貞勝を中心として動いているのだから、尚更だ
「私が抱える部下はみな、戦にのみ生きる荒くればかりだ。勝三郎の部隊は兎も角、頭を使うよりも体を使う方を得意とする。武器を手にしていないと、落ち着かない者ばかりなのだからな」
「ははは・・・」
確かに猪武者が多いと、長秀は苦笑いした
「頼めるか?」
「そう言うことでしたら。但し、もう二度と『計算高い』なんて仰らないで下さいよ?結構傷付きますから」
「悪かった」
ふと、長秀との遣り取りを想い出し、帰蝶は笑いを堪えるのに精一杯だった
傍らで秀隆と恒興の会話が聞こえる
「河尻様、あれからお髭を伸ばされていないみたいですけど、どうかなされたんですか?」
「いやな、うちの女房が」
こちらでは、帰蝶が可成と話をしている
「革手の商人達の多くが、尾張に属したいと。やはり長年土岐家の支配を受けていたのが習慣と言いますか、ある種安心のようなものがあったのを、力尽くで斎藤が乗っ取り、そのしこりも大きいようで、未だ懐柔するのを不服としているようです」
「それで、岐阜屋の方はどうだ」
「はい。岐阜屋も長く斎藤には盾突いておりますので、目を付けられているようです。かと言って、美濃一番の大店ですからね、直接手出しと言うのは無理のようですが、もしも不始末でもあれば店を取り潰す用意もあるようです」
「物騒だな」
「ですが、岐阜屋ご次男様が最近、暖簾分けで革手に店を構えまして」
「店を?」
「ご長男様も、お能様のご子息を嫡養子に迎えられ」
「ああ、坊丸か」
「跡取りの心配がなくなったそうで、家督相続権のないご次男様が家を出るという形で」
「なるほど、跡取り問題の騒動を回避したか」
意識の片隅で、秀隆と恒興の会話が聞こえた
「そうだったんですか」
「お陰で詰所の若い連中にまで冷やかされて、敵わん」
「ですが、お似合いですよ」
二人の話していることはよくわからないが、ちらりと目を遣ると、見た目年齢が十歳は若返った秀隆が居る
居て、恒興と楽しそうに談笑していた
他愛ない雑談に花を咲かせる者も居れば、軍議に熱を籠らせる者も居た
「大方様の交渉が上手く行けば、犬山も恐れるほどではなくなる。いやぁ、祈る想いとは、このことでございますな」
正勝の声が右の耳から聞こえ、同時に
「殿ッ!殿ーッ!」
佐治の叫ぶ声が左の耳から聞こえた
「殿ッ!」
取次ぎの小姓も間に合わず、佐治が自ら襖を開けた
それに同席している家臣らの全員が驚く
「どうした、佐治。お前らしくない、騒々しい」
多くの家臣が集まる中で、佐治は息が詰まる想いをしながら帰蝶に伝えた
「大事変でございます!」
「だからどうしたってんだ、佐治。お市様と仲違いでもしたか?」
秀隆がからかうように言う
それに帰蝶らは軽く笑うが、肝心の佐治は笑うどころではなく、いや、そんな余裕などあるわけもなく
「美濃国斎藤家ご当主、斎藤治部大輔義龍様、病のためご永逝ッ!」
「
目が大きく見開かれる
一瞬にして、帰蝶の世界の色も、音も、全てが失われた
「何?!」
佐治の言葉に部屋が騒然となる
「斎藤がッ?!」
立ち上がる者も居た
「以前より病に苦しんでいるとは聞いていたが、まさか」
「いや、だがこれで織田も楽になる」
口々に佐治の齎した情報を把握しようと、隣同士あれやこれやと話し合う声が響く中、一番近くに居た可成が視線を帰蝶に戻した
「
そんな、部屋の騒ぎも帰蝶の耳には届かない
秀隆が大きく口を開いて、自分に何かを言っている
それが聞こえない
秀隆の向こうに見える正勝が、立ち上がって何かを叫んでいるようにも見えた
だけど、何を言っているのかわからなかった
自分の、荒々しい呼吸の音しか聞こえない状況の中、帰蝶は漸く呟く
「兄上・・・が・・・・・」
敵手の死亡
これに喜ばない者など、居るものか
帰蝶は青褪めた顔を俯け、立ち上がり、一瞬ふら付く
それでも踏み止まり、よろけるようにふらふらとしながら座敷を出た
「殿ッ・・・!」
秀隆が慌てて後を追う
「いやぁ、これで美濃攻めも楽に運びますな」
「しかし、向うには美濃三人衆が着いてますぞ。まだ楽観視はできますまい」
ひょこひょこひょこと、藤吉が佐治の許に駆け寄った
「佐治さん、凄いお手柄ですね。そんな大事な情報、仕入れるなんて。これでまた、出世に繋がるってもんじゃないですか。なんでそんな、暗い顔してるんですか?」
「
佐治は、帰蝶の事情を知らない藤吉に、どんな説明も困難だと想った
あなたが織田信長だと信じているその人は、実は織田信長ではなく奥方の斎藤帰蝶様で、死んだのはその方の兄上なのだ、と、言えるはずのない言葉を押し殺すことで精一杯だった
周りにも当然、それを知らない者が何人も居る
その殆どが義龍の死去を素直に喜んだ
「ははははは、果報は寝て待てと言うが、殿は本当に運が良い。こうも強敵がころりと逝ってくれるとは、願ったり叶ったりだ」
「殿には天運が着いてらっしゃるのかも知れないな」
わはははは、と、男達の高笑いが表座敷に鳴り響いた
そんな中で恒興は、ぎゅっと拳を握り締め、「どうしてそんなに笑っていられるんだ」と、怒鳴りたい気持ちになった
亡くなったのは殿の兄上様なのに、と、佐治同様、そんな言葉が溢れそうで、苦悶に顔を歪ませた
その恒興の気持ちを代弁するかのように、ずっと静かだった可成が声を張り上げる
「皆々方!」
可成は、帰蝶の、いや、帰蝶を知らぬ者にとってはそれは『信長』であるが、その『信長』の側近中の側近である人物の怒鳴り声に、表座敷の喧騒は一瞬にして収まった
「確かに、我らにとって強敵である斎藤の、その指揮官が急没したのは、織田にとっては幸いなれど、ここには、その斎藤家の御曹司、新五様がおられる。新五様にとっては、兄上様。各々方、ご自分の同僚の身内の死を、それほど喜ぶべきことにございましょうか。新五様の前で、諸手を挙げて笑えるのでございましょうか。これは織田にとっては確かに好機、されど、今のようにはしゃぐに値することかどうか、その胸でお考え下さいませ」
「
立ち上がっていた正勝らは、ばつが悪そうに座り込み、何も言えない歯痒さを感じていた恒興は胸がスカッとする想いで、だが、想い直し、帰蝶を追って座敷を出た
「
ぽつりと、正勝が可成に話し掛ける
「殿は、どのように出られるのでしょうか」
「勿論、この好機を逃すお方ではございません。しかし、目標が斎藤治部大輔様であったのが逸れてしまったのです。作戦の練り直しは、否めないでしょうな」
「そう・・・か。殿は、それでも戦われるか」
「そう言うお方にございますので」
今は兄の死に打ち拉がれているだろうが、必ず、必ず這い上がる
可成にはその自信があった
なんとなく、なんとなく、本丸に居るのが嫌だった
兄の病は夕庵から伝え知っていた
命に関わることも、わかっていた
だが、昨年の戦に於いて、兄はまだまだ元気であると想い込み、二度目の対峙を楽しみにしていた
なのに
帰蝶は局処の廊下を渡り、自分の部屋に入った
帰命は菊子に預け、本丸に居る
誰も居ない部屋を抜け、障子を開け、縁側に出た
秀隆は帰蝶の私室に入るわけにはいかず、廊下から帰蝶の許へ走った
「
「
背中から、秀隆の声がする
帰蝶は振り返るのが億劫だったのか、頭を上げた
その拍子によろけ、後ろに倒れそうになるのを秀隆が抱き支え、背中にその胸の温かさが伝わった
頭の先が秀隆の肩口に当る
そのまま顔を上げ、呟く
「
顔を上げていることで喉が詰まり、囁くような小さな声だった
「殿・・・・・・・・」
帰蝶の右目が涙で潤んでいた
瞬きでもすれば、零れて落ちそうなほど
「みんな、私を置き去りにする・・・」
「私は・・・・・・」
秀隆は、抱き締めた帰蝶の腹に当る腕の力を強めた
「私は、殿を置いて行ったりはしません。これまで同様、ずっとずっと、殿のお側におります」
「シゲ・・・・・・・」
心からの誓いに、帰蝶は苦笑いを浮かべ、ゆっくりとした手付きで秀隆の顎を指先で撫でた
「髭・・・」
「はい?」
「もう、伸ばさないのか・・・?」
「ああ」
それから、そっと帰蝶を手放す
離した腕と胸に、冷たい風が吹き通り抜けた
「実はね、女房がこれ、気に入りまして」
「ご内儀殿が?」
「髭がない方が男前だって」
「ははは・・・」
力なく、それでも帰蝶は笑えた
「お陰で、髪剃りの消費が半端じゃなくて。おまけに私、ちょっと童顔でしょう?最近、部下も私を舐めるようになりましてね、全く。腹立たしい」
「ふふっ・・・」
涙が零れないよう、帰蝶は目蓋を閉じて笑い、そして、裸足のまま庭に出た
「付き合え、シゲ」
「
一つ、一つ、魂が堕ちる
それを一つ、一つ、拾い上げ、天に帰れるように祈れと、父は言った
自分は兄の堕ちた魂を拾い上げ、天に帰るための祈りを捧げられるだろうか
兄のように、仇と言えど広い心で全てを許せるほどの、大きな人物になれるだろうか
兄は、自分の目標だったのかも知れない
目指すものだったのかも知れない
その、目指すべき目標を失い、それでも立ち止まることを許されない帰蝶には、泣くことすら認められなかった
初めて、感じた
胸に大きな穴が開く瞬間を
それが、兄の死だった
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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『トモダチコレクション』
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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