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そぞろ歩く人波の、その雑踏の中で女と出逢った
女は特筆すべき美貌の持ち主でもなかった
だが、妻とは別種類の、『心の安堵』と言うものがあった
この女の前では、自分はただの男に戻れる
絶世の美女と呼び名も高く、出自も高く、そして、肩書きすら持つ妻と、平凡でも着飾らない朗らかさと、出自も自分と似たようなもので、そして、ただの『油屋の出戻り後家』でしかない女を比べれば、どうしてだか、今の時親にはこの女の方が重く感じた
『妻の七光りで出世した』と言われずに済む
それだけが、心安らげる唯一の拠り所だった
男慣れした肌に自分の手が添えられるのを、女は全身で喜んでくれる
身悶え、のた打ち回り、そして、歓喜の声を上げてくれた
その中に自分の想いを差し入れ、解き放つ
全てを背負うかのような、そんな重苦しさから解放される瞬間だった
堅苦しい現実でもある妻から逃げるように、女と逢瀬を重ねる
自分に与えられた任務が、その口実を作ってくれた
「 」
何かを囁こうとする女の指先を、時親はぎゅっと握り締めた
それだけで、女は嬉しそうに微笑んでくれる
幸せは、長く続かないから『仕合せ』と言う
「みなさーん、お待たせしましたぁ」
本丸の、帰蝶の執務室には何故か、いつも大勢の人間が集まる
それは局処でもそうであったように、城のあらゆる情報が帰蝶の許に集まるため、人もまた、自然と集まった
その大勢居る部屋に、菊子の元気な声が響き渡った
「おやつですよー」
「わーい!」
その声に一番に反応するのは子供らで、この頃漸く落ち着きを取り戻した市も混じっていた
そんな子供らの群の中に一人、大人が混じっている
「うわーん!犬のにーちゃんが取ったぁー!」
お能の次男・勝丸の泣き声が響く
「バッカ野郎。男がこれっくらいのことで泣くことあるかよ。取られたら取り返せ」
「こら、犬千代。大人気ないことをするな」
苦笑いする帰蝶に窘められ、利家はひょこっと首を竦めた
「大方様もお休みなさってください。この頃可児と清洲を行ったり来たりで、お疲れじゃないんですか?」
と、なつが串団子を盛った皿を、茶と一緒に市弥に手渡す
「まぁ、串団子」
「庶民的だと、お笑いになられますか?」
「いいえ。懐かしいです」
「え?」
思い掛けない市弥の返事に、なつも興味深げな顔をする
「吉法師が幼い頃、串団子を一度だけ手作りしたことがあるんです。全然美味しくなくて不評でしたから、それ以来一度も作ったことはないけれど、吉法師だけは、美味しいと言って、食べてくれました」
「そうでしたか」
市弥も今まで見せたこともないような、優しい表情ができるようになっていた
帰蝶が信勝を殺害して、半年近くが経ったある春のこと
「吉法師様はお酒好きでしたが、串団子も大好物だったんです」
そう、帰蝶が付け加える
「え・・・?」
市弥の目が、キョトンと丸くなった
「きっと、幼い頃お義母様が作ってくださった串団子を、ずっと覚えていたのでしょうね。辛党なのか甘党なのかよくわからなかったけれど、子供の頃の想い出を大事にしたかった表れだったのだなと、今のお話で理解できました」
「 」
そんな些細なことを大事にしてくれていたのかと、市弥は今は亡き信長の優しさに触れ、薄っすらと涙を浮かばせる
が、そんな雰囲気もなんのその、片や子供らが一つの塊と化している串団子の皿を、大の大人である利家も入り混じって大騒ぎしながら食べているのだから、恰好が悪いと言うか見苦しいと言うか、帰蝶も苦言すら告げる元気も無くなった
利家は黒母衣衆の次に位置する赤母衣衆の筆頭を務めていた
初めは信長の小姓だったが、帰蝶の初陣の際にその供をし、豪胆さと胆の太さから信長にも帰蝶にも愛されて、文句なしの抜擢を受けたのが数年前
それ以来、母衣衆筆頭の座を不動のものに君臨していた
と言っても、利家自身砕けた人格の持ち主であるため、黒母衣衆筆頭の秀隆のような貫禄はまだ遠く、自身、子供心の抜け切れない青年にはなったが
その利家も、遠縁の娘を娶り所帯を持った
尚更、早く大人になってくれと祈らずには居られない帰蝶であった
利家が帰蝶の許に現れるのは、いつも岩倉の敵情視察の報告が主だった
「奥方様が恵那の遠山と手を組んだので、間に挟まれた岩倉も迂闊には手出しできないと拱いている様子です。しばらくはお互い様子見の状態が続くでしょうね」
真面目な場面に、何故か雰囲気を壊すかのように、子供らから奪い取った串団子を頬張っている
「お前は本当に、串団子が好きね」
「まぁ、殿の影響ですかね。殿も串団子、お好きでしたから」
「それだけじゃないでしょう?」
「あ、じゃぁ、育ち盛りだから」
「一体いくつになるの、お前は」
「でも、慶次郎だって串団子、好きじゃないですか」
「お前ほどがっつかないわよ、慶次郎は」
他愛ない話の中で、名前の出た慶次郎が利治を連れ、ひょっこり顔を出した
「呼んだ?」
「呼んでねーよ」
「どうしたの、慶次郎」
「いや、呼ばれたような気がしたから」
「嘘を吐け」
利家と慶次郎と帰蝶の言葉が行き交うのを、間に挟まれた利治は顔をあちらこちらへと向け直すのに大忙しだった
父が死んでからこんにちまで、局処でなつから教育を受けていた利治も、そろそろ元服の時期を迎える
今日はその烏帽子親を決める日だった
「丁度良かった。今から呼びに行こうかと想ってたの」
帰命には『乳離れ』をさせている最中だった
乳を与えるのは厳禁とし、今も膨れる重い乳房をぶら下げて、帰蝶は立ち上がる
「烏帽子親を決めたわ」
「へぇ、誰なんですか」
那古野の叔父、信光がそれなら、話もわかる
今ではすっかり帰蝶の後見人になっているのだから
だが、帰蝶は信光ではなく、別の人物の名を口にした
「わ、わたくしがですか?!」
驚いたのは、言われた本人よりも、その母、なつだった
「奥方様、気は確かですか?!」
「母上、それは余りにも酷いお言葉・・・」
「確かも確か、新五の烏帽子親は、勝三郎にお願いしたいの」
「このような若輩者が烏帽子親だなどとあっては、新五様が余りにもお気の毒です」
最早泣きそうな雰囲気のなつに、帰蝶は苦笑いし、恒興も一緒になって泣きたい気分になる
「勝三郎は局処で誰よりも新五と誼を通わせてくれているわ。今では実の兄のような存在なのよ。ね?新五」
「はい、その通りです」
「だから、どうしても勝三郎にお願いしたいの」
「私で構わないのでしょうか?」
「あなたにお願いしたいから、こう言ってるんでしょ?好い加減、信じてくれない?」
疑り深い恒興に、帰蝶は声を荒げて笑う
清洲城の表座敷で利治の元服の儀が行なわれた
前髪を落とす恒興の手は緊張に震え、利治の頭に被せる烏帽子が中々納まらない
「池田殿、落ち着いて」
そっと利治に告げられ、苦笑いする
なんとか結び紐を結わえ上げ、儀式は無事終了した
「これより斎藤新五郎は童名を捨て、斎藤利治の名に置き、武士の誇りと大義を忘れず、日々精進して行くことを誓います」
恒興と二人で考えた宣言を述べ、利治は帰蝶から一対の刀を進呈された
「お前の働き、期待している。斎藤の誉れを忘れず、しっかりと務めなさい」
「はっ!」
織田の体制が帰蝶に移行し、この頃はそれに漸く馴れ始めた
帰蝶に着いている小姓衆の多くが、新しく加入した者ばかりであった
信長時代の小姓達は義近のように独立したり、あるいは実家を継いで一角の武士に成長している
または、小部隊ながらも転属を果たしたりと様々で、仕えて期間の短い龍之介が小姓衆筆頭でもあったりするのだから、ある意味世代交代と言うわけだろうか
利治は武将として、将来は独立した一個部隊を持つよう、更に厳しい教育を受けるため、恒興の部隊に配属された
心情的には馴染みの深い可成の部隊に配属させたかったが、可成の部隊は戦の最前線を駆る精鋭部隊でもあるため、足手纏いになったりはしないかと心配し、それならば後詰が多い恒興の部隊の方が無難かと想われた
利治のお守として、慶次郎も恒興の部隊に配置される
「おー、やっと侍らしい仕事ができるねぇ」
と、悦ぶ慶次郎だが
「なんでお前と一緒なんだ」
と、利治の方は迷惑顔である
そんな会話を遣り取りしている二人を、利家は少し笑いながら離れて見ていた
実兄との家督争いが深刻化している
自分としては兄に家督を譲って、自分は平凡でも背負った運命、武士としての生き方を選びたかった
娶ったばかりの、まだ幼い妻も妊娠し、来年には父親になる
そんな、家庭としても始めたばかりのまだ不安定な中で、兄との争いは極力避けたいと言うのが、利家の本音だった
ところが、その兄が生来病弱でもあるため、もらった後妻、つまり慶次郎の母との間には子ができていない
故に、実質慶次郎がその跡取りになる
いつ自分が死んでも家が断絶せぬようにと、他人の子である慶次郎を態々養子にしたのもそのためであった
なのに、慶次郎自身、前田の後継者争いから逃げたがっている
利家と同じく互いに譲り合っているのだから、決着が着くはずがなかった
利家自身、血は繋がっていないとは言え、慶次郎のことは決して嫌いではない
寧ろ気が合う方であった
利家も慶次郎も、堅苦しいのが苦手で、時には羽目を外したい時、慶次郎は良い相手になってくれている
家督争いなどで仲違いをして、疎遠にならないかと心配している方だった
できることならこのままずっと、良い関係で居たい
そう願っていた
そんなことを想い浮かべながら本丸の中庭から、大手門まで横切ろうとしていた利家の耳に、信じられない会話が聞こえて来た
「 え?奥方様を手篭めにするって、どう言うことだ?」
「 ?!」
何のことかと利家は、慌てて声がする方へ駆け寄り、物陰から様子を伺った
「だからさ、殿が亡くなられてもう二年が過ぎるだろう?そろそろ男が恋しい頃じゃないのか?」
「だからって・・・」
話し合っているのは、信長時代の小姓の残りだった
三人が集まって、良からぬ相談をしている光景にも見える
「この間さ、聞いちゃったんだよ。奥方様の寝室から、何やら悶えるような声が」
「ええ?」
「ありゃ、男が恋しくて、手遊びでもやってるんじゃないのか?だったら、俺達がお慰めして差し上げるのも、小姓の仕事だろう?本来なら殿に躰を差し出すために集められたようなもんだ。でも、その殿が死んでしまって、ここのところ戦も起きてない。このままじゃ俺達の知行だって上がらないぞ?」
「だから、奥方様を手篭めにするのか?」
「奥方様に可愛がってもらえれば、俺達だって岩室殿のように出世できるかも知れないじゃないか」
「もしかして、奥方様が岩室殿を寵愛なさっておいでなのは、男と女の関係にあるからなのか?」
「かも知れないな」
「そんなえこ贔屓なことがあって良いのか?奥方様は公平なお方だと想っていたのに、がっかりだ」
「 あいつら、何話してんだ」
想わず飛び出して、どやし付けてやろうかとも想った
だが、利家はそれをやめた
自分が出てしまっては、突付いた藪から蛇が出ないかと心配したのだ
奥方様に限って、そんな色事に没頭するような、暇など持て余す生活を送ってはいない
そう想っていた
小姓らが話している岩室龍之介は、信長の父の側室だったあやの実弟であり、利家もその人柄は良く知っている
帰蝶は、周囲と上手くやっているつもりでも、やはり変わり者であるため、真の理解者は限られていた
龍之介も、そんな限られた理解者の一人だった
事が大袈裟にならないよう、利家はそっとその場を離れ、だが、やはり気になるもので、元来た道を戻り本丸に入る
手には書類の束を抱え、帰蝶の執務室に向う龍之介を、利家は後ろから声を掛けた
「龍之介」
「 あれ?前田様。岩倉の視察に行かれたのでは?」
「そのつもりだったんだがよ、ちょっと気になることがあってな」
「気になること?如何なさいました?」
「少し付き合ってくれんか?」
「 ?はい」
利家に連れられ、龍之介は局処手前の廊下の隅で立ち止まる
「どうかないさいましたか?」
「いや、な、ちょっと気懸かりなことがあって」
「気懸かりなこととは、どう言ったことでしょう。奥方様のことですか?」
「あ、ああ」
「それならご心配は要りません。この頃若様の離乳も順調に進み、今ではすっかり重湯を召し上がれるまでになりました」
「そうか」
離乳早々帰命も前歯が生え、ついこの間『お食い初め』を終えたばかりである
それを知っていながら何を聞くのだろうと、龍之介は首を傾げる
「いや、な、若様のことじゃなくて、奥方様のことで」
「奥方様が如何なさいましたか?」
「この頃、変わった様子とかないか?例えば夜、とか」
信じたくないが、龍之介の口から「夜の相手をしている」だとか、「手遊びに更けている」などと言う言葉は聞きたくなかった
祈る想いで龍之介の返事を待つ
「 お気付きになられましたか」
「 」
ぽつりと呟く龍之介に、利家は気が遠くなるような感覚になった
「誰にもお話ししていなかったのですが」
「 いや、別に・・・・・・・・」
無理をして話さなくても、と、止めに入りたい一方で、真相を聞きたい好奇心にも勝てない
「時折、魘されることがございます」
「 え・・・?奥方様・・・が、か・・・?」
「はい」
「どうして・・・」
意外な龍之介の返事に、利家も呆けたような顔をする
「恐らくは、勘十郎様殺害の件を、人知れず気に病んでおられるのかも知れません。あの日以来、眠りに就かれた奥方様がほんの時折ですが、夢に魘されることが起き始めました。表面ではなんでもないお顔をなさっておいでですが、奥方様は性根のお優しいお方です。例えご主人様の仇とて、その経緯にも複雑な心情があり、勘十郎様だけが責められるわけではございません。今ではご生母の大方様とも上手くやっておられますが、そのご生母様を見る度に良心の呵責に耐えてらっしゃるのではないかと想います」
「そうか・・・・・・・・・・・・」
あの小姓らは、帰蝶が魘されている声を、悶えた声に聴き間違えただけなのだと言うことがわかった
ほっとする半面、心の内で苦しんでいる帰蝶を楽にしてやれることはないのかと考えながら、今度こそ間違えることなく大手門を抜け、業務に就いた
小牧から犬山織田、斎藤の警戒を強めるため、途中で長秀と別れ、弥三郎は実家に戻った
里帰りは毎年やっているが、一人で帰るのは数年振りのことだった
いつもは小袖姿で戻るのを、今日は仕事の帰りのついでなので、脇には大小を帯びている
その刀姿に親はやはり、それなりに驚く
「随分立派になったわね。それもこれも、お前を可愛がってくださる殿と奥方様のお陰よ。深く感謝なさいね」
母のやえが、武士らしくなった弥三郎に目尻を下げながら肩を撫でる
撫でられる弥三郎は、信長が死んだことをまだ話していないため、返事に困っていた
「お菊さんは、元気にしてる?」
「今年の正月、瑞希と三人で帰っただろ?まだそう経ってないぞ」
「あんたって子は本当に、淡白ね。だからいつまで経っても次の子ができないのよ」
「はっきり言わないでくれる?お菊だって局処の次官なんだからさ、お互いに忙しいんだよ」
「それに引き換え、平三郎のところは四人も子供が居て、将来安泰ね」
「良かったねぇ。ここも跡取り問題、起きそうにもなくて」
「何言ってるの。平三郎の子供に、馬屋の跡なんて継がせられないわ。馬屋は私達の代でお仕舞い。あなた達は自分の家を立派にして頂戴」
言葉は時折辛辣でも、そこには母の愛がぎっしり詰められている
弥三郎は心地の良い想いで、母の声を聞いていた
その弥三郎に庭から妹の声がした
「お兄ちゃん!」
「ああ、さち」
幼かったさちも、今年で十三になる
武家でも平民でも、女の適齢期に差し掛かっていた
「どうしたの?菊子さんに追い出されたの?」
弾ける笑顔できつい冗談を飛ばす
「誰が追い出されたんだよ!」
弥三郎も笑顔で言い返すが、その直後、さちの後ろから親戚の子である佐治の姿も見えた
「おー、佐治」
「お帰りなさい、弥三郎さん。小牧の視察ですか?」
少し昔はここから那古野まで一人で使いに来たこともあるほどしっかりした佐治だったが、十五を越えた今はもっとしっかりしている
さちと佐治が夫婦になれば、父も母も安心できるだろうが、どう言うわけかこの二人の間には、『幼馴染み』と言う感覚以外存在しないらしい
もうずっと同じ屋根の下で暮らしている所為だろうか
その佐治が、こんなことを言い出した
「俺、侍になりたいんだ」
「何だって急に」
特に驚くこともなく、弥三郎は普通の顔をして聞いた
自分が平民から侍になった所為だろうか、自分から望んで侍になったわけではないが、佐治の気持ちがわかるからかも知れない
「那古野のお城に昔お使いで行った時、大勢のお侍を見て来た。みんな、引き締まった顔をしてた。それは、大事な物を守るんだって言う気概みたいなものを感じたんだ。俺は、今の生活に疑問を感じてる。毎日平凡なままで良いのかな、って。馬を追い駆けたり、商売の駆け引きは楽しいけど、それ以上のことがやってみたくなったんだ」
「なんでそれ、正月に戻った時、話してくれなかったんだ?」
昔、自分が使っていた、今は佐治が使っている小さな部屋で二人、膝を付き合わせて話す
「今はその時期じゃないって、想ったのかな」
「それがなんで、今頃になって話す?」
「今しかないって、想ったから」
「何で?」
「もう直ぐ、戦が始まるんだろ?」
「 ?」
佐治の言葉に、弥三郎はキョトンとした
そんな話、帰蝶からは聞かされていない
「みんな言ってる。小牧に清洲織田の兵士が何人も出入りしてるんだ。隣の犬山がかなり警戒してるって。今、一触即発の状態で、いつ戦が起きてもおかしくないって」
「そうか」
帰命も乳離れをしているが、それでも帰蝶は動ける状態にはない
先ずは周辺との外交を強めるためと、信長の母が美濃・可児の土田と交渉をしている最中だ
それが成功すれば、犬山、岩倉への警戒も今以上に充実する
犬山、岩倉を目標に定めながらも、まだその時期ではないと動かないでいるのを、佐治は知らないのか
あるいは、その先を見越しているのか
自分には判断できず、弥三郎は立ち上がった
「来い、佐治。お前を奥方様に見てもらう」
「弥三郎さん?」
「俺じゃ、どうすりゃ良いのかわからん。だけど、奥方様なら 」
佐治を連れ、清洲に戻った弥三郎の側には、妹のさちの姿もあった
「佐治だけなんて、ずるい!」
と、珍しく駄々を捏ねたのだ
商業が盛んと言っても、小牧はまだまだ田舎だった
田舎暮らしの少女が、都会に憧れるのは当たり前のことで、清洲の町を見てみたいと言う妹の要求に、弥三郎も強くは拒めなかったのだ
困惑した顔で帰蝶に頼んでみたら、
「なら、局処で休ませてあげなさい」
と、あっさり入所の許可が下りた
局処に連れて行けば、貞勝がさちの面倒を見てくれると申し出てくれて、安心して任せ、佐治を連れて改めて帰蝶への謁見に臨む
「しばらく見ない内に、随分大きくなったわね」
久し振りに見る佐治に、帰蝶も頬が緩んだ
「ご無沙汰しておりました、奥方様」
「こちらもここ数年、ばたばたと慌しい毎日だったもので、お前を呼ぶこともなくなって心細かったのよ。今日はどうしたの?」
「はい。お忙しい奥方様のお手間を取らせて申し訳ないのですが、お願いしたいことがありまして、厚かましいのを承知でお顔を拝見させていただきました」
平民の出であるのに、その口上は一端の武士のものだった
武家を相手の商売をしているからか、自然と身に付いたのかも知れない
「どうしたの、お願いとは」
「はい。この佐治を、召抱えてはいただけませんでしょうか」
「 」
帰蝶は一瞬、言葉に詰まった
どう返事をすれば良いのか、わからなくなったのだ
こんな時、信長だったなら二つ返事で承諾しただろうか
佐治は平民で、戦とは無縁の環境で育った
その佐治を戦に連れて行くのは、良いことなのか、悪いことなのか
そんな帰蝶を見て、利発な佐治は自分の想いを素直に話した
「ここまでの道中、殿がお亡くなりになられたことは、弥三郎さんから聞きました」
「 そう」
弥三郎は余計なことを話してしまったかとでも詫びるように、首を竦める
だが、帰蝶は怒るわけでもなく軽く微笑み、佐治に目を戻す
「殿の代わりに奥方様がお一人でがんばっておられると言うことも、聞きました」
「私だけじゃないわ。みんな、私を支えてくれているの。だから、がんばれるのよ」
「私もその一人になりたいと想いました」
「佐治・・・」
「今年初め、村でも犬山織田の話は口に出ました。清洲織田が着実に力を付け始め、家督争いも決着が着き、本格的に尾張を切り崩しに掛かるだろうと。そうなると、最初に手を付けるのはやはり犬山ではないかと言う話です」
「民の口に、そこまで具体的な話が上がっているのね」
人の噂と言うのは、中々莫迦にできないなと、内心唸る
「私も、何れは小牧で犬山との争いが起きるかと予見していたのですが、そうしている内に一つの想いが芽生えました」
「どんな想いなの?」
「私のような一般人でも、歴史に名を刻めるだろうか、と」
「名を刻む?」
「少し大袈裟な言い方かも知れませんが、男に生まれた以上、何かを成し遂げてから死にたいと願うようになりました。身の程知らずの夢かも知れません。ですが、弥三郎さんのような侍になって、誰かの役に立ちたいと考えております。小牧は商業の町ですが、まだまだ発展途上です。これからもっと開けた町にして行きたい。でも、商人だけの力にも限界があります。商人よりも上の存在と言えば何だろうと考えた結果、侍になって、町を開拓して行きたいと言う願いが胸に芽生えました。愚かな考えと笑って下さっても結構です。ですがどうか、この佐治の願い、ほんのひと時でも叶えて下さいませんでしょうか。お願いします」
長い口上の末、佐治は深々と頭を下げた
夢を見るのは自由だ
それは金持ちも貧乏人も関係ない
誰もが平等に与えられたもの
それが、『夢を見る』ことだった
少年の一途な想いを受け取り、帰蝶は静かに頷いた
「侍になりたいというのなら、反対はしない。いくらでもなるが良い」
「では、奥方様・・・!」
下げた頭を上げた佐治の顔は、綻んでいた
「だけど、戦でいつ死ぬともわからぬ運命に、身を晒す結果になるのよ?」
だが、帰蝶の言葉が、緩んでいる頬を引き締めた
「それでも、侍になりたいの?」
「 はい」
少し遅れ、それでも佐治はきっぱりと返事する
「一人でも多くの民を幸せにできるのであれば、この命、どんな危険にも晒せます」
「佐治・・・・・・・」
「そう覚悟を決めたのは、弥三郎さんから奥方様のお話を聞かされてからです」
「え?」
「 」
弥三郎は何故だか気まずそうに、帰蝶から視線を逸らした
「殿の夢を守るために、そのお手に刀を握ったと聞きました。私はそれを聞いて、自分のことだけのために夢を費やすのはもったいないのではないかと、この道中考えました。どうせ使うのなら、もっと大きなことに使いたいと。ですから、どんな結果になろうとも、私は後悔しません。どうか、私の仕官をお許しくださいませ。お願いします」
固い決心の前に、取り繕った説得は無駄だと感じた
結局、帰蝶は佐治の仕官を認めた
「弥三郎の親戚と言うことは、私にとっても身内も同然。だけど、身内なら尚更、行き成り小姓にはさせられないわ。だから佐治、お前は馬引きから始めなさい」
「馬引き?」
「そこから戦の仕組み、武士のあり方を学びなさい。それでもわからないのであれば、お前に武士になる資格はないと言うことよ。わかった?」
「 」
佐治は口唇をきゅっと噛み、子供ながらに凛々しい顔付きで頷いた
帰蝶の許しが降りたところで、故郷の親にも伝えなくてはならないと、弥三郎は佐治を小牧に連れ戻すことになり、妹のさちを預かってもらっている局処まで迎えに行く
「それにしても、奥方様は凄いですね」
「そう?」
「女だてらに男の仕事をしようだなんて、想像できませんよ」
「それもね、みんながそうやって私を支えてくれるからよ。私一人じゃ何もできないわ」
帰命は本丸で育てられているが、たまには局処で躰を休めたい時もある
帰蝶も序にと、局処に向った
「絆って、大事なんですね」
「そうよ。でも、お前は賢い子だから、きっとわかる日が来るわ」
「奥方様のご期待を裏切らぬよう、精一杯務めさせていただきます」
そう言って立ち止まり、自分に深々と頭を下げる佐治の愛らしさに、帰蝶は想わず吹き出した
局処の庭先で、子供達が集まって手毬で遊んでいた
ここから独立したのは可成の倅・傅兵衛と、斯波の三男・日吉丸くらいなもので、後の子供らはまだ幼いため、局処と、本丸の帰蝶の部屋が活動の範囲だった
いつの間にか、その子供も増えている
初めは傅兵衛だけだったのが、那古野で生まれた妹も加わり、その後に時親とお能の子供が加わり、弥三郎と菊子の娘も入り、去年には信長の妹の市や、それより下の弟達も参加している
それだけではなく、家臣の幼子らも預かっているため、今では相当の人数に膨れていた
それだけ賑やかになった局処で、はしゃぐ声が至るところで鳴り響く
これならあの世の信長にも充分届き、淋しいとは感じないのではないかと帰蝶は想えた
誰よりも淋しがり屋で、誰よりも賑やかなことが好きな夫だったから・・・
そんな想いを胸にしながら庭に入った帰蝶の耳に、すっかり成長したさちの声が流れて来た
「お兄ちゃん!」
「おお、楽しそうだな、さち」
さちに懐いたのか、少し年下の市もくっついて、走るさちの後を追って弥三郎の許に駆け寄る
「お話、終わったの?」
「ああ、終わった」
「それじゃ、清洲に出れる?」
「いや、これから佐治を小牧まで送らなきゃなんねーんだ」
「ええ~?」
あからさまにガッカリする声を上げるさちに、帰蝶はまた微笑んだ
「 あ、奥方様・・・?」
しばらく見ていないからか、さちは帰蝶に気付くのが遅れた
男物の小袖を羽織っているのだから、尚更だろう
「すっかり女らしくなったわね、さち」
「ご無沙汰しておりました」
ご無沙汰、と言っても、さちが帰蝶を見たのは、帰蝶が弥三郎の実家に出向いた時の一度きりで、忘れていてもおかしくはない
それでも覚えていたさちの記憶力には驚かされる
「男物を着てらっしゃるんですか?」
「そうよ。これが意外と動きやすくてね、さちも着てみる?」
「ええ?さちには似合いませんよ」
苦笑いするさちもまた、弥三郎の妹なだけあって愛らしい
「お市、さちに遊んでもらったの?」
「 」
さちの影に隠れている市に、帰蝶は声を掛けた
掛けられた市は薄っすら笑いながら、黙って頷き応える
後ろでは子供達がまだ遊んでいた
この頃活発になって来た弥三郎の一人娘・瑞希も、手毬を追い駆けて走り回っていた
「瑞希、こっちこっち!」
従兄妹に当る勝丸の声に応えようと、瑞希は精一杯の力を以って手毬を投げ返す
その勝丸に、兄の坊丸も声を掛けた
「お勝!こっち!」
「おう!」
元気いっぱいに応え、振り向き様に投げた手毬は地面に叩き付けられ、しかも場所が悪かったのか転がっていた石に弾かれ、想わぬ方向へと飛んだ
そう、それは、佐治と弥三郎との話で注意力の削げた帰蝶に向って真っ直ぐ飛んで来る
「危ない!」
気付かない帰蝶の前に、咄嗟だったのかさちが立ちはだかった
「 ?!」
瞬間的に身構える帰蝶の目の前で、さちはかっこよく手毬を受け取るつもりが誤って、パコーンと顔面で受け取った
「さち!」
目の前がチカチカと光り、さちは目を回して倒れた
「 」
どれくらい意識を失っていたのか、さちが目を覚ました時は見たこともないような広い部屋の中央に居て、触ったこともないようなふかふかの布団に包まれていた
「気が付いた?」
「奥方様・・・・・・・」
側には、帰命を抱いた帰蝶が座っている
勿論帰蝶だけが居るのではなく、他にも大年増の女が何人か居た
その中の二人が、ここの総責任者であるなつと、信長生母の市弥であることを知ったのは、これより後のことだった
「私・・・・・・」
「私を守ってくれたのね、ありがとう」
「いえ・・・。夢中だったし、自分でもわからない内に、あんなことしてて・・・」
「ねえ、さち」
「はい」
「あなた、局処で働く気はない?」
「 え?」
帰蝶の突然の申し出に、さちは丸い目を更に丸くして驚いた
「局処で働くには誰かの推薦が必要だけど、あなたなら義理の姉の菊子がここに居るし、必要なら私も連名で推薦人になるわ」
「お、奥方様が?」
「どう?考えてみない?」
「 」
帰蝶の突然の申し出に、さちは大きく戸惑った
「どうして、私なんかを気に掛けてくださったんですか?」
「無意識とは言え、咄嗟に私を庇ってくれたあなたの行動に、あなたならここの管理人を任せられるんじゃないかって想ったの」
「管理人?」
「私の部屋の管理よ」
「え?!ここ、奥方様のお部屋だったんですか?!」
「そうよ?」
大袈裟なほど驚くさちに、帰蝶はカラカラ笑った
なんと恐れ多いことをしたのかと、さちは布団の上で平伏した
「知らぬこととは言え、奥方様のお部屋を泥で汚してしまいました。申し訳ございません・・・!」
「気にしないで。あなたをここに運んだのは、私なんだから」
「どのような処罰も甘んじて受けますので、どうかご容赦を!」
「なら、問答無用で働いてもらうわよ?」
「承知しました! あれ?」
キョトンとするさちに、帰蝶だけではなく、側に居たなつと市弥も大笑いした
佐治とさちが揃って帰蝶の許に仕官することになり、驚いたのは平左衛門とやえだった
一人娘と、親戚から預かっている佐治の両方が一度に居なくなってしまうのだから、その開いた穴も大きい
ぼんやりとするやえに、弥三郎は恐る恐るながらも申し出た
「あの、さ、お袋・・・」
「 」
やえは黙って、弥三郎の顔を見る
「良かったらさ、清洲に来ねえか?」
「清洲に?」
「狭いけど、俺も一応自分の持ち家あるからさ、そこでみんなで一緒に暮らそうや」
「でも、ねぇ、お父さん・・・」
「ここを出て行ったら、馬屋の商売ができなくなる」
と、平左衛門も応える
「隠居しちまえよ。親父とお袋ぐらい、俺が食わせて行けるから」
「まだお前の世話になる気はない」
「だったらさ、心細くなったらいつでも来いよ」
「親を年寄り扱いするな!」
情けの言葉も、平左衛門は断固拒否する
そんな父親を弥三郎は苦笑いして眺めた
兄の時親に土田本家の再興が掛かっていると言うのに、過度の期待は決して掛けない
あくまで自分達流の生き方を貫こうとしている
父は武士としての誇りを捨てた代わりに、何物にも換えられない温かい家庭を手に入れた
それを守ることを生き甲斐にしている
弥三郎にとっては、幼い頃からの自慢の父だった
その父から、一人娘を奪うような真似をしたことに後悔しながらも、いつかはこの両親の面倒を自分が見たいとも想っていた
「今日も岩倉にこれと言った動きはありません。でも犬山の方は怪しいみたいですね」
帰蝶への報告も、串団子を咥えたままで行なう利家に、どうしても苦笑いが浮かんでしまう
「そんなにお腹が空いてるんだったら、台所に行って湯漬けでももらって来なさいな」
「そんな暇ないっすよ。午後は小牧に行って、五郎左衛門さんの助っ人やんなきゃ」
「小牧の方はどう?」
「まぁ、ぼちぼちですが、豪族も清洲織田に寝返るのが増えて来てますね。又助さんの親戚があっちの方で手広く材木屋をやってますから、その伝手で豪族とか土豪とか?そう言った有力者に声、掛けて回ってるみたいですから。まぁ、順調良くとまでは行かないまでも、元々は何処の手も着いてなかった場所ですから、ぶっちゃければ早い者勝ちですね」
「そう」
「それじゃ、行って来ます」
利家は一通りの報告を終えると、皿にある残りの串団子の全てを掴んで、部屋を出て行く
そんな利家の背中を、帰蝶は笑いながら見送った
「バタバタと忙しい子」
実際、自分とはそれほど年も離れていないが、何故だか利家が幼い子供が精一杯背伸びをしてがんばっているようにも見えて、おかしくて仕方がない
想えば利家は、自分が初陣の時に信長から与えられた護衛の一人だった
比較的安全圏である自分の側に居ながらも、利家は武功も上げ、文句なしで馬廻り衆に抜擢され、あれよあれよと言う間に赤母衣衆の筆頭にまで伸し上がった
それでも周囲から反感を食らわないのは、秀隆のような問答無用の貫禄や風格などと言った代物ではなく、いつでも部下と同じ視線で物を見聞きするその低い姿勢にある
部下以上にあちらこちらと走り回り、いつでも最前線に立って背中に居る者を庇おうとする
それが、広く慕われている理由だった
長く家督争いに巻き込まれては居ても、そんな雰囲気さえおくびにも出さず、いつも豪快に笑っている
利家と一緒に居ると、誰もが楽しい気分になれた
信長が死んだ時も、誰よりも自分を励まそうと懸命になってくれたことを想い出しながら、帰蝶は仕事の続きに着手した
夫が死んで、どれくらいが経ったのか
怖くて指が折れなかった
心の拠り所だった夫の死に、しばらくは忙しさに感け、ポカンとする暇もなかった
その夫の子を宿し、産み、そして育て、その子が乳離れをし、伝え歩きを初め、少しずつ自分の手元から遠いところまで行けるようになった頃、漸く心の穴の存在に気付いた
それは途方もなく大きくて、簡単には埋まりそうにもない
だから、帰蝶は眠る時が楽しみだった
時折悪夢に魘されながらも、夢の中でなら愛しい夫に逢える
夢の中の夫は生前の頃の笑顔のままで、いつも自分を温かく見守ってくれた
色んな話をしてくれた
起きる頃には忘れてしまうようなことでも、帰蝶は幸せな気分で目覚めることができた
だけど、そんな幸せな時間を、心の呵責が邪魔をする
そこは見慣れた伊勢湾の浜辺だった
夫との愛を確認した場所であり、帰蝶にとって大切な場所でもあった
その場所に、その波打ち際に、夫は立っていた
「吉法師様!」
待たせてごめんなさいとでも言いたげな顔をして、帰蝶は信長を呼んだ
信長は相変わらずの笑顔を振り撒き、帰蝶に振り返った
「見てみろ。あの水平線を。あの水平線の向うが、お前が来るのを待っている」
「水平線の向うは、伊勢ですか?」
「そのもっと向うだ」
「え?伊賀ですか?」
「違う。もっともっともーっと向うだ」
「どこなんですか?」
わからない顔をする帰蝶に、信長は優しい微笑みを浮かべて応えた
「お前が、その目で確認しろ」
「私が?」
「お前なら、いつか辿り着ける」
「そうでしょうか」
ふと、波が帰蝶の脚を撫でた
「ふふっ、くすぐったい」
そして、信長の胸元に縋ろうと手を添えた
その手を信長も軽く掴む
「吉法師様」
愛しい男を愛しい想いで見詰め返そうとした帰蝶の目に、血で汚れた男の手が映った
「 ッ」
驚いて顔を上げる
上げた顔の先には、血に塗れた信勝の顔が映った
「勘十郎・・・様・・・・・・・・」
「義姉上にも見えますか。織田の行く末が」
血塗れの信勝は、ぎゅっと帰蝶の手を掴んで離さない
「私の流した血が、織田の辿る道を知らせるでしょう。何れあなたも、この血で汚れる」
「 」
今日の帰蝶の寝室の前の張り番は、この間、利家が聞いた良からぬ相談をしていた小姓だった
うとうとと眠い目を擦りながら、襖の番をする
運悪く、か、その小姓の耳に帰蝶の掠れた声が聞こえて来た
「 ?」
襖に耳を当て、聞いてみる
「ん・・・・・・・ッ!」
首筋に浮かぶ汗
この頃少し長くなった髪が絡み付き、妖艶な雰囲気を醸し出す
布団の裾を掴み、何かから逃げるように首を振る
眉間は中央に寄り、苦悶の色も濃い
「いや・・・・・・・ッ」
離して!
「あなたがこれから血を流せば流すほど、織田は栄華に咲き誇り、そして、枯れ果てぬ花を咲かせる。されど、流す血が途切れた時、織田も終わる」
「離して・・・!」
自分の手をしっかり握る信勝を、帰蝶は必死になって振り解く
「あなたはその終焉を目の当たりにするでしょう。あなたにそれが耐えられるかどうか、見ものです」
「いやッ!」
ドン!と、信勝を渾身の力を込めて突き放す
離れた手は血が消え、倒れ行くその躰は信長に戻った
「吉法師様!」
慌てて掴もうと手を伸ばした帰蝶には、信長の手は届かなかった
「いやぁーッ!」
「奥方様!」
直ぐ側で、誰かの声がする
帰蝶ははっと目を覚ました
「 誰・・・」
「私です。今夜は私が張り番なんです」
「そう・・・」
薄っすらと暗い影から、見慣れた小姓の顔が確認できた
信長が生きていた頃から仕えている小姓だ
馴染みはあった
その小姓の前で、あられもない姿を晒したと帰蝶は急いで乱れた髪を手櫛で整えた
胸元も、ほんのりと肌蹴ている
それを慌てて取り繕う
「奥方様、汗が」
小姓は自分の懐から真新しい手拭を取り出すと、そっと帰蝶の額の汗を拭ってやった
「ありがとう」
「随分汗だくになっておられますね。何をなさってました」
「別に、何も・・・」
悪い夢を見ていたなど、言うまでもないと帰蝶は、さり気なく小姓の手を払おうとした
その帰蝶の手を逆に払い除け、小姓は首筋の汗も拭い始める
「恥しがらずに、仰ってください。私は小姓です。その命も奥方様に捧げるために、こうしてお側に着いているのです」
「嬉しいけど、その気持ちだけで充分よ、ありがとう。もう良いわ、後は自分でやるから」
「そうは参りません。最後までお世話するのが、私の役目です」
そう言うと、小姓は大胆にもさっと、帰蝶の懐にまで手を差し入れた
「 ッ!何をするの・・・!」
驚いた帰蝶は、小姓の手首を掴み、自分の胸元に差し入れられた小姓の手を抜こうとする
まだ前髪を落としていないとは言え、人其々元服の時期は違う
この小姓は十六を迎え、そろそろと言う頃合だった
力でも、帰蝶に適わないわけではない
「汗を、拭って差し上げます」
「良いって言ってるでしょ?自分でやるから、放っておいて・・・ッ」
「奥方様!」
小姓はその布団の上に帰蝶を押し倒し、力任せに寝間着の小袖の襟を寛がせた
「 ッ」
帰蝶の目が、驚きで大きく開く
「恥しがらずとも良いと、申し上げましたでしょう?」
開いたその向うには、想像していたよりも大きな乳房が二つ、形良く天井に向けられている
その片方を、小姓はそっと掌で包み込んだ
「やめなさい。お前は長く仕えてくれている。こんなことで処分したくはない」
帰蝶は諭すように、静かな口調で言った
「そのようなこと、今夜限りでございます」
「何を言ってるの・・・?」
「淋しがっているこのお躰を、私が慰めて差し上げます」
と、小姓はつんと尖り掛けた帰蝶の乳首を、口の中に含んで転がし始めた
「 やめて・・・ッ!」
帰蝶は必死になって身を捩じらせ、小姓を躰の上から振り落とそうと腰をくねらせた
それが、『感じている』と勘違いさせてしまった
「欲しいのでしょう?男が。我慢なさらずとも良いではないですか。それとも、私よりやはり、岩室殿の方がお好みですか?」
「何を・・・・・・・・」
「何なら、岩室殿もお呼びしましょうか」
「 」
何を勘違いしているのだと、帰蝶は目の前の、自分の上に覆い被さっている小姓を、見たこともない男を見るような目で見た
「やめ・・・て・・・!」
「大変だ、大変だ。早く奥方様にお知らせしなきゃ」
本丸の廊下を、外回りから戻って来たばかりの利家が、早足で急ぐ
「龍之介ー!龍之介ー!」
帰蝶の執務室に居るであろう龍之介を、大声で呼ぶ
「はい、前田様。何でございましょうか」
襖を少しだけ開け、龍之介が顔を出す
「奥方様は、もうお休みか?」
「はい。ですが、前田様がお戻りになられましたら、遠慮なく通すように申し付けられております」
「じゃぁ、勝手に入っても良いか」
「ええと、できましたら、廊下からお声を掛けていただくのが幸いかと・・・」
苦笑して応える
「お前は同行できんのか?」
「申し訳ございません、明日までに仕上げなくてはならない仕事がございまして、それが終わるまでは部屋から出るなと、奥方様に言い付けられております。不躾ながら、ご案内差し上げられないのです」
相手が勝手知ったる利家だからか、帰蝶は急用があれば取次ぎなしで部屋に来るよう、龍之介に言い付けていた
「そうか、まぁ、奥方様の寝室は知ってるから一人でも行けるけどな」
「申し訳ございません」
寝室の隣の居間ならしょっちゅう訪問しているので、利家自身、特に気にもせず別の廊下を小走りに進む
「しっかし、まさか小牧に張ってるだけで、犬山も簡単に動くもんなんだな」
帰蝶が美濃攻めに備えて小牧を牛耳ろうとしているのを、犬山織田が嗅ぎ付け、挙兵の準備に取り掛かっていると言う情報を手に入れ、利家は慌てて清洲に戻った
それを報告しようと帰蝶の部屋に急ぐが、その寝室の前で良からぬ予感に襲われた
通常なら部屋の前に一人から二人の小姓が護衛として付いているはずである
もしかしたら交代の頃なのかも知れないが、それでも一人も居ないというのはおかしい
利家は急いで寝室に向った
その途端、襖の向こうから人の争う声が聞こえる
「やめて!」
「 ッ?!」
驚いた利家は、後先考えずに襖を開け放つ
目の前には小姓に襲われている帰蝶の艶めかしい姿が晒されていた
「奥方様!」
利家は無礼を承知で寝室に入り、帰蝶の上に乗っかっている小姓の襟首を掴み、引き剥がした
「お前!」
「 ッ!」
顔を見ればこの間、帰蝶を手篭めにするとかしないとか、物騒な相談をしていた小姓ではないか
「何やってんだよ」
「別に・・・・・・・・・」
帰蝶に目をやれば、小袖の半分が毟り取られ、慌てて身繕いをする姿が映る
「これが、何もやってないってわけねーだろ!」
全身の血が、脳みそ目掛けて一気に駆け上がった
奥方様は、殿だけが触れられる神聖な存在で
それ以外の男が触れるのはご法度で
ただ、崇拝に近い想いを抱かずには居られない帰蝶を、女のように扱ったこの小姓が、ただ、許せなくて
利家は頭に血が昇った状態で、小姓の首を両手で締め付けた
「くっ・・・!」
利家は清洲でも一番、大柄な男だった
背も高い
腕も太い
子供のような表情をしながらも、一番の力自慢だった
その利家に首を締め付けられ、無事で済むはずがない
「やめて!犬千代ッ、やめなさい!」
驚いた帰蝶が、慌てて利家の腕を掴み、首を絞めることをやめさせようとした
だが、帰蝶の細い指では利家の腕も回らない
「やめなさい!犬千代!」
必死になってそれをやめさせようとするも、利家の顔は憤怒で真っ赤に染まっていた
「やめて!死んでしまう!犬千代!」
必死になって叫んだ声が届いたか、利家はハッと我に返って手を離した
同時に、小姓の躰が布団に落ちる
「犬千代!」
「 奥方様・・・。俺・・・・・・・・・・・」
呆然と呆けた顔をする利家の足元に崩れ落ちた小姓の息を確かめる
「 ッ」
だが、強力な力で喉を締め付けられた小姓はその骨が砕けたのか、著しい皮膚のへこみと鬱血した赤い色に染まり、口からは白い泡が吹き出ていた
見ただけでも息がないことは確かである
「何てことを・・・・・・・・・」
「奥方様・・・・・・・・」
利家は自分でも何てことをしたのだと、膝が崩れ落ちた
「犬千代!」
ともすれば倒れそうになる利家の大きな躰を、帰蝶は咄嗟に支えた
「しっかりなさい!」
「俺、・・・・・・・俺 」
「去りなさい、犬千代」
「 え?」
帰蝶の言葉が理解できない
「私が処理します。だからお前は、何もしていない、何も見ていない、何も知らない。良い?」
「でも・・・・・・・・・・」
「犬千代、しっかりなさい!」
帰蝶は呆けから戻らない利家の頬を軽くはたいた
「本丸での殺生は、どんな理由があろうともご法度なのよ?それを犯せば、いくらお前でも庇い切れない。だから」
利家の立派な両肩を掴んで、帰蝶は叫んだ
「逃げて!」
「 」
そんな帰蝶の、真剣な眼差しを見て、利家は静かに頭(かぶり)を振った
「できません。これ以上、奥方様に無用な罪を、被せられません」
「犬千代・・・!」
「俺が殺したんだ。だから、責めは俺が受けなきゃなんない」
「犬千代・・・・・・・・」
騒動に、龍之介が先頭に立って帰蝶の寝室を訪れた
「奥方様、如何なさいましたか」
「なんでもないわ。龍之介だけ入って」
「はい」
残りの小姓を廊下に残し、龍之介だけが帰蝶の寝室に入った
そして、帰蝶の布団の上で死んでいる先輩小姓を見て、目を見開く
「これは・・・・・・・・・・・」
「この子が粗相をしたから、私が罰しました」
「違う!」
帰蝶の言葉を遮り、利家が叫ぶ
「俺が殺したんだ!奥方様は関係ない!」
「犬千代!」
「俺が、この手で・・・。この手で・・・・・・」
広げた両手が震え、その手を帰蝶はぎゅっと握り締めた
「 奥方様・・・・・・・・」
泣きそうな、だけどそれを我慢して微笑むような顔をして、利家は言った
「長屋に居る女房のこと、お願いしても良いですか・・・」
「犬千代・・・・・・・」
「子供も生まれるってのに、俺、何やってんだろ・・・・・」
ともすれば、涙が零れて来そうになるのを、利家は必死になって堪えた
「前田のことは、慶次郎に任せます・・・」
「お前は、どうするの」
「俺は、ここには居られない」
「ここを出て、どうするの」
「奥方様・・・」
「お前は、私を助けてくれたのよ?お前が出て行く必要なんて、どこにもないのよ?」
「それでも!けじめはきっちり着けなきゃなんないんですよ、奥方様!」
「犬千代・・・」
叫ぶ利家に、帰蝶の目が見開かれる
「人殺しの俺を庇えば、奥方様の評判にだって傷が付く!それを周囲が知ったらどうしますか!折角纏まり掛けた織田が、また、バラバラになっちまうんですよ!犬山や岩倉を相手にしようかって時に、こんなつまんねーことで躓いてちゃなんねーんですよ!」
「でも・・・・・・・・・・」
「奥方様が身内に甘いって清洲の中でも噂になれば、その隙を突いて誰が攻め込んで来るかわかんねぇ!奥方様!」
自分の手を握ってくれている帰蝶の手を、利家は握り返し、そして、情けないながらも何とか微笑もうとする顔で告げる
「犬山が、動きました」
「 え・・・?」
「大事な時ですよ。だからこそ、こんな醜聞を世間に知らせるわけにはいかないんですよ、奥方様」
「犬千代・・・・・・・・」
「罪が許されたら、また、奥方様の許に戻ります。だからそれまで、俺を勘当しててください。頼んます」
「犬千代・・・・・・・・・・ッ」
「龍之介」
帰蝶の手を離し、利家は立ち上がった
「その小姓は、奥方様に無礼を働いた。だから、俺が成敗した。奥方様は俺の過ちを止めようとなされたお立場だ。間違えるな」
「 はい」
「犬千代・・・!」
「奥方様」
自分を引き止めてくれる帰蝶に、利家は起立のまま深く頭を下げ、逃げるように縁側の廊下から部屋を飛び出した
「犬千代!」
慌ててその後を追うも、利家は既に夜空の暗闇に消え、遠くで足音だけが響いた
「犬千代!犬千代!」
何度も名を呼べど、名の主は戻って来ることはない
帰蝶は裸足のまま中庭に出、利家が去った後をいつまでも立ち尽くした
犬千代の出奔はその日の内に清洲城中に広まった
人の噂は面白おかしく尾鰭が付くものだが、普段から利家に味方する者の多さが幸いしたか、小姓が城主に無礼を働いて、それに怒った利家が成敗したと言うことだけは正しく伝わった
利家が出奔して数日後、市弥の努力の甲斐あって、美濃・可児の土田家がこちらに寝返った
時親の、生駒家内偵の密命も終了する
利家との約束どおり、妻は帰蝶が保護し、局処で預かることになった
慌しく過ぎる毎日の中で、利家の声だけが聞こえない
淋しさが募る
遠慮してか、しばらくは誰も、極力利家の話は口にしなかった
帰蝶が一番、気に病んでいると知っているからかも知れない
「そろそろ梅雨が来ますね」
ふと、盆を持ったなつが隣に腰を下ろし、呟いた
「そうね」
「犬千代、ちゃんと屋根のあるところで過ごしてるんでしょうかね」
「どうかしら。でも、犬千代のことだから、大丈夫な気がする」
「そうですね、見掛けどおり、丈夫な子ですし」
なつの言葉につい、軽く吹き出してしまう
「今日のおやつは、串団子ですよ」
「美味しそうね。どこのお店の?」
「大方様が、腕を揮われたんです」
「ええ?義母上様が?」
「ほら、土田家がこちらと提携することが決まったでしょう?だから、そのお祝いだって」
「そうなの。へえぇ、義母上様がねぇ」
感心しながら市弥の作った串団子を見詰める
その帰蝶に、なつは微笑みながら言った
「奥方様は、大方様まで変えてしまわれるんですから、大したものですよ」
「え?」
「大丈夫ですよ。犬千代も、いつか戻って来ます。案外、早いかも知れませんよ?」
「そうだと良いのだけど」
苦笑いする帰蝶に、市弥の呼ぶ声がする
「土田との提携の、条件提示のお話でしょうかね?」
「かもね」
盆を持ち直すなつと揃って立ち上がる帰蝶の耳に、植え込みの木が揺れる音が聞こえた
振り返るが、そこには誰も居ない
だけど、気付いていた
「なつ」
「はい?」
「その串団子、縁側に置いててくれない?」
「如何なさいました?」
「大きな雀が、庭先に舞い降りたようなの」
「ええ?大きな雀が?」
盆を持ったまま、なつは庭を見渡すが、今日に限って子供の一人も出ていなかった
「どこですか?」
「私達が居たら、怖がって出て来れないかもね」
そう言いながら、盆の上の串団子を盛った皿を手に取り、帰蝶はそっと縁側に置いた
「大きな雀さん。ありがたく食べるのよ」
と、声を掛け、帰蝶は不思議そうな顔をしているなつの背中を押して、奥に引っ込んだ
その後を追うように、また、さっきの植え込みの木の葉が揺れた
まるで帰蝶の声に応えるかのように
利家が消えて二ヶ月が過ぎた頃、帰蝶の第二陣、対犬山戦が始まった
女は特筆すべき美貌の持ち主でもなかった
だが、妻とは別種類の、『心の安堵』と言うものがあった
この女の前では、自分はただの男に戻れる
絶世の美女と呼び名も高く、出自も高く、そして、肩書きすら持つ妻と、平凡でも着飾らない朗らかさと、出自も自分と似たようなもので、そして、ただの『油屋の出戻り後家』でしかない女を比べれば、どうしてだか、今の時親にはこの女の方が重く感じた
『妻の七光りで出世した』と言われずに済む
それだけが、心安らげる唯一の拠り所だった
男慣れした肌に自分の手が添えられるのを、女は全身で喜んでくれる
身悶え、のた打ち回り、そして、歓喜の声を上げてくれた
その中に自分の想いを差し入れ、解き放つ
全てを背負うかのような、そんな重苦しさから解放される瞬間だった
堅苦しい現実でもある妻から逃げるように、女と逢瀬を重ねる
自分に与えられた任務が、その口実を作ってくれた
「
何かを囁こうとする女の指先を、時親はぎゅっと握り締めた
それだけで、女は嬉しそうに微笑んでくれる
幸せは、長く続かないから『仕合せ』と言う
「みなさーん、お待たせしましたぁ」
本丸の、帰蝶の執務室には何故か、いつも大勢の人間が集まる
それは局処でもそうであったように、城のあらゆる情報が帰蝶の許に集まるため、人もまた、自然と集まった
その大勢居る部屋に、菊子の元気な声が響き渡った
「おやつですよー」
「わーい!」
その声に一番に反応するのは子供らで、この頃漸く落ち着きを取り戻した市も混じっていた
そんな子供らの群の中に一人、大人が混じっている
「うわーん!犬のにーちゃんが取ったぁー!」
お能の次男・勝丸の泣き声が響く
「バッカ野郎。男がこれっくらいのことで泣くことあるかよ。取られたら取り返せ」
「こら、犬千代。大人気ないことをするな」
苦笑いする帰蝶に窘められ、利家はひょこっと首を竦めた
「大方様もお休みなさってください。この頃可児と清洲を行ったり来たりで、お疲れじゃないんですか?」
と、なつが串団子を盛った皿を、茶と一緒に市弥に手渡す
「まぁ、串団子」
「庶民的だと、お笑いになられますか?」
「いいえ。懐かしいです」
「え?」
思い掛けない市弥の返事に、なつも興味深げな顔をする
「吉法師が幼い頃、串団子を一度だけ手作りしたことがあるんです。全然美味しくなくて不評でしたから、それ以来一度も作ったことはないけれど、吉法師だけは、美味しいと言って、食べてくれました」
「そうでしたか」
市弥も今まで見せたこともないような、優しい表情ができるようになっていた
帰蝶が信勝を殺害して、半年近くが経ったある春のこと
「吉法師様はお酒好きでしたが、串団子も大好物だったんです」
そう、帰蝶が付け加える
「え・・・?」
市弥の目が、キョトンと丸くなった
「きっと、幼い頃お義母様が作ってくださった串団子を、ずっと覚えていたのでしょうね。辛党なのか甘党なのかよくわからなかったけれど、子供の頃の想い出を大事にしたかった表れだったのだなと、今のお話で理解できました」
「
そんな些細なことを大事にしてくれていたのかと、市弥は今は亡き信長の優しさに触れ、薄っすらと涙を浮かばせる
が、そんな雰囲気もなんのその、片や子供らが一つの塊と化している串団子の皿を、大の大人である利家も入り混じって大騒ぎしながら食べているのだから、恰好が悪いと言うか見苦しいと言うか、帰蝶も苦言すら告げる元気も無くなった
利家は黒母衣衆の次に位置する赤母衣衆の筆頭を務めていた
初めは信長の小姓だったが、帰蝶の初陣の際にその供をし、豪胆さと胆の太さから信長にも帰蝶にも愛されて、文句なしの抜擢を受けたのが数年前
それ以来、母衣衆筆頭の座を不動のものに君臨していた
と言っても、利家自身砕けた人格の持ち主であるため、黒母衣衆筆頭の秀隆のような貫禄はまだ遠く、自身、子供心の抜け切れない青年にはなったが
その利家も、遠縁の娘を娶り所帯を持った
尚更、早く大人になってくれと祈らずには居られない帰蝶であった
利家が帰蝶の許に現れるのは、いつも岩倉の敵情視察の報告が主だった
「奥方様が恵那の遠山と手を組んだので、間に挟まれた岩倉も迂闊には手出しできないと拱いている様子です。しばらくはお互い様子見の状態が続くでしょうね」
真面目な場面に、何故か雰囲気を壊すかのように、子供らから奪い取った串団子を頬張っている
「お前は本当に、串団子が好きね」
「まぁ、殿の影響ですかね。殿も串団子、お好きでしたから」
「それだけじゃないでしょう?」
「あ、じゃぁ、育ち盛りだから」
「一体いくつになるの、お前は」
「でも、慶次郎だって串団子、好きじゃないですか」
「お前ほどがっつかないわよ、慶次郎は」
他愛ない話の中で、名前の出た慶次郎が利治を連れ、ひょっこり顔を出した
「呼んだ?」
「呼んでねーよ」
「どうしたの、慶次郎」
「いや、呼ばれたような気がしたから」
「嘘を吐け」
利家と慶次郎と帰蝶の言葉が行き交うのを、間に挟まれた利治は顔をあちらこちらへと向け直すのに大忙しだった
父が死んでからこんにちまで、局処でなつから教育を受けていた利治も、そろそろ元服の時期を迎える
今日はその烏帽子親を決める日だった
「丁度良かった。今から呼びに行こうかと想ってたの」
帰命には『乳離れ』をさせている最中だった
乳を与えるのは厳禁とし、今も膨れる重い乳房をぶら下げて、帰蝶は立ち上がる
「烏帽子親を決めたわ」
「へぇ、誰なんですか」
那古野の叔父、信光がそれなら、話もわかる
今ではすっかり帰蝶の後見人になっているのだから
だが、帰蝶は信光ではなく、別の人物の名を口にした
「わ、わたくしがですか?!」
驚いたのは、言われた本人よりも、その母、なつだった
「奥方様、気は確かですか?!」
「母上、それは余りにも酷いお言葉・・・」
「確かも確か、新五の烏帽子親は、勝三郎にお願いしたいの」
「このような若輩者が烏帽子親だなどとあっては、新五様が余りにもお気の毒です」
最早泣きそうな雰囲気のなつに、帰蝶は苦笑いし、恒興も一緒になって泣きたい気分になる
「勝三郎は局処で誰よりも新五と誼を通わせてくれているわ。今では実の兄のような存在なのよ。ね?新五」
「はい、その通りです」
「だから、どうしても勝三郎にお願いしたいの」
「私で構わないのでしょうか?」
「あなたにお願いしたいから、こう言ってるんでしょ?好い加減、信じてくれない?」
疑り深い恒興に、帰蝶は声を荒げて笑う
清洲城の表座敷で利治の元服の儀が行なわれた
前髪を落とす恒興の手は緊張に震え、利治の頭に被せる烏帽子が中々納まらない
「池田殿、落ち着いて」
そっと利治に告げられ、苦笑いする
なんとか結び紐を結わえ上げ、儀式は無事終了した
「これより斎藤新五郎は童名を捨て、斎藤利治の名に置き、武士の誇りと大義を忘れず、日々精進して行くことを誓います」
恒興と二人で考えた宣言を述べ、利治は帰蝶から一対の刀を進呈された
「お前の働き、期待している。斎藤の誉れを忘れず、しっかりと務めなさい」
「はっ!」
織田の体制が帰蝶に移行し、この頃はそれに漸く馴れ始めた
帰蝶に着いている小姓衆の多くが、新しく加入した者ばかりであった
信長時代の小姓達は義近のように独立したり、あるいは実家を継いで一角の武士に成長している
または、小部隊ながらも転属を果たしたりと様々で、仕えて期間の短い龍之介が小姓衆筆頭でもあったりするのだから、ある意味世代交代と言うわけだろうか
利治は武将として、将来は独立した一個部隊を持つよう、更に厳しい教育を受けるため、恒興の部隊に配属された
心情的には馴染みの深い可成の部隊に配属させたかったが、可成の部隊は戦の最前線を駆る精鋭部隊でもあるため、足手纏いになったりはしないかと心配し、それならば後詰が多い恒興の部隊の方が無難かと想われた
利治のお守として、慶次郎も恒興の部隊に配置される
「おー、やっと侍らしい仕事ができるねぇ」
と、悦ぶ慶次郎だが
「なんでお前と一緒なんだ」
と、利治の方は迷惑顔である
そんな会話を遣り取りしている二人を、利家は少し笑いながら離れて見ていた
実兄との家督争いが深刻化している
自分としては兄に家督を譲って、自分は平凡でも背負った運命、武士としての生き方を選びたかった
娶ったばかりの、まだ幼い妻も妊娠し、来年には父親になる
そんな、家庭としても始めたばかりのまだ不安定な中で、兄との争いは極力避けたいと言うのが、利家の本音だった
ところが、その兄が生来病弱でもあるため、もらった後妻、つまり慶次郎の母との間には子ができていない
故に、実質慶次郎がその跡取りになる
いつ自分が死んでも家が断絶せぬようにと、他人の子である慶次郎を態々養子にしたのもそのためであった
なのに、慶次郎自身、前田の後継者争いから逃げたがっている
利家と同じく互いに譲り合っているのだから、決着が着くはずがなかった
利家自身、血は繋がっていないとは言え、慶次郎のことは決して嫌いではない
寧ろ気が合う方であった
利家も慶次郎も、堅苦しいのが苦手で、時には羽目を外したい時、慶次郎は良い相手になってくれている
家督争いなどで仲違いをして、疎遠にならないかと心配している方だった
できることならこのままずっと、良い関係で居たい
そう願っていた
そんなことを想い浮かべながら本丸の中庭から、大手門まで横切ろうとしていた利家の耳に、信じられない会話が聞こえて来た
「
「
何のことかと利家は、慌てて声がする方へ駆け寄り、物陰から様子を伺った
「だからさ、殿が亡くなられてもう二年が過ぎるだろう?そろそろ男が恋しい頃じゃないのか?」
「だからって・・・」
話し合っているのは、信長時代の小姓の残りだった
三人が集まって、良からぬ相談をしている光景にも見える
「この間さ、聞いちゃったんだよ。奥方様の寝室から、何やら悶えるような声が」
「ええ?」
「ありゃ、男が恋しくて、手遊びでもやってるんじゃないのか?だったら、俺達がお慰めして差し上げるのも、小姓の仕事だろう?本来なら殿に躰を差し出すために集められたようなもんだ。でも、その殿が死んでしまって、ここのところ戦も起きてない。このままじゃ俺達の知行だって上がらないぞ?」
「だから、奥方様を手篭めにするのか?」
「奥方様に可愛がってもらえれば、俺達だって岩室殿のように出世できるかも知れないじゃないか」
「もしかして、奥方様が岩室殿を寵愛なさっておいでなのは、男と女の関係にあるからなのか?」
「かも知れないな」
「そんなえこ贔屓なことがあって良いのか?奥方様は公平なお方だと想っていたのに、がっかりだ」
「
想わず飛び出して、どやし付けてやろうかとも想った
だが、利家はそれをやめた
自分が出てしまっては、突付いた藪から蛇が出ないかと心配したのだ
奥方様に限って、そんな色事に没頭するような、暇など持て余す生活を送ってはいない
そう想っていた
小姓らが話している岩室龍之介は、信長の父の側室だったあやの実弟であり、利家もその人柄は良く知っている
帰蝶は、周囲と上手くやっているつもりでも、やはり変わり者であるため、真の理解者は限られていた
龍之介も、そんな限られた理解者の一人だった
事が大袈裟にならないよう、利家はそっとその場を離れ、だが、やはり気になるもので、元来た道を戻り本丸に入る
手には書類の束を抱え、帰蝶の執務室に向う龍之介を、利家は後ろから声を掛けた
「龍之介」
「
「そのつもりだったんだがよ、ちょっと気になることがあってな」
「気になること?如何なさいました?」
「少し付き合ってくれんか?」
「
利家に連れられ、龍之介は局処手前の廊下の隅で立ち止まる
「どうかないさいましたか?」
「いや、な、ちょっと気懸かりなことがあって」
「気懸かりなこととは、どう言ったことでしょう。奥方様のことですか?」
「あ、ああ」
「それならご心配は要りません。この頃若様の離乳も順調に進み、今ではすっかり重湯を召し上がれるまでになりました」
「そうか」
離乳早々帰命も前歯が生え、ついこの間『お食い初め』を終えたばかりである
それを知っていながら何を聞くのだろうと、龍之介は首を傾げる
「いや、な、若様のことじゃなくて、奥方様のことで」
「奥方様が如何なさいましたか?」
「この頃、変わった様子とかないか?例えば夜、とか」
信じたくないが、龍之介の口から「夜の相手をしている」だとか、「手遊びに更けている」などと言う言葉は聞きたくなかった
祈る想いで龍之介の返事を待つ
「
「
ぽつりと呟く龍之介に、利家は気が遠くなるような感覚になった
「誰にもお話ししていなかったのですが」
「
無理をして話さなくても、と、止めに入りたい一方で、真相を聞きたい好奇心にも勝てない
「時折、魘されることがございます」
「
「はい」
「どうして・・・」
意外な龍之介の返事に、利家も呆けたような顔をする
「恐らくは、勘十郎様殺害の件を、人知れず気に病んでおられるのかも知れません。あの日以来、眠りに就かれた奥方様がほんの時折ですが、夢に魘されることが起き始めました。表面ではなんでもないお顔をなさっておいでですが、奥方様は性根のお優しいお方です。例えご主人様の仇とて、その経緯にも複雑な心情があり、勘十郎様だけが責められるわけではございません。今ではご生母の大方様とも上手くやっておられますが、そのご生母様を見る度に良心の呵責に耐えてらっしゃるのではないかと想います」
「そうか・・・・・・・・・・・・」
あの小姓らは、帰蝶が魘されている声を、悶えた声に聴き間違えただけなのだと言うことがわかった
ほっとする半面、心の内で苦しんでいる帰蝶を楽にしてやれることはないのかと考えながら、今度こそ間違えることなく大手門を抜け、業務に就いた
小牧から犬山織田、斎藤の警戒を強めるため、途中で長秀と別れ、弥三郎は実家に戻った
里帰りは毎年やっているが、一人で帰るのは数年振りのことだった
いつもは小袖姿で戻るのを、今日は仕事の帰りのついでなので、脇には大小を帯びている
その刀姿に親はやはり、それなりに驚く
「随分立派になったわね。それもこれも、お前を可愛がってくださる殿と奥方様のお陰よ。深く感謝なさいね」
母のやえが、武士らしくなった弥三郎に目尻を下げながら肩を撫でる
撫でられる弥三郎は、信長が死んだことをまだ話していないため、返事に困っていた
「お菊さんは、元気にしてる?」
「今年の正月、瑞希と三人で帰っただろ?まだそう経ってないぞ」
「あんたって子は本当に、淡白ね。だからいつまで経っても次の子ができないのよ」
「はっきり言わないでくれる?お菊だって局処の次官なんだからさ、お互いに忙しいんだよ」
「それに引き換え、平三郎のところは四人も子供が居て、将来安泰ね」
「良かったねぇ。ここも跡取り問題、起きそうにもなくて」
「何言ってるの。平三郎の子供に、馬屋の跡なんて継がせられないわ。馬屋は私達の代でお仕舞い。あなた達は自分の家を立派にして頂戴」
言葉は時折辛辣でも、そこには母の愛がぎっしり詰められている
弥三郎は心地の良い想いで、母の声を聞いていた
その弥三郎に庭から妹の声がした
「お兄ちゃん!」
「ああ、さち」
幼かったさちも、今年で十三になる
武家でも平民でも、女の適齢期に差し掛かっていた
「どうしたの?菊子さんに追い出されたの?」
弾ける笑顔できつい冗談を飛ばす
「誰が追い出されたんだよ!」
弥三郎も笑顔で言い返すが、その直後、さちの後ろから親戚の子である佐治の姿も見えた
「おー、佐治」
「お帰りなさい、弥三郎さん。小牧の視察ですか?」
少し昔はここから那古野まで一人で使いに来たこともあるほどしっかりした佐治だったが、十五を越えた今はもっとしっかりしている
さちと佐治が夫婦になれば、父も母も安心できるだろうが、どう言うわけかこの二人の間には、『幼馴染み』と言う感覚以外存在しないらしい
もうずっと同じ屋根の下で暮らしている所為だろうか
その佐治が、こんなことを言い出した
「俺、侍になりたいんだ」
「何だって急に」
特に驚くこともなく、弥三郎は普通の顔をして聞いた
自分が平民から侍になった所為だろうか、自分から望んで侍になったわけではないが、佐治の気持ちがわかるからかも知れない
「那古野のお城に昔お使いで行った時、大勢のお侍を見て来た。みんな、引き締まった顔をしてた。それは、大事な物を守るんだって言う気概みたいなものを感じたんだ。俺は、今の生活に疑問を感じてる。毎日平凡なままで良いのかな、って。馬を追い駆けたり、商売の駆け引きは楽しいけど、それ以上のことがやってみたくなったんだ」
「なんでそれ、正月に戻った時、話してくれなかったんだ?」
昔、自分が使っていた、今は佐治が使っている小さな部屋で二人、膝を付き合わせて話す
「今はその時期じゃないって、想ったのかな」
「それがなんで、今頃になって話す?」
「今しかないって、想ったから」
「何で?」
「もう直ぐ、戦が始まるんだろ?」
「
佐治の言葉に、弥三郎はキョトンとした
そんな話、帰蝶からは聞かされていない
「みんな言ってる。小牧に清洲織田の兵士が何人も出入りしてるんだ。隣の犬山がかなり警戒してるって。今、一触即発の状態で、いつ戦が起きてもおかしくないって」
「そうか」
帰命も乳離れをしているが、それでも帰蝶は動ける状態にはない
先ずは周辺との外交を強めるためと、信長の母が美濃・可児の土田と交渉をしている最中だ
それが成功すれば、犬山、岩倉への警戒も今以上に充実する
犬山、岩倉を目標に定めながらも、まだその時期ではないと動かないでいるのを、佐治は知らないのか
あるいは、その先を見越しているのか
自分には判断できず、弥三郎は立ち上がった
「来い、佐治。お前を奥方様に見てもらう」
「弥三郎さん?」
「俺じゃ、どうすりゃ良いのかわからん。だけど、奥方様なら
佐治を連れ、清洲に戻った弥三郎の側には、妹のさちの姿もあった
「佐治だけなんて、ずるい!」
と、珍しく駄々を捏ねたのだ
商業が盛んと言っても、小牧はまだまだ田舎だった
田舎暮らしの少女が、都会に憧れるのは当たり前のことで、清洲の町を見てみたいと言う妹の要求に、弥三郎も強くは拒めなかったのだ
困惑した顔で帰蝶に頼んでみたら、
「なら、局処で休ませてあげなさい」
と、あっさり入所の許可が下りた
局処に連れて行けば、貞勝がさちの面倒を見てくれると申し出てくれて、安心して任せ、佐治を連れて改めて帰蝶への謁見に臨む
「しばらく見ない内に、随分大きくなったわね」
久し振りに見る佐治に、帰蝶も頬が緩んだ
「ご無沙汰しておりました、奥方様」
「こちらもここ数年、ばたばたと慌しい毎日だったもので、お前を呼ぶこともなくなって心細かったのよ。今日はどうしたの?」
「はい。お忙しい奥方様のお手間を取らせて申し訳ないのですが、お願いしたいことがありまして、厚かましいのを承知でお顔を拝見させていただきました」
平民の出であるのに、その口上は一端の武士のものだった
武家を相手の商売をしているからか、自然と身に付いたのかも知れない
「どうしたの、お願いとは」
「はい。この佐治を、召抱えてはいただけませんでしょうか」
「
帰蝶は一瞬、言葉に詰まった
どう返事をすれば良いのか、わからなくなったのだ
こんな時、信長だったなら二つ返事で承諾しただろうか
佐治は平民で、戦とは無縁の環境で育った
その佐治を戦に連れて行くのは、良いことなのか、悪いことなのか
そんな帰蝶を見て、利発な佐治は自分の想いを素直に話した
「ここまでの道中、殿がお亡くなりになられたことは、弥三郎さんから聞きました」
「
弥三郎は余計なことを話してしまったかとでも詫びるように、首を竦める
だが、帰蝶は怒るわけでもなく軽く微笑み、佐治に目を戻す
「殿の代わりに奥方様がお一人でがんばっておられると言うことも、聞きました」
「私だけじゃないわ。みんな、私を支えてくれているの。だから、がんばれるのよ」
「私もその一人になりたいと想いました」
「佐治・・・」
「今年初め、村でも犬山織田の話は口に出ました。清洲織田が着実に力を付け始め、家督争いも決着が着き、本格的に尾張を切り崩しに掛かるだろうと。そうなると、最初に手を付けるのはやはり犬山ではないかと言う話です」
「民の口に、そこまで具体的な話が上がっているのね」
人の噂と言うのは、中々莫迦にできないなと、内心唸る
「私も、何れは小牧で犬山との争いが起きるかと予見していたのですが、そうしている内に一つの想いが芽生えました」
「どんな想いなの?」
「私のような一般人でも、歴史に名を刻めるだろうか、と」
「名を刻む?」
「少し大袈裟な言い方かも知れませんが、男に生まれた以上、何かを成し遂げてから死にたいと願うようになりました。身の程知らずの夢かも知れません。ですが、弥三郎さんのような侍になって、誰かの役に立ちたいと考えております。小牧は商業の町ですが、まだまだ発展途上です。これからもっと開けた町にして行きたい。でも、商人だけの力にも限界があります。商人よりも上の存在と言えば何だろうと考えた結果、侍になって、町を開拓して行きたいと言う願いが胸に芽生えました。愚かな考えと笑って下さっても結構です。ですがどうか、この佐治の願い、ほんのひと時でも叶えて下さいませんでしょうか。お願いします」
長い口上の末、佐治は深々と頭を下げた
夢を見るのは自由だ
それは金持ちも貧乏人も関係ない
誰もが平等に与えられたもの
それが、『夢を見る』ことだった
少年の一途な想いを受け取り、帰蝶は静かに頷いた
「侍になりたいというのなら、反対はしない。いくらでもなるが良い」
「では、奥方様・・・!」
下げた頭を上げた佐治の顔は、綻んでいた
「だけど、戦でいつ死ぬともわからぬ運命に、身を晒す結果になるのよ?」
だが、帰蝶の言葉が、緩んでいる頬を引き締めた
「それでも、侍になりたいの?」
「
少し遅れ、それでも佐治はきっぱりと返事する
「一人でも多くの民を幸せにできるのであれば、この命、どんな危険にも晒せます」
「佐治・・・・・・・」
「そう覚悟を決めたのは、弥三郎さんから奥方様のお話を聞かされてからです」
「え?」
「
弥三郎は何故だか気まずそうに、帰蝶から視線を逸らした
「殿の夢を守るために、そのお手に刀を握ったと聞きました。私はそれを聞いて、自分のことだけのために夢を費やすのはもったいないのではないかと、この道中考えました。どうせ使うのなら、もっと大きなことに使いたいと。ですから、どんな結果になろうとも、私は後悔しません。どうか、私の仕官をお許しくださいませ。お願いします」
固い決心の前に、取り繕った説得は無駄だと感じた
結局、帰蝶は佐治の仕官を認めた
「弥三郎の親戚と言うことは、私にとっても身内も同然。だけど、身内なら尚更、行き成り小姓にはさせられないわ。だから佐治、お前は馬引きから始めなさい」
「馬引き?」
「そこから戦の仕組み、武士のあり方を学びなさい。それでもわからないのであれば、お前に武士になる資格はないと言うことよ。わかった?」
「
佐治は口唇をきゅっと噛み、子供ながらに凛々しい顔付きで頷いた
帰蝶の許しが降りたところで、故郷の親にも伝えなくてはならないと、弥三郎は佐治を小牧に連れ戻すことになり、妹のさちを預かってもらっている局処まで迎えに行く
「それにしても、奥方様は凄いですね」
「そう?」
「女だてらに男の仕事をしようだなんて、想像できませんよ」
「それもね、みんながそうやって私を支えてくれるからよ。私一人じゃ何もできないわ」
帰命は本丸で育てられているが、たまには局処で躰を休めたい時もある
帰蝶も序にと、局処に向った
「絆って、大事なんですね」
「そうよ。でも、お前は賢い子だから、きっとわかる日が来るわ」
「奥方様のご期待を裏切らぬよう、精一杯務めさせていただきます」
そう言って立ち止まり、自分に深々と頭を下げる佐治の愛らしさに、帰蝶は想わず吹き出した
局処の庭先で、子供達が集まって手毬で遊んでいた
ここから独立したのは可成の倅・傅兵衛と、斯波の三男・日吉丸くらいなもので、後の子供らはまだ幼いため、局処と、本丸の帰蝶の部屋が活動の範囲だった
いつの間にか、その子供も増えている
初めは傅兵衛だけだったのが、那古野で生まれた妹も加わり、その後に時親とお能の子供が加わり、弥三郎と菊子の娘も入り、去年には信長の妹の市や、それより下の弟達も参加している
それだけではなく、家臣の幼子らも預かっているため、今では相当の人数に膨れていた
それだけ賑やかになった局処で、はしゃぐ声が至るところで鳴り響く
これならあの世の信長にも充分届き、淋しいとは感じないのではないかと帰蝶は想えた
誰よりも淋しがり屋で、誰よりも賑やかなことが好きな夫だったから・・・
そんな想いを胸にしながら庭に入った帰蝶の耳に、すっかり成長したさちの声が流れて来た
「お兄ちゃん!」
「おお、楽しそうだな、さち」
さちに懐いたのか、少し年下の市もくっついて、走るさちの後を追って弥三郎の許に駆け寄る
「お話、終わったの?」
「ああ、終わった」
「それじゃ、清洲に出れる?」
「いや、これから佐治を小牧まで送らなきゃなんねーんだ」
「ええ~?」
あからさまにガッカリする声を上げるさちに、帰蝶はまた微笑んだ
「
しばらく見ていないからか、さちは帰蝶に気付くのが遅れた
男物の小袖を羽織っているのだから、尚更だろう
「すっかり女らしくなったわね、さち」
「ご無沙汰しておりました」
ご無沙汰、と言っても、さちが帰蝶を見たのは、帰蝶が弥三郎の実家に出向いた時の一度きりで、忘れていてもおかしくはない
それでも覚えていたさちの記憶力には驚かされる
「男物を着てらっしゃるんですか?」
「そうよ。これが意外と動きやすくてね、さちも着てみる?」
「ええ?さちには似合いませんよ」
苦笑いするさちもまた、弥三郎の妹なだけあって愛らしい
「お市、さちに遊んでもらったの?」
「
さちの影に隠れている市に、帰蝶は声を掛けた
掛けられた市は薄っすら笑いながら、黙って頷き応える
後ろでは子供達がまだ遊んでいた
この頃活発になって来た弥三郎の一人娘・瑞希も、手毬を追い駆けて走り回っていた
「瑞希、こっちこっち!」
従兄妹に当る勝丸の声に応えようと、瑞希は精一杯の力を以って手毬を投げ返す
その勝丸に、兄の坊丸も声を掛けた
「お勝!こっち!」
「おう!」
元気いっぱいに応え、振り向き様に投げた手毬は地面に叩き付けられ、しかも場所が悪かったのか転がっていた石に弾かれ、想わぬ方向へと飛んだ
そう、それは、佐治と弥三郎との話で注意力の削げた帰蝶に向って真っ直ぐ飛んで来る
「危ない!」
気付かない帰蝶の前に、咄嗟だったのかさちが立ちはだかった
「
瞬間的に身構える帰蝶の目の前で、さちはかっこよく手毬を受け取るつもりが誤って、パコーンと顔面で受け取った
「さち!」
目の前がチカチカと光り、さちは目を回して倒れた
「
どれくらい意識を失っていたのか、さちが目を覚ました時は見たこともないような広い部屋の中央に居て、触ったこともないようなふかふかの布団に包まれていた
「気が付いた?」
「奥方様・・・・・・・」
側には、帰命を抱いた帰蝶が座っている
勿論帰蝶だけが居るのではなく、他にも大年増の女が何人か居た
その中の二人が、ここの総責任者であるなつと、信長生母の市弥であることを知ったのは、これより後のことだった
「私・・・・・・」
「私を守ってくれたのね、ありがとう」
「いえ・・・。夢中だったし、自分でもわからない内に、あんなことしてて・・・」
「ねえ、さち」
「はい」
「あなた、局処で働く気はない?」
「
帰蝶の突然の申し出に、さちは丸い目を更に丸くして驚いた
「局処で働くには誰かの推薦が必要だけど、あなたなら義理の姉の菊子がここに居るし、必要なら私も連名で推薦人になるわ」
「お、奥方様が?」
「どう?考えてみない?」
「
帰蝶の突然の申し出に、さちは大きく戸惑った
「どうして、私なんかを気に掛けてくださったんですか?」
「無意識とは言え、咄嗟に私を庇ってくれたあなたの行動に、あなたならここの管理人を任せられるんじゃないかって想ったの」
「管理人?」
「私の部屋の管理よ」
「え?!ここ、奥方様のお部屋だったんですか?!」
「そうよ?」
大袈裟なほど驚くさちに、帰蝶はカラカラ笑った
なんと恐れ多いことをしたのかと、さちは布団の上で平伏した
「知らぬこととは言え、奥方様のお部屋を泥で汚してしまいました。申し訳ございません・・・!」
「気にしないで。あなたをここに運んだのは、私なんだから」
「どのような処罰も甘んじて受けますので、どうかご容赦を!」
「なら、問答無用で働いてもらうわよ?」
「承知しました!
キョトンとするさちに、帰蝶だけではなく、側に居たなつと市弥も大笑いした
佐治とさちが揃って帰蝶の許に仕官することになり、驚いたのは平左衛門とやえだった
一人娘と、親戚から預かっている佐治の両方が一度に居なくなってしまうのだから、その開いた穴も大きい
ぼんやりとするやえに、弥三郎は恐る恐るながらも申し出た
「あの、さ、お袋・・・」
「
やえは黙って、弥三郎の顔を見る
「良かったらさ、清洲に来ねえか?」
「清洲に?」
「狭いけど、俺も一応自分の持ち家あるからさ、そこでみんなで一緒に暮らそうや」
「でも、ねぇ、お父さん・・・」
「ここを出て行ったら、馬屋の商売ができなくなる」
と、平左衛門も応える
「隠居しちまえよ。親父とお袋ぐらい、俺が食わせて行けるから」
「まだお前の世話になる気はない」
「だったらさ、心細くなったらいつでも来いよ」
「親を年寄り扱いするな!」
情けの言葉も、平左衛門は断固拒否する
そんな父親を弥三郎は苦笑いして眺めた
兄の時親に土田本家の再興が掛かっていると言うのに、過度の期待は決して掛けない
あくまで自分達流の生き方を貫こうとしている
父は武士としての誇りを捨てた代わりに、何物にも換えられない温かい家庭を手に入れた
それを守ることを生き甲斐にしている
弥三郎にとっては、幼い頃からの自慢の父だった
その父から、一人娘を奪うような真似をしたことに後悔しながらも、いつかはこの両親の面倒を自分が見たいとも想っていた
「今日も岩倉にこれと言った動きはありません。でも犬山の方は怪しいみたいですね」
帰蝶への報告も、串団子を咥えたままで行なう利家に、どうしても苦笑いが浮かんでしまう
「そんなにお腹が空いてるんだったら、台所に行って湯漬けでももらって来なさいな」
「そんな暇ないっすよ。午後は小牧に行って、五郎左衛門さんの助っ人やんなきゃ」
「小牧の方はどう?」
「まぁ、ぼちぼちですが、豪族も清洲織田に寝返るのが増えて来てますね。又助さんの親戚があっちの方で手広く材木屋をやってますから、その伝手で豪族とか土豪とか?そう言った有力者に声、掛けて回ってるみたいですから。まぁ、順調良くとまでは行かないまでも、元々は何処の手も着いてなかった場所ですから、ぶっちゃければ早い者勝ちですね」
「そう」
「それじゃ、行って来ます」
利家は一通りの報告を終えると、皿にある残りの串団子の全てを掴んで、部屋を出て行く
そんな利家の背中を、帰蝶は笑いながら見送った
「バタバタと忙しい子」
実際、自分とはそれほど年も離れていないが、何故だか利家が幼い子供が精一杯背伸びをしてがんばっているようにも見えて、おかしくて仕方がない
想えば利家は、自分が初陣の時に信長から与えられた護衛の一人だった
比較的安全圏である自分の側に居ながらも、利家は武功も上げ、文句なしで馬廻り衆に抜擢され、あれよあれよと言う間に赤母衣衆の筆頭にまで伸し上がった
それでも周囲から反感を食らわないのは、秀隆のような問答無用の貫禄や風格などと言った代物ではなく、いつでも部下と同じ視線で物を見聞きするその低い姿勢にある
部下以上にあちらこちらと走り回り、いつでも最前線に立って背中に居る者を庇おうとする
それが、広く慕われている理由だった
長く家督争いに巻き込まれては居ても、そんな雰囲気さえおくびにも出さず、いつも豪快に笑っている
利家と一緒に居ると、誰もが楽しい気分になれた
信長が死んだ時も、誰よりも自分を励まそうと懸命になってくれたことを想い出しながら、帰蝶は仕事の続きに着手した
夫が死んで、どれくらいが経ったのか
怖くて指が折れなかった
心の拠り所だった夫の死に、しばらくは忙しさに感け、ポカンとする暇もなかった
その夫の子を宿し、産み、そして育て、その子が乳離れをし、伝え歩きを初め、少しずつ自分の手元から遠いところまで行けるようになった頃、漸く心の穴の存在に気付いた
それは途方もなく大きくて、簡単には埋まりそうにもない
だから、帰蝶は眠る時が楽しみだった
時折悪夢に魘されながらも、夢の中でなら愛しい夫に逢える
夢の中の夫は生前の頃の笑顔のままで、いつも自分を温かく見守ってくれた
色んな話をしてくれた
起きる頃には忘れてしまうようなことでも、帰蝶は幸せな気分で目覚めることができた
だけど、そんな幸せな時間を、心の呵責が邪魔をする
そこは見慣れた伊勢湾の浜辺だった
夫との愛を確認した場所であり、帰蝶にとって大切な場所でもあった
その場所に、その波打ち際に、夫は立っていた
「吉法師様!」
待たせてごめんなさいとでも言いたげな顔をして、帰蝶は信長を呼んだ
信長は相変わらずの笑顔を振り撒き、帰蝶に振り返った
「見てみろ。あの水平線を。あの水平線の向うが、お前が来るのを待っている」
「水平線の向うは、伊勢ですか?」
「そのもっと向うだ」
「え?伊賀ですか?」
「違う。もっともっともーっと向うだ」
「どこなんですか?」
わからない顔をする帰蝶に、信長は優しい微笑みを浮かべて応えた
「お前が、その目で確認しろ」
「私が?」
「お前なら、いつか辿り着ける」
「そうでしょうか」
ふと、波が帰蝶の脚を撫でた
「ふふっ、くすぐったい」
そして、信長の胸元に縋ろうと手を添えた
その手を信長も軽く掴む
「吉法師様」
愛しい男を愛しい想いで見詰め返そうとした帰蝶の目に、血で汚れた男の手が映った
「
驚いて顔を上げる
上げた顔の先には、血に塗れた信勝の顔が映った
「勘十郎・・・様・・・・・・・・」
「義姉上にも見えますか。織田の行く末が」
血塗れの信勝は、ぎゅっと帰蝶の手を掴んで離さない
「私の流した血が、織田の辿る道を知らせるでしょう。何れあなたも、この血で汚れる」
「
今日の帰蝶の寝室の前の張り番は、この間、利家が聞いた良からぬ相談をしていた小姓だった
うとうとと眠い目を擦りながら、襖の番をする
運悪く、か、その小姓の耳に帰蝶の掠れた声が聞こえて来た
「
襖に耳を当て、聞いてみる
「ん・・・・・・・ッ!」
首筋に浮かぶ汗
この頃少し長くなった髪が絡み付き、妖艶な雰囲気を醸し出す
布団の裾を掴み、何かから逃げるように首を振る
眉間は中央に寄り、苦悶の色も濃い
「いや・・・・・・・ッ」
「あなたがこれから血を流せば流すほど、織田は栄華に咲き誇り、そして、枯れ果てぬ花を咲かせる。されど、流す血が途切れた時、織田も終わる」
「離して・・・!」
自分の手をしっかり握る信勝を、帰蝶は必死になって振り解く
「あなたはその終焉を目の当たりにするでしょう。あなたにそれが耐えられるかどうか、見ものです」
「いやッ!」
ドン!と、信勝を渾身の力を込めて突き放す
離れた手は血が消え、倒れ行くその躰は信長に戻った
「吉法師様!」
慌てて掴もうと手を伸ばした帰蝶には、信長の手は届かなかった
「いやぁーッ!」
「奥方様!」
直ぐ側で、誰かの声がする
帰蝶ははっと目を覚ました
「
「私です。今夜は私が張り番なんです」
「そう・・・」
薄っすらと暗い影から、見慣れた小姓の顔が確認できた
信長が生きていた頃から仕えている小姓だ
馴染みはあった
その小姓の前で、あられもない姿を晒したと帰蝶は急いで乱れた髪を手櫛で整えた
胸元も、ほんのりと肌蹴ている
それを慌てて取り繕う
「奥方様、汗が」
小姓は自分の懐から真新しい手拭を取り出すと、そっと帰蝶の額の汗を拭ってやった
「ありがとう」
「随分汗だくになっておられますね。何をなさってました」
「別に、何も・・・」
悪い夢を見ていたなど、言うまでもないと帰蝶は、さり気なく小姓の手を払おうとした
その帰蝶の手を逆に払い除け、小姓は首筋の汗も拭い始める
「恥しがらずに、仰ってください。私は小姓です。その命も奥方様に捧げるために、こうしてお側に着いているのです」
「嬉しいけど、その気持ちだけで充分よ、ありがとう。もう良いわ、後は自分でやるから」
「そうは参りません。最後までお世話するのが、私の役目です」
そう言うと、小姓は大胆にもさっと、帰蝶の懐にまで手を差し入れた
「
驚いた帰蝶は、小姓の手首を掴み、自分の胸元に差し入れられた小姓の手を抜こうとする
まだ前髪を落としていないとは言え、人其々元服の時期は違う
この小姓は十六を迎え、そろそろと言う頃合だった
力でも、帰蝶に適わないわけではない
「汗を、拭って差し上げます」
「良いって言ってるでしょ?自分でやるから、放っておいて・・・ッ」
「奥方様!」
小姓はその布団の上に帰蝶を押し倒し、力任せに寝間着の小袖の襟を寛がせた
「
帰蝶の目が、驚きで大きく開く
「恥しがらずとも良いと、申し上げましたでしょう?」
開いたその向うには、想像していたよりも大きな乳房が二つ、形良く天井に向けられている
その片方を、小姓はそっと掌で包み込んだ
「やめなさい。お前は長く仕えてくれている。こんなことで処分したくはない」
帰蝶は諭すように、静かな口調で言った
「そのようなこと、今夜限りでございます」
「何を言ってるの・・・?」
「淋しがっているこのお躰を、私が慰めて差し上げます」
と、小姓はつんと尖り掛けた帰蝶の乳首を、口の中に含んで転がし始めた
「
帰蝶は必死になって身を捩じらせ、小姓を躰の上から振り落とそうと腰をくねらせた
それが、『感じている』と勘違いさせてしまった
「欲しいのでしょう?男が。我慢なさらずとも良いではないですか。それとも、私よりやはり、岩室殿の方がお好みですか?」
「何を・・・・・・・・」
「何なら、岩室殿もお呼びしましょうか」
「
何を勘違いしているのだと、帰蝶は目の前の、自分の上に覆い被さっている小姓を、見たこともない男を見るような目で見た
「やめ・・・て・・・!」
「大変だ、大変だ。早く奥方様にお知らせしなきゃ」
本丸の廊下を、外回りから戻って来たばかりの利家が、早足で急ぐ
「龍之介ー!龍之介ー!」
帰蝶の執務室に居るであろう龍之介を、大声で呼ぶ
「はい、前田様。何でございましょうか」
襖を少しだけ開け、龍之介が顔を出す
「奥方様は、もうお休みか?」
「はい。ですが、前田様がお戻りになられましたら、遠慮なく通すように申し付けられております」
「じゃぁ、勝手に入っても良いか」
「ええと、できましたら、廊下からお声を掛けていただくのが幸いかと・・・」
苦笑して応える
「お前は同行できんのか?」
「申し訳ございません、明日までに仕上げなくてはならない仕事がございまして、それが終わるまでは部屋から出るなと、奥方様に言い付けられております。不躾ながら、ご案内差し上げられないのです」
相手が勝手知ったる利家だからか、帰蝶は急用があれば取次ぎなしで部屋に来るよう、龍之介に言い付けていた
「そうか、まぁ、奥方様の寝室は知ってるから一人でも行けるけどな」
「申し訳ございません」
寝室の隣の居間ならしょっちゅう訪問しているので、利家自身、特に気にもせず別の廊下を小走りに進む
「しっかし、まさか小牧に張ってるだけで、犬山も簡単に動くもんなんだな」
帰蝶が美濃攻めに備えて小牧を牛耳ろうとしているのを、犬山織田が嗅ぎ付け、挙兵の準備に取り掛かっていると言う情報を手に入れ、利家は慌てて清洲に戻った
それを報告しようと帰蝶の部屋に急ぐが、その寝室の前で良からぬ予感に襲われた
通常なら部屋の前に一人から二人の小姓が護衛として付いているはずである
もしかしたら交代の頃なのかも知れないが、それでも一人も居ないというのはおかしい
利家は急いで寝室に向った
その途端、襖の向こうから人の争う声が聞こえる
「やめて!」
「
驚いた利家は、後先考えずに襖を開け放つ
目の前には小姓に襲われている帰蝶の艶めかしい姿が晒されていた
「奥方様!」
利家は無礼を承知で寝室に入り、帰蝶の上に乗っかっている小姓の襟首を掴み、引き剥がした
「お前!」
「
顔を見ればこの間、帰蝶を手篭めにするとかしないとか、物騒な相談をしていた小姓ではないか
「何やってんだよ」
「別に・・・・・・・・・」
帰蝶に目をやれば、小袖の半分が毟り取られ、慌てて身繕いをする姿が映る
「これが、何もやってないってわけねーだろ!」
全身の血が、脳みそ目掛けて一気に駆け上がった
奥方様は、殿だけが触れられる神聖な存在で
それ以外の男が触れるのはご法度で
ただ、崇拝に近い想いを抱かずには居られない帰蝶を、女のように扱ったこの小姓が、ただ、許せなくて
利家は頭に血が昇った状態で、小姓の首を両手で締め付けた
「くっ・・・!」
利家は清洲でも一番、大柄な男だった
背も高い
腕も太い
子供のような表情をしながらも、一番の力自慢だった
その利家に首を締め付けられ、無事で済むはずがない
「やめて!犬千代ッ、やめなさい!」
驚いた帰蝶が、慌てて利家の腕を掴み、首を絞めることをやめさせようとした
だが、帰蝶の細い指では利家の腕も回らない
「やめなさい!犬千代!」
必死になってそれをやめさせようとするも、利家の顔は憤怒で真っ赤に染まっていた
「やめて!死んでしまう!犬千代!」
必死になって叫んだ声が届いたか、利家はハッと我に返って手を離した
同時に、小姓の躰が布団に落ちる
「犬千代!」
「
呆然と呆けた顔をする利家の足元に崩れ落ちた小姓の息を確かめる
「
だが、強力な力で喉を締め付けられた小姓はその骨が砕けたのか、著しい皮膚のへこみと鬱血した赤い色に染まり、口からは白い泡が吹き出ていた
見ただけでも息がないことは確かである
「何てことを・・・・・・・・・」
「奥方様・・・・・・・・」
利家は自分でも何てことをしたのだと、膝が崩れ落ちた
「犬千代!」
ともすれば倒れそうになる利家の大きな躰を、帰蝶は咄嗟に支えた
「しっかりなさい!」
「俺、・・・・・・・俺
「去りなさい、犬千代」
「
帰蝶の言葉が理解できない
「私が処理します。だからお前は、何もしていない、何も見ていない、何も知らない。良い?」
「でも・・・・・・・・・・」
「犬千代、しっかりなさい!」
帰蝶は呆けから戻らない利家の頬を軽くはたいた
「本丸での殺生は、どんな理由があろうともご法度なのよ?それを犯せば、いくらお前でも庇い切れない。だから」
利家の立派な両肩を掴んで、帰蝶は叫んだ
「逃げて!」
「
そんな帰蝶の、真剣な眼差しを見て、利家は静かに頭(かぶり)を振った
「できません。これ以上、奥方様に無用な罪を、被せられません」
「犬千代・・・!」
「俺が殺したんだ。だから、責めは俺が受けなきゃなんない」
「犬千代・・・・・・・・」
騒動に、龍之介が先頭に立って帰蝶の寝室を訪れた
「奥方様、如何なさいましたか」
「なんでもないわ。龍之介だけ入って」
「はい」
残りの小姓を廊下に残し、龍之介だけが帰蝶の寝室に入った
そして、帰蝶の布団の上で死んでいる先輩小姓を見て、目を見開く
「これは・・・・・・・・・・・」
「この子が粗相をしたから、私が罰しました」
「違う!」
帰蝶の言葉を遮り、利家が叫ぶ
「俺が殺したんだ!奥方様は関係ない!」
「犬千代!」
「俺が、この手で・・・。この手で・・・・・・」
広げた両手が震え、その手を帰蝶はぎゅっと握り締めた
「
泣きそうな、だけどそれを我慢して微笑むような顔をして、利家は言った
「長屋に居る女房のこと、お願いしても良いですか・・・」
「犬千代・・・・・・・」
「子供も生まれるってのに、俺、何やってんだろ・・・・・」
ともすれば、涙が零れて来そうになるのを、利家は必死になって堪えた
「前田のことは、慶次郎に任せます・・・」
「お前は、どうするの」
「俺は、ここには居られない」
「ここを出て、どうするの」
「奥方様・・・」
「お前は、私を助けてくれたのよ?お前が出て行く必要なんて、どこにもないのよ?」
「それでも!けじめはきっちり着けなきゃなんないんですよ、奥方様!」
「犬千代・・・」
叫ぶ利家に、帰蝶の目が見開かれる
「人殺しの俺を庇えば、奥方様の評判にだって傷が付く!それを周囲が知ったらどうしますか!折角纏まり掛けた織田が、また、バラバラになっちまうんですよ!犬山や岩倉を相手にしようかって時に、こんなつまんねーことで躓いてちゃなんねーんですよ!」
「でも・・・・・・・・・・」
「奥方様が身内に甘いって清洲の中でも噂になれば、その隙を突いて誰が攻め込んで来るかわかんねぇ!奥方様!」
自分の手を握ってくれている帰蝶の手を、利家は握り返し、そして、情けないながらも何とか微笑もうとする顔で告げる
「犬山が、動きました」
「
「大事な時ですよ。だからこそ、こんな醜聞を世間に知らせるわけにはいかないんですよ、奥方様」
「犬千代・・・・・・・・」
「罪が許されたら、また、奥方様の許に戻ります。だからそれまで、俺を勘当しててください。頼んます」
「犬千代・・・・・・・・・・ッ」
「龍之介」
帰蝶の手を離し、利家は立ち上がった
「その小姓は、奥方様に無礼を働いた。だから、俺が成敗した。奥方様は俺の過ちを止めようとなされたお立場だ。間違えるな」
「
「犬千代・・・!」
「奥方様」
自分を引き止めてくれる帰蝶に、利家は起立のまま深く頭を下げ、逃げるように縁側の廊下から部屋を飛び出した
「犬千代!」
慌ててその後を追うも、利家は既に夜空の暗闇に消え、遠くで足音だけが響いた
「犬千代!犬千代!」
何度も名を呼べど、名の主は戻って来ることはない
帰蝶は裸足のまま中庭に出、利家が去った後をいつまでも立ち尽くした
犬千代の出奔はその日の内に清洲城中に広まった
人の噂は面白おかしく尾鰭が付くものだが、普段から利家に味方する者の多さが幸いしたか、小姓が城主に無礼を働いて、それに怒った利家が成敗したと言うことだけは正しく伝わった
利家が出奔して数日後、市弥の努力の甲斐あって、美濃・可児の土田家がこちらに寝返った
時親の、生駒家内偵の密命も終了する
利家との約束どおり、妻は帰蝶が保護し、局処で預かることになった
慌しく過ぎる毎日の中で、利家の声だけが聞こえない
淋しさが募る
遠慮してか、しばらくは誰も、極力利家の話は口にしなかった
帰蝶が一番、気に病んでいると知っているからかも知れない
「そろそろ梅雨が来ますね」
ふと、盆を持ったなつが隣に腰を下ろし、呟いた
「そうね」
「犬千代、ちゃんと屋根のあるところで過ごしてるんでしょうかね」
「どうかしら。でも、犬千代のことだから、大丈夫な気がする」
「そうですね、見掛けどおり、丈夫な子ですし」
なつの言葉につい、軽く吹き出してしまう
「今日のおやつは、串団子ですよ」
「美味しそうね。どこのお店の?」
「大方様が、腕を揮われたんです」
「ええ?義母上様が?」
「ほら、土田家がこちらと提携することが決まったでしょう?だから、そのお祝いだって」
「そうなの。へえぇ、義母上様がねぇ」
感心しながら市弥の作った串団子を見詰める
その帰蝶に、なつは微笑みながら言った
「奥方様は、大方様まで変えてしまわれるんですから、大したものですよ」
「え?」
「大丈夫ですよ。犬千代も、いつか戻って来ます。案外、早いかも知れませんよ?」
「そうだと良いのだけど」
苦笑いする帰蝶に、市弥の呼ぶ声がする
「土田との提携の、条件提示のお話でしょうかね?」
「かもね」
盆を持ち直すなつと揃って立ち上がる帰蝶の耳に、植え込みの木が揺れる音が聞こえた
振り返るが、そこには誰も居ない
だけど、気付いていた
「なつ」
「はい?」
「その串団子、縁側に置いててくれない?」
「如何なさいました?」
「大きな雀が、庭先に舞い降りたようなの」
「ええ?大きな雀が?」
盆を持ったまま、なつは庭を見渡すが、今日に限って子供の一人も出ていなかった
「どこですか?」
「私達が居たら、怖がって出て来れないかもね」
そう言いながら、盆の上の串団子を盛った皿を手に取り、帰蝶はそっと縁側に置いた
「大きな雀さん。ありがたく食べるのよ」
と、声を掛け、帰蝶は不思議そうな顔をしているなつの背中を押して、奥に引っ込んだ
その後を追うように、また、さっきの植え込みの木の葉が揺れた
まるで帰蝶の声に応えるかのように
利家が消えて二ヶ月が過ぎた頃、帰蝶の第二陣、対犬山戦が始まった
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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