×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
待ちに待った昼餉の時間がやって来た
この頃は少しずつでも詰所で食べられるようになって来たものの、満腹までにはまだ至らない
今日も先輩達の茶碗に米を盛り、おかずを配ると、最初に配った先輩がお代わりに来て、利治の分がどんどんとなくなって行く
それを眺めながら次から次へと言い付けられ、とうとう櫃の底が見えて来た
飯が食えないというのは、この時代、『生きていられない』と言うのも同義である
食いはぐれてしまう者は『弱者』
弱者に生きる余地は与えられない厳しい時代だ
わかっていても、それを止める手立ては今の利治にはなかった
「お代わり」
「 はい」
ほんの僅かな間も箸すら持てないままの利治の背後で、詰所の扉が開かれる音がした
その音に、顔を向けている者らが驚く
雰囲気に利治も振り返り、同じく目を見開いて驚いた
「 市丸様・・・」
秀隆の部下、佐々成政が詰所に入って来たのだ
成政は秀隆の直属の部下ではあるが、黒母衣衆の部隊員ではない
極めて稀な位置に居る人間なのは、秀隆が黒母衣衆の筆頭以外に別の部隊も任されていた
その部隊の隊長が、この成政なのだ
「市丸様、如何なさいました?」
黒母衣衆ではない成政がここに来ることは、滅多としてない
なのに現れたと言うことは、尋常ではないことが起きたと言うことで、最悪の結果、秀隆の身に何かが起きたことを示唆するものだった
「みな、昼飯中にすまないが、少し箸を置いてくれんか」
「はいッ」
まだ年若いが、きりりとした顔付きが印象の成政には、厳粛な空気がいつも漂っている
罷り間違っても冷やかせる相手ではない
全員が一斉に箸を置き、利治は櫃の中に杓文字を置いて成政に体を向けた
「この度、岩倉織田との一戦が決まった」
「ええ?!」
「岩倉とですか?!」
それは驚きの声もそうだろうが、ここのところ穏やか続きだった平凡な毎日に、漸く武士らしい仕事ができる歓喜の声も混じっている
「お前達黒母衣衆は、いつもどおり殿に付いて行動するよう河尻様より命令が下っている」
黒母衣衆と言えども、直接『信長』と謁見することなど滅多にない者が多い
そう言った者達にまで一々信長の死を伝えることはせず、事情を知る者は公然では帰蝶を『殿』と呼んでいた
「それで、河尻様は」
「筆頭は先に出られた。いつ始まるかわからんが、当分清洲には戻れん。そこで、筆頭と合流するまで、黒母衣衆の指揮権は一時的に私が預かることになった。みな、よろしく頼む」
丁寧に頭を下げる成政に、全員が返礼する
「明日より仕度を命ずる。各々、武器・防具の手入れに余念なきよう、心せよ」
「ははっ!」
成政の号令に、普段緩み切っている詰所の空気が一転した
抜け駆けの一足お先にか、今日から仕度を始めようとせかせかと、昼飯を掻き込む者も大勢出る
そんな光景を眺めながら、成政はほぼ隣に居る利治に声を掛けた
「新五殿も、お早く昼食を済まされるよう。庭で慶次郎殿が待ち焦がれているご様子でしたぞ」
「は・・・、はい・・・!」
利治は急いで自分の分の米をよそうと、走るように席に戻った
そんな利治に、成政は綺麗な顔立ちの頬を緩め、苦笑いする
ここではまだ充分な食事を摂ることができていない様子が、目に浮かぶようだったからだ
奥方様の心痛、計り知れぬ、と
食事が終わると、僅かな休憩が取れる
その休憩時間に利治は慶次郎相手に槍の稽古をし、休憩が終わると詰所の仕事を片付ける
それが終われば再び慶次郎と稽古を繰り返す
昼食後の休憩に利治は、慶次郎と長棒を持って打ち合いをしていた
一日に三度の休憩があるが、その全てを稽古に費やしても腕は一向に進歩しない
そんな苛立ちも抱えている
なつの居る局処の昼食が今時であるため、休憩の頃の稽古には顔を出したり出さなかったりもあるが、今は伊予の婚礼仕度も重なっており、市弥の補佐に回っているからだろう、ここには居なかった
そこに帰蝶が現れる
「姉上・・・!」
つい、頬が綻んだ
いつもの小袖姿に今は襷を掛けて、腰には木刀を携え、小姓の龍之介も同行している
それを見て、つい気軽な気持ちで声を掛けてしまった
「姉上も稽古ですか?」
「自分の身は、自分で守らねば成らない戦しか、選べないから」
常に寡兵での戦を強いられている帰蝶には、護衛ですら兵力に回したい気持ちで一杯だった
厳しい雰囲気を纏わせる姉に、利治は戸惑う
「あの・・・」
「慶次郎」
おずおずとする弟など気にも掛けず、いや、無視するかのように、帰蝶は慶次郎に声を掛けた
「今度の戦、新五も出ることになった」
「ああ、一応黒母衣だからな。『見習い』でも?」
「う、煩いな・・・!」
利治は冷やかす慶次郎を真っ赤な顔をして睨み付けた
「また、お前に面倒を掛けることになるが」
「いつものこった、気にしなさんな。ところで、暇してる佐治はどうするんだい?」
「末席の新五に、馬引きを持たせることはできない。だから佐治には松風の綱を引かせる」
「ほぉ、行き成り総大将の馬引きかい。そりゃ佐治も大出世だな」
かかか!と笑う慶次郎の側で、何故か落ち込んだ様子の利治に目を向ける
「 あ・・・、あの・・・」
「佐治を馬引きに抜擢したのは、あの子の日頃の努力あってのことよ。侍になりたいとここに来たのに、あの子には今日まで侍の見習いらしいこともさせてやれなかった。それでも腐らず負けず、あの子は自分のできることを一生懸命やって来た。それは私が見ていないとしても、誰かが必ず見ている。それが積み重なれば、嫌でも私の耳に入る」
「はい・・・・・・・・・・」
「新五、わかる?無駄な努力なんてね、どこにもないのよ。今は無駄だと想えても、いつか誰かが認めてくれる」
そうだろうか
そう言いたげな目をする利治に、帰蝶は追撃とも言える一言を放つ
「無駄だと感じるのは、成果を目でしか見れない愚者の言い訳よ」
「 」
姉の言葉に、利治の目がいっぱいに広がった
そうだ
自分ももう少しで腐るところだった
毎日同じことの繰り返しに、何の意味があるのだろうと想い始めたその矢先
城で与えられた仕事だけをこなし、少ない飯に満たされぬ腹を抱え慶次郎と効果のない稽古を繰り返し、帰ればさちの飯が待っているとそれだけを心待ちに安心し、無駄に日々を暮らしていた自分を、姉はたった一言で諌めてくれた
どれだけ慶次郎に癖を注意されても直せなかったのは、心が腐り始めていた前触れだったんだと、わかったような気がする
「姉上・・・」
手にしていた棒を握り締め、利治は言った
「私は、自分がどれだけの器なのか、わかりません。だけど、水を入れれば直ぐに零れてしまうような、小さな器にはなりたくありません。だから、今度の戦、必ず武功を上げて見せます」
「口で言うのは易い。先ずは実行し、姉の口を塞いでから大口を叩け」
「私は・・・」
姉に認めてもらいたい
だけどまだ実力が伴っていない自分をわかってもらうのに、自分でもその方法が見付からないままの利治に、帰蝶は尚も言い掛けた
「戦で武功を上げると言うことは、お前が揮った刃の数だけ、そのままお前に返って来る。お前はそれを受け入れることができるか」
「 姉上は」
応えられぬ苦し紛れに、その質問を帰蝶に返す
帰蝶は即答で返事をした
「私は、私が振った刃の分だけ、業を受け入れる覚悟がある」
それに即発されたのか、利治は高揚した顔色で応えた
「ならば、私も・・・!いえ、それ以上の業を背負ってみせます・・・ッ!」
「 」
必死な
生きることに必死な者の目が、そこにあった
偽りや飾りでそう言ったのではないと、帰蝶は感じた
ほんの少しだけ立派になった弟の姿に、帰蝶は微かに目蓋を細める
「その言葉、期待している」
「 ッ」
姉の意外な言葉に利治は絶句し、次の言葉を失った
帰蝶は腰に携えた木刀を抜くこともなく、その場を立ち去る
「あれ?奥方様、稽古は?」
「気分が変わった。局処でするわ」
「おなつさんが腰抜かすぞ?」
「腰を抜くだけで済むのなら、安いものよ」
そう苦笑いし、背中を向けて行ってしまう姉を、利治はただ見送る
夫の遺品の一つだろう
後ろに結んだ髪の根元で、髪結い用の細い、朱・黄・茶の飾り紐が揺れるのを、利治はぼんやりとした意識の中で眺めた
「おう、どうしたよ、新五。魂抜けたみたいな顔して」
ポカンとなっている利治の背中を押し、慶次郎は声を掛ける
現実に戻り、忘れていた息が再開したかのように、大きく空気を吸う
「はぁ・・・!」
利治の様子に、慶次郎は目を丸くして聞く
「お前、まさか自分の姉貴に死ぬほど緊張してた、なんてこと、ないよな?」
「わ、悪いかよ!」
「お前、そりゃいくらなんでも情けないぞ?でもまぁ、奥方様だからしょうがねーか」
かっかっか!と大笑いする慶次郎を、利治はきっと睨んだ
「お前に私の気持ちがわかってたまるか」
「わかんねぇよ、そんな腑抜けたツラして、ぼけーっと自分の姉貴見送って。返す言葉もなんかねえのかよ、お前は」
「だって、姉上が、期待してる、って・・・」
「期待してるから、団体鍛錬じゃなくて、こうして俺とサシで稽古させてるんだろ?」
「え・・・・・?」
「考えてもみろよ。見習い風情に態々場所提供するか?お前は奥方様に期待されてるんだよ。気付くの遅過ぎるっつーの」
「 」
慶次郎の言葉に、利治は益々言葉を失くした
「なぁ、新五」
持っていた棒をつっかえにし、体を預けるように崩して、慶次郎は言った
「女が男の世界で生きて行くのってさ、生半可じゃねーと想うんだよ」
「・・・・・・・・・うん」
「お前、覚えてるか?孫六だっけか、孫七だっけか、奥方様、ここの庭の削り岩で刀、折ろうとしてただろ?」
「 ああ、孫六だ」
慶次郎が織田に転がり込んだ夜のことだ
今も鮮明に覚えている
「あの時、奥方様は覚悟を決めたんだ。旦那さんに代わって、生きて行くって、さ。でもそれには、相当の決断が要ったはずだぜ?しかも、織田のみんなの期待を背負わされたんだ。なのに奥方様は今まで、一度でも弱音を吐いたことがあるか?」
「 」
利治は無言で首を振る
「だろ?それだけでも、大したことじゃねーか?俺はすげぇと想うよ、お前の姉貴」
「うん・・・・・・・・・」
「でもな、強い人間なんて、この世にゃいねーんだよ。誰だって一度ぐらい、弱いとこを見せちまう。それでも奥方様は、自分の弱いとこ、死んでも他人には見せねぇと想う。そんな奥方様の、唯一信頼できる肉親が、お前じゃねーのか?」
「 」
そうかも知れないが、自分は姉に何をしてやれるのか答えが見付からない
黙ったままの利治に慶次郎は尚も続けた
「奥方様が疲れた時にはさ、その背中で安心して休められるよう、お前のできることってなんだ。今よりもっと強くなることじゃねーのか。奥方様が安心して休められる場所に、なってやるって気持ちには、なんねーか?」
「わ・・・、私に務まるか・・・」
「務まるか務まらないかじゃなくてよ、絶対なってやるって気にはなんねーのか?って、聞いてんだよ、俺はよ」
「 」
「頼りない背中じゃ、羽、休められねーだろ。奥方様の一人や二人凭れさせてやろうって気にはなんねーのか、お前には」
「だって・・・!」
「だってもへったくれもねぇ!」
「 ッ」
怒鳴る慶次郎の声に、利治はビクンと震えた
「女守るのが男の仕事だ!それができねぇんじゃ、お前はいつまで経っても今のままだ!それで満足してるんだったら文句は言わねぇ。けどな、お前が少しでも嫌だっつんなら、いくらでも稽古の相手してやる!」
「慶次郎・・・」
「お前、さっき言ったじゃねえか。少しの水で零れてしまうような、小さい器にはなりたくねぇって。あれ、嘘かい」
「嘘じゃ 」
「だったら、なんで奥方様さえ背負ってやろうって言えねぇんだよ。威勢だけでも良いじゃねーか!『ねーちゃん、俺の背中で休め』って言えるくれーの男になんなきゃ、お前は先には進めねぇんだよ!」
「 ッ」
いつまで経っても強くなれない理由
それは、自分を信じられないから
強くなれるはずがないと想っているから
局処の自分の自室に向かう帰蝶は、腰から木刀を抜き、それを無言で龍之介に手渡した
龍之介は一礼し、それを受け取る
近付くと、何処からともなく鼓の音が聞こえて来た
それは自分の部屋からで、誰が打っているのかと少し訝しげに想う
龍之介が帰蝶の部屋の襖を開けた
主の不在が多く、さちが管理している帰蝶の部屋は本丸に居る間、帰蝶の意思で自由に開放されていた
とは言え、だからと言って誰でも自由に入れるわけでもないが、限られた人数なら出入りできるようになっていた
主に子供達で使われている場所にもなっているが
その部屋の中央に、なつが腰を下ろし鼓を打ってるのが見えた
「なつ」
「 」
帰蝶の声に気付き、手を止め顔を向ける
「若様は今、巴様のお部屋で休んでおられますよ」
「巴の部屋で?」
「ここに着いた途端、目を覚まされて」
「あら、帰命は寝起きが最悪だから、大変だったでしょ」
なつの言葉に苦笑いして応える
「それで、丁度手の空いておられた巴様が、お相手を買ってくださったんです」
「そうだったの。だからなのね」
局処に居る間、帰命が眠る場所と言えば隣の寝室が定番だった
なのになつが鼓を叩いていたのは、そこに帰命が居ないと言うことだったのだろう
帰蝶はなつの側に行き、腰を落とした
「久し振りね、なつがそれを打ってるの」
「ええ。滅多に手にできないんですけど、伊予様の仕度も一旦整ったからでしょうか、暇を持て余してしまって」
「だったら本丸に来てくれれば良いのに」
「ですが今、本丸は痛い糸で張り巡らされております。女が立ち入るのも憚られて、ついここで暇潰しに」
「伊予殿の準備は?」
「はい。後は箪笥屋から品物が届くのを待つばかりです」
「ご苦労様」
なつは黙って会釈した
「鼓、ねぇ」
「ふふふ。奥方様は鼓どころか、琴も弾けず、若が嘆いておられましたね」
「それどころじゃないわ。お茶だって満足に淹れられずに、どれだけ油を絞られたか」
信長の話をする度に、胸の奥のまだ塞がらぬ傷がじくじくと痛んだ
それでも何か話したい
そんな想いでいる時は、帰蝶も饒舌になれた
「普段、女らしさを追及しなかった吉法師様が、どうして女らしくするよう言ったのか、今になってわかるの」
「奥方様・・・」
「私が、そうだった。吉法師様が父と会見する時、やっぱりいつもの婆娑羅な恰好で、やめて欲しかった。見た目が肝心、って、想ってたのよね」
「それは仕方ありませんわ。美濃の国主で、舅様ですもの。それなりの身形で逢って欲しいと想うのは、間違いじゃありませんよ」
苦笑いする帰蝶に、なつは慰めの言葉を掛ける
「吉法師様も、きっとそれに似た想いだったのでしょうね。何れ尾張国国主の妻になるだろう私に、国主の妻としての教養を身に付けさせたかったのよ。結局、最後まで美味しいお茶を飲ませてやれなかった・・・」
「 」
しみじみと語る帰蝶に、なつも優しく微笑んで見詰めた
「そう言えば、なつって『敦盛』は叩ける?」
「『敦盛』ですか?幸若舞の?」
「ええ。吉法師様がお好きだったの」
「そう言えば、時々お二人で舞ってらっしゃいましたね。懐かしいです。『敦盛』なら、齧り程度ですが存じてます」
「ちょっとやってみてくれない?」
「私、歌は下手ですよ?」
「そんなことないでしょ。良いから、やってみて」
「はい」
突然の帰蝶の要求に、なつは少し戸惑いながら鼓を持ち直した
「んふんっ」
咳払いを一つ、それからぽん、と、鼓を打つ
「去程に、熊谷、よく々見てあれば、菩提の心ぞ起りける」
なつの声がいつもより低くなる
できる限り男声に近付けようとしているのか
それでも美しい歌声だった
「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らえて、かかる物憂き目にも、また、直実や遇はずらめ」
帰蝶は静かに立ち上がり、腕を前に伸ばす
想えばこの世は 常の住み家にあらず
草葉に置く白露 水に宿る月より なお妖し
なつの声に合わせて、帰蝶は舞った
信長直伝の『敦盛』を
金谷に花を詠じ 榮花は先立つて 無常の風に 誘わるる
南楼の月を 弄ぶ輩も 月に先立つて 有為の雲に 隠れり
帰蝶の腕や脚が風に運ばれるかのように、優雅に、伸びやかに躍る
廊下から眺めていた龍之介は、その見事な舞に息を忘れ見詰めていた
夫が特に好きだった一節に入る
人間五十年 化天の内を比ぶれば 夢 幻の如くなり
一度生を享け 滅せぬものの あるべきか
不意に目頭が熱くなるのを、帰蝶は舞うことで堪えた
なつはその気配を察しながらも、今以上に力強く鼓を打つ
まるで、励ますかのように
これを菩提の 種と想い定めざらんは
口 惜しかりき次第ぞと想い定め
急ぎ都に上りつつ 敦盛の御首を見れば
もの憂さに 獄門よりも盗み取り
我が宿に帰り 御僧を供養し
無常の煙となし申
心に浮かぶ、愛しい夫
その姿
吉法師様
ごめんなさい
帰蝶は、嘘を吐きました
『吉野静』、本当は舞えたんです
だけど『吉野静』は悲恋だから、舞えませんでした
愛しい人との別れに、我が身をも亡霊に変えた女の物語だから、帰蝶は舞えませんでした
義経に、お清を重ねてしまうかも知れない
亡霊になった静御前に、自分を見てしまうかも知れない
それが怖かった
だから、舞えませんでした
あなたに、『吉野静』を見せてやれなかった
ごめんなさい、吉法師様・・・
御骨をおつ取り首に掛け 昨日までも今日までも
人に弱気を見せじと 力を添えし白真弓
今は何にかせんとて 三つに切り折り 三本の卒塔婆と定め
浄土の橋に渡し 宿を出でて 東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り
元結切り 西へ投げ その名を引き変へて 蓮生房と申
花の袂を墨染の 十市の里の墨衣 今きて見るぞ由なき
なつの歌声と鼓の音が、静かに、厳かに局処に流れるのを、誰もが心留め、聞き惚れた
かくなる事も誰ゆえ 風にはもろき露の身と
消えにし人のためなれば 恨みとは更に想われず
なつが部屋を出て行き、残された帰蝶は珍しく立膝に縁側で腰を下ろす
龍之介は帰蝶の命令で、なつに着いて部屋を離れる
今は一人で居たかった
夫のこと
弟のこと
尾張のこと
清洲のこと
帰命丸のこと
岩倉織田のこと
美濃斎藤のこと
考えることが、多過ぎた
雨が近付いて来ているのか、さっき見た空とは違う雲が流れている
明日か、明後日か、大きな雨が来るのだろうかと眺めていると、その先の庭にぽん、ぽん、ぽんと、手毬の弾け転がる音がして、帰蝶は目を落とした
視界の先に、鞠を追い駆ける市の姿が見える
市は転がり止った鞠を手に、元の場所に戻ろうとまた、小走りになるのを、縁側の帰蝶に気付く
「お方様・・・」
「どうしたの?今日は一人?」
帰蝶の問い掛けに、市はこくりと頷いた
「さち、は?」
「さちは、今日はあや様のお手伝いで、奥に行ってます」
「あや様の? ああ、兵糧の準備をしてもらってるのだったわ。ごめんね、市。あなたから遊び相手を奪ってしまって」
市はまた、黙って首を振る
元々寡黙気味な少女ではあったが、さちの前になるとお喋りになると聞く
そのさちと、この頃離れ離れが続いているのがいつか、気鬱の病に繋がらなければ良いのだがと、心配にもなった
「おいで、市」
帰蝶は市に手招きをした
市は、やはり黙ってとことこと、帰蝶の居る縁側に走る
「市は、娘結いはしないの?」
「そうすると、髪を長く伸ばさないといけないから」
確かに市はおかっぱ頭で髪が短い
ここに来た初めは髪も背中まで長かったのが、いつの間にか首の少し上まで切り落としていた
「どうして、髪を伸ばさないの?私も娘時代は、髪を伸ばしていたわよ?」
「それは、お方様が美人だから」
「え?」
片膝を突いた自分のこの姿を見て、市はそう言うのかと、帰蝶は驚きに目を開いた
「長い髪は、美人しか似合わないもの」
「市は、自分を美人だとは想ってないの?」
市は黙って頷いた
「どうして?」
「だって、美人は犬姉様やお方様のような方を言うんだもの。市は、美人じゃないもの・・・」
「そうかな。私は市も美人だと想うわよ?」
「そうですか?」
「ええ。今はまだあなたは幼いから、わからないだけ」
帰蝶は自分の髪を結っている信長の遺品、髪結い用の細紐の一本を片手で外した
「後もう少ししたら、お前も美人になる」
「なれますか?」
手で市に背中を回させ、頭の天辺から後ろ髪を一束抓み、髪結い紐で結んでやる
「なれるわよ。だけどね、市。どれだけ外見が良くてもね、心が醜ければ醜女と同じ。心も伴って、初めて美人と呼べるの」
「心、も・・・」
髪を弄られるくすぐったさと、背中に感じる帰蝶の気配に安堵感が入り混じる
「大丈夫。市は美人になれるわよ。三国一の美人にね」
「三国一の・・・・・・・・」
「はい、出来上がり」
「 」
市は黙って、結わえ上げられた後ろ髪を指先で撫でた
「似合ってるわよ、その結い紐」
「これ、吉法師兄様の、形見・・・。良いんですか?市が使っても」
「あは、吉法師様は結い紐をたくさん持っておられたから、一本くらい平気よ。それに、吉法師様の妹である市が持ってたって、おかしいことはないでしょう?」
「これ、もらって良いですか?」
「え?」
「お方様と同じ物、持っていたいんです」
「勿論よ。後で本丸に来る?他にも色んな種類の結い紐があるから」
「どんな?」
「そうね、紫とか、錦色とか。錦色はさすがに派手だから、ちょっと使いにくくて」
「ふふっ。慶次郎みたいな、鷹の羽もありますか?」
「あるわよ、あるわよ。たっくさん」
「わぁ・・・!」
男の子のような真似をしていても、市も心底女の子なんだと感じる
町に出掛けるのに馬に乗りたがるところとか、女の修行よりも遊びを優先してしまうところとか、自分も覚えがないわけではないので煩く言えた身ではないものの、それでも女を捨てたがっているようにも想えた市の、目の輝きを見て、帰蝶の心の憂さが少し晴れた
自分の兄を殺した女とも、こうして蟠りもなく接することができている
この子は将来、とんでもなく器の大きい女に育つと、帰蝶は直感した
そうだろう
市弥の娘なのだから、器の小さい人間になるはずなどない
「あら、こんなところに居たの?市」
その市弥の声が、背中からした
「母様」
市の声と共に、帰蝶も振り返る
「駄目でしょう?お方様の休憩を邪魔しちゃ」
「いえ、お義母様。呼び止めたのは、私です。市を叱らないでやってください。それよりも、伊予殿の婚儀の仕度、ほぼ済んだそうで」
市弥も、そうだった
愛息を殺した自分にこうして協力し、連れ添ってくれている
自分も義母を見習い、織田の嫁に相応しい人間であり続けなくてはと、気を引き締める想いになった
「ええ、何とか。なんせうちでは初めての嫁入り仕度でしょう?それに私はあなたと同じで美濃出身だから、尾張の作法がわからなくて、なつと一緒にてんてこ舞い。なつも近江の作法はわかっても、尾張の作法がわからないと、勝三郎の屋敷からお絹を呼んだりもう、慌しかったですよ」
「あら、お絹を呼んでたんですか?一目逢いたかったなぁ」
「ふふふっ。お絹にもあなたに逢うよう言ってみたのだけど、「奥方様を見ると持病の癇癪が起きるので、遠慮します」。ですって」
「わぁ、酷い言い草。お絹もなつに似て来たわねぇ・・・」
「あはははは!」
帰蝶の庭先に市の明るい笑い声が響く
大勢の前では決して表情を崩さなかった市の笑い声は、価値があった
さちにしか聞かせなかった、市の笑い声
それに連動して、庭の植え込みの葉も揺れた
「あ、奥方様、お帰りなさいませ」
植え込みが揺れたことに気付かなかったのは、それを隠してしまうかのようにほぼ同時に、部屋にさちが戻って来たからだった
最も、さちにも与り知れぬことではあるが
「さち」
市は草履を脱ぐと真っ直ぐさちの許に駆け寄り、体当たりを食らわすかのように抱き付き、さちの腰に腕を回してぎゅっと結んだ
「お待たせしました、お市様」
「遊べる?」
「はい、遊べます」
「わーい!」
「市は本当に、さちが居れば他は要らないのね」
母親の市弥が苦笑いで呟く
「誰かに懐くのは、良いことです。世間を知らずに育つのは、視野を狭めることにも繋がります。その点さちは庶民生まれですから、私達よりもずっと多くの世間を知ってます。丁度良い友達ができましたね」
慰めるように、帰蝶は市弥に言った
「あなたがさちを採用しなかったら、市はあんなにも明るい顔ができたかどうか。あなたのお陰ね」
「いえ、たまたまの偶然です」
憎い仇であるはずの自分に、邪気のない笑顔を向ける
そんな市弥が産んだからこそ、夫は器の大きな人間に育ったのだと帰蝶は感じていた
雨が近付く
戦には不向きかと想われていた
だが、この雨を利用できないかと、帰蝶は考える
雨は音を消し、匂いを消し、気配を隠す
寡兵の自分達には有利ではないかと、考える
「山名で待機している河尻に連絡を。明後日、仕掛ける」
「明後日ですか?」
表座敷で軍議が開かれる
事前通告のようなものなので、そう手間は掛からない
「岩倉は既に第一陣が出発し、浮野に砦を築いている。向うもこちらが動くのを待っているのでしょうね。だったら、待たせちゃ悪いじゃない」
「そう言う問題ですか?」
苦笑いで可成が聞き返した
いつもならここで秀隆か利家が冗談交じりに返してくれるところだろう
だが今は、秀隆は犬山付近の山名の地で本陣を構え、利家は出奔中でここには居ない
何かが足りないような気になりながらも、帰蝶はいつもどおり振舞った
「今、伊勢守家内で後継者争いが起きているようよ。何処の家も似たようなものね」
その情報を持って来たのは、言わずと知れた利家だ
塒を帰蝶の庭先にしながらも、日中は情報収集に各地を走り回っている
何にも縛られず一人で身勝手に行動できるのだから、この辺りの自由さは一益にも真似できないだろう
「伊勢守家で?」
伊勢守家とは、岩倉織田、織田信賢のことである
信賢の父信安と夫の信長は幼い頃は交友もあったそうだが、信秀の死により起きた犬山との領地問題勃発に、信長との間も疎遠になって久しい
最も、信安と交流が続いていたとしても、肝心の夫が居ないのであれば意味がないものだが
「七兵衛尉信安は次男に後を継がせたがっていた。けれどそれに反発した長男左兵衛信賢が父を追放。この辺りはその先みんなが予想できると想うから割愛するけど」
「確か七兵衛尉殿は犬山との争いの際、尾張を捨て美濃に入ったとか聞き及んでおりますが」
「ええ。斎藤の縁を頼って。その昔、妙椿時代に岩倉は斎藤と婚姻関係にあったから、それを頼ったのね。まぁ、兄のことだから、それで七兵衛尉に手助けするとは想えないけど、自分の利益になることなら話は別でしょうね」
「と、言いますと?」
「岩倉と清洲が争ってる間に、木曽川を渡られては面倒。でも、渡ってもらわなきゃ叩けないし、これもまた面倒」
「だから、奥方様自ら、山名に?」
「果報は寝て待てと言うでしょう?みんな、犬山での疲れもあるでしょうけど、気張ってね」
「ははっ!」
岩倉との一戦の日取りが決まった
「雲が少しずつ西に流れておりますな。今はまだ薄雲ですが、明日、明後日には大きな雨が来るでしょう」
そう、道空から聞かされ、帰蝶は決断した
明日が大雨でも、次の日は地面がぬかるんでいるだろう
こちらがそれを承知していれば、どう動けば良いのかぐらいはわかる
一方、仕掛けられる側に立つ岩倉は、ぬかるんだ土に足を取られ、想うように動けない状態になってくれれば良いのだが、とも祈る
正直、出たとこ勝負であることを承知しながらの戦だ
必ずこちらが有利になるとも言い切れないが、賭けるしかなかった
岩倉との一戦は黒母衣衆の利治にも伝わった
前以て準備はしていたが、いざ戦となると緊張に指が震える
それでも、姉に認めてもらうには結果を出さなくてはならない
「腕の一本や二本、失っても構わない!私は、姉上に認められたい!」
「だったら一つでも多く、手数を出しなッ!」
今日も今日とて裏庭で、慶次郎相手に槍稽古を繰り返す
姉の期待、慶次郎の激励を受け、利治も利治なりに成長を見せた
「いやぁッ!」
渾身の一振りが慶次郎の棒にまともに当たり、しかしそれを受け止め弾く
「まだまだぁ!」
引っ掛けた棒を振り払いながら、慶次郎は構えた
だが、内心、酷い痺れが手先を走り、口唇を噛む
少しずつ、利治の振り回す棒の力が重くなっていた
こいつはやっぱり、とんでもなく化けるかも知んないねぇ・・・
何かがきっかけとなり、それが利治に途轍もない力を与えるような気がした
だけどその『きっかけ』が何なのか、さすがの慶次郎にもわからない
散々庭で暴れ倒したのだから、昼餉の頃には倒れそうなほどの空腹に襲われた
加えて、未だ詰所の掃除の全てを利治がやっている
今は鬼の筆頭も留守で、其々が利治に身勝手な用事を押し付けるのは変わらない
それでも与えられた仕事を必死にこなす姿があった
そして、異変は正にその日の昼餉に起きた
いつもなら全員の賄いを利治がよそい、お代わりも利治にさせるのが習慣になっていた
その利治が、飯を碗によそうと、しゃもじを櫃の中に入れ、とっとと自分の席に戻る
先輩の一人がそれを咎めた
「おい、新五!俺達の飯はよそわないのかッ?!」
怒鳴られ、いつもならそこで臆病風が吹いただろう
ところが
「申し訳ございませんが、ご自分のことはご自分でなさってください。私は昼からも廊下の拭き掃除が残っております」
「だからどうした!」
きっぱりした口調で応える利治の予想外な行動に逆上する
「拭き掃除は意外と体力を使うものでございますよ?何なら松下殿もおやりになられますか」
「何・・・ッ?!」
反論された、松下と言う先輩母衣衆は、目を丸くして驚いた
そうだろう
今の今まで利治は、誰に対しても歯向かったことがないのだから
どんな意地悪をしても、黙って耐えていた利治の豹変に、驚く者は少なくない
「貴様、それが先輩に対する態度かッ?!」
自分の碗を床に叩き付け、松下はどすどすと利治に迫る
しかし、その背後で他の者が我先にと米をよそい始めた
食い逸れては午後からの務めに支障が出ることぐらい、誰でも知っている
「おっ、おい!お前ら!俺の分は残しておけ!」
松下も慌てて碗を拾い上げ、飯を盛ろうと争いの中に飛び込んだ
俄に起きた昼食時の小競り合いに、その様子を成政から聞かされた帰蝶は、密かに「くくく」と笑ったと言う
戦乱の世に生きる武士(もののふ)、多少厚かましいところがなければ生きては残れない時代だった
弟は変わろうとしている
それまでの気弱な自分から脱そうとしている
これは良い兆しなのか
夫が死んだ後、嫁いで数年振り
いや、実質初対面と言っても良いほどの再会の夜、表座敷で「父の仇を取りたい」と言った、あの力強い目が戻って来るのか
いや
あれが弟の、本来の姿だったのか
帰蝶はこの目で確かめられなかった弟の変化の瞬間をもう一度、起きはしないかと期待した
願わくば、戦と言う名の舞台の上で
この頃は少しずつでも詰所で食べられるようになって来たものの、満腹までにはまだ至らない
今日も先輩達の茶碗に米を盛り、おかずを配ると、最初に配った先輩がお代わりに来て、利治の分がどんどんとなくなって行く
それを眺めながら次から次へと言い付けられ、とうとう櫃の底が見えて来た
飯が食えないというのは、この時代、『生きていられない』と言うのも同義である
食いはぐれてしまう者は『弱者』
弱者に生きる余地は与えられない厳しい時代だ
わかっていても、それを止める手立ては今の利治にはなかった
「お代わり」
「
ほんの僅かな間も箸すら持てないままの利治の背後で、詰所の扉が開かれる音がした
その音に、顔を向けている者らが驚く
雰囲気に利治も振り返り、同じく目を見開いて驚いた
「
秀隆の部下、佐々成政が詰所に入って来たのだ
成政は秀隆の直属の部下ではあるが、黒母衣衆の部隊員ではない
極めて稀な位置に居る人間なのは、秀隆が黒母衣衆の筆頭以外に別の部隊も任されていた
その部隊の隊長が、この成政なのだ
「市丸様、如何なさいました?」
黒母衣衆ではない成政がここに来ることは、滅多としてない
なのに現れたと言うことは、尋常ではないことが起きたと言うことで、最悪の結果、秀隆の身に何かが起きたことを示唆するものだった
「みな、昼飯中にすまないが、少し箸を置いてくれんか」
「はいッ」
まだ年若いが、きりりとした顔付きが印象の成政には、厳粛な空気がいつも漂っている
罷り間違っても冷やかせる相手ではない
全員が一斉に箸を置き、利治は櫃の中に杓文字を置いて成政に体を向けた
「この度、岩倉織田との一戦が決まった」
「ええ?!」
「岩倉とですか?!」
それは驚きの声もそうだろうが、ここのところ穏やか続きだった平凡な毎日に、漸く武士らしい仕事ができる歓喜の声も混じっている
「お前達黒母衣衆は、いつもどおり殿に付いて行動するよう河尻様より命令が下っている」
黒母衣衆と言えども、直接『信長』と謁見することなど滅多にない者が多い
そう言った者達にまで一々信長の死を伝えることはせず、事情を知る者は公然では帰蝶を『殿』と呼んでいた
「それで、河尻様は」
「筆頭は先に出られた。いつ始まるかわからんが、当分清洲には戻れん。そこで、筆頭と合流するまで、黒母衣衆の指揮権は一時的に私が預かることになった。みな、よろしく頼む」
丁寧に頭を下げる成政に、全員が返礼する
「明日より仕度を命ずる。各々、武器・防具の手入れに余念なきよう、心せよ」
「ははっ!」
成政の号令に、普段緩み切っている詰所の空気が一転した
抜け駆けの一足お先にか、今日から仕度を始めようとせかせかと、昼飯を掻き込む者も大勢出る
そんな光景を眺めながら、成政はほぼ隣に居る利治に声を掛けた
「新五殿も、お早く昼食を済まされるよう。庭で慶次郎殿が待ち焦がれているご様子でしたぞ」
「は・・・、はい・・・!」
利治は急いで自分の分の米をよそうと、走るように席に戻った
そんな利治に、成政は綺麗な顔立ちの頬を緩め、苦笑いする
ここではまだ充分な食事を摂ることができていない様子が、目に浮かぶようだったからだ
奥方様の心痛、計り知れぬ、と
食事が終わると、僅かな休憩が取れる
その休憩時間に利治は慶次郎相手に槍の稽古をし、休憩が終わると詰所の仕事を片付ける
それが終われば再び慶次郎と稽古を繰り返す
昼食後の休憩に利治は、慶次郎と長棒を持って打ち合いをしていた
一日に三度の休憩があるが、その全てを稽古に費やしても腕は一向に進歩しない
そんな苛立ちも抱えている
なつの居る局処の昼食が今時であるため、休憩の頃の稽古には顔を出したり出さなかったりもあるが、今は伊予の婚礼仕度も重なっており、市弥の補佐に回っているからだろう、ここには居なかった
そこに帰蝶が現れる
「姉上・・・!」
つい、頬が綻んだ
いつもの小袖姿に今は襷を掛けて、腰には木刀を携え、小姓の龍之介も同行している
それを見て、つい気軽な気持ちで声を掛けてしまった
「姉上も稽古ですか?」
「自分の身は、自分で守らねば成らない戦しか、選べないから」
常に寡兵での戦を強いられている帰蝶には、護衛ですら兵力に回したい気持ちで一杯だった
厳しい雰囲気を纏わせる姉に、利治は戸惑う
「あの・・・」
「慶次郎」
おずおずとする弟など気にも掛けず、いや、無視するかのように、帰蝶は慶次郎に声を掛けた
「今度の戦、新五も出ることになった」
「ああ、一応黒母衣だからな。『見習い』でも?」
「う、煩いな・・・!」
利治は冷やかす慶次郎を真っ赤な顔をして睨み付けた
「また、お前に面倒を掛けることになるが」
「いつものこった、気にしなさんな。ところで、暇してる佐治はどうするんだい?」
「末席の新五に、馬引きを持たせることはできない。だから佐治には松風の綱を引かせる」
「ほぉ、行き成り総大将の馬引きかい。そりゃ佐治も大出世だな」
かかか!と笑う慶次郎の側で、何故か落ち込んだ様子の利治に目を向ける
「
「佐治を馬引きに抜擢したのは、あの子の日頃の努力あってのことよ。侍になりたいとここに来たのに、あの子には今日まで侍の見習いらしいこともさせてやれなかった。それでも腐らず負けず、あの子は自分のできることを一生懸命やって来た。それは私が見ていないとしても、誰かが必ず見ている。それが積み重なれば、嫌でも私の耳に入る」
「はい・・・・・・・・・・」
「新五、わかる?無駄な努力なんてね、どこにもないのよ。今は無駄だと想えても、いつか誰かが認めてくれる」
そうだろうか
そう言いたげな目をする利治に、帰蝶は追撃とも言える一言を放つ
「無駄だと感じるのは、成果を目でしか見れない愚者の言い訳よ」
「
姉の言葉に、利治の目がいっぱいに広がった
そうだ
自分ももう少しで腐るところだった
毎日同じことの繰り返しに、何の意味があるのだろうと想い始めたその矢先
城で与えられた仕事だけをこなし、少ない飯に満たされぬ腹を抱え慶次郎と効果のない稽古を繰り返し、帰ればさちの飯が待っているとそれだけを心待ちに安心し、無駄に日々を暮らしていた自分を、姉はたった一言で諌めてくれた
どれだけ慶次郎に癖を注意されても直せなかったのは、心が腐り始めていた前触れだったんだと、わかったような気がする
「姉上・・・」
手にしていた棒を握り締め、利治は言った
「私は、自分がどれだけの器なのか、わかりません。だけど、水を入れれば直ぐに零れてしまうような、小さな器にはなりたくありません。だから、今度の戦、必ず武功を上げて見せます」
「口で言うのは易い。先ずは実行し、姉の口を塞いでから大口を叩け」
「私は・・・」
姉に認めてもらいたい
だけどまだ実力が伴っていない自分をわかってもらうのに、自分でもその方法が見付からないままの利治に、帰蝶は尚も言い掛けた
「戦で武功を上げると言うことは、お前が揮った刃の数だけ、そのままお前に返って来る。お前はそれを受け入れることができるか」
「
応えられぬ苦し紛れに、その質問を帰蝶に返す
帰蝶は即答で返事をした
「私は、私が振った刃の分だけ、業を受け入れる覚悟がある」
それに即発されたのか、利治は高揚した顔色で応えた
「ならば、私も・・・!いえ、それ以上の業を背負ってみせます・・・ッ!」
「
必死な
生きることに必死な者の目が、そこにあった
偽りや飾りでそう言ったのではないと、帰蝶は感じた
ほんの少しだけ立派になった弟の姿に、帰蝶は微かに目蓋を細める
「その言葉、期待している」
「
姉の意外な言葉に利治は絶句し、次の言葉を失った
帰蝶は腰に携えた木刀を抜くこともなく、その場を立ち去る
「あれ?奥方様、稽古は?」
「気分が変わった。局処でするわ」
「おなつさんが腰抜かすぞ?」
「腰を抜くだけで済むのなら、安いものよ」
そう苦笑いし、背中を向けて行ってしまう姉を、利治はただ見送る
夫の遺品の一つだろう
後ろに結んだ髪の根元で、髪結い用の細い、朱・黄・茶の飾り紐が揺れるのを、利治はぼんやりとした意識の中で眺めた
「おう、どうしたよ、新五。魂抜けたみたいな顔して」
ポカンとなっている利治の背中を押し、慶次郎は声を掛ける
現実に戻り、忘れていた息が再開したかのように、大きく空気を吸う
「はぁ・・・!」
利治の様子に、慶次郎は目を丸くして聞く
「お前、まさか自分の姉貴に死ぬほど緊張してた、なんてこと、ないよな?」
「わ、悪いかよ!」
「お前、そりゃいくらなんでも情けないぞ?でもまぁ、奥方様だからしょうがねーか」
かっかっか!と大笑いする慶次郎を、利治はきっと睨んだ
「お前に私の気持ちがわかってたまるか」
「わかんねぇよ、そんな腑抜けたツラして、ぼけーっと自分の姉貴見送って。返す言葉もなんかねえのかよ、お前は」
「だって、姉上が、期待してる、って・・・」
「期待してるから、団体鍛錬じゃなくて、こうして俺とサシで稽古させてるんだろ?」
「え・・・・・?」
「考えてもみろよ。見習い風情に態々場所提供するか?お前は奥方様に期待されてるんだよ。気付くの遅過ぎるっつーの」
「
慶次郎の言葉に、利治は益々言葉を失くした
「なぁ、新五」
持っていた棒をつっかえにし、体を預けるように崩して、慶次郎は言った
「女が男の世界で生きて行くのってさ、生半可じゃねーと想うんだよ」
「・・・・・・・・・うん」
「お前、覚えてるか?孫六だっけか、孫七だっけか、奥方様、ここの庭の削り岩で刀、折ろうとしてただろ?」
「
慶次郎が織田に転がり込んだ夜のことだ
今も鮮明に覚えている
「あの時、奥方様は覚悟を決めたんだ。旦那さんに代わって、生きて行くって、さ。でもそれには、相当の決断が要ったはずだぜ?しかも、織田のみんなの期待を背負わされたんだ。なのに奥方様は今まで、一度でも弱音を吐いたことがあるか?」
「
利治は無言で首を振る
「だろ?それだけでも、大したことじゃねーか?俺はすげぇと想うよ、お前の姉貴」
「うん・・・・・・・・・」
「でもな、強い人間なんて、この世にゃいねーんだよ。誰だって一度ぐらい、弱いとこを見せちまう。それでも奥方様は、自分の弱いとこ、死んでも他人には見せねぇと想う。そんな奥方様の、唯一信頼できる肉親が、お前じゃねーのか?」
「
そうかも知れないが、自分は姉に何をしてやれるのか答えが見付からない
黙ったままの利治に慶次郎は尚も続けた
「奥方様が疲れた時にはさ、その背中で安心して休められるよう、お前のできることってなんだ。今よりもっと強くなることじゃねーのか。奥方様が安心して休められる場所に、なってやるって気持ちには、なんねーか?」
「わ・・・、私に務まるか・・・」
「務まるか務まらないかじゃなくてよ、絶対なってやるって気にはなんねーのか?って、聞いてんだよ、俺はよ」
「
「頼りない背中じゃ、羽、休められねーだろ。奥方様の一人や二人凭れさせてやろうって気にはなんねーのか、お前には」
「だって・・・!」
「だってもへったくれもねぇ!」
「
怒鳴る慶次郎の声に、利治はビクンと震えた
「女守るのが男の仕事だ!それができねぇんじゃ、お前はいつまで経っても今のままだ!それで満足してるんだったら文句は言わねぇ。けどな、お前が少しでも嫌だっつんなら、いくらでも稽古の相手してやる!」
「慶次郎・・・」
「お前、さっき言ったじゃねえか。少しの水で零れてしまうような、小さい器にはなりたくねぇって。あれ、嘘かい」
「嘘じゃ
「だったら、なんで奥方様さえ背負ってやろうって言えねぇんだよ。威勢だけでも良いじゃねーか!『ねーちゃん、俺の背中で休め』って言えるくれーの男になんなきゃ、お前は先には進めねぇんだよ!」
「
いつまで経っても強くなれない理由
それは、自分を信じられないから
強くなれるはずがないと想っているから
局処の自分の自室に向かう帰蝶は、腰から木刀を抜き、それを無言で龍之介に手渡した
龍之介は一礼し、それを受け取る
近付くと、何処からともなく鼓の音が聞こえて来た
それは自分の部屋からで、誰が打っているのかと少し訝しげに想う
龍之介が帰蝶の部屋の襖を開けた
主の不在が多く、さちが管理している帰蝶の部屋は本丸に居る間、帰蝶の意思で自由に開放されていた
とは言え、だからと言って誰でも自由に入れるわけでもないが、限られた人数なら出入りできるようになっていた
主に子供達で使われている場所にもなっているが
その部屋の中央に、なつが腰を下ろし鼓を打ってるのが見えた
「なつ」
「
帰蝶の声に気付き、手を止め顔を向ける
「若様は今、巴様のお部屋で休んでおられますよ」
「巴の部屋で?」
「ここに着いた途端、目を覚まされて」
「あら、帰命は寝起きが最悪だから、大変だったでしょ」
なつの言葉に苦笑いして応える
「それで、丁度手の空いておられた巴様が、お相手を買ってくださったんです」
「そうだったの。だからなのね」
局処に居る間、帰命が眠る場所と言えば隣の寝室が定番だった
なのになつが鼓を叩いていたのは、そこに帰命が居ないと言うことだったのだろう
帰蝶はなつの側に行き、腰を落とした
「久し振りね、なつがそれを打ってるの」
「ええ。滅多に手にできないんですけど、伊予様の仕度も一旦整ったからでしょうか、暇を持て余してしまって」
「だったら本丸に来てくれれば良いのに」
「ですが今、本丸は痛い糸で張り巡らされております。女が立ち入るのも憚られて、ついここで暇潰しに」
「伊予殿の準備は?」
「はい。後は箪笥屋から品物が届くのを待つばかりです」
「ご苦労様」
なつは黙って会釈した
「鼓、ねぇ」
「ふふふ。奥方様は鼓どころか、琴も弾けず、若が嘆いておられましたね」
「それどころじゃないわ。お茶だって満足に淹れられずに、どれだけ油を絞られたか」
信長の話をする度に、胸の奥のまだ塞がらぬ傷がじくじくと痛んだ
それでも何か話したい
そんな想いでいる時は、帰蝶も饒舌になれた
「普段、女らしさを追及しなかった吉法師様が、どうして女らしくするよう言ったのか、今になってわかるの」
「奥方様・・・」
「私が、そうだった。吉法師様が父と会見する時、やっぱりいつもの婆娑羅な恰好で、やめて欲しかった。見た目が肝心、って、想ってたのよね」
「それは仕方ありませんわ。美濃の国主で、舅様ですもの。それなりの身形で逢って欲しいと想うのは、間違いじゃありませんよ」
苦笑いする帰蝶に、なつは慰めの言葉を掛ける
「吉法師様も、きっとそれに似た想いだったのでしょうね。何れ尾張国国主の妻になるだろう私に、国主の妻としての教養を身に付けさせたかったのよ。結局、最後まで美味しいお茶を飲ませてやれなかった・・・」
「
しみじみと語る帰蝶に、なつも優しく微笑んで見詰めた
「そう言えば、なつって『敦盛』は叩ける?」
「『敦盛』ですか?幸若舞の?」
「ええ。吉法師様がお好きだったの」
「そう言えば、時々お二人で舞ってらっしゃいましたね。懐かしいです。『敦盛』なら、齧り程度ですが存じてます」
「ちょっとやってみてくれない?」
「私、歌は下手ですよ?」
「そんなことないでしょ。良いから、やってみて」
「はい」
突然の帰蝶の要求に、なつは少し戸惑いながら鼓を持ち直した
「んふんっ」
咳払いを一つ、それからぽん、と、鼓を打つ
「去程に、熊谷、よく々見てあれば、菩提の心ぞ起りける」
なつの声がいつもより低くなる
できる限り男声に近付けようとしているのか
それでも美しい歌声だった
「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らえて、かかる物憂き目にも、また、直実や遇はずらめ」
帰蝶は静かに立ち上がり、腕を前に伸ばす
草葉に置く白露 水に宿る月より なお妖し
なつの声に合わせて、帰蝶は舞った
信長直伝の『敦盛』を
南楼の月を 弄ぶ輩も 月に先立つて 有為の雲に 隠れり
帰蝶の腕や脚が風に運ばれるかのように、優雅に、伸びやかに躍る
廊下から眺めていた龍之介は、その見事な舞に息を忘れ見詰めていた
夫が特に好きだった一節に入る
一度生を享け 滅せぬものの あるべきか
不意に目頭が熱くなるのを、帰蝶は舞うことで堪えた
なつはその気配を察しながらも、今以上に力強く鼓を打つ
まるで、励ますかのように
口 惜しかりき次第ぞと想い定め
急ぎ都に上りつつ 敦盛の御首を見れば
もの憂さに 獄門よりも盗み取り
我が宿に帰り 御僧を供養し
無常の煙となし申
心に浮かぶ、愛しい夫
その姿
吉法師様
ごめんなさい
帰蝶は、嘘を吐きました
『吉野静』、本当は舞えたんです
だけど『吉野静』は悲恋だから、舞えませんでした
愛しい人との別れに、我が身をも亡霊に変えた女の物語だから、帰蝶は舞えませんでした
義経に、お清を重ねてしまうかも知れない
亡霊になった静御前に、自分を見てしまうかも知れない
それが怖かった
だから、舞えませんでした
あなたに、『吉野静』を見せてやれなかった
ごめんなさい、吉法師様・・・
人に弱気を見せじと 力を添えし白真弓
今は何にかせんとて 三つに切り折り 三本の卒塔婆と定め
浄土の橋に渡し 宿を出でて 東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り
元結切り 西へ投げ その名を引き変へて 蓮生房と申
花の袂を墨染の 十市の里の墨衣 今きて見るぞ由なき
なつの歌声と鼓の音が、静かに、厳かに局処に流れるのを、誰もが心留め、聞き惚れた
消えにし人のためなれば 恨みとは更に想われず
なつが部屋を出て行き、残された帰蝶は珍しく立膝に縁側で腰を下ろす
龍之介は帰蝶の命令で、なつに着いて部屋を離れる
今は一人で居たかった
夫のこと
弟のこと
尾張のこと
清洲のこと
帰命丸のこと
岩倉織田のこと
美濃斎藤のこと
考えることが、多過ぎた
雨が近付いて来ているのか、さっき見た空とは違う雲が流れている
明日か、明後日か、大きな雨が来るのだろうかと眺めていると、その先の庭にぽん、ぽん、ぽんと、手毬の弾け転がる音がして、帰蝶は目を落とした
視界の先に、鞠を追い駆ける市の姿が見える
市は転がり止った鞠を手に、元の場所に戻ろうとまた、小走りになるのを、縁側の帰蝶に気付く
「お方様・・・」
「どうしたの?今日は一人?」
帰蝶の問い掛けに、市はこくりと頷いた
「さち、は?」
「さちは、今日はあや様のお手伝いで、奥に行ってます」
「あや様の?
市はまた、黙って首を振る
元々寡黙気味な少女ではあったが、さちの前になるとお喋りになると聞く
そのさちと、この頃離れ離れが続いているのがいつか、気鬱の病に繋がらなければ良いのだがと、心配にもなった
「おいで、市」
帰蝶は市に手招きをした
市は、やはり黙ってとことこと、帰蝶の居る縁側に走る
「市は、娘結いはしないの?」
「そうすると、髪を長く伸ばさないといけないから」
確かに市はおかっぱ頭で髪が短い
ここに来た初めは髪も背中まで長かったのが、いつの間にか首の少し上まで切り落としていた
「どうして、髪を伸ばさないの?私も娘時代は、髪を伸ばしていたわよ?」
「それは、お方様が美人だから」
「え?」
片膝を突いた自分のこの姿を見て、市はそう言うのかと、帰蝶は驚きに目を開いた
「長い髪は、美人しか似合わないもの」
「市は、自分を美人だとは想ってないの?」
市は黙って頷いた
「どうして?」
「だって、美人は犬姉様やお方様のような方を言うんだもの。市は、美人じゃないもの・・・」
「そうかな。私は市も美人だと想うわよ?」
「そうですか?」
「ええ。今はまだあなたは幼いから、わからないだけ」
帰蝶は自分の髪を結っている信長の遺品、髪結い用の細紐の一本を片手で外した
「後もう少ししたら、お前も美人になる」
「なれますか?」
手で市に背中を回させ、頭の天辺から後ろ髪を一束抓み、髪結い紐で結んでやる
「なれるわよ。だけどね、市。どれだけ外見が良くてもね、心が醜ければ醜女と同じ。心も伴って、初めて美人と呼べるの」
「心、も・・・」
髪を弄られるくすぐったさと、背中に感じる帰蝶の気配に安堵感が入り混じる
「大丈夫。市は美人になれるわよ。三国一の美人にね」
「三国一の・・・・・・・・」
「はい、出来上がり」
「
市は黙って、結わえ上げられた後ろ髪を指先で撫でた
「似合ってるわよ、その結い紐」
「これ、吉法師兄様の、形見・・・。良いんですか?市が使っても」
「あは、吉法師様は結い紐をたくさん持っておられたから、一本くらい平気よ。それに、吉法師様の妹である市が持ってたって、おかしいことはないでしょう?」
「これ、もらって良いですか?」
「え?」
「お方様と同じ物、持っていたいんです」
「勿論よ。後で本丸に来る?他にも色んな種類の結い紐があるから」
「どんな?」
「そうね、紫とか、錦色とか。錦色はさすがに派手だから、ちょっと使いにくくて」
「ふふっ。慶次郎みたいな、鷹の羽もありますか?」
「あるわよ、あるわよ。たっくさん」
「わぁ・・・!」
男の子のような真似をしていても、市も心底女の子なんだと感じる
町に出掛けるのに馬に乗りたがるところとか、女の修行よりも遊びを優先してしまうところとか、自分も覚えがないわけではないので煩く言えた身ではないものの、それでも女を捨てたがっているようにも想えた市の、目の輝きを見て、帰蝶の心の憂さが少し晴れた
自分の兄を殺した女とも、こうして蟠りもなく接することができている
この子は将来、とんでもなく器の大きい女に育つと、帰蝶は直感した
そうだろう
市弥の娘なのだから、器の小さい人間になるはずなどない
「あら、こんなところに居たの?市」
その市弥の声が、背中からした
「母様」
市の声と共に、帰蝶も振り返る
「駄目でしょう?お方様の休憩を邪魔しちゃ」
「いえ、お義母様。呼び止めたのは、私です。市を叱らないでやってください。それよりも、伊予殿の婚儀の仕度、ほぼ済んだそうで」
市弥も、そうだった
愛息を殺した自分にこうして協力し、連れ添ってくれている
自分も義母を見習い、織田の嫁に相応しい人間であり続けなくてはと、気を引き締める想いになった
「ええ、何とか。なんせうちでは初めての嫁入り仕度でしょう?それに私はあなたと同じで美濃出身だから、尾張の作法がわからなくて、なつと一緒にてんてこ舞い。なつも近江の作法はわかっても、尾張の作法がわからないと、勝三郎の屋敷からお絹を呼んだりもう、慌しかったですよ」
「あら、お絹を呼んでたんですか?一目逢いたかったなぁ」
「ふふふっ。お絹にもあなたに逢うよう言ってみたのだけど、「奥方様を見ると持病の癇癪が起きるので、遠慮します」。ですって」
「わぁ、酷い言い草。お絹もなつに似て来たわねぇ・・・」
「あはははは!」
帰蝶の庭先に市の明るい笑い声が響く
大勢の前では決して表情を崩さなかった市の笑い声は、価値があった
さちにしか聞かせなかった、市の笑い声
それに連動して、庭の植え込みの葉も揺れた
「あ、奥方様、お帰りなさいませ」
植え込みが揺れたことに気付かなかったのは、それを隠してしまうかのようにほぼ同時に、部屋にさちが戻って来たからだった
最も、さちにも与り知れぬことではあるが
「さち」
市は草履を脱ぐと真っ直ぐさちの許に駆け寄り、体当たりを食らわすかのように抱き付き、さちの腰に腕を回してぎゅっと結んだ
「お待たせしました、お市様」
「遊べる?」
「はい、遊べます」
「わーい!」
「市は本当に、さちが居れば他は要らないのね」
母親の市弥が苦笑いで呟く
「誰かに懐くのは、良いことです。世間を知らずに育つのは、視野を狭めることにも繋がります。その点さちは庶民生まれですから、私達よりもずっと多くの世間を知ってます。丁度良い友達ができましたね」
慰めるように、帰蝶は市弥に言った
「あなたがさちを採用しなかったら、市はあんなにも明るい顔ができたかどうか。あなたのお陰ね」
「いえ、たまたまの偶然です」
憎い仇であるはずの自分に、邪気のない笑顔を向ける
そんな市弥が産んだからこそ、夫は器の大きな人間に育ったのだと帰蝶は感じていた
雨が近付く
戦には不向きかと想われていた
だが、この雨を利用できないかと、帰蝶は考える
雨は音を消し、匂いを消し、気配を隠す
寡兵の自分達には有利ではないかと、考える
「山名で待機している河尻に連絡を。明後日、仕掛ける」
「明後日ですか?」
表座敷で軍議が開かれる
事前通告のようなものなので、そう手間は掛からない
「岩倉は既に第一陣が出発し、浮野に砦を築いている。向うもこちらが動くのを待っているのでしょうね。だったら、待たせちゃ悪いじゃない」
「そう言う問題ですか?」
苦笑いで可成が聞き返した
いつもならここで秀隆か利家が冗談交じりに返してくれるところだろう
だが今は、秀隆は犬山付近の山名の地で本陣を構え、利家は出奔中でここには居ない
何かが足りないような気になりながらも、帰蝶はいつもどおり振舞った
「今、伊勢守家内で後継者争いが起きているようよ。何処の家も似たようなものね」
その情報を持って来たのは、言わずと知れた利家だ
塒を帰蝶の庭先にしながらも、日中は情報収集に各地を走り回っている
何にも縛られず一人で身勝手に行動できるのだから、この辺りの自由さは一益にも真似できないだろう
「伊勢守家で?」
伊勢守家とは、岩倉織田、織田信賢のことである
信賢の父信安と夫の信長は幼い頃は交友もあったそうだが、信秀の死により起きた犬山との領地問題勃発に、信長との間も疎遠になって久しい
最も、信安と交流が続いていたとしても、肝心の夫が居ないのであれば意味がないものだが
「七兵衛尉信安は次男に後を継がせたがっていた。けれどそれに反発した長男左兵衛信賢が父を追放。この辺りはその先みんなが予想できると想うから割愛するけど」
「確か七兵衛尉殿は犬山との争いの際、尾張を捨て美濃に入ったとか聞き及んでおりますが」
「ええ。斎藤の縁を頼って。その昔、妙椿時代に岩倉は斎藤と婚姻関係にあったから、それを頼ったのね。まぁ、兄のことだから、それで七兵衛尉に手助けするとは想えないけど、自分の利益になることなら話は別でしょうね」
「と、言いますと?」
「岩倉と清洲が争ってる間に、木曽川を渡られては面倒。でも、渡ってもらわなきゃ叩けないし、これもまた面倒」
「だから、奥方様自ら、山名に?」
「果報は寝て待てと言うでしょう?みんな、犬山での疲れもあるでしょうけど、気張ってね」
「ははっ!」
岩倉との一戦の日取りが決まった
「雲が少しずつ西に流れておりますな。今はまだ薄雲ですが、明日、明後日には大きな雨が来るでしょう」
そう、道空から聞かされ、帰蝶は決断した
明日が大雨でも、次の日は地面がぬかるんでいるだろう
こちらがそれを承知していれば、どう動けば良いのかぐらいはわかる
一方、仕掛けられる側に立つ岩倉は、ぬかるんだ土に足を取られ、想うように動けない状態になってくれれば良いのだが、とも祈る
正直、出たとこ勝負であることを承知しながらの戦だ
必ずこちらが有利になるとも言い切れないが、賭けるしかなかった
岩倉との一戦は黒母衣衆の利治にも伝わった
前以て準備はしていたが、いざ戦となると緊張に指が震える
それでも、姉に認めてもらうには結果を出さなくてはならない
「腕の一本や二本、失っても構わない!私は、姉上に認められたい!」
「だったら一つでも多く、手数を出しなッ!」
今日も今日とて裏庭で、慶次郎相手に槍稽古を繰り返す
姉の期待、慶次郎の激励を受け、利治も利治なりに成長を見せた
「いやぁッ!」
渾身の一振りが慶次郎の棒にまともに当たり、しかしそれを受け止め弾く
「まだまだぁ!」
引っ掛けた棒を振り払いながら、慶次郎は構えた
だが、内心、酷い痺れが手先を走り、口唇を噛む
少しずつ、利治の振り回す棒の力が重くなっていた
何かがきっかけとなり、それが利治に途轍もない力を与えるような気がした
だけどその『きっかけ』が何なのか、さすがの慶次郎にもわからない
散々庭で暴れ倒したのだから、昼餉の頃には倒れそうなほどの空腹に襲われた
加えて、未だ詰所の掃除の全てを利治がやっている
今は鬼の筆頭も留守で、其々が利治に身勝手な用事を押し付けるのは変わらない
それでも与えられた仕事を必死にこなす姿があった
そして、異変は正にその日の昼餉に起きた
いつもなら全員の賄いを利治がよそい、お代わりも利治にさせるのが習慣になっていた
その利治が、飯を碗によそうと、しゃもじを櫃の中に入れ、とっとと自分の席に戻る
先輩の一人がそれを咎めた
「おい、新五!俺達の飯はよそわないのかッ?!」
怒鳴られ、いつもならそこで臆病風が吹いただろう
ところが
「申し訳ございませんが、ご自分のことはご自分でなさってください。私は昼からも廊下の拭き掃除が残っております」
「だからどうした!」
きっぱりした口調で応える利治の予想外な行動に逆上する
「拭き掃除は意外と体力を使うものでございますよ?何なら松下殿もおやりになられますか」
「何・・・ッ?!」
反論された、松下と言う先輩母衣衆は、目を丸くして驚いた
そうだろう
今の今まで利治は、誰に対しても歯向かったことがないのだから
どんな意地悪をしても、黙って耐えていた利治の豹変に、驚く者は少なくない
「貴様、それが先輩に対する態度かッ?!」
自分の碗を床に叩き付け、松下はどすどすと利治に迫る
しかし、その背後で他の者が我先にと米をよそい始めた
食い逸れては午後からの務めに支障が出ることぐらい、誰でも知っている
「おっ、おい!お前ら!俺の分は残しておけ!」
松下も慌てて碗を拾い上げ、飯を盛ろうと争いの中に飛び込んだ
俄に起きた昼食時の小競り合いに、その様子を成政から聞かされた帰蝶は、密かに「くくく」と笑ったと言う
戦乱の世に生きる武士(もののふ)、多少厚かましいところがなければ生きては残れない時代だった
弟は変わろうとしている
それまでの気弱な自分から脱そうとしている
これは良い兆しなのか
夫が死んだ後、嫁いで数年振り
いや、実質初対面と言っても良いほどの再会の夜、表座敷で「父の仇を取りたい」と言った、あの力強い目が戻って来るのか
いや
あれが弟の、本来の姿だったのか
帰蝶はこの目で確かめられなかった弟の変化の瞬間をもう一度、起きはしないかと期待した
願わくば、戦と言う名の舞台の上で
PR
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
勝手にPR
濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
岐阜の地酒 日本泉公式サイト
(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト
濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
ブログ内検索
ご訪問、ありがとうございます
あまり役には立ちませんが念のため
解析