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愛しい者との別れを何度経験しても、人は強くなれるはずもなく
ただ馴れるか、馴れないかだけのことで、悲しいこと、苦しいことに変わりはない
「要津(しのつの)御前様!養徳院様が、ご危篤に・・・ッ!」
暮らしている美濃の寺で、帰蝶は愛しい者の臨終を聞いた
その瞳に色はなく
光も閉ざされて久しい
脳裏に浮かぶ愛しい者達は、時には色鮮やかに、時には色褪せて帰蝶の記憶の中で蘇る
盲しいた目に映る物は何もなく、帰蝶は侍女に手を繋がれて、最後の愛しい者の側に寄った
同じ美濃に暮らしているのに、今はこんなにも遠く感じる
「なつ・・・、なつ・・・?」
「 お屋形・・・様・・・?」
掠れた声
それは、嘗て自分を叱咤し、震え上がらせた人の声とは想えないほど、弱々しく、そして、老いていた
「なつ、なつ・・・」
愛しい者へ辿り着くことのできない手を、床に伏せ息絶え絶えのなつの方から差し伸べた
触れ合う指先は、やはり互いに年老いて、皺の寄った枯れ枝のように感じる
それでも温もりだけは消えていない
「なつ・・・、なつ・・・ッ」
「お屋形様・・・」
「どうして病のことを、黙っていた・・・ッ」
「心配、掛けさせたくなかったから・・・」
「何故私に言わない・・・ッ」
「あなた様の、『永遠』で居たかったから・・・」
「なつ・・・」
「あなた様の心の中のわたくしは、如何ですか・・・。やはり年老いて、醜い老婆になってますでしょうか・・・」
「そんなことはない・・・。私の中のお前は、いつも美しく輝いている。決して消えない、私の、最後の光だ・・・」
「お屋形様・・・」
年老いたなつは、満足げな微笑みを浮かべ、その朽ちた目から涙を流した
「覚えておいでですか・・・?初めて逢った日のことを・・・」
「ああ、覚えてる・・・。お前は私をぼんやり、見ていた」
「あなた様は待ち詫びていたかのように、わたくしに微笑んでくださいました」
「心強い味方を得た気分で居られたのだ。当然だろう?」
「わたくしはあなた様にお仕えすることを、夢見ておりました」
「なつ・・・」
「あの時からなつは、あなた様に寄り添うことを願っておりました・・・」
「お前はよく、私に尽くしてくれた。今の私があるのも、お前のお陰だ、なつ」
「お屋形様・・・」
帰蝶の手を握るなつの指先から力が抜ける
ともすれば滑り落ちそうななつの手を、帰蝶は咄嗟に掴んだ
「お屋形様・・・、なつは、先に参ります・・・」
「駄目だ、なつッ!行くなッ!」
「お屋形様と出逢えて、なつは幸せでした・・・」
「別れの言葉など、口にするなッ!」
「まるで実の親子のように、魂を通い合わせることができた・・・。この至福を胸に、なつの心は、お屋形様と共におります・・・」
「やめろ、なつッ!」
「お屋形様・・・」
消えそうな魂の灯火が、一瞬、一際輝いて見えた
「なつは、いつまでもお屋形様を、お慕い申し上げております・・・」
「なつ・・・」
心の中に浮かんだその光が、静かに消える
「行くな、なつ・・・」
帰蝶の手の中から、触り慣れたなつの手が滑り落ちた
「行くな、なつッ!私を置いて行くのかッ?!お前も、私を置いて行くのかッ?!許さんぞ、なつ!戻れッ!命令だッ!戻れ、なつッ!」
無駄な足掻きと、わかっている
それでも、引き止めたい想いを押えることなど人にはできない
「なつッ!なつッ!」
骸となったなつの肩を探り当て、帰蝶は持てる力の限り揺さぶった
返事のない躰の主への想いをぶつけて
「私もだ。私もお前を想っているッ!これからもずっと、ずっと・・・、お前を、実の母のように・・・」
光を失った瞳から、止め処なく涙が零れる
「私を許せ。薄情だった私を許せ、なつッ。・・・なつ」
周囲からも、すすり泣く声が聞こえた
嘗て『戦国の覇者』と呼ばれた者の面影はなく
ただ、愛しい者の死を常に側で見て来た一人の、年老い始めた女がそこに居た
天文二十一年、春
尾張の虎と称された、一人の武士(もののふ)が他界した
織田信秀
その側室であったなつは、今後の身の振り方を考えていた折、那古野の信秀嫡男・信長から、妻の補佐に入るよう要請が下った
信秀の臨終の際、直接「美濃の鷹をよろしく頼む」と言われていたなつは、二つ返事で受けた
一度だけ言葉を交わしたことのあるあの少女は、深い深い悲しみの後、見事立ち上がり、再び歩き出せるまでに回復していた
女なら心の傷となってあろうその事件を、少女は驚くほどの速さで克服していた
この方が、若が選ばれたお方
生涯の伴侶
「待っていたのよ。あなたが来るのを」
「 」
夫にも似た弾ける笑顔で、少女は自分を出迎えてくれた
その凛々しさに、なつは想わず頬を染める
まるで初恋に胸を焦がす少女のような
そんな想いに包まれて
「奥方様!」
それから城の中では、一日中なつの怒鳴り声が響き渡った
「今日とゆう今日は許しませんよ!」
「お説教は、また後ほど。今は急いでるから。じゃあ、またね!」
「奥方様ぁーッ!」
逃げ去る帰蝶の背中に、なつは想い切り怒鳴り声を上げた
だが、走る帰蝶を止めることはできない
そこへ、夫の信長が笑いながらやって来た
「ははは、許せ許せ。今日は蝉丸の小屋が完成する日だからな、末森から蝉丸がやって来るのが待ち遠しいんだろ」
「高が鴉一匹のために」
「そう言ってやるな。親父から鴉は賢い生き物だって聞かされて、帰蝶自身興味津々なんだ。親父の財産分与も要らないから、お前と蝉丸だけは欲しいってごねたんだからさ、大目に見てやってくれよ」
「そうやって、若が甘やかせるから、奥方様は益々図に乗って、どんどん助長して行ってしまうんですよ」
「まぁ良いじゃねーか。別に贅沢するわけでもなし、勝手言うわけでもなし」
「勝手?確かに奥方様は、美濃の姫君にしては贅沢を好まない、とても素晴らしいお方ですが、勝手だけを取れば千万この上ない」
「そう・・・か?」
しまった
矛先が自分に向いてしまったと後悔しても、後の祭り
「この間など、琴の稽古でも付けさせようと、態々尾張一番の師範を呼んだと言うのに、松風に乗って那古野を脱走。こちらは呼び立てた手前、多額の謝礼を払わされた上に、織田の嫁は花嫁修業も積まなかったのかと嫌味を言われ、ならばお茶の淹れ方でもと一式を買い揃えて差し上げても、次の日には茶碗が欠けて使い物にはならず、実際茶を淹れさせようにも日長一日ほっつき歩いて中々城には戻って来ない。では、何が得意なのかと聞けば鷹狩り、庭で太田殿を相手に弓の稽古、挙句、嫁入りに持ち込んだ刀を振り回して稽古を付けさせろと迫る始末。これが、一国の姫君のやることですか?」
「 そうだな、せめて女らしさでもあれば、な」
頭に汗を浮かばせながら、信長はなつの意見に賛同した
ところが
「何を悠長なお顔をなさっておいでですか!そもそも奥方様を連れ出して、城を出ておられるのは若ではございませんか!若があちらこちらと奥方様を連れ回すから、日々の修行も嫌がるようになったのではないのですか?大体、花すら満足に生けられない嫁が、どこにおりますか。国広しと言えど、花より馬乗りの方が得意な女など、そうそう見付かりませんよ?!」
「すまん・・・」
それからずっと、信長は帰蝶の代わりになつの説教を受けていた
どれくらいが経っただろうか
帰蝶が逃げて随分と時間が過ぎた
「大体、若が奥方様を甘やかすから、奥方様も若に逃げれば助けてくれると想い、あのようなことができるのです。少しは若から奥方様に注意でもしてくだされば、目も覚めると言うものです」
「でもなぁ」
信長は高い空を見上げながら呟いた
「なんだかんだ言っても、最終的にはお前も許すだろ」
「え?」
「だから、帰蝶も助長しちまうんじゃないのかな」
「そんな・・・」
「お前も、結構帰蝶のこと庇ってるぜ?何でだ?」
笑う信長に、なつは薄く頬を染めて俯いた
だって
あの笑顔で強請られてしまったら、どうしても許してしまうんです・・・
そんな言葉を飲み込む
「俺のこと言う前に、自分のこと、見直してみな。そしたら、帰蝶も少しは大人しくなるんじゃねーのか?」
「 」
はっきり言われ、顔を上げられなくなってしまう
「なんでお前が帰蝶に甘いのかわかんねーけど、お前ら二人、結構合ってると想うぜ」
「そう・・・ですか?」
「ああ」
そうはっきり言われ、どうしてだろう、嬉しい気持ちが溢れて来た
殿
亡夫の居る空を見上げ、なつは心の中で告白した
私も、恋をしたかも知れません
「吉法師様!なつ!蝉丸が到着したわよ!」
不意に帰蝶の声がして、二人は同時に振り返った
「早く早く!」
目を向ければ、初夏の日差しに眩い笑顔を振り撒き、大きく手を振っている帰蝶が見える
『美濃の鷹』に・・・
懐かしい想い出
遠い昔
風に乗るように
流される葉のように
川を泳ぐ魚のように、それら想い出が通り過ぎる
愛した男達も、愛した女達も、みんな、帰蝶を通り過ぎ、消えてゆく
時は無情に流れ、幸せだった季節を奪い去って行く
愛した者達は次々と手元から零れ落ち、帰蝶を一人ぼっちにさせる
喜びも、悲しみも、何一つ残らなかった
空が白み始めた頃、帰蝶は漸く目を覚ました
気を失ったまま、眠っていたようだ
妙に温く、しかし寝心地は悪い
その上、息苦しい
「ん・・・、何・・・?」
少し身動きを取れば、硬いが柔らかい棒切れのようなものが自分の胸の上にある
なんだろうと目を擦るが、自分の居る場所は相変わらず暗い
外の冷気が入って来ないよう、清四郎が格子を藁で塞いでしまったために外の日差しが小屋に入って来ず、囲炉裏の火も弱まっているために良く見えない状況だった
自分の腕がごろんと転がったことに、清四郎も目を覚ます
「ん・・・」
ぼんやりとした頭で寝返りを打ち、それから肝心なことを想い出した
「姫様ッ!」
「何だ」
「 ッ」
普通に声がする
慌てて起き上がると、肩に掛けていた互いの小袖が脱げた
小屋の中の暗さで其々の姿など殆ど見えないが
「起きられましたか・・・?」
「今さっき」
「どこか具合は悪くありませんか?」
自分を心配する清四郎に、帰蝶は言った
「寒い」
「あ・・・」
やっと、真っ裸であることを想い出す
清四郎は帰蝶の肩に小袖を掛けると、自分は立ち上がり格子の藁を抜く
朝日が一瞬にして世界を白く染め上げた
「眩し・・・」
それを直視し、清四郎は片手で目蓋の上を覆った
その直後、背中から帰蝶の笑い声がする
「何ですか?」
帰蝶の目には清四郎の丸い尻が映っており、下帯も外した状態だったことすら忘れ、それをよく考えもせず帰蝶に振り返ると、今度は見せてはならない物を見せてしまった
瞬間、側にあった薪が清四郎目掛けて飛んで来る
薪は見事清四郎の額に当たり、撃沈した
「気を失っている間に、私を裸にひん剥いたか」
「そ、そう言うことではなくて・・・」
立腹顔の帰蝶は、小袖に袖を通しながら怒る
「まさか、手遊(てすさ)びの道具にはしておらんだろうな?」
「そっ、そんな滅相もない・・・!」
帰蝶の疑いに、清四郎の顔は真っ青になった
「冗談だ。お前にそんな度胸など、あるものか」
「 」
実は、その愛らしい口唇を頂きました・・・とは、決して言えない
「それにしても、お前と夜を共に過ごそうとは、想ってなかった・・・」
想い返せば少し気恥ずかしい
話を聞けば、この清四郎に全てを見られたのだから
「申し訳ございません・・・」
「謝るな。まるで成り行きに任せて、お前に操を捧げたような気分になる」
「そんなことは・・・」
「別に、それでも構わないが・・・」
「え?」
ぽつりと呟く帰蝶の声が聞こえにくく、清四郎は想わず聞き返した
「なんでもない」
「はぁ・・・」
「お腹空いた・・・」
「あ・・・。魚でも、釣りますか」
ぽつりと呟く帰蝶に、幸いかな釣り道具の一式は揃っていたので、清四郎は慌てて身支度を整え表に出た
昨日は気が動転していたので周囲を把握できなかったが、良く見れば長良の辺りである
どうも渡らなくても良い川を渡ったようで、道理でいつまで経っても川岸に辿り着かなかったわけだと、無駄な労力を使ったことが判明し、どっと疲れが出た
「どうした?」
ガックリ肩を落とす清四郎の背中に声を掛ける
「いえ。釣りましょうか」
「釣れるのか?」
「失敬ですね。これでも釣りが趣味なんですよ?」
「ついでに、女も釣ってるのか?」
「泳いでたら良いんですけどね」
「いやらしい」
「 」
言葉の綾にまでいちゃもんを付けられては、堪らない
気の強い主君の腹を満たすため、口答えしたい気持ちをぐっと堪えて竿を投げた
春先になればそれなりの獲物が釣れるだろうが、時季が悪いからか痩せた魚しか釣れない
それでも河原で火を起こし、帰蝶と二人で啄ばんだ
「さて。そろそろ帰りましょうか」
「そうだな・・・」
なんとなく、名残惜しいような口調で返事する帰蝶に目をやるが、帰蝶はさっさと立ち上がり、稲葉山を目指して歩き出した
「待ってくださいよ、姫様!」
慌ててその後を追う
「織田は引き上げたんでしょうかね」
周囲に兵士の姿はなく、以前の美濃の光景に戻っているように想えた
「仕方あるまい?前年、あれだけの被害を受けて尾張に逃げ帰ったのだぞ?そう何度も駐屯できまい」
「そうですが」
織田信秀が初めて美濃に侵攻して来た時、道三の撃退を受け、引き連れた兵の半数以上がこの美濃で敗死した
「奇襲は上手い。だが、決定打に欠ける。織田はどうも、ごり押しが好きなようだ」
「そうですね・・・」
何人か居る娘の中で、帰蝶が特に道三のお気に入りであることは周知の事実
そのためか、誰よりも道三の側に置かれていた
帰蝶は女ながらにも軍略家・道三の薫陶を受けている
冷静な軍事分析力には定評があった
元服したててで初陣も飾っていない清四郎は、帰蝶の言っていることがわかるようなわからないような、曖昧な境地に居る
自分の少し後ろ
自分の少し前を歩く互いの気配に、まるで寄り添う
交わす言葉はなく、黙って歩き続ける
長良川を沿い、稲葉山に近付いた頃、背後から馬の蹄の音と、聞き慣れた声がした
「姫様!」
振り返ると、従兄弟が十数騎の騎馬を引き連れ、こちらに駆けて来る
「兄様・・・」
「探しましたよ!」
十、年上の従兄弟・明智十兵衛光秀は、母の甥であった
生真面目な性格だが、理解力は深い
「城中、大変な騒ぎなんですよ?!清四郎殿と駆け落ちしたって、上へ下への大騒動!」
「ええ?」
清四郎はギョッとして、帰蝶はポカンとなった
いつも二人で出歩いているのだから、帰蝶が戻らなければ清四郎を探せば良い
しかし、その清四郎も居ないとなれば、二人で駆け落ちしたと結論付けられるのは自然の成り行きだった
慌てた清四郎が光秀に説明する
「織田に?」
「はい。夜に紛れて戻ろうかとも想ったのですが、姫様は目を覚まされないし、一人にもして置けないし、何より、織田に城への抜け道を教えるわけにも参りませんから、川の畔の小屋で成りを潜めておりました」
「そうだったのか」
まだ戦にも出ていない少年にしては、考えが随分理論的である
光秀は清四郎の采配に唸りながらもちらりと帰蝶を見た
「父様、怒ってる?」
「ええ」
「どれくらい?」
「清四郎殿を見付けたら、八つ裂きにしてやると」
「 」
清四郎は想わず身震いする
「そんなの困るわ。ねぇ、兄様、どうしたら良い?」
「訳を聞いてもらえたら良いんですけどね、今の殿は全く冷静ではいられない状態ですから、刀振り回すことくらいはするでしょう」
「それは、死ねと言うことでしょうか・・・?」
ガクガクと震えながら言う
「そんなの、私がさせない」
「姫様・・・」
キッパリと言い切る帰蝶に、清四郎は目を丸くさせた
「兄様、力を貸して。お清は私を助けてくれたの。恩人をむざむざ死なせては、帰蝶の名が廃ります」
「承知」
帰蝶は光秀と相乗りに、清四郎は光秀の小姓である三宅弥平次の後ろに便乗させてもらい、稲葉山城へと戻った
「兄様」
馬に跨るわけにも行かず、帰蝶は横向きで光秀の前に座っていた
「織田の動き、どう見ますか?」
「こちらの出方を探っている、そんな感に見受けます」
「昨日も、少人数でこの付近を探ってた。あちらも手を拱いている様子。しばらく、戦は仕掛けて来ないでしょうね」
「でしょうね。織田も今、駿府の今川と争ったり、三河の松平とも争っている。あちらこちらに手を出せば、自分で自分の首を絞める結果になりかねない」
「もしも斎藤が今川と手を組めば、織田にとっては大打撃」
「そのため、殿は今川との接触を試みてる」
「織田はそれを嫌ってる」
「今が休閑日と言うわけですか」
「かも知れないわね」
「なら、精々美味い酒を飲んで、妻にも楽をさせてやらなくては」
「そう言えば煕子姉様、ご出産なされたんですってね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
光秀は笑顔で帰蝶の祝辞を受けた
「煕子姉様はご健勝ですか?初産でしょう?」
「ええ、お陰様で元気です。煕子は躰が小さいので難産でしたが、何とか乗り切ってくれました」
「男の子ですか?女の子ですか?」
「女です」
「そうですか。姉様に似ると良いのですが」
「ははははは。女の子は、男親に似た方が幸せになるんですよ?」
「あら、姉様だって美人よ?」
光秀の妻・煕子は、光秀との婚約時代大病を患い、その後遺症で全身酷い痘痕が残ってしまった
その所為で、以前の美しい姿は見る影もなく、婚約時代の煕子を知る帰蝶にも衝撃が走った
しかし、生まれ持った才知に翳りはなく、帰蝶は女として煕子を尊敬している
「また、姉様にお逢いしたいわ」
「煕子もきっと喜びます。お暇な時にでもお越しください」
煕子の実家は遠山十八支城の一つ、妻木城
遠山の祖先は藤原一族だが、妻木は清和源氏の子孫で、先祖は土岐になる
土岐郷に土着した一族が分散し、その一つが妻木となって東美濃に留まっているのが熙子の実家であった
妻の実家の縁者と、土岐の縁者と結び付けることで、反発する土岐派を押さえ込むことを目論み、更には手の出しにくい東美濃にも繋がりができる
今でこそ妻木は遠山に仕える身であるが、元々は土岐の出身ともあって何かと利便が効くのを見越した道三の采配に因る
先祖を同じくする光秀と熙子の夫婦仲が良いのは知っているが、それでも気になるものは気になる
帰蝶と光秀も従兄弟同士で仲が良いからだ
そんな帰蝶と光秀が難しい話をしているのを、清四郎は後ろから眺めた
二人の仲が良いのは誰でも知っているが、何となく胸の奥にモヤモヤした感情が芽生える
それをなんと言うのか清四郎にはわからないが、兎に角前を行く帰蝶と光秀が気になった
そんな清四郎に
「清四郎様、じっとしててください。馬から落っこちますよ?」
と、弥平次が注意する
「・・・すまん」
年下に注意され、清四郎は眉間に皺を寄せて謝った
稲葉山城に戻った帰蝶は、先ず清四郎を局処に匿う
二人が戻ったことを当然知ることとなる道三は、怒り心頭で局処に乗り込んだ
そこを女達が立ちはだかる
先頭は、那々であった
「そこをどけ」
「あなたが話を聞いてくださるまでは、通しません」
「何の話だ。どうせ逃亡中に十兵衛に見付かって、おめおめ帰って来たのだろう?」
「ああ、やっぱり帰蝶の言うとおり、誤解されたまま」
那々はガックリと肩を落として項垂れた
「誤解?何が誤解だ。現に嫁入り前の娘が、男と朝帰りだぞ?これだけでも充分、叱責に値すると想うが?」
「なら、話を聞いてから結果を出してください」
「結果ならとっくの昔に出ておる。清四郎は打ち首だ!」
「 」
物陰で道三の声を聞いた清四郎は、顔面真っ青になる
「大丈夫よ、お清。母様が何とかしてくれる」
側に居た帰蝶が励ます
「何とかって・・・」
「父様は、母様には頭が上がらないんだから」
「でも、相手は殿ですよ?そう素直に話を聞いてくれるとは想えませんが・・・」
「だったら、私がお清を守ってあげるから、心配しないで」
「姫様・・・」
お清は、私が守る
今まで何度、その言葉を聞いて来たことか
その度に、二人の立場を再認識させられた
自分は家臣で
帰蝶は姫様で
こうして、同じ場所に居るだけでも奇跡としか呼べない間柄で・・・
「兎に角、清四郎を出せ!出さねば伊豆守の首を落とすッ!」
「ひぃぃぃぃぃ!」
正に、そんな悲鳴を上げそうな顔をする清四郎を見て、帰蝶は咄嗟に隠れていた部屋から飛び出し、父の前に仁王立ちした
「父様!」
「おぉ、帰蝶か。何処に行っていた、心配したぞ?」
「父様は母様の話を聞いてなかったの?」
自分に目尻を下げる道三に、帰蝶は腰に手を当て『ぷんすか』と怒る
「聞いておったぞ、聞いておったとも。清四郎にかどわかされて 」
「 」
最早これまでと、諦めた顔をする清四郎に、帰蝶の侍女・能が苦笑いした
「父様。私はお清ごときにかどわかされるほど、弱くはありません」
「 泣いて良いですか・・・?」
清四郎は想わず、側に居た能に弱音を吐いた
「いえ、もうしばらく後ほど・・・」
困るのは能である
「直ぐに帰れなかったのは、稲葉山周辺に織田の兵がうろうろしていたからです。それを指摘したのもお清ですし、お清が一緒でなければ私は、今頃織田の手に落ちてました。お清は私の恩人なのですよ?その恩人を処すと言うのですか?父上は何処まで非常識なんですか」
「しかしなぁ、帰蝶。お前が無事だとわかるまで、わしがどれだけ心配したか」
「それでぞろぞろと織田の兵を連れて、城に戻って来いとおっしゃるのですか?」
「帰蝶・・・」
さすがの道三も、愛娘の前には弱い
道三が『蝮』の異名を持つのなら、帰蝶はそれを食す『鷹』だろうか
『鷹の目』をして睨む娘に、道三もこれ以上手を振り上げられなくなってしまう
「殿。私からもお願いします。清四郎殿の言い分を飲んでください。彼は本当に、姫様を助けただけです。駆け落ちだとかそんな、身分を弁えないような真似をする人間ではありません」
「十兵衛・・・」
帰蝶の加勢して、光秀も出て来る
道三のお気に入りでもある光秀の言葉ならある程度は聞いてくれるだろうが、清四郎にとって、今の光秀の言葉は胸に痛い
身分を弁えない
確かに、自分と帰蝶の間に立つ『身分の壁』は、大きく高いだろう
せめて帰蝶が『正室の産んだ唯一の娘』ではなく、その他大勢の『側室が産んだ娘の一人』だったら、どれだけ気が軽くなるか・・・・・・・・
なんとなく心がモヤモヤしたまま、清四郎は解放された
「あぁ、一時はどうなるかと想ったけど、誤解が解けて良かった」
局処の中庭に出て両手を伸ばして深呼吸する帰蝶の背中に、清四郎は声を掛けた
「姫様・・・」
「ん?」
振り返る帰蝶の表情が眩しい
「あ・・・、ありがとうございました・・・」
「何が?」
「いえ・・・。お陰様で、父も咎めを受けずに済みまして・・・」
「なんだ、そんなこと」
帰蝶は体ごと清四郎に向けて応える
「言ったでしょ?お清のことは、私が守るって」
「姫様・・・・・」
どうしてあなたは、斎藤道三の娘に生まれたのですか
どうして同じ名を持つのに、私とあなたの距離はこんなにも遠いのですか
「さぁ、今日は何処に散歩行こうかな」
「殿に叱られたばかりですよ?」
「済んだことでしょ?そんなの」
どうしてあなたは、この世に存在するのですか
「いこ、お清」
歩き出す帰蝶の背中に、清四郎は想いをぶつけた
どうしてあなたは、私の先をゆくのですか
ただ馴れるか、馴れないかだけのことで、悲しいこと、苦しいことに変わりはない
「要津(しのつの)御前様!養徳院様が、ご危篤に・・・ッ!」
暮らしている美濃の寺で、帰蝶は愛しい者の臨終を聞いた
その瞳に色はなく
光も閉ざされて久しい
脳裏に浮かぶ愛しい者達は、時には色鮮やかに、時には色褪せて帰蝶の記憶の中で蘇る
盲しいた目に映る物は何もなく、帰蝶は侍女に手を繋がれて、最後の愛しい者の側に寄った
同じ美濃に暮らしているのに、今はこんなにも遠く感じる
「なつ・・・、なつ・・・?」
「
掠れた声
それは、嘗て自分を叱咤し、震え上がらせた人の声とは想えないほど、弱々しく、そして、老いていた
「なつ、なつ・・・」
愛しい者へ辿り着くことのできない手を、床に伏せ息絶え絶えのなつの方から差し伸べた
触れ合う指先は、やはり互いに年老いて、皺の寄った枯れ枝のように感じる
それでも温もりだけは消えていない
「なつ・・・、なつ・・・ッ」
「お屋形様・・・」
「どうして病のことを、黙っていた・・・ッ」
「心配、掛けさせたくなかったから・・・」
「何故私に言わない・・・ッ」
「あなた様の、『永遠』で居たかったから・・・」
「なつ・・・」
「あなた様の心の中のわたくしは、如何ですか・・・。やはり年老いて、醜い老婆になってますでしょうか・・・」
「そんなことはない・・・。私の中のお前は、いつも美しく輝いている。決して消えない、私の、最後の光だ・・・」
「お屋形様・・・」
年老いたなつは、満足げな微笑みを浮かべ、その朽ちた目から涙を流した
「覚えておいでですか・・・?初めて逢った日のことを・・・」
「ああ、覚えてる・・・。お前は私をぼんやり、見ていた」
「あなた様は待ち詫びていたかのように、わたくしに微笑んでくださいました」
「心強い味方を得た気分で居られたのだ。当然だろう?」
「わたくしはあなた様にお仕えすることを、夢見ておりました」
「なつ・・・」
「あの時からなつは、あなた様に寄り添うことを願っておりました・・・」
「お前はよく、私に尽くしてくれた。今の私があるのも、お前のお陰だ、なつ」
「お屋形様・・・」
帰蝶の手を握るなつの指先から力が抜ける
ともすれば滑り落ちそうななつの手を、帰蝶は咄嗟に掴んだ
「お屋形様・・・、なつは、先に参ります・・・」
「駄目だ、なつッ!行くなッ!」
「お屋形様と出逢えて、なつは幸せでした・・・」
「別れの言葉など、口にするなッ!」
「まるで実の親子のように、魂を通い合わせることができた・・・。この至福を胸に、なつの心は、お屋形様と共におります・・・」
「やめろ、なつッ!」
「お屋形様・・・」
消えそうな魂の灯火が、一瞬、一際輝いて見えた
「なつは、いつまでもお屋形様を、お慕い申し上げております・・・」
「なつ・・・」
心の中に浮かんだその光が、静かに消える
「行くな、なつ・・・」
帰蝶の手の中から、触り慣れたなつの手が滑り落ちた
「行くな、なつッ!私を置いて行くのかッ?!お前も、私を置いて行くのかッ?!許さんぞ、なつ!戻れッ!命令だッ!戻れ、なつッ!」
無駄な足掻きと、わかっている
それでも、引き止めたい想いを押えることなど人にはできない
「なつッ!なつッ!」
骸となったなつの肩を探り当て、帰蝶は持てる力の限り揺さぶった
返事のない躰の主への想いをぶつけて
「私もだ。私もお前を想っているッ!これからもずっと、ずっと・・・、お前を、実の母のように・・・」
光を失った瞳から、止め処なく涙が零れる
「私を許せ。薄情だった私を許せ、なつッ。・・・なつ」
周囲からも、すすり泣く声が聞こえた
嘗て『戦国の覇者』と呼ばれた者の面影はなく
ただ、愛しい者の死を常に側で見て来た一人の、年老い始めた女がそこに居た
尾張の虎と称された、一人の武士(もののふ)が他界した
織田信秀
その側室であったなつは、今後の身の振り方を考えていた折、那古野の信秀嫡男・信長から、妻の補佐に入るよう要請が下った
信秀の臨終の際、直接「美濃の鷹をよろしく頼む」と言われていたなつは、二つ返事で受けた
一度だけ言葉を交わしたことのあるあの少女は、深い深い悲しみの後、見事立ち上がり、再び歩き出せるまでに回復していた
女なら心の傷となってあろうその事件を、少女は驚くほどの速さで克服していた
この方が、若が選ばれたお方
生涯の伴侶
「待っていたのよ。あなたが来るのを」
「
夫にも似た弾ける笑顔で、少女は自分を出迎えてくれた
その凛々しさに、なつは想わず頬を染める
まるで初恋に胸を焦がす少女のような
そんな想いに包まれて
「奥方様!」
それから城の中では、一日中なつの怒鳴り声が響き渡った
「今日とゆう今日は許しませんよ!」
「お説教は、また後ほど。今は急いでるから。じゃあ、またね!」
「奥方様ぁーッ!」
逃げ去る帰蝶の背中に、なつは想い切り怒鳴り声を上げた
だが、走る帰蝶を止めることはできない
そこへ、夫の信長が笑いながらやって来た
「ははは、許せ許せ。今日は蝉丸の小屋が完成する日だからな、末森から蝉丸がやって来るのが待ち遠しいんだろ」
「高が鴉一匹のために」
「そう言ってやるな。親父から鴉は賢い生き物だって聞かされて、帰蝶自身興味津々なんだ。親父の財産分与も要らないから、お前と蝉丸だけは欲しいってごねたんだからさ、大目に見てやってくれよ」
「そうやって、若が甘やかせるから、奥方様は益々図に乗って、どんどん助長して行ってしまうんですよ」
「まぁ良いじゃねーか。別に贅沢するわけでもなし、勝手言うわけでもなし」
「勝手?確かに奥方様は、美濃の姫君にしては贅沢を好まない、とても素晴らしいお方ですが、勝手だけを取れば千万この上ない」
「そう・・・か?」
しまった
矛先が自分に向いてしまったと後悔しても、後の祭り
「この間など、琴の稽古でも付けさせようと、態々尾張一番の師範を呼んだと言うのに、松風に乗って那古野を脱走。こちらは呼び立てた手前、多額の謝礼を払わされた上に、織田の嫁は花嫁修業も積まなかったのかと嫌味を言われ、ならばお茶の淹れ方でもと一式を買い揃えて差し上げても、次の日には茶碗が欠けて使い物にはならず、実際茶を淹れさせようにも日長一日ほっつき歩いて中々城には戻って来ない。では、何が得意なのかと聞けば鷹狩り、庭で太田殿を相手に弓の稽古、挙句、嫁入りに持ち込んだ刀を振り回して稽古を付けさせろと迫る始末。これが、一国の姫君のやることですか?」
「
頭に汗を浮かばせながら、信長はなつの意見に賛同した
ところが
「何を悠長なお顔をなさっておいでですか!そもそも奥方様を連れ出して、城を出ておられるのは若ではございませんか!若があちらこちらと奥方様を連れ回すから、日々の修行も嫌がるようになったのではないのですか?大体、花すら満足に生けられない嫁が、どこにおりますか。国広しと言えど、花より馬乗りの方が得意な女など、そうそう見付かりませんよ?!」
「すまん・・・」
それからずっと、信長は帰蝶の代わりになつの説教を受けていた
どれくらいが経っただろうか
帰蝶が逃げて随分と時間が過ぎた
「大体、若が奥方様を甘やかすから、奥方様も若に逃げれば助けてくれると想い、あのようなことができるのです。少しは若から奥方様に注意でもしてくだされば、目も覚めると言うものです」
「でもなぁ」
信長は高い空を見上げながら呟いた
「なんだかんだ言っても、最終的にはお前も許すだろ」
「え?」
「だから、帰蝶も助長しちまうんじゃないのかな」
「そんな・・・」
「お前も、結構帰蝶のこと庇ってるぜ?何でだ?」
笑う信長に、なつは薄く頬を染めて俯いた
あの笑顔で強請られてしまったら、どうしても許してしまうんです・・・
そんな言葉を飲み込む
「俺のこと言う前に、自分のこと、見直してみな。そしたら、帰蝶も少しは大人しくなるんじゃねーのか?」
「
はっきり言われ、顔を上げられなくなってしまう
「なんでお前が帰蝶に甘いのかわかんねーけど、お前ら二人、結構合ってると想うぜ」
「そう・・・ですか?」
「ああ」
そうはっきり言われ、どうしてだろう、嬉しい気持ちが溢れて来た
亡夫の居る空を見上げ、なつは心の中で告白した
私も、恋をしたかも知れません
「吉法師様!なつ!蝉丸が到着したわよ!」
不意に帰蝶の声がして、二人は同時に振り返った
「早く早く!」
目を向ければ、初夏の日差しに眩い笑顔を振り撒き、大きく手を振っている帰蝶が見える
懐かしい想い出
遠い昔
風に乗るように
流される葉のように
川を泳ぐ魚のように、それら想い出が通り過ぎる
愛した男達も、愛した女達も、みんな、帰蝶を通り過ぎ、消えてゆく
時は無情に流れ、幸せだった季節を奪い去って行く
愛した者達は次々と手元から零れ落ち、帰蝶を一人ぼっちにさせる
喜びも、悲しみも、何一つ残らなかった
空が白み始めた頃、帰蝶は漸く目を覚ました
気を失ったまま、眠っていたようだ
妙に温く、しかし寝心地は悪い
その上、息苦しい
「ん・・・、何・・・?」
少し身動きを取れば、硬いが柔らかい棒切れのようなものが自分の胸の上にある
なんだろうと目を擦るが、自分の居る場所は相変わらず暗い
外の冷気が入って来ないよう、清四郎が格子を藁で塞いでしまったために外の日差しが小屋に入って来ず、囲炉裏の火も弱まっているために良く見えない状況だった
自分の腕がごろんと転がったことに、清四郎も目を覚ます
「ん・・・」
ぼんやりとした頭で寝返りを打ち、それから肝心なことを想い出した
「姫様ッ!」
「何だ」
「
普通に声がする
慌てて起き上がると、肩に掛けていた互いの小袖が脱げた
小屋の中の暗さで其々の姿など殆ど見えないが
「起きられましたか・・・?」
「今さっき」
「どこか具合は悪くありませんか?」
自分を心配する清四郎に、帰蝶は言った
「寒い」
「あ・・・」
やっと、真っ裸であることを想い出す
清四郎は帰蝶の肩に小袖を掛けると、自分は立ち上がり格子の藁を抜く
朝日が一瞬にして世界を白く染め上げた
「眩し・・・」
それを直視し、清四郎は片手で目蓋の上を覆った
その直後、背中から帰蝶の笑い声がする
「何ですか?」
帰蝶の目には清四郎の丸い尻が映っており、下帯も外した状態だったことすら忘れ、それをよく考えもせず帰蝶に振り返ると、今度は見せてはならない物を見せてしまった
瞬間、側にあった薪が清四郎目掛けて飛んで来る
薪は見事清四郎の額に当たり、撃沈した
「気を失っている間に、私を裸にひん剥いたか」
「そ、そう言うことではなくて・・・」
立腹顔の帰蝶は、小袖に袖を通しながら怒る
「まさか、手遊(てすさ)びの道具にはしておらんだろうな?」
「そっ、そんな滅相もない・・・!」
帰蝶の疑いに、清四郎の顔は真っ青になった
「冗談だ。お前にそんな度胸など、あるものか」
「
実は、その愛らしい口唇を頂きました・・・とは、決して言えない
「それにしても、お前と夜を共に過ごそうとは、想ってなかった・・・」
想い返せば少し気恥ずかしい
話を聞けば、この清四郎に全てを見られたのだから
「申し訳ございません・・・」
「謝るな。まるで成り行きに任せて、お前に操を捧げたような気分になる」
「そんなことは・・・」
「別に、それでも構わないが・・・」
「え?」
ぽつりと呟く帰蝶の声が聞こえにくく、清四郎は想わず聞き返した
「なんでもない」
「はぁ・・・」
「お腹空いた・・・」
「あ・・・。魚でも、釣りますか」
ぽつりと呟く帰蝶に、幸いかな釣り道具の一式は揃っていたので、清四郎は慌てて身支度を整え表に出た
昨日は気が動転していたので周囲を把握できなかったが、良く見れば長良の辺りである
どうも渡らなくても良い川を渡ったようで、道理でいつまで経っても川岸に辿り着かなかったわけだと、無駄な労力を使ったことが判明し、どっと疲れが出た
「どうした?」
ガックリ肩を落とす清四郎の背中に声を掛ける
「いえ。釣りましょうか」
「釣れるのか?」
「失敬ですね。これでも釣りが趣味なんですよ?」
「ついでに、女も釣ってるのか?」
「泳いでたら良いんですけどね」
「いやらしい」
「
言葉の綾にまでいちゃもんを付けられては、堪らない
気の強い主君の腹を満たすため、口答えしたい気持ちをぐっと堪えて竿を投げた
春先になればそれなりの獲物が釣れるだろうが、時季が悪いからか痩せた魚しか釣れない
それでも河原で火を起こし、帰蝶と二人で啄ばんだ
「さて。そろそろ帰りましょうか」
「そうだな・・・」
なんとなく、名残惜しいような口調で返事する帰蝶に目をやるが、帰蝶はさっさと立ち上がり、稲葉山を目指して歩き出した
「待ってくださいよ、姫様!」
慌ててその後を追う
「織田は引き上げたんでしょうかね」
周囲に兵士の姿はなく、以前の美濃の光景に戻っているように想えた
「仕方あるまい?前年、あれだけの被害を受けて尾張に逃げ帰ったのだぞ?そう何度も駐屯できまい」
「そうですが」
織田信秀が初めて美濃に侵攻して来た時、道三の撃退を受け、引き連れた兵の半数以上がこの美濃で敗死した
「奇襲は上手い。だが、決定打に欠ける。織田はどうも、ごり押しが好きなようだ」
「そうですね・・・」
何人か居る娘の中で、帰蝶が特に道三のお気に入りであることは周知の事実
そのためか、誰よりも道三の側に置かれていた
帰蝶は女ながらにも軍略家・道三の薫陶を受けている
冷静な軍事分析力には定評があった
元服したててで初陣も飾っていない清四郎は、帰蝶の言っていることがわかるようなわからないような、曖昧な境地に居る
自分の少し後ろ
自分の少し前を歩く互いの気配に、まるで寄り添う
交わす言葉はなく、黙って歩き続ける
長良川を沿い、稲葉山に近付いた頃、背後から馬の蹄の音と、聞き慣れた声がした
「姫様!」
振り返ると、従兄弟が十数騎の騎馬を引き連れ、こちらに駆けて来る
「兄様・・・」
「探しましたよ!」
十、年上の従兄弟・明智十兵衛光秀は、母の甥であった
生真面目な性格だが、理解力は深い
「城中、大変な騒ぎなんですよ?!清四郎殿と駆け落ちしたって、上へ下への大騒動!」
「ええ?」
清四郎はギョッとして、帰蝶はポカンとなった
いつも二人で出歩いているのだから、帰蝶が戻らなければ清四郎を探せば良い
しかし、その清四郎も居ないとなれば、二人で駆け落ちしたと結論付けられるのは自然の成り行きだった
慌てた清四郎が光秀に説明する
「織田に?」
「はい。夜に紛れて戻ろうかとも想ったのですが、姫様は目を覚まされないし、一人にもして置けないし、何より、織田に城への抜け道を教えるわけにも参りませんから、川の畔の小屋で成りを潜めておりました」
「そうだったのか」
まだ戦にも出ていない少年にしては、考えが随分理論的である
光秀は清四郎の采配に唸りながらもちらりと帰蝶を見た
「父様、怒ってる?」
「ええ」
「どれくらい?」
「清四郎殿を見付けたら、八つ裂きにしてやると」
「
清四郎は想わず身震いする
「そんなの困るわ。ねぇ、兄様、どうしたら良い?」
「訳を聞いてもらえたら良いんですけどね、今の殿は全く冷静ではいられない状態ですから、刀振り回すことくらいはするでしょう」
「それは、死ねと言うことでしょうか・・・?」
ガクガクと震えながら言う
「そんなの、私がさせない」
「姫様・・・」
キッパリと言い切る帰蝶に、清四郎は目を丸くさせた
「兄様、力を貸して。お清は私を助けてくれたの。恩人をむざむざ死なせては、帰蝶の名が廃ります」
「承知」
帰蝶は光秀と相乗りに、清四郎は光秀の小姓である三宅弥平次の後ろに便乗させてもらい、稲葉山城へと戻った
「兄様」
馬に跨るわけにも行かず、帰蝶は横向きで光秀の前に座っていた
「織田の動き、どう見ますか?」
「こちらの出方を探っている、そんな感に見受けます」
「昨日も、少人数でこの付近を探ってた。あちらも手を拱いている様子。しばらく、戦は仕掛けて来ないでしょうね」
「でしょうね。織田も今、駿府の今川と争ったり、三河の松平とも争っている。あちらこちらに手を出せば、自分で自分の首を絞める結果になりかねない」
「もしも斎藤が今川と手を組めば、織田にとっては大打撃」
「そのため、殿は今川との接触を試みてる」
「織田はそれを嫌ってる」
「今が休閑日と言うわけですか」
「かも知れないわね」
「なら、精々美味い酒を飲んで、妻にも楽をさせてやらなくては」
「そう言えば煕子姉様、ご出産なされたんですってね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
光秀は笑顔で帰蝶の祝辞を受けた
「煕子姉様はご健勝ですか?初産でしょう?」
「ええ、お陰様で元気です。煕子は躰が小さいので難産でしたが、何とか乗り切ってくれました」
「男の子ですか?女の子ですか?」
「女です」
「そうですか。姉様に似ると良いのですが」
「ははははは。女の子は、男親に似た方が幸せになるんですよ?」
「あら、姉様だって美人よ?」
光秀の妻・煕子は、光秀との婚約時代大病を患い、その後遺症で全身酷い痘痕が残ってしまった
その所為で、以前の美しい姿は見る影もなく、婚約時代の煕子を知る帰蝶にも衝撃が走った
しかし、生まれ持った才知に翳りはなく、帰蝶は女として煕子を尊敬している
「また、姉様にお逢いしたいわ」
「煕子もきっと喜びます。お暇な時にでもお越しください」
煕子の実家は遠山十八支城の一つ、妻木城
遠山の祖先は藤原一族だが、妻木は清和源氏の子孫で、先祖は土岐になる
土岐郷に土着した一族が分散し、その一つが妻木となって東美濃に留まっているのが熙子の実家であった
妻の実家の縁者と、土岐の縁者と結び付けることで、反発する土岐派を押さえ込むことを目論み、更には手の出しにくい東美濃にも繋がりができる
今でこそ妻木は遠山に仕える身であるが、元々は土岐の出身ともあって何かと利便が効くのを見越した道三の采配に因る
先祖を同じくする光秀と熙子の夫婦仲が良いのは知っているが、それでも気になるものは気になる
帰蝶と光秀も従兄弟同士で仲が良いからだ
そんな帰蝶と光秀が難しい話をしているのを、清四郎は後ろから眺めた
二人の仲が良いのは誰でも知っているが、何となく胸の奥にモヤモヤした感情が芽生える
それをなんと言うのか清四郎にはわからないが、兎に角前を行く帰蝶と光秀が気になった
そんな清四郎に
「清四郎様、じっとしててください。馬から落っこちますよ?」
と、弥平次が注意する
「・・・すまん」
年下に注意され、清四郎は眉間に皺を寄せて謝った
稲葉山城に戻った帰蝶は、先ず清四郎を局処に匿う
二人が戻ったことを当然知ることとなる道三は、怒り心頭で局処に乗り込んだ
そこを女達が立ちはだかる
先頭は、那々であった
「そこをどけ」
「あなたが話を聞いてくださるまでは、通しません」
「何の話だ。どうせ逃亡中に十兵衛に見付かって、おめおめ帰って来たのだろう?」
「ああ、やっぱり帰蝶の言うとおり、誤解されたまま」
那々はガックリと肩を落として項垂れた
「誤解?何が誤解だ。現に嫁入り前の娘が、男と朝帰りだぞ?これだけでも充分、叱責に値すると想うが?」
「なら、話を聞いてから結果を出してください」
「結果ならとっくの昔に出ておる。清四郎は打ち首だ!」
「
物陰で道三の声を聞いた清四郎は、顔面真っ青になる
「大丈夫よ、お清。母様が何とかしてくれる」
側に居た帰蝶が励ます
「何とかって・・・」
「父様は、母様には頭が上がらないんだから」
「でも、相手は殿ですよ?そう素直に話を聞いてくれるとは想えませんが・・・」
「だったら、私がお清を守ってあげるから、心配しないで」
「姫様・・・」
今まで何度、その言葉を聞いて来たことか
その度に、二人の立場を再認識させられた
自分は家臣で
帰蝶は姫様で
こうして、同じ場所に居るだけでも奇跡としか呼べない間柄で・・・
「兎に角、清四郎を出せ!出さねば伊豆守の首を落とすッ!」
「ひぃぃぃぃぃ!」
正に、そんな悲鳴を上げそうな顔をする清四郎を見て、帰蝶は咄嗟に隠れていた部屋から飛び出し、父の前に仁王立ちした
「父様!」
「おぉ、帰蝶か。何処に行っていた、心配したぞ?」
「父様は母様の話を聞いてなかったの?」
自分に目尻を下げる道三に、帰蝶は腰に手を当て『ぷんすか』と怒る
「聞いておったぞ、聞いておったとも。清四郎にかどわかされて
「
最早これまでと、諦めた顔をする清四郎に、帰蝶の侍女・能が苦笑いした
「父様。私はお清ごときにかどわかされるほど、弱くはありません」
「
清四郎は想わず、側に居た能に弱音を吐いた
「いえ、もうしばらく後ほど・・・」
困るのは能である
「直ぐに帰れなかったのは、稲葉山周辺に織田の兵がうろうろしていたからです。それを指摘したのもお清ですし、お清が一緒でなければ私は、今頃織田の手に落ちてました。お清は私の恩人なのですよ?その恩人を処すと言うのですか?父上は何処まで非常識なんですか」
「しかしなぁ、帰蝶。お前が無事だとわかるまで、わしがどれだけ心配したか」
「それでぞろぞろと織田の兵を連れて、城に戻って来いとおっしゃるのですか?」
「帰蝶・・・」
さすがの道三も、愛娘の前には弱い
道三が『蝮』の異名を持つのなら、帰蝶はそれを食す『鷹』だろうか
『鷹の目』をして睨む娘に、道三もこれ以上手を振り上げられなくなってしまう
「殿。私からもお願いします。清四郎殿の言い分を飲んでください。彼は本当に、姫様を助けただけです。駆け落ちだとかそんな、身分を弁えないような真似をする人間ではありません」
「十兵衛・・・」
帰蝶の加勢して、光秀も出て来る
道三のお気に入りでもある光秀の言葉ならある程度は聞いてくれるだろうが、清四郎にとって、今の光秀の言葉は胸に痛い
確かに、自分と帰蝶の間に立つ『身分の壁』は、大きく高いだろう
せめて帰蝶が『正室の産んだ唯一の娘』ではなく、その他大勢の『側室が産んだ娘の一人』だったら、どれだけ気が軽くなるか・・・・・・・・
なんとなく心がモヤモヤしたまま、清四郎は解放された
「あぁ、一時はどうなるかと想ったけど、誤解が解けて良かった」
局処の中庭に出て両手を伸ばして深呼吸する帰蝶の背中に、清四郎は声を掛けた
「姫様・・・」
「ん?」
振り返る帰蝶の表情が眩しい
「あ・・・、ありがとうございました・・・」
「何が?」
「いえ・・・。お陰様で、父も咎めを受けずに済みまして・・・」
「なんだ、そんなこと」
帰蝶は体ごと清四郎に向けて応える
「言ったでしょ?お清のことは、私が守るって」
「姫様・・・・・」
どうしてあなたは、斎藤道三の娘に生まれたのですか
どうして同じ名を持つのに、私とあなたの距離はこんなにも遠いのですか
「さぁ、今日は何処に散歩行こうかな」
「殿に叱られたばかりですよ?」
「済んだことでしょ?そんなの」
どうしてあなたは、この世に存在するのですか
「いこ、お清」
歩き出す帰蝶の背中に、清四郎は想いをぶつけた
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
家庭用ゲーム専用ブログです
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『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
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夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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