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「嫌な予感は、してたんだぁ」
遠い眼差しをする秀隆の後ろを、呆然とする弥三郎、成政、利治の姿がある
全員、女の恰好をさせられていた
戦に出る際は、頭を『月代(さかやき)』に剃り、兜を被る
それは戦で気分が高揚し、頭が逆上せてしまうことを予防する意味があるのだが、普段から頭を月代にしておくには相当の金が必要だった
秀貞が支給した剃刀はこの頃では高級品で、毎日使うとなれば消耗も激しい
故に、戦がない時は伸ばしっ放しで、戦が始まった時にのみ使う者が多かった
秀隆や成政は兜を締め出陣するが、弥三郎は鼻から兜を被らず出陣する
乱戦になると、どうしても邪魔になり脱いでしまうのだ
そうなると、脱ぎ捨てた兜は運が悪ければ相手方や周辺の村人に拾われ戻って来ず、弥三郎にとってはかなりの損失になった
利治はまだ末席であるため、兜を持てるような身分ではないし、所有しても直ぐに壊れてしまうような安物しか買えない
と、しても、やはり最後には利治も乱戦に身を置くため、弥三郎同様兜そのものが邪魔になって来る
そう言うわけで、髪の長い弥三郎と利治の女装そのものには、大した苦労は要らない
精々日焼けした肌を白粉で隠す程度で済んだ
一方の秀隆と成政は、若干髪は伸びているものの、女のようにとはいかないので染物の手拭いを頭巾にして、台所の女のような様相に誤魔化すしかなかった
「本当に、この姿で行くんですか?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、来い」
秀貞に腕を引っ張られ、歩き出す
道すがら、どうしても同僚に見付かってしまい、なんとなく顔を背けて逃げるように歩く
最も、成政が堂々としているので
「あれ?河尻様?」
と、うっかり見付かってしまいそうになり、一人小走りで逃げ去る秀隆だった
「こそこそすることでもないと想うんだがなぁ」
「佐々殿が堂々とし過ぎなんだと想います」
とばっちりを食らうとも限らない利治は、頭から汗を浮かばせて応える
「似合ってますよ、新五様」
「弥三郎さんほどじゃないですけど」
同時に、二人で最後尾の弥三郎に振り返る
二人の視線を受ける弥三郎は、半泣きで
「俺を見るな!」
と叫んだ
元々美男子である弥三郎の女姿は、恐ろしいほど『女』に見える
違和感がないほど
戦場で勇猛に槍を揮っている猛将とは想えないくらいだ
「こんな姿、女房に見せられるかよ・・・」
嘆きはしても、それが『言霊』となり現実のものになる
「遅いぞ」
先に本丸の玄関に到着していた帰蝶から叱りを受け、弥三郎は地獄を見た
「 だ・・・、旦那様・・・」
「きっ・・・、菊子・・・ッ」
帰蝶の直属の侍女である菊子が、側に居ないはずがない
夫の変わり果てた姿に菊子は呆然とし、見られた弥三郎は心底死にたい気分になった
「全員揃ったか」
と、帰蝶は声を掛ける
だが、秀隆の姿を見て
「 っぷ」
吹き出すと、後は背を向け肩を丸めて「くっくっくっ」と笑いを押し殺す
それならいっそのこと大笑いしてもらう方が気が楽だ
「笑いたかったら遠慮なさらず、どうぞ」
「あーっはっはっはっはっはっ!」
「だから嫌な予感がしたんだ!それもこれも林さんがこんなことさせるからぁッ!」
「命令したのは殿だ」
「殿ぉぉー!」
「いやいや、いやいや・・・。良く似合ってるぞ、シゲ。期待以上だ。・・・・・っぷ」
「恨みますぅぅぅー・・・」
それまで帰蝶は、秀隆のことを『河尻』と呼んでいた
だが、勝家らに触発されたか、いつの間にか帰蝶も『シゲ』と呼ぶようになっていた
一時期は、秀隆に逆恨みの感情さえ持っていた
それももう、昔の話
常に自分の側に居て、まるで信長の代わりを務めるかのように守ってくれている
秀隆のそんな姿を見て、帰蝶も寄せる信頼は大きくなっていた
「では、参ろうか」
帰蝶のその一言で、さっきまでの緩んだ空気が一気に引き締まり、不本意な姿をさせられた秀隆らも悠然と背を伸ばした
帰蝶の言葉には、言霊が眠っている
甚目寺までの道中、秀貞はやはりそのことを考えていた
どんな時でも、帰蝶の言葉が空気を変える
戦に於いても劣勢に追い詰められようと、帰蝶の発した一言で逆転できる
それは不思議な感覚だった
ここのところ、目蓋を開けるのも煩わしくなった
もう何ヶ月も天井ばかりを眺めているような気がする
その天井を見ても、目を閉じても、楽しい想い出は余り浮かばない
自分の幼い頃を想い出そうにも、まるで靄が掛かったようにはっきりしない
ただ
妹が生まれた朝のことだけは、鮮明に想い出せた
「 来迎に負けぬ輝きを放つ、明けの明星・・・」
あの、星の輝きでさえ目に浮かぶ
それが義龍を苦しめた
自分は妹に特別な感情を抱き、故に特別視しているのだろうか
そんな気がした
特別な想いと言っても、愛や恋の類ではないことは確かだ
母親は違えど、妹は妹
幼い頃から見て来た、他の妹達と変わるところがあるわけでもない
だが、帰蝶が生まれた朝の、あの明星の輝きに、義龍は神秘的な何かを感じた
その想いが、他の妹達に向けるものと違わせているのだろうか
帰蝶は特別だと
そう、想い込んでいるだけなのか
義龍には何もかも、わからなくなっていた
普段、信長の遺した小袖を着ている帰蝶は、胸元はきっちりと締め、しかし上から羽織る分にはふんわりと身に着けている
そのため、市弥の言う『豊満な胸』は目立たず隠れるのだが、折り目正しい着こなしをするとなれば、一本の皺も寄せ付けないようびしっと伸ばさなくてはならない
そうなると、やはり胸元が強調され、晒しで巻いても勘の良い者には気付かれてしまう
信秀の肩衣を羽織った帰蝶の背中を見詰めながら、秀貞はいつからこの奥方はこんなにも頼もしいほど背筋を伸ばすようになったのかと、浮かべた
数年前、信長について言い争ったことが、懐かしくさえ感じる
「理解しようとしないのは、あなたじゃない。吉法師様の所為にしないで!」
あなたは、殿を理解されたのですか
だから、殿の代わりに立っておられるのですね
私は殿を理解できなかった
それが、とても悔しい
傅役であった私よりも、あなたが殿を理解していた、その現実が悔しい
ならば今度は、私があなたを理解する番でしょうか
あなたを理解できた時、私は、理解できなかった殿の夢を理解できるでしょうか
「松平様は」
寺に到着し、秀貞は先にそれを確認した
「つい先程、ご到着なされたばかりです」
受け答えに若い僧侶が返事する
年齢から見て、まだ見習いか何かだろう
「ご案内申し上げます」
その僧侶はちらりと帰蝶を眺め、優雅な微笑みに口唇の端を歪ませた
生憎帰蝶には、その腹芸は通じなかったが
案内され、座敷に入る
待っていたのはふっくらとした青年と、険しい表情の三人の男達
それ以外の人間の姿はなかった
律儀に人数を限定してくれたのか
帰蝶に続いて入った、女装姿の秀隆らは肝を潰しながら後に続く
元康の家臣達は最初に入った『信長』、その後の侍女達に軽く溜息を零す
「待たせてすまぬ」
帰蝶は敢えていつもの口調で声を掛けた
「いえ、私達もたった今、到着したばかりです」
応えた青年は少し弛んだ頬を釣り上がらせ、笑顔で応えた
これが、今川義元の薫陶を受け、育った青年
松平竹千代元康
三河の次世代を背負う者
帰蝶は元康の正面で止まり、その座布団の上に膝を落とした
「松平次郎三郎元康でございます」
次郎三郎
二人分の名を一人で背負っている
それはつまり、帰命と同じく『後がない』と言う意味であった
後がない松平の跡継ぎを、今川によって戦の最前線に追い遣られたこの、松平家の家臣らは、どんな想いで戦場に立ったのか
「織田上総介信長である」
もう、口に馴れた夫の名を告げる
「三河の雪は、大層であったか」
「ですが、お陰で水の溜りが良く、今年は豊作になりそうです」
「それは良かった。尾張は前年、疫病が発生してな」
「疫病ですか?」
「直ぐに沈静はできたが、しかし米が不作に終わった」
「それは致し方ございません」
どうしてだろう
自分と余り年の変わらない元康が、まるで帰命のように想えて来た
話す言葉も流暢に流れる
「民に被害が出なかっただけ、良かったとしなくては」
「 そうだな」
優しそうな、その眼差し
嘘や方便でそう言ったとは想えない
一方の元康も、噂に聞いた信長の想像と現実の違いに、内心目をパチクリとさせた
若い頃は『尾張一のうつけ者』と評判だったが、今の姿では随分と落ち着いている
やはり人は、年を取ると収まるところに収まるのだなと感じた
それ以上に『信長』の容貌にも驚かされる
やや優男だとは伝え聞いてはいるものの、実際目の前にすると優男と言うよりも、『女』そのものに見えるからだ
しかし、相手は今川義元を倒した人物
迂闊なことは言えなかった
「それにしても 」
元康は、帰蝶の側に居る秀貞をちらりと目をやり、直ぐに戻してこう言った
「お久し振りでございますね、吉法師様」
「 ッ」
一瞬、帰蝶の目蓋が見開く
夫と元康に面識があったなど、聞いていない
どう応えるべきか
帰蝶の米神から、小さな汗が流れた
「林さん・・・ッ」
側に居た秀隆が、小さな声で秀貞を呼んだ
「 あんた・・・、松平に何を吹き込んだ・・・ッ」
秀隆の目は、怒りに燃えている
「まぁ、待て。私は殿の出方が見たいだけだ」
「出方?そんなもの・・・ッ」
小さな声で、秀貞に怒りの想いをぶつけた
「殿を失脚させるつもりか、あんた・・・ッ」
「 」
それでも秀貞は、事態を見守った
帰蝶はどう切り抜けるのか
それが見たかった
「 久方振り・・・」
小さく呟く
そのまま、元康の話に合わせれば良いのか
それとも、正直に話すか
あるいは、忘れた振りをすれば良いのか
こんなことになるのなら、なつか市弥に元康の人物像を聞いておけば良かったと後悔する
「ずっと、お逢いしたかったんです。夢が叶いました」
笑顔でそう言う元康とは対照的に、帰蝶は追い詰められた獲物のような心境になった
元康が織田の人質だったことは知っている
自分が信長に嫁いだ頃のことだ
嫁いだ後のことは知っていても、嫁ぐ前のことは知らない
夫の義兄が今川の捕虜になり、その交換で元康は今川に奪われた
自分が嫁ぐ前、夫はこの元康と顔を合わせたことがあったのだろうか
ないのだろうか
「末森での暮らしは、とても楽しかった。自分が人質だと言うことも忘れ、毎日勘十郎様と遊び回っておりました。あのようなことが起き、とても残念に想っております」
「 」
あのようなこと
勘十郎信勝を殺したことを言っているのか
悲しそうな目をする元康は、自分を責めているわけではない
武家の相続問題には着いて回る騒動であり、この頃ではどこも似たようなことが起きている
自分の実家、斎藤
越後の上杉、甲斐の武田、元康が居た今川も、そうだった
ふと、浮かぶ
信勝の顔
末森の城
「 知らぬ」
帰蝶の口から、自然とその言葉が流れた
「私はそなたを知らぬ」
「 ッ」
元康は目を丸くし、秀貞は驚愕に満ちた顔をし、秀隆は嬉しそうに口唇を釣り上げた
「すまん。私は幼少の頃から親とは折り合いが悪く、末森には滅多なことでは入らなかった。だから、そなたを見た覚えがない。もしも私の記憶違いであったならば、そなたには大変申し訳ないことをした」
「 いえ・・・」
少しおどおどとしながら秀貞に目をやる
秀貞は軽く、元康に頷いた
「わ、私が記憶違いをしておりました。吉法師様のお話は良く伺っていたものですから、いつの間にか面識があると勘違いしておりまして・・・」
秀貞と元康の目の遣り取りを、帰蝶は見逃さなかった
秀貞の差し金か、と
「それよりも、寺の心尽くしを頂こう。運び込むのを今か今かと待っておろうに」
「そうですね」
帰蝶の一言で、座敷に料理が運ばれる
やはり武家好みに作られているのか、精進を好む寺にしては魚が出て来た
さすがに酒は並んでいないが
「もう少し、夏に近い頃が良かったでしょうか」
「どうしてだ?」
「そうしたら、三河自慢の鰻が出せましたのに」
「それは惜しいことをしたな」
「あはははは」
帰蝶の返事に、元康は少年のように笑った
帰蝶は笑えなかった
「上総介様は、鰻が好物ですか?」
「子供の頃は」
少し考えながら、話を進める
どこで襤褸が出るかわからないのだから、迂闊な返事はできない
「酒を嗜むようになってからは、好みも変わった」
「酒を飲まれるのですか?上総介様はその雰囲気から、酒より茶の方が好みかと想っておりました」
「人は見掛けに因らない。見た目に騙される性質か?次郎三郎殿は」
「竹千代、で結構です」
「殿・・・ッ!」
側に居た石川与七郎数正が慌てた表情で止める
そうだろう
近しい間柄でなければ、幼名などそうそう口にできるものではない
例えそれが妻だとしても
「構わない。今は味方になろうかと言う、話し合いの席に就いてるんだ。もっと打ち解けなくては」
「 」
元康の言葉に、帰蝶は軽く首を傾げる
一切の面識もなく、一度戦っただけのこと
それも、直接対決ではない
なのに何故、元康はここまで自分に懐柔しようとしているのか
真意は別にあるのか
この青年も、そうなのか
自分を試しているのか
秀貞のように
少し背後に控える秀貞の気配を目尻で追いながら、帰蝶は元康に言った
「互いに童名で呼び合うのは、兄弟にも等しい間柄と言うこと。織田はまだ、松平にとって海のものか山のものかわからぬ」
と、箸で焼き魚の白い身を抓み、持ち上げた
「馴れ合うのは、後からでもできる。今はただ、互いのことを理解し合う時期かと」
「 そう、ですね・・・」
それも最もだと、元康は苦笑いした
「織田はこれから、何をなさろうとしておいでですか」
軽く箸を掴みながら、元康は問う
「何をすると想う」
「それが知りたくて、ここまで参りました。手土産なしでは、三河に帰るに帰れません」
「ならば、その目で見届けろ」
「何を、でございますか?」
「織田の行く末、それに付き添うに値するか、どうか」
「暢気な話でございますね」
「人生は長い。今日一日で全てを決める必要もない」
内心、互いに汗を掻く
帰蝶は、「織田に着け」と簡単に言って、「その見返りは」と問われれば、返す手立てがなかった
元康は、「織田に着け」と強要されれば、折角今川からの独立を計ろうとしている計画が頓挫してしまう
どちらも、即日に返答できる段階には至っていなかった
元康の目は、自分を誘っている
挑発する気満々の目をしていた
帰蝶は黙って食事を続けた
会食の作法に沿って食べ進める中、元康が声を掛ける
「あの、上総介様」
「 」
帰蝶は黙って上目遣いで睨んだ
「殿。食事中に、はしたのうございますぞ」
そう元康を注意したのは、三人の中で一番若く見える酒井左衛門尉忠次
「すまん、小平次」
元康はやはり、少年のような顔をして笑った
「礼儀が行き届かず、申し訳ございません。幼少の砌より、私は人質生活に身を置き、一人ぼっちが怖くて、いつもこの小平次や与七郎にくっついて歩いておりました。ですから、食事も彼らの部屋に上がりこんで。それでお屋形様・・・、今川治部大輔様ですが、よく叱られました」
帰蝶は箸を置き、訊ねた
「そなたは、今川治部大輔殿をどう想っている」
「どう・・・って?」
「好きか、嫌いか」
「あの・・・」
「織田様、今は食事の時。そのような雑談は、後ほど場所を設けてお話下さいませ」
と、忠次が遮った
「しかし、そなたの主は一向に箸が進まん様子。頭の上でごちゃごちゃと話し掛けられては、こちらの気が散る」
「しっ、失敬な・・・ッ!」
「小平次・・・!」
「次郎三郎殿」
「は、はい」
帰蝶は片膝を立ててきっぱり言った
「腹の探り合いは止めよう。話したいことがあれば、単刀直入に申せ」
「 」
「織田様、その無礼な姿勢をお止め下さいませ」
と、忠次が諌めに入る
「恐れ多くもこの方は、三河国主・松平様の」
「喧しい」
「 ッ」
帰蝶の一喝に、秀隆らは笑いたいのを必死に堪え、秀貞は静かに、しかし松平の家臣らは顔を赤くする
「松平を愚弄なさるかッ?!」
「相手が誰であろうと、この織田上総介信長は態度を変えん。上総介を平伏したいのであれば、拳で語れッ!」
帰蝶は怒鳴りながら膳を引っ繰り返した
その行動に驚いた石川、酒井、小笠原は想わず腰の刀に手を掛ける
それと同時に、秀隆は石川数正を、成政は酒井忠次を、弥三郎は小笠原氏清を抑えるように側に走った
「松平殿!」
「はっ、はいっ・・・!」
懐から扇子を取り出し、それを元康に差す
「遠回しの誘い文句は嫌いだ。この上総介と共に時代を駆け抜けるか、それとも頭を垂れるか、二つに一つ!そなたが選べ」
「 」
元康の顔から、見る見る血の気が引いて行った
「全く、相変わらずの無茶っぷりだ」
秀隆は呆れながら、寺の中庭で談笑する帰蝶を眺めた
「私は殿のその行動を期待していたのだがな」
変わって秀貞は、楽しそうな顔をして笑っている
「冗談じゃないですよ、林さん。あんたも人が悪い。松平の若殿と先代は、一度も顔を合わせたことがないってのに「久し振り」なんて、林さんの指図でしょ」
「殿がどう乗り切るのか、見てみたかった」
「それこそ冗談じゃないっすよ?もし殿が『信長』じゃないってばれたら、俺達全員、首刎ねられても文句言えなかったんですよ?」
「だけど、私達の首は繋がっている」
「それは」
「そう言うことだ」
「 」
秀貞の言いたいことは、わかるようでわからない
今、自分達がこの同盟成立の瞬間に生きて立ち会っていることが全てだと、そう言いたいのはわかる
だか、それでもわからない
何故秀貞は、知恵を与えながら帰蝶を追い詰めようとするのか
それが理解できなかった
「先程のお返事の前に、良いでしょうか」
「何だ?」
実のところ、帰蝶はさっきから胸が苦しくて仕方がなかった
なつによって胸元をぐるぐる巻きにされ、息苦しさから若干の目眩、果ては吐き気まで軽く催している
できるのことならさっさと済ませて帰りたい
その気持ちの表れが『膳を引っ繰り返す』と言う暴挙だったのだが、残念なことに相手には通じなかった
「今川治部大輔様のことが好きか、嫌いかのご質問ですが」
「質問と言うほどのものではないがな」
帰蝶は苦笑いして応えた
「私自身、どう言った気持ちで接していたのか、よくわからないのです」
「よくわからない?」
「はい」
帰蝶と同じ方向に躰を向け、一呼吸置いてから元康は言った
「直接接した治部大輔様は、大変厳しいお方でした。些細な失敗も見逃さない。私が逃げ出さないよう、小平次ら家臣を盾に取り、その逆に家臣らが謀叛を起こさないよう、私を盾に取った。ですから家臣らは治部大輔様のことが大嫌いでした。ですが、私は」
ゆっくりと帰蝶に振り返る
「治部大輔様のこと、決して嫌いではありません。だけど、手放しに好きと言うわけでもありません」
「そうか」
「薄情なのかも知れません。これまで育てていただいた恩を忘れ、教育を施してくださったお心に背いてしまった。私の中で、後ろめたさと当然の結果だと開き直る想いが入り混じり、私自身、結論が出せません」
「無理をして出すことはない」
「 え・・・?」
キョトンと、元康は帰蝶を見詰めた
「好きか、嫌いか、その想いがはっきりしないこともある」
息子を殺した女である自分に、市弥は力を貸してくれている
弟を殺した自分に、秀貞は戦うための矢になってくれている
夫を殺した利三を、憎み切れない自分がそこに居た
「ただ、大事かそうでないか、それだけだ」
「それだけ・・・」
「お前がその想いに疑問を感じるのなら、己の想うが侭生きてみれば良い。それが間違っていたならば、天がお前を裁く。天がお前を許したなら、お前には生きる資格がある」
「 」
元康の目が、大きく開かれた
「お前は、自由だ」
「かず・・・さ・・・」
どんぐりのような、大きな目から涙が零れた
「大の男がなんだ、みっともない」
「すっ、すみません・・・っ」
元康は慌てて自分の目を拭う
拭いながら、心の楔を打ち払った
「治部大輔様がお亡くなりになられた時、みんなはこれでやっと自由になれたと喜びました。私も、そうでした。だけど同時に、治部大輔様と過ごした日々が蘇り、喜ぶべきことなのかと自問しました。答えは見付かりません。見付けるのが、怖かった・・・ッ」
「 」
喜べば『恩知らず』と誹られる
悲しめば『今川の狗』と揶揄される
どちらも選べないのは、当たり前だろう
家臣の手前もあるのだから
初対面の自分に、ここまで心を晒したのだ
元康は信用するに値するのだろうと一安心する
一安心を感じた後、どうしようもない胸の支え、つまり、軽い『吐き気』が訪れた
「はぁ・・・。殿と松平の若様、上手く話し合い進んでるかなぁ」
ぞろぞろと連れ歩くわけにも行かないと、弥三郎、成政、利治の三人は寺の裏庭で待機していた
「姉上が女だってこと、知られてないと良いんだけど・・・」
「上手く誤魔化してるだろ。殿はそう言うとこ、抜け目はないからな」
「まぁ、ばれても逃げますけどね、私は」
しらっと応える成政に、弥三郎も利治も頭から汗を浮かばせる
そんな三人の許に、元康の家臣・忠次がやって来た
「おや、御三方。こんなところで暇潰しですか?」
「あ、酒井様」
「お暇なら、表の縁側でお茶でも頂けば宜しいのに。私共も頂いていたところです」
「お気遣い、ありがとうございます」
この中では取り敢えず、変声期を迎えてもまだ日の浅い利治が、女声でがんばって応える
「ところで、そなた達、名は何と仰るので?」
「 」
三人は顔を見合わせる
まさか名前を聞かれるとは想いもしなかった
「あ、 お市と申します」
と、成政が最初に応える
幼名が『市丸』なのだから、誤魔化すには苦しくない名前だ
「お市殿ですか。お美しいですね」
「ありがとうございます」
引き攣る笑顔で会釈する
他人事ではないと、利治は笑うことができなかった
「そなたは?」
「はい、えと・・・、お新です」
「お新殿か。まだまだお若い。もっともっと勉強なさりませ」
「心掛けます」
「そなたは」
「ええと・・・、お弥々(やや)でぇす・・・」
弥三郎は飛び切り高い声で応えた
その途端、成政と利治の肩が揃って右に傾く
「お弥々殿か」
弥三郎の咄嗟に応えた名に、忠次は特別な想いを込めて聞き返した
「いや、実に愛らしい名前だ」
「あ・・・、ありがとうございますぅ」
雲行きが怪しくなるが、弥三郎の表情がなんとも言えず面白い
「お弥々殿」
「は、はい」
「不躾なことを伺いますが、そなた、独身でございますか?」
「 は?」
俄に変貌する忠次に、弥三郎はキョトンとした
「いや、そなたのような美しいおなごに、虫 、いやいや、ご亭主がいらっしゃらないとは想いませんが、一応念のため」
「 なんのための念だよ・・・」
忠次には聞こえぬよう小さな声で呟くが、側に居る利治や成政には丸聞こえなわけで、二人は苦笑いに顔を歪めた
「お弥々殿!」
「はっ、はいっ!」
突然叫ぶ忠次に、条件反射で弥三郎の背もピンと伸びる
「某、お弥々殿に一目惚れ申した!」
「はいっ?!」
「某、既に妻は娶っておるが、もしそなたが独身であるならば、某の側室になっていただけませぬか!」
「はぁぁ?!」
「 っぷ」
成政と利治は、顔は無表情になり、しかし口からは吹き出した笑い声が一瞬、零れた
「お弥々殿!」
「じょっ、冗談じゃねぇ・・・!」
迫る忠次から逃げようと、弥三郎は駆け出した
駆け出した『お弥々』を追い駆けようと、忠次も走り出す
残された二人は呆然とその光景を見送った
「如何なさいましたか?上総介様。お顔が青くなられて」
「いや・・・、大事無い。少し疲れたのかも知れん、気に留めるな」
そう言いながら元康に背中を向けて、胸元に手を突っ込み、晒しをずらす
「なつ、締め過ぎだぞ・・・。息苦しくて敵わん・・・」
苦しそうに顔を歪ませながら、何とか楽にはならんものかと、必死になって晒しを緩めようと引っ張ったり捩らせたりする
「大丈夫でございますか?何ならお座敷に戻られて、横になられては如何でしょう」
心配してくれるのは有り難いが、今はそっとしていて欲しいと想わずにはいられなかった
「なんてことはない。少しずらしたら楽になる」
「はい?」
それでも心配で、元康は帰蝶の正面に向おうと歩いた
その瞬間
「 ッ?!」
引っ張り過ぎた所為か、挟んで締めていた晒しの切り端が外れ、みるみる解けて行く
「や・・・、やばい・・・」
胸の間で緩やかな開放感に幸せを感じると共に、どんどん膨らんで行く小袖のその部分に、帰蝶の顔が青くなった
「上総介様?どうかなさいましたか?」
自分の正面に来る元康に、帰蝶は咄嗟に腕を組み、胸元を隠した
「なんでもない。戻るか」
「はい・・・」
裏声交じりの帰蝶に、元康は首を傾げながら後ろに着く
が、腰に締めた帯の上が、どんどんと膨らんで行くのを気にしない方がおかしい
「あの、上総介様・・・」
恐る恐る声を掛けるも、振り返り、凄まじい目で睨む帰蝶に怯え
「なんでもありません・・・」
震えながらそう応えるので精一杯だった
腕を組んで歩いているものだから、どうも脚の動きがちぐはぐになって仕方ない
歩きにくいが、かと言って大手を振って歩くわけにもいかず無理をしていると、草履が砂利に引っ掛かって躓いた
「危ない!」
咄嗟に腕を出した元康の手の中に、帰蝶の片乳がむっちりと掴むように収まってしまった
「 」
掴まれた帰蝶は驚き、掴んだ元康も目を丸くさせる
もう終わりだ・・・
そう、目を閉じた帰蝶から、元康は何も言わず離れた
「申し訳ございません、ご無礼を・・・」
「いや・・・。助かった・・・」
心臓がバクバクと音を立てているのを、帰蝶は必死で平然を装い応える
直接触れはしなかったが、元康が片手を背中に沿うように並んで歩いてくれたお陰か、帰蝶はそれから躓くこともなく待っている秀貞らの許へ戻ることができた
「殿」
見付けはしたものの、腕組みして難しい顔をしている帰蝶に、浮かんだ笑顔が引き攣る
「如何なさいましたか」
「なんでもない。帰るぞ」
「お話し合いは?」
「今は必要ない」
「 」
背後へと離れていた元康が、その言葉に少し表情を曇らせた
「次郎三郎殿」
「 は、はい」
「織田との同盟、今の返事は無理だろう?」
「え・・・?」
目を見開いて帰蝶を見る
「そなたは何より家臣を重んじていると見た。自分の独断で物事を決めはしないと」
「上総介様・・・」
「家臣に嫌われるのを恐れている」
「 」
その通りだと、元康は俯く
「そうやって、慕われるのも良いだろう。だがな、人の顔色ばかりを伺っていても、そなた自身が疲れるだけだ。少しは楽になってはどうだ」
「は・・・い」
「返事は、いつでも良い。だが、できれば私は、そなたと轡を並べたいと願っている」
「 上総介様・・・」
自分の胸を掴んでも、それを問わず黙ってくれているのだから、この青年となら、きっと
きっと、信長の遺した夢を語らい合える
帰蝶はそんな気がした
「林」
「はい」
「私は清洲に戻る。次郎三郎殿を三河の国境まで、送り届けて差し上げろ。ひょんなことで犬山が出て来ては、次郎三郎殿も困るだろう?」
「はい、承知しました」
「お心遣い、ありがとうございます、上総介様」
元康は深く頭を下げた
「次郎三郎殿」
「はい」
「今川は、松平の敵であったかも知れない。織田にとっても、敵であった。だが、そなたの治部大輔殿に対する想い、それも確かに真実だろう。決して恥じる感情ではない。寧ろ、胸を張っても良いと想う」
「 」
どうしたのだろう
『信長』の発する言葉は、胸に溜め込んだ重い感情を少しずつ、少しずつ、取り払ってくれる
そんな気になれた
一言、一言、聞く度に、心が軽くなった
「また会える機会を、楽しみにしている」
「 わたくしもで、ございます」
元康は再び帰蝶に平伏した
「では、松平様。吉良付近までお送りします」
「忝い」
「殿?いつまで腕、組んでるんですか?」
後ろから着いて来る秀隆に聞かれる
「煩い」
「腹、凄い膨れてますけど、なんか食いました?」
「黙れ」
「松平とも上手く行きそうだってのに、何でそんな不機嫌なんですか?」
「喧しいっ」
感情任せに想わず振り返り、帰蝶を正面から見た秀隆は目玉が飛び出るほど驚いた
「 と・・・、殿・・・、その胸元・・・」
襟元が胸の圧迫で今にもはちきれそうになっていた
「うっ、煩いっ」
顔を真っ赤にして胸を隠し、前を向き直す
ふんわりと羽織っているのならこれほど自己主張もしないだろうが、今はびしっと裾を引っ張った状態であるため、その目立ち方も半端ではない
「まさかとは想いますが、松平を色仕掛けで・・・?」
「それ以上口にしたらここでこの場で斬り殺すぞ」
「ああ、良かった、いつもの殿だ」
色仕掛けではなく、何か不具合でも起きてこうなったのだろうと感じ、ほっとする
「どう言う安心の仕方だ」
「ところで、弥三郎達はどうしたのかな」
と、秀隆は周囲を見回す
その直後
「お弥々殿~ッ!」
「しつっけーっつーんだよッ!」
追い駆けられて必死になって逃げている弥三郎と、女装している弥三郎を追い駆ける忠次が目の前を通り過ぎた
「お弥々殿って、誰でしょうね」
「知るか」
途中で腹に溜った晒しを外し、すっきりした気分で帰路に着く
松平と上手く行くかどうかは別として、晒しを外すことで胸のつっかえが降りたような気になる
今の帰蝶には、これが何より嬉しかった
ただ
「 殿。随分胸が膨らんでいらっしゃるようですが?」
なつの怖い目からは逃げられなかったが
「期待に膨らんだのだろう」
「そうですか、と言うことは松平との同盟が上手く行ったのですね」
「それはどうかな」
「殿」
「 さて、仕事仕事・・・」
「殿!まさかとは想いますが、その無様な姿を晒して町を歩いたなんてことは、ありませんよね?!」
胸が膨らんだままでは、織田は女が男装するおかしな家系と要らぬ中傷を受けてしまう
信秀の遺品である肩衣の背中には、しっかり織田の家紋が縫われているのだから
「大丈夫だ!松風で素っ飛ばして来たから!」
逃げながら叫ぶ帰蝶
「お待ちなさい!」
その帰蝶を追うなつ
二人の光景に、許の姿に戻って城に帰って来た秀隆は、唖然として見送った
「殿、織田はどうでした?」
帰り道、輿に乗る元康に数正が聞いた
「うん、中々面白い御仁だ。上総介様と言うお方は。私は、織田なら手を組んでも良いかと想う。それに、今川から独立できれば 」
妻も、迎えに行ける
そう言いたげな顔をする元康に、数正は厳しい顔付きで応えた
「今はまだ、その時期ではございません。今川には」
義元に匹敵する人間が、居る
「 」
わかってると、元康は悲しそうに目蓋を閉じて俯いた
いつになれば妻と子と、安寧した生活が送れるのだろうか
『信長』との巡り逢いに胸が躍る反面、悲しい現実に胸を痛めた
妻が今川の人間でなければ、今頃
そう想わずには居られない
それから、ふと想い出す
この掌に残る、あの感触を
元康は自分の手をじっと見詰め、あの方は何者だろうと考えた
そして、これは他言してはならないとも感じた
「お前は、自由だ」
そう言ってくれた人を、自分で追い詰めてしまうようなことは、したくない
喜び半分、悲しみ半分、元康は複雑な心境で秀貞に見送られ、尾張を後にした
四月が来て、冬の寒さも和らぎ、佐治からは良い知らせばかりが届くようになった
「市橋家が、織田に寄与してくださると!」
「そうか!」
遂に市橋家が佐治に折れた
勿論、他の国人、豪族は未だ佐治の話に半信半疑の状態が多いが、たった一つでも自分を受け入れてくれる家があると言うのは、今までの苦労、これからの労いにも繋がる
「市橋家は斎藤と長井に挟まれた場所にありますので、今直ぐの表立った協力は無理ですが、志を同じくする他の家にも声を掛けてくださるそうです」
「始まりは何でも良い。些細なきっかけでも、それはやがて大きな輪に繋がって行く。存分に動け」
「ありがとうございます。引き続き、市橋家を先頭に他の方々にも話を聞いてもらえるよう、呼び掛け続けます」
「頼んだぞ、佐治」
「はっ!」
意気揚々と城の外に出て、大垣城方面へと向う
夫婦の契りを交わしてから、市も以前のように無理をすることもなく、淋しい時は淋しいと素直に言ってくれるようになっていた
なんだか心のつっかえが降りたような気になり、佐治も一層仕事に身が入る
その佐治に声を掛ける者が居た
「佐治さん」
「 藤吉さん?」
「すまないね、これから仕事場に向うってのに呼び止めて」
「いえ。それより、お久し振りですね」
歩きもっての会話なので、会釈は交わさない
「ああ、本当に。佐治さんが引っ越してからだから、殆ど一年振りかな」
「そんなになりますか」
「っても、お隣さん同士だった時も、佐治さんは年がら年中忙しそうで、誼を通わせる暇もなかったけど」
「そうでしたか、すみません。未熟なもので、周りの人に気遣うこともできず」
一度立ち止まり、丁寧に頭を下げる佐治に藤吉は慌てて首と手を同時に振った
「いやいやいや、謝らんでください。そんなことを責めるために、呼び止めたんじゃない。ただ俺は・・・」
俯き、ゆっくりとした口調で話す
「そうやって、仕事に精出し輝いてる佐治さんが、眩しいくらいに羨ましくてね」
「え?私が・・・ですか?」
藤吉の言葉に、佐治は驚いて目を丸くさせた
ゆっくりと、歩き出す
佐治は慌てて藤吉に着いて歩いた
「それに引き換え、俺は何してるんだろうって・・・。毎日毎日、仕えてる蜂須賀様の城に行って、馬の世話をしたり、蜂須賀様の畑の仕事したり、たまに戦に出ても殆ど裸同然の鎧に身を包んで、相手の雑兵倒したって一文の得にもならねぇ仕事ばっかで、俺はこんなことがしたくて蜂須賀様に仕えてるんじゃないって自分を奮い立たせようにも、明日が見えねぇ」
「藤吉さん」
「何か仕事がしたいと想っても、碌なもんがねえ。俺はそれだけの人間なのかって想ったら、情っけなくてさ」
「そんなこと・・・」
「何かをして、名を残したい。夢だけでっかくてさ、自分自身は全然、夢に追っ付けてないんだよな。情けないだろ、同じ男として」
苦笑いする藤吉に、佐治は声もなく首を振った
何かをしたい
何かを成し遂げたい、名を挙げたい、自分が生きた証として
それは男なら誰もが夢見る、当たり前の願望だった
笑うことなど佐治にはできない
「藤吉さん・・・」
力なく項垂れる藤吉が気の毒に感じて仕方なく、佐治は色々と思案した
藤吉を池田隊に引き抜くか、いや、自分は美濃攻略の足懸かりとして肩書きを借りているようなものだ
人事に関して口を挟める立場ではない
そう、自分を弁える
「 そうか・・・」
それから、ぽつりと独り言を呟いた
「『池田隊』だから、面倒なんだ」
そして立ち止まり、藤吉に話を持ち出す
「藤吉さん」
「はい」
呼ばれて、藤吉は立ち止まり、佐治に振り返った
「これからお仕事には?」
「あはは、行っても馬に飼葉をやるだけですよ。別にこれと言って大事な仕事が待ってるわけじゃない」
そう、淋しそうに呟く藤吉の肩を掴む
「だったら、今から私と一緒に、美濃国大垣に行きませんか?」
「え?」
「今、美濃の国人達を織田に寝返らせる調略中なんです」
「それで・・・」
「私と一緒に、美濃の国人を説得してください」
「ええ?!」
佐治の誘いに、藤吉は目を丸くして驚いた
「藤吉さんはお話も上手だし、聞き上手のようにも感じます。今日が無理なら、心が決まってからでも構いません。一緒に、大垣城周辺の美濃国人衆を説得してくれませんか」
「お・・・、俺なんかで・・・?」
「そうやって腐ってちゃ、勿体無いですよ」
「 」
佐治の笑顔に、藤吉は目を潤ませた
「佐治さん・・・、ありがとう・・・、ありがとうっ!」
ボロボロ涙を零しながら佐治の手を握り、振り回す
「心の準備なんか必要ねぇっ。今からでも着いて行きますよ!」
「馬の世話は、良いんですか?」
「別に俺じゃなくたって、誰でも構わねえ仕事だ。別にそれを馬鹿にするわけじゃねーけど、仕事には優先順位ってのがあるからね。蜂須賀の馬のエサより、織田の味方増やす方が先決だ」
佐治は藤吉の熱中っぷりに苦笑いした
「それじゃ、藤吉さんは蜂須賀の家臣として話を進めてください」
「蜂須賀の?それじゃぁ、もし俺が手柄取っちまったら、蜂須賀の手柄になっちまいますよ?」
「それで構わないんです」
「どう言うことですか」
「藤吉さん、『出る杭は打たれる』って諺、ご存知ですか?」
「馬鹿いっちゃあいけねーよ?おりゃぁ学問には疎いけどな、そう言う事に関しては目鼻が利くんだ」
「そう言うわけです」
「へ?」
「池田隊ばかりが手柄を取るわけには、いかないんです」
「佐治さん」
『そう言うことか』と、藤吉は頷いた
美濃攻略に池田隊が活躍すれば、それは『織田家の家臣の手柄』になる
余り上手く行っていない、織田家の譜代と新参の『旧斯波家臣』が仲良くやるには、『旧斯波家臣』の手柄も必要なのだ
佐治は織田家の譜代代表として、藤吉は『旧斯波家臣』の代表として美濃攻略に貢献すれば、手柄は半分ずつできる
「佐治さんは、なんでそんなに無欲なんですか?」
藤吉は無心な顔をして聞いた
「別に無欲ってわけじゃないですよ。ただ、成功する確率を上げたいだけです」
「それでも良いや。佐治さんと一緒に仕事ができるんだ。こんな嬉しいことはねえ。これで女にも良い顔ができる」
藤吉は、にへらと笑った
「あれ?藤吉さん、お付き合いしてる方がいらっしゃるんですか?」
「ああ、そうだよ」
歩き出しながら胸を張って応える
「局処で働いてる娘でね、杉原の次女の寧って子なんだ」
「お寧さん」
「知ってるかい?」
「いえ、存じ上げません」
「れっきとした武家の娘なんだけどね、俺みたいな百姓の男を見初めてくれる、良い子なんだ」
「そうですか、素晴らしい出会いをなされたんですね」
「へへへっ」
自分と市も同じ境遇だからか、佐治はさっきよりもずっと近くに藤吉を感じた
雪が過ぎて、稲葉山城にも少しずつ春が近付く
一つ、一つと火鉢が減るごとに、春がやって来るのを実感した
「織田の動きは、今のところ静かです。ですが、水面下で織田と接触している美濃衆がいくつか」
利三が報告にやって来る
「どこかわかるか」
義龍は布団の中で訊ねた
「大垣周辺を中心に、今や関ヶ原にまで伸びん勢いです」
「関ヶ原・・・、か。確か、竹中一族が」
「安藤様が、それを阻止するために乗り出されておられます」
「安藤がか」
「はい」
「そうか」
「お屋形様」
つらそうに目蓋を閉じる義龍に、掛ける言葉が見付からない
蹴落としても、蹴落としても、何度でも這い上がる織田に、心身ともに疲れているのか
「どのように」
小さく呟く利三に、その声が聞こえなかったのか、義龍は何も応えなかった
と、そこへ夕庵がやって来る
「お屋形様、お呼びでしょうか。 お清殿」
「夕庵様」
今も自分を『お清』と呼んでくれるのは、この夕庵だけである
呼ばれるたびに、懐かしさと胸の痛みに苛まれた
「それでは、私はこれで」
慌てて席を外そうとする利三にか、それとも夕庵にか、義龍はぽつりと声を掛けた
「明けの明星・・・・・・・・・」
「お屋形様・・・?」
立ち上がり掛けた利三が、聞き返す
「来迎に負けぬ輝き・・・・・・・」
「 」
夕庵は、黙って利三の隣に膝を落とした
それに釣られて、利三も膝を直した
「覚えている。今も」
目蓋を細めて呟く
「はい」
何のことか、実際夕庵にはわからなかった
だが今は、息も静かになりつつある義龍に合わせ、相槌を打つことしか想い浮かばない
「美しい朝だった」
「そうですね」
「あの子が生まれた朝。静かな夜明け。沈まぬ星・・・」
それが誰のことを意味しているのか、利三も夕庵も、何となく理解した
「今も、心に」
残っている
帰蝶が生まれた朝を
その朝を
忘れたことなどない、その朝を
あの朝を
「 黄色い蝶が、飛んでいた」
ぽつりとした声の向こうに、あの日の光景が呼び戻された
夕庵も覚えている
まだ幼く、城には上がっていなかった利三は知らない
義龍の、心の光景を
遠い眼差しをする秀隆の後ろを、呆然とする弥三郎、成政、利治の姿がある
全員、女の恰好をさせられていた
戦に出る際は、頭を『月代(さかやき)』に剃り、兜を被る
それは戦で気分が高揚し、頭が逆上せてしまうことを予防する意味があるのだが、普段から頭を月代にしておくには相当の金が必要だった
秀貞が支給した剃刀はこの頃では高級品で、毎日使うとなれば消耗も激しい
故に、戦がない時は伸ばしっ放しで、戦が始まった時にのみ使う者が多かった
秀隆や成政は兜を締め出陣するが、弥三郎は鼻から兜を被らず出陣する
乱戦になると、どうしても邪魔になり脱いでしまうのだ
そうなると、脱ぎ捨てた兜は運が悪ければ相手方や周辺の村人に拾われ戻って来ず、弥三郎にとってはかなりの損失になった
利治はまだ末席であるため、兜を持てるような身分ではないし、所有しても直ぐに壊れてしまうような安物しか買えない
と、しても、やはり最後には利治も乱戦に身を置くため、弥三郎同様兜そのものが邪魔になって来る
そう言うわけで、髪の長い弥三郎と利治の女装そのものには、大した苦労は要らない
精々日焼けした肌を白粉で隠す程度で済んだ
一方の秀隆と成政は、若干髪は伸びているものの、女のようにとはいかないので染物の手拭いを頭巾にして、台所の女のような様相に誤魔化すしかなかった
「本当に、この姿で行くんですか?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、来い」
秀貞に腕を引っ張られ、歩き出す
道すがら、どうしても同僚に見付かってしまい、なんとなく顔を背けて逃げるように歩く
最も、成政が堂々としているので
「あれ?河尻様?」
と、うっかり見付かってしまいそうになり、一人小走りで逃げ去る秀隆だった
「こそこそすることでもないと想うんだがなぁ」
「佐々殿が堂々とし過ぎなんだと想います」
とばっちりを食らうとも限らない利治は、頭から汗を浮かばせて応える
「似合ってますよ、新五様」
「弥三郎さんほどじゃないですけど」
同時に、二人で最後尾の弥三郎に振り返る
二人の視線を受ける弥三郎は、半泣きで
「俺を見るな!」
と叫んだ
元々美男子である弥三郎の女姿は、恐ろしいほど『女』に見える
違和感がないほど
戦場で勇猛に槍を揮っている猛将とは想えないくらいだ
「こんな姿、女房に見せられるかよ・・・」
嘆きはしても、それが『言霊』となり現実のものになる
「遅いぞ」
先に本丸の玄関に到着していた帰蝶から叱りを受け、弥三郎は地獄を見た
「
「きっ・・・、菊子・・・ッ」
帰蝶の直属の侍女である菊子が、側に居ないはずがない
夫の変わり果てた姿に菊子は呆然とし、見られた弥三郎は心底死にたい気分になった
「全員揃ったか」
と、帰蝶は声を掛ける
だが、秀隆の姿を見て
「
吹き出すと、後は背を向け肩を丸めて「くっくっくっ」と笑いを押し殺す
それならいっそのこと大笑いしてもらう方が気が楽だ
「笑いたかったら遠慮なさらず、どうぞ」
「あーっはっはっはっはっはっ!」
「だから嫌な予感がしたんだ!それもこれも林さんがこんなことさせるからぁッ!」
「命令したのは殿だ」
「殿ぉぉー!」
「いやいや、いやいや・・・。良く似合ってるぞ、シゲ。期待以上だ。・・・・・っぷ」
「恨みますぅぅぅー・・・」
それまで帰蝶は、秀隆のことを『河尻』と呼んでいた
だが、勝家らに触発されたか、いつの間にか帰蝶も『シゲ』と呼ぶようになっていた
一時期は、秀隆に逆恨みの感情さえ持っていた
それももう、昔の話
常に自分の側に居て、まるで信長の代わりを務めるかのように守ってくれている
秀隆のそんな姿を見て、帰蝶も寄せる信頼は大きくなっていた
「では、参ろうか」
帰蝶のその一言で、さっきまでの緩んだ空気が一気に引き締まり、不本意な姿をさせられた秀隆らも悠然と背を伸ばした
帰蝶の言葉には、言霊が眠っている
甚目寺までの道中、秀貞はやはりそのことを考えていた
どんな時でも、帰蝶の言葉が空気を変える
戦に於いても劣勢に追い詰められようと、帰蝶の発した一言で逆転できる
それは不思議な感覚だった
ここのところ、目蓋を開けるのも煩わしくなった
もう何ヶ月も天井ばかりを眺めているような気がする
その天井を見ても、目を閉じても、楽しい想い出は余り浮かばない
自分の幼い頃を想い出そうにも、まるで靄が掛かったようにはっきりしない
ただ
妹が生まれた朝のことだけは、鮮明に想い出せた
「
あの、星の輝きでさえ目に浮かぶ
それが義龍を苦しめた
自分は妹に特別な感情を抱き、故に特別視しているのだろうか
そんな気がした
特別な想いと言っても、愛や恋の類ではないことは確かだ
母親は違えど、妹は妹
幼い頃から見て来た、他の妹達と変わるところがあるわけでもない
だが、帰蝶が生まれた朝の、あの明星の輝きに、義龍は神秘的な何かを感じた
その想いが、他の妹達に向けるものと違わせているのだろうか
帰蝶は特別だと
そう、想い込んでいるだけなのか
義龍には何もかも、わからなくなっていた
普段、信長の遺した小袖を着ている帰蝶は、胸元はきっちりと締め、しかし上から羽織る分にはふんわりと身に着けている
そのため、市弥の言う『豊満な胸』は目立たず隠れるのだが、折り目正しい着こなしをするとなれば、一本の皺も寄せ付けないようびしっと伸ばさなくてはならない
そうなると、やはり胸元が強調され、晒しで巻いても勘の良い者には気付かれてしまう
信秀の肩衣を羽織った帰蝶の背中を見詰めながら、秀貞はいつからこの奥方はこんなにも頼もしいほど背筋を伸ばすようになったのかと、浮かべた
数年前、信長について言い争ったことが、懐かしくさえ感じる
「理解しようとしないのは、あなたじゃない。吉法師様の所為にしないで!」
だから、殿の代わりに立っておられるのですね
私は殿を理解できなかった
それが、とても悔しい
傅役であった私よりも、あなたが殿を理解していた、その現実が悔しい
ならば今度は、私があなたを理解する番でしょうか
あなたを理解できた時、私は、理解できなかった殿の夢を理解できるでしょうか
「松平様は」
寺に到着し、秀貞は先にそれを確認した
「つい先程、ご到着なされたばかりです」
受け答えに若い僧侶が返事する
年齢から見て、まだ見習いか何かだろう
「ご案内申し上げます」
その僧侶はちらりと帰蝶を眺め、優雅な微笑みに口唇の端を歪ませた
生憎帰蝶には、その腹芸は通じなかったが
案内され、座敷に入る
待っていたのはふっくらとした青年と、険しい表情の三人の男達
それ以外の人間の姿はなかった
律儀に人数を限定してくれたのか
帰蝶に続いて入った、女装姿の秀隆らは肝を潰しながら後に続く
元康の家臣達は最初に入った『信長』、その後の侍女達に軽く溜息を零す
「待たせてすまぬ」
帰蝶は敢えていつもの口調で声を掛けた
「いえ、私達もたった今、到着したばかりです」
応えた青年は少し弛んだ頬を釣り上がらせ、笑顔で応えた
松平竹千代元康
三河の次世代を背負う者
帰蝶は元康の正面で止まり、その座布団の上に膝を落とした
「松平次郎三郎元康でございます」
次郎三郎
二人分の名を一人で背負っている
それはつまり、帰命と同じく『後がない』と言う意味であった
後がない松平の跡継ぎを、今川によって戦の最前線に追い遣られたこの、松平家の家臣らは、どんな想いで戦場に立ったのか
「織田上総介信長である」
もう、口に馴れた夫の名を告げる
「三河の雪は、大層であったか」
「ですが、お陰で水の溜りが良く、今年は豊作になりそうです」
「それは良かった。尾張は前年、疫病が発生してな」
「疫病ですか?」
「直ぐに沈静はできたが、しかし米が不作に終わった」
「それは致し方ございません」
どうしてだろう
自分と余り年の変わらない元康が、まるで帰命のように想えて来た
話す言葉も流暢に流れる
「民に被害が出なかっただけ、良かったとしなくては」
「
優しそうな、その眼差し
嘘や方便でそう言ったとは想えない
一方の元康も、噂に聞いた信長の想像と現実の違いに、内心目をパチクリとさせた
若い頃は『尾張一のうつけ者』と評判だったが、今の姿では随分と落ち着いている
やはり人は、年を取ると収まるところに収まるのだなと感じた
それ以上に『信長』の容貌にも驚かされる
やや優男だとは伝え聞いてはいるものの、実際目の前にすると優男と言うよりも、『女』そのものに見えるからだ
しかし、相手は今川義元を倒した人物
迂闊なことは言えなかった
「それにしても
元康は、帰蝶の側に居る秀貞をちらりと目をやり、直ぐに戻してこう言った
「お久し振りでございますね、吉法師様」
「
一瞬、帰蝶の目蓋が見開く
夫と元康に面識があったなど、聞いていない
どう応えるべきか
帰蝶の米神から、小さな汗が流れた
「林さん・・・ッ」
側に居た秀隆が、小さな声で秀貞を呼んだ
「
秀隆の目は、怒りに燃えている
「まぁ、待て。私は殿の出方が見たいだけだ」
「出方?そんなもの・・・ッ」
小さな声で、秀貞に怒りの想いをぶつけた
「殿を失脚させるつもりか、あんた・・・ッ」
「
それでも秀貞は、事態を見守った
帰蝶はどう切り抜けるのか
それが見たかった
「
小さく呟く
そのまま、元康の話に合わせれば良いのか
それとも、正直に話すか
あるいは、忘れた振りをすれば良いのか
こんなことになるのなら、なつか市弥に元康の人物像を聞いておけば良かったと後悔する
「ずっと、お逢いしたかったんです。夢が叶いました」
笑顔でそう言う元康とは対照的に、帰蝶は追い詰められた獲物のような心境になった
元康が織田の人質だったことは知っている
自分が信長に嫁いだ頃のことだ
嫁いだ後のことは知っていても、嫁ぐ前のことは知らない
夫の義兄が今川の捕虜になり、その交換で元康は今川に奪われた
自分が嫁ぐ前、夫はこの元康と顔を合わせたことがあったのだろうか
ないのだろうか
「末森での暮らしは、とても楽しかった。自分が人質だと言うことも忘れ、毎日勘十郎様と遊び回っておりました。あのようなことが起き、とても残念に想っております」
「
あのようなこと
勘十郎信勝を殺したことを言っているのか
悲しそうな目をする元康は、自分を責めているわけではない
武家の相続問題には着いて回る騒動であり、この頃ではどこも似たようなことが起きている
自分の実家、斎藤
越後の上杉、甲斐の武田、元康が居た今川も、そうだった
ふと、浮かぶ
信勝の顔
末森の城
「
帰蝶の口から、自然とその言葉が流れた
「私はそなたを知らぬ」
「
元康は目を丸くし、秀貞は驚愕に満ちた顔をし、秀隆は嬉しそうに口唇を釣り上げた
「すまん。私は幼少の頃から親とは折り合いが悪く、末森には滅多なことでは入らなかった。だから、そなたを見た覚えがない。もしも私の記憶違いであったならば、そなたには大変申し訳ないことをした」
「
少しおどおどとしながら秀貞に目をやる
秀貞は軽く、元康に頷いた
「わ、私が記憶違いをしておりました。吉法師様のお話は良く伺っていたものですから、いつの間にか面識があると勘違いしておりまして・・・」
秀貞と元康の目の遣り取りを、帰蝶は見逃さなかった
秀貞の差し金か、と
「それよりも、寺の心尽くしを頂こう。運び込むのを今か今かと待っておろうに」
「そうですね」
帰蝶の一言で、座敷に料理が運ばれる
やはり武家好みに作られているのか、精進を好む寺にしては魚が出て来た
さすがに酒は並んでいないが
「もう少し、夏に近い頃が良かったでしょうか」
「どうしてだ?」
「そうしたら、三河自慢の鰻が出せましたのに」
「それは惜しいことをしたな」
「あはははは」
帰蝶の返事に、元康は少年のように笑った
帰蝶は笑えなかった
「上総介様は、鰻が好物ですか?」
「子供の頃は」
少し考えながら、話を進める
どこで襤褸が出るかわからないのだから、迂闊な返事はできない
「酒を嗜むようになってからは、好みも変わった」
「酒を飲まれるのですか?上総介様はその雰囲気から、酒より茶の方が好みかと想っておりました」
「人は見掛けに因らない。見た目に騙される性質か?次郎三郎殿は」
「竹千代、で結構です」
「殿・・・ッ!」
側に居た石川与七郎数正が慌てた表情で止める
そうだろう
近しい間柄でなければ、幼名などそうそう口にできるものではない
例えそれが妻だとしても
「構わない。今は味方になろうかと言う、話し合いの席に就いてるんだ。もっと打ち解けなくては」
「
元康の言葉に、帰蝶は軽く首を傾げる
一切の面識もなく、一度戦っただけのこと
それも、直接対決ではない
なのに何故、元康はここまで自分に懐柔しようとしているのか
真意は別にあるのか
この青年も、そうなのか
自分を試しているのか
秀貞のように
少し背後に控える秀貞の気配を目尻で追いながら、帰蝶は元康に言った
「互いに童名で呼び合うのは、兄弟にも等しい間柄と言うこと。織田はまだ、松平にとって海のものか山のものかわからぬ」
と、箸で焼き魚の白い身を抓み、持ち上げた
「馴れ合うのは、後からでもできる。今はただ、互いのことを理解し合う時期かと」
「
それも最もだと、元康は苦笑いした
「織田はこれから、何をなさろうとしておいでですか」
軽く箸を掴みながら、元康は問う
「何をすると想う」
「それが知りたくて、ここまで参りました。手土産なしでは、三河に帰るに帰れません」
「ならば、その目で見届けろ」
「何を、でございますか?」
「織田の行く末、それに付き添うに値するか、どうか」
「暢気な話でございますね」
「人生は長い。今日一日で全てを決める必要もない」
内心、互いに汗を掻く
帰蝶は、「織田に着け」と簡単に言って、「その見返りは」と問われれば、返す手立てがなかった
元康は、「織田に着け」と強要されれば、折角今川からの独立を計ろうとしている計画が頓挫してしまう
どちらも、即日に返答できる段階には至っていなかった
元康の目は、自分を誘っている
挑発する気満々の目をしていた
帰蝶は黙って食事を続けた
会食の作法に沿って食べ進める中、元康が声を掛ける
「あの、上総介様」
「
帰蝶は黙って上目遣いで睨んだ
「殿。食事中に、はしたのうございますぞ」
そう元康を注意したのは、三人の中で一番若く見える酒井左衛門尉忠次
「すまん、小平次」
元康はやはり、少年のような顔をして笑った
「礼儀が行き届かず、申し訳ございません。幼少の砌より、私は人質生活に身を置き、一人ぼっちが怖くて、いつもこの小平次や与七郎にくっついて歩いておりました。ですから、食事も彼らの部屋に上がりこんで。それでお屋形様・・・、今川治部大輔様ですが、よく叱られました」
帰蝶は箸を置き、訊ねた
「そなたは、今川治部大輔殿をどう想っている」
「どう・・・って?」
「好きか、嫌いか」
「あの・・・」
「織田様、今は食事の時。そのような雑談は、後ほど場所を設けてお話下さいませ」
と、忠次が遮った
「しかし、そなたの主は一向に箸が進まん様子。頭の上でごちゃごちゃと話し掛けられては、こちらの気が散る」
「しっ、失敬な・・・ッ!」
「小平次・・・!」
「次郎三郎殿」
「は、はい」
帰蝶は片膝を立ててきっぱり言った
「腹の探り合いは止めよう。話したいことがあれば、単刀直入に申せ」
「
「織田様、その無礼な姿勢をお止め下さいませ」
と、忠次が諌めに入る
「恐れ多くもこの方は、三河国主・松平様の」
「喧しい」
「
帰蝶の一喝に、秀隆らは笑いたいのを必死に堪え、秀貞は静かに、しかし松平の家臣らは顔を赤くする
「松平を愚弄なさるかッ?!」
「相手が誰であろうと、この織田上総介信長は態度を変えん。上総介を平伏したいのであれば、拳で語れッ!」
帰蝶は怒鳴りながら膳を引っ繰り返した
その行動に驚いた石川、酒井、小笠原は想わず腰の刀に手を掛ける
それと同時に、秀隆は石川数正を、成政は酒井忠次を、弥三郎は小笠原氏清を抑えるように側に走った
「松平殿!」
「はっ、はいっ・・・!」
懐から扇子を取り出し、それを元康に差す
「遠回しの誘い文句は嫌いだ。この上総介と共に時代を駆け抜けるか、それとも頭を垂れるか、二つに一つ!そなたが選べ」
「
元康の顔から、見る見る血の気が引いて行った
「全く、相変わらずの無茶っぷりだ」
秀隆は呆れながら、寺の中庭で談笑する帰蝶を眺めた
「私は殿のその行動を期待していたのだがな」
変わって秀貞は、楽しそうな顔をして笑っている
「冗談じゃないですよ、林さん。あんたも人が悪い。松平の若殿と先代は、一度も顔を合わせたことがないってのに「久し振り」なんて、林さんの指図でしょ」
「殿がどう乗り切るのか、見てみたかった」
「それこそ冗談じゃないっすよ?もし殿が『信長』じゃないってばれたら、俺達全員、首刎ねられても文句言えなかったんですよ?」
「だけど、私達の首は繋がっている」
「それは」
「そう言うことだ」
「
秀貞の言いたいことは、わかるようでわからない
今、自分達がこの同盟成立の瞬間に生きて立ち会っていることが全てだと、そう言いたいのはわかる
だか、それでもわからない
何故秀貞は、知恵を与えながら帰蝶を追い詰めようとするのか
それが理解できなかった
「先程のお返事の前に、良いでしょうか」
「何だ?」
実のところ、帰蝶はさっきから胸が苦しくて仕方がなかった
なつによって胸元をぐるぐる巻きにされ、息苦しさから若干の目眩、果ては吐き気まで軽く催している
できるのことならさっさと済ませて帰りたい
その気持ちの表れが『膳を引っ繰り返す』と言う暴挙だったのだが、残念なことに相手には通じなかった
「今川治部大輔様のことが好きか、嫌いかのご質問ですが」
「質問と言うほどのものではないがな」
帰蝶は苦笑いして応えた
「私自身、どう言った気持ちで接していたのか、よくわからないのです」
「よくわからない?」
「はい」
帰蝶と同じ方向に躰を向け、一呼吸置いてから元康は言った
「直接接した治部大輔様は、大変厳しいお方でした。些細な失敗も見逃さない。私が逃げ出さないよう、小平次ら家臣を盾に取り、その逆に家臣らが謀叛を起こさないよう、私を盾に取った。ですから家臣らは治部大輔様のことが大嫌いでした。ですが、私は」
ゆっくりと帰蝶に振り返る
「治部大輔様のこと、決して嫌いではありません。だけど、手放しに好きと言うわけでもありません」
「そうか」
「薄情なのかも知れません。これまで育てていただいた恩を忘れ、教育を施してくださったお心に背いてしまった。私の中で、後ろめたさと当然の結果だと開き直る想いが入り混じり、私自身、結論が出せません」
「無理をして出すことはない」
「
キョトンと、元康は帰蝶を見詰めた
「好きか、嫌いか、その想いがはっきりしないこともある」
息子を殺した女である自分に、市弥は力を貸してくれている
弟を殺した自分に、秀貞は戦うための矢になってくれている
夫を殺した利三を、憎み切れない自分がそこに居た
「ただ、大事かそうでないか、それだけだ」
「それだけ・・・」
「お前がその想いに疑問を感じるのなら、己の想うが侭生きてみれば良い。それが間違っていたならば、天がお前を裁く。天がお前を許したなら、お前には生きる資格がある」
「
元康の目が、大きく開かれた
「お前は、自由だ」
「かず・・・さ・・・」
どんぐりのような、大きな目から涙が零れた
「大の男がなんだ、みっともない」
「すっ、すみません・・・っ」
元康は慌てて自分の目を拭う
拭いながら、心の楔を打ち払った
「治部大輔様がお亡くなりになられた時、みんなはこれでやっと自由になれたと喜びました。私も、そうでした。だけど同時に、治部大輔様と過ごした日々が蘇り、喜ぶべきことなのかと自問しました。答えは見付かりません。見付けるのが、怖かった・・・ッ」
「
喜べば『恩知らず』と誹られる
悲しめば『今川の狗』と揶揄される
どちらも選べないのは、当たり前だろう
家臣の手前もあるのだから
初対面の自分に、ここまで心を晒したのだ
元康は信用するに値するのだろうと一安心する
一安心を感じた後、どうしようもない胸の支え、つまり、軽い『吐き気』が訪れた
「はぁ・・・。殿と松平の若様、上手く話し合い進んでるかなぁ」
ぞろぞろと連れ歩くわけにも行かないと、弥三郎、成政、利治の三人は寺の裏庭で待機していた
「姉上が女だってこと、知られてないと良いんだけど・・・」
「上手く誤魔化してるだろ。殿はそう言うとこ、抜け目はないからな」
「まぁ、ばれても逃げますけどね、私は」
しらっと応える成政に、弥三郎も利治も頭から汗を浮かばせる
そんな三人の許に、元康の家臣・忠次がやって来た
「おや、御三方。こんなところで暇潰しですか?」
「あ、酒井様」
「お暇なら、表の縁側でお茶でも頂けば宜しいのに。私共も頂いていたところです」
「お気遣い、ありがとうございます」
この中では取り敢えず、変声期を迎えてもまだ日の浅い利治が、女声でがんばって応える
「ところで、そなた達、名は何と仰るので?」
「
三人は顔を見合わせる
まさか名前を聞かれるとは想いもしなかった
「あ、
と、成政が最初に応える
幼名が『市丸』なのだから、誤魔化すには苦しくない名前だ
「お市殿ですか。お美しいですね」
「ありがとうございます」
引き攣る笑顔で会釈する
他人事ではないと、利治は笑うことができなかった
「そなたは?」
「はい、えと・・・、お新です」
「お新殿か。まだまだお若い。もっともっと勉強なさりませ」
「心掛けます」
「そなたは」
「ええと・・・、お弥々(やや)でぇす・・・」
弥三郎は飛び切り高い声で応えた
その途端、成政と利治の肩が揃って右に傾く
「お弥々殿か」
弥三郎の咄嗟に応えた名に、忠次は特別な想いを込めて聞き返した
「いや、実に愛らしい名前だ」
「あ・・・、ありがとうございますぅ」
雲行きが怪しくなるが、弥三郎の表情がなんとも言えず面白い
「お弥々殿」
「は、はい」
「不躾なことを伺いますが、そなた、独身でございますか?」
「
俄に変貌する忠次に、弥三郎はキョトンとした
「いや、そなたのような美しいおなごに、虫
「
忠次には聞こえぬよう小さな声で呟くが、側に居る利治や成政には丸聞こえなわけで、二人は苦笑いに顔を歪めた
「お弥々殿!」
「はっ、はいっ!」
突然叫ぶ忠次に、条件反射で弥三郎の背もピンと伸びる
「某、お弥々殿に一目惚れ申した!」
「はいっ?!」
「某、既に妻は娶っておるが、もしそなたが独身であるならば、某の側室になっていただけませぬか!」
「はぁぁ?!」
「
成政と利治は、顔は無表情になり、しかし口からは吹き出した笑い声が一瞬、零れた
「お弥々殿!」
「じょっ、冗談じゃねぇ・・・!」
迫る忠次から逃げようと、弥三郎は駆け出した
駆け出した『お弥々』を追い駆けようと、忠次も走り出す
残された二人は呆然とその光景を見送った
「如何なさいましたか?上総介様。お顔が青くなられて」
「いや・・・、大事無い。少し疲れたのかも知れん、気に留めるな」
そう言いながら元康に背中を向けて、胸元に手を突っ込み、晒しをずらす
「なつ、締め過ぎだぞ・・・。息苦しくて敵わん・・・」
苦しそうに顔を歪ませながら、何とか楽にはならんものかと、必死になって晒しを緩めようと引っ張ったり捩らせたりする
「大丈夫でございますか?何ならお座敷に戻られて、横になられては如何でしょう」
心配してくれるのは有り難いが、今はそっとしていて欲しいと想わずにはいられなかった
「なんてことはない。少しずらしたら楽になる」
「はい?」
それでも心配で、元康は帰蝶の正面に向おうと歩いた
その瞬間
「
引っ張り過ぎた所為か、挟んで締めていた晒しの切り端が外れ、みるみる解けて行く
「や・・・、やばい・・・」
胸の間で緩やかな開放感に幸せを感じると共に、どんどん膨らんで行く小袖のその部分に、帰蝶の顔が青くなった
「上総介様?どうかなさいましたか?」
自分の正面に来る元康に、帰蝶は咄嗟に腕を組み、胸元を隠した
「なんでもない。戻るか」
「はい・・・」
裏声交じりの帰蝶に、元康は首を傾げながら後ろに着く
が、腰に締めた帯の上が、どんどんと膨らんで行くのを気にしない方がおかしい
「あの、上総介様・・・」
恐る恐る声を掛けるも、振り返り、凄まじい目で睨む帰蝶に怯え
「なんでもありません・・・」
震えながらそう応えるので精一杯だった
腕を組んで歩いているものだから、どうも脚の動きがちぐはぐになって仕方ない
歩きにくいが、かと言って大手を振って歩くわけにもいかず無理をしていると、草履が砂利に引っ掛かって躓いた
「危ない!」
咄嗟に腕を出した元康の手の中に、帰蝶の片乳がむっちりと掴むように収まってしまった
「
掴まれた帰蝶は驚き、掴んだ元康も目を丸くさせる
もう終わりだ・・・
そう、目を閉じた帰蝶から、元康は何も言わず離れた
「申し訳ございません、ご無礼を・・・」
「いや・・・。助かった・・・」
心臓がバクバクと音を立てているのを、帰蝶は必死で平然を装い応える
直接触れはしなかったが、元康が片手を背中に沿うように並んで歩いてくれたお陰か、帰蝶はそれから躓くこともなく待っている秀貞らの許へ戻ることができた
「殿」
見付けはしたものの、腕組みして難しい顔をしている帰蝶に、浮かんだ笑顔が引き攣る
「如何なさいましたか」
「なんでもない。帰るぞ」
「お話し合いは?」
「今は必要ない」
「
背後へと離れていた元康が、その言葉に少し表情を曇らせた
「次郎三郎殿」
「
「織田との同盟、今の返事は無理だろう?」
「え・・・?」
目を見開いて帰蝶を見る
「そなたは何より家臣を重んじていると見た。自分の独断で物事を決めはしないと」
「上総介様・・・」
「家臣に嫌われるのを恐れている」
「
その通りだと、元康は俯く
「そうやって、慕われるのも良いだろう。だがな、人の顔色ばかりを伺っていても、そなた自身が疲れるだけだ。少しは楽になってはどうだ」
「は・・・い」
「返事は、いつでも良い。だが、できれば私は、そなたと轡を並べたいと願っている」
「
自分の胸を掴んでも、それを問わず黙ってくれているのだから、この青年となら、きっと
きっと、信長の遺した夢を語らい合える
帰蝶はそんな気がした
「林」
「はい」
「私は清洲に戻る。次郎三郎殿を三河の国境まで、送り届けて差し上げろ。ひょんなことで犬山が出て来ては、次郎三郎殿も困るだろう?」
「はい、承知しました」
「お心遣い、ありがとうございます、上総介様」
元康は深く頭を下げた
「次郎三郎殿」
「はい」
「今川は、松平の敵であったかも知れない。織田にとっても、敵であった。だが、そなたの治部大輔殿に対する想い、それも確かに真実だろう。決して恥じる感情ではない。寧ろ、胸を張っても良いと想う」
「
どうしたのだろう
『信長』の発する言葉は、胸に溜め込んだ重い感情を少しずつ、少しずつ、取り払ってくれる
そんな気になれた
一言、一言、聞く度に、心が軽くなった
「また会える機会を、楽しみにしている」
「
元康は再び帰蝶に平伏した
「では、松平様。吉良付近までお送りします」
「忝い」
「殿?いつまで腕、組んでるんですか?」
後ろから着いて来る秀隆に聞かれる
「煩い」
「腹、凄い膨れてますけど、なんか食いました?」
「黙れ」
「松平とも上手く行きそうだってのに、何でそんな不機嫌なんですか?」
「喧しいっ」
感情任せに想わず振り返り、帰蝶を正面から見た秀隆は目玉が飛び出るほど驚いた
「
襟元が胸の圧迫で今にもはちきれそうになっていた
「うっ、煩いっ」
顔を真っ赤にして胸を隠し、前を向き直す
ふんわりと羽織っているのならこれほど自己主張もしないだろうが、今はびしっと裾を引っ張った状態であるため、その目立ち方も半端ではない
「まさかとは想いますが、松平を色仕掛けで・・・?」
「それ以上口にしたらここでこの場で斬り殺すぞ」
「ああ、良かった、いつもの殿だ」
色仕掛けではなく、何か不具合でも起きてこうなったのだろうと感じ、ほっとする
「どう言う安心の仕方だ」
「ところで、弥三郎達はどうしたのかな」
と、秀隆は周囲を見回す
その直後
「お弥々殿~ッ!」
「しつっけーっつーんだよッ!」
追い駆けられて必死になって逃げている弥三郎と、女装している弥三郎を追い駆ける忠次が目の前を通り過ぎた
「お弥々殿って、誰でしょうね」
「知るか」
途中で腹に溜った晒しを外し、すっきりした気分で帰路に着く
松平と上手く行くかどうかは別として、晒しを外すことで胸のつっかえが降りたような気になる
今の帰蝶には、これが何より嬉しかった
ただ
「
なつの怖い目からは逃げられなかったが
「期待に膨らんだのだろう」
「そうですか、と言うことは松平との同盟が上手く行ったのですね」
「それはどうかな」
「殿」
「
「殿!まさかとは想いますが、その無様な姿を晒して町を歩いたなんてことは、ありませんよね?!」
胸が膨らんだままでは、織田は女が男装するおかしな家系と要らぬ中傷を受けてしまう
信秀の遺品である肩衣の背中には、しっかり織田の家紋が縫われているのだから
「大丈夫だ!松風で素っ飛ばして来たから!」
逃げながら叫ぶ帰蝶
「お待ちなさい!」
その帰蝶を追うなつ
二人の光景に、許の姿に戻って城に帰って来た秀隆は、唖然として見送った
「殿、織田はどうでした?」
帰り道、輿に乗る元康に数正が聞いた
「うん、中々面白い御仁だ。上総介様と言うお方は。私は、織田なら手を組んでも良いかと想う。それに、今川から独立できれば
妻も、迎えに行ける
そう言いたげな顔をする元康に、数正は厳しい顔付きで応えた
「今はまだ、その時期ではございません。今川には」
義元に匹敵する人間が、居る
「
わかってると、元康は悲しそうに目蓋を閉じて俯いた
いつになれば妻と子と、安寧した生活が送れるのだろうか
『信長』との巡り逢いに胸が躍る反面、悲しい現実に胸を痛めた
妻が今川の人間でなければ、今頃
そう想わずには居られない
それから、ふと想い出す
この掌に残る、あの感触を
元康は自分の手をじっと見詰め、あの方は何者だろうと考えた
そして、これは他言してはならないとも感じた
「お前は、自由だ」
そう言ってくれた人を、自分で追い詰めてしまうようなことは、したくない
喜び半分、悲しみ半分、元康は複雑な心境で秀貞に見送られ、尾張を後にした
四月が来て、冬の寒さも和らぎ、佐治からは良い知らせばかりが届くようになった
「市橋家が、織田に寄与してくださると!」
「そうか!」
遂に市橋家が佐治に折れた
勿論、他の国人、豪族は未だ佐治の話に半信半疑の状態が多いが、たった一つでも自分を受け入れてくれる家があると言うのは、今までの苦労、これからの労いにも繋がる
「市橋家は斎藤と長井に挟まれた場所にありますので、今直ぐの表立った協力は無理ですが、志を同じくする他の家にも声を掛けてくださるそうです」
「始まりは何でも良い。些細なきっかけでも、それはやがて大きな輪に繋がって行く。存分に動け」
「ありがとうございます。引き続き、市橋家を先頭に他の方々にも話を聞いてもらえるよう、呼び掛け続けます」
「頼んだぞ、佐治」
「はっ!」
意気揚々と城の外に出て、大垣城方面へと向う
夫婦の契りを交わしてから、市も以前のように無理をすることもなく、淋しい時は淋しいと素直に言ってくれるようになっていた
なんだか心のつっかえが降りたような気になり、佐治も一層仕事に身が入る
その佐治に声を掛ける者が居た
「佐治さん」
「
「すまないね、これから仕事場に向うってのに呼び止めて」
「いえ。それより、お久し振りですね」
歩きもっての会話なので、会釈は交わさない
「ああ、本当に。佐治さんが引っ越してからだから、殆ど一年振りかな」
「そんなになりますか」
「っても、お隣さん同士だった時も、佐治さんは年がら年中忙しそうで、誼を通わせる暇もなかったけど」
「そうでしたか、すみません。未熟なもので、周りの人に気遣うこともできず」
一度立ち止まり、丁寧に頭を下げる佐治に藤吉は慌てて首と手を同時に振った
「いやいやいや、謝らんでください。そんなことを責めるために、呼び止めたんじゃない。ただ俺は・・・」
俯き、ゆっくりとした口調で話す
「そうやって、仕事に精出し輝いてる佐治さんが、眩しいくらいに羨ましくてね」
「え?私が・・・ですか?」
藤吉の言葉に、佐治は驚いて目を丸くさせた
ゆっくりと、歩き出す
佐治は慌てて藤吉に着いて歩いた
「それに引き換え、俺は何してるんだろうって・・・。毎日毎日、仕えてる蜂須賀様の城に行って、馬の世話をしたり、蜂須賀様の畑の仕事したり、たまに戦に出ても殆ど裸同然の鎧に身を包んで、相手の雑兵倒したって一文の得にもならねぇ仕事ばっかで、俺はこんなことがしたくて蜂須賀様に仕えてるんじゃないって自分を奮い立たせようにも、明日が見えねぇ」
「藤吉さん」
「何か仕事がしたいと想っても、碌なもんがねえ。俺はそれだけの人間なのかって想ったら、情っけなくてさ」
「そんなこと・・・」
「何かをして、名を残したい。夢だけでっかくてさ、自分自身は全然、夢に追っ付けてないんだよな。情けないだろ、同じ男として」
苦笑いする藤吉に、佐治は声もなく首を振った
何かをしたい
何かを成し遂げたい、名を挙げたい、自分が生きた証として
それは男なら誰もが夢見る、当たり前の願望だった
笑うことなど佐治にはできない
「藤吉さん・・・」
力なく項垂れる藤吉が気の毒に感じて仕方なく、佐治は色々と思案した
藤吉を池田隊に引き抜くか、いや、自分は美濃攻略の足懸かりとして肩書きを借りているようなものだ
人事に関して口を挟める立場ではない
そう、自分を弁える
「
それから、ぽつりと独り言を呟いた
「『池田隊』だから、面倒なんだ」
そして立ち止まり、藤吉に話を持ち出す
「藤吉さん」
「はい」
呼ばれて、藤吉は立ち止まり、佐治に振り返った
「これからお仕事には?」
「あはは、行っても馬に飼葉をやるだけですよ。別にこれと言って大事な仕事が待ってるわけじゃない」
そう、淋しそうに呟く藤吉の肩を掴む
「だったら、今から私と一緒に、美濃国大垣に行きませんか?」
「え?」
「今、美濃の国人達を織田に寝返らせる調略中なんです」
「それで・・・」
「私と一緒に、美濃の国人を説得してください」
「ええ?!」
佐治の誘いに、藤吉は目を丸くして驚いた
「藤吉さんはお話も上手だし、聞き上手のようにも感じます。今日が無理なら、心が決まってからでも構いません。一緒に、大垣城周辺の美濃国人衆を説得してくれませんか」
「お・・・、俺なんかで・・・?」
「そうやって腐ってちゃ、勿体無いですよ」
「
佐治の笑顔に、藤吉は目を潤ませた
「佐治さん・・・、ありがとう・・・、ありがとうっ!」
ボロボロ涙を零しながら佐治の手を握り、振り回す
「心の準備なんか必要ねぇっ。今からでも着いて行きますよ!」
「馬の世話は、良いんですか?」
「別に俺じゃなくたって、誰でも構わねえ仕事だ。別にそれを馬鹿にするわけじゃねーけど、仕事には優先順位ってのがあるからね。蜂須賀の馬のエサより、織田の味方増やす方が先決だ」
佐治は藤吉の熱中っぷりに苦笑いした
「それじゃ、藤吉さんは蜂須賀の家臣として話を進めてください」
「蜂須賀の?それじゃぁ、もし俺が手柄取っちまったら、蜂須賀の手柄になっちまいますよ?」
「それで構わないんです」
「どう言うことですか」
「藤吉さん、『出る杭は打たれる』って諺、ご存知ですか?」
「馬鹿いっちゃあいけねーよ?おりゃぁ学問には疎いけどな、そう言う事に関しては目鼻が利くんだ」
「そう言うわけです」
「へ?」
「池田隊ばかりが手柄を取るわけには、いかないんです」
「佐治さん」
『そう言うことか』と、藤吉は頷いた
美濃攻略に池田隊が活躍すれば、それは『織田家の家臣の手柄』になる
余り上手く行っていない、織田家の譜代と新参の『旧斯波家臣』が仲良くやるには、『旧斯波家臣』の手柄も必要なのだ
佐治は織田家の譜代代表として、藤吉は『旧斯波家臣』の代表として美濃攻略に貢献すれば、手柄は半分ずつできる
「佐治さんは、なんでそんなに無欲なんですか?」
藤吉は無心な顔をして聞いた
「別に無欲ってわけじゃないですよ。ただ、成功する確率を上げたいだけです」
「それでも良いや。佐治さんと一緒に仕事ができるんだ。こんな嬉しいことはねえ。これで女にも良い顔ができる」
藤吉は、にへらと笑った
「あれ?藤吉さん、お付き合いしてる方がいらっしゃるんですか?」
「ああ、そうだよ」
歩き出しながら胸を張って応える
「局処で働いてる娘でね、杉原の次女の寧って子なんだ」
「お寧さん」
「知ってるかい?」
「いえ、存じ上げません」
「れっきとした武家の娘なんだけどね、俺みたいな百姓の男を見初めてくれる、良い子なんだ」
「そうですか、素晴らしい出会いをなされたんですね」
「へへへっ」
自分と市も同じ境遇だからか、佐治はさっきよりもずっと近くに藤吉を感じた
雪が過ぎて、稲葉山城にも少しずつ春が近付く
一つ、一つと火鉢が減るごとに、春がやって来るのを実感した
「織田の動きは、今のところ静かです。ですが、水面下で織田と接触している美濃衆がいくつか」
利三が報告にやって来る
「どこかわかるか」
義龍は布団の中で訊ねた
「大垣周辺を中心に、今や関ヶ原にまで伸びん勢いです」
「関ヶ原・・・、か。確か、竹中一族が」
「安藤様が、それを阻止するために乗り出されておられます」
「安藤がか」
「はい」
「そうか」
「お屋形様」
つらそうに目蓋を閉じる義龍に、掛ける言葉が見付からない
蹴落としても、蹴落としても、何度でも這い上がる織田に、心身ともに疲れているのか
「どのように」
小さく呟く利三に、その声が聞こえなかったのか、義龍は何も応えなかった
と、そこへ夕庵がやって来る
「お屋形様、お呼びでしょうか。
「夕庵様」
今も自分を『お清』と呼んでくれるのは、この夕庵だけである
呼ばれるたびに、懐かしさと胸の痛みに苛まれた
「それでは、私はこれで」
慌てて席を外そうとする利三にか、それとも夕庵にか、義龍はぽつりと声を掛けた
「明けの明星・・・・・・・・・」
「お屋形様・・・?」
立ち上がり掛けた利三が、聞き返す
「来迎に負けぬ輝き・・・・・・・」
「
夕庵は、黙って利三の隣に膝を落とした
それに釣られて、利三も膝を直した
「覚えている。今も」
目蓋を細めて呟く
「はい」
何のことか、実際夕庵にはわからなかった
だが今は、息も静かになりつつある義龍に合わせ、相槌を打つことしか想い浮かばない
「美しい朝だった」
「そうですね」
「あの子が生まれた朝。静かな夜明け。沈まぬ星・・・」
それが誰のことを意味しているのか、利三も夕庵も、何となく理解した
「今も、心に」
残っている
帰蝶が生まれた朝を
その朝を
忘れたことなどない、その朝を
あの朝を
「
ぽつりとした声の向こうに、あの日の光景が呼び戻された
夕庵も覚えている
まだ幼く、城には上がっていなかった利三は知らない
義龍の、心の光景を
PR
濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
家庭用ゲーム専用ブログです
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◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
勝手にPR
濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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