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あれからずっと今川を警戒している勝家が、報告にと一旦清洲に戻って来た
「今川は完全に沈黙したわけではございません」
それを受け、帰蝶も難しい顔をする
「今川治部大輔は落ちた。しかし、今川家は今も機能している。これに相違はありません」
「一番厄介な相手が生きて、駿府に居ると言うことか」
「はい」
厄介な相手
それは義元の生母であり、義元を育て上げた賢婦・寿桂尼
女が一人で駿府、そして今川を守っていると言う
それは、『夫の身代わり』として『女でありながら戦場に立っている』帰蝶に理解できないわけではなかった
女なればこそ、男以上の強さと言うものを垣間見せる
尚更、自分よりもずっと経験を積んだ女性ならば、太刀打ちなどそうそうできようがないとわかる
「ですが、再び尾張に攻め込むことは不可能」
「だろうな」
賢婦と言えど、兵を動かすことが難しいのも、帰蝶は充分承知していた
義元亡き後、嫡男が兵を動かすに充分な逸材であるならば、話は別だが
今は家の混乱を平定させることが重要課題である今川が、取って返して帰蝶、『信長』の首を取りに来るなど不可能だろう
「ならば今の内、織田の基盤を磐石な物にする絶好の機会。嫡男が刀を持って尾張に仇討ち入りするまでに、尾張の完全統一を」
「そうしたいとは想ってる」
「想っている?と言うことは、殿は未だ美濃に目を向けてらっしゃるので?」
「未練がましいと笑うか?」
「 」
勝家は少し笑いながら首を振った
「犬山周辺は、清洲に対し頭を垂れることを由とはせぬ状況。それでも美濃をとおっしゃるのでしたら、今川を一人残らず駿府に叩き返しましょうや」
「頼めるか」
「頼めるかではなく、『やれ』とご命令下さいませ、殿」
「権」
「あの時、某は殿への返事を躊躇いました。『二度と裏切らぬと誓え』の返事、見事今川軍を追い返すことで、殿へのお返事とさせていただきます」
「 わかった」
全てを語らずとも、その瞳が真意を語ってくれる
帰蝶は勝家の眼差しに優しさを感じた
「時に、権」
「はい、何でしょう」
「犬千代のことだが」
「そう言えば、本戦に勝手に参加したとか?何か咎でも出されるおつもりで?」
「その逆だ。犬千代をしばらくの間、預かってくれないか」
「私が、ですか?」
勝家はキョトンとした顔で聞き返す
「無理か?」
「いえ、そんなことはありませんが、何故私を?」
「お前は、勘十郎様のご子息らも預かっているとか聞いたが」
「 はい。大方様が、清洲で育てるのは無理だから、と」
「そうだろうな。義母上様は今も私に遠慮なさっておられる」
そこには小姓らも居る
信長のことを話すわけにはいかなかった
彼らにとって『織田信長』は、目の前に居る帰蝶のことなのだから
自分が何処の誰なのかを知っている小姓はもう、殆ど独立したか、それまでの戦で戦死している
新しい顔ぶれが増えれば増えるほど、帰蝶は自分が何処の誰なのかを忘れて行った
「だから、お前が代わりに養育していると聞いているが、そのどの子も随分立派に育ちつつあると、義母上様も喜んでおられるのだ。だから、お前の手で犬千代を強い男にして欲しい」
「殿・・・」
「犬千代は、図体だけ大きくて、その実泣き虫でな」
「確かに」
帰蝶の言葉に勝家は苦笑いした
「だから、メソメソしない男にして欲しい。そして、何れは織田に戻っても良いと想ってくれるよう、指南してはくれんか」
「 承知」
利家も、いつの間にか帰蝶を見習って、頑固者になってしまったのだろう
周囲の雰囲気は許しているのに、自分自身がまだ許しを出さない
そんな不器用な利家を託された勝家は、帰蝶に辞儀をすると部屋を出て行った
「ふぅ・・・」
義元を倒したとて、することはたくさんある
それを想うと、吐きたくない溜息も零れてしまう
首を返せば仕舞いと言うわけでもないことを、この頃になって漸く自覚できた
市弥の言葉、秀隆の言葉が尚更重く感じる
周囲の力を利用して、今以上の大家にしなくてはならないのだから、ほんの少し気を緩めることすら許されない立場になった
信長が生きていたら、自分はこれより少しは責任から解放されるのだろうか、と、少しだけ後悔する
「道空を呼べ」
勝家の訪問で中断していた書簡の作成に取り掛かった
右筆代わりとして務めている道空が部屋に戻り、織田の軍門に下りたいと言う周辺豪族や国人らへの返事を作成する
「では、こちらへの返答はそのままでよろしいでしょうか」
「ああ」
帰蝶の返事を確認し、道空が筆を持つ
道空が手紙を書いているとは言え、帰蝶にもすることはたくさんある
局処から回って来た書類に目を通し、署名しなくてはならなかった
犬の嫁入りが決まり、その支度金の試算表を確認し、金の引き出しを許可しなくてはならない
貞勝の計算は常に正確で、不十分な費用でもなければ余分な費用も掛けていない
長い間、織田の財布を預けているその信頼に、充分応える働きをしていた
その試算表と出納の許可を出す署名を入れようと、帰蝶は机に向かったまま、まだ晒しを巻いている右手を出した
が、側に控える小姓は、帰蝶が何のために右手を出したのか理解していない
随分と間が空いて、帰蝶は不機嫌な顔をして小姓に呟いた
「筆」
「 あ・・・、はい!」
側に筆があるのに、どうしてそれくらい自分で取れないのか、などと言えるはずもなく、小姓は硯に筆を落して帰蝶に手渡した
しばらくすると、今度はこちらも晒しを巻いた左手を出し出す
左側に居た小姓も、さっきの小姓と同じく帰蝶の行動が読めない
気付いた道空が小姓に告げた
「殿はお茶をご所望です」
「あ、はい、只今!」
慌てて茶を用意し、茶皿に載せて帰蝶の側へ畳の上に置く
帰蝶はその湯飲みを持った瞬間、それを投げ捨てると同時に叫ぶ
「熱い!」
「もっ、申し訳ございません・・・ッ!」
「 おなつ様に、来て頂きましょう」
道空はげんなりとした顔をして言う
空は既に夕焼けに染まっていた
帰蝶はその空を見上げて、誰にも聞こえぬ小さな声で呟いた
「 龍之介。お前が居(お)らぬと、何も始まらない」
背中では小姓らが慌しく動き回っている
使えぬ小姓らに、帰蝶はこの先の不安を暗示するかのような表情で、目を机に落した
今川を完全に尾張から追い出すことができたのは、義元を落してから一ヶ月が経った後だった
尾張と三河の国境付近で今川に与した者が匿い、どうにも収拾が付かない状態だったのを、西尾張の豪族や、新たに織田の傘下に与した東尾張の国人らに助けられ、国境を張っていた勝家らの働きも併せて漸く一呼吸吐(つ)く
犬の嫁入り支度に局処は華やぎ、本丸では次の戦に供えての雰囲気も漂い始めるが、まさか今直ぐと言うわけでもないだろうと、どこか開き直りの気持ちも持っていた
そんな想いをぶち壊す、帰蝶の一言
「斎藤狩りを始める」
その瞬間、表座敷に集まった面々が一同に横に倒れた
「とっ、殿!今川戦も終えたばかりで、もう斎藤戦ですかっ?!」
少しは休ませてくれと言わんばかりに、秀隆が反対する
「当然だろう?織田は今川を倒したんだ」
「それが何なんですかっ」
兄を亡くした傷もまだ癒えぬ弥三郎も食って掛かる
「今川を倒したって、尾張はまだ完全には殿の手の中にあるわけじゃない。犬山だって今回のことで、清洲に対し何らかの声明だって出してないんですよ?」
つまり、佐治家のように帰蝶に靡くとも、益々反感を持つとも情報は入って来ていない
ただ大人しく静観しているに過ぎなかった
「この勢いを生かさず、いつ生かす」
「ですが、相手は斎藤です」
誰も言えないことを、可成は言う
「兄上様を相手に、戦えるのですか?」
「どう言う意味だ、三左」
「今まで、攻め込むことすらできなかった相手です。隣り合わせに居ながら、今まで、ただの一度も攻め込ませなかった男を相手に、戦えるのですか?」
「 」
可成の言葉に、帰蝶が一番早く気付く
忘れがちな事実を
『攻め込んで来たから倒せた今川』と、『側に居ながらこちらから向かっていくことができなかった義龍』とでは、格そのものが違うと言うことを、可成の言葉は示唆していた
「だが、斎藤戦なら今まで何度も経験してる。殿はその度に追い出したんだ。万が一にも次に戦いが起きても、負けるとは想えないが」
と、信盛が言う
「追い出せた。確かに、追い出せた。だけどみんな、忘れているのか?」
「 ?」
可成の言葉に、首を傾げる者も少なくない
「今の今まで、たった一度として、総大将・斎藤新九郎は出馬していない」
「 ッ」
その瞬間、全員が全員、絶句した
そうだった
今まで何度も斎藤とは尾張で戦っている
だけど一度として、『義龍』とは戦っていない
それを、想い出した
「それでも、美濃に攻め込むというのであれば、それなりの覚悟を以って望むべきです、殿」
「 」
可成の言葉に、帰蝶は何も言えなくなった
あれから何度、肌を通わせ合っただろうか
抱く度にどんどんと愛しくなって行くさちを、利治は布団の中でぎゅっと抱き締めた
武家長屋だからと言って、金を持っているわけではない
粗末なあばら家で暮らしていると言うことは、暮らし向きもそれなりの物しか得られない
当然、この時代、布団は高級品で、長屋で暮らす利治が買えるような代物ではなかった
そんな布団に包まれてさちを愛せるのも、偏に布団を差し与えてくれたなつのお陰だった
なつからは充分な愛情を注がれ、その反面、血の繋がった実の姉からは想像も付かないような仕打ちを受けている
これが世間では『とんとん』と呼ばれ、利治への嫉妬の感情もやっかみも持たれずに済んでいるのだから、結果的には姉の仕打ちのお陰でぬくぬくと暮らしているとも言えるのだろうか
山名に続き桶狭間山でも武功を挙げたが、だからと言って行き成り裕福な暮らしができるわけでもなく、今も変わらず貧乏長屋で生活をしている
そんな自分が、さちを養って行けるのかと聊か不安でも居た
情事の後、互いに大きく深呼吸し、腕にさちの頭を抱く
「 私は、貧乏暮らしは平気・・・」
小さな声で、健気な可愛らしい言葉を吐く
「私も働くし、知行だって少しずつ上がってるから」
帰蝶の局処の部屋管理を任されているさちは、確かに戦でしか稼ぎようのない利治に比べれば、収入が安定している
増してや局処だけではなく台所の手伝いもしているのだから、帰蝶となつの両方から与えられている知行だけでも充分、二人で暮らしていける額だった
おまけに質素な生活を好むさちは、今までもらった知行を然程使いもせず、実家に仕送りまでしているのだから大した物だった
尚更、その行為が帰蝶らから可愛がられ、時には寸志として小遣いまでもらっている身の上だからか、手にある金の額だけでもう既に利治を超えていた
「でもなぁ、嫁に来てもらうとなれば、共働きは抵抗があるし」
「ふふっ。新五さんて、意外と見栄っ張りなんだ」
「え?そうか?」
「だって、死んだお兄ちゃんのとこは、夫婦で共働きだったもん」
「そりゃお能は、稲葉山城に居た頃から姉上付きの侍女だったんだから、姉上の性癖とかも良く知ってるし、使い勝手も良いからな」
「お兄ちゃんが死んじゃって、お能さん、どうするのかな・・・。また、局処に帰って来るかな」
さちは、お七と平次のことは知らされていなかった
周囲もまだ子供と見ているさちに気遣って、大人の事情は聞かせないようにしている
ただ、お能が産んだ徳子のことは、なつから『方便』を聞かされていた
その事情もやはり、聞かせられないままでいる
「この間、村井様が屋敷に来て、次男のお勝を欲しいって言って来たって、弥三郎兄ちゃんから聞いたの」
「お勝丸を?」
「村井様、お勝が生まれた時から目を掛けてくれてたそうで、それで、お兄ちゃんが死んで、お能さんも一人で育てるの大変だろうからって」
「養子ってことか?」
「うん」
養子と言っても、他人になるわけではない
親は親でちゃんと存在し、その上で他人の手で育てられることなど、特に変わったことでもなかった
そう想うなら利治も、母親の手ではなく乳母の手で育てられたのだから、仕組みが違うだけでやることはなんら変わりはない
「那生ちゃんとお花ちゃんも居るし、長男の坊丸も、まだ小さいし」
「そうだな。口減らしも必要だな」
「口減らしって・・・」
利治の言葉に、さちは眉を顰めて顔を見詰めた
「それ以外に表現があるか?」
「 」
何も言えず、さちは黙り込んだ
「一番考えなきゃなんないのは、坊丸だ。土田家の跡取りなんだからな、どこかの武家に預けないと、嫡男としては育たないぞ?池田殿は母上様が武家の女だったから問題はなかっただろうが、お能は武家の娘じゃない。商人の娘だ。どうやって武家の嫡男として育てるか、一人じゃわからないだろ」
「それは多分、弥三郎兄ちゃんが請け負うと想う。弥三郎兄ちゃんのとこ、一人娘しか居ないから、経済的には余裕もあるし」
「そうだな。そう言われてみれば弥三郎さんのとこも、夫婦共働きだし」
「人が死ぬのって、その時は物凄く悲しいけど、残された人間は大変だわ。嘆き悲しんでばかりじゃ居られないし、お兄ちゃんとこは子沢山だから泣いてる暇もないみたいだし・・・」
だから、徳子が帰蝶の養女として局処でもらわれたのだ、と、さちはなつから聞かされていた
徳子がそれより早くもらわれたことについても、子沢山で大変だからと言う理由しか聞かされていない
さちはまさか、夫の浮気の発覚でお能の気が触れ、徳子を捨てたなどとは想っていない
まだ、大人の薄汚い世界を見ていないさちには、なつの言葉を疑う余地などなかった
姉に、どうやってさちのことを話そうかと思案しながら、姉の居るであろう局処へと向う
二度の実戦で利治にも自信が付き、休憩の合間の稽古もここのところ休み勝ちになっていた
最も、稽古相手の慶次郎が居たり居なかったりするので、利治としても稽古ができたりできなかったりが実情だが
腕を組んで難しい顔をしていると、後から恒興に声を掛けられる
「新五様」
「 勝三郎殿」
局処手前の大廊下で、色気もなく恒興と立ち話を洒落込む羽目になった
「そう言えば、奥方殿が懐妊なされたとか?」
「はい。今川を追い出せ、安心して初産に臨めると、妻も喜んでおります」
「芽出た続きですね」
「手放しには喜べませんが。ところで、新五様は何用で局処へ?」
「ああ・・・、まぁ、姉上に、ちょっと」
言葉を濁す利治に、恒興は目尻を下げて自分の身の上を話す
「私は千郷の様子を母上にお伝えするため上がったのですが、その母上が犬姫様の嫁入り支度に乱入して、大方様と毎日あれやこれやと道具一式揃えるのを競い合っているとか。ははは、おなごの世界は平和でございますなぁ」
「そうですね」
顔では笑い、心の中では「そこまで聞いてねぇよ」と悪態を吐く
「それにしても」
弟のように想っていた利治が、すっかり立派な青年へと成長しつつある様に、恒興は人の良い優しい目を潤ませ始めた
「勝三郎殿?」
そんな恒興に、利治は目を見張って顔を覗き込んだ
「随分大きくなられて・・・」
「そうですか?」
言われてみれば、姉の世話になり始めた頃は見上げていた恒興の顔が、気が付けば自分の肩の辺りにある
慶次郎から言われた言葉を想い出した
お前は何れ大きくなるから、ちんたらと刀を振り回すよりも槍を振り回している方が良いと、奥方様が言っていたと言う、昔の話を
「きっと、おなつ様のお陰です」
薄く目を閉じた利治の様子は、とても美しい姿をしていた
さすがに帰蝶とは同じ血を引く弟だと、言わざるを得ないほど
「母上の?」
「安月給の私では、充分な食事は得られませんでした。それに、自炊だって。そんな私にさちを寄越してくれ、差し入れの米や饅頭なんかも持たせてくれて。お陰で私は自分の望み通り、大きくなれました」
「新五様・・・」
「私が大きくなれたのは、全ておなつ様のお陰です」
「そう言ってもらえると、息子の私も鼻が高くなります。ありがとうございます」
「いえ、そんな・・・」
こちらが頭を下げねばならないのを、寧ろ恒興の方が頭を下げて来るものだから、利治は慌てて恒興を起こした
そんな二人の後ろから、帰蝶の声がする
「何をしているんだ、男が二人でこんな廊下の隅っこで」
「 姉上・・・」
用事があるから参上したと言えば、姉は黙って自分の部屋に通す
姉弟(きょうだい)なので、人払いをするまでもなく二人きりになれるのは楽だった
他の人間と違い、面倒な手続きも要らないのだから
が、血の繋がりはあっても、乳繰り合えるほどの仲の良さでもないのが恨めしい
何をどう話せば良いのか、見当が付かなかった
「何の用だ?」
相変わらずつっけんどんな言い方しかしない
父が死に、自分も逃れて尾張に来て四年が経っている
なのにこの姉と来たら、可愛らしい仕草も女らしい言葉も使えていない
何より心配なのは、姉がさちを嫁にもらうことを承諾してくれるかどうか、であった
さちは武家の娘ではないと断られたら、今の自分には諦めるしかない
それが悲しかった
「話がないのなら、出て行け。私はお犬殿の花嫁道中の打ち合わせに来ただけだ。暇を潰しに来たわけではない」
「あっ、あの・・・!」
実の姉ではあっても、自分一人の姉ではない
織田を背負ったその身に、甘えていられる余裕はなかった
利治は今を逃がしたらもう二度と、姉と二人きりになることはないのではないかと強迫観念に駆られ、喉を押し潰す重圧に耐えながら想い切って言った
「じっ、実はっ、さっ、さちと夫婦になりた 」
「話とは、そのことか?」
「あのっ・・・、え?」
怖い顔でもするかと想いきや、全くそう言った素振りもなく、寧ろ呆れたような顔で面倒臭そうに髪を掻き上げて自分を見詰める姉に、利治は不思議な物でも見るかのような目で見詰め返す
「お前らしいな、中々先に進めんのは」
「あれ・・・?」
「さちなら、私も異論はない」
「あれ?」
目を釣り上がらせて反対するかと想っていたのが、そうでもなかったことに肩透かしを食らう
「言っただろう?お前が決めた女なら、誰でも良いと」
「仰いましたが・・・」
「さちは、弥三郎の妹、清洲を守ってくれた平三郎の妹だ。平民だから、反対するとでも想ったか?」
「 お市様の時が、そうでしたから・・・」
「市は織田家の娘、正妻生まれの姫君。だがお前は姫君ではない。お前と市とでは、立場も責任の重さも違う」
「そりゃそうですが・・・」
それでも、結局は市のことを許した
だから自分のことも許してくれたのだと、利治は苦笑いを浮かべる
「確かに兄上を追い出した後の、斎藤家の跡取りにお前を据え置くつもりだが、お前は男なのだから、都合が悪ければさちを」
「姉上ッ」
姉の目は、こう言っていた
『都合が悪ければ、さちを降嫁すれば良い』と
だから、利治は姉の言葉を塞き止めた
悲しいが、姉も武家の惣領としての心構えが徐々に根付いて来たのだろうか
市を許したのだから自分のことも許してくれた、と想えたのは、自分の勘違いであったことを、利治は気付いてしまった
利治とさちの話は、その後直ぐ、弥三郎、菊子夫妻に伝えられた
二人揃って帰蝶の報告を受ける
弥三郎は唖然とし、菊子も開いた口が塞がらない
「お前達の言いたいことはわかる。平三郎のこともあったその直ぐ後で、さちのことを聞かされても受け止める余裕はないだろう。それでも、新五の妻にさちを貰い受けたい」
「ですが・・・、殿・・・。さちは・・・」
「武家ではなく、元武家の娘で、今は平民だと?」
「 新五様とは、身分が違います」
「私もそう想った。だが、さちなら、とも想う」
「さちなら?」
「なつが新五の世話係にさちを選んだのは、その時たまたま手の空いたのがさちだったと言うのは聞かされている。だが、それから何年も経っているのに、その間私は二人について聞いたことはなかった。さちは自分を弁えた娘なのだと実感した。それも偏に、お前の母親、おやえ殿の教育の賜物だと想っていた。そんなさちだからこそ、新五は惹かれたのだと想う」
「殿・・・」
「結婚を意識したのだ。二人は恐らく一線を越えただろう、それでも、超えるのならとっくの昔に超えていても不思議ではないのに、今になって夫婦になりたいと言い出す。弥三郎、武家にとって身分は確かに大事だ。私もこれからは重用しなくてはならないだろう。だからこそ、今しかないと想ってる」
「今しか・・・?」
「この機会を失えば、二人は永遠に夫婦にはなれない。そんな気がしてならないのだ」
「 」
帰蝶の言いたいことは、なんとなくわかる
今川を倒したとて、織田が急に大きくなるわけでもない
『今川を倒した』と言う実績が付くだけである
織田が膨れ上がるのは、これから先
今はまだ、その一段階目を上がっただけに過ぎないのだから
「つまり、織田が大きくなればなるほど、新五様とさっちゃんが夫婦になることも難しくなると?」
漸く現実に戻った菊子が訊ねる
「私は弟に言ったことがある」
「何と?」
「好きな女ができたら、知らせて欲しいと。できる限り祝ってやりたいと。その言葉を今更なかったことにすると言うことは、これから先、私は吉法師様との約束さえ反故にしても構わないと言うことになる」
「そんな・・・」
それは飛躍し過ぎた物言いだとしても、帰蝶ならそう考えても不思議ではない
一途で融通が利かぬ頑固者なのだから
土田家は時親の喪がまだ明けてないとの理由で、さちは別の家から嫁ぐことになった
それを受け入れたのは、なつである
利治が清洲に移ってからの乳母であることと、恒興が烏帽子親であることが由縁となり、また、稲がまだ嫁に入る予定もなかったからか、市弥に対抗して随分と張り切っていた
「いやぁ・・・、まさかうちでさちを嫁に出せるとは、想ってませんでした」
妻に続き利治の祝い事続きに、恒興は自分のことのように喜んだ
理由はどうあれ、さちと夫婦になることを認められたのだから、自分も恒興のように素直に喜ぶべきだろう
この日利治はさちと共に、初めてなつの私室に呼ばれた
帰蝶が質素な佇まいの部屋にしているから、と言うのが事情かどうかはわからないが、化粧をしている割にはなつの私室も慎ましい内装だった
部屋そのものは広いが、特に派手な飾り付をしているわけではない
それでもやはり女の部屋らしく、微かに香や化粧の香りが漂っていた
「名目上とは言え、さちはお前の妹になります。嫁入り前まで、しっかり面倒を見なさい」
「はい、承知しております、母上」
「嫁入り道具は私に任せなさい。東西一の化粧箪笥を用意させましょう」
「いえ、そんな。部屋、狭いですから入りません・・・」
苦笑いするさちに、なつか『かっ!』と目を見開いて言ってのけた
「何を言うのです。あなたは池田から嫁に出ることになるのですよ?なのに、何も持たせず嫁に行かせるのは、私の矜持が許しません。それに、池田の義娘(ぎじょう)が武家長屋で暮らすと言うのも辛抱なりません。新五様と共に、池田の屋敷に移ってもらいます」
「えっ?!」
これには利治が目を剥く
新婚だと言うのに、何が悲しくて恒興夫妻の世話にならなければならないのか、と
「不服があるなら、ご自分の腕で妻を養える家屋敷を建てて御覧なさい、新五様」
「そうですね・・・」
「斎藤家のご嫡子、池田の娘が貧乏長屋で肩を寄せ合って倹約暮らしなど、仮親としても世間に顔向けできません」
「 」
何も言い返せず、黙り込む利治
武家の親とはこれほど厳しいものだったのかと、改めて想い知らされたような気がした
利治がしんみりとしている横で恒興は、『妹』になるさちを、鼻の下を伸ばしてデレデレと眺めている
「どうしたの、勝三郎。気持ち悪いわね」
「いえ、何て言いますか」
「何なの」
「妹かぁ・・・と」
目尻まで下がって来る恒興に、さすがのさちも腰が引ける
「妹って、お前には稲が居るでしょう?」
「居ると言われましても、稲殿は妹であって妹ではありません」
同腹妹ではあっても、稲の場合、半分は主家である織田の血が入っている
家臣の身分である自分とは、立場が違っていた
その点、さちは自分よりも下に居る
おまけに美男子・弥三郎の妹でもあるため、さちも美少女であった
きちんと身形を整えれば、一国の姫君と見紛っても仕方がないほどの
「私に妹ができたのか、と、嬉しくて、つい・・・」
日頃から人の良い恒興の、心底喜ぶ姿にさちも、腰が引けたことを悔いる
「あの・・・。貧乏人の妹ですが、宜しくお願いします・・・」
少し頬を染めながら、普段口にしない冗談を精一杯言葉にするその姿がいじらしい
「えと、さち殿・・・、妹として可愛がってもよろしいでしょうか・・・?」
と、恐る恐るさちに訊ねる
「はい、喜んで」
満面の笑みは、利治でなくても魂を射抜かれる
「 」
ほんわかとした温かい気持ちに包まれ、恒興はそっとさちの頭に手を当てた
それから
「 あ・・・、あの・・・」
髪がくしゃくしゃになるまで、撫で回す
「勝三郎・・・。怖いから、やめなさい・・・」
さちの頭を撫で続ける恒興に、なつは呆けたように呟いた
当のさちも、夫になることを認められた利治も、呆然とする
そんな、穏やかで和やかな光景
もう、局処でしか見れなくなって久しい
今川軍を完全に追い出してから、美濃攻めの準備に取り掛かる
本丸は既に戦が始まっていた
「美濃でこちらに寝返りそうな豪族、国人は」
「はい、今のところ羽島の辺りに何件か」
「一宮の由縁か?」
「そうですね。長良川での合戦以降、こちらを支援してくれている商人なども居ますので、そう手間は取らないかと」
表座敷で軍議が始まる
奥座敷では市弥となつが競って、其々の家の嫁入り支度に躍起になっている雰囲気とは、全く違っていた
「革手が欲しい」
嘗て土岐家の本拠地であった土地である
「しかし、斎藤にですら反感を買っている場所です。そう簡単に他人である織田に靡くとは想えません」
「それでも、井ノ口とは目と鼻の先である革手を落せば、稲葉山城を目の前に置ける。その近隣も手に入れれば、斎藤攻めは容易くなる。三左」
「はい」
「革手に関しては、お前は長く住んでいた。何か手立てはないか。必要なら、新五を使ってくれても良い」
「手立ては想い付きませんが、手間を掛けるなら周辺の商人を尾張に靡かせ、斎藤を日干しにしてしまえばよろしいかと」
「できそうか?」
「岐阜屋殿の助力も必要になりますが」
「 」
即答できない
その岐阜屋の娘であるお能が、夫の浮気、隠し子発覚、その後の夫の戦死で随分と心に大きな負担が掛かっていた
今も充分に寝起きできる状態ではないと弥三郎からは聞かされているお能を、戦で使うことはさすがに良心が痛む
「殿。小牧山に築いている砦を、もう少し大きくしたいのですが」
と、長秀が進言した
「どうしてだ?」
「はい。今川との戦いで鷲津の砦普請に携わりましたが、後に見て回りましたら、改善の余地があったことに気付きました」
「どう言うことだ?」
「私は背後の防衛を強化するため、正面を広く取っておりました」
「ああ、知っている。私好みに作ってくれたそうだが、叔父上には通じなかった」
「それが敗因ではなかろうかと」
「それで?」
「小牧山の砦も正面に重点を置いて普請しております。ですが、万が一にも四方から斎藤の攻撃を食らったら、持ち堪えられるだろうかと疑問に想いまして。先日、森殿のお話にもあったように、斎藤治部大輔様とはこれまで一度も交戦しておりません。何れも斎藤の家臣らとの戦いです」
「ああ」
「ですから、斎藤治部大輔様がどのような戦い方をなさるのか、あらゆる想定を念頭に置かねば、砦として機能しないのではないかと想いまして」
「わかった。お前がそこまで念を押したいと言うことは、それなりの考えがあってのことだろう。普請費用は吉兵衛と相談し、算出してくれて構わない。お前の想うとおりの砦に仕立て直せ」
「ありがとうございます」
美濃攻めに向けての改築普請が始まって何日か過ぎた頃、犬が知多に嫁いだ
その道中は華やかなもので、付き添う侍女百人、護衛の兵士が三百人、織田家当主の名代に五十人、祝辞を届ける使者三十人、引き出物の引渡しに百五十人
花嫁道具も煌びやかに、箪笥は勿論、当時としては珍しい鏡道具一式を詰め込んだ化粧箱、桐でできた琴、茶道具、香道具、華道具、それらを東西一の馬十数頭に引かせ練り歩く
道すがら投げ配られる菓子を積んだ荷駄車だけでも、十二台が続いた
同じ頃、恒興の住む屋敷で、利治とさちの祝言も行なわれた
帰蝶の名代としてなつが上がり、さちの両親を小牧山砦普請に携わっている長秀が連れ帰り、利治の親代わりとして貞勝とその妻が同席した
友人である慶次郎と妻の初、佐治と市も来賓として席に着く
池田家の嫁として、身重の千郷がさちの世話をする
元々肌の肌理も細やかなさちの、白粉顔はとても美しく輝き、見る者全ての心を虜にした
夏の近付く明るい日差しの中、白無垢衣装がまるで地上に降りた天道のように眩しく光る
「 」
自分でも照れ臭く、利治になんて声を掛ければ良いのか言葉が見付からないさちに、利治は見惚れながら呟く
「綺麗だ、さち」
白粉を塗ったさちの頬が赤く染まる
利治を見ているのも恥しい気分になり、さちはそっと俯いた
その角度で、紅を差した口唇が小さくなる
それはさちを益々美しく見せた
弥三郎は美濃攻めに向けての準備があり参加できず、菊子も本丸の勤めで休憩の合間を縫っての参列になったが、隣近所にも参加させると言うなつの配慮で、祝言は賑やかなものになった
空に向けて鉄砲が放たれ、祝言が無事に行なわれていることを清洲城に居る帰蝶に知らせる
微かなその音を聞き、帰蝶は少し微笑んで机に顔を落した
六月、帰蝶は第一次美濃攻めを強行した
まだ鉄砲傷も癒えぬ躰であるため、なつからは出陣を固く禁止され、信盛が総大将として出陣した
勝家はまだこの頃、尾張と三河の国境沿いで今川の残兵を追い出している最中だった
美濃に向わせるわけには行かない
それを謀るかのように、遂に犬山が動いた
伊予が嫁いでいながらも、犬山は清洲に対し牙を剥き、義龍に寝返り、清洲軍に襲い掛かった
信盛が挟撃されることを恐れた帰蝶は、慌てて援軍を送った
ところが、その援軍を斎藤方・大垣の長井家が迎撃し、帰蝶は新たに恒興らを援軍に送り込んだ
現場で指揮できぬ帰蝶には、その現状が良く把握できない
兎に角の撤退を命じた
今の織田には、誰一人として欠けて欲しくなった
信長の夢の続きを共有するならば、尚のこと
犬山城城主・織田信清の裏切りにより、しばらくは睨み合いの状態が続く
八月、今度は帰蝶が動いた
「義母上様。酷なことを申し上げますが、伊予殿のことは、お諦めくださいませ」
「上総介・・・」
帰蝶の言葉に、市弥は悲しげに眉間を寄せた
「側室生まれの娘であろうと、これまで愛情を注いで育てた、義母上様にとっては実の娘も同然。ですが、犬山に着いていながら織田十郎左衛門が清洲に歯向かうことを止められなかった。この罪は重い」
「 」
「犬山を攻めます」
「 存分に・・・」
武家の女として、市弥はそれを口にするので精一杯だった
織田から初めて嫁に出した娘である
なつと共に嫁入り支度を楽しそうにやっていたあの頃が、ただ懐かしかった
返事を受け、颯爽と立ち上がり部屋を出る帰蝶の背中を、市弥はぼんやりと眺めた
帰蝶は息子の愛妻
理解できなかった息子を理解し、愛したその女は、織田のために粉骨砕身で今日までやって来た
それこそ、並みの心力では務まらなかっただろう
そんな嫁を自慢に想い始めた頃、やはり織田とは違う血が流れている人物なのだと想い知らされた
帰蝶の選んだ選択肢が間違っているとは想えない
それでも、恨み言をと誹られようが、少しだけでも良かった
犬山を説得する努力を見せて欲しかった
帰蝶は犬山を説得するわけでもなく、美濃攻めの横槍を入れたことにより、完全に犬山を落そうとしている
これから先の未来をも考えての結果だろう
それでも、市弥は納得できなかった
そして、帰蝶を動かしたのも、やはり自分の犯した罪がそうさせているのだと後悔する
自分が、信長と信勝を仲の良い兄弟に育てていたら、こんなことにはならなかったのに、と・・・
今川軍の一掃を完了させた勝家を先頭に、再び美濃に攻め入ることを決めた
前回の失敗を踏まえ、帰蝶は清洲ではなく小牧山を拠点とした
この頃には長秀の普請も完成している
八月二十二日
この日の夜、帰蝶の織田本隊が小牧山の砦に入った
弥三郎、恒興、勝家らの先発隊は既に砦入りしており、帰蝶の本隊を出迎えた
急場凌ぎとしても、長秀の普請は随分としっかりした構えであった
前面はやや広く、三方を高い土塁で守られ、その周囲には深い堀で張り巡らされている
「種明かしは単純です。堀を掘った土を土塁に積み上げただけですから」
そう笑う長秀に、帰蝶もつい笑う
「それでも、相変わらず私好みだ。万が一に撤退しても、これなら正面突破もできる、篭城もできる」
「両方を想定して作り直しました」
「でかしたぞ、五郎左」
「いえ、当然のことで・・・」
綺麗な笑顔を浮かべる帰蝶に、長秀も少し頬を染めて俯き、照れ隠しに頭を掻いた
「ですが申し訳ことに住居用には造っておりませんので、過ごし難いかと想います」
申し訳なさそうに謝る長秀に、帰蝶は軽く笑う
「防衛の本拠として築いた砦に、快適さを求める方が間違えている」
「恐れ入ります」
「なるほど、しっかりした造りだ。お前は普請に向いた性質をしているな」
砦を正面から見渡し、感心する
それまでの戦は、地元の商人や町民を味方に付けた戦い方をしていた
城から衛兵を出さずとも敵を追い出せてはいたが、今回は町人を巻き込んだ戦はできない
増してや自分から初めて美濃に攻め込むのだから、一般人にまで一緒に雪崩れ込んで欲しいなどと願うはずがない
三方の構図は頑丈に、正面を脆弱に見せ掛けながらも、迎撃には最適の見通しの広さ
しかしそれでいて張り巡らされた土塁、その周囲の深い堀が敵の侵入を困難なものにしている
「随分高い土塁だな」
積み上げられた土塁を見上げ、帰蝶は呟いた
「はい。これは『切岸』と呼ばれるものです」
高さとしては、帰蝶の首の下辺りまである
「切岸?」
「本格的な切岸なら、もっと高く積み上げないと駄目なんですが、掘った土ではこれが限界で。『切岸』とは、山などに築かれた城の防衛を目的とした人工の断崖のことです。ご存じないので?」
「稲葉山城は自然の要塞だ。そう言うものは必要としない。だから、知らなかった」
「そうですか。尾張にある山は、どれも標高の低いものですから、切岸がどうしても必要でして。犬千代の実家の荒子城も、こう言った切岸で囲まれております」
「ふむ。築城にも色々と、学ばなくてはならないことがたくさんあるのだな。お前はそう言ったものには詳しいのか?」
と、帰蝶は長秀に訊ねた
「詳しいと言うほどのことはありませんが、敢えて言うなら趣味、でしょうか」
「趣味?」
「どう言った構成なら敵を退けられるか、あるいは驚嘆させられるか、そう言うことを考えるのが好きでして」
照れ笑いする長秀は、年相応の青年に見えて愛らしかった
「そうか。ならこれからも、築城や普請はお前に任せよう」
「 え?」
あっさりと自分を信頼する帰蝶に、長秀は目を見開く
「わ、私でよろしいのですか・・・?」
「良いも悪いも、私は人を見る目には自信がある。その自信を、お前は否定するのか?命知らずだな」
「そそっ、そんなっ、滅相もございませんっ・・・!」
長秀は慌てて訂正する
「ただ、私は経験も浅い青二才でございますから、殿のお役に何処まで立てられるか・・・」
「経験が物を言うのは戦のみ。それ以外は、人其々が持つ才能で左右される。下らぬ不安など、これからお前が積み上げる実績で払拭させろ」
「はい・・・」
厳しい顔をするわけでもない
逆に、優しく微笑むわけでもない
それでも帰蝶の言葉に、長秀は胸が温まる気がした
「よし、軍議だ」
「はい」
砦の広間を表座敷に見立て、全員が顔を揃える
「前回は大垣が横槍を突き、右衛門の撤退を余儀なくされた。今回も長井が出て来るだろう。それだけじゃない。犬山も何処から現れるか想像ができない。ならば、犬山の出て来るだろう場所を全て封鎖する」
「全て封鎖?」
「封鎖部隊に蜂須賀」
「はい」
桶狭間山の実力を見せ付けられ、正勝も大人しく従う
「塙、長谷川、坂井」
「はい」
三人が続けて返事する
「統括指揮は林に任せる」
「承知」
「犬山から小牧まで、山岳は存在しない。封鎖も比較的迅速に行なえるだろう。私よりも犬山に関しては林が詳しいからな、信頼してるぞ」
「及ばざることとならぬよう、努力致します」
秀貞は軽く平伏した
「美濃攻撃部隊先鋒、権」
「はい」
「三左」
「はい」
「両名で道を開け。右翼、弥三郎」
「はい」
「左翼、市丸」
「はい」
弥三郎と成政が立て続けに返事する
「其々二部隊ずつ選考し、補佐に就かせろ。以前のように横を突かれるような失態だけは、繰り返したくない」
「承知しました」
「ここから二手に別れ、犬山と稲葉山城を目指す。更に井ノ口から稲葉山城と大垣に別れ、大垣方面に勝三郎」
「はい」
「小牧山の後詰は五郎左に任せる。丹下同様、決して落されぬよう死守せよ。携わったお前なら、上手く活用できるだろう」
「承知しました」
「明朝、出発する」
「はっ!」
一同が一斉に頭を下げた
小牧山に織田軍が集結していることは、夕庵にも伝わる
この頃顔色も良くない義龍を中心に、軍議が行なわれていた
「犬山を背後に、再び押し寄せるか」
顔色は悪くとも、義龍の機嫌は頗る良い
「さて、懲りない妹には折檻が必要だ。夕庵、どう出る」
「はい」
夕庵の言葉を、美濃三人衆が固唾を飲んで見守る
「小牧山に布陣したと言うことは、恐らく犬山を警戒してのこと。ならば、犬山には派手に動いてもらい、織田を撹乱。小牧山を混乱させます。そして、六月の時点で出て来た大垣にも、何かしらの支援は送るでしょう。大垣には迎撃を。勿論、この稲葉山城を目指す以上、我らも迎え撃たねばなりません」
「撫でるようにか?それとも、本気で掛かれば良いのか?」
挑むような義龍の言葉
それに応え、夕庵ははっきりと言い切った
「二度と立ち上がれぬまでに、徹底的に叩きます」
「 」
ずっと、帰蝶と内通していたと想い込んでいた守就は勿論のこと、稲葉一鉄良通、氏家卜全直元も目を見張った
「徹底的に・・・ですか」
想わず漏らした直元に、夕庵は目を向けて応えた
「以前、稲葉殿が敗退されて戻られた後、私なりに考えました。織田上総介の初陣は、双方に被害の少ない戦い方をしていた。だが、姫様が嫁がれた後に行なわれた合戦では、多くの死傷者を出している。この違いは何だろうと」
「確かに・・・」
言われてみれば、独身だった頃と所帯を持った後とでは、戦い方が変わっている
「そこで、もう一度考えてみたのです。私達は、誰を相手に戦っているのでしょうか」
「誰を相手に 」
「痛い目を見ても、懲りないのが姫様です。決して諦めぬその姿勢は賞賛すべきことですが、言い方を変えればしつこいの一言に尽きます。織田上総介が負けを認めたとしても、姫様が居る限り織田は何度でも斎藤を攻める。ならば、攻め込む気力を根こそぎ奪ってしまえば、当分のことと言えど、織田も静かにはなりましょう」
「どうやって、織田を静める」
今度は義龍が訊ねて来た
「本隊を叩けば、雑作もないこと。本隊は間違いなく稲葉山城を目指すでしょう。それを迎え撃ち、更には援軍も来れぬ状態にすることは、難しくはありません。織田上総介の首でも落とせば、間違いなく織田は沈黙する」
「 」
夕庵の話を、利三は黙って聞いていた
信長はまだ生きているのか
四年前、この手で信長に鉄砲の玉を撃ち込んだことは、今も記憶に新しい
なのにまだ生きて、織田を動かしている
「余程の強運の持ち主か」
と、小さく呟く
尚更、信長への憎しみだけが増した
夜明けが来る
帰蝶は静かに立ち上がり、表に出る
来光を背中に松風に乗り込んだ
初めての、兄との直接対決
結果がどう転ぶか、さすがに帰蝶にもわからなかった
「殿」
馬に跨った可成が声を掛ける
特に話すことなど、何もない
だが、実家を相手に戦う帰蝶の心中を考えると、素通りすることもできなかった
「斬り込み、頼んだぞ」
「承知」
弥三郎の部隊が出発する
そこには新婚の利治の姿もあった
桶狭間山での活躍に、利治の居る場所も随分と部隊長である弥三郎の近くになっている
義理の弟になったからか、それとも単純に腕を買ってくれているのかは、わからない
大垣方面に向う恒興の部隊も、それに続いた
佐治の士族名も考えねばならないのを、忙しさに感けてずっと放置している
この一戦が終われば、ゆっくり暇を取って名を考えてやろうと想った
犬山方面へ向う部隊が、秀貞に率いられて砦を出る
夫を死に追い遣った相手としても、秀貞自身は信長の死を望んだわけではない
結果論で人格を格付けてしまうのも、感情論に走るのも、自分の性質には合わない
帰蝶は黙って林部隊を見送った
秀隆率いる黒母衣衆が馬を揃えて出発する
帰蝶の本隊がそれに続いた
「織田軍、出陣!」
成政の声が鳴り響き、砦は長秀の部隊を置いて四方に散った
これで何度めの交戦か
それまでは攻め込む度に手痛い撤退を繰り返したが、今回は総大将の義龍自ら指揮を執る
過剰に期待してしまう自分を抑えながら、利三は玄関を出た
「では、行って参る」
「いってらっしゃいませ」
見送るあんの腹が、ぽこんと膨らんでいた
「後は頼んだ」
その腹を軽く撫でながら、子供らのことを委ねる
「はい、承知しました。どうか、ご健勝で」
「ああ」
背中に戦勝の期待を背負わせ、屋敷を出た
馬に乗り込み、これから始まる戦に出向く
運命とは、時には残酷な現実を見せ付けるものだと言うことを、この時の利三はまだ知らなかった
稲葉山城だけを狙っても、その周辺には斎藤の付け城が数多く点在する
帰蝶は大垣まで伸びる戦線を保つため、稲葉山城、大垣城の間にある墨俣砦に目を付けた
「長井の築いた砦だが、その長井が大垣に引込んでいる以上、警備も手薄のはず。素早く落とし、占拠せよ」
「はっ!」
それを、夕庵が見抜かぬわけがなかった
「姫様は恐らく、大垣手前の墨俣に目を付けるはず。表にはできる限り兵を残さず、潜んで一気に襲い掛かれば、織田も驚いて混乱するでしょう」
革手で本隊と大垣城攻めの部隊が分散する
帰蝶は真っ直ぐ稲葉山城へ
恒興は大垣城へ
その恒興が墨俣砦手前まで到着した時、突然、周囲から斎藤軍が現れた
「 まさか・・・!」
正面の墨俣砦は見るからに警戒が薄い
そう安心させておいて、近付けさせ、一斉に襲い掛かる
「応戦しろッ!」
まさかの事態に慌てながらも、恒興は乱れた隊列を立て直そうと必死になって声を張り上げた
「左翼、固まるな!狙い撃ちされるぞ!」
だが、油断していた分、驚きの反動は大きい
隊列は乱れたまま、元には戻せなかった
一方、犬山を抑えるために向った秀貞らも、信清の迎撃態勢に翻弄された
「林様!これでは封鎖地点にも行けません!」
前方で立ち塞がる犬山軍に、一歩も先に進めない
寧ろ、犬山方の侵攻を許してしまう結果になる
こちらの作戦が、逆転された
「六方に分かれる!蜂須賀、坂井部隊は左前後二部に!塙、長谷川は右前後二部に!我らは正面二部に分かれる!犬山を挟み込め!」
稲葉山城を目指し、革手を抜けようとした帰蝶の前方に、斎藤の軍旗が靡いた
「殿!」
「 」
出迎えるつもりかと、帰蝶の口唇の端が歪む
「井ノ口には近付けさせないつもりか。ならば、正面突破だ!三左!権!左右に別れ、斎藤を蹴散らせッ!」
「おう!」
勝家が先に走り、斎藤軍に突進して行く
その後を可成が走り、道を開く
ここまでは、帰蝶の言葉どおりの結果になった
だが、その直後
「殿ッ!」
背中で秀隆の声がした
振り返れば、後方にまでいつの間にか斎藤軍の影が広がっている
「 どうして・・・・・・・・」
どうやって背中を取られたのか、帰蝶自身、理解できなかった
革手は斎藤に反発しているはず
なのに何故、その革手から斎藤の軍勢が現れるのか、どうしても理解できなかった
先には進めない
後退もできない
援軍は、ない
「 」
この光景に、帰蝶は目を見開いた
「五百の兵で、周囲を囲んでしまえば良いのよ」
遠い昔、戯言にそう言った自身の言葉を想い出す
俯く帰蝶の目が、怒りに釣り上がった
「姫様は、仰った。兵は塊で動くのが鉄則、と。そこに火矢を撃ち込めば、どうなるか、わからないはずがない」
夕庵の言葉が空(くう)を掠める
「危ないッ!」
帰蝶の居る本隊を目掛けて、無数の火矢が射られた
「・・・夕庵ンンン ッ」
地底から響くような声で唸る
帰蝶がそこに居ながら
秀隆も側に居ながら
それでも、混乱する織田軍を静かにさせることはできなかった
「姉上・・・ッ!」
後ろで姉の居る本隊が乱れていることに気付いた
戻ってどうなるのか
わからないままに、利治は戦列を離れ一人、炎の上がる織田本隊へと駆け出した
「殿!撤退をッ!革手は正面突破で突っ切ります!どうか、撤退を!」
秀隆の声に、帰蝶は大垣の城のある空を見た
煙は上がっていない
まだ、墨俣砦が落ちてない証拠であった
知恵者の恒興が手間取るはずがない
と、言うことは
「向こうにも・・・」
斎藤の手が回っていることを示唆していた
「 」
一歩も、兄に近付けなかった
近付けないまま、撤退せざるを得ないのか
何もできないまま
呆然とする帰蝶の目に、それは映った
「 お清・・・」
斎藤本家、撫子の軍旗が
それを目にした途端、帰蝶の頭は真っ白の状態になり、撫子の軍旗に向かって松風を走らせた
「殿ッ!」
驚いた秀隆が、慌てて帰蝶の後を追った
今、撤退すれば、織田は二度と斎藤に挑もうとは想わなくなる
これが苦手意識へと繋がり、自分がどれだけ命令しても、斎藤攻めに参加する家臣は現れないだろう
一矢でも良い
何か実績を残さねば、織田は二度と立ち上がれなくなる
『今川義元を倒した』事実は、兄にとって、歯牙に掛けるほどのことではなかったのだと、想い知らされた
なら
二度と美濃の地に踏み込めないのなら
「ああああああ ッ!」
せめて、夫の仇は討ちたい
そう想った
雄叫びを上げながら松風から飛び降り、兼定を鞘抜きする
着地すると同時に走り出し、たった一人、斎藤軍に突っ込んだ
これは自殺行為だろうか
「殿ッ!」
追い縋る秀隆自身、生きた心地がしなかった
撫子の軍旗は、その意味を知っている
斎藤の精鋭部隊の一つ、元々の斎藤の嫡流の家である証だと言うことを
無数の敵兵が帰蝶を取り囲む
それにも怯まず、帰蝶は無心で斬り掛かった
何がどうなっているのか、頭は少しも理解しない
端から見ていれば人外の何かが刀を持って暴れているだけに過ぎず、それは華奢な躰に綺麗な顔をした美将で、だけど目に見えぬ『力』を揮って味方兵を薙ぎ倒している
そうとしか、見えなかった
自分に斬り掛かる、あるいは槍を突き立てる敵兵を悉く打ち捨て、帰蝶は真っ直ぐ
ただ、真っ直ぐ、『お清』へと向って行った
あの時見た武将
帰蝶の横顔
それが正面から自分に掛かって来る
利三はそれを真っ向から受ける姿勢で槍を握り直し、その武将が自分に突っ込んで来るのを待ち構えた
「退けぇぇぇ ッ!」
我を忘れた帰蝶に、立ち塞がった雑兵の首が簡単に飛んだ
帰蝶の鬼迫に押され動けぬ者、あるいは腰を抜かす者まで続出した
いくつも、いくつも血飛沫を上げて、それは真っ直ぐ自分に向って来る
「あああああああ ッ!」
地鳴りのような雄叫び
それから、鬼のような気迫
帰蝶の刀を、利三は槍で受けた
槍が刀に絡め取られ、あっけなく飛ぶ
利三は咄嗟に腰の刀を抜き、迎撃態勢を整える
その、妖しい輝きを放つ兼定を、利三の刀が受け止めた
「 姫様・・・・・・・・・・」
帰蝶の顔と、利三の顔が
何年振りだろうか
こんなにも間近で合わさったのは
だが、帰蝶の目には懐かしさも邂逅も感じられなかった
ただ自分を敵として見ている目しかなかった
渾身の力を振り絞り、利三を弾く
利三の背中が後ろに押された
返す刀で利三が帰蝶に斬り掛かる
「引いてください!姫様!」
その声に、帰蝶は応える気はなかった
「あなたを殺したくない!お願いします!姫様ッ!」
「うああああああ ッ!」
怒号と共に兼定が空に煌く
利三は咄嗟に刀の腹で受け止め、帰蝶ごと弾き返した
その力は強大で、帰蝶の躰ごと後ろに飛ばされる
だが、反射神経そのものが普通の女のものとは違う帰蝶は、倒れることなく踏み止まり、脚だけが引き摺られるように後方に下がった
それが自分との間合いを取り、利三は刀を握り直す隙ができた
構えに入り、帰蝶の手にある兼定を落すことを考える
武器さえなくなれば、帰蝶も冷静さを取り戻す筈だと
だが、それでも帰蝶は利三に掛かった
兄が祝いにと贈ってくれたその兼定、『之定』の称号の付く東西一の名刀を振り上げる
何重にも重なった斎藤軍が帰蝶を取り囲む
その中で現実が飛んでしまった帰蝶は叫びを上げた
愛しい夫を奪った、愛しい男を
この手で葬らねば、自分の悪夢は終わらない
毎夜の如く魘され、何度も目が覚める夜を、もう、過ごさなくて済む
それが誰なのか、心は理解していない
それが『お清』であることを、帰蝶の心が拒絶した
「殺してやるッ!」
それが、今の帰蝶を支える、ただ一つの手掛かりだった
「今川は完全に沈黙したわけではございません」
それを受け、帰蝶も難しい顔をする
「今川治部大輔は落ちた。しかし、今川家は今も機能している。これに相違はありません」
「一番厄介な相手が生きて、駿府に居ると言うことか」
「はい」
厄介な相手
それは義元の生母であり、義元を育て上げた賢婦・寿桂尼
女が一人で駿府、そして今川を守っていると言う
それは、『夫の身代わり』として『女でありながら戦場に立っている』帰蝶に理解できないわけではなかった
女なればこそ、男以上の強さと言うものを垣間見せる
尚更、自分よりもずっと経験を積んだ女性ならば、太刀打ちなどそうそうできようがないとわかる
「ですが、再び尾張に攻め込むことは不可能」
「だろうな」
賢婦と言えど、兵を動かすことが難しいのも、帰蝶は充分承知していた
義元亡き後、嫡男が兵を動かすに充分な逸材であるならば、話は別だが
今は家の混乱を平定させることが重要課題である今川が、取って返して帰蝶、『信長』の首を取りに来るなど不可能だろう
「ならば今の内、織田の基盤を磐石な物にする絶好の機会。嫡男が刀を持って尾張に仇討ち入りするまでに、尾張の完全統一を」
「そうしたいとは想ってる」
「想っている?と言うことは、殿は未だ美濃に目を向けてらっしゃるので?」
「未練がましいと笑うか?」
「
勝家は少し笑いながら首を振った
「犬山周辺は、清洲に対し頭を垂れることを由とはせぬ状況。それでも美濃をとおっしゃるのでしたら、今川を一人残らず駿府に叩き返しましょうや」
「頼めるか」
「頼めるかではなく、『やれ』とご命令下さいませ、殿」
「権」
「あの時、某は殿への返事を躊躇いました。『二度と裏切らぬと誓え』の返事、見事今川軍を追い返すことで、殿へのお返事とさせていただきます」
「
全てを語らずとも、その瞳が真意を語ってくれる
帰蝶は勝家の眼差しに優しさを感じた
「時に、権」
「はい、何でしょう」
「犬千代のことだが」
「そう言えば、本戦に勝手に参加したとか?何か咎でも出されるおつもりで?」
「その逆だ。犬千代をしばらくの間、預かってくれないか」
「私が、ですか?」
勝家はキョトンとした顔で聞き返す
「無理か?」
「いえ、そんなことはありませんが、何故私を?」
「お前は、勘十郎様のご子息らも預かっているとか聞いたが」
「
「そうだろうな。義母上様は今も私に遠慮なさっておられる」
そこには小姓らも居る
信長のことを話すわけにはいかなかった
彼らにとって『織田信長』は、目の前に居る帰蝶のことなのだから
自分が何処の誰なのかを知っている小姓はもう、殆ど独立したか、それまでの戦で戦死している
新しい顔ぶれが増えれば増えるほど、帰蝶は自分が何処の誰なのかを忘れて行った
「だから、お前が代わりに養育していると聞いているが、そのどの子も随分立派に育ちつつあると、義母上様も喜んでおられるのだ。だから、お前の手で犬千代を強い男にして欲しい」
「殿・・・」
「犬千代は、図体だけ大きくて、その実泣き虫でな」
「確かに」
帰蝶の言葉に勝家は苦笑いした
「だから、メソメソしない男にして欲しい。そして、何れは織田に戻っても良いと想ってくれるよう、指南してはくれんか」
「
利家も、いつの間にか帰蝶を見習って、頑固者になってしまったのだろう
周囲の雰囲気は許しているのに、自分自身がまだ許しを出さない
そんな不器用な利家を託された勝家は、帰蝶に辞儀をすると部屋を出て行った
「ふぅ・・・」
義元を倒したとて、することはたくさんある
それを想うと、吐きたくない溜息も零れてしまう
首を返せば仕舞いと言うわけでもないことを、この頃になって漸く自覚できた
市弥の言葉、秀隆の言葉が尚更重く感じる
周囲の力を利用して、今以上の大家にしなくてはならないのだから、ほんの少し気を緩めることすら許されない立場になった
信長が生きていたら、自分はこれより少しは責任から解放されるのだろうか、と、少しだけ後悔する
「道空を呼べ」
勝家の訪問で中断していた書簡の作成に取り掛かった
右筆代わりとして務めている道空が部屋に戻り、織田の軍門に下りたいと言う周辺豪族や国人らへの返事を作成する
「では、こちらへの返答はそのままでよろしいでしょうか」
「ああ」
帰蝶の返事を確認し、道空が筆を持つ
道空が手紙を書いているとは言え、帰蝶にもすることはたくさんある
局処から回って来た書類に目を通し、署名しなくてはならなかった
犬の嫁入りが決まり、その支度金の試算表を確認し、金の引き出しを許可しなくてはならない
貞勝の計算は常に正確で、不十分な費用でもなければ余分な費用も掛けていない
長い間、織田の財布を預けているその信頼に、充分応える働きをしていた
その試算表と出納の許可を出す署名を入れようと、帰蝶は机に向かったまま、まだ晒しを巻いている右手を出した
が、側に控える小姓は、帰蝶が何のために右手を出したのか理解していない
随分と間が空いて、帰蝶は不機嫌な顔をして小姓に呟いた
「筆」
「
側に筆があるのに、どうしてそれくらい自分で取れないのか、などと言えるはずもなく、小姓は硯に筆を落して帰蝶に手渡した
しばらくすると、今度はこちらも晒しを巻いた左手を出し出す
左側に居た小姓も、さっきの小姓と同じく帰蝶の行動が読めない
気付いた道空が小姓に告げた
「殿はお茶をご所望です」
「あ、はい、只今!」
慌てて茶を用意し、茶皿に載せて帰蝶の側へ畳の上に置く
帰蝶はその湯飲みを持った瞬間、それを投げ捨てると同時に叫ぶ
「熱い!」
「もっ、申し訳ございません・・・ッ!」
「
道空はげんなりとした顔をして言う
空は既に夕焼けに染まっていた
帰蝶はその空を見上げて、誰にも聞こえぬ小さな声で呟いた
「
背中では小姓らが慌しく動き回っている
使えぬ小姓らに、帰蝶はこの先の不安を暗示するかのような表情で、目を机に落した
今川を完全に尾張から追い出すことができたのは、義元を落してから一ヶ月が経った後だった
尾張と三河の国境付近で今川に与した者が匿い、どうにも収拾が付かない状態だったのを、西尾張の豪族や、新たに織田の傘下に与した東尾張の国人らに助けられ、国境を張っていた勝家らの働きも併せて漸く一呼吸吐(つ)く
犬の嫁入り支度に局処は華やぎ、本丸では次の戦に供えての雰囲気も漂い始めるが、まさか今直ぐと言うわけでもないだろうと、どこか開き直りの気持ちも持っていた
そんな想いをぶち壊す、帰蝶の一言
「斎藤狩りを始める」
その瞬間、表座敷に集まった面々が一同に横に倒れた
「とっ、殿!今川戦も終えたばかりで、もう斎藤戦ですかっ?!」
少しは休ませてくれと言わんばかりに、秀隆が反対する
「当然だろう?織田は今川を倒したんだ」
「それが何なんですかっ」
兄を亡くした傷もまだ癒えぬ弥三郎も食って掛かる
「今川を倒したって、尾張はまだ完全には殿の手の中にあるわけじゃない。犬山だって今回のことで、清洲に対し何らかの声明だって出してないんですよ?」
つまり、佐治家のように帰蝶に靡くとも、益々反感を持つとも情報は入って来ていない
ただ大人しく静観しているに過ぎなかった
「この勢いを生かさず、いつ生かす」
「ですが、相手は斎藤です」
誰も言えないことを、可成は言う
「兄上様を相手に、戦えるのですか?」
「どう言う意味だ、三左」
「今まで、攻め込むことすらできなかった相手です。隣り合わせに居ながら、今まで、ただの一度も攻め込ませなかった男を相手に、戦えるのですか?」
「
可成の言葉に、帰蝶が一番早く気付く
忘れがちな事実を
『攻め込んで来たから倒せた今川』と、『側に居ながらこちらから向かっていくことができなかった義龍』とでは、格そのものが違うと言うことを、可成の言葉は示唆していた
「だが、斎藤戦なら今まで何度も経験してる。殿はその度に追い出したんだ。万が一にも次に戦いが起きても、負けるとは想えないが」
と、信盛が言う
「追い出せた。確かに、追い出せた。だけどみんな、忘れているのか?」
「
可成の言葉に、首を傾げる者も少なくない
「今の今まで、たった一度として、総大将・斎藤新九郎は出馬していない」
「
その瞬間、全員が全員、絶句した
そうだった
今まで何度も斎藤とは尾張で戦っている
だけど一度として、『義龍』とは戦っていない
それを、想い出した
「それでも、美濃に攻め込むというのであれば、それなりの覚悟を以って望むべきです、殿」
「
可成の言葉に、帰蝶は何も言えなくなった
あれから何度、肌を通わせ合っただろうか
抱く度にどんどんと愛しくなって行くさちを、利治は布団の中でぎゅっと抱き締めた
武家長屋だからと言って、金を持っているわけではない
粗末なあばら家で暮らしていると言うことは、暮らし向きもそれなりの物しか得られない
当然、この時代、布団は高級品で、長屋で暮らす利治が買えるような代物ではなかった
そんな布団に包まれてさちを愛せるのも、偏に布団を差し与えてくれたなつのお陰だった
なつからは充分な愛情を注がれ、その反面、血の繋がった実の姉からは想像も付かないような仕打ちを受けている
これが世間では『とんとん』と呼ばれ、利治への嫉妬の感情もやっかみも持たれずに済んでいるのだから、結果的には姉の仕打ちのお陰でぬくぬくと暮らしているとも言えるのだろうか
山名に続き桶狭間山でも武功を挙げたが、だからと言って行き成り裕福な暮らしができるわけでもなく、今も変わらず貧乏長屋で生活をしている
そんな自分が、さちを養って行けるのかと聊か不安でも居た
情事の後、互いに大きく深呼吸し、腕にさちの頭を抱く
「
小さな声で、健気な可愛らしい言葉を吐く
「私も働くし、知行だって少しずつ上がってるから」
帰蝶の局処の部屋管理を任されているさちは、確かに戦でしか稼ぎようのない利治に比べれば、収入が安定している
増してや局処だけではなく台所の手伝いもしているのだから、帰蝶となつの両方から与えられている知行だけでも充分、二人で暮らしていける額だった
おまけに質素な生活を好むさちは、今までもらった知行を然程使いもせず、実家に仕送りまでしているのだから大した物だった
尚更、その行為が帰蝶らから可愛がられ、時には寸志として小遣いまでもらっている身の上だからか、手にある金の額だけでもう既に利治を超えていた
「でもなぁ、嫁に来てもらうとなれば、共働きは抵抗があるし」
「ふふっ。新五さんて、意外と見栄っ張りなんだ」
「え?そうか?」
「だって、死んだお兄ちゃんのとこは、夫婦で共働きだったもん」
「そりゃお能は、稲葉山城に居た頃から姉上付きの侍女だったんだから、姉上の性癖とかも良く知ってるし、使い勝手も良いからな」
「お兄ちゃんが死んじゃって、お能さん、どうするのかな・・・。また、局処に帰って来るかな」
さちは、お七と平次のことは知らされていなかった
周囲もまだ子供と見ているさちに気遣って、大人の事情は聞かせないようにしている
ただ、お能が産んだ徳子のことは、なつから『方便』を聞かされていた
その事情もやはり、聞かせられないままでいる
「この間、村井様が屋敷に来て、次男のお勝を欲しいって言って来たって、弥三郎兄ちゃんから聞いたの」
「お勝丸を?」
「村井様、お勝が生まれた時から目を掛けてくれてたそうで、それで、お兄ちゃんが死んで、お能さんも一人で育てるの大変だろうからって」
「養子ってことか?」
「うん」
養子と言っても、他人になるわけではない
親は親でちゃんと存在し、その上で他人の手で育てられることなど、特に変わったことでもなかった
そう想うなら利治も、母親の手ではなく乳母の手で育てられたのだから、仕組みが違うだけでやることはなんら変わりはない
「那生ちゃんとお花ちゃんも居るし、長男の坊丸も、まだ小さいし」
「そうだな。口減らしも必要だな」
「口減らしって・・・」
利治の言葉に、さちは眉を顰めて顔を見詰めた
「それ以外に表現があるか?」
「
何も言えず、さちは黙り込んだ
「一番考えなきゃなんないのは、坊丸だ。土田家の跡取りなんだからな、どこかの武家に預けないと、嫡男としては育たないぞ?池田殿は母上様が武家の女だったから問題はなかっただろうが、お能は武家の娘じゃない。商人の娘だ。どうやって武家の嫡男として育てるか、一人じゃわからないだろ」
「それは多分、弥三郎兄ちゃんが請け負うと想う。弥三郎兄ちゃんのとこ、一人娘しか居ないから、経済的には余裕もあるし」
「そうだな。そう言われてみれば弥三郎さんのとこも、夫婦共働きだし」
「人が死ぬのって、その時は物凄く悲しいけど、残された人間は大変だわ。嘆き悲しんでばかりじゃ居られないし、お兄ちゃんとこは子沢山だから泣いてる暇もないみたいだし・・・」
だから、徳子が帰蝶の養女として局処でもらわれたのだ、と、さちはなつから聞かされていた
徳子がそれより早くもらわれたことについても、子沢山で大変だからと言う理由しか聞かされていない
さちはまさか、夫の浮気の発覚でお能の気が触れ、徳子を捨てたなどとは想っていない
まだ、大人の薄汚い世界を見ていないさちには、なつの言葉を疑う余地などなかった
姉に、どうやってさちのことを話そうかと思案しながら、姉の居るであろう局処へと向う
二度の実戦で利治にも自信が付き、休憩の合間の稽古もここのところ休み勝ちになっていた
最も、稽古相手の慶次郎が居たり居なかったりするので、利治としても稽古ができたりできなかったりが実情だが
腕を組んで難しい顔をしていると、後から恒興に声を掛けられる
「新五様」
「
局処手前の大廊下で、色気もなく恒興と立ち話を洒落込む羽目になった
「そう言えば、奥方殿が懐妊なされたとか?」
「はい。今川を追い出せ、安心して初産に臨めると、妻も喜んでおります」
「芽出た続きですね」
「手放しには喜べませんが。ところで、新五様は何用で局処へ?」
「ああ・・・、まぁ、姉上に、ちょっと」
言葉を濁す利治に、恒興は目尻を下げて自分の身の上を話す
「私は千郷の様子を母上にお伝えするため上がったのですが、その母上が犬姫様の嫁入り支度に乱入して、大方様と毎日あれやこれやと道具一式揃えるのを競い合っているとか。ははは、おなごの世界は平和でございますなぁ」
「そうですね」
顔では笑い、心の中では「そこまで聞いてねぇよ」と悪態を吐く
「それにしても」
弟のように想っていた利治が、すっかり立派な青年へと成長しつつある様に、恒興は人の良い優しい目を潤ませ始めた
「勝三郎殿?」
そんな恒興に、利治は目を見張って顔を覗き込んだ
「随分大きくなられて・・・」
「そうですか?」
言われてみれば、姉の世話になり始めた頃は見上げていた恒興の顔が、気が付けば自分の肩の辺りにある
慶次郎から言われた言葉を想い出した
お前は何れ大きくなるから、ちんたらと刀を振り回すよりも槍を振り回している方が良いと、奥方様が言っていたと言う、昔の話を
「きっと、おなつ様のお陰です」
薄く目を閉じた利治の様子は、とても美しい姿をしていた
さすがに帰蝶とは同じ血を引く弟だと、言わざるを得ないほど
「母上の?」
「安月給の私では、充分な食事は得られませんでした。それに、自炊だって。そんな私にさちを寄越してくれ、差し入れの米や饅頭なんかも持たせてくれて。お陰で私は自分の望み通り、大きくなれました」
「新五様・・・」
「私が大きくなれたのは、全ておなつ様のお陰です」
「そう言ってもらえると、息子の私も鼻が高くなります。ありがとうございます」
「いえ、そんな・・・」
こちらが頭を下げねばならないのを、寧ろ恒興の方が頭を下げて来るものだから、利治は慌てて恒興を起こした
そんな二人の後ろから、帰蝶の声がする
「何をしているんだ、男が二人でこんな廊下の隅っこで」
「
用事があるから参上したと言えば、姉は黙って自分の部屋に通す
姉弟(きょうだい)なので、人払いをするまでもなく二人きりになれるのは楽だった
他の人間と違い、面倒な手続きも要らないのだから
が、血の繋がりはあっても、乳繰り合えるほどの仲の良さでもないのが恨めしい
何をどう話せば良いのか、見当が付かなかった
「何の用だ?」
相変わらずつっけんどんな言い方しかしない
父が死に、自分も逃れて尾張に来て四年が経っている
なのにこの姉と来たら、可愛らしい仕草も女らしい言葉も使えていない
何より心配なのは、姉がさちを嫁にもらうことを承諾してくれるかどうか、であった
さちは武家の娘ではないと断られたら、今の自分には諦めるしかない
それが悲しかった
「話がないのなら、出て行け。私はお犬殿の花嫁道中の打ち合わせに来ただけだ。暇を潰しに来たわけではない」
「あっ、あの・・・!」
実の姉ではあっても、自分一人の姉ではない
織田を背負ったその身に、甘えていられる余裕はなかった
利治は今を逃がしたらもう二度と、姉と二人きりになることはないのではないかと強迫観念に駆られ、喉を押し潰す重圧に耐えながら想い切って言った
「じっ、実はっ、さっ、さちと夫婦になりた
「話とは、そのことか?」
「あのっ・・・、え?」
怖い顔でもするかと想いきや、全くそう言った素振りもなく、寧ろ呆れたような顔で面倒臭そうに髪を掻き上げて自分を見詰める姉に、利治は不思議な物でも見るかのような目で見詰め返す
「お前らしいな、中々先に進めんのは」
「あれ・・・?」
「さちなら、私も異論はない」
「あれ?」
目を釣り上がらせて反対するかと想っていたのが、そうでもなかったことに肩透かしを食らう
「言っただろう?お前が決めた女なら、誰でも良いと」
「仰いましたが・・・」
「さちは、弥三郎の妹、清洲を守ってくれた平三郎の妹だ。平民だから、反対するとでも想ったか?」
「
「市は織田家の娘、正妻生まれの姫君。だがお前は姫君ではない。お前と市とでは、立場も責任の重さも違う」
「そりゃそうですが・・・」
それでも、結局は市のことを許した
だから自分のことも許してくれたのだと、利治は苦笑いを浮かべる
「確かに兄上を追い出した後の、斎藤家の跡取りにお前を据え置くつもりだが、お前は男なのだから、都合が悪ければさちを」
「姉上ッ」
姉の目は、こう言っていた
『都合が悪ければ、さちを降嫁すれば良い』と
だから、利治は姉の言葉を塞き止めた
悲しいが、姉も武家の惣領としての心構えが徐々に根付いて来たのだろうか
市を許したのだから自分のことも許してくれた、と想えたのは、自分の勘違いであったことを、利治は気付いてしまった
利治とさちの話は、その後直ぐ、弥三郎、菊子夫妻に伝えられた
二人揃って帰蝶の報告を受ける
弥三郎は唖然とし、菊子も開いた口が塞がらない
「お前達の言いたいことはわかる。平三郎のこともあったその直ぐ後で、さちのことを聞かされても受け止める余裕はないだろう。それでも、新五の妻にさちを貰い受けたい」
「ですが・・・、殿・・・。さちは・・・」
「武家ではなく、元武家の娘で、今は平民だと?」
「
「私もそう想った。だが、さちなら、とも想う」
「さちなら?」
「なつが新五の世話係にさちを選んだのは、その時たまたま手の空いたのがさちだったと言うのは聞かされている。だが、それから何年も経っているのに、その間私は二人について聞いたことはなかった。さちは自分を弁えた娘なのだと実感した。それも偏に、お前の母親、おやえ殿の教育の賜物だと想っていた。そんなさちだからこそ、新五は惹かれたのだと想う」
「殿・・・」
「結婚を意識したのだ。二人は恐らく一線を越えただろう、それでも、超えるのならとっくの昔に超えていても不思議ではないのに、今になって夫婦になりたいと言い出す。弥三郎、武家にとって身分は確かに大事だ。私もこれからは重用しなくてはならないだろう。だからこそ、今しかないと想ってる」
「今しか・・・?」
「この機会を失えば、二人は永遠に夫婦にはなれない。そんな気がしてならないのだ」
「
帰蝶の言いたいことは、なんとなくわかる
今川を倒したとて、織田が急に大きくなるわけでもない
『今川を倒した』と言う実績が付くだけである
織田が膨れ上がるのは、これから先
今はまだ、その一段階目を上がっただけに過ぎないのだから
「つまり、織田が大きくなればなるほど、新五様とさっちゃんが夫婦になることも難しくなると?」
漸く現実に戻った菊子が訊ねる
「私は弟に言ったことがある」
「何と?」
「好きな女ができたら、知らせて欲しいと。できる限り祝ってやりたいと。その言葉を今更なかったことにすると言うことは、これから先、私は吉法師様との約束さえ反故にしても構わないと言うことになる」
「そんな・・・」
それは飛躍し過ぎた物言いだとしても、帰蝶ならそう考えても不思議ではない
一途で融通が利かぬ頑固者なのだから
土田家は時親の喪がまだ明けてないとの理由で、さちは別の家から嫁ぐことになった
それを受け入れたのは、なつである
利治が清洲に移ってからの乳母であることと、恒興が烏帽子親であることが由縁となり、また、稲がまだ嫁に入る予定もなかったからか、市弥に対抗して随分と張り切っていた
「いやぁ・・・、まさかうちでさちを嫁に出せるとは、想ってませんでした」
妻に続き利治の祝い事続きに、恒興は自分のことのように喜んだ
理由はどうあれ、さちと夫婦になることを認められたのだから、自分も恒興のように素直に喜ぶべきだろう
この日利治はさちと共に、初めてなつの私室に呼ばれた
帰蝶が質素な佇まいの部屋にしているから、と言うのが事情かどうかはわからないが、化粧をしている割にはなつの私室も慎ましい内装だった
部屋そのものは広いが、特に派手な飾り付をしているわけではない
それでもやはり女の部屋らしく、微かに香や化粧の香りが漂っていた
「名目上とは言え、さちはお前の妹になります。嫁入り前まで、しっかり面倒を見なさい」
「はい、承知しております、母上」
「嫁入り道具は私に任せなさい。東西一の化粧箪笥を用意させましょう」
「いえ、そんな。部屋、狭いですから入りません・・・」
苦笑いするさちに、なつか『かっ!』と目を見開いて言ってのけた
「何を言うのです。あなたは池田から嫁に出ることになるのですよ?なのに、何も持たせず嫁に行かせるのは、私の矜持が許しません。それに、池田の義娘(ぎじょう)が武家長屋で暮らすと言うのも辛抱なりません。新五様と共に、池田の屋敷に移ってもらいます」
「えっ?!」
これには利治が目を剥く
新婚だと言うのに、何が悲しくて恒興夫妻の世話にならなければならないのか、と
「不服があるなら、ご自分の腕で妻を養える家屋敷を建てて御覧なさい、新五様」
「そうですね・・・」
「斎藤家のご嫡子、池田の娘が貧乏長屋で肩を寄せ合って倹約暮らしなど、仮親としても世間に顔向けできません」
「
何も言い返せず、黙り込む利治
武家の親とはこれほど厳しいものだったのかと、改めて想い知らされたような気がした
利治がしんみりとしている横で恒興は、『妹』になるさちを、鼻の下を伸ばしてデレデレと眺めている
「どうしたの、勝三郎。気持ち悪いわね」
「いえ、何て言いますか」
「何なの」
「妹かぁ・・・と」
目尻まで下がって来る恒興に、さすがのさちも腰が引ける
「妹って、お前には稲が居るでしょう?」
「居ると言われましても、稲殿は妹であって妹ではありません」
同腹妹ではあっても、稲の場合、半分は主家である織田の血が入っている
家臣の身分である自分とは、立場が違っていた
その点、さちは自分よりも下に居る
おまけに美男子・弥三郎の妹でもあるため、さちも美少女であった
きちんと身形を整えれば、一国の姫君と見紛っても仕方がないほどの
「私に妹ができたのか、と、嬉しくて、つい・・・」
日頃から人の良い恒興の、心底喜ぶ姿にさちも、腰が引けたことを悔いる
「あの・・・。貧乏人の妹ですが、宜しくお願いします・・・」
少し頬を染めながら、普段口にしない冗談を精一杯言葉にするその姿がいじらしい
「えと、さち殿・・・、妹として可愛がってもよろしいでしょうか・・・?」
と、恐る恐るさちに訊ねる
「はい、喜んで」
満面の笑みは、利治でなくても魂を射抜かれる
「
ほんわかとした温かい気持ちに包まれ、恒興はそっとさちの頭に手を当てた
それから
「
髪がくしゃくしゃになるまで、撫で回す
「勝三郎・・・。怖いから、やめなさい・・・」
さちの頭を撫で続ける恒興に、なつは呆けたように呟いた
当のさちも、夫になることを認められた利治も、呆然とする
そんな、穏やかで和やかな光景
もう、局処でしか見れなくなって久しい
今川軍を完全に追い出してから、美濃攻めの準備に取り掛かる
本丸は既に戦が始まっていた
「美濃でこちらに寝返りそうな豪族、国人は」
「はい、今のところ羽島の辺りに何件か」
「一宮の由縁か?」
「そうですね。長良川での合戦以降、こちらを支援してくれている商人なども居ますので、そう手間は取らないかと」
表座敷で軍議が始まる
奥座敷では市弥となつが競って、其々の家の嫁入り支度に躍起になっている雰囲気とは、全く違っていた
「革手が欲しい」
嘗て土岐家の本拠地であった土地である
「しかし、斎藤にですら反感を買っている場所です。そう簡単に他人である織田に靡くとは想えません」
「それでも、井ノ口とは目と鼻の先である革手を落せば、稲葉山城を目の前に置ける。その近隣も手に入れれば、斎藤攻めは容易くなる。三左」
「はい」
「革手に関しては、お前は長く住んでいた。何か手立てはないか。必要なら、新五を使ってくれても良い」
「手立ては想い付きませんが、手間を掛けるなら周辺の商人を尾張に靡かせ、斎藤を日干しにしてしまえばよろしいかと」
「できそうか?」
「岐阜屋殿の助力も必要になりますが」
「
即答できない
その岐阜屋の娘であるお能が、夫の浮気、隠し子発覚、その後の夫の戦死で随分と心に大きな負担が掛かっていた
今も充分に寝起きできる状態ではないと弥三郎からは聞かされているお能を、戦で使うことはさすがに良心が痛む
「殿。小牧山に築いている砦を、もう少し大きくしたいのですが」
と、長秀が進言した
「どうしてだ?」
「はい。今川との戦いで鷲津の砦普請に携わりましたが、後に見て回りましたら、改善の余地があったことに気付きました」
「どう言うことだ?」
「私は背後の防衛を強化するため、正面を広く取っておりました」
「ああ、知っている。私好みに作ってくれたそうだが、叔父上には通じなかった」
「それが敗因ではなかろうかと」
「それで?」
「小牧山の砦も正面に重点を置いて普請しております。ですが、万が一にも四方から斎藤の攻撃を食らったら、持ち堪えられるだろうかと疑問に想いまして。先日、森殿のお話にもあったように、斎藤治部大輔様とはこれまで一度も交戦しておりません。何れも斎藤の家臣らとの戦いです」
「ああ」
「ですから、斎藤治部大輔様がどのような戦い方をなさるのか、あらゆる想定を念頭に置かねば、砦として機能しないのではないかと想いまして」
「わかった。お前がそこまで念を押したいと言うことは、それなりの考えがあってのことだろう。普請費用は吉兵衛と相談し、算出してくれて構わない。お前の想うとおりの砦に仕立て直せ」
「ありがとうございます」
美濃攻めに向けての改築普請が始まって何日か過ぎた頃、犬が知多に嫁いだ
その道中は華やかなもので、付き添う侍女百人、護衛の兵士が三百人、織田家当主の名代に五十人、祝辞を届ける使者三十人、引き出物の引渡しに百五十人
花嫁道具も煌びやかに、箪笥は勿論、当時としては珍しい鏡道具一式を詰め込んだ化粧箱、桐でできた琴、茶道具、香道具、華道具、それらを東西一の馬十数頭に引かせ練り歩く
道すがら投げ配られる菓子を積んだ荷駄車だけでも、十二台が続いた
同じ頃、恒興の住む屋敷で、利治とさちの祝言も行なわれた
帰蝶の名代としてなつが上がり、さちの両親を小牧山砦普請に携わっている長秀が連れ帰り、利治の親代わりとして貞勝とその妻が同席した
友人である慶次郎と妻の初、佐治と市も来賓として席に着く
池田家の嫁として、身重の千郷がさちの世話をする
元々肌の肌理も細やかなさちの、白粉顔はとても美しく輝き、見る者全ての心を虜にした
夏の近付く明るい日差しの中、白無垢衣装がまるで地上に降りた天道のように眩しく光る
「
自分でも照れ臭く、利治になんて声を掛ければ良いのか言葉が見付からないさちに、利治は見惚れながら呟く
「綺麗だ、さち」
白粉を塗ったさちの頬が赤く染まる
利治を見ているのも恥しい気分になり、さちはそっと俯いた
その角度で、紅を差した口唇が小さくなる
それはさちを益々美しく見せた
弥三郎は美濃攻めに向けての準備があり参加できず、菊子も本丸の勤めで休憩の合間を縫っての参列になったが、隣近所にも参加させると言うなつの配慮で、祝言は賑やかなものになった
空に向けて鉄砲が放たれ、祝言が無事に行なわれていることを清洲城に居る帰蝶に知らせる
微かなその音を聞き、帰蝶は少し微笑んで机に顔を落した
六月、帰蝶は第一次美濃攻めを強行した
まだ鉄砲傷も癒えぬ躰であるため、なつからは出陣を固く禁止され、信盛が総大将として出陣した
勝家はまだこの頃、尾張と三河の国境沿いで今川の残兵を追い出している最中だった
美濃に向わせるわけには行かない
それを謀るかのように、遂に犬山が動いた
伊予が嫁いでいながらも、犬山は清洲に対し牙を剥き、義龍に寝返り、清洲軍に襲い掛かった
信盛が挟撃されることを恐れた帰蝶は、慌てて援軍を送った
ところが、その援軍を斎藤方・大垣の長井家が迎撃し、帰蝶は新たに恒興らを援軍に送り込んだ
現場で指揮できぬ帰蝶には、その現状が良く把握できない
兎に角の撤退を命じた
今の織田には、誰一人として欠けて欲しくなった
信長の夢の続きを共有するならば、尚のこと
犬山城城主・織田信清の裏切りにより、しばらくは睨み合いの状態が続く
八月、今度は帰蝶が動いた
「義母上様。酷なことを申し上げますが、伊予殿のことは、お諦めくださいませ」
「上総介・・・」
帰蝶の言葉に、市弥は悲しげに眉間を寄せた
「側室生まれの娘であろうと、これまで愛情を注いで育てた、義母上様にとっては実の娘も同然。ですが、犬山に着いていながら織田十郎左衛門が清洲に歯向かうことを止められなかった。この罪は重い」
「
「犬山を攻めます」
「
武家の女として、市弥はそれを口にするので精一杯だった
織田から初めて嫁に出した娘である
なつと共に嫁入り支度を楽しそうにやっていたあの頃が、ただ懐かしかった
返事を受け、颯爽と立ち上がり部屋を出る帰蝶の背中を、市弥はぼんやりと眺めた
帰蝶は息子の愛妻
理解できなかった息子を理解し、愛したその女は、織田のために粉骨砕身で今日までやって来た
それこそ、並みの心力では務まらなかっただろう
そんな嫁を自慢に想い始めた頃、やはり織田とは違う血が流れている人物なのだと想い知らされた
帰蝶の選んだ選択肢が間違っているとは想えない
それでも、恨み言をと誹られようが、少しだけでも良かった
犬山を説得する努力を見せて欲しかった
帰蝶は犬山を説得するわけでもなく、美濃攻めの横槍を入れたことにより、完全に犬山を落そうとしている
これから先の未来をも考えての結果だろう
それでも、市弥は納得できなかった
そして、帰蝶を動かしたのも、やはり自分の犯した罪がそうさせているのだと後悔する
自分が、信長と信勝を仲の良い兄弟に育てていたら、こんなことにはならなかったのに、と・・・
今川軍の一掃を完了させた勝家を先頭に、再び美濃に攻め入ることを決めた
前回の失敗を踏まえ、帰蝶は清洲ではなく小牧山を拠点とした
この頃には長秀の普請も完成している
八月二十二日
この日の夜、帰蝶の織田本隊が小牧山の砦に入った
弥三郎、恒興、勝家らの先発隊は既に砦入りしており、帰蝶の本隊を出迎えた
急場凌ぎとしても、長秀の普請は随分としっかりした構えであった
前面はやや広く、三方を高い土塁で守られ、その周囲には深い堀で張り巡らされている
「種明かしは単純です。堀を掘った土を土塁に積み上げただけですから」
そう笑う長秀に、帰蝶もつい笑う
「それでも、相変わらず私好みだ。万が一に撤退しても、これなら正面突破もできる、篭城もできる」
「両方を想定して作り直しました」
「でかしたぞ、五郎左」
「いえ、当然のことで・・・」
綺麗な笑顔を浮かべる帰蝶に、長秀も少し頬を染めて俯き、照れ隠しに頭を掻いた
「ですが申し訳ことに住居用には造っておりませんので、過ごし難いかと想います」
申し訳なさそうに謝る長秀に、帰蝶は軽く笑う
「防衛の本拠として築いた砦に、快適さを求める方が間違えている」
「恐れ入ります」
「なるほど、しっかりした造りだ。お前は普請に向いた性質をしているな」
砦を正面から見渡し、感心する
それまでの戦は、地元の商人や町民を味方に付けた戦い方をしていた
城から衛兵を出さずとも敵を追い出せてはいたが、今回は町人を巻き込んだ戦はできない
増してや自分から初めて美濃に攻め込むのだから、一般人にまで一緒に雪崩れ込んで欲しいなどと願うはずがない
三方の構図は頑丈に、正面を脆弱に見せ掛けながらも、迎撃には最適の見通しの広さ
しかしそれでいて張り巡らされた土塁、その周囲の深い堀が敵の侵入を困難なものにしている
「随分高い土塁だな」
積み上げられた土塁を見上げ、帰蝶は呟いた
「はい。これは『切岸』と呼ばれるものです」
高さとしては、帰蝶の首の下辺りまである
「切岸?」
「本格的な切岸なら、もっと高く積み上げないと駄目なんですが、掘った土ではこれが限界で。『切岸』とは、山などに築かれた城の防衛を目的とした人工の断崖のことです。ご存じないので?」
「稲葉山城は自然の要塞だ。そう言うものは必要としない。だから、知らなかった」
「そうですか。尾張にある山は、どれも標高の低いものですから、切岸がどうしても必要でして。犬千代の実家の荒子城も、こう言った切岸で囲まれております」
「ふむ。築城にも色々と、学ばなくてはならないことがたくさんあるのだな。お前はそう言ったものには詳しいのか?」
と、帰蝶は長秀に訊ねた
「詳しいと言うほどのことはありませんが、敢えて言うなら趣味、でしょうか」
「趣味?」
「どう言った構成なら敵を退けられるか、あるいは驚嘆させられるか、そう言うことを考えるのが好きでして」
照れ笑いする長秀は、年相応の青年に見えて愛らしかった
「そうか。ならこれからも、築城や普請はお前に任せよう」
「
あっさりと自分を信頼する帰蝶に、長秀は目を見開く
「わ、私でよろしいのですか・・・?」
「良いも悪いも、私は人を見る目には自信がある。その自信を、お前は否定するのか?命知らずだな」
「そそっ、そんなっ、滅相もございませんっ・・・!」
長秀は慌てて訂正する
「ただ、私は経験も浅い青二才でございますから、殿のお役に何処まで立てられるか・・・」
「経験が物を言うのは戦のみ。それ以外は、人其々が持つ才能で左右される。下らぬ不安など、これからお前が積み上げる実績で払拭させろ」
「はい・・・」
厳しい顔をするわけでもない
逆に、優しく微笑むわけでもない
それでも帰蝶の言葉に、長秀は胸が温まる気がした
「よし、軍議だ」
「はい」
砦の広間を表座敷に見立て、全員が顔を揃える
「前回は大垣が横槍を突き、右衛門の撤退を余儀なくされた。今回も長井が出て来るだろう。それだけじゃない。犬山も何処から現れるか想像ができない。ならば、犬山の出て来るだろう場所を全て封鎖する」
「全て封鎖?」
「封鎖部隊に蜂須賀」
「はい」
桶狭間山の実力を見せ付けられ、正勝も大人しく従う
「塙、長谷川、坂井」
「はい」
三人が続けて返事する
「統括指揮は林に任せる」
「承知」
「犬山から小牧まで、山岳は存在しない。封鎖も比較的迅速に行なえるだろう。私よりも犬山に関しては林が詳しいからな、信頼してるぞ」
「及ばざることとならぬよう、努力致します」
秀貞は軽く平伏した
「美濃攻撃部隊先鋒、権」
「はい」
「三左」
「はい」
「両名で道を開け。右翼、弥三郎」
「はい」
「左翼、市丸」
「はい」
弥三郎と成政が立て続けに返事する
「其々二部隊ずつ選考し、補佐に就かせろ。以前のように横を突かれるような失態だけは、繰り返したくない」
「承知しました」
「ここから二手に別れ、犬山と稲葉山城を目指す。更に井ノ口から稲葉山城と大垣に別れ、大垣方面に勝三郎」
「はい」
「小牧山の後詰は五郎左に任せる。丹下同様、決して落されぬよう死守せよ。携わったお前なら、上手く活用できるだろう」
「承知しました」
「明朝、出発する」
「はっ!」
一同が一斉に頭を下げた
小牧山に織田軍が集結していることは、夕庵にも伝わる
この頃顔色も良くない義龍を中心に、軍議が行なわれていた
「犬山を背後に、再び押し寄せるか」
顔色は悪くとも、義龍の機嫌は頗る良い
「さて、懲りない妹には折檻が必要だ。夕庵、どう出る」
「はい」
夕庵の言葉を、美濃三人衆が固唾を飲んで見守る
「小牧山に布陣したと言うことは、恐らく犬山を警戒してのこと。ならば、犬山には派手に動いてもらい、織田を撹乱。小牧山を混乱させます。そして、六月の時点で出て来た大垣にも、何かしらの支援は送るでしょう。大垣には迎撃を。勿論、この稲葉山城を目指す以上、我らも迎え撃たねばなりません」
「撫でるようにか?それとも、本気で掛かれば良いのか?」
挑むような義龍の言葉
それに応え、夕庵ははっきりと言い切った
「二度と立ち上がれぬまでに、徹底的に叩きます」
「
ずっと、帰蝶と内通していたと想い込んでいた守就は勿論のこと、稲葉一鉄良通、氏家卜全直元も目を見張った
「徹底的に・・・ですか」
想わず漏らした直元に、夕庵は目を向けて応えた
「以前、稲葉殿が敗退されて戻られた後、私なりに考えました。織田上総介の初陣は、双方に被害の少ない戦い方をしていた。だが、姫様が嫁がれた後に行なわれた合戦では、多くの死傷者を出している。この違いは何だろうと」
「確かに・・・」
言われてみれば、独身だった頃と所帯を持った後とでは、戦い方が変わっている
「そこで、もう一度考えてみたのです。私達は、誰を相手に戦っているのでしょうか」
「誰を相手に
「痛い目を見ても、懲りないのが姫様です。決して諦めぬその姿勢は賞賛すべきことですが、言い方を変えればしつこいの一言に尽きます。織田上総介が負けを認めたとしても、姫様が居る限り織田は何度でも斎藤を攻める。ならば、攻め込む気力を根こそぎ奪ってしまえば、当分のことと言えど、織田も静かにはなりましょう」
「どうやって、織田を静める」
今度は義龍が訊ねて来た
「本隊を叩けば、雑作もないこと。本隊は間違いなく稲葉山城を目指すでしょう。それを迎え撃ち、更には援軍も来れぬ状態にすることは、難しくはありません。織田上総介の首でも落とせば、間違いなく織田は沈黙する」
「
夕庵の話を、利三は黙って聞いていた
信長はまだ生きているのか
四年前、この手で信長に鉄砲の玉を撃ち込んだことは、今も記憶に新しい
なのにまだ生きて、織田を動かしている
「余程の強運の持ち主か」
と、小さく呟く
尚更、信長への憎しみだけが増した
夜明けが来る
帰蝶は静かに立ち上がり、表に出る
来光を背中に松風に乗り込んだ
初めての、兄との直接対決
結果がどう転ぶか、さすがに帰蝶にもわからなかった
「殿」
馬に跨った可成が声を掛ける
特に話すことなど、何もない
だが、実家を相手に戦う帰蝶の心中を考えると、素通りすることもできなかった
「斬り込み、頼んだぞ」
「承知」
弥三郎の部隊が出発する
そこには新婚の利治の姿もあった
桶狭間山での活躍に、利治の居る場所も随分と部隊長である弥三郎の近くになっている
義理の弟になったからか、それとも単純に腕を買ってくれているのかは、わからない
大垣方面に向う恒興の部隊も、それに続いた
佐治の士族名も考えねばならないのを、忙しさに感けてずっと放置している
この一戦が終われば、ゆっくり暇を取って名を考えてやろうと想った
犬山方面へ向う部隊が、秀貞に率いられて砦を出る
夫を死に追い遣った相手としても、秀貞自身は信長の死を望んだわけではない
結果論で人格を格付けてしまうのも、感情論に走るのも、自分の性質には合わない
帰蝶は黙って林部隊を見送った
秀隆率いる黒母衣衆が馬を揃えて出発する
帰蝶の本隊がそれに続いた
「織田軍、出陣!」
成政の声が鳴り響き、砦は長秀の部隊を置いて四方に散った
これで何度めの交戦か
それまでは攻め込む度に手痛い撤退を繰り返したが、今回は総大将の義龍自ら指揮を執る
過剰に期待してしまう自分を抑えながら、利三は玄関を出た
「では、行って参る」
「いってらっしゃいませ」
見送るあんの腹が、ぽこんと膨らんでいた
「後は頼んだ」
その腹を軽く撫でながら、子供らのことを委ねる
「はい、承知しました。どうか、ご健勝で」
「ああ」
背中に戦勝の期待を背負わせ、屋敷を出た
馬に乗り込み、これから始まる戦に出向く
運命とは、時には残酷な現実を見せ付けるものだと言うことを、この時の利三はまだ知らなかった
稲葉山城だけを狙っても、その周辺には斎藤の付け城が数多く点在する
帰蝶は大垣まで伸びる戦線を保つため、稲葉山城、大垣城の間にある墨俣砦に目を付けた
「長井の築いた砦だが、その長井が大垣に引込んでいる以上、警備も手薄のはず。素早く落とし、占拠せよ」
「はっ!」
それを、夕庵が見抜かぬわけがなかった
「姫様は恐らく、大垣手前の墨俣に目を付けるはず。表にはできる限り兵を残さず、潜んで一気に襲い掛かれば、織田も驚いて混乱するでしょう」
革手で本隊と大垣城攻めの部隊が分散する
帰蝶は真っ直ぐ稲葉山城へ
恒興は大垣城へ
その恒興が墨俣砦手前まで到着した時、突然、周囲から斎藤軍が現れた
「
正面の墨俣砦は見るからに警戒が薄い
そう安心させておいて、近付けさせ、一斉に襲い掛かる
「応戦しろッ!」
まさかの事態に慌てながらも、恒興は乱れた隊列を立て直そうと必死になって声を張り上げた
「左翼、固まるな!狙い撃ちされるぞ!」
だが、油断していた分、驚きの反動は大きい
隊列は乱れたまま、元には戻せなかった
一方、犬山を抑えるために向った秀貞らも、信清の迎撃態勢に翻弄された
「林様!これでは封鎖地点にも行けません!」
前方で立ち塞がる犬山軍に、一歩も先に進めない
寧ろ、犬山方の侵攻を許してしまう結果になる
こちらの作戦が、逆転された
「六方に分かれる!蜂須賀、坂井部隊は左前後二部に!塙、長谷川は右前後二部に!我らは正面二部に分かれる!犬山を挟み込め!」
稲葉山城を目指し、革手を抜けようとした帰蝶の前方に、斎藤の軍旗が靡いた
「殿!」
「
出迎えるつもりかと、帰蝶の口唇の端が歪む
「井ノ口には近付けさせないつもりか。ならば、正面突破だ!三左!権!左右に別れ、斎藤を蹴散らせッ!」
「おう!」
勝家が先に走り、斎藤軍に突進して行く
その後を可成が走り、道を開く
ここまでは、帰蝶の言葉どおりの結果になった
だが、その直後
「殿ッ!」
背中で秀隆の声がした
振り返れば、後方にまでいつの間にか斎藤軍の影が広がっている
「
どうやって背中を取られたのか、帰蝶自身、理解できなかった
革手は斎藤に反発しているはず
なのに何故、その革手から斎藤の軍勢が現れるのか、どうしても理解できなかった
先には進めない
後退もできない
援軍は、ない
「
この光景に、帰蝶は目を見開いた
「五百の兵で、周囲を囲んでしまえば良いのよ」
遠い昔、戯言にそう言った自身の言葉を想い出す
俯く帰蝶の目が、怒りに釣り上がった
「姫様は、仰った。兵は塊で動くのが鉄則、と。そこに火矢を撃ち込めば、どうなるか、わからないはずがない」
夕庵の言葉が空(くう)を掠める
「危ないッ!」
帰蝶の居る本隊を目掛けて、無数の火矢が射られた
「・・・夕庵ンンン
地底から響くような声で唸る
帰蝶がそこに居ながら
秀隆も側に居ながら
それでも、混乱する織田軍を静かにさせることはできなかった
「姉上・・・ッ!」
後ろで姉の居る本隊が乱れていることに気付いた
戻ってどうなるのか
わからないままに、利治は戦列を離れ一人、炎の上がる織田本隊へと駆け出した
「殿!撤退をッ!革手は正面突破で突っ切ります!どうか、撤退を!」
秀隆の声に、帰蝶は大垣の城のある空を見た
煙は上がっていない
まだ、墨俣砦が落ちてない証拠であった
知恵者の恒興が手間取るはずがない
と、言うことは
「向こうにも・・・」
斎藤の手が回っていることを示唆していた
「
一歩も、兄に近付けなかった
近付けないまま、撤退せざるを得ないのか
何もできないまま
呆然とする帰蝶の目に、それは映った
「
斎藤本家、撫子の軍旗が
それを目にした途端、帰蝶の頭は真っ白の状態になり、撫子の軍旗に向かって松風を走らせた
「殿ッ!」
驚いた秀隆が、慌てて帰蝶の後を追った
今、撤退すれば、織田は二度と斎藤に挑もうとは想わなくなる
これが苦手意識へと繋がり、自分がどれだけ命令しても、斎藤攻めに参加する家臣は現れないだろう
一矢でも良い
何か実績を残さねば、織田は二度と立ち上がれなくなる
『今川義元を倒した』事実は、兄にとって、歯牙に掛けるほどのことではなかったのだと、想い知らされた
なら
二度と美濃の地に踏み込めないのなら
「ああああああ
せめて、夫の仇は討ちたい
そう想った
雄叫びを上げながら松風から飛び降り、兼定を鞘抜きする
着地すると同時に走り出し、たった一人、斎藤軍に突っ込んだ
これは自殺行為だろうか
「殿ッ!」
追い縋る秀隆自身、生きた心地がしなかった
撫子の軍旗は、その意味を知っている
斎藤の精鋭部隊の一つ、元々の斎藤の嫡流の家である証だと言うことを
無数の敵兵が帰蝶を取り囲む
それにも怯まず、帰蝶は無心で斬り掛かった
何がどうなっているのか、頭は少しも理解しない
端から見ていれば人外の何かが刀を持って暴れているだけに過ぎず、それは華奢な躰に綺麗な顔をした美将で、だけど目に見えぬ『力』を揮って味方兵を薙ぎ倒している
そうとしか、見えなかった
自分に斬り掛かる、あるいは槍を突き立てる敵兵を悉く打ち捨て、帰蝶は真っ直ぐ
ただ、真っ直ぐ、『お清』へと向って行った
あの時見た武将
帰蝶の横顔
それが正面から自分に掛かって来る
利三はそれを真っ向から受ける姿勢で槍を握り直し、その武将が自分に突っ込んで来るのを待ち構えた
「退けぇぇぇ
我を忘れた帰蝶に、立ち塞がった雑兵の首が簡単に飛んだ
帰蝶の鬼迫に押され動けぬ者、あるいは腰を抜かす者まで続出した
いくつも、いくつも血飛沫を上げて、それは真っ直ぐ自分に向って来る
「あああああああ
地鳴りのような雄叫び
それから、鬼のような気迫
帰蝶の刀を、利三は槍で受けた
槍が刀に絡め取られ、あっけなく飛ぶ
利三は咄嗟に腰の刀を抜き、迎撃態勢を整える
その、妖しい輝きを放つ兼定を、利三の刀が受け止めた
「
帰蝶の顔と、利三の顔が
何年振りだろうか
こんなにも間近で合わさったのは
だが、帰蝶の目には懐かしさも邂逅も感じられなかった
ただ自分を敵として見ている目しかなかった
渾身の力を振り絞り、利三を弾く
利三の背中が後ろに押された
返す刀で利三が帰蝶に斬り掛かる
「引いてください!姫様!」
その声に、帰蝶は応える気はなかった
「あなたを殺したくない!お願いします!姫様ッ!」
「うああああああ
怒号と共に兼定が空に煌く
利三は咄嗟に刀の腹で受け止め、帰蝶ごと弾き返した
その力は強大で、帰蝶の躰ごと後ろに飛ばされる
だが、反射神経そのものが普通の女のものとは違う帰蝶は、倒れることなく踏み止まり、脚だけが引き摺られるように後方に下がった
それが自分との間合いを取り、利三は刀を握り直す隙ができた
構えに入り、帰蝶の手にある兼定を落すことを考える
武器さえなくなれば、帰蝶も冷静さを取り戻す筈だと
だが、それでも帰蝶は利三に掛かった
兄が祝いにと贈ってくれたその兼定、『之定』の称号の付く東西一の名刀を振り上げる
何重にも重なった斎藤軍が帰蝶を取り囲む
その中で現実が飛んでしまった帰蝶は叫びを上げた
愛しい夫を奪った、愛しい男を
この手で葬らねば、自分の悪夢は終わらない
毎夜の如く魘され、何度も目が覚める夜を、もう、過ごさなくて済む
それが誰なのか、心は理解していない
それが『お清』であることを、帰蝶の心が拒絶した
「殺してやるッ!」
それが、今の帰蝶を支える、ただ一つの手掛かりだった
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濃姫(帰蝶)好きの方へ
本日は当サイトにお越しいただき、ありがとうございます
先ずはこちらのページを一読していただけると嬉しいです→お願い
文章の誤字・脱字が時折混ざっております
見付け次第修正をしておりますが、それでもおかしな個所がありましたらお詫び申し上げます
了承なしのリンクは謹んでご辞退申し上げます
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更新のお知らせ
(02/20)
(10/16)
(11/04)
(06/24)
(03/25)
◇◇プチお知らせ◇◇
1/22 『信長ノをんな』壱~参 / 公開
現在更新中の創作物(INDEX)
信長 ~群青色の約束~
こんな感じのこと書いてます
カウント(0)は現在非公開中です
管理人の独り言も混じっております
[11/04 Haruhi]
[08/13 kitilyou]
[06/26 kitilyou命]
[03/02 kitilyou命]
[03/01 kitilyou命]
ゲームブログ
千極一夜
家庭用ゲーム専用ブログです
『戦国無双3』が絶望的存在であるため、更新予定はありません
◇◇11/19 Nintendo DSソフト◇◇
『トモダチコレクション』
おのうさま(帰蝶)とノブ(信長)が 結婚しました(笑
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『トモダチコレクション』
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祝:お濃さま出演 But模擬専… (戦国無双3)
おのれコーエーめ
よくもお濃様を邪険にしおってからに・・・(涙
(画像元:コーエー公式サイト)
オンラインゲームにてお濃様発見
転生絵巻伝 三国ヒーローズ公式サイト:GAMESPACE24
『武将紹介』→『ゲーム紹介』→『Exキャラクター紹介』→『赤壁VS桶狭間』にてお濃様閲覧可
キャラクター紹介文
「 絶世の美貌を持つ信長の妻。頭が良く機転が利き、信長の覇業を深く支えた。
また、信長を愛し通した一途な妻でもあった。」
(画像元:GAMESPACE24公式サイト)
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濃姫好きとしては、飲めなくても見逃せない
岐阜の地酒 日本泉公式サイト

(二本セットの画像)
夫婦セット 吟醸ブレンド(信長・濃姫)
本醸造 濃姫
カップ酒 濃姫®=爽やかな麹の薫り高い、カップとは想えない出来上がりのお酒です
吟醸ブレンド 濃姫® ブルーボトル=自然の香りのお酒です。ほんの少し喉を潤す程度でも香りが深く体を突き抜けます
本醸造 濃姫®=容量的に大雑把な感じに想えて、麹の独特の香りを抑えたあっさりとした風味です
今現在、この3種類を試しておりますが、どれも麹臭い雰囲気が全くしません
飲料するもよし、お料理に使うもよし
お料理に使用しても麹の嫌な独特感は全く残りません
奇跡のお酒です
何よりボトルがどれも美しい
清洲桜醸造株式会社公式サイト


濃姫の里 隠し吟醸
フルーティで口当たりが良いです
一応は『辛口』になってますが、ほんのり甘さも残ってます
わたしは料理に使ってます
清洲城信長 鬼ころし
量的に肉や魚の血落としや、料理用として使っています
麹の香りが良いのが特徴ですが、お酒に弱い人は「うっ」と来るかも知れません
どちらも一般スーパーに置いている場合があります
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