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  <title type="text">濃姫恋歌</title>
  <subtitle type="html">濃姫擁護しか頭にないHaruhiが運営しております /　Haruhiの脳内のおよそ98％は濃姫でできております　/　生駒派はReturn to the back.
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  <updated>2008-10-12T23:04:14+09:00</updated>
  <author><name>Haruhi</name></author>
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    <published>2016-02-20T01:00:50+09:00</published> 
    <updated>2016-02-20T01:00:50+09:00</updated> 
    <category term="雑談してみる " label="雑談してみる " />
    <title>信長が正室・濃姫に金箔御殿？　公居館跡で瓦や庭園発掘…宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」を裏付ける証拠か</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[織田信長（１５３４～８２年）が後に岐阜城（岐阜市）となる稲葉山城のふもとに築いた公居館の跡で、文様に金箔を施した瓦の破片や庭園跡が見つかり、岐阜市が１９日発表した。<br />
<br />
　ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」で、庭園を見た後、信長の妻、濃姫の金で彩られた部屋を訪れたと記述。市はこれを裏付け、信長が濃姫のために金箔の御殿を建てたとみている。<br />
<br />
　市は昨年７月から館の中心部とされる区域約６５０平方メートルを発掘調査。金箔瓦の破片は約３０個見つかった。庭園は約３６平方メートルの池を含み、石垣などで区画されていた。<br />
<br />
　造成時期の異なる石垣があることから、信長が当初の計画を変更し、大規模に敷地を拡張したとみられる。発掘区域のうち３００平方メートル以上が平らに整地されていた。<br />
<br />
　これまで金箔御殿は信長が来客用に建てた可能性があるとも指摘されていた。滋賀県立大の中井均教授（日本城郭史）は「信長が濃姫のために計画を変えてまでも御殿を建てたのでは」と話している。<br />
<br />
　現地説明会は２月２７日午前１０時から。<a target="_blank" href="//ryouran.blog.shinobi.jp/File/CblKU3uUkAQK4XS.jpg" title=""><img src="//ryouran.blog.shinobi.jp/Img/1455897622/" alt="" /></a> <br />
<br />
産経2016.2.19 22:03]]> 
    </content>
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            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <published>2014-10-16T23:47:23+09:00</published> 
    <updated>2014-10-16T23:47:23+09:00</updated> 
    <category term="帰 蝶" label="帰 蝶" />
    <title>更新は止まってますが</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[いつか、再開したいと思ってます]]> 
    </content>
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            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <published>2012-11-04T10:38:21+09:00</published> 
    <updated>2012-11-04T10:38:21+09:00</updated> 
    <category term="帰 蝶" label="帰 蝶" />
    <title>86.　冬の姫</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[「もういいかい」<br />
「もういいよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
いつもより、佐治の返事が早い<br />
見付かる気満々なのだなと、市は小さく溜息を零した<br />
それまで一緒に過ごすことが多かったさちは、この頃義姉の弟の世話をするために武家長屋に出向いてばかりで、自分の相手をしてくれなくなった<br />
尊敬する義姉の実弟でも、市は利治が好きになれない<br />
大好きなさちを取ったからが理由だ<br />
だけど、そんな想いも少しずつ薄れて行った<br />
代わりに佐治が遊んでくれるようになったからだ<br />
「佐治はどこかな」<br />
見慣れた小袖の裾が、欅の端から覗いている<br />
「どこかなぁ」<br />
知っていながら市は、こっそり欅に近付いた<br />
「佐治ぃ～」<br />
ほんの少し、声を小さくして佐治を呼んでみる<br />
それで、木の陰の佐治がどう反応するのか、見てみたかった<br />
「佐治」<br />
小さく、小さく呟く<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> す・・・き」<br />
その声は、近くに居る佐治には届かなかった<br />
「佐治・・・」<br />
側に居るのに、近付けない<br />
どうしてか、市にはわからなかった<br />
途端に心が悲しくなり、涙が溢れる<br />
「佐治・・・っ」<br />
小さく叫んだその声を聞き、佐治が欅の陰から出て来た<br />
「如何なさいましたか？お市様」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
佐治の顔を見て、安心し、零す必要のない涙が零れた<br />
「お市様？」<br />
目の前で涙を流す市に、佐治は目を丸くさせた<br />
「佐治・・・・・・・・・・・」<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 大好き<br />
<br />
心の中で呟きながら、佐治の腰にしがみ付いて泣く<br />
時々そうして、市は佐治に甘えていた<br />
それは無意識のことだった<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
いつの間にか転寝をしていたか、市はゆっくりと目を覚ました<br />
側に置いてある火鉢が、暖かな風を吹かせる<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> おえい・・・」<br />
そっと体を起こし、侍女のおえいを呼ぶ<br />
「はい、奥様」<br />
おえいは隣の部屋に居たらしく、直ぐに来てくれた<br />
「お目覚めですか」<br />
「佐治に、手紙を書こうと想うの」<br />
「旦那様に？それはようございますね。紙と筆をご用意いたします」<br />
「でも、何を書けばいいのかわからないの。城に行って、母様に聞いて来るわ」<br />
「奥様、道中産気付いたりしたら如何なさるのですか」<br />
おえいは頭に汗を浮かばせて市を止めた<br />
<br />
「佐治」<br />
短い軍議の後、佐治は帰蝶に呼び止められ、振り返る<br />
側に居た藤吉も揃って立ち止まった<br />
「はい、殿」<br />
「市からこれを預かって来た」<br />
と、面当てを差し出す<br />
「これは・・・」<br />
「戦の時は間違いなく被るように、とのことだ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 移動の際には邪魔なので、断ったんですが」<br />
苦笑いする佐治に、帰蝶も軽く笑う<br />
「それでも、持っていてやれ。それだけで、市は安心するのだ」<br />
「はい」<br />
「で、そこに居るは藤吉か。蜂須賀のところの」<br />
「はいっ」<br />
名を呼ばれ、ずいと前に出る<br />
「何か」<br />
「佐治にくっついて、とうとう小牧まで来てしまったのだな」<br />
「いやぁ、佐治さんと組んでる方が、仕事してるって甲斐を感じるものですから」<br />
「蜂須賀のところは、生温いか？」<br />
「と言うよりも、甲斐を感じないと言うか・・・」<br />
顔を皺だけにして苦笑いする<br />
「なら、本日付でお前を佐治の補佐に付ける」<br />
「えっ？！ホントですかっ！」<br />
「とっ、殿っ・・・！」<br />
突然の帰蝶の申し出に藤吉は喜び、佐治は大慌てする<br />
「それでは、蜂須賀様が」<br />
「構うな。主の言うことを聞かぬ部下など、居ても扶持が無駄になるだけだと、寧ろ蜂須賀の方から放逐を申し出た。蜂須賀は今、墨俣に詰めているからな」<br />
「そうですか・・・」<br />
「遠慮せず、扱き使え」<br />
「はい」<br />
藤吉が喜んでいるのだから、自分も素直に受けねばならんかと、苦笑いする<br />
その佐治に、帰蝶は付け加えた<br />
「とろこで、良く使える侍女が市に着いて清洲に残っているそうだが、難儀はないかと市が心配している」<br />
「あー・・・、飯炊きはこちらで調達しましたし、身の周りは弥三郎さんからお小姓さんをお借りしてるので特に問題は。ただ、風呂の世話をしてくれる者が居ないので、久し振りの自分の世話に戸惑っております」<br />
「そうか」<br />
「だったら俺が佐治さんの風呂の世話を。何ならうちの女房を寄越してもいいですよ」<br />
と、藤吉が冗談を仄めかす<br />
「いや、そこまで藤吉さんに面倒を掛けさせることは・・・」<br />
「侍女は他に雇っているのか？」<br />
「ええ、何人か」<br />
「誰でも良い、兎に角お前は戦働きに専念できるよう、家のことは誰かに任せろ。市も出産が終わったら直ぐに駆け付けると言っているが、いつ出て来るかわからんからな、そんな先のことまで構ってられんだろ」<br />
「そうですね・・・」<br />
帰蝶からそう言われ、手間の掛かる風呂の周りのことだけでも、誰かに頼もうかと左兵衛に相談する<br />
その、世話を買って出たのがお袖であった<br />
まだ若いお袖に体の世話をさせるのは忍びなかったが、帰蝶が到着したことで自身も本格的に動かなくてはならない<br />
帰蝶の言葉どおり、構っていられる場合ではなかった<br />
若く動きの俊敏なお袖が、その担当に決まる<br />
自分も納得したこととは言え、いざ若い娘の前で裸になるのには多少なりとも抵抗感を感じる<br />
妻の前で全裸になるのとはわけが違うのだから<br />
この辺りはまだ、農民だった頃の癖が抜け切れないのか<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 無理をしなくとも」<br />
「いえ、無理などしておりません」<br />
下帯だけの姿で、最後の確認を取る<br />
「奥様がお越しになられるまで、わたくしが面倒を見させていただきます」<br />
「風呂くらいなら、一人でも入れるんだけどなぁ・・・」<br />
と、苦笑いする<br />
「お武家様が一人湯など、とんでもない話でございます。遠慮なさらず、なんなりとお申し付けくださいませ」<br />
「じゃ・・・、あ・・・」<br />
ぎこちない声で応え、急いで下帯を外して手拭を巻き付ける<br />
清洲の屋敷では市か、市が動けない時はおえいが世話をしてくれていた<br />
妻以外の若い女に肌を見せたことのない佐治にとっては、大問題であった<br />
<br />
佐治が小牧山に到着したのとほぼ同じくして、市のお腹の子も益々活発になって行った<br />
「もしかしたら、そろそろかも知れませんね」<br />
おえいにそう言われ、市も頬を緩ませる<br />
「生まれたら、佐治に逢える・・・」<br />
口の中で小さく呟いた<br />
それを聞き、おえいも市に微笑んだ<br />
「では、いつお生まれになられても良いように、ぼちぼち準備をいたしましょうか」<br />
「ええ、お願い」<br />
今はただ、お腹の子が出て来るのが楽しみだった<br />
小牧山で佐治がどのような暮らし向きをしているのか、そこまで考える余裕はなかった<br />
そう想えば、言い訳になるだろうか<br />
<br />
秋も深まり、犬山攻めに向け佐治が動く<br />
それと等しく、藤吉も動いた<br />
小牧山の砦には、帰蝶の世話をする小姓、それに紛れてなつと、なつが連れて来た侍女達が付き添う<br />
そこに加わったのは、藤吉の嫁の寧であった<br />
小柄で少しずっしりとした体格<br />
朗らかさが滲み出ているような、笑顔の似合う少女であった<br />
歳を聞けばまだ十四だと答える<br />
十四で二十六の男に自分の意思で嫁いだのだから、余程のしっかり者かと想えば、それ以上の『しっかり者』だった<br />
「殿、先程お使いになられた筆を、拭っておきました。乾きやすいよう、縁側に少し置いておきますので、お足元にご留意くださいませ」<br />
「ああ、気が利くな、お前は」<br />
「いいえ、当然です。そろそろお茶もご用意いたしましょうか。お口添えに香の物は如何ですか？殿は塩気の効いた物が好みだと伺っておりますので、白菜を用意しております。小さく刻んだ方がよろしいでしょうか。それとも、お口に合うよう短冊切りがよろしいでしょうか」<br />
「では、短冊切りで頼む。一々箸を持つのも億劫だからな」<br />
「ならば、楊枝をお持ちします」<br />
「頼む」<br />
「直ぐに」<br />
そう言うと一礼し、寧は体に似合わぬ機敏さで部屋を出た<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
残されたなつは、呆然としている<br />
「どうした」<br />
「いえ」<br />
少しして、帰蝶に躰を向けた<br />
「私のすることが、何もなくて」<br />
「ははは！お前が張り切って働くこともなかろう？清洲では引っ切り無しで動き回っていたのだからな、ここに来て少しは安め」<br />
「そうは参りません。殿のお世話をするために随行した者が、下の者を動かしてのんびり優雅に休暇とは、大方様に申し訳ございません」<br />
「誰もお前のことを義母上に告げ口などせん。良いから、のんびりしておけ」<br />
「ですが・・・」<br />
「いざと言う時は、お前に出張ってもらわねばならんかも知れん。その時のためだと想えば、少しくらいの休暇も悪いことではないだろう？」<br />
「殿」<br />
自分を庇ってくれるのは嬉しいが、それでもやはり、帰蝶の身の世話を志願して同行したのだから、何か一つくらいはやり遂げたい<br />
なのに、何かに手を付けようと想った尻から、寧がてきぱきと片付けてしまう<br />
仕舞いには、帰蝶の爪まで切っているのだから、なつには寧の存在が疎ましい<br />
かと言って、悪い女でもないので、愚痴を言えば角が立つ<br />
事実、気は利く、手先は器用、人付き合いも上手く、なつに付いた侍女達からの評判も頗る良かった<br />
ここで寧に対して不平を言えば、途端に自分が悪者になるのは目に見えている<br />
尚更、想うことが口に出せなくなる<br />
「殿・・・」<br />
「心配せずとも、お前に黙って何処かに行くことなどせん」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
なつは目を見開いて帰蝶を見詰めた<br />
「あ・・・、あの・・・」<br />
帰蝶の世話をする寧の姿を目にして、少しだけ、帰蝶を遠く感じていた<br />
心のどこかで、期待していた<br />
「自分の世話は、なつがしてくれる。だから、お前は不要だ」と言う言葉を<br />
だけど帰蝶は、それを口にはしなかった<br />
少し苛立った気持ちを持っていたことに、変わりはない<br />
それを見抜かれたかと、なつは顔を赤くした<br />
「私は、そんなにわかりやすく・・・？」<br />
「ははは。『素直』と言うことだろう？」<br />
笑われ、なつは袖で顔を隠す<br />
帰蝶の笑い声が一層、高くなった<br />
<br />
故郷を離れ、どれくらいが経ったのだろうか<br />
ある日突然弥三郎の実家である馬屋から、織田家に仕官したのを、実家の母や兄はどう想っただろうか<br />
そんなことを考える余裕もないまま、こんにちまで過ごしていた<br />
武家の元服も行わず武士になり、氏族名までもらった<br />
妻も得た<br />
子も、生まれる<br />
最初にどんな挨拶をすれば良いのかわからず、佐治は数年振りの古里に足を運んだ<br />
目的は犬山周辺を探るためである<br />
美濃の大垣周辺は恒興に任せ、佐治は本格的に犬山織田攻略に乗り出した<br />
その付き添いは当然だろうが藤吉だった<br />
「へええ、ここが佐治さんのご実家で」<br />
「いや、もう少し先の村だよ」<br />
辿り着いた先は、過疎感の否めない小さな町だった<br />
周囲の風景を見渡しながら訊ねる藤吉に、佐治は少し笑って応える<br />
「どんなとこですか？っても、これから向かうんだから、聞くだけ無駄ってとこでしょうけど」<br />
「あはは」<br />
藤吉の言い回しが可笑しく、佐治は軽く笑った<br />
「特に目立った村じゃありません。何度も戦火に巻き込まれて、何度も侍に田畑を踏み躙られてます。<s>　　　　　　　　　</s> 憎い筈の侍に、私はなりました」<br />
「佐治さん・・・」<br />
淋しそうな佐治の声に、藤吉は足の歩みが遅くなった<br />
「それでも、守りたいものがあるから。だから、私は向かいます。捨てた故郷に」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
少しだけの後ろめたさと、今、自分にすべきことの間で揺れ、それでも前を向いている佐治を、藤吉は自身のことのように誇らしげな目をして微笑んで見詰めた<br />
「行きましょう」<br />
「はい！」<br />
再び歩き出す佐治に、藤吉も声を張り上げて応えた<br />
まるで従者のような<br />
盲信者のような<br />
そんな足取りで佐治の少し後ろを歩く<br />
自分の歩く道を照らしてくれた人だから<br />
だから、藤吉にとって佐治は、『特別な人間』だった<br />
<br />
市の腹の子が活発に動くのと同時に、巴の腹の子も動き始める<br />
元々細身だったからか、それほど膨れても居ない時期から腹が目立っていたのが気に掛かった<br />
帰蝶の留守の間、自分の世話は義理の母である市弥が積極的に見ている<br />
気配りの細かい女性なので、何も言わずとも欲求を満たしてくれた<br />
「そろそろ腰巻の用意でもしましょうか。朝の寒気が目立ち始めてるものね」<br />
と、声を掛けてくれる<br />
「恐れ入ります」<br />
自分の孫ではないのに、腹の中の子を気遣ってくれた<br />
「気にしないで、一々謝ることはないのよ」<br />
そう言って、市弥は笑って見せた<br />
自分の孫ではない子供の世話など、徳子で馴れているのだから、今更他人の子が一人増えたところで大差はない<br />
倅の信長が死んだとわかった時から、本家の孫など望んではいない<br />
後は信良が嫁をもらって子供を作れば、それは自分の孫になる<br />
「大方様」<br />
と、実の孫の帰命が祖母の部屋の襖を開け、部屋に入って来た<br />
「あら、帰命。今日のお勉強は、終わったの？」<br />
母が留守の間、帰命は依存する相手を祖母の市弥か、乳母の菊子に限定していた<br />
「少しだけ、ご休憩です」<br />
「まあ」<br />
まだ幼いからか、言葉の使い方が少し可笑しい<br />
市弥はそれに笑い、帰命を膝の上に座らせた<br />
「それで、婆様に甘えに来たのですか？」<br />
「菊子が忙しそうなので」<br />
「選ぶ相手がなかったのですね？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
帰命は遠慮なく、素直にコクンと頷いた<br />
それに市弥は怒るわけでもなく、笑い出す<br />
笑顔が天道のように明るく、『清洲のお日様』と呼ばれている由縁がよくわかる笑顔である<br />
巴は市弥に釣られて笑い出した<br />
清洲は穏やかな空気に包まれていた<br />
少し離れた先で戦が起きようとしているとは、到底想えない程に<br />
<br />
さっきまで秋風を吹かせていた空が穏やかになった<br />
小姓や道空を退かせ、一人、新築の部屋から雲を眺める<br />
その帰蝶の耳に秀隆の声が届いた<br />
「殿」<br />
「どうした」<br />
「犬山の動向ですが」<br />
「入れ」<br />
「失礼します」<br />
周りに誰も居ないことに、少し遠慮しながら部屋に入る<br />
帰蝶を『女として』見なくなって、どれくらい経つだろうか<br />
それでもこうして一対一で向かい合うと、その美しい面（おもて）が女らしさを醸し出し、男としての感情が湧き上がってしまう<br />
「犬山が動いたか？」<br />
「ええ、そうですね。兵糧を蓄え始めています」<br />
「平城では通り道を塞ぐのに難儀はない、だが、通り道は無限に存在する。その一つ一つを封鎖するのも簡単なことではないだろうが、山城に比べれば兵糧攻めも容易い」<br />
「殿のその指示もあったので、今、通路の封鎖に当たっております」<br />
「仕事が速いな、感心だ」<br />
「恐れ入ります」<br />
帰蝶が誉めてくれる時は、『失敗を許さない』時である<br />
鼠一匹通せないようにしろと、無言で合図したのと同義だった<br />
「それと、清洲から報せが入りました」<br />
「何かあったか？」<br />
「いえ、城からではなく、池田屋敷・・・、佐治の方ですね」<br />
「佐治、と言うと、市か？」<br />
「正しくは、侍女のおえいさんからですけど、そろそろ出産の準備を始めますとのことで、それを佐治に伝えたかったんですが、聞きましたら調略に出ているとか」<br />
「そちらか。ああ、佐治なら生まれ故郷の村で情報を集めるとか言って、藤吉を連れて朝早くに砦を出たぞ」<br />
「藤吉・・・。蜂須賀殿のところの」<br />
普段聞き慣れない名前に、秀隆は簡単には思い出せなかった<br />
「蜂須賀の仕事に加わらないのでな、三行半を突き付けられた。なのにヤツと来たら喜んで、佐治の後をほいほい着いてったぞ」<br />
「ははは。大垣攻略の頃より、佐治にくっついて回ってましたものね。余程、相性が良いのでしょうか」<br />
「佐治の人柄だろう。勝三郎も、あれにやられた。人好きを誘うような男ではないが、気が付けば佐治の魅力に当てられる。市がそれでころりと行ったのだからな、男でも弱いところを見せてしまうだろう」<br />
「何より、佐治は頭が回りますからね」<br />
「機転が利かねば、平民に士分は与えれん」<br />
「それを見出されたのは、殿ですね」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
秀隆の何気ない一言に、帰蝶は自分でも驚くほど皮肉めいた苦笑いを浮かべた<br />
「殿？」<br />
「私が佐治を見出したわけではない。佐治が自ら志願した。それを受け入れただけだ」<br />
「ですが、殿は佐治がまだ馬屋の手伝いをしていた頃より、佐治に目を掛けておられました。ですから、時折り那古野にも来ていたのではありませんか」<br />
「あれは、小牧や近隣の国の情報を得ようとしただけだ。佐治の持つ才能までには気は回らなかった」<br />
「そうですか」<br />
なんとなく、秀隆はそれ以上物を言おうとしなかった<br />
帰蝶の気質は良く知っている<br />
「あなたはそうだ」と言えば言うほど否定することを、知っていた<br />
「佐治の采配が上手く行くと良いですね」<br />
「藤吉も着いてるのだから、失敗は先ずないだろう」<br />
「余程信頼されているようで」<br />
「美濃遠征でも、佐治は池田部隊を一人、守り抜いた。それだけの力量のある男が組んでいるのだ。藤吉もただの雑兵ではなかろう？」<br />
「そうですね」<br />
秀隆は、帰蝶の『人を見る目』が時折り狂うことも、知っていた<br />
それは些細なことから始まり、やがて大きな巌となり行く手を塞ぐ<br />
しかし、それを跳ね返す力も持っている<br />
今はそれを信じるしかないと考えていた<br />
「上手く、行くと良いですね」<br />
小さな声で、祈る<br />
自然と頭が擡げた<br />
「何を心配している」<br />
帰蝶は立ち上がり、秀隆の背後に回った<br />
「お前は、いつもそうだ。心配し過ぎて、出番を見失う」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 殿・・・」<br />
「莫迦だな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
背中に、重い感触を覚える<br />
少し首を後ろに回せば、帰蝶の髪が見えた<br />
「少しは私を信頼しろ。私は、信頼している。だから、お前に背中を預けられる」<br />
「殿・・・・・・」<br />
「安心して、戦場を駆けられる」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
秀隆は、背中に感じる帰蝶の温もりを受け、挙げた頭を再び降ろした<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> はい」<br />
小さく返事しながら<br />
微かに瞳が光ったのは、男涙でも浮かんだか<br />
それを帰蝶は知らなかった<br />
今もところどころで増築を続けている、槌の打つ音を聞きながら、帰蝶は秀隆の背中に凭れたまま目を閉じた<br />
こんな風に、いつの間にか、誰かに背中を預けられるようになった自分を、少しだけ可笑しく感じる<br />
『自覚』してから、自分が変わったこともわかっていた<br />
以前のように勝手も利かない<br />
それが、『大人になる』と言うことなのだろうなと、帰蝶は想った<br />
<br />
懐かしい光景<br />
生まれ育った小さな寒村<br />
忘れていた故郷<br />
その村に、一歩足を踏み入れるには勇気が要った<br />
「佐治さん？」<br />
急に足取りが遅くなった佐治を、うっかり追い抜いてしまった藤吉が振り返り、顔を傾けて訊ねた<br />
「どうかしましたか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いえ、なんでも・・・」<br />
「久し振りだから、緊張してるんですか？」<br />
藤吉は人の心を読み取る天才だと、佐治は感じていた<br />
誤魔化しても、きっと、しつこいくらい聞いて来る<br />
そう想った<br />
「かも、知れません。ははは」<br />
「俺も覚えありますよ。十五十六で村を出て、あっちへこっちへふらふら、どこに仕官しても充分に使ってもらえず不満ばかりが溜まって、結局、故郷の尾張に戻って来ました。でも、敷居が高くて、村にも実家にも帰ってません」<br />
「藤吉さん」<br />
「俺も、家に帰れと言われても、素直に帰れるかどうか、自信ありません。ああ、多分逃げちまうかも知れない」<br />
「まさか、藤吉さんに限って」<br />
「佐治さんがこんなに及び腰なんだ。俺だってどう出るかわかんねえ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
藤吉の顔は、いつものように朗らかに笑っている<br />
だけど、目は笑っていなかった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
何を想ってここに来たのか、佐治は思い出そうとした<br />
犬山に程近い故郷の村での情報収集<br />
それを帰蝶に持ち帰る<br />
織田を優勢に運ぶため<br />
なんのために<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 妻と、生まれて来る子のために<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 藤吉さん」<br />
佐治は小さな声で囁いた<br />
「ありがとう」<br />
「え？」<br />
よく聞き取れなくて、藤吉は聞き返した<br />
「行きましょうか」<br />
「佐治さん・・・」<br />
自分に顔を向ける佐治の表情は、いつも見慣れた朗らかで、だけどどこか計算しながらの自信に溢れたものにも見え、藤吉も頬を綻ばせた<br />
「はいッ！」<br />
元気よく返事し、歩き出す<br />
その脚が早く、佐治を残して行ってしまい、慌てて引き返し佐治の後ろに付く<br />
そんな藤吉の動きが面白くて、佐治は滅多に大声では笑わないものを、ゲラゲラと腹を抱えて笑った<br />
藤吉も、元気な佐治の姿を見て、笑われたことが嬉しくて、一緒になって笑い出した<br />
何が可笑しいのか自分でもわからない<br />
ただ、佐治が笑っていてくれることが嬉しかった<br />
<br />
痩せた土が多く、これと言った豊作も見込めない<br />
高価な野菜が採れるわけでもなく、戦が起きる度に畑は荒らされる<br />
時には木曽川の氾濫で家ごと流されることもあった<br />
何度も何度も死んで行く畑を見ては、自分のやっていることが無駄に想えていた<br />
幼い頃、戦をする侍から畑を守ろうとした父に流れ矢が当たり、困窮していた佐治の家庭は更に貧しさを味わされた<br />
弱い者が戦で泣かずに済むにはどうしたら良いのかと思いあぐねていた時に、帰蝶に出会った<br />
それから数年が経ち、佐治の想いは固まった<br />
自分が侍になり、戦をさせなければ良いのだ、と<br />
帰蝶との出会いで、佐治の願いは少しずつ現実に近付いていた<br />
故郷の村は犬山に近い場所にあるが、犬山の支配は受けていない<br />
こうして侍の姿をした男が何人入ろうと、村の迷惑にはならない筈だった<br />
小さな集落でもある村だ<br />
目に入る顔は、どれも見慣れたものばかりだった<br />
だが、一人一人に声を掛けている暇はない<br />
佐治は真っ直ぐ、実家のある畑へと向かった<br />
<br />
「あら？」<br />
小用で席を外していたなつが戻って来た<br />
戻るなり、キョトンとした顔を帰蝶に向ける<br />
「どうした？」<br />
「いえ。シゲが来てたかと想うのですが」<br />
「シゲ？ああ、来ていたぞ。シゲに何か用でもあったか？」<br />
「いえ、シゲではなく」<br />
「どうした、なつ」<br />
いつもと違って口篭るなつに、首を傾げる<br />
「あの・・・、清洲で何かあったのかと想いまして・・・」<br />
「清洲で？何故だ？」<br />
「市姫様のご出産も控えておりますし、年明けには三河から松平が訪問する予定ですし、なのに殿はそれを待たずして小牧山に移られたものですから、清洲から帰還要請でもあったのかと」<br />
「来て早々帰って来いなど、義母上様が言うわけなかろうが」<br />
「そうですけど、大方様もここ心配性の気がございますし」<br />
「だとしても、お前ほどではないだろうよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
呆れたような顔をしてはっきり言われ、なつはぽかんと帰蝶の顔を見詰めた<br />
<br />
村の出入り口でもある杉の木が二本並んだ道を入る<br />
何年振りだろうかと、改めて想いが込み上げた<br />
襤褸一枚を纏って村を出た少年が、今は立派な武士の姿をして戻って来たことに冷やかされたりはしないだろうか、驚かれたりはしないだろうか、と、佐治は酷く胸を擽られる<br />
「佐治さんちは、どの辺りですか？」<br />
「小川の近くです。村でもみすぼらしい家ですから、直ぐに見付けられます」<br />
そう自分を笑うかのように言う<br />
「うちだって、そうですよ。立派な御殿なんかじゃない。でも、今の国を支えてるのは、そう言ったみすぼらしい家で暮らす、底辺の人間だ。豪華絢爛な生活をしていないからこそ、俺達が食う米を作ってくれている。綺麗な小袖を着た人間に、畑仕事が出来ますか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
はっきりと、だけど微笑みながら言い切る藤吉に、佐治は少し目を見開いて、それから一緒に微笑んだ<br />
「そうですね」<br />
気を改めて、村を歩く<br />
佐治が歩けばそれは、幼い頃出た時と然程変わらない、相変わらず小汚い村の風景に一筋の光りが差すような、そんな雰囲気だった<br />
誰も彼も、身形の立派な侍が村を歩く姿に目を奪われる<br />
中年の男がそれを見付け、声を掛けた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お前、もしかして、佐治・・・か？」<br />
「お久し振りです、権吉さん」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
変わり果てた佐治に、権吉と呼ばれた男は、しばし目をぱちくりとさせた<br />
「うちの家族は、変わらずですか？」<br />
「え？」<br />
「母も兄も、健在でしょうか」<br />
「それは・・・・・・・・・・」<br />
佐治の姿に驚き、その後、顔が翳る<br />
隣で見ていた藤吉は、いつもと違い、一言も口を利かなかった<br />
「お前のおっ母さんは・・・・・・・・・・・・」<br />
<br />
「お帰りなさいませ」<br />
ここのところ、侍女のお袖が佐治の世話をしたがるのか、玄関で出迎える光景が当たり前になっていた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ただいま戻りました」<br />
努めて微笑もうとするが、頬が引き攣って上手く笑えない<br />
「お疲れのようですね。先に湯浴みをなさいますか？支度はできております」<br />
「気が利きますね、ありがとう。そうしようかな・・・」<br />
今は飯も酒も、喉を通りそうにない<br />
ともすれば足元から崩れてしまいそうな、そんな気持ちにさえなる<br />
「では、お世話いたします」<br />
「いつもありがとう」<br />
「いいえ、当然のことにございます」<br />
軽く頭を下げると、お袖は佐治の先に歩いて湯殿に誘導した<br />
若い女の前で裸になるのも、少しは馴れて来た<br />
お袖が表情を崩さないで居てくれるお陰だろうか<br />
ただ今は、そんな個人的な感情などどうでもいいかのように佐治の心は重く、まるで泥でできたかのような苦しい胸の内を抱えていた<br />
湯殿の隅で火に焙られた炭が『パチン』と音を立てている<br />
ああ、もう直ぐか<br />
そう、言葉が浮かぶ<br />
もう直ぐ、息子か、娘が生まれるのだな、と<br />
こんなことでくよくよしてどうする、と、自分自身を励ます<br />
それでも、今だけは気持ちの切り替えが上手くできない<br />
自然と頭が垂れた<br />
まだ真新しい檜の風呂椅子に腰を降ろし、お袖が背後に回るのを待つ<br />
やがて、少し冷えたお袖の手が肩に乗せられ、背中を拭う感触が伝わった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 旦那様。お躰の疲れは、中々抜けそうにございませんね」<br />
「いや・・・」<br />
躰が疲れているわけではない<br />
心が、疲労していた<br />
「私は、構わないのです」<br />
肩に置いた手が離れ、衣擦れの音がした<br />
「え・・・？」<br />
何事かと、普段気にもしなかった背後を振り返る<br />
「お袖・・・・・・・・・・・・・・・」<br />
お袖は着ていた小袖を脱ぎ捨て、その瑞々しい裸体を晒していた<br />
「私は、一向に構いません。どうぞ、お好きになさってください」<br />
今、お袖を抱けば、心は軽くなるのだろうか<br />
忘れたかったこと、忘れていたこと、全て、なかったことになるのだろうか<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
手が、お袖の乳房に伸びた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そうか」<br />
砦の表座敷では、この時だけ藤吉が帰蝶・信長の前に座っていた<br />
帰蝶の傍には、女房の寧が控えている<br />
女房を迎えに来て、その序にはなってしまったが、村での出来事を報告した<br />
話を聞き、帰蝶の眉間に僅かな皺が生まれる<br />
「あの・・・、殿・・・。佐治さんは・・・」<br />
「その先どうするか、それは佐治の判断に委ねる。特に注視していない村だ。情報は他からでも拾える」<br />
「そう・・・ですよね」<br />
「何故、お前が落ち込んでいるのだ」<br />
「落ち込まないわけ、ないでしょう？佐治さんは、俺の道標・・・・・・・・・。いえ、なんでも」<br />
言い直し、藤吉は改めて土下座した<br />
「ただ、殿には心に留め置いていただきたかっただけにございます。どうかしてくれなどとは、考えておりません。ご無礼を、お赦しください。謁見までしていただいたのに、俺・・・・・・・・・・・」<br />
「お前は、佐治に心酔しているのだな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
藤吉は、帰蝶の一言に頭だけを上げ、上目遣いで見上げた<br />
月光に照らされる、その美しい面（おもて）を<br />
「私にも、覚えはある。今のお前を責めるつもりはない。これまで通り、佐治に尽力せよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ははっ・・・！」<br />
<br />
指先が、お袖の白い乳房に当たった<br />
もっと触れてくれと言わんばかりに、お袖自身から胸を突き出して来る<br />
その行動に、佐治は咄嗟に手を引っ込めた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 旦那様・・・」<br />
「お前に恥を掻かせるのは、忍びない。だが、私はそう言った教えは受けていない」<br />
乾いた声で、気持ちを言い表す<br />
「私は、旦那様を」<br />
お袖は佐治の手首を掴み、自分の乳房に押し当てた<br />
「妻にしてくれとは申しません。側室で、構いません。一目見た時から、私は旦那様のことを」<br />
その手を、振り解きながら返す<br />
「やめないか。私を誘惑するのは」<br />
「え・・・・・・・・・？」<br />
「風呂場でお前の操を散らせる必要性など、どこにもない。亭主を探しているのなら、屋敷には私以外の男も居る。若い連中だ。気の良い者も居る。急いでいないのなら、じっくり吟味するのも良いだろう。だが、私はその相手にはなれない」<br />
そう言い、落ちたお袖の小袖を拾い上げ、押し付ける<br />
「屋敷の男で不満足なら、河尻様に斡旋してもらおう。あそこは条件の良い相手が大勢居る」<br />
「私は」<br />
「このことは、私も忘れることにする。今日は湯殿の世話は良い。私も疲れた。寝かせてもらう」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
まるで、逃げるかのように、佐治は湯殿から出て行った<br />
お袖には、そんな佐治を追い駆けるだけの気力は残されていなかった<br />
<br />
脱いだ小袖をそのまま羽織りながら、廊下に出る<br />
出た佐治とたまたま遭遇したのか、左兵衛とぶつかりそうになった<br />
「どうした、左兵衛」<br />
「だっ、旦那様！旦那様！」<br />
「だから、どうした。何を慌てているんだ」<br />
左兵衛の表情がおかしく、佐治は細帯を締めながら笑った<br />
「おっ、奥様がっ！」<br />
「市？<s>　　　　　　　　　</s> 市に何かあったのかっ？！」<br />
市の名に、佐治も慌てふためく<br />
まさか、市の身に何か良からぬことでも起きたのではないかと<br />
「とっ、兎に角お越しくださいませ！」<br />
と、左兵衛は佐治の手首を掴み、廊下を走り出した<br />
今日はやけに手首を掴まれる日だな、と想いながら、佐治も脚を速める<br />
連れて来られた居間の襖の前で、左兵衛が一言声を掛けた<br />
「奥様、お連れしました」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> え・・・？」<br />
「どうぞ」<br />
襖の向こうで、愛しい妻の声がした<br />
待っていられず、佐治は自分の手で襖を開け放つ<br />
そこに、赤子を抱いた市が座って、自分に笑顔を向けていた<br />
「市・・・・・・・・・・」<br />
傍にはおえいも居る<br />
おえいは佐治の顔を見て、直ぐに平伏した<br />
「お待たせしました、旦那様」<br />
「市・・・・・・・・・。え？」<br />
抱いている赤子に、目を丸くする<br />
「生まれ・・・・・・・・・・・・？」<br />
「はい。おなごです」<br />
「娘・・・・・・・」<br />
「ごめんなさい。跡取りじゃなくて」<br />
「いや、そんなこと・・・。それより・・・・・・・・・」<br />
いつ生まれたんだと聞きたくて、仕方がない<br />
なのに言葉が出て来ない<br />
いや、その前に、ここに居る市は本物なのか<br />
幻ではないのか<br />
そんな想いが次々に去来し、ただ呆然とした顔で佇むしかできなかった<br />
「生まれたの。やっと」<br />
「うん・・・・・・・・・・」<br />
「それで、急いで来ちゃった」<br />
「うん・・・・・・・・・・」<br />
「早く、佐治に逢いたくて」<br />
「うん・・・・・・・・・・」<br />
「旦那様、奥様を叱ってやってくださいな。まだお躰をお休めにならなくてはならないのに、大方様が止めるのも聞かず、ここに来てしまったのですよ？」<br />
と、おえいが苦笑いしながら、まるで冗談でも言うかのような表情で告げる<br />
「いつ、生まれた・・・・・・・・・・・？」<br />
「四日前」<br />
「手紙なんて、来てないぞ？」<br />
「うん。なんて書けば良いのかわからなかったし、私、筆不精だし。それで」<br />
市は佐治に向き直して続けた<br />
「あれやこれや考えるより、佐治に逢いに行こう、って想って」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
懐かしい市の笑顔に、膝がガクガクと震え、佐治は腰を降ろした<br />
「そう・・・か。無理をして、来てくれたのだな・・・」<br />
「無理はしてないわ。私が、そうしたかったの」<br />
そう言いながら、生まれたばかりの娘を佐治に手渡す<br />
「少し、小さいでしょう？」<br />
「そう、だな・・・。うん、ちょっとわからない・・・」<br />
「ふふふっ。帰命様に比べたら、少し小さいの。母様に、そう言われた」<br />
「そう・・・か・・・」<br />
小さくとも、ずっしりと来る重さを腕に感じながら、我が子の寝顔をじっと見詰める<br />
目元が市にそっくりだった<br />
帰命も目元は母親の帰蝶に良く似ている<br />
赤子とはそんなものなのだろうかと単純に想った<br />
この光景を、お袖が襖の陰から見ている<br />
そんなことなど気付く筈もない<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 名前は？」<br />
「まだ」<br />
市は首を振りながら応えた<br />
「佐治に決めてもらおうと想って」<br />
「私が？良いのか？」<br />
「当たり前じゃない、父親でしょう？」<br />
「でも・・・・・」<br />
「私も、名前を付けたのは父様よ。母様の名前の一文字を頂いただけなんだけど」<br />
と、苦笑いする<br />
市を見て、佐治もやっと頬を緩めれた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 佐治」<br />
囁くように、声を掛ける<br />
「つらいこと、あった？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え・・・？」<br />
市はそっと佐治に寄り添い、頬に手を当てた<br />
その光景を見て、おえいは静かに席を外す<br />
共に左兵衛も部屋から離れようとして、少し離れた場所に居たお袖に気付き、去るように手で合図する<br />
お袖は不承ながらその場を去った<br />
あれが旦那様の妻か、と言いたそうな表情で<br />
「泣きたそうな顔、してる」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
気持ちを理解してくれる者は大勢居ても、心を理解してくれるのは、妻だけだった<br />
佐治は頼りなさげな顔で薄く笑い、それから<br />
「市・・・・・・・・・・・」<br />
小さな声で話し始めた<br />
市は黙って聞き入った<br />
<br />
腕の中の小さな娘<br />
冬に生まれたのを由来に、名を付ける<br />
生まれて来てくれて、ありがとうと感謝して]]> 
    </content>
    <author>
            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <id>ryouran.blog.shinobi.jp://entry/323</id>
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    <published>2011-06-24T02:05:52+09:00</published> 
    <updated>2011-06-24T02:05:52+09:00</updated> 
    <category term="帰 蝶　～ 外 ～" label="帰 蝶　～ 外 ～" />
    <title>この手にある日溜り　背中に潰えた拒絶</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[「母様」<br />
<br />
想い出は、いつも遠い場所にある<br />
<br />
「吉法師」<br />
<br />
追い縋っても届かぬ、遠い場所にある<br />
<br />
「母様」<br />
<br />
大切な存在を自ら拒絶した先にあったものは、大切な存在を失くした後に訪れる絶望感だけだった<br />
<br />
「来てはなりませぬ、吉法師」<br />
<br />
この手に触れそうになった温かな想いを跳ね除けたのは、紛れもない、己だった<br />
<br />
「母を、忘れなさい」<br />
<br />
「母様」<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> お前は、織田の跡取りなのだから<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
薄っすらと瞼に差し掛かる外の日差しに、市弥はゆっくりと意識を取り戻した<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いつの間に、眠ってしまったのかしら・・・」<br />
のそのそとした動作で起き上がると、肩に掛けられていた春の小袖がずるりと落ちた<br />
「これ・・・」<br />
見覚えのある模様<br />
だけど、想い出せない<br />
「ここ・・・」<br />
自分の部屋であることに変わりはないが、何か違和感と言うものが残る<br />
確かにここで雑談をしていた<br />
誰かと<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 誰と？<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 吉・・・」<br />
<br />
久方振りに、倅の夢を見た<br />
ここのところ忙しなさに感けてゆっくりと想い出す暇なかったことを、想い出す<br />
「そう、ね・・・。そろそろなのね」<br />
誰が羽織らせてくれたかわからぬ小袖をそっと手で払い、市弥は丁寧な手付きで畳み始めた<br />
そこへなつの声がする<br />
「大方様、お暇頂いて、よろしゅうございますでしょうか」<br />
「なつ？ええ、どうぞ」<br />
「失礼します」<br />
なつの従える侍女が襖を開け、少し遅れてなつが入って来る<br />
「どうしたの？」<br />
「そろそろかと想いまして」<br />
「あら、なつも感じていたの？」<br />
「と、申しますと？」<br />
「ふふっ」<br />
あどけない少女のような微笑で、市弥は応えた<br />
「吉法師ったらね、夢の中まで現れて、催促するのよ？」<br />
「若が？」<br />
「今年は、餡子の団子が良い、って」<br />
「餡子の団子、ですか」<br />
「ええ」<br />
「そうですか、若が・・・」<br />
市弥の話に胸がほんわかと暖かくなったような気がして、なつは少し目を落とした<br />
そこに、見覚えのある小袖が映る<br />
「あら、その小袖」<br />
「なあに？知っているの？誰の小袖か」<br />
「まあ、大方様ったら」<br />
なつは腰を落としながら笑った<br />
「お忘れですか？」<br />
「え？」<br />
<br />
遠い、遠い初夏の日<br />
忘れていた、出会いの日<br />
<br />
「この子が・・・」<br />
<br />
痛い想いをして産み落とした子は、自分の期待を一身に背負う男の子で<br />
市弥はただ、嬉しかった<br />
この子の存在が、自分の存在意義になる<br />
織田に嫁いだ意味になる<br />
そう、感じていた<br />
<br />
「なりません！吉法師！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
自分の叱咤の声に、我が子は肩を震わせる<br />
<br />
「好い加減になさい！吉法師！」<br />
「母（かか）・・・」<br />
<br />
ただ、織田の跡取りに相応しい男児に育って欲しかった<br />
<br />
「お前と言う子は・・・」<br />
<br />
そのためなら、自分はどれだけ嫌われても良い<br />
心底、そう想っていた<br />
<br />
「織田には要らぬ子であったかッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
涙を浮かべ、逃げ去る吉法師の背中を、市弥は胸を抉られるような想いで見送った<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> お前は、織田の跡取り<br />
強い子に育ちなさい<br />
倒れぬ子に育ちなさい<br />
織田を背負えるだけの男に、お成りなさい<br />
<br />
冷酷な子に、育ちなさい<br />
<br />
「吉法師・・・・・・・・」<br />
<br />
お前は、優しい子だから・・・・・・・・・・<br />
優し過ぎる子だから<br />
だから<br />
<br />
冷酷な子に、育ちなさい<br />
<br />
お前には冷酷なくらいが、丁度良い<br />
<br />
「ごめん・・・ね・・・。吉法師・・・」<br />
<br />
殺したいほど、母を憎みなさい<br />
<br />
「吉法師ッ！」<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 私、生きていた頃の吉法師の名前を、きちんと呼んだことがなかったわ」<br />
持ち主のわかった小袖をそっと撫でながら、市弥は呟いた<br />
「いつも、怒鳴ってばかりだった」<br />
「そうですね」<br />
「どうして怒鳴ってばかりだったのか、なつは知っていたのね」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ええ」<br />
なつは少し目を閉じ、小さな声で応えた<br />
「大殿から、聞かされておりました。大方様がお輿入れなさった時のことを」<br />
「そう・・・」<br />
「ですから私は、大方様に何も申せませんでした」<br />
「なつ・・・」<br />
「おつらかったでしょう。我が子を突き放すのは」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
なつの言葉に、市弥は眉を寄せて苦笑いした<br />
「可笑しいのよ。突き放して育てた子が優しい子に育って、甘やかして育てた子が冷酷な人間に育ってしまった」<br />
「大方様」<br />
「皮肉ね」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
これに応えられず、なつは力なく首を振った<br />
「そうだわ」<br />
しんみりとした空気を払い除けようと、市弥は立ち上がりながら言った<br />
「吉法師へのお供え物を作るのに、少し練習しようかと想うの」<br />
「練習ですか」<br />
「餡子はまだ作ったことがないから。ねえ、五平餅を作った時のように、餡子の練り方を教えてくれない？」<br />
「私でよろしいのですか？」<br />
「あなた、意外とお料理上手ですもの。教えて頂戴」<br />
「はい、承知しました。わたくしで宜しければ」<br />
見上げる先にある上司の顔は、どことなく晴れ渡った青空のようであった<br />
<br />
「吉法師。お前は将来、織田を背負って立つ身の人間なのですよ？自覚はあるのですか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
やっと八つになったばかりの我が子の、誕生を記念する日に最初に掛けた言葉が、それだった<br />
「このままでは元服さえ覚束ない。いっそのこと、弟に家督を譲りますか」<br />
「母上・・・」<br />
想像していた通り、長子は悲しそうな顔を向ける<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> そんな顔をしてはいけません<br />
男が泣き顔を他人に見せるものではありません<br />
お前が悲しそうな顔をすれば、周りはお前に不安感を覚えます<br />
常に毅然としていなさい<br />
どうして、わかってくれないの<br />
<br />
「親から自立する頃合ですね」<br />
<br />
そう言って、市弥は夫に那古野城から出ることを勧めた<br />
<br />
見送りに我が子の姿はなく、市弥は淋しいような、ほっと安堵したような、そんな複雑な心境に駆られた<br />
だけども、しかし、吉法師は物陰からじっと、物欲しそうな顔をして大手門を出る自分達の姿を見送っていた<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 吉法師<br />
まだ、わからないの？<br />
<br />
倅の妻が貸してくれた小袖を届けようと、局処の私室を訪れる<br />
だが留守で、主は本丸に居ることを知らされた<br />
「序でだから、団子も」<br />
そう呟き、市弥は一人で台所に向かう<br />
両手で大事そうに支えた皿を持って、本丸の執務室を訪れた<br />
「上総介」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
振り返ったのは、突き放した倅が選んだ女で、自分の跡を託した女で、大切に育てた息子を殺した女で、今、一人で織田の家を守っている女で<br />
自分の運命と戦っている女だった<br />
「今、少し良いかしら」<br />
忙しいと、追い返されたりはしないだろうか<br />
そんな不安な気持ちが先走る<br />
「はい、どうぞ」<br />
だが、嫁の一言に不思議と安心できた<br />
「どうかなされましたか？」<br />
「大したことじゃないの」<br />
<br />
もしも、あなたが『吉法師』、だったなら<br />
<br />
市弥は顔が綻びそうになるのを必死で抑え、部屋に入った<br />
「吉法師の法要のお供えに団子を作ったのだけど、今年は餡子にしてみたの」<br />
「餡子・・・ですか」<br />
何か想うことがあるのだろうか<br />
嫁は少し顔を俯かせた<br />
だけど、どことなく笑っているようにも見えた<br />
「それで、あなたに味見をしてもらいたいのだけど、良いかしら」<br />
<br />
私は、あなたを愛して来れたのかしら・・・・・・・<br />
<br />
「どうぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
凡そ、微笑んでいるようにも見えなかったが、怒っているようにも見えなかった<br />
量り難い女だと、心底感じる<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 良かった。夕餉前だから、断られるかと想って」<br />
「美味しそうですね」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
不思議な人だった<br />
倅の妻は<br />
ずっとずっと、子供から与えてもらえていなかった言葉を、魂に乗せるかのように発する<br />
その『言霊』が胸にすとんと落ちて来て、心を満たしてくれる<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> この人なのね、吉法師<br />
お前が愛した女（ひと）は<br />
<br />
「うっかり、これで腹を膨らませてしまいそうです」<br />
「そんな、大袈裟よ」<br />
<br />
うっかり<br />
涙が零れそうになり、市弥は笑っているのを隠している『振り』をして、口元を袖で覆った<br />
<br />
「もっと早く、吉法師やあなたとわかり合えていれば良かった」<br />
それは、懺悔（さんげ）の言葉にも似ていた<br />
後悔の言葉にも取れた<br />
「憎いわけじゃなかったのに・・・」<br />
「ですが、義母上様の教育があったればこそ、吉法師様は他人を思い遣れる優しい人に育ったのだと想います」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そんな風に言ってくれる人間は、今までどこにも居なかった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そう・・・、想ってくれる・・・？」<br />
「違いますか？私はそう感じたので、口にしたまでです。それが事実かどうかは、私にはわかりかねます。義母上様のお言葉で聞いたわけでは、ありませんので」<br />
「そう・・・ね」<br />
優しい言葉の後に、突き放す<br />
突き放した後で、しっかり抱き締める<br />
この嫁は、そう言う人間だった<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 自分が成りたかった女が、目の前に居る<br />
<br />
「今更と、叱られるかしら」<br />
「誰が、ですか？」<br />
「吉法師に」<br />
義理の母の言葉に、帰蝶は静かに語り掛けた<br />
「死んだ人間は、物は言いません。残された想いが夢となり幻となり、目の前に現れるだけです」<br />
「上総介・・・」<br />
やはりな、と感じた<br />
優しい微笑みで残酷な言葉を平気で投げ掛ける<br />
そうでなければ、女の身で家を守ることなど<br />
繁栄させることなど、不可能であろう<br />
「義母上様の前に現れる吉法師様は、如何ですか。どのようなお方でしょうか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
少し考え、少し遅れて返事する<br />
<br />
「優しい子よ。優しくて、少し甘ったれな吉法師で現れるわ」<br />
「ならば、それが義母上様の胸の中に生きる吉法師様なのでしょう」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
市弥の目が、見開かれた<br />
「生前の頃の吉法師様の、お人柄そのままですね」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 上総・・・介・・・・・・・・・」<br />
「あなたが、祈りを込めて育てられた吉法師様は、お優しくて、少し甘えたところがあって」<br />
帰蝶の顔を、息を呑んでじっと見詰める<br />
「義母上様が望まれた通り、お育ちになられたものと、私は感じております」<br />
<br />
ぽろり、と、涙が零れた<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> そうよ<br />
その通りよ<br />
織田の跡取りに相応しい子じゃなくても、良かった<br />
人の心の痛みのわかる子に、育って欲しかった<br />
人に優しくあれる子に、育って欲しかった<br />
そうよ<br />
あの子は、私の望んだ通りの子に育ったの<br />
だのに私は、あの子を守ってやれなかった<br />
<br />
死に、追い遣った・・・・・・・・・・・・・・<br />
<br />
「団子、とても美味しかったです。これなら吉法師様も、お喜びになられると想います」<br />
「本当に？」<br />
「ええ」<br />
「良かった・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
市弥の顔をじっと見詰め、それから帰蝶は言った<br />
「死んだ人間のために流す涙は、愛した証拠です」<br />
「かず・・・さ・・・」<br />
「義母上様は、きちんと、吉法師様を愛しておられたと、存じます。その想いは間違いなく、吉法師様に届いております。ご安心ください、義母上様」<br />
「か・・・ず・・・」<br />
<br />
堰を切ったかのように流れる涙<br />
止（とど）まりはしない嗚咽<br />
<br />
そうよ<br />
私は確かに、あの子を愛してた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
背中に誰かの視線を感じた<br />
それを辿るかのように、信長は後ろを振り返った<br />
だが、そこには誰も居ない<br />
気の所為かと向き直し、少し先を歩く妻の背中を見詰めた<br />
自分でも不思議なくらい、優しい目で見詰めていられると自覚できた<br />
<br />
そうか<br />
こんな感じか<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> さっきから、自分の背中を包む、誰かの視線は<br />
<br />
新調した妻の小袖の柄は、自分が見立てたものだった<br />
鉄線花をあしらった染物で、今の時季には早いものだが、妻に良く似合う花だと感じていた<br />
本当は妻の名を捩って『桔梗』にしたかったのだが、きっと、気を悪くすると想い、言い出せなかった<br />
だけど、鉄線花も悪くない<br />
妻に、良く似合う<br />
そう、見詰めていた<br />
<br />
暇の開いた束の間、帰蝶は義母との雑談の後、局処に戻った<br />
衣紋掛けに掛けられている、さっき母に貸した筈の小袖が目に入る<br />
裾に鉄線花が描かれたものだ<br />
夫が見繕ってくれたもので、帰蝶にも思い入れのあるものだった<br />
<br />
「まあ、お忘れですか？」<br />
そう、呆れた顔をしてなつは言った<br />
「この小袖は、殿が若と共に初めて、末森を訪れた時にお召しになっていたものですよ？」<br />
そう言えばそうだったなと、言われて漸く想い出す<br />
<br />
「私は、薄情な女ね」<br />
「大方様だけではなく、女は大概、薄情にできているものです」<br />
そう言って、なつは大笑いした<br />
「薄情を嘆くよりも、今を真摯に生きている女の方が、値打ちはありますわよ？」<br />
そんな、冗談めいた言葉に、市弥は笑うことができた<br />
<br />
そうだ、な、と<br />
それを具現したのが嫁で<br />
それを愛したのが倅なのだ、と<br />
<br />
私は、間違ってはいなかった<br />
<br />
愛せなかったと想い込んでいた倅を、実は愛していたことを教えてくれた涙は、もう流れない<br />
ただ、倅の法要には、今日作ったものよりずっと美味しい団子を作って、供えてやろうと<br />
ただ、そう想えた]]> 
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    <author>
            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <id>ryouran.blog.shinobi.jp://entry/322</id>
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    <published>2011-03-25T13:29:49+09:00</published> 
    <updated>2011-03-25T13:29:49+09:00</updated> 
    <category term="― 悪 党 ―" label="― 悪 党 ―" />
    <title>はちろ</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[八郎の家は、女系家族だった<br />
姉、妹ばかりの家庭である<br />
男児は居たことは居たが、全て早世してしまった<br />
今現在、男は八郎一人で、家族が寄せる期待も半端なものではない<br />
家は元々は土豪の出身で、祖父の頃から楠木に仕官した<br />
しかし、所詮『氏族』の出ではない八郎の家は、楠木で重んじられることはなかった<br />
その、八郎の家に光が差したのは、当主が正成に代わってからのことだった<br />
父の長年の苦労と努力、功績が、正成に認められた<br />
そして、漸く侍大将にまで上り詰めたと言うところで、父は戦死した<br />
寺田との戦で死んだ<br />
父が死んだのは、河南の所為ではない<br />
八郎自身、わかっていた<br />
わかっていても、河南を憎まずにはいられなかった<br />
八郎の自宅は、山を降りた麓の村にある<br />
土豪を抜け武士にはなったが、贅沢ができるような家柄でもない<br />
生まれながらの氏族である正成や新九郎とは違っていた<br />
父の活躍あって家そのものは大きくても、粗末な造りに変わりはない<br />
その家の、囲いのような門を自分の手で開け、八郎は自宅に入った<br />
<br />
「ただいま」<br />
「お帰りなさい」<br />
少し年取った母が、玄関まで出迎えてくれる<br />
いつもの日課だった<br />
「今日は早いのね」<br />
「ああ、殿が早く帰れって」<br />
「そう」<br />
母は八郎の小さな荷物を受け取りながら、そこに膝を落とした<br />
踏み石に昇り、縁側に腰を降ろし、草履を脱ぐ<br />
足袋などは履いていないので、土で汚れた足を置かれている盥に突っ込む<br />
まだ肌寒い春の初め、水の冷たさに身が縮こまった<br />
「はい」<br />
と、母が手拭を差し出す<br />
それを受け取り、足を拭って立ち上がった<br />
「ああ、そうだ・・・」<br />
八郎は、懐に入れていた干し柿を、母に差し出した<br />
「あら、今時珍しい」<br />
「殿にもらったんだ」<br />
「楠木様に？そう、お前、気に掛けてもらっているのね」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
素直に嬉しそうな顔をする母に、八郎の胸がちくりとする<br />
「それ・・・」<br />
母が受け取った干し柿を見詰めながら、八郎はぽつりと言った<br />
「ほんとは、河南・・・って子が、呉れたんだ」<br />
「河南？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 最近、殿が引き取った子で・・・」<br />
「あら。楠木様、とうとう養子をもらうことにしたの？」<br />
あさが子を産んでいないことは、誰もが知っている<br />
それを口にしただけだ<br />
「いや・・・、養子じゃない・・・」<br />
「え？<s>　　　　　　　　　</s> じゃあ、侍女か何か？」<br />
「いや・・・」<br />
「誰なの？」<br />
それを口にしたら、母はどれだけ驚くだろうか<br />
どれだけ、傷付くだろうか<br />
だけど<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 寺田の、娘なんだ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
話さずにはいられなかった<br />
母の反応は想像したとおりで、大きく眼を見開いていた<br />
「寺田の・・・」<br />
「その、家族皆殺しになって、それで、行くとこがなくて、それで、殿が」<br />
八郎は慌てて言い訳を並べた<br />
だが、母はそれ以上、特に驚く様子もない<br />
素早く表情を戻し、寧ろ悲しそうに微笑んでいるようにも見えた<br />
「そう・・・」<br />
「かあちゃん・・・」<br />
「強い子ね」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え？」<br />
母の一言に、八郎の方が驚かされる<br />
「だって、寺田を根切りにしたのでしょう？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎は黙って頷いた<br />
「その子は、仇の家で暮らしているのよ？」<br />
それは正成からも聞かされている<br />
言われずとも、八郎自身、理解していた<br />
「どれだけやるせない想いで、暮らしているのかしら。例え幼子だとしてもね、わかるのよ。自分の、親の仇くらいは」<br />
「あ・・・・・・・・・・」<br />
八郎は、初めてはっとさせられた<br />
そうだ<br />
自分も、そうだ<br />
誰に言われるまでもなく、自分の仇の相手くらいはわかっている<br />
河南も、同じなのだ<br />
それだけではない<br />
河南は、『自分の目の前』で親や兄弟を殺されたのだ<br />
姉達は、犯された上に殺されると言う、惨い死に方までしている<br />
それでも・・・<br />
それでも河南は、挫けた様子を見せていない<br />
無口ではあるけれど、しゃんと背筋を伸ばして生きている<br />
今、自分の目の前にある現実と、きちんと向き合っている<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙り込む八郎に、母は干し柿を手渡した<br />
「これは、あなたが食べなさい」<br />
「かあちゃん・・・」<br />
「河南と言う子の想いを、受け取りなさい。それが、あなたの役目よ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
いつも何かに苛々していたのは、河南の所為ではなかった<br />
自分だった<br />
自分自身にあったことを、八郎は漸く気付いた<br />
あの時、あの夜、河南の姉達が犯されているのを、八郎は黙って見ていた<br />
その輪の中に加わることはしなかったが、大勢の男達に輪姦され、甚振られ、泣き叫んでいる娘達を冷ややかに笑って見ていたのは、自分だった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
本当の仇は、自分の、そんな醜い心だったのだと、八郎は気付いた<br />
河南に、ただ、そんな心を知られるのが嫌で<br />
恥かしくて<br />
だから、わけもなく河南を憎んでいた<br />
無垢な河南に、汚れた自分を見られるのが嫌で・・・・・・・・・<br />
小さな中庭の縁側に座り、柱に凭れながら黙ってじっと、手の中にある干し柿を見詰める<br />
自然と涙が零れた<br />
河南は、あれほど痛め付けられたのに、痛め付けた自分のために、これを譲ってくれた<br />
子供にとって甘いものは、どれだけのご馳走か<br />
どれだけ楽しいことか<br />
どれだけ嬉しいことか<br />
自分にも覚えがある<br />
たまに手に入る甘芋を干し、姉や妹達と奪い合って食べていた幼い頃を想い出す<br />
その、ご馳走であり、楽しいこと、嬉しいこと、それを譲ってくれた河南に、自分はなんてことをしたのだろうと後悔の念ばかりが波のように押し寄せ、八郎を苦しめた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 畜生・・・ッ」<br />
溢れて零れた涙が、ぼたぼたと干し柿の上に降り注ぐ<br />
「畜生・・・ッ」<br />
小さく叫びながら、八郎は干し柿に齧り付いた<br />
自分の父親は、戦で死んだ<br />
河南の父親は、自分達が殺した<br />
なのにその河南に、謝らせてしまった<br />
「畜生ッ・・・、しょっぱいじゃねーかよッ」<br />
自分の涙塗れになった干し柿を、八郎は種だけになるまでずっと、齧り続けた<br />
<br />
この日の夜、河南は久し振りにあさの寝室で寝息を立てた<br />
河南の、心落ち着ける場所は、あさの部屋しかないのが理由だった<br />
静かな寝息を立てる河南を、添い寝しているあさは上からじっと見詰めた<br />
自分の腹を痛めて産んだ子ではないのに、河南が愛しくて仕方ない<br />
それは、子供が自分を守るために、自然と醸し出す雰囲気に当てられたのかも知れない<br />
それでも、あさは河南が愛しかった<br />
正成も同じ想いなのだろう<br />
だけど、家臣のことも大事に想っている<br />
その『想い』の間で揺れ動き、苦しんでいるのだろうと感じた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いい子、いい子ね」<br />
小さく囁きながら、頭を撫でる<br />
感じ取った河南は、きゅっとあさの方に身を寄せた<br />
あさの豊かな乳房から漂う、母と同じ香りに引き寄せられて<br />
乳房に河南の感触を感じながら、あさは軽く河南を抱き締めた<br />
いつかこんな風に、自分の子も抱きたいと願いながら<br />
<br />
翌日、八郎は約束どおりいつもより早目に屋敷に上がった<br />
八郎はまだ無官であり、扱いは雑兵と同じではあったが、正成の計らいで軽い身分ながらも表座敷に上がることを許されていた<br />
正成の代になってから、楠木は大きく変わった<br />
若くとも、生まれは卑しくとも、才があれば上に上がる機会が与えられる<br />
正成に気に入られればいきなり足軽大将も夢ではない<br />
なのに、その正成の側にはいつも河南がおり、自分は女の河南にすら負けているような気分を味わされ、正常ではいられなかった<br />
「おう、来たか」<br />
正成は表座敷の、いつもの上座に座って自分を待っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お早うございます」<br />
小さな声でぽつりと挨拶する<br />
「おう」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
じっと黙って立ったままの八郎に声を掛ける<br />
「いつまで突っ立ってんだ。こっち来い。そして、正座しろ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の言い草に、言うなりの八郎の頭に汗が浮かぶ<br />
「で？どうだ」<br />
「え・・・？」<br />
「干し柿の味だよ」<br />
「ああ・・・」<br />
「どうだった」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> しょっぱかったです・・・」<br />
ぽつりと、正直に答える<br />
「しょっぱかったか」<br />
「殿は、如何でしたか・・・」<br />
「俺は、土でじゃりじゃりしてたぞ」<br />
と、正成は苦笑いして言った<br />
だが八郎は、一緒になって笑うことはできなかった<br />
「でも、美味かった」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> はい・・・。美味かったです・・・」<br />
八郎も釣られて、そう応える<br />
「そっか、美味かったか」<br />
「はい・・・」<br />
「しょっぱくて、美味くて、それ、どんな味だ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
聞かれ、八郎は一瞬戸惑い、それからぽそりと呟く<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 優しい味でした・・・」<br />
「そうか。優しい味だったか。奇遇だな、俺も一緒だ」<br />
「殿・・・」<br />
「河南みてえな味だった」<br />
「え？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いや、河南は食ってねえぞ？やったらあさに殺されちまう」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
真面目に応える正成に、八郎はもう一度頭に汗を浮かばせた<br />
「今直ぐは無理でもさ、ちょっとずつでいいから河南のこと、認めてやってくんねえかな？」<br />
「殿・・・」<br />
それは以前、あさにも似たようなことを言われたのを想い出した<br />
「ちょっとずつで良いんだ、ちょっとずつで。急に全部を認めろなんて、無理だもんな。だからよ」<br />
正成は、こんなにも優しい目をして微笑める男なのかと、八郎は想った<br />
「頼むよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
こんなにも優しい目をした正成など、初めて見た<br />
朗らかで明るくとも、いつも残忍な方法を選んでいた正成が<br />
河南の親でさえ、無残に殺した正成が<br />
応じる気のない休戦に応じ、騙まし討ちで皆殺しを選んだ男が<br />
こんなにも、こんなにも慈愛に満ちた目をしている<br />
正成を変えたのは、河南なのだろうか<br />
それとも、元々そんな心を持っていたのを、誰にも知らせず、それを河南が表に引き出したのだろうか<br />
八郎にはわからなかったが、河南が来てから全ての世界が変わり始めていることを肌で知った<br />
<br />
「櫓に行って来ます」<br />
それから何日か経った<br />
外に日溜りが現れるようになり、部屋に居るよりも表に出た方が暖かい日が続く<br />
河南はこの日、あさに断って表に出た<br />
門を潜るなどそうそうできない<br />
河南ができることと言えば、屋敷内にある鎮守の森で遊ぶか、櫓を登ることくらいだった<br />
後は、あさに森の中に植えている木の名前を教わるくらいか<br />
「お昼前には戻るのよ」<br />
「はい」<br />
この頃になって漸く、河南も自分の行きたい場所を自分の口で言えるようになった<br />
だからと言って、急にお喋りになるわけではないが、来た当初のことを考えれば随分回復した方である<br />
奥座敷のあさの部屋から表に出る河南を、さとと二人で見送った<br />
「河南殿も、少しは声が出せるようになって」<br />
「ええ、本当に」<br />
「奥様や旦那様の愛情が、ちゃんと伝わっているのですね」<br />
「そう？」<br />
さとの言葉に、あさは悪い気がしないのか、頬を緩ませた<br />
「だと、良いんだけど・・・」<br />
<br />
「これはー、蜜柑。これはー、金柑。これはー、柿。これはー、枇杷。これはー・・・。食べ物ばっかりー」<br />
出鱈目に木を指差し、名前を言いながら鎮守の森を抜ける<br />
「欅ー、杉ー、楠ー、松ー」<br />
言っている名前は聞いただけで、実際木とは全く合っていない<br />
「梅ー、桜ー、ええと、紅葉ー」<br />
その場に正成が居たら、容赦ない突っ込みが飛んで来るだろう<br />
一人でも周囲を楽しみながら櫓のある裏山に到着し、櫓に駆け寄る<br />
「ええと、これは椿の木」<br />
と、出鱈目もいいところの名前を口にしながら、櫓の梯子を掴んだ<br />
「今日の昼餉はー、鮎の塩焼きー。・・・海老も食べたーい」<br />
河南の暮らしていた和泉は海がある<br />
今暮らしている河内には、海がない<br />
楠木に来て、河南は川魚しか食べていなかった<br />
その想いが言葉に出たのだろう<br />
屋敷ではどうしても無口になってしまうが、独りになった時だけは、河南は以前の自分を取り戻せていた<br />
「明日はー、えーっと・・・、なんだろ」<br />
梯子を登りながら、ふと手が止まる<br />
その直後、自分の鼻の先に蝶が飛んだ<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
それに驚いた河南は背中を後ろに反らせ、反動で手が梯子から滑った<br />
小さな躰はそのまま、容赦なく背中から地面に叩き付けられる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
しばらく蠢き、それから、動きが止まった<br />
<br />
「はああ・・・、昼に薇使うから探して来いって、どんな家だよ」<br />
ぶつぶつと呟きながら、八郎は裏山に向かった<br />
「俺は雑魚じゃねえっつーの。<s>　　　　　　　　　</s> 雑兵だけど・・・」<br />
と、自虐に呟く<br />
同じ頃、正成があさの部屋を訪れた<br />
「河南、どこだ？」<br />
いつものようにそれを訊ねる<br />
「裏山の櫓に行くって出掛けましたよ」<br />
「え？またか？」<br />
「ええ、またです」<br />
「そっかぁ」<br />
「で、旦那様は『また』、河南を探しに裏山へ？」<br />
「悪いか？」<br />
「いえ・・・」<br />
はっきり言い切る正成に、あさはそれ以上何も言えない<br />
<br />
「確か櫓の広場の上の方に、野草とか色々生えてたよな」<br />
と、以前、櫓で番をしていた時の経験を想い出す<br />
偶然見付けた野草を摘んで帰り、母が喜んで料理してくれたことがあった<br />
あの時とは時季が違うが、鎮守の森を探すより見付けやすいのではないかと、八郎は森を抜け裏山に向かい、櫓のある広場に出た<br />
その櫓の梯子の前に、何か大きなものが落ちている<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ん？何だ？」<br />
自分の居る場所からはそれはよく見えず、八郎は何だろうと想いながら梯子に近付く<br />
そして、それが河南であることを知った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お・・・、おい・・・」<br />
河南は横になって倒れたまま、ぴくりとも動かない<br />
「おい・・・、どうしたんだ・・・」<br />
八郎は驚いて、恐る恐る近付いた<br />
「おい、どうした・・・」<br />
河南の足元の近くまで寄るが、それ以上は怖くて近寄れない<br />
「おい・・・、生きてるのか・・・？<s>　　　　　　　　　</s> 死んでるのか・・・？」<br />
恐怖のあまり大きな声が出せず、八郎は囁くように訊ねる<br />
しかし、河南からの返答はなかった<br />
「おい・・・、<s>　　　　　　　　　</s> おい！」<br />
思い切って大きな声を出してみるも、河南は依然、無言のままだった<br />
「ど・・・、どうしよう・・・」<br />
八郎は屋敷から誰かを呼んで来るべきかと、辺りをきょろきょろし始めた<br />
このまま放っておけばいいのか、それとも、素直に正成かあさを呼べばいいのか<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
しばらく立ち悩んだ末、八郎は誰でもいいから呼ぼうと思い立つ<br />
しかし、動こうと踵を返した瞬間、正成の声がした<br />
「河南ッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
びくんと、八郎の肩が震える<br />
「おい！河南！どうしたッ！」<br />
正成は勢いよく走り込んで来ると、すぐさま河南の肩を掴んで半身を起こした<br />
「河南！河南！河南ッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
必死になって河南の名を呼ぶ正成の勢いに、圧倒される<br />
「八郎！これは一体どう言うことだッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え・・・？」<br />
「お前、河南を・・・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成のその目は、憎しみに満ちた色をしていた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 俺じゃ・・・」<br />
八郎は、気付く<br />
「ちっ、違います！俺じゃないッ！」<br />
「お前・・・。ガキに八つ当たりして、てめえの気持ちを整理しようとするのは、卑怯者のやることだ」<br />
正成の声が、怒りに震えていた<br />
「殿・・・」<br />
自分がやったと想い込んでいる<br />
「好い加減、現実から目を逸らすなッ！河南を痛め付けたって、お前の現実はこれぽっちも変わらねえッ！」<br />
「俺じゃないッ！」<br />
必死になって無実を訴えた<br />
「お前じゃなきゃ、誰なんだ！誰が河南をこんな目に！」<br />
「俺じゃないッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
二人の怒鳴り声に気付いたか、河南が薄っすらと意識を取り戻す<br />
震える力なき手で正成の小袖の襟を掴み、小さな声で呟く<br />
「河南、気付いたかッ？！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
まだ朦朧としている目は、正成の姿を捉えた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の意識が戻ったことに、八郎もほっとする<br />
だが、もし河南が「八郎がやった」と言ってしまえば、自分の立場は脆く崩れ去る<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南に謝れ・・・」<br />
「え・・・？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の口唇が、動く<br />
八郎は、その小さな口唇がどんな言葉を発するのか、生きた心地がしないような気持ちで見守った<br />
だが<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ちが・・・う」<br />
河南は小さな、小さな声でそう言った<br />
「え？」<br />
「ち・がう・・・」<br />
「・・・違うのか？」<br />
「ちが・う・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
まだはっきりと言葉が出せない状態のため、河南はいつものようにあさの部屋に運ばれ、寝かされた<br />
八郎はそのまま、表座敷に連れて行かれる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成も八郎も黙り込んだまま、長く一言も言葉を交わさない<br />
その均衡を崩したのは、正成だった<br />
「お前、河南をどうしたいんだ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え・・・？」<br />
正成のその言葉は、自分に何を言わせたがっているのか、八郎にはわからなかった<br />
「お前の、その心から来る感情は、一体なんなんだ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
自分でもわからず、その問い掛けには応えられない<br />
「上手く行くと想ってたんだがな」<br />
「殿・・・」<br />
「河南の干し柿は、なんの意味も成さなかったのか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
心底残念がっているのが、手に取るようにわかる<br />
尚更、八郎は応えられなくなった<br />
「お前もいつか、わかってくれると想ってた。でもそれは、俺が勝手に『想ってた』だけだったんだな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「ふん」<br />
正成は、時折鼻から溜息を吐くのが癖だった<br />
気持ちを切り替える時は、特にその癖が出て来やすい<br />
「俺もな、色々考えた。このまま、河南をここに置いておくのは良いことなのか、どうか」<br />
「殿・・・？」<br />
「お前だけじゃないからな、寺田に恨みを持ってるのは。今はお前が特化して河南に当たってるから他のもんは大人しいけど、それもいつまで持つか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「河南を捨てようかと想ってる」<br />
「え・・・？」<br />
正成の言葉に、八郎は目を見張った<br />
「だって、ここに居たらお前、落ち着かんだろ。俺もな、河南を置いてて家臣に謀反起こされるなんて、冗談じゃねーしな」<br />
「殿・・・」<br />
「新九郎もよ、あん時河南もぶっ殺してたらよ、こんな面倒は起きなかったのによ」<br />
と、正成は顔を顰めて、立てていた片膝に肘を付け、顎を掌に置いた<br />
「ったくよ、しちめんどくせえ」<br />
「殿・・・ッ」<br />
本当に面倒臭そうな顔をして、庭に顔を向ける<br />
その顔を八郎に戻して、正成は言った<br />
「なんなら八郎、お前がやるか？」<br />
「え・・・・・・・・？」<br />
八郎は、我が耳を疑った<br />
あれほど可愛がっている河南を、殺せと命令したのだ<br />
「殿・・・、正気ですか・・・」<br />
声が震える<br />
膝の上に置いた手が震える<br />
「だってよ、お前、河南のこと嫌いだろ？殺したいほど憎いんだろ？だったらお前に譲ってやるよ。俺はご免だな。河南を殺すことはできん」<br />
「なら、殺さずとも・・・」<br />
「だってお前、殺さなきゃ気が済まんのだろ？言ってたじゃないか。さっさとここから出て行かないと、殺すぞって」<br />
「殿・・・ッ」<br />
あの時のことを、正成は知っていた<br />
自分が河南に暴力を振るったこと、その際、河南に「殺してしまうかも知れない」と言ってしまったこと<br />
正成は全て、知っている<br />
八郎の顔が青褪めた<br />
「今直ぐに殺せとは言わん。お前の気が向いた時にでも、河南を殺して良いぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
本気か<br />
自分を試しているのか<br />
正成の表情からは、その考えは読めなかった<br />
<br />
相当背中を強く打ち付けたのか、それからしばらく河南は起き上がることもままならない状態になっていた<br />
正成も、河南のことは口にしなくなった<br />
時々は様子を見に奥座敷へは入るが、屋敷でそれを誰かに話すこともなかった<br />
河南が漸く動けるように頃、水越神社の奉納祭が開催された<br />
同じ日、正成は八郎を呼び付ける<br />
あれから八郎は河南の顔を見ていない<br />
河南もずっと奥座敷に居たのだから、八郎が奥座敷に入らない限り顔を合わせることはなかっただろう<br />
八郎自身、表座敷からできるだけ遠ざかるようにしていた<br />
河南の顔を、見たくなかった<br />
その八郎に、正成はそれを命令した<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え・・・？俺が河南を・・・？」<br />
「ああ」<br />
「でも・・・」<br />
命じられた八郎は、心なしか顔が青くなる<br />
「ほんとは俺が連れてく約束だったんだけどな、そんな時に限って羅刹が来やがる」<br />
「羅刹殿が・・・」<br />
羅刹は金剛山の山伏である<br />
以前より楠木家に近隣諸国の情報を齎し、河南の実家の寺田家襲撃も羅刹率いる『金剛衆』の陰の活躍あってのことぐらい、八郎も知っていた<br />
その羅刹が屋敷を訪れると言うことは、もう直ぐ戦が始まると言うことである<br />
そうなると、正成が屋敷を空けるわけにもいかないのは最もらしい理由だった<br />
「河南にはあさが小遣いを持たせてる。充分楽しませてやってくれ」<br />
「殿・・・」<br />
「なんなら、その帰りに河南を殺しても良い」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
その一言に、八郎は生きた心地がせず、青くなり掛けた顔が真っ青に変わった<br />
「骸は、そうだな。川にでも流しとけ。運が良かったら河南の生まれた和泉に着くだろ」<br />
「殿・・・、ほ、本気ですか・・・」<br />
「どうせ死にゆく命。最期は祭りで楽しませてやれ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
本気だ<br />
本気で正成は河南を殺せと自分に命じている<br />
その、修羅にも似た眼差しは、海千山千の羅刹ですら、時折畏れさせるほどの威力を持つ<br />
「俺・・・は・・・」<br />
やっと、河南の持つ『優しさ』と言う、目に見えざる力に気付き始めたと想えたのに<br />
なのに、そんな想いとは裏腹に、主君から殺害命令が出た<br />
これは現実なのかと、震えながら正成を見詰める<br />
正成の目は、本気で、「やりたければやれ」と言っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
「はい、出来上がり」<br />
この日のために誂えた、真新しい小袖を身に纏った河南は、今以上に愛らしく可憐に見えた<br />
ほんの少し茜色に近い赤の下地に、小さな揚羽蝶が菜の花の周りにたくさん飛んでいる様子が描かれている<br />
「良く似合ってるわ」<br />
自分で仕上げた小袖姿だからか、あさも自賛の意味を込めてうっとりと河南の姿を見た<br />
「本当に、良くお似合いで」<br />
さとも河南の姿を誉める<br />
「河南殿は肌が白いので、緋色が映えますね」<br />
「ええ。無理を言って、業者に頼んだ甲斐があったわ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
二人から誉められ、河南も照れ臭そうに俯く<br />
「それじゃ、表座敷に行きましょうか。旦那様も河南のこの姿を見たら屹度（きっと）、腰を抜かすほど驚くわよ」<br />
「ですが結局、緋縮緬は間に合いませんでしたね」<br />
「ええ。この小袖と揃いにと、髪飾りで用意してあげたかったのだけど、縮緬自体、中々入って来ないものですものね」<br />
「もしかして」<br />
どこかで戦でも起きているのではないのか、さとはそう言いたかったが、河南の手前、それを口にしてはいけないと、その先は言わなかった<br />
「行きましょう、河南。旦那様が待ちくたびれているわよ」<br />
「はい」<br />
あさに手を繋がれ、奥座敷を出ようとした河南の前に、おずおずとした様子で八郎が現れる<br />
「あら、八郎。どうしたの？」<br />
「え？あ・・・、いえ」<br />
あんなことがあっただけに、八郎は河南の顔をまともに見れない<br />
「旦那様は、表座敷？今日はまだ一度もお見えになってないのだけど、忙しそうになさってるの？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 今日は、羅刹殿が来られるそうで・・・」<br />
「え？じゃあ、河南は誰が連れて行くの？あれほど約束していたのに」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさの言葉を聞いて、がっかりしたのか河南が俯いた<br />
「そっ、それで、俺が代わりに、河南・・・殿をお連れすることに・・・」<br />
「え？そうなの？八郎が連れて行ってくれるの？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その途端、河南が顔を上げる<br />
八郎の胸がちくりと痛み出す<br />
「良かったわね、河南。八郎が連れて行ってくれるのですって」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南も、笑いこそしないが、あさに頷いてみせる<br />
益々、胸が痛み出した<br />
なんの疑いも持たない河南を、自分は、これから・・・・・・・<br />
そう考えるだけで、目の前がぼやけそうになって、何度もへたり込んでしまいそうな気分になった<br />
<br />
「それじゃあ八郎、お願いね。あまり遅くならない内に、帰って来てね」<br />
「はい、奥方様・・・」<br />
「河南、八郎の言うことをよく聞いて、しっかり着いて行くのよ？一人で走ったりしちゃ駄目だからね。もし迷子になったら、宮司様のお顔は覚えているわよね？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って頷く<br />
「事情を説明したら、誰かが屋敷まで送ってくれるわ。今日はお祭りだから人でごった返しているからね、一人で帰ろうなんて想わないで、誰かに着いて来てもらうのよ？わかった？」<br />
「はい」<br />
「なら、行ってらっしゃい」<br />
「行って来ます」<br />
表座敷の玄関から見送られ、八郎は河南を連れて屋敷を出た<br />
珍しい組み合わせだなと、門番も首を傾げて見送る<br />
屋敷前の坂道は斜傾が強く、うっかりすると河南なら転がりそうなほどの急勾配であった<br />
一人で下るのなら大したことはなくとも、今日は八郎と一緒である<br />
どうしても、八郎の歩調に合わせなくてはならなかった<br />
「さっさと来いよッ！」<br />
途中、何度も八郎に怒鳴られる<br />
怒鳴られる度に河南は、急いで小走りで駆け寄った<br />
しかし、少し経つとやはり、八郎から離れてしまう<br />
八郎に睨まれ、河南は急いで走った<br />
いつも目印にしている道祖神からの分かれ道で、人の数も随分と増えて来る<br />
少しでも離れると、八郎が怖い顔をして河南を睨んだ<br />
河南は慌てて八郎の後にぴたりと着いた<br />
そんなことが何度も繰り返され、漸く神社の門を潜る<br />
中は河南がこれまで見たこともないような人だかりと、露店が並ぶ光景が目に入った<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
途端に、ここに到着するまでの苦労など、すっかり忘れたかのように瞳を輝かせる<br />
境内へと続く参道は、いつもなら見える石畳が、今日に限って全く見えない<br />
それほどに、人の数が多かった<br />
境内の前では今年一年の五穀豊穣を願う奉納相撲、それを観戦する観客の白熱した応援の声<br />
「あっ、おい！」<br />
八郎から離れ、露店を覗いてみればそれは、去年収穫された団栗を加工した独楽や、松ぼっくりを加工した人形がたくさん並び、木でできた細工人形、竹で編まれた籠、古着市もいくつも軒を連ねていた<br />
乾燥させた果実や木の実も売られ、河南は河内に来て初めて、心がわくわくした<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あっちは何だろうと、駆け出す<br />
その河南の腕を、八郎が掴んだ<br />
「勝手に歩くなって、奥方様に言われてるだろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎が怖い顔をして言う<br />
河南はびくついて頷いた<br />
「来い」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って、八郎の後を着いた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 和泉が」<br />
二人が神社に到着した頃、楠木の屋敷に羅刹がやって来た<br />
表座敷の縁側の外から正成に情報を齎す<br />
「寺田の消滅の後、しばらくは小競り合い程度ではあったが、ここのところ本格的な戦に発展している」<br />
「何せ寺田は和泉のほぼ半分を掌握してたんだからな。邪魔者が居なくなれば、領地の奪い合いは必至だ」<br />
「しばらくは寺田屋敷襲撃の件は親族によって隠されていたが、それも限界に達したのだろう。後は川が決壊するが如く。水が溢れ出すが如く」<br />
「じゃあ、その川の流れに乗ってやろうか」<br />
「多聞丸殿」<br />
にやりと笑う正成を、羅刹はまじまじと見詰めた<br />
「できるのか？河南殿の実家だろう？」<br />
「河南の実家は、もうこの世にゃねえ。今はこの楠木が河南の『実家』だ」<br />
「多聞丸殿・・・」<br />
そう言い切る正成に、羅刹は驚いた顔をする<br />
「そなた、それほどまでに」<br />
「ん？」<br />
「そなたの、河南殿への過保護は伝わってはいるが<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
「ちょっと待て！なんだ、その『過保護』っつうのは」<br />
心外なことを言われたと、正成は目を剥いて問い質した<br />
「楠木の若殿が、可愛に可愛がっている幼子が居ると、世間では専らの評判だが？」<br />
「なんだ、それ・・・」<br />
「知らぬのか？楠木の若は年端もゆかぬ幼い童女に尻毛を抜かれたと」<br />
「もういい、それ以上何も言うな・・・」<br />
俄かに激しい動悸に襲われ、正成は胸を押さえて羅刹の言葉を遮った<br />
「なんでそんな話になってんだ」<br />
「仕方あるまい？ことあるごとに河南殿を追い駆け回しているのだろう？屋敷の者でなくとも、何れは人の口に上る」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 俺って、そんな・・・？」<br />
「領主の身分で度々人里に現れているのだからな、神社の参拝者ですら口々に囁いておろうものを」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
この世に出（いずる）こと二十一年<br />
ここに来て、正成は『生まれて初めて』、自分の行動を反省した<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
さっきから河南は、じっとしたまま動かなかった<br />
金魚を売っている露店の前にしゃがみ込み、木箱の水槽の中を泳ぐ金魚をじっと見詰めたまま微動だにしなかった<br />
「おい」<br />
八郎が声を掛けても、返事をしない<br />
「いつまでここに座ってんだよ。好い加減動けよっ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
それでも、河南は動こうとしない<br />
「お嬢ちゃん、気に入ったかい？」<br />
店主が話し掛ける<br />
河南は素直に頷いた<br />
「そうかい。じゃあ、買っとくれ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は頷き、あさからもらった小遣いを出そうと、小袖と同じ柄の巾着を広げる<br />
「ちょっと待て！」<br />
それを八郎が慌てて止めた<br />
「お前、まだ境内回るんだろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「今からそんなの買っちまったら、邪魔で歩きづらくなるぞ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
それもそうかと、河南は巾着の口を縛る<br />
「じゃあ、後で寄っとくれな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
店主に頷くと、河南は漸く立ち上がった<br />
「ほれ、行くぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
また、黙って頷く<br />
店主は一言も口を利かない河南を、『唖』かと想った<br />
だとしてもこの時代、障害を持っていながら生きているのは珍しいと感じた<br />
何かしらの障害を抱えて生まれてしまうと、親はそれを疎んじて『間引き』するのが当たり前だった<br />
生きて行くのに、足手纏いになる者は『邪魔』なだけなのだから<br />
なのに今そこに座っていた少女は、綺麗な小袖を羽織り、立派な身形の武士に付き添われている<br />
どこのお嬢かと想いながら、河南の背中を見送った<br />
<br />
境内を進むと、この日のために特別に建てられた木枠の舞台が目に見えた<br />
人だかりでその先は見えないが、そこから聞き覚えのある笙の笛の音色が流れて来る<br />
河南は立ち止まって舞台を見ようと爪先立ちになった<br />
「おい」<br />
着いて来ない河南に声を掛ける<br />
しかし、河南は振り向かなかった<br />
「行くぞ！おい！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って、舞台の方を見ようと爪先で必死になって立っている<br />
「っち」<br />
八郎は舌打ちすると、河南の軽い躰を持ち上げ、肩車に乗せた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
驚いた河南が、躰をビクンと震わせる<br />
「見えるか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎の方を見下ろし、それから舞台の方に顔を向ける<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
人の頭で充分には見れないが、あの時見た巫女達が五人に増えて舞っている上半身が目に映った<br />
河南は息を呑んでそれを見詰めた<br />
八郎も頭を上げ、河南の様子を伺う<br />
「河南・・・」<br />
河南の真っ直ぐな瞳が、舞台から全く動かない<br />
その先に何が行われているのか、八郎は知っている<br />
巫女の奉納舞だ<br />
それを河南は食い入るように見詰めていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
下からも、河南の綺麗な瞳が見える<br />
この子が仇なのか<br />
そう、自問した<br />
答えなど見付かる筈もないが<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南を送り出した後、あさはなんだか心が落ち着かない<br />
「奥様、ご心配なのですか？」<br />
さとに見透かされ、苦笑いする<br />
「大丈夫だと想うの。大丈夫だとは。旦那様がそうするよう、八郎に命じたのですものね。八郎を信じないと言うことは、旦那様を信じないも同じだわ。でも・・・」<br />
「それでも、心配なものは心配なのですよね？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさは苦笑いして頷いた<br />
「今日は河南殿もお留守だから、旦那様もお見えになるのが遅いですね」<br />
「そんなことねーぞ」<br />
言った側から正成の声がする<br />
「まあ、旦那様」<br />
さとは素早く平伏し<br />
「失礼いたしました、陰口などと」<br />
と謝罪する<br />
「いや、気にすんな」<br />
「旦那様」<br />
部屋に入って来る正成を、あさはじっと見詰めた<br />
「お前もそわそわしてんな」<br />
「え？」<br />
あさの前に座りながら言う<br />
「俺もだ」<br />
「旦那様・・・」<br />
にかっと笑う正成に、あさの目が丸くなる<br />
「大丈夫だ。八郎は、莫迦なことやりゃしねえ。でも、これは賭けに近いか」<br />
「賭け？」<br />
「八郎が、河南を手に掛けるか、掛けないか」<br />
「旦那様・・・ッ」<br />
途端に、あさの顔色が悪くなる<br />
「あの時、河南が櫓から落ちた日のことだ。俺はてっきり八郎がやったのかと想った」<br />
あさは黙って正成の話を聞いた<br />
「でもあいつは、必死になって違うって言い張った。あいつの性格だったら、自分がやったことぐらい、どんな都合の悪いことだろうが他人の所為にしたりしない。そんな八郎が、自分じゃないって言い張ったんだ。必死になって、必死な目をして、さ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「だから俺は、確信したんだ。八郎は絶対、河南を殺したりしねえ、って」<br />
「そう・・・ですか」<br />
「信じようぜ、八郎をさ」<br />
夫が笑顔で言うのだから<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> はい」<br />
その笑顔を信じようと、あさは想った<br />
<br />
結局、河南は巫女の舞いが終わるまでずっと、八郎の肩車で舞台を見ていた<br />
八郎も、どうしてか河南に降りろとは言えなかった<br />
後ろめたさがそうさせたのか、八郎にはわからない<br />
巫女らが舞台から降りる<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 帰るぞ」<br />
八郎もやっと、声を掛けた<br />
河南を肩から降ろし、歩き出す<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南はぐずぐずしながら歩き、金魚露店の前で立ち止まった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> さっさと来い！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
八郎の怒鳴り声に怯え、肩を竦める<br />
「帰るぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
でも、と、河南の目は言いたそうにしている<br />
だけど、声が出なかった<br />
「来いッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
怒鳴る八郎に、河南は諦めて歩き出した<br />
<br />
いつもの参門を抜け、道祖神のある分かれ道に出る<br />
それから八郎は、坂道を上がらず、下り始めた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
何か言いたげに、河南が立ち止まる<br />
「来い」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
どうしたのだろうと、河南は八郎の言葉のまま、歩き出した<br />
しばらくすると川に出た<br />
川幅はかなり広い<br />
八郎はこの水越川と千早川の合流地点まで河南を連れ、立ち止まった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の目が、大きく見開かれる<br />
そこは広い広い、水の混ざり合う場所<br />
大きな橋が架かっており、河南は手摺りに掴まり川を覗き込んだ<br />
「あー・・・」<br />
寺田屋敷から一歩も外に出たことのない河南にとって、これは初めて見る景色である<br />
川の流れる水筋も、そこを跳ねる川魚の群れも、河南にとっては初めて目にする光景だった<br />
その河南の背中を見詰める八郎の目は、何かを決意する<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南。川、見たいか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は八郎に振り返った<br />
「もっとちゃんと見たいか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
橋げたからでは、満足に川の流れを見ることはできない<br />
河南は素直に頷いた<br />
「よし」<br />
八郎は河南を橋げたの手摺りに座らせた<br />
「見えるか？」<br />
「わ・・・」<br />
そこに座ると、川の流れがはっきりと見れる<br />
河南は瞳を輝かせて川の流れに見入った<br />
きらきらと水面を輝かせ、それはまるで宝玉のようで、魚影が木の葉のように見え、河南を夢中にさせる<br />
その河南の背中を、八郎は押そうと両手を当てた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
このまま押せば、この川は底が深いのだから、河南は簡単に溺死する<br />
多少苦しむだろうが、幼子の血は見なくて済む<br />
指先が震える<br />
押せば自分は楽になる<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 楽になる・・・？<br />
何に楽になりたいのか<br />
何を楽にしたいのか<br />
これが最上の方法なのか<br />
そうすれば自分は、満足するのか<br />
どうすればいいのか・・・<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
自分がやろうとしていることは、正しいことなのか<br />
それで死んだ父は喜んでくれるのか<br />
仇を取ったと喜んでくれるのか<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> あれ・・・？」<br />
八郎は、小さな声で呟いた<br />
父の仇は、もう、とっくの昔に取っている筈だ<br />
まだ、仇を取らなくてはならないのか？<br />
何故自分は、河南を憎んだのか<br />
何故、河南を殺そうとしているのか<br />
八郎は、それすらわからなくなってしまった<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 河南を殺しても、父は帰って来ない<br />
自分も出世など、しはしない<br />
家はあのままだろうし、母は順を追って年を取る<br />
正成の言葉が脳裏に甦った<br />
<br />
「河南を痛め付けたって、お前の現実はこれぽっちも変わらねえ」<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
危ない、と、八郎は慌てて河南を手摺りから降ろそうと手を広げた<br />
それと同時に、河南が自分の方へ振り返った<br />
広げた八郎の手に驚いて、河南の背中が仰け反る<br />
そして<br />
「河南ッ！」<br />
河南の躰が吸い込まれるように、川に落ちた<br />
「河南ッ！」<br />
八郎は慌てて川面を覗き込んだ<br />
大きな水飛沫の音が響き、幾重にも波紋が広がり、やがて、河南が顔を出して踠き始めた<br />
「河南ッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
何か叫びたそうに口をぱくぱくさせる<br />
だけど、何も叫べない<br />
<br />
あの夜から<br />
<br />
父と母と兄と姉と弟が殺された夜<br />
声を出したら見付かると、河南は自分の声を封じた<br />
それから河南は、大きな声を出せなくなっていた<br />
見付かる<br />
見付かったら、殺される<br />
兄が守ってくれた命<br />
父が生きろと叫んだ約束<br />
守りたかった<br />
<br />
「河南ッ！」<br />
ばたつく河南の姿に、八郎は橋から降りようと辺りを見渡す<br />
川に出られる堤防が随分遠くにあるのが見えた<br />
そこまで回っている間に、河南は水底に沈んでしまう<br />
「河南・・・ッ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
恐怖に目を閉じる河南が、一瞬、目を開けた<br />
その先に、八郎の顔が見えた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> けて・・・」<br />
口を開けば川の水が流れて来る<br />
苦しくなる<br />
足は水の中をばたばたと暴れるだけで、徐々に河南の躰は沈んで行った<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 父様・・・<br />
母様・・・<br />
<br />
「生きろ、河南」<br />
<br />
父の声が聞こえた<br />
「父様・・・」<br />
河南の声が、八郎に届いた<br />
「助けて！父様！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
八郎はその声を聞き、無我夢中で橋から川に飛び込んだ<br />
しばらくして八郎の躰が浮かんで来る<br />
「河南ッ！」<br />
河南は落ちた場所から流されていた<br />
八郎は邪魔な袖に腕を取られながらも、必死になって泳いだ<br />
「河南ッ！」<br />
もう少し<br />
あと、もう少し<br />
「河南ッ！」<br />
八郎の手が、河南の腕を掴んだ<br />
そのまま一気に引き寄せ、河南が自分を掴んで暴れないよう、両腕を自分の左腕で纏めるように抱き込み、川岸に泳ぎ着く<br />
河南を先に岸に上げ、後から自分も引き上がる<br />
「はぁっ！はぁっ！はぁっ！」<br />
河南は水を飲み、岸に上がって咳き込んだ<br />
八郎もだるさに倒れそうになる<br />
「河南・・・」<br />
そして、ぐったりしたように横たわった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ごめん・・・、河南・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎の目から、川の水なのか、涙なのか、何かが流れて来る<br />
「ごめん、河南・・・。ごめん・・・。ごめん・・・」<br />
それは、きっと、涙なのだろう<br />
八郎は顔を左腕で隠しながら、涙声で謝罪した<br />
「ごめん、河南・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
少し息の戻った河南は、躰を引き摺るように八郎に近付き、その頭を撫でた<br />
「河南・・・・・」<br />
河南は、自分が泣いた時、母やあさはそうやって自分を慰めてくれたことを、想い出す<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ごめんな・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は八郎の謝罪に、何も言わなかった<br />
だが、少しだけ微笑めた<br />
腕で目を隠している八郎には見えなかったが、それは優しい、優しい、女神のような微笑みだった<br />
<br />
正成とあさ、二人して表門の前に立ち、河南の帰りを待つ<br />
門番は仕事がやりにくそうな顔をして、一緒に並んでいた<br />
「あ<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
最初にあさが二人の姿を見付けた<br />
「お」<br />
次に正成が河南の姿を見付ける<br />
「河南！」<br />
あさが名を呼ぶのより少し早く、正成が駆け下りた<br />
「旦那様！抜け駆けなんてずるいです！」<br />
「子供か！お前は！」<br />
「河南！」<br />
足は正成の方が速い<br />
あさはその後ろで名前を叫ぶのが精一杯だった<br />
「河南！<s>　　　　　　　　　</s> って、お前らなんでずぶ濡れなんだ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
「それじゃ、おさと。お願いね」<br />
「はい、畏まりました」<br />
濡れた河南をさとが湯殿に連れて行く<br />
残された八郎は奥座敷の庭に座らされ、縁側から正成が腕を組んで見下ろしていた<br />
「河南はおさとが湯に浸けてくれるそうです」<br />
「そうか。春先つったって、まだ寒いからな。今夜はあさが暖めてやってくれ」<br />
「はい」<br />
それから、ずぶ濡れのままの八郎にも声を掛ける<br />
「八郎、あなたも今日は屋敷の湯殿に入って帰りなさい」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って平伏する<br />
その八郎に、言う<br />
「ありがとう、八郎」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え？」<br />
あさの言葉が理解できず、八郎は頭を上げた<br />
「あの子が帰って来たの。生きて、帰って来たの。私は、それで充分」<br />
「奥方様・・・」<br />
「八郎」<br />
今度は正成が声を掛ける<br />
「答え、見付かったか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え・・・？」<br />
「今日、河南と一緒に居て、どうだった」<br />
「どうって・・・」<br />
「お前な、河南と一緒だったんだぞ？河南と。わかってるか？」<br />
「それが何か・・・」<br />
あまりの正成の気迫に、八郎は圧倒される<br />
「心がもやもやしたとか、胸がうずうずしたとか、気持ちがくすぐったくなったとか、頭がぼや～っとしたとか」<br />
「旦那様はそう感じてらっしゃるのですか？」<br />
「当たり前だ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あっさり断言する正成には、女房でなくとも八郎ですら後退る<br />
「河南だぞ？河南だぞ？」<br />
「だからなんだと仰るのですか・・・」<br />
「河南と一緒に居て、わくわくうずうずどきどきしない方がどうかしている！」<br />
「どうかしているのは旦那様の方です！落ち着いてください！」<br />
「兎に角だ、河南と一緒に居て、どうだった。それだけ聞かせろ」<br />
「旦那様！はぐらかさないでください！河南と一緒に居て、旦那様はいつもわくわくうずうずどきどきされてらっしゃるのですか？！五歳の河南に！」<br />
「悪いのか！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
もはや、何も言えなくなるあさであった<br />
見ている八郎はもっと、何も言えない状態になる<br />
「そんな、大事な河南をお前に託したんだ。帰って来て感想ぐらい聞いたって、罰当たんないだろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 俺・・・は・・・」<br />
自分の気持ちを整理しようと、八郎の口調がゆっくりなものになる<br />
「まだ、良くわからない部分の方が、多いです・・・」<br />
「そうか」<br />
「でも・・・、良くわかんないけど、だけど<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の顔を見ながら、呟くように言う<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 救われたような、気がしました」<br />
「そうか」<br />
八郎の答えに、正成は満足したかのように笑顔を見せた<br />
「殿は、わかってたんですね」<br />
「ん？」<br />
「俺が、河南に手ぇ出さないって。だから、俺を試したんでしょう？河南を殺すか、連れて帰って来るか」<br />
「ああ」<br />
「なんで、そんなこと・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お前の心にあったのは、『後悔』だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「見てくれ荒っぽくても、お前は根の良いやつだからな。なんで河南に当たってたのかは、さすがの俺もそこまではわかんねえけど、河南を憎んでいたのは、自分自身の弱い心じゃねえのか？そんな自分の心を認めたくなくて、河南に自分を投影してたんだろ？あの夜は、お前にとって悪夢だったんじゃねえのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「お前自身がてめえの『心』に気付かなきゃ、いくら俺らが言ったって、お前の『胸』には届かねえ。だけど、河南と一緒だったら、お前は気付くと想ってた。理解すると想ってた」<br />
「殿・・・・・・」<br />
「勘九郎から聞いた」<br />
「勘九郎が・・・」<br />
勘九郎はあの日の夜の襲撃部隊の中で、一番若い武将だ<br />
若いが、誰よりも落ち着き、冷静さでも定評がある<br />
「寺田の娘らの死に際は、まあ、あさの前じゃあ言いにくいけど、まともじゃなかったってな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
平八は黙って頷いた<br />
あさも余計なことは口にしないよう、押し黙った<br />
戦の話は男のものである<br />
女が口を挟むことは許されない<br />
「それをお前、見てたんだろ？後になって、つらかったんじゃねえのか？」<br />
「殿・・・」<br />
「河南はそれを想い出させる。そうじゃねえかと俺は想ったんだが、違ってても良いや。今日、屋敷を出たお前と、帰って来たお前は、違う男だ。いや、前の八郎に戻ったって感じか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「『お帰り』、八郎」<br />
「殿・・・・・・・・・・・ッ」<br />
八郎の目から、大粒の涙が流れた<br />
<br />
仕えた主君は男気に溢れた人物で<br />
豪快で<br />
大雑把で<br />
人身掌握に長けていて<br />
心底、河南と言う少女を愛している男で<br />
『良い男』だと、そう想える人間だった<br />
<br />
翌日、川で溺れたことも忘れたか、河南はにこにこした顔をしていた<br />
一足遅れで京から緋縮緬が届いたのだ<br />
あさがそれで髪飾り用の細帯を縫ってくれた<br />
髪を結ってやろうとするあさの手を止め、しばらく眺めていたいと言い出した<br />
それを持って裏山近くの鎮守の森に出掛けたのだが、うっかり風に気を取られ、手にしていた緋縮緬が靡いた<br />
「あっ・・・！」<br />
風に吹かれた縮緬を追い駆ける河南<br />
吹かれた縮緬は木の枝に引っ掛かった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
随分高い場所に引っ掛かってしまっている<br />
どうしようかと悩んだ末、河南はその木を登ろうと試みた<br />
だが、樹皮がつるつると滑り、上手く登れない<br />
増してや河南は、生まれてこの方一度も木登りなどしたことがなかった<br />
登っては滑り落ち、滑り落ちては登る<br />
それを何度も何度も繰り返していると、とうとう額を擦り剥いてしまった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
『いったぁ～！』と、擦り剥いた額を両手で押さえる<br />
しかし、のんびりしていたらまた縮緬が飛ばされるかも知れないと、河南は痛みを堪えて再び木に登った<br />
だが、何度やっても結果は同じで、やはり少し登ってはずるっと滑り落ちてしまう<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 何やってんだ・・・」<br />
この光景を見ていた八郎が、小走りに駆け寄って河南を抱き上げる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
驚いた河南は八郎を見下ろした<br />
「さっさと取れよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
抱き上げられ、手が丁度届くくらいになっていた<br />
慌てて正面を向き直し、枝に引っ掛かっていた縮緬を掴む<br />
「取れたか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
『うん』と言いたそうに河南は頷いた<br />
それを確認すると、八郎は河南を降ろした<br />
「誰かの助けが必要な時は、人を呼べ。その時俺しか居なくても、運が悪かったと諦めて声を掛けろ。お前が怪我してまた俺がやったと疑われるのは敵わん」<br />
照れ臭そうに、それを隠すように、八郎は仏頂面で言った<br />
だが、気持ちはきちんと河南に届く<br />
縮緬を握り締めながら、河南は言った<br />
「ありがと、はちろ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その微笑が、あまりにも可愛らし過ぎて<br />
八郎は一瞬、我を忘れてでれっとし、それから想い出したように叫んだ<br />
「俺は『はちろ』じゃねえ！八郎だ！」<br />
<br />
中庭で追い駆けっこをしている河南と八郎の姿があった<br />
「待てー！河南ー！」<br />
「あはははは！」<br />
河南は久し振りに、声を上げて笑っていた<br />
「こらー！」<br />
八郎の声も、なんだか楽しそうだった<br />
だが、『楽しくない』男が一人、ぶずっとした顔をして腕組みをし、八郎を睨んでいた<br />
「なあ。河南はいつになったら、俺に笑ってくれんだ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> さあ・・・」<br />
側に居た新九郎は、頭から汗を浮かばせる<br />
「なんで八郎ごときに負けたような気にさせられなきゃなんねーんだよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「なんかむかつく」<br />
「それより、定例会議を・・・」<br />
「やってられっか」<br />
「殿ッ！」<br />
ぷいっと不貞腐れ、その場を後にする正成を、今度は新九郎が追い駆ける羽目になった<br />
「殿ー！会議をー！」<br />
<br />
河南と八郎の仲が少しは良くなったのはいいことだが、大事な河南を取られたような気がして、正成はこの上なく不愉快な想いをしていた<br />
それはしばらく続き、家臣らにとっても迷惑この上ないものだったのは、言うまでもない]]> 
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    <author>
            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <id>ryouran.blog.shinobi.jp://entry/321</id>
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    <published>2011-03-25T13:29:25+09:00</published> 
    <updated>2011-03-25T13:29:25+09:00</updated> 
    <category term="― 悪 党 ―" label="― 悪 党 ―" />
    <title>あの日見た夕焼け</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[河南が楠木の屋敷で暮らすようになって、二ヶ月が過ぎた<br />
この頃の河南はまだ口数も少なく、黙って一日を過ごす日も少なくなかった<br />
家族を失った悲しみは、簡単には消えるものではないのだと思い知らされる<br />
ただ、以前と違っているのは、正成の、奥座敷を訪問する回数が目に見えて増えたことだった<br />
今日は今日で、何故か腰に手拭を巻いただけの全裸姿で、あさの前で正座をさせられている<br />
「一体何を考えてらっしゃるのですか？奥座敷の湯殿は、女だけで使う決まりの筈です。なのに殿方のあなたが使うだなんて、前代未聞です！奥座敷の湯殿は、大きくないのですよ？！」<br />
「わかってるけどよお・・・」<br />
「増してや今日は、月に一度の入浴日。いつもの沐浴とは違い、温かな湯で体の垢を落とせる大事な日。何より、河南と一緒に入ろうと前日から楽しみにしていたのに、何故旦那様がここに居らっしゃるのですか？」<br />
河南は胸に着替えの小袖と、湯を拭うための肌着の何枚かを抱え、ぽかんとしていた<br />
「だってよ！表座敷の湯殿に河南を連れてくわけにもいかねえだろっ？！」<br />
「当たり前でしょう？！」<br />
「先月の入浴だって、お前、河南と入ったじゃねえか！」<br />
「それが何ですか」<br />
「お前だけなんて、ずるいだろ？！」<br />
「子供ですか！あなたは！」<br />
二人の間に挟まれ、ぽかんとしていた河南がぽつりと呟く<br />
「三人で入れば良いのに」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南に目をやった二人は、それから互いの顔を見合った<br />
<br />
「ああー、良いお湯ね、河南」<br />
奥座敷の湯船には、あさと、あさに抱かれて浮かんでいる河南の姿が<br />
正成は<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 寒いんだけど」<br />
手桶に湯を張り足を突っ込み、ガタガタと震えていた<br />
「文句がおありでしたら、今すぐ表座敷にお戻りなさいな」<br />
「無茶ゆうな！まだ寒いんだぞ？！凍え死んじまうだろ？！」<br />
<br />
河南が来てから、何となく、生活に潤いが出たような気がする<br />
あさと夫婦になったのは、今から七年前のことだった<br />
正成十四、あさ、十二で夫婦になった<br />
あさは大和の国の豪族の娘で、名字は関谷と言う<br />
古くからの土着の氏族だった<br />
この頃の楠木は、まだ河内の片隅を領地にしているだけの小さな家柄で、少しでも味方の欲しい時期だった<br />
父が死んだのは正成が子供の頃のことで、家督を継いでも直ぐに家を動かせるだけの権力も能力もなかった<br />
正成が家を動かせるようになるまで楠木を支えていたのは、父の弟で、正成にとっては叔父に当たる人物だった<br />
その叔父も、昨年の暮に病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった<br />
あさを嫁に迎え入れたのはその叔父で、叔父の妻が大和の人間だったのが縁だった<br />
所謂政略結婚ではあったが、正成はあさを一目見た時から気に入っていた<br />
夫婦仲も睦まじく、日を置かずあさの寝室を訪れることも屡で、今もそれは続いていたが、子は中々できなかった<br />
自分も遅くに生まれた子供だったからか、そんなものかと正成は考えていた<br />
だから、河南が家に来た時、二人で喜び合ったのも頷ける<br />
幼い子供と接する機会など滅多にはないからだ<br />
<br />
湯殿で河南を取り合った翌日、正成は今日で何度目か数えるのも面倒なくらいの、奥座敷訪問を果たす<br />
「お？寝てるのか」<br />
あさの部屋を訪れると、河南があさの膝枕で眠っていた<br />
あさは河南の邪魔にならないよう、少し躰を前に倒していつもの縫い物をしていた<br />
「ついさっき」<br />
「そうか。何してんだ？」<br />
「河南の小袖を縫っております。この屋敷には、子供用の小袖はありませんから」<br />
「そうだな。俺のお下がり着せるわけにもいかんしな」<br />
「当たり前でしょう？おなごの河南に、おのごの小袖だなんて、常識を疑いますよ？」<br />
「別に疑われてもいいけどよ・・・」<br />
と、あさの背後に回る<br />
そこから眺める河南の寝顔はやはり愛らしく、序でに目に入るあさの、胸元の膨らみも悩ましいものだった<br />
膝を突き、左手をあさの肩に置き、右手をそっと、あさの懐に忍ばせる<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> だっ・・・、旦那様・・・ッ」<br />
途端に、あさが背中をくねらせた<br />
左の乳房を揉みながら、指先で乳首の先を軽く摘み、転がし始めたからだ<br />
これをやられたら、どんな女でも躰をうねってしまう<br />
「い・・・、いけません、旦那様・・・ッ。河南が・・・、起きてしまいます・・・ッ」<br />
身悶えに声が掠れがちになりながらも、夫の行為を止めようとする<br />
だが、あさの、あまりにも揉み心地のいい乳房の感触に、正成も止まらなくなってしまった<br />
あさの右腕を持ち上げ、そこを掻い潜るように前に出て、胸元を寛げる<br />
「旦那様・・・ッ」<br />
そこから、あさの形のいい乳房が零れた<br />
肌の色は白く、木目細かく、弾力も良く、何より手に肌が吸い付く<br />
正成は夢中になって乳房を挟むように右手一本で掴み上げ、飛び出すように前に出た乳房を口に含んだ<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ん・・・ッ」<br />
口の中で尖らせた舌先に転がされ、恥かしいと想いながらも声が出て仕方ない<br />
「駄目・・・、旦那様・・・ッ」<br />
頼んでも、正成はやめてくれない<br />
「旦那様・・・ッ」<br />
とうとう正成は、あさのもう片方の乳房も完全に小袖の襟元からも露出させ、揉みしだく<br />
「ああッ・・・！」<br />
あさも堪らなくなり、正成の頭を軽く抱えた<br />
と、その時、つい、あさの膝が軽く崩れ、河南の頭が動いた<br />
次の瞬間<br />
「河南・・・ッ」<br />
あさの口から河南の名が出て、正成はあさの乳首を咥えたまま、顔を下にやるように目を向けた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
目覚めた河南と、その目が合う<br />
しばらく躰が硬直し、それからあさが引き剥がすまで、正成は動けなかった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> い・・・、いや・・・、あの・・・」<br />
慌てる正成の側で、あさも急いで身繕いをする<br />
「あ・・・、あさの乳首が美味いもんだから、つい・・・」<br />
あまりにも下手な言い訳に、あさは想わず正成の後頭部をはたいた<br />
正成の言葉を聞き、河南が自分の胸元をぎゅっと押さえる<br />
「いや、お前のは吸わないから」<br />
「私がさせるものですかッ！」<br />
さすがに止めに入らずにはいられないあさであった<br />
<br />
あさは縫い物が得意で、時折地元の神社や寺の依頼で千早や巫女の衣装、麻衣（あさごろも）などを縫っていた<br />
今日も屋敷に一番近い神社からの頼みで、春用の麻衣を縫っている最中である<br />
河南はそんなあさの作業を、側でじっと見ていた<br />
「河南、飽きない？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
声を掛けられ、河南は黙って首を振った<br />
「河南もやってみる？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
わからず、首を傾げる<br />
「おさと、端切れはあるかしら？」<br />
「はい、奥様」<br />
と、さとは切れ端を選り分け、河南に誂えた布地を手渡す<br />
それをあさが受け取ると、今度は針と糸を手渡した<br />
「河南、針に糸を通す方法は、知っている？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
また、黙って頷く<br />
「じゃあ、やってみなさい？」<br />
あさはそれを河南に渡す<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南はどうすればいいのかわからず、きょとんとあさを見詰めた<br />
「好きに縫っていいのよ。河南のやりたいように、やっていいの」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
しばらくあさの顔を見詰め、それから切れ端を膝に置き、糸を舐めて針穴に通そうとするも、中々上手く通らない<br />
「もっと短く糸を摘むのよ」<br />
そう、あさに教わる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「河南殿、私がしましょうか」<br />
見かねたさとが手助けをした<br />
「放っておいて、おさと。河南にさせましょう」<br />
「ですが奥様、河南殿は初めてのようですし・・・」<br />
「初めてだからこそ、やることに意味があるの。手助けをしたら、河南のためにはならないわ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そうか、と、さとは目を丸くしてあさに会釈した<br />
子供はまだだが、あさには既に母親としての意識が芽生えている<br />
今は他人の子ではあっても、いつかは自分の子を産む<br />
その時あさはきっと、素晴らしい母親になるだろうと、さとは予感した<br />
<br />
四苦八苦の末、なんとか糸を針に通すことができ、河南は自分の好き勝手に布を縫い始めた<br />
勿論、糸を通すのにあさ、さとから色々な指示を受け、教えを乞うている<br />
手間隙は掛かったが、自分でやり遂げることの大切さを、あさは河南に教えてやりたかった<br />
その想いに応え、河南が布を縫い始めた時、あさの頬が緩んでいた<br />
子供ながら当然のように、縫い幅は出鱈目なものだった<br />
それから、<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
時々、針で指を突いていた<br />
ビクンと震えながらも悲鳴を上げない河南に、あさもさとも苦笑いする<br />
やがて正成があさの部屋を訪れた<br />
今日で何度目か、もう誰も数えなくなった<br />
「お？何やってんだ、河南」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
自分の背後に膝を落とす正成に気もやらず、河南は夢中になって布を縫っている<br />
しかも、何を目的に作ろうとしているのか、見ただけではさっぱりわからない<br />
「あさ、河南は何を縫ってんだ？」<br />
「さあ？河南に聞いてください」<br />
「河南、何縫ってる？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「河南、何を縫っているの？」<br />
正成に応えないものだから、代わりにあさが訊ねた<br />
すると河南は<br />
「袋」<br />
と、短く返事する<br />
「ですって」<br />
自分には応えてくれない河南が、あさには返事をすることが面白くない<br />
「どんな袋だ？」<br />
と、正成は河南の手にある布を取り上げた<br />
「あっ・・・！」<br />
取り上げられた河南は、あまりの腹立たしさに正成の手を針で突いてやる<br />
「いってぇー！」<br />
正成は布を放り出して、手を押さえた<br />
「河南の邪魔をするからですよ」<br />
「旦那様、梅茶でもお淹れいたしましょうか」<br />
「ああ、そうしてくれ」<br />
河南に針で突付かれ、正成は手を擦りながら不貞腐れ顔で応える<br />
<br />
昼も随分過ぎた頃、あさの縫っていた麻衣が漸く完成し、自分の側で『袋』を縫っている河南に声を掛けた<br />
「河南、お使いできる？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って頷く<br />
「場所は簡単よ、よく聞いてね」<br />
「はい」<br />
「いい？門番には、「水越神社に行って来ます」と言うの。言える？」<br />
「はい」<br />
あさは河南が理解しやすいよう、ゆっくりとした口調で聞かせた<br />
「それだけ言えば通じるから、門を出たら真っ直ぐ山道を降りて。寄り道は駄目よ？」<br />
「はい」<br />
「屋敷前の山道を降りてしばらくすると、三体の道祖神があるわ。その前に細い道があるからね、その道を通って真っ直ぐ行くと、神社の門が直ぐに見付かるわ。門はいつも開いているから、それを潜って境内に行って頂戴。境内、知っている？」<br />
「え・・・と」<br />
「とても広い場所なの。正面に大きな建物があるから、大丈夫よ。そこから声を出して、「楠木から来ました」って言ってご覧なさい。誰かが出て来たら、「春衣をお届けに参りました」と言うの。言える？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って頷いた<br />
「帰りはその逆よ？道祖神の前に出たら、坂道を登るの。そうしたら、ここに戻って来れるからね？わかった？」<br />
「はい、わかりました」<br />
河南のしっかりした返事に、あさは満足げな笑みを浮かばせた<br />
「いい子ね。なら、行ってらっしゃい」<br />
「行って来ます」<br />
河南はあさから春衣を受け取ると、ぺこりと頭を下げた<br />
その仕草がなんとも言えず可愛らしい<br />
あさの部屋の縁側から表に出て、草履を履き、ちょこちょこと走って行く後姿を、あさは頬を緩ませて見送った<br />
「おーい、河南ー」<br />
その直後、正成の声がする<br />
「河南ー」<br />
「どうなさいました？旦那様」<br />
「いや、さっき河南が縫ってた袋もどきの物は出来上がったのかな、と想って」<br />
「袋もどきって、旦那様・・・」<br />
確かに『もどき』と言われればそうかも知れないが、あまりの言い草にあさは苦笑いしてしまう<br />
「その袋はまだ完成しておりませんが」<br />
「なんだ、そうか。ところで河南は？」<br />
「河南ならたった今、水越神社にお使いに行かせましたけど？」<br />
その瞬間、正成の顔が変わった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 何？」<br />
声も、低くなる<br />
「河南一人でか？」<br />
「当然です。水越神社は目と鼻の先にあるんですもの、迷子にはなりませんわ」<br />
「莫迦野郎ッ！その目と鼻の先で何かあったらどうするんだ！」<br />
「心配し過ぎです、大袈裟な」<br />
あさの呆れ顔に益々腹が立つ<br />
「寧ろ何でお前はそう暢気なんだ！もういい！俺が探して来るッ！」<br />
「探してって、えっ？！」<br />
あさが声を掛ける頃には、正成は部屋を駆け出して行ってしまった<br />
「旦那様！それではお使いになりません！おやめください、旦那様！旦那様ッ！」<br />
叫べど、正成は戻って来ない<br />
「もういいって、どう言う意味ですか・・・」<br />
僅か二ヶ月で、正成は河南を溺愛してしまっている<br />
それが河南の成長の妨げにならなければいいのだが、と、あさは心配で堪らなかった<br />
<br />
思い立ったら即動くのが正成である<br />
正成は屋敷を出ると、脱兎の如く<br />
いや、猪の如く山道を駆け降りる<br />
「河南ー！」<br />
後ろから自分の名前を呼ぶ正成の声がして、河南は振り返った<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その瞬間、河南の目が『ぎょっ』と剥き出す<br />
悪鬼の如く形相で自分を追い駆けて来る正成の姿に、河南は<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ああー！」<br />
あまりの怖さに、想わず泣き出してしまった<br />
<br />
「えぐっ、ひっ・・・、は、春衣を、えっ、お届けに参りまひ・・・ひっ、たぁ・・・」<br />
「ご苦労様です」<br />
出迎えた宮司は、泣きじゃくりながら衣を手渡す河南に、苦笑いと、頭に汗を浮かばせた<br />
「楠木の若殿（どの）、いくら心配だとて、このような年端も行かぬ幼子を泣かせてまで同行するのは、如何かと存じます」<br />
「べっ、別に泣かせたくて泣かせたわけじゃねえ・・・っ！」<br />
あらぬ疑いを掛けられ、正成は顔を真っ赤にして否定した<br />
「今日は、愛らしいお使いを寄越していただいたお礼です。河南殿、どうぞお納めくださいませ」<br />
と、宮司は黒漆の盆を差し出した<br />
盆には和紙が敷かれ、その上に黄粉を塗した葛餅が二切れ、載せられていた<br />
「わあ・・・」<br />
それを見た途端、河南は泣き止み、瞳を輝かせた<br />
「どうぞ」<br />
「いただきます・・・」<br />
と、葛餅を両手で掴む<br />
「いただきます」<br />
河南に続き、言ってもいないのに正成が残った一切れを摘む<br />
「若！」<br />
<br />
大人の正成は葛餅を一口で食べてしまったが、子供の河南はちびちびと食べている<br />
歩きながら食べるその姿もまた可愛らしいものだが、あまりにも食べ切るのが遅いので、ついからかってしまう<br />
「河南、腹一杯なのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って首を振る<br />
「そっか。要らないなら食ってやるぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は応えず、のんびりと齧る<br />
それからしばらく歩き、葛餅も半分食べ終わった頃、正成はもう一度声を掛けた<br />
「河南、葛餅飽きたのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は首を振る<br />
「食ってやるぞ？遠慮すんな」<br />
すると河南は慌ててもう一度大きく首を振り、葛餅の残りを抱えるように胸元に隠し持った<br />
こんないじらしい姿を見せられては、弄らないわけにもいかない<br />
「良いから寄越せよ、食ってやるから。な？河南」<br />
と、正成は手を伸ばして葛餅を取ろうとした<br />
勿論、食べたいわけでも欲しいわけでもない<br />
単純に河南をからかいたかっただけである<br />
「寄越せって」<br />
「やー！」<br />
正成のしつこさに河南は声を張り上げ、坂道を駆け上がった<br />
「待て！河南！」<br />
<br />
正成が河南を追い回している情報は、門番を通してすぐさまあさの許に届けられた<br />
「旦那様！」<br />
慌てて表座敷のある屋敷に上がれば、中庭で河南が正成に追い駆け回されている<br />
「旦那様！何をなさっておいでですかッ！」<br />
あさの声を聞き、河南が慌てた様子であさの許に駆け寄って来る<br />
その懐に飛び込む河南を受け止め、あさは自分の後ろに回した<br />
「旦那様」<br />
「あぁ、あさか・・・」<br />
見付かった正成はばつが悪そうに苦笑いする<br />
「旦那様？何故河南を追い駆けていたのですか？」<br />
「いや、河南がな、もらった葛餅を食おうとしないからさ、ついからかいたくなって」<br />
「葛餅？」<br />
「使いの褒美にって神社でもたっらんだけどさ、河南、半分食い残してんだよ」<br />
「まあ、そうなんですか」<br />
あさは正成から事情を聞き、背中に回した河南を自分の正面に戻した<br />
「河南、水越さんで葛餅をいただいたの？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は涙の乾ききり、頬も随分かさかさになったみすぼらしい姿に変わり果て、顔も相当引き攣っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
この表情を見て、あさもぷっと吹き出してしまう<br />
そんなあさに、河南は大事に持っていた葛餅の残りを差し出した<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
きょとんと掌を見ると、唾が付いたのだろう、降り掛けられていた黄粉はかなり剥がれ落ち、おまけに手に汗掻いたのか、両の掌はべた付き、殆ど葛の肌が見えており、お世辞にも美味そうには見えない<br />
その葛餅をあさに差し出したが、自分の掌を見て、とてもではないが人に差し出せれるようなものではなくなってしまったことに気付き、新たな涙が滲んで来た<br />
「河南・・・。もしかして、私に？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って頷くも、それがあさにあげられなくなったことが悲しくなったのだ<br />
「そう・・・」<br />
子供が好みそうなものなど、数が少ない時代<br />
葛餅は大人でも喜ぶ贅沢品だった<br />
それを子供の河南は半分も残し、自分にと置いていてくれたのだ<br />
嬉しくない筈がなかった<br />
「ありがとう、河南」<br />
あさは河南の顔を見ながら礼を言い、河南の掌を掬い上げ自分の口元に持って来ると、吸い込むように葛餅を食べた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさの行動に、河南は目を丸くする<br />
「うん、美味しい」<br />
口をもぐもぐさせながら、あさは微笑んだ<br />
「そっか・・・」<br />
河南が何故半分を残したのか、正成は漸く気付く<br />
それを知らずからかったことに酷く落ち込む<br />
「悪かったな、河南・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は自分で涙を拭いながら、正成の顔を見上げる<br />
笑っているわけではないが、怒っている風にも見えなかった<br />
「明日、葛餅を作りましょうか。去年の春の葛粉がまだ残っていると想いますから、後でおさとに探してもらいますわ」<br />
「お？楽しみができた。河南のお陰だな」<br />
と、正成は河南の頭を撫でた<br />
周りで見守っていた家臣や侍女達も、この光景に心を和まされる<br />
しかし、陰から見ていた八郎は、そうもいかなかった<br />
僅か二ヶ月で正成夫婦の真ん中に居る河南の存在が気に食わない<br />
<br />
河南が『袋』を縫い始めて二日が経った<br />
今も完成の目途が立たない<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> なあ、河南。それ、いつまで掛かるんだ？」<br />
側で寝転がり手を枕に寝そべっている正成は、ぼんやりとした声で訊ねた<br />
返事はいつもの如く、遣って来ない<br />
「旦那様も日長一日河南ばかりを見て、飽きないんですか？」<br />
と、あさも呆れた顔をして聞く<br />
「まあ、面白いしな、河南」<br />
「酷い言い草」<br />
「そんなことより、河南はいつまであさの部屋で寝起きしてるつもりだ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の言っていることがわからず、河南は何も応えず黙々と針を進めた<br />
「どうされたんですか？急に」<br />
「いや。河南が来てから、夜、さ」<br />
「夜？」<br />
「ほれ、わかるだろぉ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
腰をくねくねとくねらせて恥じた顔をする正成は、なんだか気味が悪い<br />
「ほら、さあ、俺らが毎晩やってたこと」<br />
「え？毎晩？」<br />
「それまではお互い励んでたじゃねーか」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> あ・・・」<br />
漸く、正成の言いたいことが理解でき、途端にあさは頬を赤らめ俯く<br />
「河南もそろそろ夜は一人で寝れるようになんなきゃな？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は何も言わず正成を見た<br />
「家だって、一人で寝てたろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って首を振る<br />
「なんつー過保護な家だ」<br />
正成は躰を起こして呆れた顔をする<br />
「人のことが言えますか？」<br />
そんな正成にあさも呆れる<br />
「俺とあさは夫婦なんだよ。わかるな？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
返事の代わりに黙って頷く<br />
「夫婦ってさ、夜、何するか知らないわけじゃないだろ？」<br />
「旦那様！子供に何を聞かせるのですか！」<br />
「お前んちのとーちゃんとかーちゃんが、二人っきりですることだ」<br />
「旦那様、もうやめてください、お願いします・・・」<br />
何故かあさが涙ぐむ<br />
「お前んちだって、兄弟いっぱい居ただろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って正成を見詰める<br />
その目は、「全部あんたが殺したけどね」と言っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
さすがの正成もそれを読み取ったか、胸を押さえ顔色も青く息を吐く<br />
「どうかなさいました？旦那様」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いや、なんでもない・・・」<br />
<br />
その夜から、河南が寝付くまではあさの部屋におり、寝付いたら別の部屋にそっと運ぶことで話は纏まった<br />
久し振りのあさの柔肌を充分に堪能し、一息吐きにごろんと横になる<br />
「ああ・・・、腰が抜けそうだ・・・」<br />
「私は抜けましたけど」<br />
吐息交じりに呟く正成に、隣のあさは気だるい声を出して応えた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南、一人で大丈夫かな」<br />
「自分で追い出しておいて、何ですか」<br />
「だってよ」<br />
と、あさの方に躰を向ける<br />
「そりゃ、時々は寝てる河南の隣でやってたけど、なんてゆうか、気が抜けないから気を遣れないっつうか、落ち着かないっつうか、でも、居なきゃ居ないでなんか抜け落ちた気分になるしなぁ・・・」<br />
「意味がわかりませんが、そんなに河南が気になるのなら、お部屋でも覗いたら如何ですか？」<br />
「ん～・・・」<br />
どうするかな、と正成は天井を見詰めた<br />
その正成の横顔を見て、あさも物思いに耽る<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 旦那様・・・」<br />
小さな声で呼び掛けた<br />
「何だ？」<br />
「子供・・・、いつできるんでしょうね・・・」<br />
「その内できるだろ」<br />
「夫婦になって何年も経つのに、全く兆しもなくて・・・」<br />
「気にすることねえって。俺だって、親父が年食ってからの子だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 私、子供が産めない体なのかも知れません・・・」<br />
「そんなわけねえよ」<br />
「旦那様・・・」<br />
「何だよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 私に遠慮なさらず、他の女を召し上げてください・・・」<br />
「気が向いたらな」<br />
「旦那様・・・ッ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成は裸の躰を起こしてあさを見下ろした<br />
「お前に問題があるのかも知れねえ。俺に問題があるのかも知れねえ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 旦那様・・・」<br />
「だとしても、俺らまだお互い若いだろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「河南の母親も、聞けば随分幼い頃に寺田に嫁いだってじゃねえか。でも、河南の母親は、河南を含めて二人しか産んでない。お前よりちょっと年上だったかな、それでもまだ若い方だった。でも、二人しか産んでない。わかるか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさは応えず、正成の顔を見上げた<br />
「『必ず産める』ってわけじゃねえんだよ。俺の母親だって、俺しか産んでない。後は他の女の子供だ。でも、なんとかなっただろ？」<br />
「旦那様・・・」<br />
「絶対できるって、心配すんな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
にかっと笑う正成に、あさは目尻に涙を溜めた<br />
「どうしても子供ができなかったら、そん時は河南にでも産んでもらうか」<br />
「そればかりは、冗談でもおやめになってください」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 言葉の綾だって・・・」<br />
目に涙を溜めながらも、真剣な顔をして止めるあさに、正成も頭に汗を浮かばせて否定した<br />
<br />
あれから数日後、あさは今度は巫女の衣装である白の小袖を縫っていた<br />
いつもなら村で生産されているのだが、水越神社は氏神であるためか、領主妻であるあさが直々に仕上げるのが定例だった<br />
白は汚れが目立ちやすいからと、今日ばかりは河南もあさの側には近付けない<br />
少し離れたところから、あさの仕事を見詰めていた<br />
あさもこれに集中し、三着の小袖をたった二日足らずで仕上げてしまった<br />
それを届けるのはやはり、河南の仕事である<br />
「それじゃあ、河南。この間と同じ神社だから、道はわかるわね？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
いつものように、黙って頷く<br />
「今日は少し重いだろうけど、頑張れる？」<br />
「はい」<br />
「いい子ね。帰ったら、お風呂に入りましょう」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
何も口にしないが、河南はきらりと目を輝かせた<br />
「行ってらっしゃい」<br />
「行って来ます」<br />
この頃になって、漸く河南の縫っていた『袋』も完成した<br />
それを片手に携えて、風呂敷に包んだ小袖を両手で抱え、河南は奥座敷から屋敷の方へ向かった<br />
今日は自分の都合で正成に用事がある<br />
それは珍しいことだった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って正成の姿を探す<br />
だが、今日に限って正成が見付からない<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
誰に尋ねればいいのかもわからず、河南は少し顔を落として表門に向かった<br />
その時、八郎とかち合ってしまった<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お前・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って俯く<br />
「まだここに居るのかよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「いつまで居座る気だ？その内奥方様を追い出そうって魂胆じゃねえだろうな？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎の言いたいことの意味が理解できず、河南は益々顔を擡げる<br />
「何とか言えよ！」<br />
押し黙る河南に堪り兼ね、八郎は力いっぱい河南を押した<br />
「あっ・・・！」<br />
力に任され、河南の小さな躰が簡単に吹っ飛んでしまう<br />
「目障りなんだよ！寺田の子のくせに、でかいツラしやがってッ！」<br />
八郎は転がる河南の髪を鷲掴みにして、頭を持ち上げた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
あまりの痛みに顔を歪ませるが、河南は胸に抱えた小袖と『袋』を、決して手放そうとしなかった<br />
「何だよ、これ。大事そうに抱えやがって」<br />
と、八郎はその風呂敷を掴もうとした<br />
その手から逃れようと、河南は必死になって身を捻らせ、俯きに身を丸めた<br />
「一丁前に抵抗する気かよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「生意気なんだよッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
八郎の、力いっぱいの蹴りが、河南の腰に炸裂する<br />
河南は声にならない悲鳴を上げた<br />
「てめえの・・・！てめえの親の所為で、俺の親父は死んだんだッ！」<br />
がすん！と、河南相手に容赦のない蹴りを食らわせる<br />
「その寺田を殺してやったぜ！ざまあ見ろッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
八郎に蹴られる度に、河南の躰が大きく震える<br />
それでも河南は、腕に抱えた荷物を守ろうと、必死になって耐えた<br />
「てめえもくたばっちまえば良かったんだッ！」<br />
「あッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
腰を蹴ったつもりが、うっかり横腹を蹴ってしまった<br />
河南の悲鳴に、八郎も慌てて河南の後ろ襟首を掴んで起き上がらせ、顔を見た<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
涙をいっぱいに流し、鼻からも鼻水が垂れ流れている<br />
愛らしい顔には土がこびり付き、さっきまでの様相が嘘のように変わっていた<br />
一瞬申し訳ないことをしたと想いつつも、八郎は河南の襟を掴んで揺さぶった<br />
「なんで、親父が死ななきゃなんなかったんだよ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「なんでお前は、生きてんだよ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
涙を流しながらも、河南は八郎の目をじっと見詰める<br />
八郎は河南から目を背けなかった<br />
その瞳にはどうしようもない怒りと、やり場のない空しさ、それから、自分と同じ悲しい目をしていた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ごめんなさい・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の言葉に、八郎ははっとする<br />
それから、慌てて手を引いた<br />
立ち上がり、その場から逃げるように歩き出す<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> さっさとここから出て行け。そうじゃないと、俺はお前を殺してしまうかも知れない」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
腰や横腹の痛みに耐えながら、河南は表門を出た<br />
今日は随分汚れているなと、門番は首を傾げながらその背中を見送る<br />
その直後に、別の顔を見て背を伸ばした<br />
<br />
「痛い・・・。痛いよぉ・・・」<br />
泣きながら、山道を降りる<br />
「痛いよぉ、母様ぁ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の後ろを、そっと着ける影がちらつく<br />
「母様・・・。<s>　　　　　　　　　</s> 帰りたいよぉ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南が声を出す度に、その影は少し立ち止まる<br />
「うっ・・・、うっ・・・」<br />
河南は小さく泣きながら、道祖神の前の道を渡った<br />
<br />
「今日もご苦労様でございます」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
神社に着く頃には、河南も泣き止み、腰の痛みも堪えられるようになった<br />
なんでもない顔をして、宮司に頭を下げる<br />
「お駄賃としては、少し粗末かも知れませんが」<br />
と、今日も宮司は河南に『おやつ』を差し出してくれた<br />
盆の上に、三つの干し柿が並んでいる<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ありがとうございます」<br />
受け取りながら、河南は飛び切り愛らしい顔で微笑んだ<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の笑顔に、宮司も目尻を下げる<br />
こんな愛らしさなら、楠木の若殿が骨抜きにされても仕方がないとさえ感じてしまう<br />
宮司はほのぼのとした気分で、河南を見詰める<br />
その時、境内の裏から笙の笛の音が聞こえて来た<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
河南は不思議そうに首を傾げて宮司の顔を見た<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ああ。もうすぐ春の奉納祭がありましてね、他の神社から巫女達が集まって、舞の練習をしているのですよ」<br />
「舞・・・？」<br />
「はい。京の都の白拍子などが舞う踊りです。河南殿はご存知ありませんか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
奉納祭も白拍子も舞も知らない河南は素直に頷いた<br />
「百聞は一見に如かず。河南殿、いらっしゃいませ」<br />
と、宮司は河南を手招きして、裏の広い庭に招いた<br />
河南は少し遅い足取りで宮司の後に続く<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> わあ・・・」<br />
案内された庭に、三人の巫女が舞っていた<br />
今は普段の小袖を身に纏わせているが、祭りが開催されるとあさの縫った小袖を腕に通すのだと教わる<br />
巫女達は息もぴったりに同じ動作を繰り返す<br />
それは風に舞う花弁のように軽やかで、川面に浮かぶ木の葉のように優雅で、空を流れる雪のように華やかに舞っていた<br />
河南は我を忘れたかのように、舞う巫女達を見詰めていた<br />
「河南殿も、大きくなられたら舞を踊られますか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南に、できるでしょうか・・・」<br />
それはとても小さく、笙の笛に掻き消されてしまうような声だった<br />
しかし宮司はしっかりと聞き届け、力強く頷いてくれる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は宮司にきらきらと光る瞳を差し向け、それからまた、食い入るように巫女達を見詰めた<br />
<br />
「失礼します」<br />
長い間巫女達の舞を見ていた河南は、漸く屋敷に戻る気になったようで、境内に戻った<br />
それを宮司が見届ける<br />
「気を付けてお戻りなさいませ」<br />
河南を見送り、それから、陰に隠れているその気配に苦笑いする<br />
「ずっと待っておられたか。これは、自分の子ができたら甘やかしてしまう性質ですかな」<br />
と、小さく呟く<br />
<br />
完全に痛みが抜けたわけではなかったのか、神社を出ると河南は片足を引き摺って歩いた<br />
だが、来る時には弱音を吐いていたのがなくなった<br />
懐に大事そうに干し柿を抱き、手にしていた『袋』も両手で持つ<br />
しかし、とうとう歩き疲れたのか、河南は道祖神の前の道に出て来たところでへばってしまい、座り込んだ<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
何かあったのかと、慌てて先に進んだがために、つい足元の小枝に気付かず踏み折ってしまった<br />
パキン！と大きな音がして、河南は驚いて後ろを振り返る<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そこには、『見付かった』と引き攣り笑顔の正成が、硬直していた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 八郎のこと、許してやってくれな」<br />
見付かってしまった以上、隠れても仕方がないと正成は、河南を負ぶって山道を登った<br />
「あいつの親父は、三ヶ月前に戦で死んだんだ。八郎と挟み撃ちでお前の親父を攻撃するつもりだったんだがな、それが見破られて、寺田の別働隊に邪魔されて、親と合流できず、あいつの親父はやられちまった」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の話を、河南は黙って聞いていた<br />
「あいつ、本当はお前が憎いわけじゃねえんだよ。自分が憎いんだよ。寺田に妨害されたからつったって、結局は自分の到着が遅くなって、親父は死んじまったんだからな。それ、あいつもわかってんだよ。でも、気持ちが納得できてねえんだよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の話など、河南に理解できる筈がない<br />
正成もわかっていながら、聞かせずにはいられなかった<br />
どちらかの味方をすれば、どちらかを失う<br />
正成は、河南を失いたくなかった<br />
八郎も、失いたくなかった<br />
そう言うしかなかった<br />
大人の都合を河南に押し付けていると自覚しながら<br />
<br />
「旦那様・・・」<br />
河南を迎えに出てみれば、夫が河南を背負っている<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お帰りなさい、河南」<br />
「ただ今戻りました・・・」<br />
正成の背中から降りながら、河南は小さな声で返事した<br />
「門番から伝わったんですが、河南が随分汚れていたとのことですけど、何かご存知ですか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
途端、正成の米神に汗が流れる<br />
あさには知られないよう、一応身繕いは済ませたが、どこかでばれるこもと避けられないだろう<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南、おでこ、少し擦り剥いているわ。転んだ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って頷いた<br />
その河南の様子に、正成は目を見張る<br />
「そう。慌てたのね？」<br />
「ごめんなさい・・・」<br />
「いいのよ。小袖はちゃんと届けられた？」<br />
「はい」<br />
「ところで、随分掛かったわね。寄り道をしてたの？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って首を振る<br />
「それにしても、こんなに遅くなって。ほら、日が傾いているわ」<br />
「あさ、河南は神社で巫女の舞を見てたんだよ」<br />
居た堪まれず正成は、うっかり助け舟を出してしまった<br />
「神社で？巫女？舞？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさの目が据わる<br />
正成の顔が青くなる<br />
「旦那様？また、河南の後を？」<br />
「今度は追い回してない！着けただけだ！」<br />
「旦那様ッ！」<br />
「ほほほ・・・」<br />
二人の遣り取りに、さとは苦笑いを浮かべた<br />
「そんなことより、あさ！見てくれよ！」<br />
と、正成は懐から布切れを取り出した<br />
「何ですか？それ、河南が縫ってた」<br />
「そう！へへーん、俺に呉れるってよ」<br />
「まあ」<br />
あさの目が大きく見開かれるのに気を良くしたか、正成は得意げになってそれを見せびらかす<br />
「河南が俺のためにって、袋を縫ってくれたんだぜ～？」<br />
「旦那様、ついこの間まで『袋もどき』と呼んでおられませんでしたか？」<br />
「羨ましいだろ～？」<br />
都合の悪いあさの言葉を掻き消すかのように、正成は声を張った<br />
「河南が俺のためにって、一所懸命縫ってくれたんだよなぁ～？」<br />
「でしたら、私も」<br />
と、あさはそっと懐から、小さな端切れを取り出した<br />
「なんだ？それ」<br />
見れば自分の『袋』と同じ柄である<br />
「河南が縫ってくれたんです」<br />
あさの小さな布は巾着になっており、多少不恰好だが手提げも縫い付けられていた<br />
結び紐がないだけで、正成の『袋』よりは形になっている<br />
「化粧品を入れるのにどうぞ、ですって。河南は気の利いた子ですよね」<br />
「そ、そうだな。俺のだって、握り飯ぐらいは入るし」<br />
「今度の戦の時には、それに握り飯を入れて差し上げますわ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> で、でもな」<br />
正成はそれでも負けじと、『袋』の中に手を突っ込み、そこから干し柿を取り出す<br />
「じゃーん！俺のは干し柿付だぞ？！」<br />
「あら、神社でいただいたの？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は頷くと、小袖の懐をごそごそとし、もらった干し柿の残りを取り出す<br />
そしてそれを、あさにあげた巾着の中に入れようと、爪先で立った<br />
あさも腰を屈めて巾着を河南に差し向ける<br />
河南はその巾着に干し柿を入れた<br />
「ありがとう、河南」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南もにっこり微笑む<br />
「旦那様！見ました？！河南が微笑んでくれましたわ！」<br />
「よかったですね」<br />
正成はどうしようもない敗北感に襲われた<br />
<br />
「それじゃあ、河南、お風呂に入りましょうか」<br />
その声を聞き、正成が慌てる<br />
「あ、ちょっと待ってくれ、あさ。話がある」<br />
「どうされました？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
見た目は取り繕えても、あれだけ八郎に蹴られたのだから、躰には痣ぐらいは浮かんでいる頃だろう<br />
どうしたのかと聞かれ黙っていても、いつかは八郎のしたことが知られてしまう<br />
それでは八郎の立場が悪くなるだけだった<br />
「済まん」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
あさは正成の様子に首を傾げた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え？」<br />
奥座敷で正成から話を聞かされ、あさの顔が赤くなる<br />
「どう言うことですか。八郎が河南を？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成は黙って頷いた<br />
「それを旦那様は、黙ってご覧になられていただけなのですか？何故止めなかったのです」<br />
あさの顔が赤くなったのは、怒りで頭に血が上ったからだ<br />
「何度も止めようと想った。間違えて、八郎を斬っちまってたかもしんねえ」<br />
「旦那様・・・」<br />
「だけどよ、河南を蹴ってた間の八郎の顔も、苦しそうだったんだ」<br />
「苦しそうって、蹴り付けられた河南の方がもっと苦しかった筈です！」<br />
「わかってる！でも、八郎だって好きで河南を蹴ってたんじゃない。自分でもわかんねんだよ。わかんねえ内に、河南に手を出しちまったんだと想う」<br />
「旦那様は八郎の味方だから」<br />
「味方とか味方じゃないとかの問題じゃねえ。八郎と河南の問題だ」<br />
「だって、八郎の親が死んだのは、河南の責任ではないでしょう？何故河南にその責任を負わせるのですか！」<br />
「親の因果が、ってヤツだ。河南が寺田の娘である間、それは永遠に続く。逃げられない因果なんだよ」<br />
「でも、河南を引き取ると言ったのは、旦那様です。だったら、旦那様には河南を守る義務があります！」<br />
「だけど、家臣である八郎を守るのも、俺の義務だッ！」<br />
「旦那様・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> どっちが大事とかの、簡単な問題じゃねんだよ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の言い分は、理解できる<br />
だが、家臣が大事だからと、幼い河南が傷付くのを黙って見ているわけにもいかない<br />
「私は・・・・・・・」<br />
何か言おうとするあさを、正成は言葉で遮った<br />
「あさ、頼む。しばらく、俺に任せてくれねえか」<br />
「旦那様・・・」<br />
「でも、肝心な時にゃぁ、やっぱお前に頼るだろうな。河南もあんなにお前に懐いてるしよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさは黙って頷いた<br />
「俺が庇えば庇うだけ、八郎の恨みも強くなる。それじゃあ、なんの解決にもなんねえ。あいつが、自分で気付くしか方法はねえんだよ」<br />
「わかってます。だけど・・・」<br />
「お前の心配も、よくわかった。河南がこれ以上酷い目に遭わないよう、俺も注意する。それで、収めてくんねえか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
それしか、方法はないのだろうか<br />
不安は残っても、頷くしかできない自分の弱い立場が、あさの綺麗な顔を歪ませる<br />
<br />
話し合いの末、あさはなんとか説得できた<br />
後は、八郎の、憎しみを河南に向けないよう説得するだけだと、正成はあさの部屋を出た<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南は？」<br />
大人しく待っているものと想っていた河南の姿がない<br />
「河南殿でしたら、用事があるからと屋敷の方へ・・・」<br />
と、さとが応える<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
まさか、と、正成は屋敷の方へ走った<br />
<br />
この間も、今日も、神社でもらった『駄賃』に、あさは喜んでくれた<br />
もしかしたら八郎も、これをあげれば喜んでくれるかも知れないと、河南は八郎を探した<br />
誰も彼も、自分を違和感のある目で見る<br />
やはり、今もまだ父を憎んでいる者が居るのだろう<br />
「寺田の娘風情が」<br />
と、小さな声で自分を罵る者も居た<br />
それでも河南は、心痛むのを堪えて八郎を探す<br />
「河南殿。こんなところで、何をしているのですか」<br />
振り返ると、新九郎と言う青年が立っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南の躰が硬直する<br />
<br />
「女は犯した後、殺せッ！道中の足手纏いになるッ！」<br />
<br />
あの日、あの時、自宅で聞いた声が耳に甦った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> この人だ・・・」<br />
河南の心が呟いた<br />
「殿とご一緒ではないのですか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は自然と後ろへ後退った<br />
新九郎の優しい顔は自分に向いているが、新九郎の冷たい目は自分を見ていない<br />
河南の本能が河南に知らせる<br />
<s>　　　　　　　　　</s> これは、『敵だ』と<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
河南は堪らず、その場から逃げ去った<br />
「河南殿！」<br />
背中で新九郎の声がする<br />
河南は一目散に走った<br />
声はすれど、新九郎は追い駆けて来る気配はない<br />
しばらく走って河南は、足を緩めた<br />
怖くて、後ろを振り返れない<br />
振り返らず、良かったかも知れない<br />
新九郎の目は、新九郎自身自覚できるほど、凍て付いた色をしていた<br />
<br />
「はっ、はっ、はっ」<br />
どれくらい走ったか、河南は兎に角屋敷から出ようと出鱈目に走り、来たことのない場所に行き着いた<br />
周りは木が生い茂り、弓矢の的もたくさん並んでいる<br />
藁でできた人形も幾つか並んだ、少し不気味な場所だった<br />
しかし、河南には場所の雰囲気を確かめられる余裕などない<br />
息切れに、肩が大きく上下する<br />
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」<br />
胸が苦しくて、しゃがみ込んだ<br />
そこに、八郎が木刀を片手に突っ立っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
互いに沈黙する<br />
ここは修練所と呼ばれる場所で、武術の稽古に使われる広場だった<br />
八郎の手にある木刀が空に向かう<br />
その木刀が、河南目掛けて振り下ろされた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
河南は想わず、目を瞑った<br />
しかし、痛みと言うものは来ず、耳の側で木刀の空を切る音だけがした<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
恐る恐る瞼を開く<br />
河南の側に、大きな蜂が落ちていた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そいつは、毒を持ってる。下手に動いたら、刺されるぞ」<br />
河南は、八郎が自分を助けてくれたことを知った<br />
「あ・・・、あり・・・」<br />
『ありがとう』と、言いたかった<br />
だけど、口唇が上手く動かない<br />
「蟻じゃねえ。蜂だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そうじゃないんだけどな、と口唇が上を向く<br />
「さっさとここから出て行け。鍛錬の邪魔すんな」<br />
「あの・・・」<br />
今しか、渡せる機会はない<br />
そう想った河南は、懐に仕舞っていた最後の一つを八郎に差し出した<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> なんだ」<br />
河南の小さな両の掌の上に、干し柿が一つ、置かれていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
どうぞ、と言いたげに、河南は八郎に差し出す<br />
「俺に？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って頷く<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 要るかよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
それでも、河南は差し出し続けた<br />
絶対に折れない河南に八郎は苛立ち、掌の干し柿を掴むと地面に叩き付けた<br />
「あ・・・」<br />
「こんなもんもらったって、親父は帰って来ねえんだよッ！」<br />
「八郎」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
自分を呼ぶ声に、八郎は振り返った<br />
そこには、正成が立っていた<br />
「河南、これ、最後の一つだろ？」<br />
と、八郎が投げ捨てた干し柿を拾う<br />
「お前、自分の食う分がなくなっちまうぞ？それでも、良いのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の問い掛けに、河南はぎこちなく頷いた<br />
「だとよ、八郎。河南は、自分の分さえ、お前に分け与えてやるってよ。それ、踏み躙る権利が、お前にあるのか？河南の気持ちを踏み躙る権利が、お前にあるのか？」<br />
「殿・・・」<br />
「なあ、八郎。確かにお前にとっての仇は、寺田かも知れん。その娘である河南が憎いのも、わかる。じゃあさ、河南にとっての仇って、誰だ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎は応えられない<br />
「俺であり、お前であり、楠木全部だよな？その家で、河南は暮らしてんだぞ？河南は俺らに恨み言の一つでも言ったか？」<br />
八郎は黙って首を振った<br />
「だよな？今のお前、五つの河南以下だぞ？」<br />
「殿・・・・・ッ」<br />
「河南は、俺を許してくれた。いや、腹ん底じゃあ、まだ許してないかも知んねえ。それでも、俺は河南が許してくれたと想いたい」<br />
そう言いながら、正成は自分の袖から干し柿を取り出し、八郎に押し付けた<br />
「これは、河南が『俺に呉れた』モンだ。つまり、もらった時点で俺のモンだ。俺のモンだったら、受け取るのに支障はねえよな？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「明日、この干し柿の味を俺に聞かせろ。それが、お前の今日の仕事だ」<br />
「殿・・・ッ」<br />
「今日はもう上がれ。その分、明日早く来い」<br />
そう言うと、正成は河南を抱き上げ、修練所を後にする<br />
残された八郎は、押し付けられた干し柿を見詰め、しばらく立ち尽くした<br />
<br />
奥座敷に戻り、正成は河南をあさに手渡した<br />
しかし、河南の躰に着いた痣はあまりにも酷く、あさはそれを直視できない<br />
仕方がないので今日だけは、正成が河南を風呂に入れることになった<br />
軽く触れるだけでも痛いのか、正成の持った手拭が差し掛かる度に河南の躰が震える<br />
痛がるからと、精々土汚れを落とすことしかできない<br />
「お前、偉いな。こんなになっても、我慢してるなんて、よ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
我慢したくて、してるんじゃない<br />
行くところがないから耐えているだけだ<br />
河南の小さな背中がそう言っているようで、正成の胸がずきずきと痛み出す<br />
ごめんな、と、何度も心の中で謝罪する<br />
だが、それを言葉にすれば、八郎のしたことを肯定することにもなる<br />
自分から背負おうとしたことなのに、なんだか河南一人に背負わせているようで、正成もどうしたものかと考えあぐねた<br />
湯殿の格子から、金剛山の夕焼けが差し込む<br />
きらきらと美しい、茜色をした光だった<br />
「河南、見ろ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成に呼ばれ、振り返る<br />
そこから降り注ぐ夕焼けの光の帯に、河南は瞳を輝かせた<br />
「綺麗だな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
黙って頷く<br />
「お前の心みたいに、綺麗で、優しい色だな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の言っていることが理解できず、黙ったままでいる<br />
「河南。やりたいことがあったら、遠慮しないで言ってみろ。お前の願いなら、何だって叶えてやる。なんだって、してやる」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
少し考え込み、顔が下を向く<br />
正成は心の中で、どうか「今直ぐ死んでくれ」とかの類ではありませんようにと、祈った<br />
しかし、しばらくして河南が口にした言葉は、意外なものだった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 奉納祭・・・に、行きたい・・・」<br />
「奉納祭？<s>　　　　　　　　　</s> ああ、水越神社のか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
頷く河南に、正成もほっとする<br />
首が繋がったような気分になったからだ<br />
「なんだ、それくらいだったらいくらでも叶えてやるぞ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って正面を向き直し、正成に背を向けた<br />
その向こうで、河南は嬉しそうに微笑んだ<br />
背中を向けられた正成には、その微笑みは見れなかったが<br />
<br />
いつか、わかり合える<br />
いつか、助け合える<br />
正成はそう、信じていた<br />
簡単には行かないとわかっていながら、願わずにはいられなかった<br />
いつか、笑い合える<br />
そう、信じて]]> 
    </content>
    <author>
            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <id>ryouran.blog.shinobi.jp://entry/320</id>
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    <published>2011-02-22T14:12:15+09:00</published> 
    <updated>2011-02-22T14:12:15+09:00</updated> 
    <category term="― 悪 党 ―" label="― 悪 党 ―" />
    <title>始まり</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[「生きろ！河南（かな）！」<br />
<br />
それが、私が聞いた父の、最期の言葉だった<br />
<br />
私の父は近畿、和泉の豪族だった<br />
父はとある一族と、私が生まれる前から長く争っていた<br />
その一族とは兵力も実力も均衡していた<br />
一進一退の争いに、どちらかが倒れるまで戦は終わることはなかった<br />
だが、その一族の主が若い跡取りに変わってから、事態は一変した<br />
武将の名は、楠木正成<br />
<br />
容赦ない過酷な攻めに困窮した父は、楠木家に対して一時休戦を提議した<br />
楠木はそれを受け、父は漸く自宅に戻ることができた<br />
だけど・・・<br />
束の間の休みと戻った父を、楠木が奇襲を仕掛けた<br />
自宅で<br />
私の目の前で<br />
父は楠木の若武者達に首を刎ねられた<br />
私は男達の慰め物として生け捕られ、あの人の前に引き摺り出された<br />
<br />
あの時の、私が持っている記憶は、父が首を刎ねられる瞬間と、あの人の、キョトンとした顔だった<br />
<br />
「河南！見ろ！」<br />
幼い少女を腕に抱き、正成は屋敷より少し小高い裏の山にある櫓から、村の光景を見下ろした<br />
「美しいだろ、俺の村は」<br />
「寒い・・・・・・・」<br />
「ははは！」<br />
震える少女を、正成は着ていた陣羽織の中に押し込み、ぎゅっと抱き締めた<br />
「もう寒くないか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
腕の中の子は、小さく頷く<br />
「どうだ、緑豊かなこの村は。ここが赤坂、あちらが千早だ」<br />
と、正成は指を差した<br />
差した先には、少女の生まれ故郷へと続く山々が見える<br />
「千早は巫女の着る衣装のことだぞ？知ってたか？」<br />
「千早？」<br />
「そうだ。大和の国の巫女の衣装は、全て俺の村で生産されている。厚過ぎず薄過ぎず、丈夫で糸解れも起こさない、長持ちすることで有名なんだぞ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
少女は興味がなさそうに、ぼんやりと正成の声を聞いていた<br />
「河南。大人になったら、巫女になるか？巫女になって、この国のために祈ってくれるか」<br />
「河南は、巫女になるの？」<br />
興味のないまま、聞き返す<br />
「ははは！巫女になるのもよし、誰かの嫁になるもよし。河南。お前が決めろ」<br />
「だったら<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
だったら、私は<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ・・・<br />
<br />
<br />
<div style="text-align:center"><FONT size="4"><span style="color:#566484">― 悪 党 ―</span></FONT></div><br />
<br />
<br />
「あはははははは！しばらく見ない内に、河南も随分大きくなったなぁ！」<br />
髭面の、少し怖そうな顔を歪ませて、寺田泰時は愛娘を膝に抱いて笑った<br />
「旦那様、あまり大きな声を出さないでください。河南がびっくりしているではありませんか」<br />
最愛の妻である『つる』が、顔を顰めて夫を窘める<br />
「すまんすまん。久しぶりだったからな、つい羽目を外してしまった」<br />
父・泰時は五十に手が届くほどの年齢で、母のつるはまだ二十代であった<br />
この時代ではそう珍しい年齢差でもない<br />
「それにしても、楠木もよく停戦協議に応じたものですね。当主が代わったばかりなのでしょう？勢い付いて、決して応じないと想っておりました」<br />
「ははは、そうだな」<br />
母が盃に酒を注ぎ、父がそれを受ける<br />
頭の上で交わされるこれを、河南は顔を上げてじっと見ていた<br />
父は髭面の、強面だった<br />
黙っていると雰囲気の恐ろしい男だが、笑うと悪戯盛りの子供のような顔になる<br />
河南はそんな父が大好きだった<br />
父の膝の上も、大好きだった<br />
父の膝の上は河南にとって特別な場所である<br />
ここを独占できるのは、河南だけだった<br />
大きく逞しい父の膝の上に居ると、不安も心配も消えてなくなる<br />
安心できる場所だった<br />
「楠木の新当主はご覧になられました？」<br />
「ああ。協議の際に顔を合わせた。中々いい面構えをしていたぞ」<br />
「まあ、敵方を誉めるだなんて」<br />
「そう言うな。若いがな、恐ろしいほど肝が据わっている。なんせ講和の席に、一人で乗り込んで来たのだからな」<br />
「一人で？」<br />
つるは夫の言葉が信じられなかった<br />
「まさか」<br />
「その『まさか』だ」<br />
泰時はその時のことを想い出す<br />
自分を囲む無骨な男達に一歩も引かず、寧ろ不敵な笑いを浮かべていた、若く、美丈夫な青年の顔を<br />
「河南、そろそろ父上の膝から降りなさい」<br />
と、長兄が声を掛けた<br />
「はい」<br />
河南は素直に応じる<br />
河南には異腹の兄が何人か居て、長兄と次兄は既に元服し、父に付き従っていた<br />
その兄らも父と共に自宅の屋敷に戻り、歓待を受けている最中であった<br />
河南の母は、所謂後妻である<br />
先妻が病で死去したため、まだ十三だった頃に父に嫁いだ<br />
この時点で河南には四人の兄と五人の姉、下に生まれたばかりの弟が一人居た<br />
父と兄が戦の場に赴いても、屋敷にはまだ兄弟が残っていて、河南は寂しいと想ったことはなかった<br />
「河南」<br />
少しばかり膝の寂しいのを撫でながら慰め、降りた娘に声を掛ける<br />
「お前も将来は、腹の据わった男に嫁げ。多少不器用でもいい、己の信念を『最期』まで貫き通せる、筋の通った男の許に嫁げ。いいな？」<br />
「はい、父様」<br />
「旦那様、河南はまだ五歳なんですよ？」<br />
「わかっている。だが、教えるのに遅い早いはないだろう？」<br />
と、妻に一声返し、河南に向かい直して続けた<br />
「今は停戦を交わしていても、何れはまた戦が再開する。相手も若くなった。わしもどこまで通じるかわからん。その時は兄達がお前を守ってくれるだろうが、河南。もしも屋敷が敵方の乱捕りに遭ったら、下手な抵抗はするな」<br />
「旦那様！」<br />
夫のこの言葉を聞き、つるは慌てて制止した<br />
「今はおやめになってくださいッ。河南には、その話はいくらなんでも早過ぎますッ！」<br />
戦の時、父はいつもこの話を口にしていた<br />
どんな屈辱を受けても、娘達には生き残って欲しい<br />
心からそう願っていた<br />
「いいや。続けるぞ。<s>　　　　　　　　　</s> 河南。生きろ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
父のその言葉は、河南には難しかった<br />
姉達は相応に成長している<br />
長女はこの春、嫁に行くことも決まっている<br />
だから、父の話は理解できる<br />
だが、まだ幼い河南には、到底理解できる内容ではなかった<br />
それでも、わかったような顔をしなくてはならない<br />
わからなければ、父は何度でも同じ話を繰り返す<br />
繰り返せば、母が嫌な顔をする<br />
それがつらかった<br />
母に嫌な顔をさせたくなくて、河南はわからなくてもわかったような顔をするのが癖になっていた<br />
「お前達もだ」<br />
続けて、姉達にも言い放つ<br />
姉達はいつものことと、大人しく聞いていた<br />
「死んだら負けだ。どれだけ歯を食いしばって生きて来ても、死んでしまったら負けだ。それまでの、自分の人生も歴史も、全て敵方が否定する。悪くなくとも悪いと言われ続け、それは永劫続く。だから、河南」<br />
父の目は、真剣だった<br />
「生きろ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
何かを予感していたのか<br />
何かを恐れていたのか<br />
「男は死んで、名を残す。女は生きて、子を残す。<s>　　　　　　　　　</s> 乱捕りに遭い、敵方に捕まったとしても、決して抵抗するな。敵方に身を委ねろ。例え死にたくなるような陵辱を受けたとしても、死んでしまっては元も子もなくなってしまう。生き延びるんだ。いいな、河南」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
父の雰囲気に押され、河南は頷くしかできなかった<br />
隣では母が、しかめっ面で父を睨んでいるのがわかった<br />
<br />
留守勝ちの父ではあるが、それが父の仕事だからと母から言い聞かされ、たまに帰ると家族ぐるみで大歓迎する<br />
それが、当たり前の日常だった<br />
その日常が、ある日突然、音を立てて崩れた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
寺田の屋敷の側の茂みで、五人の若い武者が身を潜め、互いの顔を確認し合う<br />
統率者と想われる青年武将が頷くと、それが合図のように若武者らは一斉に立ち上がり、雄叫びを上げながら泰時の屋敷へ駆け出した<br />
その後に続き、百を越す軍勢が雪崩れ込む<br />
突然の奇襲に、警護の緩んでいた寺田の屋敷は瞬く間に火に包まれた<br />
<br />
「そろそろお前達は寝ろ」<br />
父の声に、兄達が最初に立ち上がる<br />
続いて姉達も立った<br />
だが、河南だけは立ち上がらない<br />
「河南、お父様の声が聞こえなかったの？」<br />
「だって、もっと父様とお話したい」<br />
「でも、もう遅いわ。早く寝て、明日またお話すればいいでしょう？」<br />
「母様はずるい」<br />
「え？」<br />
河南の言葉に、つるはキョトンとした<br />
「いつもそうやって、夜は父様を独り占めするもの」<br />
「あ・・・、え、だって、河南・・・」<br />
つるの顔が真っ赤になるのを、泰時は豪快に笑い飛ばし、長兄が河南の手を取った<br />
「河南、父上と母上は、そう言う仲なのだから」<br />
「太郎丸・・・っ」<br />
つるは困った顔をして、長兄の童名を呼んだ<br />
「そう言う仲って？」<br />
「仲良し、って意味だ」<br />
「仲良しなら、河南も仲良し。だから、河南もここに居る」<br />
「河南」<br />
長兄は笑って河南を抱き上げた<br />
「一人が寂しいのなら、今夜は兄が一緒に寝てやろう。それで良いか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
しばらく考え込み、それからゆっくり頷く<br />
「兄様だったら、いい」<br />
「本当に河南は、甘えん坊ねぇ」<br />
長姉が苦笑いをして廊下に出ようとした<br />
その長姉と、廊下を走って来た家臣の男がぶつかりそうになる<br />
「ああ、申し訳ございません・・・ッ」<br />
「どうした、簗田」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 殿」<br />
簗田と呼ばれた家臣の顔色が青い<br />
「何かあったか」<br />
察して、泰時は訊ねた<br />
「くっ・・・、楠木の奇襲です・・・。楠木が、押し掛けて来ましたッ・・・！」<br />
「何？！」<br />
一瞬にして、泰時の顔が強張る<br />
「楠木とは休戦を交約しておる！何かの間違いではないのか？！」<br />
「間違いございません！楠木の襲撃にございますッ！」<br />
「父上ッ！」<br />
河南を抱いていた長兄が、河南を降ろして駆け寄る<br />
「おのれ、楠木め・・・。講和を反故にするかッ」<br />
「旦那様ッ」<br />
つるが泰時の方へ駆けようとしたのと同時に、一家の揃っていた座敷に楠木の若武者衆が雪崩れ込んで来た<br />
「寺田右衛門尉、覚悟ッ！」<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
何が起きたのか、河南には理解できなかった<br />
数人の若武者らを先頭に、何十人もの兵士が座敷に入って来た<br />
兄達は刀を持って応戦し、母達は逃げ惑っていた<br />
最初に母が捕まり、若武者に押し倒されてしまった<br />
その、母を押し倒した若武者の叫び声と、若武者の振り上げた刀が煌き、母の断末魔が響いた<br />
「つるッ！」<br />
父の怒声が聞こえる<br />
「河南ッ！」<br />
側に居た次兄が、咄嗟に河南を庇った<br />
見えないその向こうで、姉達の叫び声も聞こえる<br />
「この赤ん坊はどうするッ！」<br />
「後顧の憂いになるものは、一切残すなッ！」<br />
河南を庇っていた次兄の躰が引き剥がされた<br />
その背中の先に、押し掛けた楠木の若武者が立っていた<br />
河南は更にその先に居た父の顔を見付け、慌てて駆け寄った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南・・・ッ！」<br />
父は刀を持って応戦していた<br />
父に手を伸ばした瞬間、父の背後に若武者が立っているのが見えた<br />
「父様！後ろッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
泰時は振り向き様、その若武者を斬り捨てた<br />
「河南ッ！」<br />
他の若武者や、大勢の兵士が父に群がる<br />
「生きろッ！河南ッ！」<br />
「父様・・・」<br />
父を助けようと<br />
だけど、足は子供のままで、速く走れなかった<br />
父に辿り着いた瞬間、若武者の振り下ろした刀が父の首を捉えた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
父の首から吹き出た鮮血が、河南の顔、首、胸元に飛び散る<br />
「取ったぞッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
河南は咄嗟に、父の首を拾い上げようと両手を伸ばした<br />
「河南ッ！」<br />
長兄の声が耳に入る<br />
顔を向けた河南の視界に、男達に犯されている姉の姿が見えた<br />
長兄は河南の手首を掴んで引き寄せ、河南を庇うように蹲った<br />
その長兄の背中から、若武者の刀が突き刺さる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
刀は兄の躰を貫き、河南の鼻先で止まった<br />
血を帯びた刀が、ゆっくりと遠ざかる<br />
遠ざかると共に、兄の躰もゆっくりと崩れた<br />
河南は兄の躰の下敷きになり、楠木の兵士らには見付からなかった<br />
「女は犯した後、殺せッ！道中の足手纏いになるッ！」<br />
そう、声が聞こえた<br />
姉達の、耳を劈く悲鳴が一つ、二つと途切れて行った<br />
<br />
やがて座敷内が静かになり、楠木の武者らの声しかしなくなった<br />
「女の一人でも残しておけばよかったのに。あーあ、もったいねぇ」<br />
「そんなこと言ったってよぉ、顔引っ掻きやがるんだよ」<br />
と、殺したつるを見下ろす<br />
「いい女だったんだけどな」<br />
「あっちは片付いたか」<br />
河南の姉達の方を見返る<br />
どの娘も全員、殺された後だった<br />
「右衛門尉の娘は、どいつも気が強いんだな」<br />
と、誰かが苦笑いするのが聞こえた<br />
「首はこれ一つで充分だな。他も制圧した頃だろう。引き揚げるか」<br />
足音が響く<br />
兄の下敷きになっていた河南の躰が震える<br />
息を殺し、見付からないようにしなくてはと、自分の口を押さえた<br />
しかし、それでも気付かれる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
先頭から少し遅れて歩いていた少年武将が、それに気付いた<br />
「新九郎さん」<br />
振り返ったのは、二十歳を少し超えたようなまだ若い武将で、だがしかし、年長者のような貫禄を持つ青年でもあった<br />
「どうした？勘九郎」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
勘九郎と呼ばれた少年は、黙ってそれを指差した<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
新九郎もそれに気付き、泰時の長男の骸を引っ繰り返す<br />
「お・・・」<br />
そこから、小さく身を丸め、震えている河南を見付けた<br />
河南自身気付かない内に、恐怖のあまり失禁した染みが広がっていたのを、気付かれたのだった<br />
<br />
それから、河南には記憶がない<br />
あっと言う間の出来事だったこともあった<br />
次に気が付いた時は、ある青年武将の前に引き摺り出された時だった<br />
<br />
「殿！寺田右衛門尉の首を持ち帰りました！」<br />
その声に、床机の上で片肘を突いていた正成が顔を上げた<br />
「取ったか」<br />
「策常殿の導きの通り」<br />
「金剛の山伏も、使える時は使えるもんだな」<br />
と、正成は、まだ幼さの残る顔で笑った<br />
「ですが、代わりに彦介と田野中がやられました・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
一瞬、眉間に皺が寄り、しかし、しばらくすると元に戻る<br />
「まあ、しゃーねえ。親父の代から争ってた男だからな、こっちも無事で済むとは想ってねえ。二人には論功行賞の一つでもくれてやればいいだろ」<br />
「それと」<br />
と、軍団を統率していた新九郎が顎で指図した<br />
それに続くように、縄で全身をぐるぐる巻きにされた河南が引き摺り出され、正成の前に放り出された<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> なんだ、このガキは」<br />
血塗れ泥塗れの、みすぼらしい風体をした、到底愛らしいとは想えない様相の子供だった<br />
正成は顔を顰めて河南を見下ろす<br />
「寺田の座敷に居ました。恐らく、娘かと」<br />
「他は」<br />
「殿のご命令通り、始末して来ました」<br />
「で、こいつだけ連れて来たのか。なんでだ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
新九郎も、自分でもわからないのか、首を傾げる<br />
「お前は、いつもどうしようもないとこで、仏心を出しやがる。生かして、それがつらくなることがあったら、どうするんだ。で、他は」<br />
「根切り（皆殺し）にしました」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成は鼻から溜息を吐くと、芋虫のように自分の目の前に転がる少女を見下ろした<br />
娘は自分を見ていない<br />
心、ここにあらずの状態だった<br />
「でも、まあ、殿の慰め物には、ねえ。初物は殿に、俺らはその後で」<br />
と、別の青年が卑下な笑いを浮かべる<br />
「莫迦野郎、ガキ相手におっ勃（た）つかよ。<s>　　　　　　　　　</s> 縄を解いてやれ。年端も行かねえガキを、簀巻きにすることもねえだろ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 八郎」<br />
新九郎に命令され、八郎と呼ばれた青年が前に出る<br />
河南を縛っている縄を掴むと、起き上がらせ、刀でそれを切った<br />
切りながら、幼い河南に言い放つ<br />
「ガキでも女なら、股先広げりゃ生き残れる。てめえにその能がありゃ、やってみやがれ」<br />
「八郎」<br />
「だって、殿！俺の親父は、こいつの親父にやられたんだッ！ガキだろうが、俺にとっては仇だッ！」<br />
「だが、今日からそいつの仇は俺になった。それでも、お前は同じことを言えるか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「お前だけじゃねえ。ここに居る殆どのヤツは、親を寺田にやられた。だけどな、それは戦だからしょうがねえだろ？自分の恨みをガキにぶつけるのは、正しいことじゃねえ。俺らの仇は、この小娘か？それとも、寺田か？」<br />
正成の言葉に、全員が黙り込む<br />
その会話を聞き、理解していたわけではない<br />
ただ、父の言葉が甦った<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 生きろ、河南<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
呆けた顔をしたまま、河南は自分の着ていた小袖の帯を解いた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> おい、何してる」<br />
それに気付いた正成が、声を掛ける<br />
帯を解き、小袖の上着を脱ぎ落とし、腰紐を解き、肌着を脱ぎ捨て、河南は全裸になった<br />
その瞬間、正成は床机から駆け出し、河南を包み込むようにして抱き締めた<br />
「何やってんだよッ！」<br />
抱き締めた腕を伸ばし、河南の脱いだ肌着を拾い上げ、肩に被せる<br />
河南の行動に新九郎らも驚かされ、ぽかんとなった<br />
「お前・・・ッ！」<br />
もう一度怒鳴ってやろうと顔を見た瞬間、正成は心を鷲掴みにされたような気になった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
口唇を噛み締め、涙は零さないよう、じっと自分を睨んでいる<br />
その瞳は金剛山の上にある空より澄み、しかし、その中央には家族を失った悲しみの色が現れ、幼いながらも自分の置かれた立場を理解しようと、両手を握り締め、小さく震えている<br />
自分から目を逸らさないその少女に、正成の心は奪われた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> あさを呼んで来い・・・」<br />
<br />
『あさ』は、正成の妻の名だった<br />
女達が暮らす奥座敷からあさが呼ばれ、河南を連れて行った<br />
表座敷では正成が、ある山伏の帰りを待っていた<br />
その山伏が戻って来る<br />
「多聞丸殿」<br />
「戻ったか、羅刹」<br />
名を呼ばれた山伏は、山伏にしておくには勿体無いほどの綺麗な顔立ちをしていた<br />
年はそろそろ三十に手が届くかと言う頃だろうか<br />
まだ青臭い正成よりは、ずっと大人の領域に居る雰囲気を醸し出している<br />
「寺田の屋敷への抜け道を、策常に伝えさせたのは、私だ。だが、罪のない女子供まで皆殺しとは、どう言った了見か。聞けば、生まれて間もない赤子まで手に掛けたのだそうだな」<br />
「後顧の憂いは残したくなかった」<br />
「それで、末娘だけ生かすのは、どう言った心積もりか」<br />
「わかったのか、あの小娘のこと」<br />
「それを調べに、和泉に私を遣らせたのだろう？」<br />
「誰だ、あの娘は」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 寺田の末娘 」<br />
自分の話を聞こうとしない正成に、羅刹は溜息を零しながら応えた<br />
「名前は、カナ」<br />
「カナ？」<br />
「『河』の『南』と書いて、『カナ』だ」<br />
「漢字を使ってるのか？女に」<br />
「そのようだな」<br />
「女に漢字を使わせるのは、亭主が出世した時か、亭主が死んで後家になった時くらいだ。後は京（みやこ）の公家の娘くらいしか使ってないぞ？」<br />
「それでも、あの子の名前は、『河南』だ。漢字を使っている。間違いない」<br />
「母親は」<br />
「同じ和泉の豪族の娘だ」<br />
「じゃあ、公家出身ってわけでもねえんだな」<br />
「そのようだ」<br />
「河南・・・か」<br />
「年は、今年で五つ」<br />
「五つ。もっと幼いかと想ってた」<br />
「そなたは、僅か五つの娘に、修羅の道を歩かせたのだ。早急に寺かどこかに預けた方がいい。手元に置いておける存在ではない」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
羅刹の言葉に、正成は黙り込んで考えた<br />
<br />
「あら、愛らしい」<br />
頭から被った父の血脂を湯で落とすと、河南本来の愛らしい顔立ちが現れる<br />
正成の妻・あさは、手拭を湯に浸けながら微笑んだ<br />
肌の白く柔らかな、美しい女だった<br />
河南は目の前の、その美しい女をじっと見ていた<br />
どことなく、母に似ているような気がして<br />
「柔らかな髪ね。撫で心地が良いわ」<br />
と、河南の頭を撫でる<br />
「いい子ね、じっとしていて。後でいい着物を着ましょうね。今、探しているから」<br />
声も優しい女だった<br />
その声が、河南を癒してくれる<br />
ふんわりと、柔らかい、いい香りもして来る<br />
「お鼻も小さく、お口も小さく。ほっぺもつるん。おでこも、つるん。綺麗なお目々ね。あなた、将来美人になるわよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そんな誉め言葉に喜んだわけではない<br />
あさの声が優しくて、どうしても母を連想させる<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> えっ・・・、うっ・・・」<br />
湯の温かさに、心が解れたか<br />
河南はやっと、家族が殺されたことを想い出した<br />
「母様は、いつも、湯殿で優しく拭ってくれたの・・・」<br />
「そう」<br />
「頭を撫でて、いい子ね、って、言ってくれたの・・・」<br />
「そう」<br />
「うっ・・・、えっ・・・」<br />
河南の目から、涙<br />
鼻から、鼻水が流れて来る<br />
「うええーん！」<br />
それと同時に、ずっと堪えて来た悲しみが、河南を襲った<br />
「ええーん！ええーん！ええーん！」<br />
「お嬢ちゃん」<br />
<br />
父を、殺された<br />
母を、殺された<br />
兄は、自分の身代わりに死んだ<br />
姉達も、殺された<br />
生まれたばかりの弟も、殺された<br />
全員、殺された<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 自分だけが、生き残ってしまった<br />
<br />
「ああーん！ああーん！ああーん！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
泣きじゃくる河南を、あさはそっと抱き締めた<br />
<br />
「正気かッ？！」<br />
正成の考えを聞き、羅刹は叫んだ<br />
「そなたは、身の内に厄災を抱え込むつもりかッ？！」<br />
「年端も行かねえガキだ」<br />
「その子供が、将来どう化けるか、そなたは想像できぬのかッ？！この、金剛の地に厄災を持ち込むつもりかッ？！」<br />
「あいつは厄災なんかにゃならねえ！俺が責任を持つッ！」<br />
「そなたの責任だけで済む問題ではないッ！如いては、我ら金剛衆の身の上にも降り掛かる！」<br />
「あいつは、疫病神なんかじゃねえ！俺がそうさせねえ！」<br />
「多聞丸殿ッ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そうだ。俺の名は、多聞丸だ。毘沙門天の名を冠する者だ」<br />
低く、声が唸る<br />
「だから、なんだと言うのだ・・・」<br />
「毘沙門天にゃ、吉祥天が必要だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> それが、あの子だと申すか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「莫迦々しい」<br />
「莫迦でも何でもいい。拾った命、俺は捨てたくねえ」<br />
「それが何だと<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「羅刹ッ！」<br />
正成は立ち上がり、羅刹を見下ろした<br />
「『俺が決めた』ことだ。俺はこれまで、そうやって生きて来た。己の想うまま、魂の想うまま、生きて来た。その、俺の魂が叫びやがる」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> なんと？」<br />
「『生かせ』、と」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
羅刹は正成の目に応えられなかった<br />
<br />
奥座敷に入ると、訊ねた侍女があさの寝室を知らせた<br />
「ここだったか」<br />
自分の手で襖を開け、部屋に入る<br />
部屋の中央に敷かれたあさの布団が、小さく盛り上がっていた<br />
「もう寝たのか？」<br />
「泣き疲れたようです」<br />
振り返った妻の美しい姿に、正成も微笑む<br />
真ん中で眠っている河南を挟むように、正成はあさの正面に腰を下ろした<br />
見下ろす先の河南の寝顔をじっと見詰める<br />
「どうした」<br />
「湯殿で、家族が殺されたことを想い出したのでしょうね。突然泣き喚いてしまって」<br />
「そうか・・・」<br />
「この子の名前、わかりました？」<br />
「ああ。カナと言うそうだ」<br />
「カナ？」<br />
「河の南と書いて、カナ」<br />
「河南、ですか。そう・・・。愛らしい名前」<br />
と、あさは眠っている河南の頭をそっと撫でた<br />
「なんだ、泥や血脂を落としたら、別嬪になったじゃねえか」<br />
「酷い話ですよ。こんな幼い子を引き摺って、泥まみれにするだなんて」<br />
「仕方ない。あいつらも寺田には恨みつらみがあるんだ」<br />
「態と、『そう言った人選』をなさっておきながら、さも仕方がないような言い逃れなど、この子には通じませんよ」<br />
「わかってる」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> どうなさるんですか？この子を。このまま、『恨みの対象』として、置いておくのですか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
自分の考えを見抜くあさに、正成は目を丸くする<br />
「まさか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いや・・・、ああ・・・」<br />
どう、言葉にするべきか、正成は考えながら話す<br />
「こいつを、育てようと想ってる」<br />
「え？」<br />
夫の言葉に、あさは目を丸くした<br />
「正気ですか？」<br />
「羅刹にも言われた」<br />
「羅刹殿にも」<br />
「こいつを手元に置いておくなど、正気か、と。ああ、正気だ」<br />
「旦那様」<br />
「なんだか、自分でもわかんねぇ。でも、どこにもやっちゃなんねえんだ。自分のやったこと、いつまでも忘れないための楔にしておきたいんだろうな」<br />
「楔に？」<br />
「考えあってのことだとしても、こいつにしてみれば俺は、単なる親の仇だ。しかも、目の前で親を殺し、兄弟も皆殺しにしちまった。どんだけ言い訳したって、こいつには通じない。わかってる」<br />
「だから、罪滅ぼしでこの子を養育すると？将来、あなたを恨むかも知れないのに？」<br />
「ははは。羅刹はそれが言いたかったのか」<br />
と、正成は笑った<br />
「身の内に厄災を抱え込むつもりか、と問われた。俺は反論したけど、どこかで自分でもそう想ってたんだろうな」<br />
「旦那様・・・」<br />
「いつかこいつに、返り討ちに遭うかもしんねえって。<s>　　　　　　　　　</s> 厄災でもいい。俺は、こいつがどんな風に俺を恨むのか、見てみてえ。一家を皆殺しにした俺をどう取り殺すのか、見届けたい」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
いつになく真剣な顔をする正成を、あさも黙って見詰めた<br />
<br />
翌日になり、正成は目覚めた河南を連れて、裏山に上がった<br />
裏山と言っても、屋敷の直ぐ後ろにある、少し小高いだけのものだが<br />
そこには簡素な造りの、剥き出しの櫓が一本立っていた<br />
大人三人が立てばいっぱいになるような小ささだった<br />
その櫓に登り、河南を呼ぶ<br />
「河南、来い。登れるか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って見上げ、それからゆっくりと梯子を上り始めた<br />
<br />
結局河南はあれから一度も目覚めず、そのままあさと共に眠っていた<br />
時々、あさの胸倉にしがみ付いたくらいで、特に騒ぎは起こさなかったとあさから聞かされ、ほっと胸を撫で下ろす<br />
しかし、だからと言って、河南の、自分を見る目が優しくなったわけではない<br />
屋敷を出る時も押し黙っていた<br />
押し黙り、目も合わせてくれなかった<br />
それでも正成はこの光景を河南に見せたくて、連れて来た<br />
「よーし、あともうちょっとだ。頑張れー！」<br />
先に上った正成は、上から河南に声援を送る<br />
「ほれ、もうちょっと、もうちょっと！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
子供だから素敏（すばしこ）いかと想いきや、やはり女なのが難点なのか、寧ろ大人の女が上るより尺（時間）が掛かって仕方ない<br />
それでも正成はしゃがみ込み、膝に頬杖を付いて河南を見守った<br />
やがて河南が櫓を上り切る<br />
「おーし、よくやった！お前、女なのに根性あるじゃねえか！」<br />
そう言って正成は笑いながら河南を抱き上げ、櫓の正面に回った<br />
「河南！見ろ！」<br />
と、山から見える村の光景を一望する<br />
兎に角河南にとって、正成の声は喧しい<br />
父も同じように、怒鳴るような話し方をしていた<br />
「美しいだろ、俺の村は」<br />
どこまでも伸びる緑の色を、正成は惚れ惚れするように見渡した<br />
だが、河南にとってはそれは、大した意味を成さない<br />
「寒い・・・・・・・」<br />
と、正直に呟く<br />
「ははは！」<br />
震える河南を、正成は着ていた陣羽織の中に押し込み、ぎゅっと抱き締めた<br />
「もう寒くないか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って頷いた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 確かに俺は、お前の親父を殺した」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
突然何を話し出すのだろうと、河南は正成を見上げた<br />
やっと河南が自分を見てくれたのに、肝心の正成は河南の眼差しから避けるように正面だけを見据えている<br />
「お前の親父を騙まし討ちして殺した仇だ。だけど、早く戦を終わらせたかった」<br />
子供を相手に、贖罪する<br />
「お前の家とは、もう二十年争ってた。お前の親父は頭が切れたからな。だから、できるだけ早く戦を終わらせたかった。戦が長引けば長引くほど、民は困憊する。争いを避けるため、土地を出て行く。民が出て行けば、村は死んじまう。民の居ない村なんか、村じゃねえ。ただの廃墟だ。だから、俺は」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
子供相手に何を話しているのだろうと、正成は自分でも自覚した<br />
「楠木とは死んでも迎合できないと言い切ったお前の親父を、殺した」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って正成の話を聞いていた<br />
「俺を討ちてえんなら、構わねえ。俺を殺せ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「だけど、今は待ってくれ。この村の隅々にまで緑が溢れるその日まで、俺を生かしててくれ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 生かす・・・」<br />
「そうだ」<br />
正成もようやく河南の方に顔を向け、そして、すぐさま目を逸らした<br />
想っていたよりも、河南が可愛らしかったからだ<br />
清らかなその瞳に映る自分は、血に汚れた人殺しでしかない<br />
そんな自分を認めたくなかった<br />
「どうだ、緑豊かなこの村は」<br />
自分の気持ちを誤魔化すかのように、正成は声を張り上げた<br />
「ここが赤坂、あちらが千早だ」<br />
と、正成は指を差す<br />
「あれが、金剛の山。それに続いてるのが、大和の国の生駒の山。あの山の向こうに、あさの実家があるんだ。あさ、知ってるだろ？お前の世話してくれてる」<br />
河南は黙って頷いた<br />
「それから、あれが<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
差した先には、河南の生まれ故郷へと続く山々が見える<br />
正成はその先が言えなかった<br />
「千早は巫女の着る衣装のことだぞ？知ってたか？」<br />
「千早？」<br />
初めて聞く名前に、河南は首を傾げながら聞き返す<br />
「そうだ。大和の国の巫女の衣装は、全て俺の村で生産されている。厚過ぎず薄過ぎず、丈夫で糸解れも起こさない、長持ちすることで有名なんだぞ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
聞かされても河南は興味がなさそうに、ぼんやりと正成の声を聞いていた<br />
「河南。大人になったら、巫女になるか？巫女になって、この国のために祈ってくれるか」<br />
正成自身、何故そんなことを口走ったのか、わからない<br />
本人がわからないのだから、言われた河南は更に理解できない<br />
「河南は、巫女になるの？」<br />
興味のないまま、聞き返す<br />
「ははは！巫女になるもよし、誰かの嫁になるもよし。河南。お前が決めろ」<br />
「だったら<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南はその先を言わぬまま、村の景色を見渡した<br />
あの山は、金剛山<br />
あの山は、生駒山<br />
あの山は、和泉の山<br />
河南には、それがわからない<br />
どちらの方向が自分の故郷なのかすら、わからない<br />
わからないまま、じっと見詰めた<br />
「こんなところに居たんですか」<br />
と、後ろからあさの声がした<br />
「ちょっと出て来ると仰って、どこに行くのかと想いきや」<br />
「ははは、見付かっちまったか」<br />
「旦那様、こんなところに河南を連れて来て、どうなさるんですか。まだ朝も寒い時季なのですよ？河南が熱を出したら、どうなさるのですか」<br />
「それはいかんな。河南、戻るか」<br />
と、あさが立っているのとは逆の方向に周り、河南を抱いたまま櫓を降りる<br />
降り切ってから、河南を離す<br />
その途端、屋敷に向かって河南が走り出した<br />
「河南！走るな！転ぶぞ！」<br />
「それが子供の仕事です。転んで怪我をして、痛い想いをして学ぶのです」<br />
「でもなあ」<br />
振り返ると、あさが厳しい顔をしていた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> どうした、あさ」<br />
「私が<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
「私が、死なせません」<br />
「あさ・・・」<br />
「私が、あなたを死なせません」<br />
「聞いてたのか」<br />
正成は苦笑いをしながら、頭を掻き毟った<br />
「私が育てます」<br />
「え？」<br />
「あの子を我が子同然に育てます」<br />
「あさ・・・」<br />
「私の、持てる限りの愛で、あの子を育てます。だからあなたは、あなたのすべきことをなさってください。あの子のことは、私に任せてください。<s>　　　　　　　　　</s> あなたを、死なせるものですか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
想えばあさは、いつも朗らかに笑う女で、厳しい目をしたことなど一度もなかった<br />
そのあさの宣言に、正成は何も言えなかった<br />
言えず、ただ頷くことしかできなかった<br />
<br />
屋敷に戻ると、河南は既に座敷に上がり、朝餉の粥を啜っていた<br />
「奥様、お帰りなさいませ。旦那様、今朝はこちらで召し上がられますか？」<br />
「いや、顔を出しただけだ」<br />
出迎えに出たのは、奥座敷の中でも年長の侍女だった<br />
「おさと」<br />
「はい」<br />
「すまんが、あの子、河南のことよろしく頼む」<br />
「はい、奥様から伺っております。奥座敷で大切にさせていただきますので、気鬱なきようご安心くださいませ」<br />
「あさ・・・」<br />
驚いてあさを見ようと振り返れば、あさはさっさと奥座敷に上がって顔を見せようとはしなかった<br />
何から何まで、妻には全てお見通しのようで、正成は苦笑いを浮かべる<br />
「じゃあ、俺は屋敷に戻ってる。なんかあったら知らせてくれ」<br />
「承知しました」<br />
さとは丁寧に頭を下げ、あさの後に続いて奥座敷に上がった<br />
縁側から河南の姿を目視する<br />
「河南！いい子にしてるんだぞ。昼になったら、また来るからな！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は正成に一目も送らず、ただ黙々と粥を啜っていた<br />
それでも正成は笑顔を浮かべ、奥座敷を後にした<br />
<br />
「冗談じゃありませんッ！」<br />
河南を引き取ると言い出した途端、家臣から猛反発を食らう<br />
最初に声を挙げたのは、八郎だった<br />
予想はしていたが、八郎のあまりの勢いに、正成は少しばかり驚いた<br />
「なんであのガキをここに置くんですか！」<br />
「俺があいつの親を殺したからだ」<br />
「俺だって、あいつの親に父親を殺されました！」<br />
「それは、戦だからだろう？」<br />
「これだって、戦でしょう？！」<br />
「戦じゃねえ。休戦を敷いてた。それでも、俺はやった」<br />
八郎は決して引き下がらろうとはしない<br />
「そうしなきゃ、寺田には勝てなかった！ずるずる戦を長引かせても、赤坂が疲弊するだけだ！だから、殿は<s>　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
その八郎の言葉を遮って、正成は言った<br />
「そうだ、このままずるずる戦が長引いても、俺らが疲れるだけだ。あっちは和泉三郡の長だからな、ひとかどで戦をやったって、そう痛手もなかったろうよ。八郎」<br />
正成は八郎の顔を真っ直ぐ見ながら言った<br />
「だけど、俺がやったことは『戦外』のことだ。人殺しと変わらねえ」<br />
「殿・・・ッ」<br />
「あいつは、戦で親を亡くしたんじゃない。皆殺しで親を亡くしたんだ。お前らとは、悲しみの大きさが違う」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ」<br />
はっきりと言われ、八郎を始め、他の、泰時との戦で親を亡くした青年武将らも黙り込む<br />
「河南は俺が引き取る。他に文句のあるヤツはいねえか」<br />
そう問われ、しばしの沈黙の後、新九郎が膝を滑らせ半歩前に出た<br />
「殿」<br />
「何だ」<br />
「あの子が大きくなった頃、殿はなんと説明されるのですか？正直に、騙まし討ちを食らわせたと仰るのですか？」<br />
「そのつもりだ」<br />
「『恨み』を増殖させるのですか？」<br />
「そんな気はさらさらない。ただ、ありのままを打ち明ける。あいつには、嘘は言いたくねえ」<br />
「そうですか」<br />
それだけを聞くと、新九郎は元の位置に戻った<br />
「他にはねえか」<br />
と、一回り見廻す<br />
年を取っている家老らは、特に何かを言いたそうな顔もしていない<br />
勿論、正成の意見に根から賛成しているわけでもない<br />
何か問題が起きれば、その時、『決断』すれば良いだけだという、ある種『冷徹』な顔をしていた<br />
そうはさせるかよと、正成は心の中で呟く<br />
「ねえみてえだな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
八郎ら若い衆を除いて、殆どが黙って平伏した<br />
<br />
昼が来て、正成は約束通り奥座敷を訪れた<br />
なんだか侍女や女中らが慌しく走り回っている<br />
「どうした」<br />
声を掛けても気付かないのか、立ち止まる者は居なかった<br />
不審に想いながら奥に進むと、今度はさとの姿が見えた<br />
さとも何かを探しているかのような仕草を見せている<br />
「おさと、どうした」<br />
「あ・・・、旦那様・・・」<br />
「何かあったのか？」<br />
「いえ、それが・・・」<br />
「おさと、見付かった？」<br />
と、後ろからあさの声がして、正成は振り返った<br />
「旦那様」<br />
夫の姿に、あさは小走りに駆け寄る<br />
「どうした、みんなざわざわしているが、何かあったのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> それが・・・、河南が・・・」<br />
あさは言いにくそうに応える<br />
「河南がどうかしたのか？」<br />
「さっきから、姿が見えなくて」<br />
「え？」<br />
正成も、一瞬驚いた顔を見せる<br />
「さっきからって、いつからだ」<br />
「ほんの少し前です。朝餉を食べ終わった後、私の部屋で繕い物をしていたのですが、河南はそれをじっと見ていて、とても大人しかったので私もそれに夢中になっておりまして・・・。それで、ふと気付いたら、河南が部屋のどこにも居なくて」<br />
「それで、みんなで探し回ってるのか」<br />
「旦那様、まさか河南は自分の家に戻ったのでしょうか？」<br />
「まさか。ここは結構山道の厳しいとこだぞ？子供の足で降りたり登ったりできる場所じゃない。それに、表門から出たんだったら、門番が見てるだろ？聞いてみたか？」<br />
「はい、いの一番に。でも、見ていないとのことで、屋敷の中を探しております」<br />
「そんな豪邸じゃないぞ？ここは。居たら居たで直ぐ見付かるだろ」<br />
「ですが・・・」<br />
「俺も探してみる。お前らは屋敷の中をくまなく探してみてくれ」<br />
「はい」<br />
<br />
屋敷の中のことはあさに任せ、正成は取り敢えずもう一度表門に出た<br />
「先程奥様からもお尋ねがありましたが、見ておりません。見張りも必ず交代でやっておりますから、ここには誰も居ないと言うことは決してございませんし」<br />
聞いてみた門番は、そう応える<br />
「じゃあ、もし見掛けたら、知らせてくれるか。今、あさが屋敷に居る」<br />
「承知しました。気が付きましたら、お知らせいたします」<br />
「頼んだぞ」<br />
「はっ」<br />
<br />
表に出ていないと言うことは、河南はこの屋敷の敷地内に居ると言うことだ<br />
奥座敷で見付からなかったのだから、もしかしたら間違えて自分の居る表座敷のある屋敷に来たのかも知れない<br />
そうだとしても、今、あさがその屋敷を捜索しているのだから、何れは見付かるだろう<br />
それでも、心が落ち着かない<br />
「河南ー！」<br />
大声で河南の名を呼びながら、正成は中庭に出た<br />
それほど広い庭でもない<br />
端から端まで見渡せるくらいしかない場所で、何度か河南の名を呼んでみた<br />
返事はなく、ここには河南が居ないことを知る<br />
それから、なんとなく屋敷の囲い沿いに歩いてみた<br />
屋敷の中には小さいながらも森があり、子供の頃はよくここで遊んでいた<br />
辺り一帯楠の木が生い茂り、よく登ったもんだと想い返す<br />
まさか河南も木に登ったりしていないだろうかと見上げるも、暗くてよくわからない<br />
増してや、河南が登れるような木もなかった<br />
<br />
父は、自分が十の時に死んだ<br />
寺田と争っている最中に病没した<br />
自分は父の、遅くにできた子で、随分溺愛されて育ったことを想い出す<br />
父は天寿を全うして死んだが、河南の父は志半ばにして死んだ<br />
自分が殺したことを、嫌でも自覚する<br />
憎みながらも、自分を罵倒しようとしない河南に、心の何かが惹かれたのかも知れない<br />
正成はそう想った<br />
あの小さな躰には、底知れぬ力強さが備わっている<br />
そんな気がした<br />
<br />
<s>　　　　　　　　　</s> あいつから、家族を奪ったのは、俺だ<br />
<br />
今朝見た、河南の真っ直ぐな目が脳裏に蘇った<br />
自分にも親の仇が居たら、あんなにも真っ直ぐ、相手を見ることができるだろうか<br />
憎らしく想いながらも、真っ直ぐ、目を向けれるだろうか<br />
<br />
「新九郎！」<br />
屋敷で河南を探していたあさが、新九郎を呼び止める<br />
側には不貞腐れた顔の八郎も居た<br />
「河南、見付かった？」<br />
「いえ、まだです」<br />
「そう・・・。引き続き、頼むわね」<br />
「はい、奥方様」<br />
「八郎」<br />
あさは八郎にも話し掛けた<br />
「あなたの気持ちは、わかる。だけど、子供は関係ないのよ？河南に当たらないで」<br />
「わかってます。でも、だからって直ぐに気持ちを切り替えられるほど、俺は器用じゃありません」<br />
「なら、少しずつでもいい。あの子を受け入れてあげて」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさの言葉に、八郎は否定も肯定もしなかった<br />
<br />
あれからどれくらいが経ったのか<br />
日が暮れるのも早い時季、空はすっかり夕焼け色に染まっていた<br />
「河南」<br />
正成は相変わらず、屋敷の囲いに沿って外を歩いている<br />
時々内側の木々の間を探したり、祠の前に到着すると中を開けてみたり<br />
それでも河南の姿はどこにもなかった<br />
探す場所を失い、正成は裏山の櫓に向かった<br />
ここは今朝、河南を連れて来た場所だ<br />
屋敷とは囲いで繋がれており、表門を通らずとも来れる唯一の『外界』である<br />
櫓から屋敷を見渡してみようかと想い立つ<br />
その櫓を見上げた時、正成は小さな足がぶら下がっているのを見付けた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南？」<br />
慌てて梯子を上り、櫓に立つ<br />
「河南！」<br />
河南は櫓の柵に凭れて、座っていた<br />
近付き、顔を覗き込む<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 河南・・・」<br />
河南は、眠っていた<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
何を想い、河南はここに来たのだろうか<br />
ここから、故郷を眺めていたのだろうか<br />
だが、河南が立っても外の景色が見れるほど、柵は低くない<br />
見れずに諦めて、眠ってしまったのだろうか<br />
「河南、起きろ」<br />
正成は小さな声で呼び掛けた<br />
河南は直ぐには目を覚まさない<br />
「河南、起きろ。こんなとこで寝てると、風邪引くぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
しばらくして、河南が目を擦る<br />
「何してんだ？こんなとこで」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
正成の問い掛けに、河南は応えなかった<br />
「あさが心配してる。屋敷に戻るぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
何も応えず、ただじっと目の前の柵を眺めている河南を、正成は鼻から溜息を吐き、抱き上げた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 見たかったのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
相変わらず河南は何も話さず、黙って頷く<br />
「あれが、金剛山だ。知ってるか？」<br />
正成は指を差して言った<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は黙って首を振る<br />
「あっちが、生駒山。こっちが<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
一瞬躊躇い、それから続ける<br />
「和泉山群。お前の、故郷だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は知らされた和泉の山のうねりを、じっと見詰めた<br />
「帰りたいのか？家に」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は応えなかった<br />
帰っても、家族などどこにも居ないことを、河南は知っていた<br />
「ここに・・・」<br />
どうしてだろう<br />
どうして、心が縋るのだろう<br />
そんな想いを、何故、今抱いているのだろう<br />
自分の気持ちを不思議に想いながら、正成は言った<br />
「居てくれねえか・・・？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は、それにも応えなかった<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 俺は、お前に恨まれてもいい。憎まれてもいい。それだけのことを、したんだからな。だから・・・。憎んでくれていい、恨んでくれていい。ここに・・・、居てくれねえか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
小さな少女は、それでも声を出さないでじっと、和泉の山を見詰めていた<br />
その河南の横顔を正成もじっと見詰め、呟くように言う<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ごめん・・・、河南」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その瞬間、河南の目尻からひと雫の涙が零れた<br />
「河南・・・」<br />
正成は河南を正面に抱き直した<br />
「一緒に、歩こう」<br />
何を言い出しているのか<br />
これではまるで求愛ではないかと、自分の言葉を嘲笑う<br />
「俺の人生と、お前の人生、これから先に延びる道を、一緒に歩こう。つらいことも、悲しいことも、俺が全部引き受ける。お前がこれから味わう悲しみも、つらいことも、全部、俺が引き受ける。だから、河南。<s>　　　　　　　　　</s> お前は、笑ってくれ。笑っていてくれ・・・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
河南は、黙って正成にしがみ付いた<br />
「河南・・・」<br />
肩の上に乗った、河南の細い腕の感触を感じながら、正成も河南を抱き締める<br />
「ごめんな、河南・・・」<br />
贖罪の言葉<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いいよ」<br />
河南は、それに応えた<br />
「河南・・・・・・・・・・」<br />
正成は驚きに目を見開き、河南の方へ顔を向けた<br />
今、河南はどんな表情をしているのだろう<br />
それを見ることはできなかったが、幼い心で必死になって、自分の身の上に起きたことに帳尻を合わせようとしているのだろう<br />
そう、感じた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ありがとな、河南」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
櫓を降り、手を繋いで屋敷に戻る<br />
二人で同じ道を歩く、これが、『始まり』だった<br />
<br />
「河南！」<br />
あさが正成に手を引かれて戻って来る河南の姿を見付け、声を張り上げて駆け寄った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お帰り、河南」<br />
あさはできるだけ、なんでもなかったような顔をして、河南を出迎えた<br />
そのあさの『心』に、河南も応える<br />
「ただいま」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
あさは正成が手を繋いだまま、河南を抱き締めた<br />
「すっかり冷えちゃって、もう。早く屋敷に上がりなさい」<br />
「はい」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
素直に応える河南が、どうしようもなく愛しく感じた<br />
<br />
親を殺された少女は、親を殺した男の手で育てられることになった<br />
この時代でも、稀なことだった<br />
少女を生かしたのは『想い』なのか、『願い』なのか<br />
それとも、『祈り』だったのか、誰にもわからない<br />
ただ、若き日の正成の隣に、河南と言う少女が居たことだけは、確かだった]]> 
    </content>
    <author>
            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <id>ryouran.blog.shinobi.jp://entry/319</id>
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    <published>2011-01-27T20:24:47+09:00</published> 
    <updated>2011-01-27T20:24:47+09:00</updated> 
    <category term="帰 蝶" label="帰 蝶" />
    <title>85.　小牧山へ</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[朝餉、昼餉、夕餉と、なつはその時刻が来るのが楽しみだった<br />
帰蝶と揃いの茶碗を使うのが嬉しくて、仕方がないのだろうか<br />
他の城と違ってこの織田家は、和気藹々と局処が花盛る<br />
一人で食事を済ませることもあれば、何人か集まって食すこともある<br />
今は腹の膨れつつある巴を囲んで食事をするのが流行っているらしく、昼になると自然と巴の部屋に女が集まった<br />
と言っても、ここのところその部屋にお能の姿はないが<br />
本丸勤めの菊子も当然居ないものだが、代わりに『清洲のお日様』と喩えられるようになった市弥が居れば、その場は華やかな雰囲気に包まれる<br />
この日も巴の部屋に何人かの女達の食事が運ばれ、巴が中央に座って待っていた<br />
「いらっしゃいませ、おなつ様」<br />
「あら、私が最初ですか？」<br />
「もうぼちぼち、みなさん集まられると想います」<br />
「そうですか」<br />
なつはにっこり微笑みながら、与えられた自分の席に腰を下ろした<br />
少し斜めに見る巴のお腹が、ほんのりふっくらと膨れている<br />
『帰蝶の子』は生涯、帰命一人だと想っていた<br />
巴の産む子も、名目上は『信長』の子であり、即ち、『帰蝶の子』にもなる<br />
理由も結論も聞かされたが、なつにはなんとなく納得し切れない『気持ち』と言うものがあった<br />
それでも、帰蝶が決めたことなのだから異論など出せる筈がない<br />
『愛する人の子』を、そうではない人間の子として産み、育てると言うのはどんなものなのだろうか<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
『もしも』帰蝶が男だったなら、自分は帰蝶の子を産みたいと願うだろうか<br />
そんなことを不意に想い描いてしまい、なつは自分が耳まで熱くなるのを自覚した<br />
「おなつ様？如何なさいました？」<br />
「あ・・・、いえ」<br />
なんでもないと、なつは慌てて首を振る<br />
「そう言えばおなつ様、以前よりも食が太くなられましたね」<br />
「え？そうですか？米が美味しいく感じるからでしょうか」<br />
さり気なく話題を変えてくれる、巴の気の利くところは大好きだ<br />
帰蝶にはない聡明さが滲み出ている<br />
それを想えば、巴のお腹も愛せるような気になった<br />
「お茶碗が変わってからではありませんか？」<br />
「そんなつもりはないのですが」<br />
と、わかっていながら笑い出す<br />
「殿の、お見立てなのだそうですね。伺いました」<br />
「あら、お恥ずかしい・・・」<br />
実は、殿と夫婦茶碗なんです、などと自慢げに言ってやろうかと思い立つ<br />
そのなつに、巴は自分の茶碗を持ち上げて、見せびらかす<br />
「実は、私も」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
目の前に、自分と全く同じ柄の茶碗がある<br />
なつはぽかんとした<br />
「殿が、誂えてくださったんです」<br />
「はあ・・・」<br />
「おなつ様がこの頃よくお食べになられると聞いたらしく、だったら同じ茶碗なら巴の食も進むだろう、と」<br />
「はあ・・・」<br />
「大方様も、同じ茶碗を」<br />
「え？」<br />
慌てて腰を屈め、市弥が座るであろう膳を見詰める<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
確かに、同じ茶碗が置かれていた<br />
「殿のお気遣いに感謝しながら、毎日米を食べております。そうすると、なんだか元気になれるような気がいたします」<br />
と、若い娘らしく瑞々しい微笑を浮かべる<br />
なつは、箸をばっきりと折りたい気分に駆られた<br />
「それはようございましたね」<br />
引き攣った顔で笑顔を浮かべるので精一杯だ<br />
後から市弥が入って来たことには気付かなかった<br />
<br />
「殿ー！」<br />
昼餉の済ませた帰蝶の私室前の庭に、利家が駆け込む<br />
「どうした、犬千代。何かあったか？」<br />
「ええとですね、これから市中の見回りに行きたいんですが」<br />
「夕べの今日で疲れているだろうが、励んでくれ」<br />
「それでですね、見回りの最中に昼を食べようかと想ってるんですけど」<br />
「おまつは弁当を持たせてくれんかったのか？」<br />
「それが二番目が腹ん中に居るもんで、今、悪阻の最中でしてね」<br />
「食べ物の匂いに弱い時期に入ったのか」<br />
「それで、食堂に入りたいんですけど」<br />
「一々私の許可などいらんだろ？お前の入りたい店に入ればいい」<br />
「そうじゃなくて」<br />
「さっきから『そ』で始まる会話ばかりだな。先に進まん、さっさと話せ」<br />
「だから夕べ、殿に立て替えた『花代』を返してもらわないと、昼が食えんのです」<br />
「花代？」<br />
キョトンとした帰蝶の表情に、イラッとした口調で応えた<br />
「女です」<br />
「ああ、そうか。そうだったな。それで？」<br />
しらっとする帰蝶に、頭の血管が切れそうになる<br />
「立て替えた代金を返してください」<br />
「ああ、確かに後で支払うとは言ったが、昨日の今日で早速請求か。お前は図体に合わず、随分と『ちっちゃい』男だな」<br />
「何で知ってるんですか？！」<br />
帰蝶の言葉を受け、利家は顔を真っ赤にして股間を掴むように押さえ隠した<br />
その行動の意味がわからず、帰蝶は首を傾げて続ける<br />
「なら、請求書を起こしておまつに持たせると良い。おまつは結婚前は前田の財布の管理を習っていたのだろう？請求書の起こし方も知っている筈だ。吉兵衛には言っておくから、いつでも取りに来いと伝えておけ。私も、久しぶりにおまつの顔が見たい」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 女代をおまつに取りに来させるんですか？あんた、鬼ですか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
利家の言葉が『全く理解できない』帰蝶であった<br />
その帰蝶の部屋になつがやって来る<br />
<br />
「お七の処遇ですが」<br />
と、開口一番そう言いのける<br />
「お能はなんと言っている？さっき顔を合わせたが、結局また泣いてしまってな、何も聞き出せなかった」<br />
「仕方ないでしょう？女心は複雑なんです。頭ではわかっていても、心は納得できないものです。例え、お能が自分から出した提案だとしても、それが現実になると『理解』と『納得』が不合意するものです」<br />
「そう言うものか」<br />
『女心』の理解できない帰蝶には、なつの言ったことは然程飲み込めない<br />
それでもわかった振りをしなくてはならなかった<br />
「それで、お七をどこの部署に配属する気だ？」<br />
「その件についてですが、お能と話し合いまして、しばらくは『客分』として扱うことにしました」<br />
「どうしてだ」<br />
「殿はお七の体を見ましたか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
わからず、帰蝶はキョトンと目を丸くする<br />
「見た目は、そうですね、顔の肉付きはそれほどでもないでしょうが、首から下は骨と皮だけです」<br />
「え？」<br />
なつの言葉に首を傾げる<br />
「確かに貧相な顔立ちではあるが、そこまで」<br />
「殿。お七に話を聞きましたか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
私生活については何も聞いておらず、帰蝶は黙って首を振った<br />
「これまでの生活、お七は食べるものも全て、子供達に分け与えていたそうです」<br />
「え・・・？」<br />
確かに「子供達にはひもじい想いをさせたことはない」とは聞かされていたが、そこまで及んでいるとは考えもしなかった<br />
「自分の食べるものも、腹を空かせた子供二人に与え、自分はいつも汁だけだったとか」<br />
「そんなことが・・・」<br />
「それでも、ああやってしっかり足を踏み締めているんです。相当の気力を持った女なのでしょうね。それ自体は賞賛に値するとは想いますが、如何せんあのようなみすぼらしい風体をしていては、局処の女達が怯えます」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 確かに」<br />
帰蝶は小さく呟いた<br />
今のお七には、局処で働くよりも柳の下で佇んでいる方がお似合いだろう<br />
「それで一ヶ月は客として扱い、その間に充分滋養を摂ってもらい、多少なりとも肉付きが良くなったところでと、話が一致しました」<br />
「そうか、わかった。お七の滋養が足りてないことまでは、頭になかった」<br />
「ええ。織田も、殿がお輿入れされるまで食事は慣例どおり一日二食でしたから、朝餉が出て驚いてましたけど」<br />
「三食は食わんと、一日持たなかったからな」<br />
「山を駆け回るのに、でしょう？堀田様にお伺いしました。他の者はみな、通例どおりの一日二食に対し、殿だけは朝昼晩、しっかり食べていたと」<br />
「だから、こんなに立派に育ったんだっ」<br />
自分は決して大食いの類ではないことが言いたくて、両腕を広げて胸を張る<br />
「育ち過ぎです。そんな大女、目立って仕方がないでしょう？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
きつい一言に、消沈するが<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お能は、何故、傷付くとわかっていながら、自らお七を引き取ったのでしょうね」<br />
なつはそう、ぽつりと呟いた<br />
「一悶着程度で済めばいいのですが」<br />
「だからこそ、平三郎はお能を愛したのだ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> え？」<br />
ほんの少し、声の低くなる帰蝶に、なつは目を丸くして見詰めた<br />
「感情論だけを取れば、お七親子など放っておけばよかった。それでも、放っておけなかった。平三郎が自分に託した想いを、お能は必死に遂げようとしている。自分の心に嘘を吐いてまで。だから、私もそれを支援したかった」<br />
「殿・・・」<br />
自身が夫から夢を託されたからだろうか<br />
だから、お能の気持ちがわかるのか<br />
戸惑いながらも、その『想い』を叶えてやりたいと願う、お能の気持ちがわかるのか<br />
どことなく懐かしんだような顔をしている帰蝶を見詰めながら、そんなことを考えた<br />
「もしもそれが吉法師様だったなら、お七親子共々、八つ裂きにしているがな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
できもしないくせにと、なつは苦笑いする<br />
「それはそうと、いいところへ来た」<br />
「はい、なんでしょう」<br />
話を変える帰蝶の言葉に、背筋をしゃんと伸ばした<br />
「今、三十郎が五郎左と組んで小牧山の砦を改築している」<br />
「ええ、伺っております。何でも、住居に立て替えるのだとか。それでいて砦としての機能も拡大させるそうで、随分と予算が掛かると吉兵衛が苦虫を噛んでおりました」<br />
「私を気遣っての改築だろうが、そうなると一時的に小牧山に移ろうかと想っている」<br />
「小牧山にですか？まさか」<br />
「いや、本拠まで移すつもりはない。織田の本拠はあくまでこの清洲だ。美濃攻めの間だけは、小牧から出陣した方が早い」<br />
「そうですね。背後に土田、金森、遠山が居れば後顧の憂いも少ない。おまけに、犬山への監視も行える。一石二鳥と言うところでしょうか」<br />
「そんなところか」<br />
「まさかとは想いますが、お能とお七のことを予見して、厄介ごとに巻き込まれ面倒なことになる前に回避しようとか言うお考えでは？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 小牧山に菊子を連れて行きたかったのだがな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
逃げたな、と、なつは心の中で想った<br />
「菊子も今ではすっかり帰命の乳母として、貫禄が板に付いて来た。それに、小牧山に帰命を連れて行くわけにもいかん。かと言って、懐いている菊子を連れて行けば、帰命が駄々を捏ね、義母上がお困りになられるだろうしな」<br />
「若様も、菊子の言葉にはよく従うようで」<br />
「全く。父親に似て、親の言うことを全く聞こうとせん」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
では、殿は如何だったのですか？と聞きたくなる<br />
どちらかと言うと、父親の信長よりも、母親の帰蝶に似た傾向があるように想えて仕方のないなつであった<br />
特に、年端もいかぬ内に口が回るところや、大人も絶句するような言い訳の上手さには定評がある<br />
「だからとしても、お能を連れて行くことも困難だしな」<br />
「当然です。局処はお能が全て取り仕切っているのですから、これから出産を控えようかと言う巴の方に負担が行ってしまいますし、土田の窓口になられている大方様に分担させるわけにも参りません」<br />
「そこで考えたのだが、局処でもこの頃暇を持て余している者が居ると聞いてな」<br />
「まあ、そんな好都合な人間が居たのですか？」<br />
「ああ、偶然な。局処はお能と吉兵衛が居れば、困ることもそうないだろう」<br />
「そうですね。でも、その『暇を持て余している人物』とは？」<br />
「なつ、一緒に参れ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 私のことだったのですね」<br />
『一緒に来い』と誘われるのは嬉しいが、余計な一言が邪魔をして素直に喜べない<br />
<br />
十月に入り、帰蝶と共に小牧山に出向く人事が発表された<br />
黒母衣衆筆頭の秀隆は勿論のこと、勝家、可成、成政、勝家にくっついて利家、実家が近いと言うことで佐治も池田隊から離れて随行することになり、小牧山砦の普請に携わった長秀、三十郎信良も同行する<br />
清洲の護衛として残ることになった信盛は論外として、それ以外は加納砦と墨俣砦に分散されることになったのだが、長く佐治と組んでいる藤吉が離れて行動するのは嫌だと申し出、子供のように駄々を捏ねるものだからさすがの帰蝶もそれに折れた<br />
大垣調略でも成果を挙げた二人だからこそ、要求を呑んだだけなのだが<br />
その藤吉から、この夏、武家長屋で付き合っていた女と祝言を挙げたと聞かされ、馴染みの浅い家臣とは言え、人の幸せは素直に喜びたいと、そう想っていたところに義母の訪問を受ける<br />
「美濃攻めを前提にしても、側には犬山の城が聳える。上総介、万が一にも三つ巴の戦いにならないとも限りません。どうか、充分に注意を」<br />
開口一番、市弥は真剣な目をして帰蝶の身を案じた<br />
「義母上、出発は来年の年明けです。今から心配なされていては、心が持ちませんぞ」<br />
義母の目を、笑いながら見詰め返す<br />
「わかっているわ。だけどお前は、『血気盛ん』なお年頃だから、なつには『きっちり』監視するようにと言付けてあります。お前は余計なことを考えず、存分に励みなさい」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ご配慮賜り・・・」<br />
単に気が短いと嫌味を言われ、眉間に皺が寄る<br />
都合に合わせてなつを同行させることにしたことが、まさか『監視役』となるなど露にも想わない<br />
自分の裏を掻く市弥に、帰蝶は内心舌打ちをした<br />
<br />
「え？結婚？」<br />
小牧山に出向の決まった佐治が、同じく小牧山配属の決まった藤吉からその話を聞かされた<br />
「いつですか？」<br />
「先々月ね」<br />
少し照れ臭そうに藤吉は応えた<br />
「どうして言ってくれなかったんですか、水臭いじゃないですか」<br />
「すまん、すまん。丁度佐治さんが市橋との談合で忙しかった時期だったしね、話しそびれちゃって」<br />
「そうだったんですか。私もどたばたと美濃と尾張を往復していて、藤吉さんが来たり来なかったり気にはなっていたんですが、中々暇が持てなくてうっかりしていました。事前に伺っていたら、お祝いでもお贈りさせていただいたんですが」<br />
「そんなそんな、気を遣わないでくださいよ」<br />
藤吉は笑いながら両手を振った<br />
「結婚ったって、武家長屋で小さな祝言を挙げただけ。おまけに、女房の実家からは結婚を反対されててね、それを押し切ってやっちゃったもんだから、あんまりおおっぴらにもできなかったし」<br />
「そうですか。奥方様は確か、浅野家の家臣の木下様でしたか」<br />
「ええ。私との結婚を妨害しようと、女房をあちこちに養女にやって、最後には仕えてる浅野家の養女にしやがりましたけど、そんなのこっちには関係ありませんからね。養女とは言え浅野家の娘を雑兵にやるなど以ての外、なーんて嫌味言われましたけど、そんなの出世しちゃえば問題ありませんもん」<br />
前途多難な新婚生活を送っているにも関わらず、藤吉は極めて明るい顔をして言ってのける<br />
その陽気さは、今の佐治には羨ましかった<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 佐治だけ？」<br />
辞令を妻の市に伝えた時の、あの嫌そうな顔は一生忘れられない<br />
小牧山の砦周辺に屋敷を建て並べ、そこに連れ添う家臣らの家族を迎える準備は着々と進行しているのだが、身重の市はそれから除外された<br />
安定期に差し掛かっているとは言え、若年での初産である<br />
移動中にもしものことがあっては一大事と、市弥の猛反対に遭い、佐治は泣く泣く市を置いていくことにしたのだが、それを伝えようと説明した時の、市の歪んだ顔は中々に強烈だった<br />
それを想い出し気落ちする傍ら、明るい藤吉の表情が心底羨ましく感じられた<br />
どんな困難があっても、常に前向きで居られるその性格は真似しようとしても中々できない<br />
生まれ持った性質がそうさせているのだから、生真面目な佐治には無理難題以外の何物でもなかった<br />
<br />
「へえ、そうですか。佐治さんとこは、奥さんはお留守番で」<br />
「動かすわけにはいかないもので」<br />
「そうですよねぇ。出産を控えた身なら、中々遠出は無理でしょう」<br />
事情を説明すると、藤吉は親身になって聞いてくれた<br />
佐治と藤吉の実際年齢は八つほど離れている<br />
当然、藤吉の方が年上なのだが、それでも自分を年下の若造と舐めて掛かるような態度はこれまで、一度も取ったことがない<br />
自分より少し後ろに下がって、背中をそっと押してくれるようなその物腰の柔らかさは、佐治を和ませてくれていた<br />
今ではありがたい存在となっている<br />
「それで、嫌味を言われてしまって」<br />
「へえ？、なんて？」<br />
「『どこへなりとも行け』、と」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ははは！」<br />
聞いた途端、藤吉は口を大きく開けて笑い出す<br />
普段からニコニコしている所為か、藤吉はまだ三十にもなっていないのに、顔中『笑い皺』だらけだ<br />
その皺が深く刻まれ、高い声を出して笑うものだから、見ているこちらも可笑しくなって来る<br />
「あの『クソ生意気そうな小娘』だったら、言いそうなことで」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
たまに莫迦正直になるところは、中々馴れないが<br />
以前は隣同士だったからか、織田家の娘であることまでは知らないとしても、一応藤吉は市のことを知っている<br />
その時感じた印象が今も抜け切れないのか、藤吉の市への『見た目』と言うのは決して良くはなかった<br />
確かに、『市をよくわかっていない人間』にとっては、クソ生意気な小娘かも知れない<br />
そう想うと、妻には悪いと心の中で詫びながらも、否定することは差し控えるに留まった<br />
「そうかぁ。佐治さんも、父親になるのかぁ」<br />
「藤吉さんもご結婚なされたのですから、直ぐにできますよ」<br />
「だと嬉しいなぁ」<br />
「武家長屋を引っ越してからは、藤吉さんとも仕事でしか顔を合わせられなくて、お互いの様子を伺うこともありませんでしたしね」<br />
「ああ、そうだった。佐治さん、池田隊に正式入隊してから間もなく長屋を出て行ってしまったんですものね。その後入って来たのと言えば、佐治さんとは正反対の喧しい男で」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その『後釜』が利家であることを知っている佐治は、なんとも返答できず困った顔を笑うように歪ませた<br />
「なんでも、前は西側の長屋に居たそうなんだけど、日当たりが悪いからって移って来ましてね」<br />
「そうですか」<br />
「聞けば柴田様のところの、前田家の次男だとか？佐治さん、ご存知ですか？」<br />
「さ、さあ、誰のことやらさっぱり」<br />
と、誤魔化そうとしているところへ、見回りに行こうとしていた利家が通り掛かる<br />
「よう！佐治！元気か？！俺はこれから外回り行って来るさ！」<br />
「は・・・、はあ・・・」<br />
「じゃあな！殿におやつ残しててくれって、言っといてくれよな！頼んだぞ！」<br />
と、大きく手を振る利家を見送る<br />
「佐治さん、あの男ですよ、隣の住人」<br />
「そうですか」<br />
「お知り合いだったんですね」<br />
「どうも、そのようで・・・」<br />
<br />
「言ってくだされば良かったのに。よく考えれば、佐治さんは織田の家臣。あの人も織田の家臣なんだから、顔くらい見知ってますよね」<br />
「はあ・・・」<br />
実はよくご存知ですと説明すれば、藤吉は悪びれた様子もなく笑い飛ばし、挙句の果てには呆れたような顔をして説教を食らわせる<br />
付き合っていて、どうにも飽きない男であった<br />
「まあ、お近付きになれば俺にも出世の道が開けるってもんです」<br />
「殿はそれだけで人好きしませんけどね」<br />
「そうそう、その織田のお殿様。俺もたまにお顔を拝見しますけど、随分お綺麗な方ですよね。武家の男ってのはみんな、あんな女みたいな顔してるんですかね。いや、蜂須賀様だけを見ていたらそうでもないような気もしますけど、斬り込み隊の隊長は女顔ですし、黒母衣衆の筆頭も武人にしておくには勿体ない美形ですけど。ああ、佐治さんもお綺麗で」<br />
「どうも・・・」<br />
取って付けたような誉め言葉に、佐治の頭から汗が流れる<br />
「あんな綺麗な顔して、この先やってけるんですかね」<br />
「え？」<br />
「ほら、よく言うでしょ。『綺麗な顔して』って。綺麗な顔しておっかない人ってたまに居ますからね。織田のお殿様だって、ご自分の奥方のご実家を攻めてらっしゃるわけだし、妹の嫁ぎ先まで手に掛けようとしてる。その内自分の周りが敵だらけになっちまう」<br />
「そうですね・・・」<br />
藤吉の言っていることは、いつか現実になるかも知れない<br />
そうならないかも知れない<br />
佐治にはどちらとも取れず、そう応えるしかなかった<br />
<br />
「お帰り」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ただいま」<br />
少し疲れた顔に、無理をして微笑む<br />
目の前の妻・市に心配を掛けさせたくなくて<br />
ただ、それだけで<br />
僅かに目を落とせば、膨れている腹が見える<br />
そこに自分の子が居る<br />
なんだか不思議な気持ちになった<br />
「今日はどうだった？」<br />
そっと、腹を労わる言葉を掛ける<br />
「うん、かなり動いてた」<br />
市も静かな口調で応えた<br />
「私のお腹、足で蹴っ飛ばしたのよ？」<br />
「もうそんな活発に動くようになったのか」<br />
「母様は、お腹の形を見て男の子じゃないかって、言ってる」<br />
「大方様が来られてたのか？」<br />
「ううん、今日じゃないけど。この間」<br />
「そうか」<br />
「今は佐治も忙しいし、局処の方も人事異動があったから、母様もお城から出られないみたい。土田とも交信してるし」<br />
「そうだな」<br />
腰を上げ、撫でるように市の腹に触れる<br />
「男の子か」<br />
「そうしたら、佐治の跡取りができるね」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そう言って、にっこり微笑む市が眩しく感じた<br />
破瓜を割り、女になり、子を宿しても、市はなんだかまだ穢れのない少女のままのような気がして<br />
無邪気に笑う幼い頃を想い出し、これもまた佐治を不思議な気分にさせた<br />
「うん、そうだな・・・」<br />
感慨深いものがあり、それ以上の言葉が掛けられない<br />
「もう安定期に入ってるし、さちを見舞いに行ってもいい？」<br />
夫の後ろから廊下を歩き、佐治の背中に声を掛ける<br />
「さち、まだ床から離れられないのか？」<br />
「最近は起きることはできるようになったけど、まだ立ち歩くことは無理みたい。子供を産んで随分になるのに、元気なさちにしては産褥が長いって、母様も心配されてるの」<br />
「そうだな、さちは局処の人気者だったからな、みんな心配してるだろ」<br />
「行ってもいい？」<br />
「ああ、無理をしない程度にな。向こうは弥三郎さんのお屋敷だし、母親のやえさんも着いてるから大丈夫だとは想うんだけど」<br />
初め、よそよそしい言葉しか掛けられなかったのが、いつの間にか夫婦らしい会話ができるようになっていた<br />
それも佐治にとっては不思議なことだった<br />
市を娶ってから、佐治は毎日不思議な気分に浸っている<br />
どうにも馴れない<br />
「私は、いつ、小牧山に行けばいいの？」<br />
居間に入り、佐治の少しずれた横に並んで座る<br />
市が自分をじっと見詰めているのが雰囲気で伝わって来た<br />
「私が小牧山に行くのは、暮頃だから、市はそれから少し後かな」<br />
「一緒に行けないのね」<br />
「それは以前に、ちゃんと説明しただろう？今は動かせないし、何より、小牧山に行く頃には、市は臨月に入ってるかも知れないじゃないか」<br />
「そうだけど」<br />
今年で十五になった市だが、体付きはまだまだ子供だった<br />
その、若干小さな体で子を宿した姿は普通の妊娠期よりも腹が膨れて見え、医者の見立てでは、子が出て来るのは今年の終わりか新年早々だろうと診断されている<br />
正にそんな時期に小牧山の砦に移動するのだから、連れて行けるはずもない<br />
増してや<br />
「あの、元気だったさちでさえ、初産で弱ってるんだ。大方様のご心配も頷ける」<br />
結婚前は一人で那古野まで行っていたさちが、子を産んだ途端床に伏せがちになっている事実に、然しもの市も口答えができなかった<br />
「わかってるけど、でも、これ以上佐治と離れ離れはいや・・・」<br />
「無理をしたら、それこそ元も子もなくなってしまう。少しだけ辛抱すれば、また逢えるから」<br />
そう言って、佐治は宥めるように市の頭を撫でた<br />
その手を払い除け、市は佐治の胸に凭れ掛かる<br />
「ほんの少し？」<br />
佐治の小袖の襟を掴み、胸元で呟く<br />
「少し我慢すればまた、佐治と一緒に居られる？」<br />
「ああ。そのために、少しだけ我慢するんだ。ほんの少し、ほんの少し。つらいことを我慢した先には、きっと、楽しいことが待ってるぞ？」<br />
「楽しいこと？」<br />
「いつ、市が来ても大丈夫なように、屋敷をきちんとしておくな。子供も育てやすいよう、工夫しておく」<br />
「本当？」<br />
「ああ、本当だとも。私を誰だと想ってるんだ？織田では丹羽様の次に『普請の天才』と呼ばれてるんだぞ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 初耳」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> っく・・・」<br />
市の真顔で突っ込む様に、佐治も苦笑いする<br />
「まあ、『一部』で有名なだけだけどね」<br />
「それって、『知る人ぞ知る』ってこと？」<br />
「そうだな。<s>　　　　　　　　　</s> 知らない人は知らない、ってことか」<br />
「ふふふっ」<br />
自分で言って呆然とする佐治に、下から見上げている市はその表情が可笑しくて、吹き出す<br />
<br />
佐治が欲しいと駄々を捏ねたあの頃が、まるで遠い昔のように想えた<br />
<br />
朝倉家に正式に仕官することになり、今日はその朝倉家に仲介してくれる、しきの親類と落ち合うことになり、再びしきの寺を訪れる<br />
「明智様！」<br />
寺の前で十二～三の少女が自分に手を振った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 綾乃様」<br />
その娘は、これから自分が世話になる越前斎藤の愛娘である<br />
しきにとっては従兄妹の子で、従姪に当たる<br />
朗らかで明るく、活発な少女であった<br />
どこか帰蝶を想い出させるような<br />
「三宅様、今日は」<br />
「今日は」<br />
光秀の従者である弥平次にまできちんと辞儀ができるのだから、帰蝶にはない配慮である<br />
「お出迎え、ありがとうございます」<br />
「いいえ。ご機嫌如何ですか？」<br />
帰蝶と違うところは、目上の人間をきちんと敬えるところか<br />
「ええ、麗しいほどに」<br />
「それはようございました」<br />
「ところで、綾乃様は如何してこちらに？」<br />
綾乃の実家はこの近くにあり、時折煕子を見舞ってくれていることは知っていた<br />
なので、光秀にとっても顔見知りではあるのだが、今日、ここに綾乃が居ると言うことは、父親にくっついてやって来たのだろうか<br />
単純にそう想っていた<br />
「だって、明智様は明日から朝倉家の門を潜るのでしょう？」<br />
「ええ、そうですが」<br />
「私もですから」<br />
「え？」<br />
綾乃の言葉に、光秀も弥平次もキョトンと目を丸くした<br />
<br />
「このしき殿と私の父は兄弟でして、しき殿は兄上の子、私はその弟の子であります」<br />
綾乃の父・斎藤利宗は名が現すように、れっきとした美濃斎藤の流れを汲む家筋の生まれである<br />
正しくはしきの従兄妹に相応する<br />
「父同士は異腹の関係ではありますが、同時に乳兄弟でもあり、同じ女性を乳母として育ちました。故に実の兄弟とも言える間柄で、兄の危機は弟の危機、弟の危機は兄の危機と、互いを支え合って育ち、弟は兄の役に立とうと、こうして越前までやって来て」<br />
越前を中心として、斎藤家は日本海沿いに広く分散している<br />
『藤原家』から派生した『斎藤』の本家は東北にあり、利三の『斎藤』は『美濃斎藤』の嫡流なだけで、斎藤家の宗家ではない<br />
越前斎藤も然りでその内の一つではあるが、そもそも利宗は美濃の出身であった<br />
しかし、越前斎藤に跡取りがないことと、次男であったことが重なり、利宗の父が越前斎藤家の嫡養子として入り、現在に至る<br />
「父の代で越前斎藤の家禄を受け継ぎ、今日まで至る次第でございます。その辺りのことは、既に聞き及びか？」<br />
「は、はい」<br />
仲介したのは、『越前蜷川家』であった<br />
蜷川は、今も斎藤に留まる利三の母の出身<br />
名門中の名門であり、嘗ては幕府相伴衆にも数えられ、その力は朝倉家を凌駕するほどの勢力で、近隣諸国にも少なからずとも影響力は及ぶ<br />
故に、利三の家が蜷川家の干渉を受けても、拒絶できない立場にあった<br />
蜷川家が斎藤に内政干渉するのにも、やはりこのしきの存在が多少なりとも影響する<br />
こんなところで、利三としきの関係が浮き彫りになるのだから<br />
光秀は越前斎藤、如いてはその後ろ盾とも言える蜷川家の恩恵をも受ける計算だった<br />
「しき殿が美濃に留まり、明智家に輿入れし、美濃斎藤と外戚関係にまで発展し、更には」<br />
「兵九郎、もういいでしょう？」<br />
しきは聊かうんざりした顔をして止めた<br />
光秀が座敷に入るなり、延々と家系を説いているのだから<br />
「爪先が痺れて来たわ」<br />
「何を言うか、しき殿。我ら、子供の頃こそ互いの顔も見知りはしなかったが、こうして時を経て巡り会い、再び同じ血を通わせられるようになったと言うのに、これだからおなごは嫁いだ先の家しか考えん薄情者で困る」<br />
「まあ、私がいつ、斎藤のことを考えなかったと？」<br />
利宗の言葉に、しきの目が釣り上がるのを、光秀も弥平次もハラハラして見守った<br />
利宗はしきの、明智家での暮らしを知らない<br />
『美濃一のじゃじゃ馬』と称された帰蝶と、ほぼ『互角』に戦っていたのだから<br />
「今の言葉を聞きましたか、十兵衛、弥平次、綾乃。私は非常に悲しい想いをしております。長山でのあの光景を、今ここで、兵九郎に見せてあげたい気分です。私がどれだけ苦労していたか、斎藤の名を汚さぬよう、日々戦っていたことも何も知りはしない。なのに、この言い草はどうでしょう！」<br />
「ま・・・、まあ、まあ、義叔母上様」<br />
「頑張りが足りんのではありませぬか？明智は一家離散の憂き目を見、斎藤も今は尾張の織田に攻め込まれておる。その斎藤も、嫡流が枝葉のような存在に成り下がってしまった。美濃で一体、何が起きたと言うのです」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
利宗の疑問は、成る程のものだった<br />
応えられるものなら、答えたい<br />
だが、光秀もしきも、応えられなかった<br />
当事者である二人にも、何故、『それ』が起きたのか、理解できないのだから<br />
しきを宥めようと中腰立った光秀の手が、空しく宙を泳ぐ<br />
部外者の綾乃だけが、キョトンとした顔をしていた<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そうですか、綾乃殿は奥室の」<br />
「はい。花嫁修業として、朝倉様の奥方様の許で見習い奉公をすることになりまして」<br />
気分転換のつもりで煕子を誘い、四人で中庭に出る<br />
「それで、共にと仰っていたのですね」<br />
「何れどなたの妻になるのか私にはわかりませんが、家の恥にならぬよう今から身に着けるべきことは身に着けようかと」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> っ」<br />
綾乃の言葉に、光秀は想わず吹き出した<br />
「あら、私、何かおかしなことを申しましたでしょうか」<br />
「いえ・・・」<br />
慌てて取り繕うとするも、おかしさに笑い出した喉は、中々元には戻らない<br />
「あの・・・」<br />
「違うのですよ、綾乃様」<br />
そっと、煕子が間に入った<br />
「旦那様は、きっと、斎藤の姫様のことを想い出したのだと存じます」<br />
「え？」<br />
「あ、私もそうです」<br />
と、弥平次も小さく挙手した<br />
「斎藤の姫様・・・」<br />
「ええ。何事にも自由で、束縛を嫌う姫君でした。しき様とも、何度も衝突したり、だけど、それでも決して心折れぬ強い意志の持ち主で、女ながら頼もしいお方でした」<br />
「まあ、そのような方が」<br />
「明るく元気で朗らかで、凡そ悩み事などないかのように見えて、その実、誰よりも思慮深く、いつも時代を見詰めて愁いておられました。綾乃様はどことなく、その姫君様に雰囲気が似てらっしゃるのです。なのに考え方が真逆なものだから、きっと、それがおかしくて、旦那様は笑ったのではございませんでしょうか」<br />
「・・・ええ」<br />
笑いを抑え、漸く口を開く<br />
「綾乃様、大変失礼いたしました」<br />
「いいえ」<br />
「人は絶望すると、強大な力に頼ろうとする。今の私が正にそれに当て嵌まり、心の中で縋っているのです。嘗ての、小さな姫君に。今も・・・」<br />
「明智様・・・」<br />
「そうあってはならないと、自力での回帰を願い、こうして朝倉家に仕官へ、そう言った次第でございます」<br />
「そうですか、明智様はそのようなお考えで」<br />
柔らかな、春の日差しにも似た暖かな微笑を浮かべ、綾乃は光秀に言った<br />
「明智様の願いが、一日でも早く叶うとよろしいですね」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
まるで、それは、まるで、帰蝶が微笑んでいるかのような<br />
そんな錯覚を感じた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ええ。・・・ありがとうございます」<br />
光秀の礼に綾乃は「いいえ」とでも言いたげに、そっと辞儀をする<br />
思い遣りに溢れた優しいお方だなと弥平次は、綾乃を見詰めた<br />
<br />
人肌恋しい想いは時々強くなり、側に居てもその温もりを求め、安定期に入ってからは腹を庇いながら躰を重ねることも屡だった<br />
その度に佐治は断りを入れるも、市が欲しがって仕方ない<br />
夫婦の契りを結んだ後も、市とてそう強請ることはしなかったが、妊娠し、腹が膨れると徐々に性欲が強くなって行った<br />
女の経験も豊富ではない佐治なので、誰に相談すればいいのかもわからず、市の強請るまま床で抱く<br />
腹を庇うものだから、自然と市が四つん這いでの姿勢になった<br />
腰を突き動かしながら、腹の子は大丈夫だろうかと考えると、中々絶頂を迎えられない<br />
それが『じらし』となって、市を熱くさせた<br />
想わぬ方向で妻を満足させていることを、佐治だけが知らなかった<br />
それでも、やがては限界を迎える<br />
小さく呻きながら、佐治の精が放出された<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> あぁ・・・ッ！」<br />
深い場所で夫の熱い精を受け、市も絶頂を迎える<br />
体の力が抜け、糸が解けるかのように肩から崩れる市を、腹がぶつからないようにと、背後から佐治が支えてそっと横たわらせた<br />
重い腹を片腕で抱えながら身を捩じらせ、市は佐治の方へ躰を向ける<br />
満足そうな微笑を浮かべながら<br />
その微笑みを受け、佐治も身を崩す<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 幸せ・・・」<br />
佐治にくっつき、胸元で呟く<br />
「ああ・・・。私もだ・・・」<br />
脱力した倦怠感に襲われながら、佐治も呟いた<br />
「こうして一緒に居られること、許してくれた姉様には、感謝しても足りないの・・・」<br />
「私も、殿にはとても感謝している・・・。士分にまで取り上げてくださって・・・。だから、こうして市と一緒に居られる・・・」<br />
「うん・・・。<s>　　　　　　　　　</s> まだ本当の夫婦って認めてられてないけど、いつかきっと、認めてもらえる。私はそう信じてる」<br />
「ああ。そのためには、私が頑張らなきゃな」<br />
「それだけじゃない。・・・この子ができた時、私、堕ろせって言われると想ってた・・・」<br />
「え？」<br />
佐治は少し驚いて、市の顔を見た<br />
市は佐治を見詰めながら続ける<br />
「私達はまだ、姉様が望む結果を出してない。だから、それまで子供は作っちゃいけないんだって想ってた。でも、違った。姉様は言葉では祝福なんてしてくれてないけれど、母様がこの屋敷に来ることを拒絶してない」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そうだな」<br />
「あのね」<br />
「うん？」<br />
「さっきね、お腹の子、動いたの」<br />
「え？」<br />
佐治の目が丸くなる<br />
まさか、と不安が過ぎり<br />
「お腹蹴っ飛ばして、私達の仲が良いことを、まるで冷やかしてるみたいで、くすぐったかった」<br />
「腹は、大丈夫か？なんともないか？」<br />
少し身を起こし、やや上から市を見下ろし心配する<br />
「うん、なんともない。今は静か」<br />
「そうか、良かった」<br />
「でもね、早く出て来て、父上と母上の顔が見たい、って、言ってるみたいな感じ。私も、早くこの子の顔が見たい」<br />
「私もだよ」<br />
「うん」<br />
夫婦なら<br />
愛し合う二人なら、この幸せは当たり前のことであり、いつまでも続くものだと信じて疑わない<br />
いつまでも続いて『当たり前』だと感じる<br />
それでも、『いつか』は訪れることを、誰も予想しない<br />
帰蝶ですら、予想できなかった<br />
<br />
誰にも『終わり』が遣って来ることを<br />
<br />
信濃での越後上杉と甲斐武田の騒動など忘れたかのように、帰蝶の日常は容赦なく流れる<br />
長秀と信良が組んで普請している小牧山の砦も完成に近付き、秀貞の詰める加納砦も静かで、恒興と正勝が交互に詰めている墨俣砦も今のところ動きは見せなかった<br />
斎藤が何を考えているのか、今の帰蝶にはわからない<br />
考える暇もない<br />
おまけに、妻子を無事奪還した元康からも書状が届く<br />
「年明けに？」<br />
「直ぐとは行かないだろうがな、それでももう一度私に逢って、話がしたいそうだ」<br />
帰蝶となつの会話を、少し離れた場所から右筆の道空が見守る<br />
この頃、なつの訪問が多くなっている<br />
いよいよ小牧山への移動が現実味を帯びて来るからか<br />
帰蝶が動けば犬山も比例して動く<br />
その後のことまでは想像できなかった<br />
また、『局処』の件についても、気掛かりではある<br />
主が不在になりがちになれば、統制する者が居ない場所でどのような騒動が起きるか、これもまた想像できない<br />
今は大事にならなければいいのだがと祈るしかなかった<br />
何より、局処の主でもある帰蝶が、局処の様子に全く関心がないのだから尚更心配だった<br />
<br />
十一月が過ぎ、十二月が遣って来る<br />
帰蝶が動くのはその翌年ではあるが、先に佐治らが小牧山に移動することになった<br />
初めに長秀が部隊を引き連れ、後から来る部隊の受け入れ態勢を整える<br />
信良もそれに連なって移動した<br />
出発を、まるで祝いの門出のように大袈裟に見送る母・市弥に恥ずかしい想いをしながら清洲を出る<br />
早く嫁が欲しいと祈る信良であった<br />
妻を娶れば母から独立できる<br />
単純にそう考えていた<br />
小牧山で出迎えの準備ができると同時に、勝家が動く<br />
利家は妻のまつと子供を連れ、勝家に同行した<br />
生憎、屋敷暮らしのできる身分ではないので、小牧山の麓に設けた武家屋敷での生活となるが、今の長屋よりは部屋も広くなったと長秀からは聞かされており、少し浮かれた様子である<br />
その後、続々と既に発表されている人事で移動が行われた<br />
可成は加納砦のこともあり、弥三郎、秀貞と交代で詰めることになり、妻の恵那はそのまま清洲に残ることになった<br />
父親も預かっており、まだ幼い子供らも居る<br />
清洲で幸丸を産んだ後にも子を産んでいるのだから、尚のことか<br />
ただ、元服間近の傅兵衛は父にくっついて、小牧山に向かうことになった<br />
存外にしっかり者と育ってくれた傅兵衛なので、恵那も幾許かの安心感は持て、心置きなく夫を見送れた<br />
可成と組むことの多い弥三郎を夫に持つ菊子だけは、聞かされた当初どことなく不安な顔をしていたが、小牧山に向かうと言っても出張程度のことであり、どちらかと言うと加納に詰めることの方が長いので、そちらに気が行ってしまう<br />
しかし、今は帰蝶から預かる帰命をしっかり育てること<br />
それが菊子の責任であった<br />
夫のことだけを気に掛けられる立場にはない<br />
商家の生まれとは言え、夫が武士になって長い<br />
菊子にも武家の妻の心構えと言うものを、嫌でも認識せねばならない時期に差し掛かっている<br />
素直に、夫に『寂しい』と言えなかった<br />
<br />
この世に『海』と言う、大きな水溜りがあることを教えてくれたのは、あなたでした<br />
海の色が『青い』ことを教えてくれたのは、あなたでした<br />
この世には嬉しいこと、悲しいこと、切ないこと、悔しいこと、楽しいことがたくさん溢れていることを教えてくれたのは、あなたでした<br />
あなたは、私の全てでした<br />
私に『世界』を教えてくれたのは、あなたでした<br />
私の世界の中心に居るのは、あなたでした<br />
私の世界から消えたのも、あなたでした<br />
あなたは私の心に穴を開け、この世から消えました<br />
だけど、あなたは私に残してくれました<br />
この世の全てと、あの子を<br />
<br />
「帰命を、頼んだぞ」<br />
「はい。お任せください」<br />
頼もしいほどきりりとした目をする菊子を、帰蝶は満足げな顔をして微笑んだ<br />
本丸には資房も居る<br />
必要とあればいつでも局処から市弥が駆け付けてくれるだろうし、貞勝も養子に取った勝丸を本丸の道空の許で学ばせていた<br />
人材には事欠かない<br />
敵が攻めて来ない限り、帰蝶に心配する要素はどこにもなかった<br />
帰蝶が清洲を出る少し前、遂に池田隊二軍を率いる佐治の部隊が小牧山に向けて出発した<br />
副部隊長と言う立場からか、帰蝶からはきちんと屋敷を誂えろと言われている<br />
それは市が世間に恥かしい想いをしないための、帰蝶なりの配慮なのだと感じていた<br />
屋敷の普請は佐治自身が行い、時には恒興もが手伝い、佐治にくっついて行動していた藤吉も協力してくれた<br />
それでもまだ不満足な部分があると時々は小牧山に向かい、改築と増築を繰り返していた<br />
この時ばかりは市も、自分と子供のためにしてくれていることだからと、とやかく言う気にはなれなかったが、いざ砦に向かって出発となると話は違って来る<br />
「それじゃ、行って来るよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> うっ、うっ・・・！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
それまで、幾度となく美濃には入っているのに、比較的近場になる小牧山に行くだけで泣かれると、慰めの言葉も見付けにくい<br />
「奥様、お子が生まれたら、また一緒に暮らせるのですよ」<br />
と、従者である侍女のおえいに背中を擦られ、嗚咽を上げながらも何とか見送ることはできた<br />
見送られる佐治としては、酷く後ろ髪を引かれる想いをするが<br />
<br />
藤吉と、藤吉の新妻である寧と三人で出発する<br />
後ろからは佐治の引き連れる部隊の何人かも着いて来るので、単独での小牧山入りとまでは言わないが<br />
「いつも主人がお世話になっております」<br />
寧は少し肉付きの良い、笑顔の可愛らしい少女だった<br />
「こちらこそ、ご主人にはお世話になりっぱなしです」<br />
「池田様とご一緒させていただくようになってから、殿への覚えもめでたいようで、嬉しい限りです」<br />
「いえ、私の力ではなく、藤吉さんの実力も合わさっておりますから」<br />
佐治からそう言われ、途端に藤吉が低い鼻を天に突き上げる<br />
その様子を見て、寧は背中をバシンと叩いた<br />
まだ少女ながらも、しっかり亭主の手綱を引いているしっかり者のようで、さすがに武家の女は強いなと感じた<br />
寧のお陰で道中は退屈することもなく、佐治は用意していた屋敷に到着した<br />
建てた武家長屋の部屋数が足りず、藤吉はよしとしても、佐治の部隊の何人かの単身者は自分の屋敷で当面の面倒を見ることになっており、先に入っている侍女の出迎えを受け、荷を解く<br />
「お帰りなさいませ」<br />
佐治を受け持ったのは、若い女だった<br />
この小牧で募集したため、馴染みの浅い侍女である<br />
「旦那様、お待ちしておりました」<br />
屋敷の完成と共に一番に入ったのは、清洲の屋敷でも家の管理をしていた左兵衛と言う初老の男で、佐治の許で働いて長い<br />
「左兵衛、留守の間すまなかったな」<br />
「いえ。ところで、奥様はお元気で？」<br />
返答しながら佐治の荷物を受け取る<br />
「ああ。出発前に大泣きしてたくらい元気だ」<br />
「ははは、奥様らしいですなぁ」<br />
「一息吐いたら、砦の丹羽様にご挨拶をして来る」<br />
「それでしたら、お供します」<br />
「いいえ、左兵衛様、わたくしが参ります」<br />
と、隣に居たその女が間に入る<br />
「新しい侍女か？」<br />
「はい、お袖と申します」<br />
「お袖でございます。よろしくお願い致します」<br />
「よろしく」<br />
「お袖はこの近くの村の土豪の娘です。一応の教養は身に付けているようで、採用いたしました」<br />
「そうか。左兵衛の見立てなら期待できるな」<br />
まだ二十代に差し掛かったばかりの若い、美男子な佐治を、お袖は少しばかり熱い眼差しで見詰めた<br />
話を聞けば、実家は相当裕福な家のようで、お袖自身、見栄えの良い女だった<br />
年は今年で十六だと言う<br />
元々女にはあまり感心のない佐治は、特に気にするでもなくそのままお袖を連れ、砦に入っている長秀を訪れた<br />
<br />
やがて帰蝶が小牧山に移動する日も近付く<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
目の前には、怖い顔をした義妹の姿がある<br />
臨月に差し掛かったか、腹が随分と目立つ<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> なんだ。なんの用だ」<br />
「姉様から、仰ってください」<br />
「何をだ」<br />
「これを、佐治に着けるように、と」<br />
「ん？」<br />
市が差し出したのは、焦げ茶色をした地味な面当てだった<br />
「戦に出る時は、これをきちんと着けるように」<br />
「何故だ。佐治は池田隊の先鋒を務める。佐治はその前線に立つのだぞ？面当てなど、邪魔なだけだ」<br />
「佐治のあの綺麗な顔を、敵方の刀や槍でずたずたにされても、姉様は平気なのですか？！」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 私の顔にも、多少なりとも傷はあるがな・・・」<br />
突然怒鳴り出す市に、帰蝶は脱力しながら応えた<br />
顎の下、頬に近い骨の辺りに引っ掻き傷がある<br />
それは信勝を殺した時に付いた傷で、それ以外にも目立ちはしないがじっくり見れば、薄っすらといくつかの傷がその綺麗な顔に刻まれていた<br />
「姉様は良いんです、姉様は」<br />
「おい」<br />
声は低く目が据わる帰蝶を、なつは苦笑いを浮かべて見守った<br />
「これから生まれて来る子が、父親の顔を見て驚き、泣き叫び、あまつさえこんなの父様じゃないと喚き散らしたりしたら、母親として私はどうすればよろしいのですか」<br />
「子供と一緒になって喚き散らす気か？」<br />
「姉様！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
バシン！と畳を叩く市は、これ以上ないほど迫力がある<br />
「私がこれを差し出せば、殿に対して申し訳がないと、佐治はきっと受け取らないと想うのです。だけど姉様からだったら、佐治は文句も言えません」<br />
「と言うことは、一度はそれを手渡したことがあるのだな？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
急に黙り込む市に、なつは「わかりやすいなぁ・・・」と、心の中で呟く<br />
「なんと言っていた」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 邪魔だ・・・と」<br />
「それ言わんことじゃない。佐治とてわかっているではないか」<br />
「でもでもでも！佐治のお顔に傷が入るなんて、嫌なの！嫌なの！嫌なのっ！」<br />
大きな腹をして、未だ子供のように駄々を捏ねる市が、可愛らしく感じる反面、鬱陶しくて仕方ない<br />
「なら、これを手渡せば、お前は静かにできるのだな？」<br />
「手渡すだけじゃ駄目です。ちゃんと着けてもらわなきゃ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
やれやれと、帰蝶は鼻から溜息を零す<br />
それ以上に、市の鼻息も荒かった<br />
なんだかその小さな穴から湯気が、今にも昇りそうで<br />
「それほど心配なのなら、手紙の一枚でも書き宛てたらどうだ」<br />
と、呆れ気味に言う<br />
「私が筆不精なの、姉様だってご存知でしょう？」<br />
市は市でシラッとした顔をして応える<br />
「お前も少しは努力ぐらいしろ」<br />
「これから子を産む妹に対して、余りにも非道な言葉。恨みます」<br />
と、市は「よよよ」と泣き崩れる<br />
「あのな・・・」<br />
帰蝶の頭には汗が浮かんだ<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
なつは、笑っていいのかどうなのか、真剣に悩んだ<br />
<br />
「おかしなものですね。お市様も、以前は佐治が戦場に出向いても、なんとも仰らなかったのに」<br />
市が引き払った後、なつがぽつりと呟く<br />
「不安になって来たのだろう。もう直ぐ子が出て来ると言う時期だからな、夫の身の上が心配で堪らないのだ」<br />
「言われてみれば、私にも覚えがありますわ」<br />
帰蝶の言葉を受け、なつも冷静に考えてみる<br />
「出産前って、なんでもないことが途轍もなく不安で仕方ありませんでした」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
特になつは、夫が死んでからの出産だったので、その不安も普通ではなかったろう<br />
それを考えると、手にある面当てに市が安心できるのなら、と、受け取ることにした<br />
それから数日後、帰蝶の本隊の出発の日がやって来た<br />
予定では年明けとしていたが、今年はまだ雪が積もらず、移動するには手頃な日が続いたからだ<br />
もしも暢気に年が変わるのを待って、本格的に雪が降り始めればどれだけ積もるか予想できない<br />
もしも雪に足を取られ、小牧山砦に入るのが遅れれば、取り返しの付かないことにもなりかねんと判断したからだ<br />
「気を付けて、存分に働きなさい。可児のことは、心配しないで。兄上も織田に与すること、この頃は然程嫌でもなさそうなの。あなたが周りとしっかりやっているからでしょうね。あなたは気鬱を晴らして、斎藤を落としなさい」<br />
「はい、ありがとうございます」<br />
見送りに、大手門まで市弥が態々出向く<br />
資房や貞勝も入り、菊子も帰命を連れて来てくれた<br />
大勢の見送りの中に紛れ、お七も帰蝶を見送った<br />
「なつ、あなたも体を大事にね。小牧は標高こそ低いけれど、山であることには変わりないのだから。つらくなったら、砦を降りるのよ？いいわね？」<br />
「はい、大方様。ご心配、ありがとうございます」<br />
戦に出る時はそれほどでもなかったが、清洲城の主である帰蝶自ら城を離れるのはさすがの市弥も心細いのか、いつも以上に自分を心配する市弥に後ろ髪を引かれた<br />
それに同行するなつにまで気を配るのだから、長期で小牧山砦に張るのは無理だなと帰蝶は直感する<br />
<br />
小牧山に入ってから、薄っすらと雪が積もっていることに気付く<br />
「殿！」<br />
先に到着していた利家が、砦に入った帰蝶を見付けおおはしゃぎする<br />
「殿！遅いっすよ！もう、待ちくたびれて・・・」<br />
「女でも物色していたか？」<br />
「なわけないでしょ。結局お七さん引き取った時のことまつに知られて、監視がきつくなってるんですから」<br />
「いいことだ。女房が強い家は、土台も強くなる。しっかり尻に敷かれていろ」<br />
「殿ぉぉぉ！」<br />
「殿、お待ちしておりました。おなつ様も、ご無事で」<br />
後ろに居るなつが、そっと会釈する<br />
「姉・・・、とっ、殿・・・！」<br />
長秀の陰に隠れて、普請に携わった信良が、少し慌てた引き攣り笑いを浮かべた<br />
「五郎左、犬山の様子はどうだ」<br />
「はっ。今のところ、目立った動きはありませんが。ただ、斎藤と連絡を取りたがっている気配が垣間見えます」<br />
「勿論、邪魔はしているのだろうな？」<br />
「はい、そこは抜かりなく。大方様からのお知らせで、土田家もこちらに友好的になりました。そのお陰か、以前に比べ情報が入りやすくなりまして、隣接する犬山の監視なども買って出るようになりました」<br />
「土田の動きが面従腹背でないことを祈るがな」<br />
「ははは」<br />
長秀は帰蝶の皮肉に苦笑いし、義弟の信良は麗しい義姉の、今日も凛々しい姿に頬を染めた<br />
「こちらは雪が降ったか」<br />
「はい、夕べ遅くに。初雪です」<br />
「そうか。早目に出た判断は間違ってなかったか」<br />
「清洲は如何ですか」<br />
「寒さが沁みることはあっても、まだ雪はないな」<br />
「今年は遅うございますね」<br />
「では、殿。私は先に住居の方へ」<br />
「わかった。私も後から行く」<br />
長秀と話しながら、帰蝶はなつと別れ、表座敷に入った<br />
<br />
「一同、大儀である」<br />
「ははっ！」<br />
到着した帰蝶を出迎え、揃い踏みした小牧山部隊が表座敷で顔を合わせる<br />
「ここに来るまでに少しばかりの雪を見た。恐らく稲葉山城も雪に包まれていると考えて、間違いないだろう」<br />
末座ではあっても、土田隊の一員として加わっている利治が静かに頷く<br />
「私が動いたことで、犬山も警戒心を持つ頃だろう。仕掛けて来ないとも限らない。各自、警戒を怠るな。雪解けを待ち、斎藤に仕掛ける。それまで、体力を温存するよう心掛けよ」<br />
「はっ！」<br />
<br />
どこか、気が緩むこともあった<br />
斎藤と争ったのは夏の前のことで、それ以降、戦らしい戦も起きていない<br />
なんとなくだらだらと毎日を過ごし、佐治自身、犬山近くの実家の村を訪れることもしていなかった<br />
それが、帰蝶が一人現れただけで、身が引き締まる<br />
何かしなくてはならないと言う気持ちにさせられる<br />
側になつが居るから、と言うだけではなかった<br />
誰も彼もが背筋を伸ばし、帰蝶の前に顔を並べる<br />
それは一種、開戦の烽火にも似た光景だった<br />
この、細くか弱い躰一つが、山を動かす<br />
帰蝶を良く知る者ばかりの中で藤吉だけが、ぽかんと軍議を聞いていた]]> 
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    <author>
            <name>Haruhi</name>
        </author>
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    <id>ryouran.blog.shinobi.jp://entry/318</id>
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    <published>2011-01-04T13:31:47+09:00</published> 
    <updated>2011-01-04T13:31:47+09:00</updated> 
    <category term="帰 蝶" label="帰 蝶" />
    <title>84.　夜明け</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[静かな昼下がり<br />
この尼寺に預けた妻の容態も、日を追うごとに良くなって来ている<br />
「随分、顔色が良くなってる」<br />
「とても大事にしていただているので」<br />
支えるように側に立った妻の煕子が応える<br />
ほっと安堵する光秀の背中に、義叔母のしきの声が掛かった<br />
「十兵衛」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 突然、お邪魔しまして」<br />
「奥方に逢うのに、何を遠慮しているの」<br />
しきは相変わらず、厳しい中に一輪の美しさを覗わせるような微笑を浮かべた<br />
その表情に聳り立つ<br />
「話があるって？」<br />
「はい」<br />
「いらっしゃい」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
しきに一礼、妻の煕子の肩を片手で少しだけ抱き、手放す<br />
そして、しきの導くまま応接間に入った<br />
<br />
自分の運命はこの時、決まっていたのかも知れない<br />
自分の手で自分の運命を決めた<br />
それは武士として幸せなのか、人間として不幸せなのか、光秀にはわからない<br />
わからないまま、激動の時代に自ら飛び込んだ<br />
誰を真似たのか<br />
それもまた、わからないままであった<br />
<br />
お七を着けて辿り着いた先は、清洲にある、一宮へと続く宿場町であった<br />
家からはそう遠くない<br />
その宿場町の一軒の酒場にお七は入った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 酒でも、飲む・・・のかな」<br />
「まさか。そんな余裕があるような暮らし振りには見えんぞ」<br />
「まあ・・・」<br />
帰蝶の言うことも最もだと、利家は気を取り直して酒場の入り口を見る<br />
さっき入ったばかりのお七が出て来て、それまで引っ掛けていた暖簾を外し、別の暖簾を揚げ直した<br />
「え？ここの女将なんですかね」<br />
「知らん。店を出していたら、お能も知っているはずだ」<br />
「そうか・・・」<br />
「ここでぐちぐち言っていても始まらん。犬千代、入るぞ」<br />
「え？！入るって、と、殿！銭は持ってるんですか？」<br />
「持ってるわけがないだろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 俺持ちですか・・・？」<br />
「不服なのか？」<br />
「いえ・・・」<br />
勝家から知行をもらっているとは言え、高給取りでもない<br />
帰蝶に奢ってやれるほどの銭も持ち合わせていない<br />
どうしたものかと途方に暮れている間に、帰蝶がさっさと店に入ってしまう<br />
「とっ、殿っ！」<br />
利家は慌てて後を追った<br />
<br />
「いらっしゃーい！」<br />
店の中は随分と暗かった<br />
贅沢に油を使えないためか、小さな行灯が店の中央と四隅に置かれているだけで、手元を見るのが精一杯である<br />
酣と言ったところで、随分と客が入っているように想えた<br />
軽く目視だけでも十五は軽く超える<br />
宿場町だとしても、この時分になってもこれだけ人が居ることが信じられない<br />
いつもなら寝ている頃に起きているのも不思議な感覚だが、酒場の雰囲気にも圧倒されそうになる<br />
「お二人さんですか？」<br />
綺麗に化粧をした女が盆を片手に声を掛ける<br />
「あ、えっと、そう」<br />
おどおどする利家など構いなく、帰蝶はさっさと席に着いた<br />
「あっ・・・、とっ」<br />
こんな場所で帰蝶を『殿』と呼ぶわけにも行かず、利家は口を自分の手で押さえ後を追う<br />
多くの男達が賑やかに騒ぎ、蒸れたその体臭がむっと鼻を突く<br />
「殿、大丈夫ですか？」<br />
利家は帰蝶を心配して小声で聞いた<br />
「大事無い」<br />
「殿はこう言うとこは、初めてじゃ？」<br />
「昼間の酒場なら、那古野時代、吉法師様と何度も通った」<br />
昼からほろ酔い気分で城に帰り、何度、なつに雷を落とされたことかと懐かしく想い返すも、今は笑っていられる状況ではない<br />
周囲の様子を見ていれば、この酒場がどんな商売をしているのかよくわかる<br />
昼は蕎麦を打ちながら酒を出す店も、夜になれば蕎麦以外の物を出して客を取る<br />
多かれ少なかれ宿場にある酒場とは、そう言った生業を行っているものだ<br />
今更顔を赤らめる必要もない<br />
「いらっしゃい。お二人さん、初めてね。尾張の人？」<br />
「え、あー・・・」<br />
席にやって来た女を見上げ、利家は頬を染めながら応えようとする<br />
最も、女の目線は美目麗しい若侍の、帰蝶を一点集中ではあるが<br />
「尾張出身だが、清洲は初めてだ」<br />
「まあ、そうなの」<br />
「え？」<br />
帰蝶の発言に、利家は目を丸くさせる<br />
「どこの生まれ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 那古野だ」<br />
「まあ、那古野！私も那古野出身なのよ。もしかしたら、どこかで逢っているかも知れないわね」<br />
「そなたのように美しい女と擦れ違ったら忘れることなどないだろうが、生憎その気配もなさそうだ。那古野は広いからな」<br />
「まあ、そうね、うふふ」<br />
帰蝶の誉め言葉に気を良くしたのか、女はそれ以上詮索しようとしなかった<br />
「酒と蕎麦饅頭をもらおうか」<br />
「はあい」<br />
気を良くしたまま、女はそそくさと厨房に入る<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 殿」<br />
「なんだ」<br />
「殿って、『女殺し』の名人ですね」<br />
「なんだ、その言い草は」<br />
呆れたような顔をする利家に、少しムッとする<br />
「だって、あんな歯が浮くような言葉、よく出るもので」<br />
「そうか？なつは大抵、それで大人しくなるぞ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ああ、局処で身に付けた処世術ですか・・・」<br />
『女』だから『女の扱い』が上手いわけではなく、否応なく身に付けた能力かと想った<br />
しばらくすると酒の入った徳利と盃、蕎麦粉と米粉を混ぜて焼いた饅頭が皿に盛られ運ばれた<br />
二人で酒を酌み交わしながら店内の様子を伺う<br />
「それにしても殿、随分酒に強くなられましたね」<br />
女が客の男に話し掛ける光景が見えた<br />
「年季が入っているからな」<br />
話し掛けられた男が応える<br />
「そう言うもんですか？」<br />
女が耳元で何かを囁いた<br />
「お前こそ、酒に関しては底なしだと聞いているが？」<br />
『商談』が成立したのか、男が席を立ち女の肩を抱く<br />
「まあ、それも最近じゃあ大人しくなりましたけどね。酒飲んでる場合じゃなかったし」<br />
逐電時代のことを話しているのか<br />
帰蝶は何も言わなかった<br />
ただ黙って、その光景を見詰めている<br />
女に誘われた男が店の奥に行く<br />
その手間で年配の女が出て来た<br />
男は年配の女に財布から銭を出し、手渡す<br />
受け取った女は顔をしわくちゃにして喜び、二人を奥に案内した<br />
「犬千代」<br />
「はい」<br />
「ここは引き込みの傾城（女郎）屋か？」<br />
「いや、そう言う類じゃないでしょう。だったら表で呼び込みしてるでしょうから」<br />
「だが、その『商売』をしているのは間違いないだろうな」<br />
「でしょうね。ここだけじゃなく、宿場町ってのは多かれ少なかれ、そう言う商売やってますし。特に中山道の辺りは随分賑わってるって聞きますけど」<br />
「そうだな」<br />
「帰りますか？」<br />
「それじゃあ、ここまで来た意味がない」<br />
「でも、もし殿に声が掛かったら」<br />
「断ればいいだけだ」<br />
「そうしたら、稚児が来ますよ？女に興味がないのかって」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
お七もここで、そう言った商売をしているのだろうか<br />
それで子供を養っているのか<br />
お能が泣いていたのは、自分の亭主の妾が女郎をやっていると知ったからか<br />
いや<br />
お七がここで躰を売っていると決め付けるのは、早計かも知れない<br />
その証拠をまだ見ていない<br />
「犬千代」<br />
「はい」<br />
「もし、お前に声が掛かったら、迷わず行け」<br />
「え？」<br />
瞬間、利家の鼻の下が伸びる<br />
「やー、でも俺、そこまで持ち合わせてませんし・・・」<br />
「後で支払ってやる。足りなくとも甚目屋まで走れば、少しは貸してくれるだろう」<br />
「えー、そうですかぁ？でもぉー・・・、いやぁー・・・、殿の命令だったら仕方ありませんけど、俺、世慣れしてませんしぃ・・・」<br />
顔を赤らめながらも満更ではない様子の利家に、帰蝶の頭から汗が浮かぶ<br />
「貴様な、それが墨俣で売り女（め）を何人も『潰した』男の取る態度か？あのお陰で、どれだけの賠償金を支払われたと想ってるんだ。加納の砦はみな親切だったのに、墨俣には獣が居たと嫌味を言われた私の気持ちを、今説明してやろうか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> すみません、浮かれました」<br />
<br />
妻と子を三河に連れて来たまでは良かったが、その後の始末が悪かった<br />
元康は元々血色の良かった顔色が、ここのところ土気色に近い色に染まっていることが多い<br />
まさか今川に乗じて武田まで動くとは想っていなかった<br />
三河の国境を超え、岡崎城に連れて行こうとした矢先の騒動も、元康の心を曇らせる<br />
<br />
「三河超えッ！」<br />
無事に入れたことを、数正の声が知らせる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
ほっとした瞬間、後ろで武田と織田の援軍が争っているのを知った<br />
「松平殿はお気になさらず、お入りください！」<br />
可近の知らせに元康は妻子の安否を確保しつつ、岡崎に向かう<br />
だが、少数の金森隊で食い止められれるほど、甲斐の武田は易くはない<br />
金森隊が蹴散らされ、武田の触手が松平に差し掛かろうとした瞬間、正面から別の軍勢が攻めて来た<br />
「挟まれた・・・か・・・」<br />
その軍勢の勢いは、遠目から見ても止められるような弱いものではない<br />
軍旗を揚げていないので、どこの兵士かもわからない<br />
「殿ッ！」<br />
先頭を行っていた数正が元康の許へ馬を走らせた<br />
「岡崎城を迂回ッ、安生寺に向かいます！」<br />
「安生寺・・・？」<br />
安生寺は岡崎城に近い場所にある寺だが、近所と言うわけでもない<br />
その寺は元康の父が保護していた寺だった<br />
「殿！」<br />
数正より少し遅れて、忠次も駆け付ける<br />
「奥方様と若様方を、一旦寺に入れます！」<br />
安生寺行きを決めたのは、この忠次かと感じた<br />
この時の元康は、愛鷹らの安全を確保するための作戦なのだと信じて疑わなかった<br />
「正面ッ！織田軍、到着ッ！」<br />
「え・・・？」<br />
元康に併走していた平八郎に声を掛けるかのように、忠次は叫んだ<br />
その声を聞き、目の前に居るのは敵ではなく、帰蝶の寄越してくれた援軍だと知る<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 御母様・・・ッ」<br />
「道を開けろッ！」<br />
松平軍の中央を、弥三郎の率いる織田軍斬り込み部隊が一陣の風のように、駆け抜ける<br />
それは、一瞬の出来事だった<br />
<br />
黙り込んでいる帰蝶を見詰める利家に、店の女が声を掛けて来た<br />
「お兄さん、何かご用はない？」<br />
「え？」<br />
驚いて見上げると、随分膏（あぶら）の乗りもいい感じの年増女が微笑みながら自分を見ていた<br />
溢れんばかりの色気に、軽い目眩を感じる<br />
「疲れているところがあったら、按摩でもしてあげるけど」<br />
「あ、でも・・・」<br />
「そちらのお兄さんは、どう？」<br />
ちらりと帰蝶を見る<br />
「私は間に合っている。犬千代、お前だけでも世話になれ」<br />
「え？良いんですか？」<br />
訊ねてはみるものの、利家の本心は既に決まっていた<br />
「行って来い」<br />
「そ、それじゃあ・・・」<br />
伸ばせるだけ鼻の下を伸ばし、席を立つ<br />
そんな利家に帰蝶は、一言だけ告げる<br />
「但し、『目的』を忘れるな？」<br />
心の蔵を抉るほど、想い切り睨み付けながら<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
利家は青い顔をしながら、年増女の後に着いた<br />
これまでざっと店の中を眺めてみたが、それらしい女は見ていない<br />
直接顔を合わせたことはないので、お能から聞かされている人相と、名前だけが頼りだが、該当する者はここにはいない<br />
そうなると、既に『商売』を始めているか、別の理由があるのか<br />
利家が階段があるのだろうと想える奥に消えて行くのを気にも留めず、帰蝶は薄暗い店内を見渡した<br />
ここは自分がこれまで見たこともない世界が広がっている<br />
昼間が『善』なら、夜は『悪』なのか<br />
ずっと昔、死んだ義叔父に言われた言葉を想い出す<br />
「お前は、綺麗な世界しか見ていない」<br />
寒気がするような人間の煩悩と、男と女の吐き出す息に巻かれ、目眩を起こしそうになる<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 義叔父上様<br />
私は、まだまだでしょうか<br />
<br />
何人もの人間をこの手で殺しても、私はまだ汚れることができないのでしょうか<br />
この世の理を理解するのは、まだまだなのでしょうか<br />
<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お侍様」<br />
考え事をしている帰蝶に、話し掛ける者が居た<br />
『深く考えている』ことをしていない帰蝶には、その声は容易に届く<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
見上げると、まだ幼い娘、年の頃は十三か十四だろうか、あどけない少女が立っていた<br />
「何かご用は、ありませんか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
ほんの少しだけ、目が見開かれる<br />
こんな年端も行かない子供までもが、身を売っているのか<br />
想像しただけで、愕然とする<br />
「あの・・・」<br />
自分を見上げ、ぼうっとしている若侍に、少女は尻込みした<br />
綺麗な顔立ちの『青年』に見詰められていると勘違いをして<br />
「ご用は、ありませんか・・・？」<br />
消え去りそうな小さな声で再び訊ねる<br />
帰蝶は応えられず、ただ黙ってじっと少女を見ていた<br />
余りにも強く見詰められているからか、少女は他の席に行こうとぺこりと頭を下げ、その場を離れた<br />
そんな少女を見ているしかない自分が、歯痒い<br />
すると、少女の手首を掴んで話し掛ける中年の、無精髭の男の姿が目に映る<br />
帰蝶は慌てて少女の後を追い、男が掴んでいない方の手首を自分も握った<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> あの・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
それで、どうするのか<br />
何ができるのか<br />
こうやって身の上に不幸を背負う者を一人一人、救済して回るのか<br />
そんな余裕がどこにあるのか<br />
自分でも解けぬ疑問に、帰蝶はただ黙って、少女の手首を掴んでいるしかなかった<br />
「おい、にーちゃん。おめぇもこの子に用があるのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「残念だけど、早い者勝ちだ。その手を離しな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「あの・・・」<br />
少女が自分を見詰める<br />
その視線に気付き、帰蝶は慌てて手を離した<br />
「なんでぇ、気取りやがって。田舎侍が」<br />
言い放った男の周りで、帰蝶を嘲笑う声が上がる<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
帰蝶は何も言い返せず、男に連れられる少女を見送るしかなかった<br />
これが、現実か<br />
自分は今もまだ、無力なのか<br />
男の毒牙に掛かりゆく少女一人、救えないのか<br />
自分はどこまでも、無力なのか<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
気が、遠くなりそうな想いをする<br />
帰蝶はふらふらと歩き、店を出ようとした<br />
その帰蝶にぶつかる女が居た<br />
「あっ、ごめんなさい！」<br />
両手に大きな盆を持った、年増の女だった<br />
「お怪我はありませんか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> いや・・・」<br />
「すみません、ぼやっとしていて」<br />
派手な着物は着ていない<br />
商売女ではないのだろう<br />
いや<br />
その女は、お七の家から出て来た女と同じ着物を着ている<br />
つまりそれは、お七だった<br />
「お着物も汚れていないようで、良かったです」<br />
ほっとした顔をしているお七を、帰蝶は黙って見下ろした<br />
ふと、想い浮かべる<br />
この頃の女はみな、これくらいの背丈であった<br />
なつも市弥も、並べば自分の胸元より若干下に頭が来る<br />
どれだけ自分が女として異質なのか、それだけで想い知らされた<br />
「あの・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 不躾なことを伺うが、そなたがお七殿か？」<br />
「え？私をご存知で？」<br />
お七はキョトンとして帰蝶を見上げた<br />
「あの・・・、私、厨房にばかり居るんですが、どこで私のことをお知りに？」<br />
その質問は当然だった<br />
「いや・・・」<br />
言い訳を考えていなかった帰蝶には、その問いに答えるのは難しい<br />
「少し話がしたいのだが」<br />
「え？」<br />
お七は帰蝶の誘いに目を丸くした<br />
自分のどこが気に入ったのか、と<br />
確かに、今の生活振りがそう見せているのか、随分とみすぼらしい顔立ちであった<br />
どこかやつれた雰囲気もあり、肌も老け込んだようにくすんでいた<br />
例えるなら、まるで亡霊のような様相だ<br />
何某か屋敷の片隅で、霞のように佇んでいてもおかしくない<br />
成る程、これでは表に出て客を捕まえるのも困難なことだろう<br />
だから台所に居るのだと想った<br />
時親はお七のどこに惹かれたのだろうか、と<br />
素直にそんな疑問が浮かぶ<br />
お能の肩書きが時親を狂わせたことは聞いている<br />
しかし、それでも清楚ながら妖艶な妻を置いて走りたくなる女ではない<br />
贔屓目を抜いたとしても、自分だったら迷わずお能を選ぶ<br />
なのに時親は、この女に入れ込んでいた<br />
一体、どこが良くて、と考えると、どうしてもお七の人となりを知りたくなる<br />
夫が残した言葉、「物の本質を知るには、本来の姿を見なきゃ意味がない」<br />
それを今も忠実に守ろうとしている<br />
お七はお七で自分の容姿をよくわかっているのか、目の前に立つ長身の、その上優美な顔をした若侍は、何を狂って自分などに話し掛けるのだろうと、不思議でならなかった<br />
声を掛ける女なら、他にも居るだろう<br />
「あの・・・、私、で？」<br />
誘いの言葉を確かめようと聞き返し、それが周囲からは愚図愚図しているように見えたのか<br />
奥の部屋の出入り口を固めていた女が叫ぶ<br />
「お七！何やってるんだい！」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> す、すみません、今すぐ戻ります」<br />
「そうじゃないよ」<br />
と、女はつかつかと歩き出し、二人の居るところまで寄った<br />
「何考えてるんだい？お客様をさっさと案内しないか」<br />
「え？」<br />
「お侍様、この子、まだ清洲に馴れてなくて。土臭い田舎者の不躾で不愉快な想いをさせてしまって、相すみません」<br />
何本か歯が抜けている、とてもではないが綺麗とは言い難い顔をくしゃくしゃにして、『商売用』の笑顔を浮かべる<br />
様子からして、この店の主人<br />
つまり、『内儀』（おかみ）かと、帰蝶は想った<br />
「いや」<br />
この女は、自分をどう見ているのか<br />
帰蝶にはわかる筈もない<br />
世の中には変わった趣味の男が居る<br />
目の前の別嬪には目も呉れず、遠く離れた醜女、例えば容姿の悪い女や、醜く肥え太った女、逆に骨だけのような骸骨女に劣情を感じる者も居る<br />
こう言った商売を長くやっていると、人には説明しにくいようなおかしな趣向を持つ人間と、たまに出くわすものである<br />
この、すらりと背の高い貴公子もその類なのだろうと、軽く考えていた<br />
「ほれぇー、いつまでお客様を立たせたままにしてるつもりだい。早くご案内しなっ」<br />
「えっ・・・？」<br />
店主（内儀）と想われる女が、帰蝶とお七の背中を同時に押し、奥の部屋に向かわせようと催促する<br />
帰蝶は押されるがまま歩き、お七は抵抗しながら先に進む<br />
「あっ、あのっ、私っ、そう言うことはできないと、初めに言ってる筈ですけどっ・・・！」<br />
「煩いね。今月のお給金、弾んでやるから、文句言わないでさっさと歩きなっ！」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
『金』はいつでも人間を黙らせる力がある<br />
その力に抵抗できる者は少ない<br />
黙り込み、さっきよりは抵抗する力も抜けたお七を、帰蝶は見下ろした<br />
高潔だった夫は金に勝てず、長い間、清洲大和守織田のいいようにされていた<br />
出家して間もない弟も、金の力で高僧に上り詰めた<br />
『金』は誰をも動かす力がある<br />
それを今、想い知らされた<br />
「ところでお侍様」<br />
と、女が帰蝶に話し掛ける<br />
話し掛けられ、後ろを向いた帰蝶にこう告げた<br />
「お代は、前払いでお願いしてるんですが」<br />
「ああ、それなら」<br />
<br />
「お邪魔しますよ」<br />
と、突然声がした<br />
『事』に及んでいる利家には随分間が空いてから耳に届いた<br />
当然、その声を理解するのにも手間が掛かった<br />
「開けますね～」<br />
そう、間延びした声がしたかと想うと、みずぼらしい襖がいきなり開けられ、入る前に金を手渡した女が立っていた<br />
「すみませんが、お代を」<br />
「え？」<br />
年増女に激しく前後に振っている腰が止められない<br />
「お連れさんの分も頂戴いたします」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 殿・・・」<br />
腰の動きは止められないが、涙は出そうな想いをする利家であった<br />
女がずかずかと部屋に入り、脱ぎ捨てた小袖を掴んで目の前で財布を抜き出す<br />
それを『止められない』のだから<br />
「それじゃあ、確かに頂戴しましたよ」<br />
と、男女の行為に興味も示さず、取るものを取ったらさっさと出て行こうとする<br />
しかし、ふと立ち止まり、小さく呟く<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 図体は、でかいのに・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
心なしか、嘲笑しているかのように見える<br />
益々泣きたくなる利家であった<br />
<br />
「それじゃあ、ごゆっくり」<br />
利家から代金を徴収し、ほくほくした顔で帰蝶とお七を見送り、店主はそそくさと持ち場に戻って行った<br />
残された帰蝶は自分の手で粗末な襖を開ける<br />
部屋の中も粗末なものだった<br />
土壁はところどころ綻び、中の竹骨が剥き出している部分もある<br />
手にした襖も穴が開いており、予め敷かれている布団は染みだらけ<br />
とてもではないが、この雰囲気の中、秘め事を交わす気にはなれない<br />
その布団の上におどおどとお七が進む<br />
「酒でも頼むか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
声を掛ける帰蝶に向かい、お七はガバッと蹲ると、布団に額を擦り付けて土下座した<br />
「どうした」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> すみませんっ！ごめんなさいっ！」<br />
「何を詫びている」<br />
「わっ、私なんかを見初めていただけたのは、とても光栄に想います・・・！お侍様のようなお美しい方なら、こんな場末な飲み屋の女よりも、京の島原辺りの綺麗な太夫の方がお似合いでしょうに、なのに、こっ、こんな私なんかを・・・！でもッ」<br />
布団に重ねた、ささくれだらけの指先が震えていた<br />
「ごめんなさい・・・ッ！私、お侍様のお相手は、できません・・・ッ！」<br />
「お七殿」<br />
「できないんです・・・・・ッ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
真摯に謝罪するお七の頭の先に膝を落とし、帰蝶は訊ねた<br />
「心に決めた男が、居るのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
少し間が空き、お七は震える声で応えた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> はい」<br />
「だから、男を取る仕事ではなく、台所の仕事を選んだのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お給金は下がりますけど、それでも昼間の仕事より良いお金になるので・・・」<br />
そろそろと顔を上げたお七は、頼りなくも微笑んでいた<br />
みずほらしい着物に、みすぼらしい容姿<br />
やつれた頬が少し上がり、それは、慈愛に満ちた微笑だった<br />
『なつ』と同じ、微笑だった<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
心が安堵する<br />
「お話・・・のお相手なら・・・。でも、不満ですよね・・・、ごめんなさい・・・。申し訳ございません・・・」<br />
「謝る必要は、ない」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
『若侍』の、余りにも美しい微笑みに、お七は目頭の上の眉を吊り上げて戸惑った<br />
「初めから申している通り、私はそなたと話がしたくて声を掛けた」<br />
「あの・・・。<s>　　　　　　　　　</s> そう言えば、どこで私のことをお知りに？」<br />
「そなた、子はどうした。居るのか？」<br />
「あ・・・、あの・・・」<br />
自分の質問を置いてけぼりに、聞きたいことを訊ねる帰蝶に困惑しながら正直に答えた<br />
「居ま・・・す。兄に、弟を見させて、それで」<br />
「子は、二人か」<br />
「はい」<br />
「二人の子を置いて、母親は夜半に仕事に出掛けているのか」<br />
「昼間の仕事は、中々いいのがなくて・・・。それに、家の維持費も掛かりますから・・・」<br />
「家？」<br />
「清洲の商店街の近くで、結構いいとこの人が多く住んでるんです。ですから、税金が掛かって・・・」<br />
「そうか、税が掛かるのか」<br />
「地価は安いんです、元々。だけどここのところ、清洲が急に開けたものだから、他の地方からも人が来るようになって、それで土地代だけどんどん上がってしまって・・・」<br />
「どうしてだ。人が増えれば、逆に土地代は安くなるものだろう？」<br />
「それが、人が増え過ぎて、住む場所がなくなってしまう現象が起きているんです。それで、金のない人間を追い出そうと地主が・・・」<br />
「そうか、そう言う事情があったか」<br />
類に違わずどこの土地にも税は掛かる<br />
その税収は全て、帰蝶の束ねる、『領主』である織田の懐に入る<br />
採れた米だけが『年貢』ではない<br />
故に、大黒柱を失ったお能に対して帰蝶は、納税を必要としない『安堵』を保障した<br />
時親の屋敷も、それ相応の税金の掛かる地域に住んでいるのだから、お能の稼ぎだけでは到底払えるものではない<br />
ここ清洲は、織田の直轄の領地である<br />
帰蝶の勝手でいくらでも無税を言い渡せる地域であった<br />
だからと言って、このお七にも同じことはできない<br />
それではお能の折角の『申し出』を無碍にすることになるのだから<br />
「昼間の仕事じゃ追い付かなくて、それで・・・」<br />
「子を残して、賃金の良い夜に働きに？」<br />
「そうです」<br />
「子はさぞかし、心細かろう」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> だけど、生きて行くには仕方がないことです」<br />
「ご亭主は、どうした」<br />
知っていながら聞いてみる<br />
お七は帰蝶の思惑に気付かず、これも素直に応えた<br />
「居ません。<s>　　　　　　　　　</s> 死にました」<br />
「そうか」<br />
「それに私、正妻じゃないんです」<br />
「え？」<br />
困ったような、泣き出しそうな、そんな顔をして笑う<br />
「あの人には、綺麗で立派な正妻さんが居て、私なんか足元にも及ばなくて・・・。だけど、私はあの人を」<br />
お七のその心の奥に今もまだ生き続ける時親が、帰蝶に微笑む<br />
「今も、大切に想ってます」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
お七の気持ちが理解できる<br />
尚、胸が痛んだ<br />
「だから、あの人から授かった子供だけは、立派に育てたいんです。・・・そりゃ、着る物には困ってる生活はしてますけど、それでも、「お腹空いた」なんてこれまで一度も、言わせたことがないんですよ」<br />
そう、小さく自慢するかのように、また、微笑んでみせる<br />
この飾り気のないところが、時親の心を掴んだのか<br />
「そうか。女手一つで、苦労しているのだな」<br />
「苦労なんて、私、してません」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
お七の言葉に、帰蝶はキョトンとした<br />
贅沢な暮らしをしているわけでもなく、自身、こんな夜更けにまで働きに出ている<br />
それでも、苦労ではないと言い切った<br />
「どうして、そう言える。養ってくれる者もおらんのだろう？」<br />
「だけど、子供が居ます」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その一言に、帰蝶は言葉を失った<br />
「あの人が残してくれた子供が居ます。だから私は、生きられる」<br />
「お七殿・・・」<br />
それを言い切るお七の表情が、何にも換えられないほど輝いていた<br />
「あの子を大きくすることが、私の生きる目標になってます。だから私は、どんなことにも耐えられる」<br />
すらすらとそう断言するお七は、子煩悩なのかと感じる<br />
「ならば、尚更、子を家に置いて出るのは忍びなかろう？」<br />
帰蝶の質問に、お七は苦笑いしながら答えた<br />
「今も心配ですよ。ちゃんと寝てるだろうか、とか、起き出して、私を探しに表に出てないか、とか、色々。でもね、あの子達にひもじい想いはさせたくないんです」<br />
「そうか。子が居れば、そなたはどこででも生きられる。世間の厳しい目など、気にもしない。そう言った心積もりがあるのだな？」<br />
「そう・・・、ですね。ええ。あの子が居れば、私はそれだけで」<br />
「二人、子が居ると言ったな」<br />
「ええ、はい」<br />
「そのどちらも大事か？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
少し考え、それから、辿るように言葉を紡ぐ<br />
「あの人の子は、末の子だけです。上の子は、別の・・・。昔の亭主の子です」<br />
「そのご亭主はどうした」<br />
「戦で死にました」<br />
「そなたが大事だと言っていた男は」<br />
「その人も、戦で死にました」<br />
それから、吹っ切るかのようにお七は笑った<br />
「私、どの亭主もみんな、戦で亡くしてるんです。ああ、最初の亭主は、痴話喧嘩で死にました」<br />
「と言うことは、亭主は二人で、大事な人は一人か」<br />
「そう、なりますね。<s>　　　　　　　　　</s> 無節操な女でしょう？自分でも呆れてしまいます」<br />
「いや」<br />
お七が二人の男の許に嫁いだ理由は、時親から聞かされている<br />
特に気にするような内容でもなかった<br />
「あの人の子は、確かに末の子だけです。でも、だからって子供に順番なんか付けられません。どの子も私が、お腹を痛めて産んだ子です。どっちも可愛いに決まってます」<br />
「そうか」<br />
「それ・・・に、あの人は自分の子だから、子じゃないからって、差別するようなことはしませんでした。どっちの子も大事にしてくれました。可愛がってくれました。だから兄は弟を苛めたりしません。ちゃんと、私の代わりに面倒を見てくれてます。私が寝ている間のことは、わかりませんけど・・・」<br />
と、最後には苦笑いを浮かべる<br />
その表情に、帰蝶も薄笑いを浮かべた<br />
『子を想う親の気持ち』は、痛いほどわかるから・・・<br />
「頼もしい親や兄を持って、幸せだな、平次は」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ？」<br />
一瞬、目を見開く<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> お侍様・・・、どうして、平次の名を・・・」<br />
粗末な口唇が震える<br />
震えながら訊ねた<br />
この若侍は、一体何者なのか<br />
今になって大きな疑問が背中から圧し掛かり、お七を潰しそうになった<br />
そんなお七に膝を正し、帰蝶は改めて告げた<br />
「土田平三郎時親の遺言に則り、そなたら親子を迎えに参った」<br />
「え？」<br />
「平三郎はそなたら親子の身を案じながら死んだ。その想いを遂げるため、ここに来た」<br />
「お侍・・・」<br />
「平三郎正妻、土田能の嘆願により、本日よりそなたら親子は私が面倒を見る」<br />
「え・・・？え？」<br />
突然のことに、お七の頭は混乱を極める<br />
何がなんだかわからない顔をして、帰蝶を見詰めた<br />
「お侍様は、一体・・・」<br />
「私は、尾張清洲領主、織田上総介である」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> ッ！」<br />
息が止まる想いがする<br />
言葉が出て来ない<br />
時親が織田の家臣であることは知っている<br />
その主人が信長であることも知っている<br />
だが、目の前に居るこんなにも若い侍が、その『信長』であることは想像を遥かに超え、理解できなかった<br />
まさか、と言う想いばかりが巡る<br />
大きく瞼を開き、黙り込むお七に帰蝶は苦笑いした<br />
「どうすれば、信じられる」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「お能が、お前を心配している」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 嘘・・・」<br />
「嘘じゃない」<br />
「嘘・・・よ・・・。だってあたしは、あの人から夫を・・・」<br />
「『盗った』と、想い込んでいるか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「笑わせるな。あの二人の絆は、お前が入り込んだところで切れるような簡単なものではない」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> そ・・・」<br />
「だが、妻とは別の場所でお前を大事に想っていたことも、事実だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
無慈悲に残酷な現実を突き付ける次には、包み込むような暖かい希望を持たせる<br />
この、『信長』と言う人物は、人の心を簡単に操ってしまうような、そんな印象を持たせた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 私・・・」<br />
「お能が、安心して子を育てられる環境に居られるよう、配慮してくれと泣いて頼んだ」<br />
「え・・・？あの人・・・が・・・？」<br />
その言葉も、簡単には信じられない<br />
時親の葬儀には、修羅場を演じて見せたのだから<br />
「平三郎は清洲を守る盾となって死んだ。それに報いたい。お七」<br />
「はっ、はい・・・」<br />
「清洲城に来る心積もりはないか」<br />
「え？お城に？」<br />
「勿論、それ相応の立場を保障するとは言い切れない。私自身、お前が海のものか山のものかもわからん。私の役に立つか立たないかも、だ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
その通りだな、と、厳しくも確かな事実を口にする『信長』の清々しさに感心する<br />
「お前の身の上は、お能に一任する」<br />
「え？」<br />
「お能は清洲城南殿局処の局長をやっている。つまり、局処で頂点に立つ者だ。覚えめでたく行けば、お前の一生は安泰だろう」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> だと、良いんですけどね」<br />
そう、苦笑いする<br />
「簡単には行かぬか」<br />
「だって私、恋慕したんですよ？」<br />
「だが、その当時は平三郎に妻子が居ることを知らんかったのだろう？」<br />
「知っていようが知ってなかろうが、私はそう言う立場に居た女です。それは変わりません。妾が本妻の世話になるには、それに相応した報いが来ます」<br />
「その覚悟は持てんか」<br />
帰蝶の言葉に一瞬笑い、それから胸を張って応える<br />
「覚悟？覚悟がなけりゃ、あの子を育てようなんて気にはなりませんよ」<br />
「お七」<br />
「どれだけ頑張ったって、私は本妻になんかなれない。わかってる。あの人は肩書きで女を選ぶ人じゃない。わかってる、だから、私は・・・」<br />
好きになった<br />
その言葉を告げず、飲み込む<br />
一人の胸に仕舞いこんでおきたい想いなれば、尚のこと<br />
「それでも良いと想いました。だから、清洲で暮らす決心をしました。あの人が死んだ後も、あの人の暮らした町を出て行きたくなかった。あの人の買い与えてくれた家を守ることが、あの人の想いに応えることだと信じてました。だから私は、この清洲に、石にしがみついてでも居残ってやるって決心したんです」<br />
「それで、この仕事を」<br />
「織田様。女が一人、虚勢を張って生きて行くには、何をするにも覚悟が必要なんです。誰も助けてなんかくれないんです。助けてくれるのは、その人が『力』を持っているからなんです。何も持っていない人間を助けてやろうなんて、そんな夢物語みたいな話は、この世には存在しないんです」<br />
「では、城に来るか？お前がそこで力を付けたなら、いくらでも助けてくれる人間が作れる。どうだ」<br />
呼び掛ける帰蝶を、お七は正面から見据えた<br />
「あの人の正妻が、どんな腹積もりで私を呼んだのかわかんないけど、それであの子を安心して育てられるんですよね？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「もう、夜に怯えていないかとか、泣いていないだろうかとか、心配することもないんですよね？一日中、あの子を見守ってられるんですよね？」<br />
「そうなるな」<br />
「転んだら、直ぐに助けに行けるんですよね？」<br />
「ああ」<br />
帰蝶の返事に満足したか、お七は少し頬を吊り上げ、今、覚悟を決めた目をして応える<br />
「行ってやろうじゃないの。例え正妻からどんなに罵られようと、正面から受け止めてやる。清洲のお城で、生き残ってやる」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
頼もしい女だ、と、帰蝶は心底想った<br />
<br />
さっきは『行為』の最中に水を差され、一発放ってもなんだか中途半端な気がして、追加料金を払ってもう一度接（は）げんでいるところを再び邪魔される<br />
「犬千代、帰るぞ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
もうちょっとで『イ』けそうな時に『ご主人様』から声を掛けられ、他の人間と違いさすがに帰蝶の命令は絶対である<br />
性の快楽がそこまで来ていると言うのに、利家は泣く泣く女の穴から男の棒を抜いた<br />
泣きたいというより、死にたい気分である<br />
「さっさと支度をせんかっ」<br />
「はい・・・」<br />
何をそんなに苛々しているのか、今にもその手に兼定を掴みそうな雰囲気で、おまけに見栄えの悪い女を引き連れ、その女もどことなく偉そうな印象があり、全く嫌な気分になる<br />
女と言うのは、男の事情を理解してくれないものだなぁと愚痴りたくもなる<br />
帰蝶や妻の前では決して口にできないが<br />
<br />
これがお七だと紹介され、下半身がうずうずした状態でお七の家に戻り、寝ているお七の子供を背負って城に戻る<br />
末子の平次はお七が背負い、次兄の喜三郎は利家が背負う<br />
手ぶらで暢気な立場の帰蝶に「さっさと来んか」と何度も怒鳴られ、ああ、確かにこれは河尻様には無理な仕事だと痛感する<br />
見掛けに因らず頭の固い秀隆に、商売女の相手をしろだとか、その女の子供を背負えだとか言えやしないし、何より『黒母衣衆筆頭』にさせる仕事ではない<br />
だが、その秀隆は城でしっかり帰蝶の帰りを待っていた<br />
「お帰りなさい」<br />
呆れた顔をして<br />
大手門の前で仁王立ちしている秀隆は、なんだか怖い<br />
自分が叱られるような気がして、利家が萎縮してしまった<br />
「なんだ、待っていたのか。さっさと帰ればいいものを」<br />
「帰れるわけないでしょう？お能さんから聞きましたよ」<br />
「お能から？」<br />
「今日一日沈み込んでるから、おかしいと想って問い質したんです」<br />
ちらりと、後ろに立つ女を一瞥すると、再び視線を帰蝶に戻す<br />
「まさか殿ご自身が、騒動を持ち込むとは想っておりませんでした」<br />
「聞き捨てならんことを言うな、お前は」<br />
「兎に角、お話があります。少しお暇をください」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
帰蝶は秀隆を軽く睨むと、後ろに控えた利家に命令した<br />
「犬千代。局処に行き、なつに後のことを頼め。お能はもう屋敷に戻ってるだろうからな、今から呼び出すのも忍びない」<br />
「はい、承知しました」<br />
帰蝶の背中と秀隆に頭を下げ、利家はお七を促して局処に向かった<br />
残った秀隆は厳しい目をして帰蝶を表座敷に連れて行く<br />
<br />
「あの女性と土田殿との関係は、ご存知の筈です」<br />
「ああ」<br />
表座敷で向かい合い、膝を付き合わせる<br />
もう、何度こんな対談を経験しているだろうか<br />
主が信長から帰蝶に代わってから、今ではすっかり馴染んだ光景にも想える<br />
「例えお能さん直々の願いだとしても、それを殿が実践する必要がどこにあります？」<br />
「捨て置けなかった」<br />
「しかしね、殿。城の中に本妻と妾を突き合わせて、何事も起きないと想っておいでなのですか？」<br />
「知らん」<br />
「殿！」<br />
しらっと応える帰蝶に、秀隆は声を張り上げた<br />
「私はそう言った場面に出会うこともない。遭いたくとも、相手がおらん。だから、お能の気持ちもお七の気持ちも、私には理解できん」<br />
「だったら」<br />
『女同士の揉め事』は、国を滅ぼしかねない事態に発展する可能性がある<br />
いつの世も、騒動の原因は『女』と言っても過言ではないのだから<br />
帰蝶は秀隆を遮り、続けた<br />
「私は女でありながら、女の気持ちが理解できん。何故お能が泣きながら頼むのか、何故お七がわかっていてもここに来ることを承諾したのか、私にはわからんッ。戻る最中、背中にお七を置きながら何度も考えた。私だったらどうだったろうか、と。それでも憎い相手である本妻の世話になりたいだろうか、例え子供のためとは言え、私に耐えられるだろうか、色々考えたッ。だけど、答えは出なかった・・・」<br />
「殿・・・」<br />
項垂れる帰蝶を、秀隆は呆然と見詰めた<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> わからんのだ・・・。私には、お能の決心も、お七の覚悟も、私には、わからんのだ・・・」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
『女』なのに、『女の気持ち』がわからないと言う<br />
色事に疎かった先代城主の信長は、だからこそ彼女を愛しんだのか<br />
常に傍に置き、文字通り『女房』としての働きを全うできたのか<br />
ただ、お能の願いを叶えてやろうと、ただそれだけで動いたのかも知れない<br />
他は、何も想定していないのかも知れない<br />
『女の気持ち』がわからないと言いながら、身内を大事にする帰蝶らしい行動だとは想った<br />
だが、それとこれとは話は別だ<br />
お七の出現により、織田の家内で一悶着など起きねばよいのだがと祈るしかない<br />
吹き出したくなるほど、人の色恋には鈍い<br />
人の心はいとも容易く掴んでしまうのに、それ以外のことに関してはまるっきりである<br />
なら、これから先の自分の役目も多くなるな、と、秀隆は腹を括った<br />
帰蝶の代わりに動かねばならなくなることもあるだろう、と<br />
その時はおなつ様にも協力してもらおうかと、俄かに暢気な考えにも到った<br />
長く帰蝶と付き合うと自然と逃げ道だけは上手く見付けられるようになった<br />
それがいいことなのか悪いことなのか秀隆自身判断できないが、この主に従う限り、必要な能力になるだろうとも想えた<br />
項垂れ、元気をなくした帰蝶を、苦笑いで見詰める<br />
何度、そんな目をしてみたものか<br />
それは秀隆すら気付いていなかった<br />
<br />
「ねえ、お兄さん」<br />
自分の後ろを着いて来るお七に声を掛けられ、利家は何の気なしに振り向いた<br />
「さっき、門の前に立ってたあの人、誰？」<br />
「門の前？<s>　　　　　　　　　</s> ああ、河尻様のことか？」<br />
「河尻って言うの」<br />
「どうかしたか？」<br />
「ううん、別に。良い男だったわね」<br />
何かを誤魔化すかのように、お七は心にもない話を持ち出す<br />
「そうだな、うん。でも、河尻様は無理だよ」<br />
「何が？」<br />
「河尻様は殿の言うことしか聞かないから」<br />
と、正面に向き直して歩いた<br />
「え？そうなの？」<br />
お七は鼻で笑いながら続ける<br />
「もしかしてあの二人、『菊門の契り』でも交わしてるの？」<br />
「っぷ！」<br />
この時、帰蝶が女であることをまだ知らないお七には、そう勘違いしても仕方がない<br />
吹き出す利家の背中を、お七は睨み付けた<br />
「何よ」<br />
「いや。そんなのはないけど、兎に角河尻様を誘惑しようとしたって、無駄だよ」<br />
「別に誘惑しようなんて想ってないけど、何でそう言い切れるの？」<br />
「だって、美濃攻めの時だって、殿が態々呼んだ傾城屋の女を誰一人相手にしなかったんだから」<br />
「え？」<br />
美濃攻め云々のことは範疇外だが、『女』を前にして何もしなかったのか<br />
それが不思議だった<br />
そんな男がこの世に居るわけがない<br />
お七はそう想ったからだ<br />
「だからま、その分俺が相手してたんだけど、なのに殿ったら『女を潰した』とか言い掛かり付けるしさぁ、今日だって殿に付き合ったってのに、あんな目に遭うし、全く付いてない」<br />
最後には一人ぶつくさと愚痴を零し、理解できないお七の頭には汗が浮かんだ<br />
「でも、何で？」<br />
「え？」<br />
利家は再び立ち止まり、お七に振り返った<br />
「何で河尻様を気にするんだ？」<br />
「別に。良い男だったから、ちょっと目に付いただけよ」<br />
「ふ～ん。でも、河尻様は無理だよ」<br />
「さっき聞いたわよ」<br />
「殿の命令しか聞かないし、意外と恐妻家だし」<br />
「ふふっ」<br />
利家の口調がおかしかったか、お七は軽く笑った<br />
お七が気になったのは、秀隆の、帰蝶を見る眼差しだった<br />
厳しく睨み付けながらも、どこか慈愛を感じさせた<br />
心の底から心配していたのだとわかるような、そんな眼差しで帰蝶を見詰めていた<br />
ああいった見詰められ方など受けたことのないお七には、少し羨ましい光景でもあったのだ<br />
相当、大切に想った人間なのだろう、『信長』と言う人物は<br />
ただ単純に、そう感じていた<br />
「でも、よくここ、来る気になったね」<br />
「え？どうして？」<br />
急に話を変える利家に、お七はキョトンとした<br />
「いくらお能様の希望だからって、のこのこ清洲に来るなんて。敵が多いよ？ここは。だってあんた、土田様の妾だったんだろ？」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 普通、言いにくいことを平気で言えるもんね。若いっていいわね」<br />
「そう？」<br />
お七の嫌味を、素直に受け取り少し笑う<br />
「あたしだって、できればあの人とは一生、顔を合わせたくなんかないわよ。増してや、その世話になろうなんて。でも、さ。それで子供を安心して育てられるんだったら、なんだって耐えられる。そんな気がしたの」<br />
「へえ」<br />
「それに、織田様に興味も湧いたし」<br />
「あはっはっはっ、それこそ無理無理」<br />
「何が」<br />
「あわよくば殿の側室に、とか想ってない？」<br />
「まあ、そうなったら将来安泰よねぇ」<br />
「無理だよ。殿は側室なんて持たない。持っても、そうだな、『利用できる』と想った人間しか取らないだろうな」<br />
「何、それ。随分冷たい人間だって言ってるように聞こえるけど？」<br />
「殿は、結構あったかいお方だよ。うん、あったかくて、優しくて。でもさ、それ以上におっかないとこも、確かに持ってるんだよ」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
利家の口調が静かなものに変わる<br />
お七はその変化を肌で感じた<br />
「おっかないよ、あの方は。敵に回したら、ションベンちびっちまうくらい、おっかない」<br />
「随分、怖がってるのね」<br />
「殿を怖がらない方が、どうかしてるよ。あんた、殿のことなんにも知らないから、だからそんな上段で構えてられるんだ。殿は、おっかない。怒らせちゃぁなんない人なんだ」<br />
「へええ・・・」<br />
帰蝶の性格を痛いほど良く知る利家には、帰蝶は『畏怖』の対象でもあった<br />
数年前、女の手、ひとつで夫の仇を討ったこと、女でありながら織田の版図を確実に広げていること<br />
『敵』と見做せば躊躇いなく攻め殺せる<br />
例えそれが、血を分けた兄弟であろうとも容赦しない<br />
優しさと恐ろしさが背中合わせに存在する帰蝶を恐れない方がおかしい<br />
利家はそう想っていた<br />
恐ろしいが、だが、やはりどこかで見放せない部分があるのも間違いではなく、だからこそ、秀隆が帰蝶に魅入られていることもわかっていた<br />
お七は一見しただけで、それを見抜いたのか<br />
<br />
朝になり、なつの怖い顔で一日が始まる<br />
「別に、お能の肩を持つわけではありません。事情も、聞いております」<br />
「なら、今更何が言いたい」<br />
「殿の、その、悪びれた様子のないお顔に腹を立てているだけです」<br />
「え？」<br />
「昨夜、シゲが待っていたのではありませんか？」<br />
「ああ、門の前で仁王立ちしていたぞ」<br />
「シゲは殿のことを、とても心配していたのですよ？」<br />
「犬千代を連れていたんだ。心配することもなかろう？」<br />
「そうではありません。殿のこれから先のことを心配しているのです」<br />
「私のこれから先のこと？」<br />
なつは真っ直ぐ帰蝶を見詰め、告げた<br />
「あなたは、時には損得勘定抜きで行動されるから。土田殿の妾を連れて来ることで、どのような騒動が起きるか想像しようとなさらない」<br />
「起こさせなければいいのだろ？あの女は案外強かだ。騒動を起こせばここには居られないこともわかってる。自分からお能にちょっかいを出すこともないだろう」<br />
「先のことは誰もわかりません。その騒動が織田家を巻き込むようなことにならなければ良いのですが、そうも言っておれますまい」<br />
「どう言うことだ」<br />
「実家にも戻らず、清洲に残った女です。どのような手を使って、織田に入り込むか予想できないのですよ？」<br />
「考え過ぎだ」<br />
「殿」<br />
「織田は帰命のものだ。帰命が受け継ぐ家だ。誰が入り込もうが、帰命以外の誰に継がせるつもりはない。巴の子であっても、だ。これで充分か？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
人の心は、そんな簡単なものだろうか<br />
お七とその子、特に平次の存在を脅威に感じているのは、この時はなつと秀隆だけだった<br />
平次がこの先どのように化けるのか、帰蝶ですら何も考えていなかった<br />
<br />
尼寺の応接間で義母と向かい合う光秀は、懸命に自分の想いを話して聞かせた<br />
時折美しい女僧は俯き、時折天井を見上げ、懸命に義理の息子の話を理解しようと努力しているように見える<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 上手く行くかな・・・」<br />
その光景を庭の隅から心配そうに弥平次が見守る<br />
「大丈夫ですよ。しき様は聡明なお方ですもの」<br />
煕子は少し笑っている<br />
ここに辿り着くまでは死にそうな顔をすることも多かった主人の妻は、今ではすっかり元気を取り戻しているようにも感じる<br />
それが唯一、嬉しかった<br />
二人の立つ場所から少し離れたところには、光秀と煕子の子供らが無邪気に遊んでいた<br />
この子らを養うこともしなければならない<br />
いつまでもしきの世話を受けている場合ではない<br />
まだ若い弥平次も、その事情はよくわかっている<br />
決して裕福な寺ではないことを<br />
話し合いが上手く運ぶようにと、祈る想いで居間を見詰めた<br />
<br />
昼間になり、お能が本丸に顔を出す<br />
「珍しいな、お前からここに来るのは」<br />
「殿・・・」<br />
少し、憔悴した顔をしているか<br />
自分で決めたこととはいえ、実際にその顔を見れば気持ちも揺らぐのだろう<br />
「どうした。現実を見て、自分の言い出したことがどれほど愚かだったか、わかったのか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
「勝手に野垂れ死ぬのを待っていれば良かったのだ」<br />
「殿・・・」<br />
「だが、お前にはそれができない。だから、平三郎はお前に『それ』を頼んだのではないのか」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
お能は、お七らを引き取りたいと願い出ると同時に、時親の手紙を帰蝶に見せた<br />
桶狭間山に向かう前、お能に手渡した手紙だ<br />
今となってはそれは、『遺言状』になってしまったが<br />
その一節に平次の面倒を見たいと書いてある<br />
自分の生活に余裕が出た頃になって想い出し、仏心を出した<br />
そして一夜明け、自分のしたことを思い知らされ、落ち込む<br />
「後悔しても詮無きことだ。もうここに連れて来てしまった」<br />
「はい・・・」<br />
「お前が言い出したことだろう？自分の言葉には責任を持て」<br />
「はい・・・」<br />
「お七の役割は、お前が考えろ。風呂の薪割りでも良いし、使い走りでも良い。お前の亭主を寝取った女だ。気が済むまで存分に扱き使え」<br />
「そんな・・・ッ」<br />
お能はつらそうに眉間を寄せ、帰蝶に顔を向けた<br />
「『できない』のだろう？憎くても、できないのだろう？気になって仕方ないのだろう？だからこそ、お前は愛されたのだ。自分に自信を持て」<br />
「殿・・・・・・」<br />
「平三郎の愛情は、一時的にお七に向かったかも知れない。それでも平三郎は、最後にはお前を頼った。お前しか居ないからだ。その事実は、何を以ってしても曲げられない。お能。お前なのだぞ？お前だけが、土田平三郎時親の妻だったのだ。例えお七が何人、平三郎の子を産もうとも、平三郎の『妻』はお前だけだ。それは誰であろうと捻じ曲げられない『真実』だ。お能」<br />
お能の瞳から一粒、涙が零れた<br />
「土田平三郎時親の妻であることを、決して忘れるな」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> はい・・・」<br />
少し苦笑いを浮かべ、それから、帰蝶は搾り出すような声で言った<br />
「私のように、なるな」<br />
「殿・・・」<br />
「夫の『名』すら食らい尽くすような、そんな女にはなるな」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
<br />
泣いているようにも、想えた<br />
皮肉を浮かべて笑っているようにも、想えた<br />
この主を幼少の頃から知っているお能は、誰が一番つらい想いをしているのか、その苦笑いを見ただけで、わかってしまった<br />
夫は、あの女を愛していたのか、あの女との間にできた子を愛していただけなのか<br />
最後の想い出は、儚く水面に浮かび、揺れ動く<br />
生まれて間もない徳子の襁褓を、嬉しそうに換えていた時親の笑った顔が目蓋に浮かんだ<br />
この時代には珍しい、非常に子煩悩な男だったことを、想い出した<br />
<s>　　　　　　　　　</s> 坊丸の生まれた日のことも、想い出した<br />
男泣きに喜んでいたことを<br />
その坊丸を実家に遣ってしまったこと<br />
<br />
冷たかったのは、自分なのかも知れない<br />
<br />
秋口に差し掛かる景色も、その風も、何も感じないほど光秀は義叔母、いや、義母のしきを見詰めていた<br />
正しくは、自分が決めたこれからの運命について<br />
その行く末についてずっと、考えていた<br />
「心を決めたのね」<br />
対峙するしきは、優しい眼差しで光秀を包み込んでいる<br />
今はそれが救いになった<br />
絆され、光秀はゆっくりと頷く<br />
「この初秋、帰蝶姫の弟君が京都、妙覚寺の副住職に就任されたと伺いました」<br />
「ええ。仏籍に身を窶して五年。異例の出世ですね」<br />
「斎藤の力は、まだ衰えていない。いえ、もしかしたら新九郎様の、生前の働き掛けがあったのかも知れません」<br />
「私もそう想います」<br />
「義叔母上様。私は、私の手で、帰蝶姫に謁見せねばならない日が、いつか来るような気がするのです」<br />
「十兵衛？」<br />
しきには光秀の言葉が理解できない<br />
「別に、帰蝶に逢うのに今直ぐでも」<br />
「義叔母上様。『浪人』の身で、尾張国主の妻に逢うことは、できません。姫様の沽券に関わることです。例え従兄妹とて、姫様はそう言ったことには厳しいお方です。馴れ合いで姫様に逢うことは叶いません」<br />
「十兵衛・・・」<br />
「ですから、朝倉家に仕官しとうございます。朝倉家にてそれ相応の地位を手に入れ、それからのち、姫様に<s>　　　　　　　　　</s> 」<br />
「そう・・・。お前が決めたのなら、私は何も申しません。朝倉で見事、出世して御覧なさい」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
光秀は黙って頭を垂れた<br />
これから先、越前斎藤の力に頼らざるを得なくなるだろう<br />
それには何より、越前斎藤の縁者であるしきの力も不可欠なものになる<br />
今より先の自分の命運は、母と変わらぬ親しみを持つ、この、しきの両肩に委ねられる<br />
自分が明智光綱の子ではなく、明智光安の子であったのは、何かの運命なのかも知れない<br />
そして、その妻の手で育てられたのも、また<br />
<br />
光秀は、まだ気付いていなかった<br />
自分自身が過酷な運命の下、生まれて来たことを<br />
この時は、まだ<s>　　　　　　　　　</s>]]> 
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            <name>Haruhi</name>
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    <published>2010-12-22T00:08:47+09:00</published> 
    <updated>2010-12-22T00:08:47+09:00</updated> 
    <category term="帰 蝶　～ 外 ～" label="帰 蝶　～ 外 ～" />
    <title>遠い日の春、傍にある面影　（信長　～群青色の約束～　/　番外編）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[ずっと胸に仕舞ってあった想い<br />
誰に告げることもなかった遠い日<br />
胸の奥で、燻り続ける小さな炎<br />
目を閉じればそれは、いつでも掌にある形のない幻<br />
ふとしたことで蘇る<br />
それを、『想い出』と言う<br />
<br />
小さな妹が、『家出』をして来た<br />
『妹』と言っても、血の繋がりは薄い<br />
私はこの城の城主の息子で、彼女はその城主の妹の娘で、故に私達は世間から『従兄妹』と呼ばれていた<br />
従兄妹、だけれど、どうしてか、彼女が可愛くて仕方がない<br />
私に実の妹が居ない所為だろうか<br />
そんな気がする<br />
<br />
「聞いているの？十兵衛兄様」<br />
とおほども歳の違う従兄妹は、可愛らしい頬を膨らませ、自分を睨んでいた<br />
「聞いていますよ、姫様」<br />
「信じられますか？あの『お清』が、私に口答えをしたんですよ？」<br />
「そりゃあ、お清殿にも言い分があるでしょう」<br />
「どうしてですか。お清は私の家来です。家来は主の言うことを聞くものです」<br />
「ですがね、姫様。『高が』団子の掛け餡ごときで、城を出るほど大騒ぎをすることですか？」<br />
「高がとは何ですか、高がとは。聞き捨てなりません」<br />
最近、この姫君に傅役が付いた<br />
その傅役が小憎たらしいほど知恵と口の回る男で、姫君はどうもその傅役に強く影響されているようだと言う話は聞かされていた<br />
「団子には昔から醤油と相場が決まっています。なのにお清ったら軟弱にも、餡子が良いと言い出して」<br />
「それで、姫様が醤油で、お清殿が餡子で喧嘩をしたのですか？」<br />
「喧嘩ではありません。お清が口答えをしたのです」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> ははは」<br />
「笑い事ではないのですよ？お陰で今年の花見は散々でした」<br />
「ですが、最近は巷でも餡子の団子が流行っていると聞いております」<br />
「そんな、京都の行商が持ち込んだものよりも、昔ながらの醤油の甘だれの方が美味しいに決まってます」<br />
「姫様は、餡子がお嫌いなのですか？」<br />
「好きではありません」<br />
「甘いですか？」<br />
「知りません」<br />
「食べたことは？」<br />
「ありません」<br />
「・・・っぷ」<br />
『食わず嫌い』で意地を張る従兄妹の姫君に、十兵衛は軽く吹き出した<br />
「食べもせず好きではないと言われたら、それは餡子が余りにも可哀想です。姫様、一度食べてみて、それから決めてみては如何ですか？」<br />
「でも・・・」<br />
「お清殿もきっと、同じだったに違いありません。食べもせず価値を決め付けてしまっては、勿体無い。姫様には、そう言った人間にはなって欲しくなくて、口答えをしたのではありませんか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
そうなのかな、と、小さき姫君は少し口唇を尖らせて、黙り込む<br />
「もうそろそろかな」<br />
「何がですか？」<br />
「いえね、いつものことで、そろそろお清殿が迎えに来るのではないかと」<br />
「そんなわけがありません。だって私、お清に酷いことを言いましたもん」<br />
「なんて？」<br />
「『腰抜けの芋侍』・・・と」<br />
「あははははは！」<br />
豪快に笑う十兵衛に、姫君は顔を真っ赤にして怒鳴った<br />
「笑わないでください！お清は腰抜けでも芋侍でもありません！」<br />
「笑えば、それを私が肯定したと」<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> は・・・」<br />
素直に『はい』と、応えられない<br />
十兵衛は姫君の気質をよく知っていた<br />
少し『難しい』ところがあることも<br />
「大丈夫ですよ。お清殿は気にしてませんよ」<br />
「どうしてわかるのですか？」<br />
「だって」<br />
ほんの目の先に、その少年の姿が見えた<br />
その姿を見詰めながら、十兵衛は続ける<br />
「お清殿は『腰抜け』でも、『芋侍』でもないのでしょう？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
十兵衛の視線の先を辿る<br />
そこに、さっき喧嘩別れした『幼馴染』が手に竹の包みを持って立っていた<br />
「・・・お清」<br />
「帰りますよ、姫様」<br />
十兵衛に頭を下げ、それから姫君・帰蝶に話し掛ける<br />
「嫌だ」<br />
「姫様」<br />
「お清が謝らない限り、私は帰らない」<br />
「だったら、先ず一口食べてみて、それから決め直してください」<br />
四の五の言うよりも、実行する方を好む姫君に、お清は手にしていた竹の包みから餡子の乗った団子の串を掴み、『四の五の』言わず口に放り込んだ<br />
「美味しいですか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
お清の問い掛けに、口をもごもごさせたまま、姫君は黙って首を振る<br />
「不味いですか？」<br />
「<s>　　　　　　　　　　　　　　　　</s> 」<br />
二度目の問い掛けに応えず、首を振る<br />
「どっちですか」<br />
痺れを切らせたお清が、せっつかせるような口調で聞いた<br />
姫君は悔しそうに片方の頬を引き攣らせ、漸く応える<br />
「<s>　　　　　　　　　</s> 甘い」<br />
「っぷ！」<br />
二人の遣り取りに、十兵衛はまた、吹き出した<br />
「姫様は、男に生まれていたら酒豪になっていたかも知れませんね」<br />
「兄様！」<br />
<br />
本当は、団子の味よりも、お清殿が迎えに来てくれたことの方が、気になったのでしょう？<br />
姫様は昔から、『素直じゃない』お方だから<br />
だけどね、姫様<br />
餡子が存外に美味しかったことよりも、お清殿が自分をきちんと理解してくれていると知ったことの方が、ずっと嬉しいのではありませんか？<br />
<br />
そう言いたいのをぐっと我慢して、十兵衛は姫君とお清の遣り取りを心地よく聞いていた<br />
言えば『素直じゃない』姫君のことだから、きっと、頭から角を生やして怒るに違いない<br />
「来年は、餡子の団子にしよう」<br />
「え？姫様、醤油の団子の方がお好きだったのでは？」<br />
「莫迦者！京で流行っている菓子を侮っては、田舎者と誹られるぞ」<br />
「そんな大袈裟な」<br />
「あはははは！」<br />
姫君の『大袈裟』な口調にも笑えるが、姫君の一言一言に一々表情を変えるお清の様子もおかしい<br />
十兵衛は喉が渇くほど笑い転げた<br />
<br />
有り触れた春の、ほんのささやかな出来事だった<br />
<br />
「上総介」<br />
襖の向こうから義理の母親の声が聞こえた<br />
「どうぞ」<br />
膝を崩していた帰蝶は姿勢を正し、義母を迎える<br />
「今、少し良いかしら」<br />
「はい、どうぞ。どうかなされましたか？」<br />
「大したことじゃないの。吉法師の法要のお供えに団子を作ったのだけど、今年は餡子にしてみたの」<br />
「餡子・・・ですか」<br />
「それで、あなたに味見をしてもらいたいのだけど、良いかしら」<br />
餡子の掛かった串団子か・・・と、帰蝶は懐かしい想いに駆られる<br />
「どうぞ」<br />
「良かった。夕餉前だから、断られるかと想って」<br />
と、市弥は恥ずかしそうな顔をしながら、背中に隠し持っていた皿を手渡した<br />
少し形は歪だが、艶の見事な餡子がほんのり湯気を立てている<br />
「美味しそうですね」<br />
「そう・・・？」<br />
「うっかり、これで腹を膨らませてしまいそうです」<br />
「そんな、大袈裟よ」<br />
恥ずかしい反面、嬉しくて、市弥は口元を押えて笑った<br />
<br />
夕暮れに吹く風が、舞い散る桜の花弁を運ぶ<br />
あの日も、こんな穏やかな春の日だったな、と、帰蝶は懐かしんだ]]> 
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            <name>Haruhi</name>
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